2025/07/27 Sun 黒鋼はその日、ほんの少しだけ気分がよかった。 実際、図々しい理事長に文句の一つも言わずにせっせと茶を淹れてやるくらいには、相当ご機嫌だった。 そんな黒鋼を見て「逆に気持ちが悪いわねぇ」とニンマリする理事長に多少は苛立ちはしたが、それだけだ。 思えば今日は一日全くと言っていいほど怒鳴り声も上げていないし、額に青筋も立てていない。 とにかく穏やかで平和な日だった。 おかげで宿舎に戻る黒鋼の足取りは軽く、うっかり鼻歌まで飛び出すほど。 なぜ彼がこれほど上機嫌かというと、今日は朝から化学教師が不在なのだ。泊りがけの、いわゆる出張というやつである。 ある意味、生徒よりも面倒で手のかかる人間がいないというだけで、こんなにも一日の疲れが半減するとは。 黒鋼にとって本日は『アホのいぬ間に命の洗濯』と言っても過言ではない。 とりあえず早いところ帰宅してシャワーでも浴びて、軽く一杯引っかけようと、黒鋼はご機嫌で宿舎へ辿りついた。 だがそのとき、ちょうど入り口の明かりに照らされて、白く小さなものが丸まっているのを視界の隅に捉えると咄嗟に足を止めた。 「?」 はじめはビニール袋か何かと思ったが、よく目を凝らして見るとそれはまだ小さな、痩せた白猫だった。 なんとなく気にかかり、思わずそちらに足を向ける。 「おい、そんなとこで寝てると風邪ひくぞ」 すっかり丸まっている白猫は、黒鋼がすぐ側までやって来てしゃがみ込んでもピクリとも動かない。 まさか死んでいるのかと眉を寄せ、そっと指先で背中に触れるとほんのりと温かい。 黒鋼はふと顔を上げて、夜の闇に静まり返っている辺りを見回した。人気はなく、他に野良猫の姿も見当たらない。 母猫とはぐれたのか、それとも捨てられたのか。 いずれにしろ、これほど人間が近づいてもビクリともしない子猫に全く元気がないことだけは分かる。 季節は春とはいえ、夜から朝方にかけてはかなり冷え込む。このまま放置していいものか。 「……しょうがねぇな」 黒鋼は蹲る子猫を抱き上げると、上着の胸元にすっぽりと入れるようにして抱き、自室へと向かった。 * 白い子猫は、ただ単に腹を空かせていただけだった。 果たして人間の食い物を無闇に与えていいものか迷ったが、それでもその場しのぎで致し方ないと判断し、キッチンの棚にあった魚の缶詰をやった。 すると現金なもので、差し出してやった瞬間カッと目を見開いた子猫は物凄い勢いで缶の中身の半分を一気に平らげた。 そして現在、子猫は黒鋼の肩の上で爪を立てている。 「いてっ、こら、いてぇよ……爪研ぐんじゃねぇ!」 「ミキャーッ」 軽く手で払うと、子猫は甲高い声を上げ、ピョンと大袈裟に飛び上がって床に綺麗に着地した。そして、勢いよくベッドの下に入り込むとガサガサと駆け回りはじめた。 さっきからずっとこの調子だ。飛んだり跳ねたり走ったり転がったりしながら、幾ら払いのけてもめげずにジャレついてくる。 どっかりと床に胡坐をかいていた黒鋼は、溜息を零しながら小さく首を左右に振った。 「これじゃどっかのアホ教師と変わんねぇぞ……」 今夜は騒がしいのがいないので、ゆっくりと一人の時間を過ごす予定だった。だがこのぶんだと、その計画は粉々に砕け散ってしまったらしい。 「キャウーッ」 「いってぇ……!」 子猫はベッドの下を駆け回っていたかと思ったら、そのままの勢いで黒鋼の背中を駆け上ってきた。 小さく鋭い爪が衣服を貫通して皮膚にチクチクと突き刺さる。激痛というほどではなかったが、それでも地味に痛い。 おそらく黒鋼の肩や背中には、赤く小さな引っかき傷が無数に出来上がっていることだろう。 「この野郎……いい加減にしろよ?」 