2025/07/11 Fri ~前回までのあらすじ~ ファイを庇って脳天を強打した黒鋼。 彼は使い古されたテンプレート通り、記憶喪失にな……らなかった。 代わりにツン度80%からデレ100%へと人格をチェンジさせた黒鋼だったが、ファイの捨て身の荒治療によりツンを取り戻す。 だが事態は思わぬ方へと激流のように黒鋼を翻弄することになる。 黒鋼を正気に戻すため、共に階段からフライアウェイしたファイが今度はドタマを強打し、デレデレ100%から120%ツンツンへと変化してしまった。 まるで生ゴミでも見下ろすかのような冷酷な瞳に、ナニかに目覚めかける黒鋼は……? * 6時間目は体育の授業だった。 体育館では生徒達が筋トレという名の自習を行わされている。 「今日は自習だ。俺がいいと言うまで腹筋でもやってろ」 という投げやりな指示を出し、体育館の隅っこで愛用の竹刀を抱えながら胡坐をかいた黒鋼からは、ジリジリとした黒いオーラが出ている。 「く、く、黒鋼先生! 腹筋から火が! 業火が!!」 かれこれ30分以上も腹筋放置を食らっている生徒達が悲鳴を上げているが、じっと眼を閉じて考え事に耽る黒鋼の耳には届いていなかった。 黒鋼の頭の中は現在、ファイのことでいっぱいになっている。 昼休みのあの一件から、ファイの様子が明らかにおかしい。 (一体なにがどうなってんだ……?) 気がついたら階段を転がり落ちていて、腕の中には一緒に落ちたらしいファイがいた。 怪我はないかと声をかけると、起き上ったファイは豹変していた。 そんな顔も出来るのかと思うほど冷やかな目をした彼は、黒鋼をまるで虫ケラのように扱うと姿を消した。 その態度に思わずキュn……いや、呆気にとられた黒鋼だったが、その後もファイは同じ調子で目を合わそうとしない。 まるで黒鋼という存在など、最初から見えていないとでも言うかのような徹底した態度だった。 いつもならうるさいくらい纏わりついてくるというのに。 知らず知らずのうちに、何か彼を激怒させるような真似でもしてしまったのだろうか。 「………」 思い当たるものが一切ない。 そもそもおかしなことに、ファイと共に階段から落ちる以前の記憶がない。 なにもかもが謎で、頭がおかしくなりそうだった。 * 結局その日、学園内では一度としてファイと関わることがなかった。 ちらりと盗み見た彼は普段と変わらぬ調子で、生徒達や他の教師連中と親しげに会話をし、人懐っこい笑顔ではしゃいでいた。 黒鋼にだけ態度を豹変させていることなど、他の人間は知りもしない。 二人がケンカをする、ということは割とよくある光景だったので、特別気にするものもいないようだった。 謎は深まるばかりだったが、とりあえず腹は減る。 いつも夕食は双子の部屋で世話になっているし、そこでならファイの真意を問うことが出来るだろう。 いや、別にあのアホのことが気になって何も手につかないだとか、そんなことは決してない。 黒鋼は空腹なのだ。宿舎に入った瞬間からすでに晩飯のいい香りがしていることには気がついていた。 おそらくユゥイが何か作っているのだろう。 だからあくまでファイのことは「ついで」だ。それ以外に理由などない。絶対ない。 べ、別にアンタのことなんてなんとも思ってないんだからね……ぐらいの心意気で一度自室へ戻り、それから普段通り隣の部屋へと向かった。 「あ、黒鋼先生おかえりなさい」 玄関先で出迎えたのはファイではなくユゥイだった。 珍しくエプロンをしていない。すでに夕食は完成しているのだろうか。 「お腹すいたでしょう? 今日はハンバーグですよ」 「おう」 短く返事をする黒鋼の顔を、ユゥイがじっと見つめてくる。 「……なんだ?」 「いえ……さぁどうぞ」 部屋に入ると、キッチンの方から何かを焼く香ばしい音と香りした。ふと目をやれば、なんとそこには料理をするファイの姿があった。 「お、おい……あいつにやらせていいのかよ? ろくなことにならねぇぞ……」 咄嗟にユゥイに身を寄せると耳元で問いただす。 「はぁ……ボクも驚いたんですが……ボクがここに戻ったときには、すでにファイが作り始めていて……しかも……」 そのあとに続いた言葉に、黒鋼は驚愕した。 なんとファイは、このユゥイよりも料理の手際がいいらしい。 こちらに背を向けて黙々とフライパンと向き合っているファイの周辺も、ピカピカに美しい状態を保っていた。 天地がひっくり返るよりあり得ない光景である。 ファイの料理センスのなさと奇跡に等しいほどの片付けのできなさは、いっそ神がかったレベルだったからだ。 「ありえねぇ……やっぱり今日の奴は何かがおかしい……」 「……」 てっきり賛同を得られるだろうと思っていたユゥイの生温かい視線が、なぜか痛い。その顔に『貴様が言うな』と書かれているような気がしたが、黒鋼には思い当たるふしがなかった。 そうこうしている間に、すぐ横に用意されていた皿にハンバーグを盛り付け終わったらしいファイが、ピンクのふりふりエプロンを翻しながら眩しい笑顔で振り返った。 「ユゥイー! ハンバーグ上手に作れたよー! ……って……?」 ここまでピンクのふりふりで笑う姿が似合う成人男性がいるのが、いっそ恐ろしい。 ま、俺のコレなんだけどよ、と内心で小指を立てる無表情の黒鋼を見て、ファイが顔色を変えた。 すっと細められる視線が肌に突き刺さる。ついでに心にも。 「ユゥイ、どうしてこの人がオレたちの部屋にいるの?」 「え、どうしてって……。いつものことでしょ?」 「なに言ってるの? 笑えないよ、その冗談」 双子の会話をその場で聞いていた黒鋼の元に、エプロンを外しながらファイがつかつかと歩み寄ってきた。 「悪いんだけど。お引き取り願えます? あなたのお部屋はお隣ですよ」 「……おいおまえ……昼間っから妙だぞ……?」 ふん、とファイが鼻で笑うと腕を組む。昼間に見た、あの見下すような冷たい笑みだった。 ドキリとするよりも、いっぞゾクリと背筋に嫌なものが駆け抜ける。 「聞こえなかった? オレ、帰れって行ったんだけど?」 「てめぇ……」 流石の黒鋼も、こうまで徹底的に拒絶を示されれば、戸惑いよりも苛立ちが勝る。 二人の間にビリビリとした張りつめた空気が流れた。間に挟まるようにしてその顔を交互に見やったユゥイが、引き攣った笑みを浮かべる。 「ま、まぁまぁ……同じ学校の先生同士で、部屋もお隣なんだし……ね? ファイも落ち着いて」 「オレは落ち着いてるよ」 「く、黒鋼先生も……ただでさえ顔が怖いんですから、まずは座って……」 「……帰る」 「えっ?」 「てめぇの気持ちはよくわかった。邪魔したな」 ファイに向かってそう言うと、静止するユゥイの声も聞かずに足早に玄関へと引き返した。 「黒鋼先生……!」 背中にかかるのは聞きなれたあの情けなく高い声ではなくて、黒鋼は柄にもなくダメージを受けている自分から目を背けた。 * 黒鋼が出て行ってしまうと、呆然とするユゥイとホッと胸を撫で下ろすファイが残された。 「よかったねー。不審者がおとなしく帰ってくれて」 「ねぇファイ……あのあと黒鋼先生とケンカでもしたの……?」 「へ? ケンカってー?」 「だから……」 ファイは何事もなかったかのように、テーブルの上に皿を並べ始める。 軽く混乱しそうになるが、どうやら黒鋼が通常の状態に戻ったのとは裏腹に、今度はファイがおかしなことになっているらしい。 (これってあんまりいい展開ではない、よね?) 流石に黒鋼の心境を思うと気の毒に感じられたユゥイは、ふとテーブルの上に乗っている二人分の皿を見て、そしてキッチンへも目をやった。 「あれ?」 小首を傾げて、その場所へ向かう。そこにはなぜか、もう一枚の皿が置かれていた。 野菜と一緒に盛り付けられているハンバーグは、ファイやユゥイのものよりも一回り以上大きなものだった。いっそ皿からはみ出しそうな勢いである。 「どうかしたー? 早く食べよー?」 背後からやってきたファイが、皿をじっと見つめるユゥイに声をかけた。 「ねぇファイ、これは誰の分?」 「えー?」 「これ、もしかして黒鋼先生の分なんじゃ?」 そう言ってファイを見ると、彼は思い切り嫌そうに眉間に皺を寄せた。 「なに言ってんのユゥイ……どうしてオレがあの人の分まで作らないといけないの? 分量間違えちゃったから、まとめて焼いちゃっただけだよ」 「……ふーん」 (その割にちゃっかり野菜も盛り付けてあるんだけど……ひょっとして自覚がない?) そもそもこれだけ大きなハンバーグである。分量を間違えるにしても、流石に無理があるように思えた。 これはなかなか面白い現象かもしれない……と、ほんの一瞬前まで黒鋼に同情していた気持ちが吹っ飛んだ。 考えてみれば、素直すぎる黒鋼はただ気持ちが悪いだけだったが、あんなにも冷酷な眼差しのファイなんて、なかなかお目にかかれるものではない。 そう思うと、これはかなり貴重なイベントのような気がした。 早く食べようとファイに急かされながら、とりあえずこの巨大ハンバーグは、後からコッソリ隣の部屋へ持って行こうとユゥイは思った。 * 「うわ……予想以上に背中に哀愁が漂ってますね」 部屋の中心にポツン……と胡坐をかいていた黒鋼の背中に声がかかった。 「勝手に入ってくんな」 「ノックもしたし声もかけましたよ」 「うるせぇな」 「今温め直しますからね。不貞腐れてないで、ちゃっちゃとご飯食べちゃってください。それにいつまでもジャージ着たままでいないで、着替えたらどうですか」 「こいつは部屋着用のジャージだ」 「一体何着の黒ジャージを所持してるんです……?」 「……ほっとけ」 余計なお世話だとイライラしつつ、ユゥイの手にしている皿の上のものを見て黒鋼は眉間の皺を深くする。 「食わねぇぞ俺は」 「食べ物に罪はないですよ。それにお腹ぺこぺこでしょう?」 そういえば空腹だったような気もしたが、今はもうどこかへ行ってしまった。 思い切り嫌そうな顔をする黒鋼を完全に無視し、ユゥイは着々と食事をする準備を整えている。 摘みだしてやろうかと考えて、レンジの中から出て来たブツを改めて見て、顔を顰める。 「デカくねぇかこれ」 ほぼ野菜を覆い尽くす勢いでギリギリ皿に収まっている、巨大ハンバーグ。 ユゥイはにっこりと笑った。 「そりゃあ、愛情がたっぷり詰まってますから」 「てめぇの愛情かよ」 「ボクが焼いたんじゃないですよ」 「あ?」 てっきりあのあと、この男が別に焼いて持ってきたのかとばかり思っていた。 あの様子のファイが、黒鋼の分まで作るとは到底思えなかったのだが。 「とりあえず食べながら話しましょう。ボクも色々確認したいし」 いまいち腑に落ちなかったが、ひとまず従う以外になさそうだった。 * ハンバーグの味は、はっきり言ってとてつもなく美味だった。 随分昔に一度ファイが作ったものといえば、ハンバーグではなくただの消し炭だったのを思い出して、なんとも言えない気持ちになった。 「じゃあ、ファイと一緒に階段から落ちて、それからこうなったと」 「おう」 モグモグとひたすら口を動かす黒鋼を、テーブルに肘をついた手の上に顎を乗せたユゥイが見つめている。 そのまま何も言わずにただじっと見つめられて、黒鋼は箸を止めた。 「なんだよ」 「……ちなみに……それ以前のことって覚えてます?」 「……いや」 「ぷっ」 「!?」 ユゥイの目が三日月のようになった。 口に手を当ててぷぷぷと笑う姿に、どうやら思い切りバカにされているらしいことを察して、激しい憤りを覚える。 もしかしてもしかしなくてもこの男、今の状況を楽しんでいないか……? 「この野郎……何か知ってんならとっとと言え!」 「ああ~、やっぱり安心するなぁ口汚い黒鋼先生は」 「ああ!?」 同じ姿をしているくせに、こちらはファイとは別の意味で面倒くさい。 そしてこれがファイならば、容赦なくゲンコツでもブチ込んでスッキリしているところである。 「黒鋼先生は、とっても気色の悪いことになっていたんですよ」 そしてやっぱり少し楽しそうに、ユゥイは語り出した……。 十数分後……。 「………………」 「………………」 「……本当に笑えねぇな。おまえの冗談は」 「残念ながら真実です」 「………………」 俄かに信じがたい事態に、黒鋼はこの世の終わりを見たような心境だった。そして心から思った。消えたい、と……。 自ら命を絶つ人間の心境など知りたくもないと思っていた黒鋼が今、ロープはどこだったろうかと真剣に考えている。 どんと重い空気を背負いながら石のように動かない黒鋼を見て、ユゥイは「まぁまぁ」と苦笑しながら言った。 「そっちは解決したんだから、よかったじゃないですか。空白の時間も取り戻したわけだし」 慰めになっていない上に、取り戻したわけではない。知らされただけである。 「それに今問題なのはファイのことで……」 少し声を低くしたユゥイに黒鋼は握りしめていた箸をテーブルに置く。 確かに穴があったら入りたいほどの恥辱は味わっているが、彼の言うとおり今現在の問題はファイのことだった。 先刻の話をただストレートに聞けば、おそらく「そんなバカな」と一蹴するだけで、信じることはできなかっただろう。 だがあのファイの冷やかな表情や、攻撃的な態度を目の当たりにしている黒鋼は、おかげですんなり納得することができた。 同時に、極めて面白くない話だが、ホッとしている自分もいることに気がつく。 ファイのあの態度は、彼自身の意思ではなく、ただでさえアホだったのが、よりアホになっているだけの話なのだ。 