2025/06/14 Sat 村は息をひそめたように静まり返っていた。 空は鈍色の雲に覆われ、昼間とは思えないほど周囲を薄暗くしている。生ぬるく吹く風鳴りが、まるで不吉なものの訪れを知らせているかのようだった。 取り乱すマヤをどうにか落ち着かせ、宿を飛びだしたイレブンが向かったのは、しじまヶ浜だった。カミュはきっとそこにいる──もぬけの殻になっている部屋を見た瞬間、直感的にそれが分かった。 そしてその直感が指し示した通り、カミュはしじまヶ浜にいた。 彼は波打ち際にたたずんで、ぼんやりと海の彼方を見つめていた。 「カミュ!!」 イレブンの呼びかけに、カミュは振り返ることなく口を開いた。 『ウークマーはここにいた』 その声が、ユーリーと名乗った少女のものとダブって聞こえた。 イレブンは必死でその背に駆け寄った。カミュが、今にも波の彼方に消えていきそうで怖かった。愛するものを喪って、泡と消えたあの美しい人魚のように。 「カミュ、行くな!!」 イレブンの左手が彼の肩を掴んだ、そのときだった。 「──ッ!?」 勇者のアザが光ると共に、目の前が白く染まった。 * しじまヶ浜の小さな小屋に、一人の名もなき青髪の少女が暮らしていた。 孤児である彼女は、時おり村で物乞いをしながら、貧しい暮らしを送っていた。 ナギムナー村の人々はその少女を「ムヌクーヤー」と呼んで憐れみ、そして親しんでいた。 そんなある日のことだった。 しじまヶ浜に一人の男が流れ着いた。セピア色の髪をした、凛々しい面立ちの青年だった。 少女は気を失っている男を、なんとか小屋まで運んで介抱した。その甲斐あって、彼はほどなくして目を覚ました。 けれど男はすべての記憶を失っていた。言葉すら満足に話すことができなかった。 世話好きの少女は彼の面倒を見ながら、村の言葉を教えていった。 男は無邪気な性格で、よく少女にささいなイタズラをした。 死んだフリをしてみたり、ワッと背後から驚かせたかと思えば、少女の髪に赤いハイビスカスを飾り、嬉しそうに笑ったりした。 少女は親しみを込めて、男を「ウークマー」と呼ぶようになった。島の言葉で、「イタズラ好き」という意味だった。 男は覚えたての言葉で、彼女を「チュラ」と呼んだ。美しい、という意味だった。 チュラとウークマーが恋に落ちるのに、時間はかからなかった。 それからの日々はとても幸福だった。一人ぼっちだった青髪の少女は、生まれて初めて『名前』と『最愛』を得た。こんな幸せが、ずっと続くと思っていた。 けれどあるとき、チュラは身体を壊してしまった。 高熱にうなされ、みるみるうちに痩せ細っていった。原因はまったく分からなかった。流行り病かなにかだったのかもしれない。 ウークマーは村へ薬と食料を分けてもらいに行った。それでもチュラが回復する見込みはなかった。むしろ日に日に弱っていくばかりだった。 そんなある日のこと。ウークマーは村人から、とある話を聞いた。 「人魚の肉を食えば、どんな病もたちまち治ってしまう」 と──。 しかし人魚を捕まえることなど、とても無理な話だった。どんな姿をしているかさえ分からない。ウークマーはただ歯痒いばかりだった。 やがて分けてもらった薬や食料が尽きるころ、ウークマーが岩場で釣りをしていると、世にも珍しい魚が釣れた。 長い黒髪に、顔は年老いた女性のようで、身体は魚という奇妙な生物だった。 その魚は釣り上げてすぐに死んでしまったが、ウークマーはこれぞ人魚に違いないと思った。すぐさま家に持ち帰り、料理をしてチュラに食わせた。 するとチュラの皮膚に、みるみるうちに魚のウロコが現れはじめた。それは徐々に全身に広がっていき、手足が萎み、背が縮み、やがて身体だけが魚に変わった。 