肩に乗り、黒いツンツン頭にぺしぺしとジャレついていた子猫の首根っこをぎゅっと掴む。そして引っぺがすようにして持ち上げ、面と向かって睨み付けた。 「ピャーッ」 「だいたい猫ってのはニャーって鳴くんじゃねぇのかよ」 小さく文句を垂れながら、黒鋼は子猫の股を覗き込んだ。そして鼻を鳴らす。 「メスのくせしてヤンチャだなおい」 最初こそ若干暴れはしたが、首根っこを摘まれたことで本能的に尻尾と両足をくるりと丸め、大人しく目を細めた白猫に黒鋼の口元が僅かに緩んだ。 「青いな。おまえの目」 白くて痩せっぽちで煩くて、そんな子猫は嫌でもアホの化学教師を連想させた。 いつまでも吊るし上げているのを不憫に思い、そっと足の間に下ろすと、子猫はそのままちょこんと腰を落ち着け、青く大きな丸い目で黒鋼をじっと見上げてくる。 指先で喉元を撫でれば、微かにコロコロという音が聞こえてきた。 そのままどんどん力が抜けてゆく子猫を指先でいじりながら、黒鋼はまた一つ溜息を零した。 一度手を差し伸べた以上、中途半端に投げ出すつもりはない。 母猫が見つかればそれに越したことは無いが、いざとなればあの何でも有りの昼間の校内放送でも使って呼びかけるというのも、一つの手だと思った。誰かしらは反応してくれるかもしれない。 しばらく思案していた黒鋼だったが、いつしかあのコロコロという音が止んでいることに気づいて下を見た。 くにゃん、と力なく腹を見せて胡坐の足の間に納まり眠っている子猫を見て、そのあまりの警戒心のなさに思わず小さく吹き出す。 腹が満ちたところで散々じゃれて甘えて、ようやく満足したらしい。どこか間抜けな寝顔まで、やっぱり似てる。 「ずっと寝てりゃあ平和なのにな。おまえも、あれも」 なんだか胸の奥がくすぐったい。 小さな頭をそっと撫でながら、黒鋼は今ここにはいない恋人のことを想った。 落ち着きはないし、子供より手がかかるし、どうしようもなく甘ったれな男ではあるけれど、こうして静まり返った室内にポツリといてみれば、悔しいが少し物足りない。 あのアホはちゃんと飯は食ったのか、風呂のあと髪は乾かしたのか、人様に迷惑はかけていないか、あと、ほんの少しだけ……変な奴にちょっかいかけられたりはしていないかが気になった。 そしてそんなことを気にかけ始めてしまった自分に無性に腹が立つ。 実際子供ではないのだし、アホではあるが、馬鹿ではないことを知っている。 「……ったく……面白くねぇな」 ふいに零れた呟きは、果たして自身に向けられたものだったのか、それとも煩い男がいない今の状況に対してのものだったのか。自分でもよく分からない。 こんな夜は、小さな湯たんぽ代わりでも抱いてとっとと眠ってしまうに限るだろう。 結局のところ、黒鋼はファイが愛しくて、恋しくて、そして可愛くて仕方がないのだった。 * 「あれぇー?」 翌日、出張先から朝一で戻ったファイは宿舎の入り口付近でウロウロと歩き回る白い猫を発見して足を止めた。 「にゃーん? にゃんこー? どうしたのー?」 脇に荷物を置き、僅かに屈んで首を傾げたファイに気づいたその猫は、ガラス球のような瞳でこちらを見上げると「ニャーゴ」と太めの声で鳴いた。 ほんの少し薄汚れた白猫は、一定の距離以上は近づいてこない。 そのまま、再びウロウロと同じ場所を行ったり来たりし始めた猫に、ファイはきょとんとさらに首を傾げた。 「探し物ー?」 が、どうやら相手はこれ以上こちらに構う気はないらしい。残念だが仕方が無い。 ファイは再び荷物を手にすると宿舎へ戻ることにした。 「黒たーんただいまー! いい子で待ってたー? 帰ってきたよー」 宿舎に戻ったからといって、ファイが真っ直ぐ自室へ向かうかと思えば大間違いである。 