「めんどくせぇな……」 舌打ちと共に毒を吐くと、黒鋼は気を取り直して再び箸を手に取り、完全に冷めきっている残りのハンバーグを平らげることにした。 そして小さな声で呟いた。 「美味い」 「え?」 目をまんまるにしているユゥイに、最後の一口を食べ終えた黒鋼が目を向ける。彼は驚いた様子で動かなくなってしまった。 「なんだよ」 「今、美味しいって言いました?」 「だからどうした」 ユゥイがまたにんまりと瞳を三日月型にさせて、いやらしい笑みを浮かべている。 「気持ち悪ぃな。なんだよ」 「いいえ? ファイは愛されてるなぁと思って」 「あ? いきなりなんなんだ。意味わかんねぇぞ。だいたい、ハンバーグなんて誰が作ったって……」 いや、同じではない。 ハンバーグを作るはずが、干乾びた臍の緒を思わせるような物体を作り上げてしまう人間を一人、黒鋼は知っている。 料理人の弟を凌ぐほどの手際の良さで完璧な料理が出来るファイなど、時々夢に見るくらいで丁度よかった。 「要するに、また同じような衝撃でも食らわせりゃいいんだろ?」 「そうなんでしょうね」 「殴るか」 「それで効いたらこれまで何回性格チェンジしたかわかりませんよ」 「……確かにな」 ならばまた階段から突き飛ばすしかないのか。それとも熱したフライパン辺りでぶん殴ればいいのだろうか。あるいは……。 「とんかち……」 「ちょっと黒鋼先生……今なにか物騒な呟きが漏れ聞こえてきたんですけど」 それでは殴るを通り越して陥没するだろうと、合いの手を入れて寄こすユゥイにムッとする。 「うっせぇな……どのみち最初から物騒この上ねぇ話しかしてねぇだろ。ならどうすりゃいいんだよ」 「うーん……ボクとしては、なるべくファイを危険な目には合わせたくないんですよね」 「そうは言ってもな……」 他に一体どんな手段があるというのだろうか。 重々しい溜息をつく黒鋼に、ユゥイは自信満々にニヤリと笑う。 「やっぱりこの場合、もう一つのお約束を実践するべきだと思います」 「おやくそく?」 「まぁ分かってはいても、ボクとしては複雑な部分もあるんですが……」 こうなればこの手しかないと言いながらユゥイが提案した方法は「ああ、こいつらやっぱり双子だな」と、妙に納得せざるを得ないものだった。 * 「単純です。なぜだかファイは黒鋼先生との関係についてだけ、スッポリ抜けているようですから、こういう場合は」 ユゥイはほんわかとしたニコニコ顔から、なぜか目つきを鋭くすると不敵な笑みを浮かべる。 「俺が思い出させてやるぜ……てめぇの身体にな……」 と、えらく低い声で言った。 「………………」 「………………」 「誰だよそれ?」 「黒鋼先生の真似」 「似てねぇだろ」 「あれ? 似てませんでした? ファイに出来たならボクにも出来ると思ったんですが……」 なぜかげんなりした。 言わんとしていることは伝わった。が、こんなふざけた男のふざけた策に乗って、果たして上手くいくのだろうか。 兄の方と比べると多少はマシな男かと思っていたが、テンションが違うだけでやっぱりこいつらは所詮双子だ。 だいたい……。 「俺はそんな薄ら寒い台詞は言わねぇぞ」 「え、でもファイなら絶対に泣いて喜ぶと思いますよ」 「知るか。そもそも仮に実行に移したとして、成功しなかったらどう責任取ってくれんだ? あ?」 今のファイを相手に失敗すれば、自分はただの性犯罪者になってしまうのではないか? 『高校体育教師、同僚の男性化学教師を強姦!!』 という新聞の見出しを思い浮かべて、いっそ例の空白の時間の真相を聞かされたときよりも遥かに怖気が立った。 そんな黒鋼の心配など余所に、ユゥイはなぜか無駄に余裕たっぷりだ。 「大丈夫ですよ。なんとかなります。そういうもんです」 「完全に他人事じゃねぇか」 「じゃあ……もし上手くいかなかったら、最悪ボクが責任を持ってファイと心中します。階段から」 「不吉なこと言うな。そんで今度はてめぇがアホになるとか面倒臭ぇ展開はお断りだぞ」 「そうなったら、今度は黒鋼先生がボクの身体に思い出させてくれると信じて……」 「未開の地に踏み込んで何をどう思い出させろって……?」 いくら双子といえども黒鋼は弟の方とは恋仲ではないし、もちろん肉体関係もない。 何やら学園内の一部では黒鋼とこの双子が3人でデキているらしい、という噂もたっているようだが、面倒くさいアホはファイだけで手一杯である。 突っ込みを入れられて楽しそうなユゥイは、まるで修学旅行に来てはしゃいでいる中学生のようだった。 こんなにも軽いノリの男だっただろうか……。 「まぁ冗談はこの辺りにして、上手くお膳立てはしますから、頑張ってください」 「頑張れって言われてもな……」 安心できる要素が一切ない。 それでも今は、縋るしかないのだろうか。 (あのバカ……元に戻ったらゲンコツ一発じゃ済まさねぇぞ……) * 翌日、再び夜である。 黒鋼はなぜかユゥイの指令の元、自室ではなく双子の部屋にいた。一人で。 (あの野郎、何が上手くお膳立てしますだ……) 何をどうするつもりなのかと任せてみた結果、蓋を開ければ、ただここにいて何も知らずに帰宅したファイを待ち伏せろということだった。 そして言った本人は呑気に黒鋼の自室にいる。つまり丸投げである。 ソファに大股で腰掛けて腕を組む黒鋼は、見た目にはどっしり構えているものの、片膝は小刻みに上下している。 この待ち時間がなんとも落ち着かない。 だいたい『頑張れ』などと言われて、何を頑張ればいいのだろう。 どういうことかは分かってはいるが、ギラギラと目を光らせてやる気満々で挑める心境ではなかった。 いくら適当に丸投げされたからといって、ユゥイには心配をかけている(多分)ようだし、上手くやれるのであればそれに越したことはないのだが。 黒鋼にはファイの顔を見た途端、どこぞの怪盗三世のように全裸で飛びかかるつもりなど毛頭なかった。 いっそ話し合いで事が解決できるなら、どんなにいいか。 いや、実際は渾身の一撃をあのアホの頭にお見舞いすることであっさり済めばもっと簡単で、黒鋼的にはスカッとするのに。 沈黙の中で溜息を零すと、普段は気にならない時計の秒針が時を刻む音が、やけに耳についた。 それからおよそ数分後、ついに扉が開く音が聞こえた。 (来やがった……) 心臓が一度大きく高鳴った。 「ただいまユゥイー! 遅くなってごめんねー。今日はシチューに挑戦しちゃおっかなーってー」 ガサガサとビニール袋の音をさせながら顔を出したファイが、固い表情でソファにふんぞり返っている黒鋼の姿に気がつくと、一度大きく目を見開いた。 それからすぐに、荷物をその場に置いて「またお前か」と言わんばかりの呆れたような表情を見せる。 「君、よっぽどこの部屋が好きなんだね」 「……好きでいるんじゃねぇよ」 冷たい視線からつい目を逸らし、黒鋼はその居心地の悪さに小さく舌打ちをした。 なんだってこの男といるのにこうも緊張せねばならないのか。 「なにそれ。じゃあ帰れば」 ファイは相手にする気さえ失せているのか、一度床に放った袋を手にしてキッチンへと向かおうとする。 だがそこで辺りを軽く見まわし、ユゥイの姿がどこにもないことに気がついたようだ。 「弟ならいねぇぞ」 「なんで」 そもそもその弟にここで待ち伏せしろと言われている黒鋼は、どうしたものかと少し迷った。 すぐ隣にいる、ということが知れたら、このおざなりなお膳立てがおじゃんになってしまうことは目に見えた。 そうこうしているうちに、思案顔の黒鋼を見るファイの目が鋭く眇められた。 「オレの弟に何かしたんじゃないだろうね」 「何かってなんだこら」 「だって君、変態だろ」 「あ?」 思わず我が耳を疑った。そして言われた言葉を幾度も脳内で反芻する。 変態に……変態と言われた……。 「てめぇ……どういう意味だ……」 「そのまんま、言葉通りだよ。ユゥイ狙いでここに通ってるんじゃないの?」 「は……?」 ……? ………………??? ……………………はあぁ!?!? あんまりのことに、黒鋼は派手に咳き込んだ。 僅かに身を引いたファイが『変な菌撒き散らすんじゃねぇぞ』と言わんばかりの不快そうな視線を寄こす。 だがそれどころではない。 なんたる勘違い。全身に嫌な汗が滲む。 俺の狙いはてめぇだと叫びたい衝動に駆られたが、咳き込むことに忙しい黒鋼は、ひとまず自分を落ち着かせることに専念する。 「悪いけど、ユゥイに指一本でも触れたら……」 どうにか落ち着いてきた黒鋼に、威嚇するように畳みかけるファイ。 「殺すよ」 少し寒気を覚えるほどに、その目は本気と書いてマジである。 そしてその言葉と視線を受けた黒鋼が、内心少しムラッとしたことは……絶対に秘密だ。 「ちょ、ちょっと待て……おまえな……」 何を隠そう、黒鋼が指一本触れることすら許されないらしい弟こそが、兄貴を襲っちゃえとゴーサインを出しているなどと、この男が知ったらどんな反応をするのだろう。 そう思うと誤解を晴らす意味でも、ちょっとネタばらししてみたい気がしないでもないのだが、相手の反応を窺って遊ぶだけの余裕はない。 なんと言っても、ファイのまさに変態を見るような冷たい視線が、この上なく痛かった。もうなんでもいいから、早くどうにかしなければ。 正直に言うと、クールでサドっぽいファイというのもまぁ悪くはない。この際そこは潔く認めよう。 だがやはり、あのよく知る賑やかで鬱陶しくて甘ったれのファイが、悔しいが今は無性に恋しいと感じた。 黒鋼は意を決し、負けじと睨みつけると言う。 「おまえの弟はここにはいねぇが、俺がここにいるのは、あいつも知ってる」 「……へぇ」 「俺はてめぇに話があってここへ来た」 「ふぅん」 ファイは意地の悪そうな笑みを浮かべると片手を腰に当てた。 見下ろしてくる視線はやっぱりあの虫ケラでも見るような眼で、黒鋼はやはり落ち着かない気持ちになる。あらゆる意味で。 「いいよ。聞こうじゃない」 こうなったら、ストレートに真っ向勝負だ……。 * いつもいつも、ファイは騒がしくて鬱陶しくてアホでバカで、黒鋼が素直に言えない分を埋めるかのように、全力で想いをぶつけて来た。 黒鋼にとってそれは時に厄介で、面倒で、それでもバカな奴ほど可愛くて、こんな面倒な奴が他人の手に負えるものかと、いつしか妙な責任感も抱きながら不器用なりに気持ちを注いできたつもりだった。 けれどこうして改めて考えると、いつの間にか黒鋼は、ファイに愛されることが当たり前になっていたのかもしれない。 いつもは思っていても言えないこと、素直になれない部分。頭を打ってアホになっていたらしい自分は、それを真っすぐに隠すことなく表現したという。 ファイにとっては、きっと夢のような時間だったのではないか。 それなのに、彼は己の危険も顧みずに黒鋼と心中まがいのことをしたのだ。 素の状態でいる今の自分が、腹を括らなくてどうするというのか。 素直に気持ちを言葉や態度で示すことよりも、そんな風に思いあがっていた自分の方がずっと滑稽で、甲斐性のない小さな男に思えた。 「忘れちまってるようだがな、耳の穴かっぽじってよく聞けよ」 すっと立ち上がって、静かに深呼吸をした黒鋼の改まった様子に、ファイの表情から冷やかな笑みが消える。 「俺がここに来たのはな、てめぇを愛してるからだ」 ガサリ、という音を立てて、何やら材料が詰まったビニール袋が床に落ちた。 その音を皮切りとして、ぴんと張り詰めていた空気がさらに緊張を帯びたような気がする。 愛してる、なんて言葉をまともに声に出して言ったことなどこれまでない。(例の一件は別として) その気持ちが揺るぎない真実だからこそ、軽はずみに口にすることに抵抗があったから。 だからあまり言い慣れない。今はただ相手の反応を見る以外になかった。 「は……?」 そして目を見開いたファイの表情には、僅かな困惑の色が伺える。 「……なに言ってるの?」 短い沈黙のあと、少し上ずった声。 「バカバカしい。何を言い出すのかと思えば」 うんざりしたように肩を竦めると、大きな溜息を零してファイはこちらから目を逸らす。 それを見て、黒鋼は何かを掴んだような気がした。 たった一言の告白が、冷たい笑みさえ浮かべる余裕をこの男から奪った。 決して簡単な言葉ではない。だからこそ、こうも一瞬で響くのか。 こうなると逆に余裕が生まれたのは黒鋼の方だった。 片眉をひょいと上げて見せた黒鋼をチラリとひと睨みして、ファイは苛立ったように背を向ける。 「どこに行くつもりだ?」 「君が出ていかないなら、オレが出てく」 そのまま薄暗い玄関先へと消える背中をすぐに追いかけた。 ぐっと腕を掴んで強引に振り向かせると、そこには親の仇でも見るような瞳があって、そのくせえらく潤んでいるものだから、ふと小さく笑ってしまった。 それがファイの神経を酷く逆なでしたらしい。 掴まれていない方の手が黒鋼の頬に向かって勢いよく振り下ろされる。大人しく殴られてなどやるものかと、それさえも軽々と手首を掴んで抑え込んだ。 「この……っ」 力の差など歴然で、身を捩るようにして抵抗をする身体を、半ば壁に叩きつけるかのようにして押さえつけた。 冷たい壁と黒鋼に挟まれ、完全に逃げ場を失ったファイは、肩で息をしながら上目づかいで睨みを効かせる。 悔しそうに噛みしめられた唇と、猫のように釣り上がった眉と目に、ゾクリとした。 「いい顔だな。