それはウークマーが釣り上げ、チュラが食らった、あの異形の姿そのものだった。 チュラはしきりに「殺して」と言って涙を流した。こんな醜い姿では、もう生きてはいけないと。 それでもウークマーは彼女を愛し続けた。どんな姿でも、チュラに生きていてほしかった。 しかしチュラはいっそう衰弱していくばかりだった。 彼女はか細い声で、「手を握ってほしい」と訴えた。だが彼女にはもう両手がない。ウークマーは震える指先で、その胸ビレを撫でてやることしかできなかった。 そして最期のときがきた。チュラはもうほとんど意識がない状態だった。ただひたすら、うわ言のように自身の願いを呟いていた。 「私を食べて、ウークマー」 私はアナタになら食べられてもいいと思っていた。 ずっとそう思っていた。 同じくらい、食べてしまいたいとも思っていた。 愛してる。ずっとずっと愛してるわ。 だから食べて、ウークマー。私を食べて、ウークマー。 そして彼女は息を引き取った。 「すまない……すまない……」 ウークマーはその亡骸を抱きしめて、三日三晩泣き崩れた。 やがて涙が枯れるころ、チュラの肉を食らった。 それが彼女の願いなら、この身が異形と化しても構わなかった。むしろ同じ運命を辿るべく、骨まで残さず喰らい尽くした。 けれど身体にウロコは現れなかった。待てど暮せど、まったく変化が訪れない。 ウークマーは失意と絶望のドン底で、泣き暮らすことしかできなかった。 そうしているうちに、10年、20年と月日が流れた。 ウークマーはいっさい歳を取らなくなっていた。100年、200年が過ぎた頃、ようやく身体がわずかに衰えてきた。 異形の肉を食らったことで、ウークマーは不老長寿の肉体を得ていた。 そこにあったのは、深い悲しみと後悔に沈みながら、まるで隠れるようにモクマオウの洞窟に身を寄せて、長い時を生き続ける哀れな男の姿だった。 * 勇者のアザはその輝きを失っていた。 知らぬ間に、辺りは夜の闇にとっぷりと沈んでいた。 降り注ぐ月明かりが、白い砂浜を薄ぼんやりと照らしだしている。 波の音だけが支配する世界で、イレブンは白いワンピースに身を包む、青髪の少女と向かい合っていた。 「キミは、チュラだな?」 問いかけに、彼女はこくんとうなずいた。 「観光客の女性たちが体調を崩したのも、カミュの様子がおかしくなったのも……ぜんぶキミが原因なのか?」 チュラは再びうなずいた。 「私はウークマーに食べられたかった。彼の血となり肉となり、ひとつになりたかった。彼のものになりたかった。そうすれば、いつまでも一緒にいられると思ってた」 でも違った──と、チュラは呟き、うつむいた。 「ひとつになんかなれなかった。私は死んで、ただのユーリーになった。彼に触れることも、話すこともできない。ここでこうして待つことしかできなくなった。800年ものあいだ、ずっと」 強い風が吹き抜けた。けれどチュラの青い髪が風に揺れることはなく、そこだけ時間が止まってしまったかのようだった。 波音だけが響くなか、海の匂いが濃くなった気がした。生と死のあいだをたゆたうような、重く湿った匂いだった。 「でも、それももう終わり。私はウークマーに触れたい。話がしたい。そのためには、生身の肉体が必要だったの。だからずっと探していたの」 そんな折、ナギムナー村に突如として観光客が増えた。恋する若者たちが多くしじまヶ浜を訪れるようになり、チュラは強く引き寄せられた。 けれどなかなか上手く憑依できる人間がいなかった。無理やり入り込もうとしたせいで、女性たちが体調を崩してしまったのだという。 