真っ先に向かう先は隣の黒鋼の部屋で、合鍵も持っているため勝手にズカズカと上がりこんだ。 「まだ寝てるー? あのねー、さっき下でにゃんこが……ん?」 「……んだよ……うるせぇな……」 騒がしくやって来たファイに不機嫌そうな低い声をあげ、ベッドの上で黒鋼がのっそりと身体を起こす。 だがファイはその腕の中にちょこんと納まる白い物体に釘付けになった。 「あ?」 頭をボリボリと掻いている黒鋼に、同じく目を覚ました小さな白猫も立ち上がった。大きく口を開けて欠伸をしながら、小さな四肢で背伸びをしている。 荷物を投げ出したファイは、ズザザァッとベッド脇にスライディングするかの勢いで膝をつくと、目を輝かせた。 「なにこの子!? どうしたの!? 拾ったの!? キャー可愛い! 触ってもいい!? てゆーかー、黒様先生ってばオレがいない間にこんな可愛い子と浮気なんて酷いなー! 黒たん先生に腕枕してもらってもいいのはオレだけなんだよー! でも可愛いから許しちゃうー!!」 くにゃんと小首を傾げる子猫に思わず興奮して一気にまくし立てたファイは、身悶えながら両手を伸ばし、子猫を抱き上げた。 「あったか~いふわふわ~幸せ~うふふふふ」 恍惚とした表情で頬擦りをすると、子猫が「ピャー」と妙な声で鳴いた。 頬をピンク色に染めながら鼻の下を伸ばしていたファイだったが、そこでふと先ほど遭遇した白い猫のことを思い出した。 何かをしきりに探し回っているような素振りだったが、もしかすればこの子猫を探していた母猫だったのかもしれない。 「もしかしてこの子ってさっきの……って、あれ? 黒様? 黒たん? どしたの?」 朝っぱらから勝手に部屋へ押しかけた挙句、忙しなく喋り続けていたファイに、いつもであればそろそろくっきりとした青筋を立てながら怒鳴り散らしてもおかしくない黒鋼が、どこかぼんやりとこちらを見下ろしている。 「ねぇってばー。なんか変だよー? 寝ぼけてる?」 どことなく目が据わっているようにも見える黒鋼に不安を覚えたファイは、子猫を抱いたままきゅっと眉を寄せた。 だが次の瞬間、黒鋼の両手がにゅっと伸びてきた。 「!?」 がしっと片方の頬を包み込まれ、そしてもう片方の手でグリグリと乱暴に頭を掻き乱される。 「え、ちょ、な、なに~!?」 首がガクガクするほど強く撫で回されて、ファイは驚きと戸惑い以上に激しく混乱した。目が回って仕方が無い。 黒鋼は相変わらず無表情で、いつしか頬やら頭やら髪やら、とにかく滅茶苦茶にされてしまった。 ようやく解放された頃にはファイはすっかりヘトヘトで、そして髪は見るも無残に乱されていた。 「な、何なのぉ……?」 黒鋼の方から率先してファイに触れてくることは滅多にない。どちらかと言えば、いつもベッタリとくっついているのは自分の方だったから、ファイはその黒鋼らしからぬ行動にただ茫然と瞬きを繰り返した。 「く、くろさまぁ……?」 「……うるせぇ」 やがて不機嫌そうに顔を顰めた黒鋼は、握った拳でファイの額をさらに軽く小突くとベッドから抜け出し、洗面所の方へと姿を消した。 「……どうしちゃったんだろ黒様先生……何か悪いものでも食べたのかな……?」 いまだに状況が理解できていないファイが茫然と呟けば、腕の中の子猫が「ミャー」と、ようやく猫らしい声で鳴いた。 それからすぐに、子猫は母猫の元へ帰って行った。 二匹が去ってゆく姿を見送りつつ、ちらりと見やった黒鋼の表情は満足気なものだった。結局あの奇行の意味は分からずじまいだったけれど。 まぁいいかと、ファイは笑顔でその腕に両腕を回し、思い切りぎゅっと抱き付いた。 ←戻る ・ Wavebox👏