悪くねぇ」 「ずいぶん楽しそうじゃない」 笑みの形に歪められた口端も、精一杯の虚勢にしか見えない。こちらが一瞬でも隙を見せるのを、虎視眈々と窺っているのが分る。 「そう見えるか?」 「さぁね。それよりこの馬鹿力、どうにかしてくれない?」 「てめぇがいい子にしてりゃあ、こんな荒っぽい真似もしなくて済むんだがな」 「っ……!」 一触即発。ファイの足が、黒鋼の身体を真っ二つにする勢いで振りあげられようとした瞬間を見逃さない。 拘束する腕の力をさらに強め、逆に自分の膝を彼の股下に滑り込ませると壁に固定した。表情を歪めながら、ますます縮まった互いの距離にファイがギクリと身を硬くする。 そして彼はうんざりしたように盛大な溜息を漏らした。 「何がしたいんだ君は……このまま強姦でもするつもり……?」 問いかけに、違うと答えられないのが痛いところだった。 だが否定したところでこの態勢である。ユゥイの言うことを信じるなら、いっそこのまま事に及ぶ以外にどうしようもない気がした。 だが再び脳裏に浮かぶ、新聞の見出し……。 この期に及んで顔を出した一瞬の揺らぎが、再び黒鋼から形勢を奪う。 沈黙を肯定と受け取ったファイが、蔑んだような冷笑を浮かべた。 「……いいよ。したいなら好きにすれば?」 「……なに?」 「その代わり、気が済んだら二度とオレの前に現れないで」 ピキ……。 黒鋼の額に青筋が浮かぶ。 とことんこちらをバカにしているらしいファイは、さらにこちらを煽るようなことを口にしはじめる。 「はっきり言って、同じ空気を吸ってるだけでも虫唾が走る」 不快を現す決定的な言葉。 それを聞いた瞬間、黒鋼は目を閉じると鼻で笑った。 だがそんな反応とは裏腹に、頭の中に大きな爆発のイメージが浮かんだ。 同時に聞こえたのは、何か太い糸が凄まじい勢いで千切れるような『ブチン』という音だった。 「上等だ」 低い声が、さらに低く唸るような響きを発した。 ファイが僅かに肩を震わせながら息を飲む。 いいだろう。そちらがその気なら、ここから先に言葉はいらない。 たった一言の告白が一瞬でも胸に響いたのなら、今度はそれを全ての感覚と共に引きずり出してやる。 誰を愛しているのか、誰に愛されているのか。 「俺が思い出させてやるぜ……てめぇの身体にな……」 結局、この言葉を口にすることになってしまった。 * 張り付けていた薄い身体を壁から乱暴に引きはがすと、それを素早く引っくり返して壁に押し付ける。 「ぃ、た! ちょっと、ここでするの?」 「それっぽくて雰囲気出るだろ」 振り向こうとするのを許さず、後頭部を手のひらで押さえつける。 事に及んでいる最中に先刻のように急所を狙うくらい、今のファイなら簡単にやってのけそうだった。 そんな真似を簡単にさせるつもりはなかったが、万が一ということがある。 部屋から漏れる明かりしか頼るものがない玄関先で、この体勢では顔があまり見えないというのは少し残念だが。たっぷりと時間をかけるつもりなのだから、そう悔やむこともないだろう。 咄嗟に抵抗を見せる身体をさらに壁に強く押し付けるようにして、黒鋼は首元まである薄手のセーターの中に背後から手を入れる。 そうしながら、ファイの耳元に唇を押し付けた。そしてとびきり低い声で吐息交じりに囁いてやる。 「好きにされてぇんだろ? だったらおとなしくてしてろよ」 「ッ……!」 冷えていた薄い皮膚が一瞬にして熱を発するのが分かる。 横目できつく睨みつけられても、それさえも潤んだ目元では説得力がなかった。 何しろすでに全身から力が抜けはじめていることは、ファイの身体を支えている黒鋼が一番よく知っている。 そしてこんなふうに囁いてやるのに、この男が弱いことも。 中身がどう変わろうが、ファイはファイだということが痛いほど理解できて、複雑な思いの中に切なさと愛おしさが渦を巻く。 ねっとりと耳たぶを嬲るように舌を這わせながらセーターをたくし上げて、確かめるように肌に触れた。 美しい曲線を描く背筋がブルリと震えるけれど、握った拳の甲を口元に押し付けるファイは、声を殺すのに必死なようだった。 どうせ長くは持つまい。わざと音を立てながら執拗に耳を責める黒鋼は、密かに内心でほくそ笑む。 手を這わせれば薄い胸の下で心臓が大きく高鳴っているのが伝わる。 もはや拘束は必要なくて、ただ両肩で覆いかぶさりながら壁に押し付けるだけで十分だった。 ねっとりと脇腹を撫で上げ、もう片方の手は悪戯に胸の引っ掛かりを掠める。 「ッ……!」 存分に耳たぶを嬲ったあとは耳裏から首へ、髪を鼻先で掻きわけるようにしながら項に吸いつく。 状況と反し、決して性急に事は進めない。いっそ哀れなほど快感に敏感なこの身体にとって、焦らすような愛撫は拷問に等しいのだ。 いつだって、ほんの少し苛めてやるだけで、すぐに泣きだすのだから。 「っ、ふ、ぁ……ッ、ぅ……」 押し付けた拳の隙間から、堪え切れない吐息が零れる。腰が揺れ、膝が震えても、必死で踏ん張っているのは今のファイのプライドの高さを象徴しているようだった。 けれどなおも焦れったい触り方しかしない黒鋼に、ついに苛立ちを爆発させた。 「ちょっ、と……!」 「なんだ」 無理やり首をこちらに向けながら睨みつけてくるくせに、その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうになっている。 「遊んでないで、やるならとっとと済ませてよ……ッ」 ほら、やっぱり我慢などできない。 黒鋼は口元を微かに綻ばせる。 まだ『無理やりされている』というスタイルを守ろうとする物言いは可愛くないが、ひとまずはよしとする。 そうじゃなければ苛め甲斐がない。黒鋼はこの際だから、一連の生意気な暴言に対して意趣返ししてやる気満々だった。 「素直に肝心なとこに触れって言えねぇのか?」 「だれ、が……」 「ここだろ?」 「いっ……! った、ぃ……っ」 掠めるようにして触れるだけだった胸の、左側の乳首を親指と中指でぎゅっと摘みあげた。一瞬のことに身を竦めたファイがこれまでで一番大きな反応を見せる。 そのまま人差し指で先端をクリクリといじれば、ファイは腰を突きだすように背を反らし、黒鋼の肩に後頭部を預ける形で喉も反らした。 「痛ぇだけじゃねぇだろ?」 「く、ん……ッ、痛いだけ、だよ……! 変態! 下手くそ!」 「その下手くそ相手に、もうこんなにしてるのはどこの変態だ? あ?」 「ッ――!?」 黒鋼はファイの身体の中心に手を這わすと、スラックスの上からそれを強く擦った。 ファイの喉が「ひゅっ」という音を立てる。反らした喉で、くっきりと浮き上がる喉仏が引き攣っているのがはっきりと見えた。 それなりに厚さのある布越しにもわかるほど硬くなっている性器を、そのまま強弱をつけながら擦ってやる。 「ヒッ、や、やめ……! い、たい……から……!」 「その割にちっとも萎えねぇな。おら、しゃきっと立ってろ」 「う、るさ……ッ、あ、んっ、ぃ……!」 崩れ落ちそうな身体の足の間に、片膝を入れて支えてやる。 嫌々と首を振りながら、少々乱暴とも取れる間接的な刺激に、ファイは身体を痙攣させ始めた。 「イキたきゃイケよ」 「んな、わけ……ッ、な……! あっ! ほんとに、もう、や……――ッ!!」 どこまで耐えられるのかと思っていたら、終わりは呆気なかった。 ずっと忙しなく痙攣し続けていた身体が、大きく強張った。そのまま声もなく上半身を反らしながら、く、く、と小さなひきつけを起こしている。 「マジでイったのかよ」 「ぁ……ぅ……」 やがてゆっくりと弛緩していく身体に割り込ませていた膝を退けると、ファイの身体が力なく床へ崩れ落ちた。 両肩を抱きながら黒鋼も一緒に膝をつく。 そして力なく胸に背中を預けて寄こしながら、必死で呼吸を繰り返しているファイの顔を覗きこんだ。 蕩けたようにぼんやりとしている半開きの瞳は、焦点が定まっていない。けれどすぐにぎゅっときつく閉じられた。 「最低……」 「堪え性がねぇのはいつものこったろ」 腰が抜けているくせに、それでも身を離そうとするのをしっかりと抱きしめながら、こめかみに口づけを落とす。 泣いているくせに気丈に眉を吊り上げるファイだったが、身体を捻って黒鋼の胸を押しながらも小首を傾げた。 「……いつものことって、なにさ」 その反応に、つい溜息が零れた。 こうなってしまったものを今さら言っても仕方のないことだとは思うが……やっぱり忘れられてしまうというのは、寂しいものがある。 「優しくしてやんなきゃ思いだせねぇか?」 いつもは見られない反応に少しばかり遊んでしまったが、そろそろ本気で取りかかってみるかと、腕の中の身体を抱く力を強める。 頬に頬を擦りつけるようにすると、ファイが無意識に全身の力を抜いた。そして完全にこちらに全てを委ねる体勢でホッ、といううっとりとした吐息を漏らす。それは黒鋼がよく知るファイの動作だった。 だが彼は次の瞬間にはハッとして、身を強張らせた。 「ッ! は、離してよ……」 「今ちょっといい感じだったろ、おまえ」 「うるさいな……そんなはずないだろ……!」 だいぶ語尾が弱っているファイは、黒鋼の腕の中から抜け出すと、四つん這いで逃れようとする。 「どこ行く気だ」 「お、ふ、ろ! 誰かさんが好き勝手してくれたせいで、今すっごく気持ち悪いことになってるの! 察してよそのくらい!」 ああ……そうか……。 はいはいのポーズで振り返り、ギリリと睨んでくる涙目のファイを見て、黒鋼もすぐに彼の下半身がどんな状況かを理解した。 下着もスラックスも着用したまま射精させたのだから、おそらく中はどえらいことになっている。 黒鋼は手を伸ばすと、ファイの腰のベルト部分にむんずと手を伸ばした。 「う、わっ!?」 そのまま床が滑るのを利用してズルリと引き寄せる。ファイが手足をバタつかせるのも気にせず、もう片方の手を回し、慣れた動作で前の拘束をすべて解いてしまうと下着ごと一気に引きずり下ろす。 「な!?」 一連の動作は目にも止まらぬ素早さで、ファイは無防備な臀部をまるっと黒鋼に向けている状況にも反応できないまま、口をぽっかりと開けて硬直した。 が、すぐにひとまず萎えている股間を撫でられて、ビクリと大きく跳ねた。 「ひ、ゃ……!」 「見事にぐちゃぐちゃになってんな」 「誰のせいだッ!!」 ギャンギャンと捲し立てるファイを無視して、がっちりと腰を掴むと尻の割れ目に手を這わせる。 「っ――!?」 窮屈な場所で放たれた精液が流れ込み、そこもしっかりと濡れていた。 薄明かりに浮かぶ淫靡な有様に、鼻を鳴らすと舌舐めずりをする。 「まだ終わってねぇんだ。風呂ならあとで入れてやる」 低く言い放つと、黒鋼はその場所に顔を寄せた。 * ファイの肌が粟立つのが分かる。 手足をバタつかせるも、いまだに力の入らない腰を掴まれているせいで、抵抗にもならない。 「い、やだ……! そんなとこ、ぁ、ヒッ……!?」 濡れた音を立てて窄まりに舌を押し付けた。心地よい弾力が一瞬の抵抗を見せながらも侵入を許す。 「あっ、や、やめて! 嘘……ッ」 ファイはついに腕を突っぱねる力も殺がれたのか、床に突っ伏した。腰だけが高く突きだされる。 舌先を尖らせ、ちくちくと穿るように入り口を解した。頼りない細腰が物欲しそうに揺れだすのに時間はかからなくて、必死で羞恥を堪えていることが分かるだけに、わざと大袈裟に水音を立てて聞かせた。 「うっ、んん……ッ、く……っ」 噛み殺される悲鳴が、むしろ黒鋼を興奮させる。 慣れているのはあくまでも身体だけ。暴力にあえて屈するつもりで黒鋼を煽ったファイは、自分の身体が男を受け入れるのに抵抗がないことを知らない。 舌を引き抜き、顔を上げてもすぐに指先をさし込んだ。ぐるりと円を描くように入り口を刺激すると、ビクビクと腰が大きく淫らな動きを見せる。 「そろそろ欲しいんだろ?」 「はっ、ぅ、く……ッ、なに、が……」 「これで満足か?」 「ぁあ……ッ」 入口ばかりを刺激していた指を深く突き入れる。ファイの腰が大きく跳ねて、きつく指を締めつける媚肉がさらに奥へと誘うように蠢いていた。 金色の髪が激しく左右に踊る。身体はすでに堕ちているというのに、理解だけが追いつかないというのは、果たしてどんな感覚なのだろう。 一度だけ突き入れたそれをすぐに引き抜いて、指を二本にすると第一関節まで潜り込ませた。それをじわりと押し開けば、赤く熟れたような穴がその動きに合わせて左右に歪む。 「それともここで止めるか?」 「!?」 中途半端に潜り込ませた指を引き抜く。はっとしたようにファイは振り返った。 その表情は明らかに不満そうで、ぎゅっと唇が噛みしめられた。 押すばかりだった黒鋼がいとも容易く引いてしまったことに、激しい戸惑いを見せていることがわかる。 押さえつけていた腰さえも自由にしてやると、ファイは腰を床にへにゃりと落とす代わりに、ゆるゆると上半身を起こした。 さあ、どう出る? 俯いて床を睨みつけているその横顔を、じっと見つめる。 ファイは一度だけきつく目を閉じると、すぐに顔を上げてこちらを睨みつけた。 「……ずるい」 「なにが?」 「はやく、してよ」 思わず綻びそうになる口元をぐっと堪えた。そして少しだけ小首を傾げて見せる。 「それじゃあ合意の上ってことになっちまうぜ?」 「っ……」 再び悔しそうに唇を噛みしめるファイは、床の上で拳を握った。 それから一度大きく息を飲むと、ついに折れた。 「もう……いい、から……」 プライドが完全にへし折れる瞬間。