「そんなとき、アナタたちが来た」 チュラは自分の胸に手を当てると、小首をかしげて情けない笑みを浮かべた。 「この子、ちょっと危ういね。だから私なんかにつけこまれるのよ。心の形が、よく似ていたから。そしてアナタも──」 イレブンを見つめるチュラの瞳が、悲しげに揺らめいた。 「ウークマーに、少し似ている」 イレブンは言葉を失った。 チュラの語る願いは、あまりにも切実で、あまりにも哀しいものだった。分かたれた彼らを思うと、胸の奥が軋むように痛んだ。 けれど同時に、イレブンはどうしようもない焦燥感に駆られてもいた。 いつだって隣にあるはずのぬくもりが、今はひどく遠い場所にある。こうしてる間にも消えてなくなってしまうのではないかと、それがたまらなく怖かった。 「お願いだ。彼はボクの大切な人なんだ。どうか連れて行かないでくれ」 するとチュラは目を細めて微笑みながら、「大丈夫」と言った。 「少し借りるだけ。ちゃんとアナタに返すから」 そう言って、チュラは岩場の方へと歩いていく。 イレブンはただ黙ってその背を追いかけることしかできなかった。 ←戻る ・ 次へ→
空は鈍色の雲に覆われ、昼間とは思えないほど周囲を薄暗くしている。生ぬるく吹く風鳴りが、まるで不吉なものの訪れを知らせているかのようだった。
取り乱すマヤをどうにか落ち着かせ、宿を飛びだしたイレブンが向かったのは、しじまヶ浜だった。カミュはきっとそこにいる──もぬけの殻になっている部屋を見た瞬間、直感的にそれが分かった。
そしてその直感が指し示した通り、カミュはしじまヶ浜にいた。
彼は波打ち際にたたずんで、ぼんやりと海の彼方を見つめていた。
「カミュ!!」
イレブンの呼びかけに、カミュは振り返ることなく口を開いた。
『ウークマーはここにいた』
その声が、ユーリーと名乗った少女のものとダブって聞こえた。
イレブンは必死でその背に駆け寄った。カミュが、今にも波の彼方に消えていきそうで怖かった。愛するものを喪って、泡と消えたあの美しい人魚のように。
「カミュ、行くな!!」
イレブンの左手が彼の肩を掴んだ、そのときだった。
「──ッ!?」
勇者のアザが光ると共に、目の前が白く染まった。
*
しじまヶ浜の小さな小屋に、一人の名もなき青髪の少女が暮らしていた。
孤児である彼女は、時おり村で物乞いをしながら、貧しい暮らしを送っていた。
ナギムナー村の人々はその少女を「ムヌクーヤー」と呼んで憐れみ、そして親しんでいた。
そんなある日のことだった。
しじまヶ浜に一人の男が流れ着いた。セピア色の髪をした、凛々しい面立ちの青年だった。
少女は気を失っている男を、なんとか小屋まで運んで介抱した。その甲斐あって、彼はほどなくして目を覚ました。
けれど男はすべての記憶を失っていた。言葉すら満足に話すことができなかった。
世話好きの少女は彼の面倒を見ながら、村の言葉を教えていった。
男は無邪気な性格で、よく少女にささいなイタズラをした。
死んだフリをしてみたり、ワッと背後から驚かせたかと思えば、少女の髪に赤いハイビスカスを飾り、嬉しそうに笑ったりした。
少女は親しみを込めて、男を「ウークマー」と呼ぶようになった。島の言葉で、「イタズラ好き」という意味だった。
男は覚えたての言葉で、彼女を「チュラ」と呼んだ。美しい、という意味だった。
チュラとウークマーが恋に落ちるのに、時間はかからなかった。
それからの日々はとても幸福だった。一人ぼっちだった青髪の少女は、生まれて初めて『名前』と『最愛』を得た。こんな幸せが、ずっと続くと思っていた。
けれどあるとき、チュラは身体を壊してしまった。
高熱にうなされ、みるみるうちに痩せ細っていった。原因はまったく分からなかった。流行り病かなにかだったのかもしれない。