実際、図々しい理事長に文句の一つも言わずにせっせと茶を淹れてやるくらいには、相当ご機嫌だった。
そんな黒鋼を見て「逆に気持ちが悪いわねぇ」とニンマリする理事長に多少は苛立ちはしたが、それだけだ。
思えば今日は一日全くと言っていいほど怒鳴り声も上げていないし、額に青筋も立てていない。
とにかく穏やかで平和な日だった。
おかげで宿舎に戻る黒鋼の足取りは軽く、うっかり鼻歌まで飛び出すほど。
なぜ彼がこれほど上機嫌かというと、今日は朝から化学教師が不在なのだ。泊りがけの、いわゆる出張というやつである。
ある意味、生徒よりも面倒で手のかかる人間がいないというだけで、こんなにも一日の疲れが半減するとは。
黒鋼にとって本日は『アホのいぬ間に命の洗濯』と言っても過言ではない。
とりあえず早いところ帰宅してシャワーでも浴びて、軽く一杯引っかけようと、黒鋼はご機嫌で宿舎へ辿りついた。
だがそのとき、ちょうど入り口の明かりに照らされて、白く小さなものが丸まっているのを視界の隅に捉えると咄嗟に足を止めた。
「?」
はじめはビニール袋か何かと思ったが、よく目を凝らして見るとそれはまだ小さな、痩せた白猫だった。
なんとなく気にかかり、思わずそちらに足を向ける。
「おい、そんなとこで寝てると風邪ひくぞ」
すっかり丸まっている白猫は、黒鋼がすぐ側までやって来てしゃがみ込んでもピクリとも動かない。
まさか死んでいるのかと眉を寄せ、そっと指先で背中に触れるとほんのりと温かい。
黒鋼はふと顔を上げて、夜の闇に静まり返っている辺りを見回した。人気はなく、他に野良猫の姿も見当たらない。
母猫とはぐれたのか、それとも捨てられたのか。
いずれにしろ、これほど人間が近づいてもビクリともしない子猫に全く元気がないことだけは分かる。
季節は春とはいえ、夜から朝方にかけてはかなり冷え込む。このまま放置していいものか。
「……しょうがねぇな」
黒鋼は蹲る子猫を抱き上げると、上着の胸元にすっぽりと入れるようにして抱き、自室へと向かった。
*
白い子猫は、ただ単に腹を空かせていただけだった。
果たして人間の食い物を無闇に与えていいものか迷ったが、それでもその場しのぎで致し方ないと判断し、キッチンの棚にあった魚の缶詰をやった。
すると現金なもので、差し出してやった瞬間カッと目を見開いた子猫は物凄い勢いで缶の中身の半分を一気に平らげた。
そして現在、子猫は黒鋼の肩の上で爪を立てている。
「いてっ、こら、いてぇよ……爪研ぐんじゃねぇ!」
「ミキャーッ」
軽く手で払うと、子猫は甲高い声を上げ、ピョンと大袈裟に飛び上がって床に綺麗に着地した。そして、勢いよくベッドの下に入り込むとガサガサと駆け回りはじめた。
さっきからずっとこの調子だ。飛んだり跳ねたり走ったり転がったりしながら、幾ら払いのけてもめげずにジャレついてくる。
どっかりと床に胡坐をかいていた黒鋼は、溜息を零しながら小さく首を左右に振った。
「これじゃどっかのアホ教師と変わんねぇぞ……」
今夜は騒がしいのがいないので、ゆっくりと一人の時間を過ごす予定だった。だがこのぶんだと、その計画は粉々に砕け散ってしまったらしい。
「キャウーッ」
「いってぇ……!」
子猫はベッドの下を駆け回っていたかと思ったら、そのままの勢いで黒鋼の背中を駆け上ってきた。
小さく鋭い爪が衣服を貫通して皮膚にチクチクと突き刺さる。激痛というほどではなかったが、それでも地味に痛い。
おそらく黒鋼の肩や背中には、赤く小さな引っかき傷が無数に出来上がっていることだろう。
「この野郎……いい加減にしろよ?」
肩に乗り、黒いツンツン頭にぺしぺしとジャレついていた子猫の首根っこをぎゅっと掴む。そして引っぺがすようにして持ち上げ、面と向かって睨み付けた。