閉じられた瞳から大粒の涙が零れて頬を伝った。 「こんなのやだ……あそこが、身体が熱くて……切ないよ……」 それから吐息のようなささやかな声で、ファイは言った。欲しい、と。 黒鋼は両腕を伸ばす。少し強引に引き寄せて、腕の中にその身体を納めた。 ファイはもはや一切の抵抗を示さない。ただ黒鋼の胸に力なくもたれた。 沸き立つ感情は勝利を勝ち得たときのそれで、これでは元のファイを取り戻したくてしていたのか、それとも難攻不落の城を落とすことに躍起になっていたのか、もはや目的を失っているように思えた。 だがどちらにせよ、ファイは欲したのだから。 中身がどんなになっていようが、それを拒む理由などなかった。 「乗れ、上に」 「ん……」 低く命じると、ファイはおぼつかない腕に力を込めて、黒鋼の肩に手をついた。そしてそのまま力の入りきらない足腰を動かして、胡坐をかいた黒鋼を跨ぐ。 その間に猛りきった自身を取り出す。もしまかり間違ってファイがあのまま拒んでいれば、相当惨めな思いをするところだったと考えると、少し笑えた。 「ぁ……」 濡れた音と共に、膝立ちになっているファイの双丘の中心に性器を宛がう。 しっかりと両手で腰を掴んで固定すると、力を込めて腰を下ろせと無言で命じた。 「あ、あ、ぁ……うそ……はいっ、て……」 目を大きく見開いて、ファイは首を左右に振った。二人の身体の間で主張している紅色の性器が、揺れながら白い蜜を零していた。 熱く濡れた肉に飲み込まれていく感覚に、黒鋼は歯を食いしばる。情けない話だが、気を抜けばすぐにでも達してしまいそうだった。 「ッ、そのまま……そうだ……しっかり腰落とせ」 「んくっ、ぅ、や……で、も……だって……」 「突き破りゃしねぇよ。奥に届くだけだ」 ファイの身体の震えは快感によるものだけではなかった。すでに半分以上を飲み込んでいるが、そこから先に進まない。 この身体は最奥まで受け入れることを知ってはいるが、元々記憶が欠けていない状態であっても、ファイはいつも本能的な怯えを見せていた。 今の彼が容易く受け入れられる状態ではないことは知っている。だが黒鋼は容赦しない。初めて抱く身体ではないし、初めての相手を抱くわけでもない。 この身体はファイのものであると同時に、黒鋼のものだ。全て熟知している。 ぐっと力を込めて、引いた。ただでさえ腑抜けているファイの膝が、カクンと落ちる。 「―――ッ!?」 一気に全てが中に収まった。中の圧迫がより増して、黒鋼は歯を食いしばる。 ファイの内腿が痙攣し、見開かれた瞳からは生理的な涙がとめどなく溢れていた。 けれど、やがてその瞳はどろりと濁っていく。開かれたままの唇が、はくはくと頼りない呼吸を繰り返す。 「おら、飛んでんじゃねぇよ。こっからだ」 暫しの間を置いて、馴染んできた頃合いを見計らうと、黒鋼は腰を緩く揺さぶった。 必死に黒鋼の首に腕を回すファイは、バネのように背を反らすと堪え切れずに嬌声を上げる。 「あぁぁ……ッ!」 探るような動きから、揺さぶる早さを徐々に早いものにしていく。 結合部から響く淫らな水音と、ファイの高い声が重なる。 黒鋼の動きに合わせるようにその腰が蠢き、意識と裏腹の痴態に制御を失っているファイは、喘ぎながらも混乱していた。 「ヒィ、あ、あ……! なん、で、なんで……ッ、こんなに……!」 「ッ、いいんだろ?」 「ちが、違う……ッ! 違う、いいっ、すごい……ッ、これ、やだぁっ!」 「つまりどっちだよ」 答えは明白だが、悦いのか悪いのか、そのどちらも口走りながら正体を無くしていく様はなかなか見応えのあるもので、絶頂間近の黒鋼には同時に厳しいものがある。 だが時折ひたりと腹に当たるファイの性器も、限界まで膨らみ切っていた。 そろそろ頃合いだ。一層強く揺さぶりをかけて、彼の中の一番感じる場所を掠めるように攻め立てた。 強すぎる快楽はファイから嬌声さえも奪う。ひ、ひ、と呻く喉元に鼻先を埋める。 やがて溺れるように黒鋼の肩を掻き抱いて、一足先にファイが達した。 勢いよく噴き上がる精液が、二人の肌を濡らす。 「くッ……!!」 ファイの肩口に強く額を押しつけながら、黒鋼もまた低く呻いた。身体が大きく戦慄いて、引き抜く余裕もなく中に放つ。 痙攣の収まらない身体を強く抱きしめながら、絶頂の余波に全身が痺れていた。 しばらく忙しない呼吸を繰り返しながら余韻を楽しむと、やがて大きく息を吐きだして、ぐったりと項垂れるファイを見上げた。 蕩けたようになっている瞳と目が合うと、どちらかともなく唇を合わせる。 だがまだ完全に呼吸の整わないファイは、すぐに顔を逸らしてしまった。 「……思い出さねぇか?」 「……だから、なにを……?」 彼にしては低い声で、気だるげな目が向けられた。 「……そうか」 やはり上手くはいかないのか。 相手の体力面も含めて、この先を続けることに意味があるのかないのか。 顔を出しかける落胆の感情を押し込めて、ひとまず引く方向で黒鋼は身じろいだ。 ファイの身体がビクリと震え、そしてぎゅうぎゅうと強い力で首にしがみついてくる。 「おい」 「ま、って……まだ、動くのダメ……」 「なんだよ」 ファイの顔が見たくても、がっちりと頭を押さえこまれているせいで、首が動かせない。 耳元に押しつけられるファイの唇から洩れる小さな吐息が、静まりかけていた興奮を呼び覚ます。 なんだかんだで明日のことも考えれば、これ以上好き勝手やることは躊躇われる。 けれどそんな気遣いなど知りもしないで、ファイは言った。 「もう……しないの……?」 どこか不貞腐れているような物言い。 欲しいくせに欲しいと言えない意地っ張りなファイ。歯痒いような、ムズムズとしたものを覚える。 こんな気持ちは初めてで、いつもなら聞いてやらない我儘も、叶えてやりたくなる。 だが本当はいつだって、もっと上手に甘やかせたらと、そう思っていた。 「欲しいなら、くれてやる」 「……うん」 蚊の鳴くような返事。 「俺も……まだ足りねぇ。おまえが……足りねぇんだよ」 そして小さな声で囁いた。もう二度と戻らないかもしれない、出会ってからこれまでの時を共に過ごした恋人に。 愛してる、と。 「……っ」 言葉を失いながら、全身を真っ赤に染めたファイがきつくこちらの頭を抱え込んでくるのは、きっと顔を見られたくないからなのだろう。 その気持ちは、よくわかる。 「変なの」 「ん」 「涙、止まらない」 ひとつ、子供っぽく鼻をすする音が聞こえて、黒鋼は少しだけ笑った。 * 「いやー、でも黒鋼先生がお縄にならなくて本当によかったですよね」 昼休み。 天気がいいという理由で黒鋼とユゥイは校庭脇のベンチに腰掛けて、弁当をつついていた。 切り込まれて、タコのようになっている赤いウインナーを箸で摘みながら、黒鋼は横目で首を傾げているユゥイを睨んだ。 「そろそろてめぇ相手にもゲンコツ解禁してもいいか」 「あはは、ご冗談を」 「しかも例の作戦じゃ、結局どうにもならなかったしよ」 「不思議なんですよねー。テンプレートにはまらない辺り、ファイは斜め上を行くからなぁ……」 いやぁ失敬失敬、と片手を立てて「ごめん」のポーズをとりつつ、どこぞの洋菓子店の看板キャラクターよろしく、ペロンと舌を出してウィンクまでかますユゥイにイラッとする。 結果、この男が言ったように通報されて、新聞の見出しやワイドショーを騒がすという最悪な事態にはならなかった。 そして普段は見られないファイのツンっぷりを堪能できたのもいい。さらに寝技で落とすという美味しいプレイもできた。なかなかいい趣向だった……と、そこまで考えて黒鋼は自分に失望した。 (確実にアホ双子に毒されてきてやがる……) 「まぁ、ボクとしてはもうちょっとファイに冷たくされて、子犬みたいに縮こまってる黒鋼先生が見たかったんですけどね」 「やっぱり殴る。ゲンコツとは言わねぇ。平手でいい」 「今日の黒鋼先生はジョークが冴えわたってるなぁ。あ、ほら来ましたよ」 「あ?」 ユゥイの指さす方を見ると、肩を怒らせて明らかにご機嫌斜めの様子のファイが、ツカツカとこちらに向かってくるのが見えた。 「おう」 軽く手を上げると、猫のように毛を逆立たせたファイがきつく睨みつけてくる。 「おう、じゃないでしょー!? 待っててって言ったのに、先に行っちゃうとか! しかも先にユゥイのお弁当食べてるとか! タコさんウインナーとオレ、どっちが大事なの!?」 ギャンギャンと喚き散らして、ファイは黒鋼とユゥイの間に無理やり身体を押し込めた。 長身の男が3人も並ぶと、ベンチはきつきつである。いや、きつきつを通り越して、黒鋼は右半身が空気椅子状態である。 「うるせぇな……てめぇがグズグズしてっからだろうが」 「だいたいさー、黒たん先生とユゥイ、なんだか急に仲良しじゃない!? 怪しい……絶対に怪しい……」 確かにファイを除いて二人だけでいる、という構図は比較的珍しい。けれど勘ぐられるようなことは何一つない。 だがこの妄想魔人は限度というものを知らない。 「黒たん先生は見た目がオレならなんでもいいんだ……! この節操無し! 浮気者! ゴッドハンド!!」 最後の一文が一体なにを指すのか、黒鋼はあえて突っ込まない。 だが天を仰ぐようにしながら泣き真似をしているファイのウザったさに、額の辺りで何か切れてはいけない大事な血管が切れた。 「うるっせぇんだよてめぇは! 飯ぐれぇ静かに食わせろ!!」 「うわあぁあん! ここはそっとオレの肩を抱き寄せて、バカ野郎……俺がゾッコンLOVEなのはこの地上でただ一人……てめぇ……(ため)……だけだ……★ とか言う場面なのにーっ」 「その妄想の中の俺を殺せぇ!!」 「まぁまぁ……二人とも落ち着いて」 ドスッという音と共に、ファイと黒鋼の口の中にタコさんが押しこまれる。 口をもぐもぐさせるしかなくなった二人は、バチバチと火花を散らしながら無言で睨みあう。 「せっかくファイが元に戻ったんですから、ケンカはやめましょう」 「チッ……」 先に飲み込んだ黒鋼は、派手に舌打ちをした。 そう、ファイはあの翌朝、あっさり元に戻ったのだ。 宿舎の玄関を出てすぐの、階段でのことだった。 せめて学園につくまではと支えようとした黒鋼の手をつれない態度で振り払って、ガクガクの腰で見事にすっ転んだ。 一瞬だけ気を失ったファイは、もしや死んだのでは……と青褪めた黒鋼の腕の中で、すぐに目を覚ました。 第一声は「あ、黒たんせんせー。おはよー」だった。 こんなことなら、いっそのことフライパンやトンカチで一発ぶん殴ればよかった。 あの夜、黒鋼は一生分の愛の告白をしたような気がする。 もう二度と言うものか……と間違った決意をする黒鋼の横で、ようやくウインナーを飲み込んだファイがぷぅ、と口を尖らせた。 「あーあー。オレ何があったのかぜんぜん覚えてないよー。つまんない」 「面白かったよ。特に黒鋼先生が……ぷっ」 よし殴ろう……とそっと拳を握りしめたが、そこでユゥイがひらりと立ちあがってしまった。 「次の授業の準備がまだ残ってるから、ボクは先に行くよ」 「えー行っちゃうのー?」 「うん、じゃあね。黒鋼先生も」 爽やかな笑顔を残して颯爽と去っていく後ろ姿を見ながら、確実に逃げる口実だろうと黒鋼は思った。 そして取り残された二人は暫しの間、会話もなく黙々と弁当を食べた。 いつもならなんやかんやと喋り続けているファイが、珍しく口を噤んでいる。 これはこれで、妙な居心地の悪さがあった。 やがてあらかた食べ終わると、弁当に蓋をしながらようやくファイが口を開く。 「ねぇ、せんせ」 「おう……」 「オレ、どんなだった? やっぱ……変だった……?」 「そうだな……」 とは言ってもお互い様である。 恐縮そうにしているファイは、おそらく記憶がない間になにか迷惑をかけたのではないかと気にしているのだろう。 だが、迷惑の度合いで言えば普段の方がずっと被害が大きい。 「まぁ……いいんじゃねぇのか? デカイ怪我したわけじゃねぇんだし」 黒鋼的には心にダメージは受けたが……。 「そっかぁ」 そう言って、ファイはへにゃりと笑った。 冷たい微笑はゾクゾクするほど美しかったが、やはりこのどこか間の抜けた笑顔の方がいいと、黒鋼は思った。 たまに殴りたくなるし、今の黒鋼には声に出して言うのはとても難しいけれど。 ファイのこの笑顔には、普段は無愛想な黒鋼の頬をふと緩めてしまう魔力があった。 思わず伸びた手が、少し癖のある金の髪をそっと撫でる。 一瞬だけ驚いて目を丸くしたファイは、すぐに頬を赤らめながら猫のように目を細めた。 「やっぱ黒たん先生は、ときどき優しいくらいがカッコイイや」 えへへ、と珍しく照れたように笑いながら言うファイに、黒鋼もまた思う。 そう、この男は、ときどきこうしてしおらしくなるくらいが可愛い、なんて。 ←戻る ・ Wavebox👏
ファイを庇って脳天を強打した黒鋼。
彼は使い古されたテンプレート通り、記憶喪失にな……らなかった。
代わりにツン度80%からデレ100%へと人格をチェンジさせた黒鋼だったが、ファイの捨て身の荒治療によりツンを取り戻す。
だが事態は思わぬ方へと激流のように黒鋼を翻弄することになる。
黒鋼を正気に戻すため、共に階段からフライアウェイしたファイが今度はドタマを強打し、デレデレ100%から120%ツンツンへと変化してしまった。
まるで生ゴミでも見下ろすかのような冷酷な瞳に、ナニかに目覚めかける黒鋼は……?