「ピャーッ」
「だいたい猫ってのはニャーって鳴くんじゃねぇのかよ」
小さく文句を垂れながら、黒鋼は子猫の股を覗き込んだ。そして鼻を鳴らす。
「メスのくせしてヤンチャだなおい」
最初こそ若干暴れはしたが、首根っこを摘まれたことで本能的に尻尾と両足をくるりと丸め、大人しく目を細めた白猫に黒鋼の口元が僅かに緩んだ。
「青いな。おまえの目」
白くて痩せっぽちで煩くて、そんな子猫は嫌でもアホの化学教師を連想させた。
いつまでも吊るし上げているのを不憫に思い、そっと足の間に下ろすと、子猫はそのままちょこんと腰を落ち着け、青く大きな丸い目で黒鋼をじっと見上げてくる。
指先で喉元を撫でれば、微かにコロコロという音が聞こえてきた。
そのままどんどん力が抜けてゆく子猫を指先でいじりながら、黒鋼はまた一つ溜息を零した。
一度手を差し伸べた以上、中途半端に投げ出すつもりはない。
母猫が見つかればそれに越したことは無いが、いざとなればあの何でも有りの昼間の校内放送でも使って呼びかけるというのも、一つの手だと思った。誰かしらは反応してくれるかもしれない。
しばらく思案していた黒鋼だったが、いつしかあのコロコロという音が止んでいることに気づいて下を見た。
くにゃん、と力なく腹を見せて胡坐の足の間に納まり眠っている子猫を見て、そのあまりの警戒心のなさに思わず小さく吹き出す。
腹が満ちたところで散々じゃれて甘えて、ようやく満足したらしい。どこか間抜けな寝顔まで、やっぱり似てる。
「ずっと寝てりゃあ平和なのにな。おまえも、あれも」
なんだか胸の奥がくすぐったい。
小さな頭をそっと撫でながら、黒鋼は今ここにはいない恋人のことを想った。
落ち着きはないし、子供より手がかかるし、どうしようもなく甘ったれな男ではあるけれど、こうして静まり返った室内にポツリといてみれば、悔しいが少し物足りない。
あのアホはちゃんと飯は食ったのか、風呂のあと髪は乾かしたのか、人様に迷惑はかけていないか、あと、ほんの少しだけ……変な奴にちょっかいかけられたりはしていないかが気になった。
そしてそんなことを気にかけ始めてしまった自分に無性に腹が立つ。
実際子供ではないのだし、アホではあるが、馬鹿ではないことを知っている。
「……ったく……面白くねぇな」
ふいに零れた呟きは、果たして自身に向けられたものだったのか、それとも煩い男がいない今の状況に対してのものだったのか。自分でもよく分からない。
こんな夜は、小さな湯たんぽ代わりでも抱いてとっとと眠ってしまうに限るだろう。
結局のところ、黒鋼はファイが愛しくて、恋しくて、そして可愛くて仕方がないのだった。
*
「あれぇー?」
翌日、出張先から朝一で戻ったファイは宿舎の入り口付近でウロウロと歩き回る白い猫を発見して足を止めた。
「にゃーん? にゃんこー? どうしたのー?」
脇に荷物を置き、僅かに屈んで首を傾げたファイに気づいたその猫は、ガラス球のような瞳でこちらを見上げると「ニャーゴ」と太めの声で鳴いた。
ほんの少し薄汚れた白猫は、一定の距離以上は近づいてこない。
そのまま、再びウロウロと同じ場所を行ったり来たりし始めた猫に、ファイはきょとんとさらに首を傾げた。
「探し物ー?」
が、どうやら相手はこれ以上こちらに構う気はないらしい。残念だが仕方が無い。
ファイは再び荷物を手にすると宿舎へ戻ることにした。
「黒たーんただいまー! いい子で待ってたー? 帰ってきたよー」
宿舎に戻ったからといって、ファイが真っ直ぐ自室へ向かうかと思えば大間違いである。
真っ先に向かう先は隣の黒鋼の部屋で、合鍵も持っているため勝手にズカズカと上がりこんだ。
「まだ寝てるー? あのねー、さっき下でにゃんこが……ん?」
「……んだよ……うるせぇな……」
騒がしくやって来たファイに不機嫌そうな低い声をあげ、ベッドの上で黒鋼がのっそりと身体を起こす。
だがファイはその腕の中にちょこんと納まる白い物体に釘付けになった。
「あ?」
頭をボリボリと掻いている黒鋼に、同じく目を覚ました小さな白猫も立ち上がった。大きく口を開けて欠伸をしながら、小さな四肢で背伸びをしている。
荷物を投げ出したファイは、ズザザァッとベッド脇にスライディングするかの勢いで膝をつくと、目を輝かせた。
「なにこの子!? どうしたの!? 拾ったの!? キャー可愛い! 触ってもいい!? てゆーかー、黒様先生ってばオレがいない間にこんな可愛い子と浮気なんて酷いなー! 黒たん先生に腕枕してもらってもいいのはオレだけなんだよー! でも可愛いから許しちゃうー!!」
くにゃんと小首を傾げる子猫に思わず興奮して一気にまくし立てたファイは、身悶えながら両手を伸ばし、子猫を抱き上げた。
「あったか~いふわふわ~幸せ~うふふふふ」
恍惚とした表情で頬擦りをすると、子猫が「ピャー」と妙な声で鳴いた。
頬をピンク色に染めながら鼻の下を伸ばしていたファイだったが、そこでふと先ほど遭遇した白い猫のことを思い出した。
何かをしきりに探し回っているような素振りだったが、もしかすればこの子猫を探していた母猫だったのかもしれない。
「もしかしてこの子ってさっきの……って、あれ? 黒様? 黒たん? どしたの?」
朝っぱらから勝手に部屋へ押しかけた挙句、忙しなく喋り続けていたファイに、いつもであればそろそろくっきりとした青筋を立てながら怒鳴り散らしてもおかしくない黒鋼が、どこかぼんやりとこちらを見下ろしている。
「ねぇってばー。なんか変だよー? 寝ぼけてる?」
どことなく目が据わっているようにも見える黒鋼に不安を覚えたファイは、子猫を抱いたままきゅっと眉を寄せた。
だが次の瞬間、黒鋼の両手がにゅっと伸びてきた。
「!?」
がしっと片方の頬を包み込まれ、そしてもう片方の手でグリグリと乱暴に頭を掻き乱される。
「え、ちょ、な、なに~!?」
首がガクガクするほど強く撫で回されて、ファイは驚きと戸惑い以上に激しく混乱した。目が回って仕方が無い。
黒鋼は相変わらず無表情で、いつしか頬やら頭やら髪やら、とにかく滅茶苦茶にされてしまった。
ようやく解放された頃にはファイはすっかりヘトヘトで、そして髪は見るも無残に乱されていた。
「な、何なのぉ……?」
黒鋼の方から率先してファイに触れてくることは滅多にない。どちらかと言えば、いつもベッタリとくっついているのは自分の方だったから、ファイはその黒鋼らしからぬ行動にただ茫然と瞬きを繰り返した。
「く、くろさまぁ……?」
「……うるせぇ」
やがて不機嫌そうに顔を顰めた黒鋼は、握った拳でファイの額をさらに軽く小突くとベッドから抜け出し、洗面所の方へと姿を消した。
「……どうしちゃったんだろ黒様先生……何か悪いものでも食べたのかな……?」
いまだに状況が理解できていないファイが茫然と呟けば、腕の中の子猫が「ミャー」と、ようやく猫らしい声で鳴いた。
それからすぐに、子猫は母猫の元へ帰って行った。
二匹が去ってゆく姿を見送りつつ、ちらりと見やった黒鋼の表情は満足気なものだった。結局あの奇行の意味は分からずじまいだったけれど。
まぁいいかと、ファイは笑顔でその腕に両腕を回し、思い切りぎゅっと抱き付いた。
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