*
6時間目は体育の授業だった。
体育館では生徒達が筋トレという名の自習を行わされている。
「今日は自習だ。俺がいいと言うまで腹筋でもやってろ」
という投げやりな指示を出し、体育館の隅っこで愛用の竹刀を抱えながら胡坐をかいた黒鋼からは、ジリジリとした黒いオーラが出ている。
「く、く、黒鋼先生! 腹筋から火が! 業火が!!」
かれこれ30分以上も腹筋放置を食らっている生徒達が悲鳴を上げているが、じっと眼を閉じて考え事に耽る黒鋼の耳には届いていなかった。
黒鋼の頭の中は現在、ファイのことでいっぱいになっている。
昼休みのあの一件から、ファイの様子が明らかにおかしい。
(一体なにがどうなってんだ……?)
気がついたら階段を転がり落ちていて、腕の中には一緒に落ちたらしいファイがいた。
怪我はないかと声をかけると、起き上ったファイは豹変していた。
そんな顔も出来るのかと思うほど冷やかな目をした彼は、黒鋼をまるで虫ケラのように扱うと姿を消した。
その態度に思わずキュn……いや、呆気にとられた黒鋼だったが、その後もファイは同じ調子で目を合わそうとしない。
まるで黒鋼という存在など、最初から見えていないとでも言うかのような徹底した態度だった。
いつもならうるさいくらい纏わりついてくるというのに。
知らず知らずのうちに、何か彼を激怒させるような真似でもしてしまったのだろうか。
「………」
思い当たるものが一切ない。
そもそもおかしなことに、ファイと共に階段から落ちる以前の記憶がない。
なにもかもが謎で、頭がおかしくなりそうだった。
*
結局その日、学園内では一度としてファイと関わることがなかった。
ちらりと盗み見た彼は普段と変わらぬ調子で、生徒達や他の教師連中と親しげに会話をし、人懐っこい笑顔ではしゃいでいた。
黒鋼にだけ態度を豹変させていることなど、他の人間は知りもしない。
二人がケンカをする、ということは割とよくある光景だったので、特別気にするものもいないようだった。
謎は深まるばかりだったが、とりあえず腹は減る。
いつも夕食は双子の部屋で世話になっているし、そこでならファイの真意を問うことが出来るだろう。
いや、別にあのアホのことが気になって何も手につかないだとか、そんなことは決してない。
黒鋼は空腹なのだ。宿舎に入った瞬間からすでに晩飯のいい香りがしていることには気がついていた。
おそらくユゥイが何か作っているのだろう。
だからあくまでファイのことは「ついで」だ。それ以外に理由などない。絶対ない。
べ、別にアンタのことなんてなんとも思ってないんだからね……ぐらいの心意気で一度自室へ戻り、それから普段通り隣の部屋へと向かった。
「あ、黒鋼先生おかえりなさい」
玄関先で出迎えたのはファイではなくユゥイだった。
珍しくエプロンをしていない。すでに夕食は完成しているのだろうか。
「お腹すいたでしょう? 今日はハンバーグですよ」
「おう」
短く返事をする黒鋼の顔を、ユゥイがじっと見つめてくる。
「……なんだ?」
「いえ……さぁどうぞ」
部屋に入ると、キッチンの方から何かを焼く香ばしい音と香りした。ふと目をやれば、なんとそこには料理をするファイの姿があった。
「お、おい……あいつにやらせていいのかよ? ろくなことにならねぇぞ……」
咄嗟にユゥイに身を寄せると耳元で問いただす。
「はぁ……ボクも驚いたんですが……ボクがここに戻ったときには、すでにファイが作り始めていて……しかも……」
そのあとに続いた言葉に、黒鋼は驚愕した。
なんとファイは、このユゥイよりも料理の手際がいいらしい。
こちらに背を向けて黙々とフライパンと向き合っているファイの周辺も、ピカピカに美しい状態を保っていた。
天地がひっくり返るよりあり得ない光景である。
ファイの料理センスのなさと奇跡に等しいほどの片付けのできなさは、いっそ神がかったレベルだったからだ。
「ありえねぇ……やっぱり今日の奴は何かがおかしい……」
「……」
てっきり賛同を得られるだろうと思っていたユゥイの生温かい視線が、なぜか痛い。その顔に『貴様が言うな』と書かれているような気がしたが、黒鋼には思い当たるふしがなかった。
そうこうしている間に、すぐ横に用意されていた皿にハンバーグを盛り付け終わったらしいファイが、ピンクのふりふりエプロンを翻しながら眩しい笑顔で振り返った。
「ユゥイー! ハンバーグ上手に作れたよー! ……って……?」
ここまでピンクのふりふりで笑う姿が似合う成人男性がいるのが、いっそ恐ろしい。
ま、俺のコレなんだけどよ、と内心で小指を立てる無表情の黒鋼を見て、ファイが顔色を変えた。
すっと細められる視線が肌に突き刺さる。ついでに心にも。
「ユゥイ、どうしてこの人がオレたちの部屋にいるの?」
「え、どうしてって……。いつものことでしょ?」
「なに言ってるの? 笑えないよ、その冗談」
双子の会話をその場で聞いていた黒鋼の元に、エプロンを外しながらファイがつかつかと歩み寄ってきた。
「悪いんだけど。お引き取り願えます? あなたのお部屋はお隣ですよ」
「……おいおまえ……昼間っから妙だぞ……?」
ふん、とファイが鼻で笑うと腕を組む。昼間に見た、あの見下すような冷たい笑みだった。
ドキリとするよりも、いっぞゾクリと背筋に嫌なものが駆け抜ける。
「聞こえなかった? オレ、帰れって行ったんだけど?」
「てめぇ……」
流石の黒鋼も、こうまで徹底的に拒絶を示されれば、戸惑いよりも苛立ちが勝る。
二人の間にビリビリとした張りつめた空気が流れた。間に挟まるようにしてその顔を交互に見やったユゥイが、引き攣った笑みを浮かべる。
「ま、まぁまぁ……同じ学校の先生同士で、部屋もお隣なんだし……ね? ファイも落ち着いて」
「オレは落ち着いてるよ」
「く、黒鋼先生も……ただでさえ顔が怖いんですから、まずは座って……」
「……帰る」
「えっ?」
「てめぇの気持ちはよくわかった。邪魔したな」
ファイに向かってそう言うと、静止するユゥイの声も聞かずに足早に玄関へと引き返した。
「黒鋼先生……!」
背中にかかるのは聞きなれたあの情けなく高い声ではなくて、黒鋼は柄にもなくダメージを受けている自分から目を背けた。
*
黒鋼が出て行ってしまうと、呆然とするユゥイとホッと胸を撫で下ろすファイが残された。
「よかったねー。不審者がおとなしく帰ってくれて」
「ねぇファイ……あのあと黒鋼先生とケンカでもしたの……?」
「へ? ケンカってー?」
「だから……」
ファイは何事もなかったかのように、テーブルの上に皿を並べ始める。
軽く混乱しそうになるが、どうやら黒鋼が通常の状態に戻ったのとは裏腹に、今度はファイがおかしなことになっているらしい。
(これってあんまりいい展開ではない、よね?)
流石に黒鋼の心境を思うと気の毒に感じられたユゥイは、ふとテーブルの上に乗っている二人分の皿を見て、そしてキッチンへも目をやった。
「あれ?」
小首を傾げて、その場所へ向かう。そこにはなぜか、もう一枚の皿が置かれていた。
野菜と一緒に盛り付けられているハンバーグは、ファイやユゥイのものよりも一回り以上大きなものだった。いっそ皿からはみ出しそうな勢いである。
「どうかしたー? 早く食べよー?」
背後からやってきたファイが、皿をじっと見つめるユゥイに声をかけた。
「ねぇファイ、これは誰の分?」
「えー?」
「これ、もしかして黒鋼先生の分なんじゃ?」
そう言ってファイを見ると、彼は思い切り嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「なに言ってんのユゥイ……どうしてオレがあの人の分まで作らないといけないの? 分量間違えちゃったから、まとめて焼いちゃっただけだよ」
「……ふーん」
(その割にちゃっかり野菜も盛り付けてあるんだけど……ひょっとして自覚がない?)
そもそもこれだけ大きなハンバーグである。分量を間違えるにしても、流石に無理があるように思えた。
これはなかなか面白い現象かもしれない……と、ほんの一瞬前まで黒鋼に同情していた気持ちが吹っ飛んだ。
考えてみれば、素直すぎる黒鋼はただ気持ちが悪いだけだったが、あんなにも冷酷な眼差しのファイなんて、なかなかお目にかかれるものではない。
そう思うと、これはかなり貴重なイベントのような気がした。
早く食べようとファイに急かされながら、とりあえずこの巨大ハンバーグは、後からコッソリ隣の部屋へ持って行こうとユゥイは思った。
*
「うわ……予想以上に背中に哀愁が漂ってますね」
部屋の中心にポツン……と胡坐をかいていた黒鋼の背中に声がかかった。
「勝手に入ってくんな」
「ノックもしたし声もかけましたよ」
「うるせぇな」
「今温め直しますからね。不貞腐れてないで、ちゃっちゃとご飯食べちゃってください。それにいつまでもジャージ着たままでいないで、着替えたらどうですか」
「こいつは部屋着用のジャージだ」
「一体何着の黒ジャージを所持してるんです……?」
「……ほっとけ」
余計なお世話だとイライラしつつ、ユゥイの手にしている皿の上のものを見て黒鋼は眉間の皺を深くする。
「食わねぇぞ俺は」
「食べ物に罪はないですよ。それにお腹ぺこぺこでしょう?」
そういえば空腹だったような気もしたが、今はもうどこかへ行ってしまった。
思い切り嫌そうな顔をする黒鋼を完全に無視し、ユゥイは着々と食事をする準備を整えている。
摘みだしてやろうかと考えて、レンジの中から出て来たブツを改めて見て、顔を顰める。
「デカくねぇかこれ」
ほぼ野菜を覆い尽くす勢いでギリギリ皿に収まっている、巨大ハンバーグ。
ユゥイはにっこりと笑った。
「そりゃあ、愛情がたっぷり詰まってますから」
「てめぇの愛情かよ」
「ボクが焼いたんじゃないですよ」
「あ?」
てっきりあのあと、この男が別に焼いて持ってきたのかとばかり思っていた。
あの様子のファイが、黒鋼の分まで作るとは到底思えなかったのだが。
「とりあえず食べながら話しましょう。ボクも色々確認したいし」
いまいち腑に落ちなかったが、ひとまず従う以外になさそうだった。
*
ハンバーグの味は、はっきり言ってとてつもなく美味だった。
随分昔に一度ファイが作ったものといえば、ハンバーグではなくただの消し炭だったのを思い出して、なんとも言えない気持ちになった。
「じゃあ、ファイと一緒に階段から落ちて、それからこうなったと」
「おう」
モグモグとひたすら口を動かす黒鋼を、テーブルに肘をついた手の上に顎を乗せたユゥイが見つめている。
そのまま何も言わずにただじっと見つめられて、黒鋼は箸を止めた。
「なんだよ」
「……ちなみに……それ以前のことって覚えてます?」
「……いや」
「ぷっ」
「!?」
ユゥイの目が三日月のようになった。
口に手を当ててぷぷぷと笑う姿に、どうやら思い切りバカにされているらしいことを察して、激しい憤りを覚える。
もしかしてもしかしなくてもこの男、今の状況を楽しんでいないか……?
「この野郎……何か知ってんならとっとと言え!」
「ああ~、やっぱり安心するなぁ口汚い黒鋼先生は」
「ああ!?」
同じ姿をしているくせに、こちらはファイとは別の意味で面倒くさい。
そしてこれがファイならば、容赦なくゲンコツでもブチ込んでスッキリしているところである。
「黒鋼先生は、とっても気色の悪いことになっていたんですよ」
そしてやっぱり少し楽しそうに、ユゥイは語り出した……。
十数分後……。
「………………」
「………………」
「……本当に笑えねぇな。おまえの冗談は」
「残念ながら真実です」
「………………」
俄かに信じがたい事態に、黒鋼はこの世の終わりを見たような心境だった。そして心から思った。消えたい、と……。
自ら命を絶つ人間の心境など知りたくもないと思っていた黒鋼が今、ロープはどこだったろうかと真剣に考えている。
どんと重い空気を背負いながら石のように動かない黒鋼を見て、ユゥイは「まぁまぁ」と苦笑しながら言った。
「そっちは解決したんだから、よかったじゃないですか。空白の時間も取り戻したわけだし」
慰めになっていない上に、取り戻したわけではない。知らされただけである。
「それに今問題なのはファイのことで……」
少し声を低くしたユゥイに黒鋼は握りしめていた箸をテーブルに置く。
確かに穴があったら入りたいほどの恥辱は味わっているが、彼の言うとおり今現在の問題はファイのことだった。
先刻の話をただストレートに聞けば、おそらく「そんなバカな」と一蹴するだけで、信じることはできなかっただろう。
だがあのファイの冷やかな表情や、攻撃的な態度を目の当たりにしている黒鋼は、おかげですんなり納得することができた。
同時に、極めて面白くない話だが、ホッとしている自分もいることに気がつく。
ファイのあの態度は、彼自身の意思ではなく、ただでさえアホだったのが、よりアホになっているだけの話なのだ。
「めんどくせぇな……」
舌打ちと共に毒を吐くと、黒鋼は気を取り直して再び箸を手に取り、完全に冷めきっている残りのハンバーグを平らげることにした。
そして小さな声で呟いた。
「美味い」
「え?」
目をまんまるにしているユゥイに、最後の一口を食べ終えた黒鋼が目を向ける。彼は驚いた様子で動かなくなってしまった。
「なんだよ」
「今、美味しいって言いました?」
「だからどうした」
ユゥイがまたにんまりと瞳を三日月型にさせて、いやらしい笑みを浮かべている。
「気持ち悪ぃな。なんだよ」
「いいえ? ファイは愛されてるなぁと思って」
「あ? いきなりなんなんだ。意味わかんねぇぞ。だいたい、ハンバーグなんて誰が作ったって……」
いや、同じではない。
ハンバーグを作るはずが、干乾びた臍の緒を思わせるような物体を作り上げてしまう人間を一人、黒鋼は知っている。
料理人の弟を凌ぐほどの手際の良さで完璧な料理が出来るファイなど、時々夢に見るくらいで丁度よかった。
「要するに、また同じような衝撃でも食らわせりゃいいんだろ?」
「そうなんでしょうね」
「殴るか」
「それで効いたらこれまで何回性格チェンジしたかわかりませんよ」
「……確かにな」
ならばまた階段から突き飛ばすしかないのか。それとも熱したフライパン辺りでぶん殴ればいいのだろうか。あるいは……。
「とんかち……」
「ちょっと黒鋼先生……今なにか物騒な呟きが漏れ聞こえてきたんですけど」
それでは殴るを通り越して陥没するだろうと、合いの手を入れて寄こすユゥイにムッとする。
「うっせぇな……どのみち最初から物騒この上ねぇ話しかしてねぇだろ。ならどうすりゃいいんだよ」
「うーん……ボクとしては、なるべくファイを危険な目には合わせたくないんですよね」
「そうは言ってもな……」
他に一体どんな手段があるというのだろうか。
重々しい溜息をつく黒鋼に、ユゥイは自信満々にニヤリと笑う。
「やっぱりこの場合、もう一つのお約束を実践するべきだと思います」
「おやくそく?」
「まぁ分かってはいても、ボクとしては複雑な部分もあるんですが……」
こうなればこの手しかないと言いながらユゥイが提案した方法は「ああ、こいつらやっぱり双子だな」と、妙に納得せざるを得ないものだった。
*
「単純です。なぜだかファイは黒鋼先生との関係についてだけ、スッポリ抜けているようですから、こういう場合は」
ユゥイはほんわかとしたニコニコ顔から、なぜか目つきを鋭くすると不敵な笑みを浮かべる。
「俺が思い出させてやるぜ……てめぇの身体にな……」
と、えらく低い声で言った。
「………………」
「………………」
「誰だよそれ?」
「黒鋼先生の真似」
「似てねぇだろ」
「あれ? 似てませんでした? ファイに出来たならボクにも出来ると思ったんですが……」
なぜかげんなりした。
言わんとしていることは伝わった。が、こんなふざけた男のふざけた策に乗って、果たして上手くいくのだろうか。
兄の方と比べると多少はマシな男かと思っていたが、テンションが違うだけでやっぱりこいつらは所詮双子だ。
だいたい……。
「俺はそんな薄ら寒い台詞は言わねぇぞ」
「え、でもファイなら絶対に泣いて喜ぶと思いますよ」
「知るか。そもそも仮に実行に移したとして、成功しなかったらどう責任取ってくれんだ? あ?」
今のファイを相手に失敗すれば、自分はただの性犯罪者になってしまうのではないか?
『高校体育教師、同僚の男性化学教師を強姦!!』
という新聞の見出しを思い浮かべて、いっそ例の空白の時間の真相を聞かされたときよりも遥かに怖気が立った。
そんな黒鋼の心配など余所に、ユゥイはなぜか無駄に余裕たっぷりだ。
「大丈夫ですよ。なんとかなります。そういうもんです」
「完全に他人事じゃねぇか」
「じゃあ……もし上手くいかなかったら、最悪ボクが責任を持ってファイと心中します。階段から」
「不吉なこと言うな。そんで今度はてめぇがアホになるとか面倒臭ぇ展開はお断りだぞ」
「そうなったら、今度は黒鋼先生がボクの身体に思い出させてくれると信じて……」
「未開の地に踏み込んで何をどう思い出させろって……?」
いくら双子といえども黒鋼は弟の方とは恋仲ではないし、もちろん肉体関係もない。
何やら学園内の一部では黒鋼とこの双子が3人でデキているらしい、という噂もたっているようだが、面倒くさいアホはファイだけで手一杯である。
突っ込みを入れられて楽しそうなユゥイは、まるで修学旅行に来てはしゃいでいる中学生のようだった。
こんなにも軽いノリの男だっただろうか……。
「まぁ冗談はこの辺りにして、上手くお膳立てはしますから、頑張ってください」
「頑張れって言われてもな……」
安心できる要素が一切ない。
それでも今は、縋るしかないのだろうか。
(あのバカ……元に戻ったらゲンコツ一発じゃ済まさねぇぞ……)
*
翌日、再び夜である。
黒鋼はなぜかユゥイの指令の元、自室ではなく双子の部屋にいた。一人で。
(あの野郎、何が上手くお膳立てしますだ……)
何をどうするつもりなのかと任せてみた結果、蓋を開ければ、ただここにいて何も知らずに帰宅したファイを待ち伏せろということだった。
そして言った本人は呑気に黒鋼の自室にいる。つまり丸投げである。
ソファに大股で腰掛けて腕を組む黒鋼は、見た目にはどっしり構えているものの、片膝は小刻みに上下している。
この待ち時間がなんとも落ち着かない。
だいたい『頑張れ』などと言われて、何を頑張ればいいのだろう。
どういうことかは分かってはいるが、ギラギラと目を光らせてやる気満々で挑める心境ではなかった。
いくら適当に丸投げされたからといって、ユゥイには心配をかけている(多分)ようだし、上手くやれるのであればそれに越したことはないのだが。
黒鋼にはファイの顔を見た途端、どこぞの怪盗三世のように全裸で飛びかかるつもりなど毛頭なかった。
いっそ話し合いで事が解決できるなら、どんなにいいか。
いや、実際は渾身の一撃をあのアホの頭にお見舞いすることであっさり済めばもっと簡単で、黒鋼的にはスカッとするのに。
沈黙の中で溜息を零すと、普段は気にならない時計の秒針が時を刻む音が、やけに耳についた。
それからおよそ数分後、ついに扉が開く音が聞こえた。
(来やがった……)
心臓が一度大きく高鳴った。
「ただいまユゥイー! 遅くなってごめんねー。今日はシチューに挑戦しちゃおっかなーってー」
ガサガサとビニール袋の音をさせながら顔を出したファイが、固い表情でソファにふんぞり返っている黒鋼の姿に気がつくと、一度大きく目を見開いた。
それからすぐに、荷物をその場に置いて「またお前か」と言わんばかりの呆れたような表情を見せる。
「君、よっぽどこの部屋が好きなんだね」
「……好きでいるんじゃねぇよ」
冷たい視線からつい目を逸らし、黒鋼はその居心地の悪さに小さく舌打ちをした。
なんだってこの男といるのにこうも緊張せねばならないのか。
「なにそれ。じゃあ帰れば」
ファイは相手にする気さえ失せているのか、一度床に放った袋を手にしてキッチンへと向かおうとする。
だがそこで辺りを軽く見まわし、ユゥイの姿がどこにもないことに気がついたようだ。
「弟ならいねぇぞ」
「なんで」
そもそもその弟にここで待ち伏せしろと言われている黒鋼は、どうしたものかと少し迷った。
すぐ隣にいる、ということが知れたら、このおざなりなお膳立てがおじゃんになってしまうことは目に見えた。
そうこうしているうちに、思案顔の黒鋼を見るファイの目が鋭く眇められた。
「オレの弟に何かしたんじゃないだろうね」
「何かってなんだこら」
「だって君、変態だろ」
「あ?」
思わず我が耳を疑った。そして言われた言葉を幾度も脳内で反芻する。
変態に……変態と言われた……。
「てめぇ……どういう意味だ……」
「そのまんま、言葉通りだよ。ユゥイ狙いでここに通ってるんじゃないの?」
「は……?」
……?
………………???
……………………はあぁ!?!?
あんまりのことに、黒鋼は派手に咳き込んだ。
僅かに身を引いたファイが『変な菌撒き散らすんじゃねぇぞ』と言わんばかりの不快そうな視線を寄こす。
だがそれどころではない。
なんたる勘違い。全身に嫌な汗が滲む。
俺の狙いはてめぇだと叫びたい衝動に駆られたが、咳き込むことに忙しい黒鋼は、ひとまず自分を落ち着かせることに専念する。
「悪いけど、ユゥイに指一本でも触れたら……」
どうにか落ち着いてきた黒鋼に、威嚇するように畳みかけるファイ。
「殺すよ」
少し寒気を覚えるほどに、その目は本気と書いてマジである。
そしてその言葉と視線を受けた黒鋼が、内心少しムラッとしたことは……絶対に秘密だ。
「ちょ、ちょっと待て……おまえな……」
何を隠そう、黒鋼が指一本触れることすら許されないらしい弟こそが、兄貴を襲っちゃえとゴーサインを出しているなどと、この男が知ったらどんな反応をするのだろう。
そう思うと誤解を晴らす意味でも、ちょっとネタばらししてみたい気がしないでもないのだが、相手の反応を窺って遊ぶだけの余裕はない。
なんと言っても、ファイのまさに変態を見るような冷たい視線が、この上なく痛かった。もうなんでもいいから、早くどうにかしなければ。
正直に言うと、クールでサドっぽいファイというのもまぁ悪くはない。この際そこは潔く認めよう。
だがやはり、あのよく知る賑やかで鬱陶しくて甘ったれのファイが、悔しいが今は無性に恋しいと感じた。
黒鋼は意を決し、負けじと睨みつけると言う。
「おまえの弟はここにはいねぇが、俺がここにいるのは、あいつも知ってる」
「……へぇ」
「俺はてめぇに話があってここへ来た」
「ふぅん」
ファイは意地の悪そうな笑みを浮かべると片手を腰に当てた。
見下ろしてくる視線はやっぱりあの虫ケラでも見るような眼で、黒鋼はやはり落ち着かない気持ちになる。あらゆる意味で。
「いいよ。聞こうじゃない」
こうなったら、ストレートに真っ向勝負だ……。
*
いつもいつも、ファイは騒がしくて鬱陶しくてアホでバカで、黒鋼が素直に言えない分を埋めるかのように、全力で想いをぶつけて来た。
黒鋼にとってそれは時に厄介で、面倒で、それでもバカな奴ほど可愛くて、こんな面倒な奴が他人の手に負えるものかと、いつしか妙な責任感も抱きながら不器用なりに気持ちを注いできたつもりだった。
けれどこうして改めて考えると、いつの間にか黒鋼は、ファイに愛されることが当たり前になっていたのかもしれない。
いつもは思っていても言えないこと、素直になれない部分。頭を打ってアホになっていたらしい自分は、それを真っすぐに隠すことなく表現したという。
ファイにとっては、きっと夢のような時間だったのではないか。
それなのに、彼は己の危険も顧みずに黒鋼と心中まがいのことをしたのだ。
素の状態でいる今の自分が、腹を括らなくてどうするというのか。
素直に気持ちを言葉や態度で示すことよりも、そんな風に思いあがっていた自分の方がずっと滑稽で、甲斐性のない小さな男に思えた。
「忘れちまってるようだがな、耳の穴かっぽじってよく聞けよ」
すっと立ち上がって、静かに深呼吸をした黒鋼の改まった様子に、ファイの表情から冷やかな笑みが消える。
「俺がここに来たのはな、てめぇを愛してるからだ」
ガサリ、という音を立てて、何やら材料が詰まったビニール袋が床に落ちた。
その音を皮切りとして、ぴんと張り詰めていた空気がさらに緊張を帯びたような気がする。
愛してる、なんて言葉をまともに声に出して言ったことなどこれまでない。(例の一件は別として)
その気持ちが揺るぎない真実だからこそ、軽はずみに口にすることに抵抗があったから。
だからあまり言い慣れない。今はただ相手の反応を見る以外になかった。
「は……?」
そして目を見開いたファイの表情には、僅かな困惑の色が伺える。
「……なに言ってるの?」
短い沈黙のあと、少し上ずった声。
「バカバカしい。何を言い出すのかと思えば」
うんざりしたように肩を竦めると、大きな溜息を零してファイはこちらから目を逸らす。
それを見て、黒鋼は何かを掴んだような気がした。
たった一言の告白が、冷たい笑みさえ浮かべる余裕をこの男から奪った。
決して簡単な言葉ではない。だからこそ、こうも一瞬で響くのか。
こうなると逆に余裕が生まれたのは黒鋼の方だった。
片眉をひょいと上げて見せた黒鋼をチラリとひと睨みして、ファイは苛立ったように背を向ける。
「どこに行くつもりだ?」
「君が出ていかないなら、オレが出てく」
そのまま薄暗い玄関先へと消える背中をすぐに追いかけた。
ぐっと腕を掴んで強引に振り向かせると、そこには親の仇でも見るような瞳があって、そのくせえらく潤んでいるものだから、ふと小さく笑ってしまった。
それがファイの神経を酷く逆なでしたらしい。
掴まれていない方の手が黒鋼の頬に向かって勢いよく振り下ろされる。大人しく殴られてなどやるものかと、それさえも軽々と手首を掴んで抑え込んだ。
「この……っ」
力の差など歴然で、身を捩るようにして抵抗をする身体を、半ば壁に叩きつけるかのようにして押さえつけた。
冷たい壁と黒鋼に挟まれ、完全に逃げ場を失ったファイは、肩で息をしながら上目づかいで睨みを効かせる。
悔しそうに噛みしめられた唇と、猫のように釣り上がった眉と目に、ゾクリとした。
「いい顔だな。悪くねぇ」
「ずいぶん楽しそうじゃない」
笑みの形に歪められた口端も、精一杯の虚勢にしか見えない。こちらが一瞬でも隙を見せるのを、虎視眈々と窺っているのが分る。
「そう見えるか?」
「さぁね。それよりこの馬鹿力、どうにかしてくれない?」
「てめぇがいい子にしてりゃあ、こんな荒っぽい真似もしなくて済むんだがな」
「っ……!」
一触即発。ファイの足が、黒鋼の身体を真っ二つにする勢いで振りあげられようとした瞬間を見逃さない。
拘束する腕の力をさらに強め、逆に自分の膝を彼の股下に滑り込ませると壁に固定した。表情を歪めながら、ますます縮まった互いの距離にファイがギクリと身を硬くする。
そして彼はうんざりしたように盛大な溜息を漏らした。
「何がしたいんだ君は……このまま強姦でもするつもり……?」
問いかけに、違うと答えられないのが痛いところだった。
だが否定したところでこの態勢である。ユゥイの言うことを信じるなら、いっそこのまま事に及ぶ以外にどうしようもない気がした。
だが再び脳裏に浮かぶ、新聞の見出し……。
この期に及んで顔を出した一瞬の揺らぎが、再び黒鋼から形勢を奪う。
沈黙を肯定と受け取ったファイが、蔑んだような冷笑を浮かべた。
「……いいよ。したいなら好きにすれば?」
「……なに?」
「その代わり、気が済んだら二度とオレの前に現れないで」
ピキ……。
黒鋼の額に青筋が浮かぶ。
とことんこちらをバカにしているらしいファイは、さらにこちらを煽るようなことを口にしはじめる。
「はっきり言って、同じ空気を吸ってるだけでも虫唾が走る」
不快を現す決定的な言葉。
それを聞いた瞬間、黒鋼は目を閉じると鼻で笑った。
だがそんな反応とは裏腹に、頭の中に大きな爆発のイメージが浮かんだ。
同時に聞こえたのは、何か太い糸が凄まじい勢いで千切れるような『ブチン』という音だった。
「上等だ」
低い声が、さらに低く唸るような響きを発した。
ファイが僅かに肩を震わせながら息を飲む。
いいだろう。そちらがその気なら、ここから先に言葉はいらない。
たった一言の告白が一瞬でも胸に響いたのなら、今度はそれを全ての感覚と共に引きずり出してやる。
誰を愛しているのか、誰に愛されているのか。
「俺が思い出させてやるぜ……てめぇの身体にな……」
結局、この言葉を口にすることになってしまった。
*
張り付けていた薄い身体を壁から乱暴に引きはがすと、それを素早く引っくり返して壁に押し付ける。
「ぃ、た! ちょっと、ここでするの?」
「それっぽくて雰囲気出るだろ」
振り向こうとするのを許さず、後頭部を手のひらで押さえつける。
事に及んでいる最中に先刻のように急所を狙うくらい、今のファイなら簡単にやってのけそうだった。
そんな真似を簡単にさせるつもりはなかったが、万が一ということがある。
部屋から漏れる明かりしか頼るものがない玄関先で、この体勢では顔があまり見えないというのは少し残念だが。たっぷりと時間をかけるつもりなのだから、そう悔やむこともないだろう。
咄嗟に抵抗を見せる身体をさらに壁に強く押し付けるようにして、黒鋼は首元まである薄手のセーターの中に背後から手を入れる。
そうしながら、ファイの耳元に唇を押し付けた。そしてとびきり低い声で吐息交じりに囁いてやる。
「好きにされてぇんだろ? だったらおとなしくてしてろよ」
「ッ……!」
冷えていた薄い皮膚が一瞬にして熱を発するのが分かる。
横目できつく睨みつけられても、それさえも潤んだ目元では説得力がなかった。
何しろすでに全身から力が抜けはじめていることは、ファイの身体を支えている黒鋼が一番よく知っている。
そしてこんなふうに囁いてやるのに、この男が弱いことも。
中身がどう変わろうが、ファイはファイだということが痛いほど理解できて、複雑な思いの中に切なさと愛おしさが渦を巻く。
ねっとりと耳たぶを嬲るように舌を這わせながらセーターをたくし上げて、確かめるように肌に触れた。
美しい曲線を描く背筋がブルリと震えるけれど、握った拳の甲を口元に押し付けるファイは、声を殺すのに必死なようだった。
どうせ長くは持つまい。わざと音を立てながら執拗に耳を責める黒鋼は、密かに内心でほくそ笑む。
手を這わせれば薄い胸の下で心臓が大きく高鳴っているのが伝わる。
もはや拘束は必要なくて、ただ両肩で覆いかぶさりながら壁に押し付けるだけで十分だった。
ねっとりと脇腹を撫で上げ、もう片方の手は悪戯に胸の引っ掛かりを掠める。
「ッ……!」
存分に耳たぶを嬲ったあとは耳裏から首へ、髪を鼻先で掻きわけるようにしながら項に吸いつく。
状況と反し、決して性急に事は進めない。いっそ哀れなほど快感に敏感なこの身体にとって、焦らすような愛撫は拷問に等しいのだ。
いつだって、ほんの少し苛めてやるだけで、すぐに泣きだすのだから。
「っ、ふ、ぁ……ッ、ぅ……」
押し付けた拳の隙間から、堪え切れない吐息が零れる。腰が揺れ、膝が震えても、必死で踏ん張っているのは今のファイのプライドの高さを象徴しているようだった。
けれどなおも焦れったい触り方しかしない黒鋼に、ついに苛立ちを爆発させた。
「ちょっ、と……!」
「なんだ」
無理やり首をこちらに向けながら睨みつけてくるくせに、その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうになっている。
「遊んでないで、やるならとっとと済ませてよ……ッ」
ほら、やっぱり我慢などできない。
黒鋼は口元を微かに綻ばせる。
まだ『無理やりされている』というスタイルを守ろうとする物言いは可愛くないが、ひとまずはよしとする。
そうじゃなければ苛め甲斐がない。黒鋼はこの際だから、一連の生意気な暴言に対して意趣返ししてやる気満々だった。
「素直に肝心なとこに触れって言えねぇのか?」
「だれ、が……」
「ここだろ?」
「いっ……! った、ぃ……っ」
掠めるようにして触れるだけだった胸の、左側の乳首を親指と中指でぎゅっと摘みあげた。一瞬のことに身を竦めたファイがこれまでで一番大きな反応を見せる。
そのまま人差し指で先端をクリクリといじれば、ファイは腰を突きだすように背を反らし、黒鋼の肩に後頭部を預ける形で喉も反らした。
「痛ぇだけじゃねぇだろ?」
「く、ん……ッ、痛いだけ、だよ……! 変態! 下手くそ!」
「その下手くそ相手に、もうこんなにしてるのはどこの変態だ? あ?」
「ッ――!?」
黒鋼はファイの身体の中心に手を這わすと、スラックスの上からそれを強く擦った。
ファイの喉が「ひゅっ」という音を立てる。反らした喉で、くっきりと浮き上がる喉仏が引き攣っているのがはっきりと見えた。
それなりに厚さのある布越しにもわかるほど硬くなっている性器を、そのまま強弱をつけながら擦ってやる。
「ヒッ、や、やめ……! い、たい……から……!」
「その割にちっとも萎えねぇな。おら、しゃきっと立ってろ」
「う、るさ……ッ、あ、んっ、ぃ……!」
崩れ落ちそうな身体の足の間に、片膝を入れて支えてやる。
嫌々と首を振りながら、少々乱暴とも取れる間接的な刺激に、ファイは身体を痙攣させ始めた。
「イキたきゃイケよ」
「んな、わけ……ッ、な……! あっ! ほんとに、もう、や……――ッ!!」
どこまで耐えられるのかと思っていたら、終わりは呆気なかった。
ずっと忙しなく痙攣し続けていた身体が、大きく強張った。そのまま声もなく上半身を反らしながら、く、く、と小さなひきつけを起こしている。
「マジでイったのかよ」
「ぁ……ぅ……」
やがてゆっくりと弛緩していく身体に割り込ませていた膝を退けると、ファイの身体が力なく床へ崩れ落ちた。
両肩を抱きながら黒鋼も一緒に膝をつく。
そして力なく胸に背中を預けて寄こしながら、必死で呼吸を繰り返しているファイの顔を覗きこんだ。
蕩けたようにぼんやりとしている半開きの瞳は、焦点が定まっていない。けれどすぐにぎゅっときつく閉じられた。
「最低……」
「堪え性がねぇのはいつものこったろ」
腰が抜けているくせに、それでも身を離そうとするのをしっかりと抱きしめながら、こめかみに口づけを落とす。
泣いているくせに気丈に眉を吊り上げるファイだったが、身体を捻って黒鋼の胸を押しながらも小首を傾げた。
「……いつものことって、なにさ」
その反応に、つい溜息が零れた。
こうなってしまったものを今さら言っても仕方のないことだとは思うが……やっぱり忘れられてしまうというのは、寂しいものがある。
「優しくしてやんなきゃ思いだせねぇか?」
いつもは見られない反応に少しばかり遊んでしまったが、そろそろ本気で取りかかってみるかと、腕の中の身体を抱く力を強める。
頬に頬を擦りつけるようにすると、ファイが無意識に全身の力を抜いた。そして完全にこちらに全てを委ねる体勢でホッ、といううっとりとした吐息を漏らす。それは黒鋼がよく知るファイの動作だった。
だが彼は次の瞬間にはハッとして、身を強張らせた。
「ッ! は、離してよ……」
「今ちょっといい感じだったろ、おまえ」
「うるさいな……そんなはずないだろ……!」
だいぶ語尾が弱っているファイは、黒鋼の腕の中から抜け出すと、四つん這いで逃れようとする。
「どこ行く気だ」
「お、ふ、ろ! 誰かさんが好き勝手してくれたせいで、今すっごく気持ち悪いことになってるの! 察してよそのくらい!」
ああ……そうか……。
はいはいのポーズで振り返り、ギリリと睨んでくる涙目のファイを見て、黒鋼もすぐに彼の下半身がどんな状況かを理解した。
下着もスラックスも着用したまま射精させたのだから、おそらく中はどえらいことになっている。
黒鋼は手を伸ばすと、ファイの腰のベルト部分にむんずと手を伸ばした。
「う、わっ!?」
そのまま床が滑るのを利用してズルリと引き寄せる。ファイが手足をバタつかせるのも気にせず、もう片方の手を回し、慣れた動作で前の拘束をすべて解いてしまうと下着ごと一気に引きずり下ろす。
「な!?」
一連の動作は目にも止まらぬ素早さで、ファイは無防備な臀部をまるっと黒鋼に向けている状況にも反応できないまま、口をぽっかりと開けて硬直した。
が、すぐにひとまず萎えている股間を撫でられて、ビクリと大きく跳ねた。
「ひ、ゃ……!」
「見事にぐちゃぐちゃになってんな」
「誰のせいだッ!!」
ギャンギャンと捲し立てるファイを無視して、がっちりと腰を掴むと尻の割れ目に手を這わせる。
「っ――!?」
窮屈な場所で放たれた精液が流れ込み、そこもしっかりと濡れていた。
薄明かりに浮かぶ淫靡な有様に、鼻を鳴らすと舌舐めずりをする。
「まだ終わってねぇんだ。風呂ならあとで入れてやる」
低く言い放つと、黒鋼はその場所に顔を寄せた。
*
ファイの肌が粟立つのが分かる。
手足をバタつかせるも、いまだに力の入らない腰を掴まれているせいで、抵抗にもならない。
「い、やだ……! そんなとこ、ぁ、ヒッ……!?」
濡れた音を立てて窄まりに舌を押し付けた。心地よい弾力が一瞬の抵抗を見せながらも侵入を許す。
「あっ、や、やめて! 嘘……ッ」
ファイはついに腕を突っぱねる力も殺がれたのか、床に突っ伏した。腰だけが高く突きだされる。
舌先を尖らせ、ちくちくと穿るように入り口を解した。頼りない細腰が物欲しそうに揺れだすのに時間はかからなくて、必死で羞恥を堪えていることが分かるだけに、わざと大袈裟に水音を立てて聞かせた。
「うっ、んん……ッ、く……っ」
噛み殺される悲鳴が、むしろ黒鋼を興奮させる。
慣れているのはあくまでも身体だけ。暴力にあえて屈するつもりで黒鋼を煽ったファイは、自分の身体が男を受け入れるのに抵抗がないことを知らない。
舌を引き抜き、顔を上げてもすぐに指先をさし込んだ。ぐるりと円を描くように入り口を刺激すると、ビクビクと腰が大きく淫らな動きを見せる。
「そろそろ欲しいんだろ?」
「はっ、ぅ、く……ッ、なに、が……」
「これで満足か?」
「ぁあ……ッ」
入口ばかりを刺激していた指を深く突き入れる。ファイの腰が大きく跳ねて、きつく指を締めつける媚肉がさらに奥へと誘うように蠢いていた。
金色の髪が激しく左右に踊る。身体はすでに堕ちているというのに、理解だけが追いつかないというのは、果たしてどんな感覚なのだろう。
一度だけ突き入れたそれをすぐに引き抜いて、指を二本にすると第一関節まで潜り込ませた。それをじわりと押し開けば、赤く熟れたような穴がその動きに合わせて左右に歪む。
「それともここで止めるか?」
「!?」
中途半端に潜り込ませた指を引き抜く。はっとしたようにファイは振り返った。
その表情は明らかに不満そうで、ぎゅっと唇が噛みしめられた。
押すばかりだった黒鋼がいとも容易く引いてしまったことに、激しい戸惑いを見せていることがわかる。
押さえつけていた腰さえも自由にしてやると、ファイは腰を床にへにゃりと落とす代わりに、ゆるゆると上半身を起こした。
さあ、どう出る?
俯いて床を睨みつけているその横顔を、じっと見つめる。
ファイは一度だけきつく目を閉じると、すぐに顔を上げてこちらを睨みつけた。
「……ずるい」
「なにが?」
「はやく、してよ」
思わず綻びそうになる口元をぐっと堪えた。そして少しだけ小首を傾げて見せる。
「それじゃあ合意の上ってことになっちまうぜ?」
「っ……」
再び悔しそうに唇を噛みしめるファイは、床の上で拳を握った。
それから一度大きく息を飲むと、ついに折れた。
「もう……いい、から……」
プライドが完全にへし折れる瞬間。閉じられた瞳から大粒の涙が零れて頬を伝った。
「こんなのやだ……あそこが、身体が熱くて……切ないよ……」
それから吐息のようなささやかな声で、ファイは言った。欲しい、と。
黒鋼は両腕を伸ばす。少し強引に引き寄せて、腕の中にその身体を納めた。
ファイはもはや一切の抵抗を示さない。ただ黒鋼の胸に力なくもたれた。
沸き立つ感情は勝利を勝ち得たときのそれで、これでは元のファイを取り戻したくてしていたのか、それとも難攻不落の城を落とすことに躍起になっていたのか、もはや目的を失っているように思えた。
だがどちらにせよ、ファイは欲したのだから。
中身がどんなになっていようが、それを拒む理由などなかった。
「乗れ、上に」
「ん……」
低く命じると、ファイはおぼつかない腕に力を込めて、黒鋼の肩に手をついた。そしてそのまま力の入りきらない足腰を動かして、胡坐をかいた黒鋼を跨ぐ。
その間に猛りきった自身を取り出す。もしまかり間違ってファイがあのまま拒んでいれば、相当惨めな思いをするところだったと考えると、少し笑えた。
「ぁ……」
濡れた音と共に、膝立ちになっているファイの双丘の中心に性器を宛がう。
しっかりと両手で腰を掴んで固定すると、力を込めて腰を下ろせと無言で命じた。
「あ、あ、ぁ……うそ……はいっ、て……」
目を大きく見開いて、ファイは首を左右に振った。二人の身体の間で主張している紅色の性器が、揺れながら白い蜜を零していた。
熱く濡れた肉に飲み込まれていく感覚に、黒鋼は歯を食いしばる。情けない話だが、気を抜けばすぐにでも達してしまいそうだった。
「ッ、そのまま……そうだ……しっかり腰落とせ」
「んくっ、ぅ、や……で、も……だって……」
「突き破りゃしねぇよ。奥に届くだけだ」
ファイの身体の震えは快感によるものだけではなかった。すでに半分以上を飲み込んでいるが、そこから先に進まない。
この身体は最奥まで受け入れることを知ってはいるが、元々記憶が欠けていない状態であっても、ファイはいつも本能的な怯えを見せていた。
今の彼が容易く受け入れられる状態ではないことは知っている。だが黒鋼は容赦しない。初めて抱く身体ではないし、初めての相手を抱くわけでもない。
この身体はファイのものであると同時に、黒鋼のものだ。全て熟知している。
ぐっと力を込めて、引いた。ただでさえ腑抜けているファイの膝が、カクンと落ちる。
「―――ッ!?」
一気に全てが中に収まった。中の圧迫がより増して、黒鋼は歯を食いしばる。
ファイの内腿が痙攣し、見開かれた瞳からは生理的な涙がとめどなく溢れていた。
けれど、やがてその瞳はどろりと濁っていく。開かれたままの唇が、はくはくと頼りない呼吸を繰り返す。
「おら、飛んでんじゃねぇよ。こっからだ」
暫しの間を置いて、馴染んできた頃合いを見計らうと、黒鋼は腰を緩く揺さぶった。
必死に黒鋼の首に腕を回すファイは、バネのように背を反らすと堪え切れずに嬌声を上げる。
「あぁぁ……ッ!」
探るような動きから、揺さぶる早さを徐々に早いものにしていく。
結合部から響く淫らな水音と、ファイの高い声が重なる。
黒鋼の動きに合わせるようにその腰が蠢き、意識と裏腹の痴態に制御を失っているファイは、喘ぎながらも混乱していた。
「ヒィ、あ、あ……! なん、で、なんで……ッ、こんなに……!」
「ッ、いいんだろ?」
「ちが、違う……ッ! 違う、いいっ、すごい……ッ、これ、やだぁっ!」
「つまりどっちだよ」
答えは明白だが、悦いのか悪いのか、そのどちらも口走りながら正体を無くしていく様はなかなか見応えのあるもので、絶頂間近の黒鋼には同時に厳しいものがある。
だが時折ひたりと腹に当たるファイの性器も、限界まで膨らみ切っていた。
そろそろ頃合いだ。一層強く揺さぶりをかけて、彼の中の一番感じる場所を掠めるように攻め立てた。
強すぎる快楽はファイから嬌声さえも奪う。ひ、ひ、と呻く喉元に鼻先を埋める。
やがて溺れるように黒鋼の肩を掻き抱いて、一足先にファイが達した。
勢いよく噴き上がる精液が、二人の肌を濡らす。
「くッ……!!」
ファイの肩口に強く額を押しつけながら、黒鋼もまた低く呻いた。身体が大きく戦慄いて、引き抜く余裕もなく中に放つ。
痙攣の収まらない身体を強く抱きしめながら、絶頂の余波に全身が痺れていた。
しばらく忙しない呼吸を繰り返しながら余韻を楽しむと、やがて大きく息を吐きだして、ぐったりと項垂れるファイを見上げた。
蕩けたようになっている瞳と目が合うと、どちらかともなく唇を合わせる。
だがまだ完全に呼吸の整わないファイは、すぐに顔を逸らしてしまった。
「……思い出さねぇか?」
「……だから、なにを……?」
彼にしては低い声で、気だるげな目が向けられた。
「……そうか」
やはり上手くはいかないのか。
相手の体力面も含めて、この先を続けることに意味があるのかないのか。
顔を出しかける落胆の感情を押し込めて、ひとまず引く方向で黒鋼は身じろいだ。
ファイの身体がビクリと震え、そしてぎゅうぎゅうと強い力で首にしがみついてくる。
「おい」
「ま、って……まだ、動くのダメ……」
「なんだよ」
ファイの顔が見たくても、がっちりと頭を押さえこまれているせいで、首が動かせない。
耳元に押しつけられるファイの唇から洩れる小さな吐息が、静まりかけていた興奮を呼び覚ます。
なんだかんだで明日のことも考えれば、これ以上好き勝手やることは躊躇われる。
けれどそんな気遣いなど知りもしないで、ファイは言った。
「もう……しないの……?」
どこか不貞腐れているような物言い。
欲しいくせに欲しいと言えない意地っ張りなファイ。歯痒いような、ムズムズとしたものを覚える。
こんな気持ちは初めてで、いつもなら聞いてやらない我儘も、叶えてやりたくなる。
だが本当はいつだって、もっと上手に甘やかせたらと、そう思っていた。
「欲しいなら、くれてやる」
「……うん」
蚊の鳴くような返事。
「俺も……まだ足りねぇ。おまえが……足りねぇんだよ」
そして小さな声で囁いた。もう二度と戻らないかもしれない、出会ってからこれまでの時を共に過ごした恋人に。
愛してる、と。
「……っ」
言葉を失いながら、全身を真っ赤に染めたファイがきつくこちらの頭を抱え込んでくるのは、きっと顔を見られたくないからなのだろう。
その気持ちは、よくわかる。
「変なの」
「ん」
「涙、止まらない」
ひとつ、子供っぽく鼻をすする音が聞こえて、黒鋼は少しだけ笑った。
*
「いやー、でも黒鋼先生がお縄にならなくて本当によかったですよね」
昼休み。
天気がいいという理由で黒鋼とユゥイは校庭脇のベンチに腰掛けて、弁当をつついていた。
切り込まれて、タコのようになっている赤いウインナーを箸で摘みながら、黒鋼は横目で首を傾げているユゥイを睨んだ。
「そろそろてめぇ相手にもゲンコツ解禁してもいいか」
「あはは、ご冗談を」
「しかも例の作戦じゃ、結局どうにもならなかったしよ」
「不思議なんですよねー。テンプレートにはまらない辺り、ファイは斜め上を行くからなぁ……」
いやぁ失敬失敬、と片手を立てて「ごめん」のポーズをとりつつ、どこぞの洋菓子店の看板キャラクターよろしく、ペロンと舌を出してウィンクまでかますユゥイにイラッとする。
結果、この男が言ったように通報されて、新聞の見出しやワイドショーを騒がすという最悪な事態にはならなかった。
そして普段は見られないファイのツンっぷりを堪能できたのもいい。さらに寝技で落とすという美味しいプレイもできた。なかなかいい趣向だった……と、そこまで考えて黒鋼は自分に失望した。
(確実にアホ双子に毒されてきてやがる……)
「まぁ、ボクとしてはもうちょっとファイに冷たくされて、子犬みたいに縮こまってる黒鋼先生が見たかったんですけどね」
「やっぱり殴る。ゲンコツとは言わねぇ。平手でいい」
「今日の黒鋼先生はジョークが冴えわたってるなぁ。あ、ほら来ましたよ」
「あ?」
ユゥイの指さす方を見ると、肩を怒らせて明らかにご機嫌斜めの様子のファイが、ツカツカとこちらに向かってくるのが見えた。
「おう」
軽く手を上げると、猫のように毛を逆立たせたファイがきつく睨みつけてくる。
「おう、じゃないでしょー!? 待っててって言ったのに、先に行っちゃうとか! しかも先にユゥイのお弁当食べてるとか! タコさんウインナーとオレ、どっちが大事なの!?」
ギャンギャンと喚き散らして、ファイは黒鋼とユゥイの間に無理やり身体を押し込めた。
長身の男が3人も並ぶと、ベンチはきつきつである。いや、きつきつを通り越して、黒鋼は右半身が空気椅子状態である。
「うるせぇな……てめぇがグズグズしてっからだろうが」
「だいたいさー、黒たん先生とユゥイ、なんだか急に仲良しじゃない!? 怪しい……絶対に怪しい……」
確かにファイを除いて二人だけでいる、という構図は比較的珍しい。けれど勘ぐられるようなことは何一つない。
だがこの妄想魔人は限度というものを知らない。
「黒たん先生は見た目がオレならなんでもいいんだ……! この節操無し! 浮気者! ゴッドハンド!!」
最後の一文が一体なにを指すのか、黒鋼はあえて突っ込まない。
だが天を仰ぐようにしながら泣き真似をしているファイのウザったさに、額の辺りで何か切れてはいけない大事な血管が切れた。
「うるっせぇんだよてめぇは! 飯ぐれぇ静かに食わせろ!!」
「うわあぁあん! ここはそっとオレの肩を抱き寄せて、バカ野郎……俺がゾッコンLOVEなのはこの地上でただ一人……てめぇ……(ため)……だけだ……★ とか言う場面なのにーっ」
「その妄想の中の俺を殺せぇ!!」
「まぁまぁ……二人とも落ち着いて」
ドスッという音と共に、ファイと黒鋼の口の中にタコさんが押しこまれる。
口をもぐもぐさせるしかなくなった二人は、バチバチと火花を散らしながら無言で睨みあう。
「せっかくファイが元に戻ったんですから、ケンカはやめましょう」
「チッ……」
先に飲み込んだ黒鋼は、派手に舌打ちをした。
そう、ファイはあの翌朝、あっさり元に戻ったのだ。
宿舎の玄関を出てすぐの、階段でのことだった。
せめて学園につくまではと支えようとした黒鋼の手をつれない態度で振り払って、ガクガクの腰で見事にすっ転んだ。
一瞬だけ気を失ったファイは、もしや死んだのでは……と青褪めた黒鋼の腕の中で、すぐに目を覚ました。
第一声は「あ、黒たんせんせー。おはよー」だった。
こんなことなら、いっそのことフライパンやトンカチで一発ぶん殴ればよかった。
あの夜、黒鋼は一生分の愛の告白をしたような気がする。
もう二度と言うものか……と間違った決意をする黒鋼の横で、ようやくウインナーを飲み込んだファイがぷぅ、と口を尖らせた。
「あーあー。オレ何があったのかぜんぜん覚えてないよー。つまんない」
「面白かったよ。特に黒鋼先生が……ぷっ」
よし殴ろう……とそっと拳を握りしめたが、そこでユゥイがひらりと立ちあがってしまった。
「次の授業の準備がまだ残ってるから、ボクは先に行くよ」
「えー行っちゃうのー?」
「うん、じゃあね。黒鋼先生も」
爽やかな笑顔を残して颯爽と去っていく後ろ姿を見ながら、確実に逃げる口実だろうと黒鋼は思った。
そして取り残された二人は暫しの間、会話もなく黙々と弁当を食べた。
いつもならなんやかんやと喋り続けているファイが、珍しく口を噤んでいる。
これはこれで、妙な居心地の悪さがあった。
やがてあらかた食べ終わると、弁当に蓋をしながらようやくファイが口を開く。
「ねぇ、せんせ」
「おう……」
「オレ、どんなだった? やっぱ……変だった……?」
「そうだな……」
とは言ってもお互い様である。
恐縮そうにしているファイは、おそらく記憶がない間になにか迷惑をかけたのではないかと気にしているのだろう。
だが、迷惑の度合いで言えば普段の方がずっと被害が大きい。
「まぁ……いいんじゃねぇのか? デカイ怪我したわけじゃねぇんだし」
黒鋼的には心にダメージは受けたが……。
「そっかぁ」
そう言って、ファイはへにゃりと笑った。
冷たい微笑はゾクゾクするほど美しかったが、やはりこのどこか間の抜けた笑顔の方がいいと、黒鋼は思った。
たまに殴りたくなるし、今の黒鋼には声に出して言うのはとても難しいけれど。
ファイのこの笑顔には、普段は無愛想な黒鋼の頬をふと緩めてしまう魔力があった。
思わず伸びた手が、少し癖のある金の髪をそっと撫でる。
一瞬だけ驚いて目を丸くしたファイは、すぐに頬を赤らめながら猫のように目を細めた。
「やっぱ黒たん先生は、ときどき優しいくらいがカッコイイや」
えへへ、と珍しく照れたように笑いながら言うファイに、黒鋼もまた思う。
そう、この男は、ときどきこうしてしおらしくなるくらいが可愛い、なんて。
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