ウークマーは村へ薬と食料を分けてもらいに行った。それでもチュラが回復する見込みはなかった。むしろ日に日に弱っていくばかりだった。
そんなある日のこと。ウークマーは村人から、とある話を聞いた。
「人魚の肉を食えば、どんな病もたちまち治ってしまう」
と──。
しかし人魚を捕まえることなど、とても無理な話だった。どんな姿をしているかさえ分からない。ウークマーはただ歯痒いばかりだった。
やがて分けてもらった薬や食料が尽きるころ、ウークマーが岩場で釣りをしていると、世にも珍しい魚が釣れた。
長い黒髪に、顔は年老いた女性のようで、身体は魚という奇妙な生物だった。
その魚は釣り上げてすぐに死んでしまったが、ウークマーはこれぞ人魚に違いないと思った。すぐさま家に持ち帰り、料理をしてチュラに食わせた。
するとチュラの皮膚に、みるみるうちに魚のウロコが現れはじめた。それは徐々に全身に広がっていき、手足が萎み、背が縮み、やがて身体だけが魚に変わった。
それはウークマーが釣り上げ、チュラが食らった、あの異形の姿そのものだった。
チュラはしきりに「殺して」と言って涙を流した。こんな醜い姿では、もう生きてはいけないと。
それでもウークマーは彼女を愛し続けた。どんな姿でも、チュラに生きていてほしかった。
しかしチュラはいっそう衰弱していくばかりだった。
彼女はか細い声で、「手を握ってほしい」と訴えた。だが彼女にはもう両手がない。ウークマーは震える指先で、その胸ビレを撫でてやることしかできなかった。
そして最期のときがきた。チュラはもうほとんど意識がない状態だった。ただひたすら、うわ言のように自身の願いを呟いていた。
「私を食べて、ウークマー」
私はアナタになら食べられてもいいと思っていた。
ずっとそう思っていた。
同じくらい、食べてしまいたいとも思っていた。
愛してる。ずっとずっと愛してるわ。
だから食べて、ウークマー。私を食べて、ウークマー。
そして彼女は息を引き取った。
「すまない……すまない……」
ウークマーはその亡骸を抱きしめて、三日三晩泣き崩れた。
やがて涙が枯れるころ、チュラの肉を食らった。
それが彼女の願いなら、この身が異形と化しても構わなかった。むしろ同じ運命を辿るべく、骨まで残さず喰らい尽くした。
けれど身体にウロコは現れなかった。待てど暮せど、まったく変化が訪れない。
ウークマーは失意と絶望のドン底で、泣き暮らすことしかできなかった。
そうしているうちに、10年、20年と月日が流れた。
ウークマーはいっさい歳を取らなくなっていた。100年、200年が過ぎた頃、ようやく身体がわずかに衰えてきた。
異形の肉を食らったことで、ウークマーは不老長寿の肉体を得ていた。
そこにあったのは、深い悲しみと後悔に沈みながら、まるで隠れるようにモクマオウの洞窟に身を寄せて、長い時を生き続ける哀れな男の姿だった。
*
勇者のアザはその輝きを失っていた。
知らぬ間に、辺りは夜の闇にとっぷりと沈んでいた。
降り注ぐ月明かりが、白い砂浜を薄ぼんやりと照らしだしている。
波の音だけが支配する世界で、イレブンは白いワンピースに身を包む、青髪の少女と向かい合っていた。
「キミは、チュラだな?」
問いかけに、彼女はこくんとうなずいた。
「観光客の女性たちが体調を崩したのも、カミュの様子がおかしくなったのも……ぜんぶキミが原因なのか?」
チュラは再びうなずいた。
「私はウークマーに食べられたかった。彼の血となり肉となり、ひとつになりたかった。彼のものになりたかった。そうすれば、いつまでも一緒にいられると思ってた」
でも違った──と、チュラは呟き、うつむいた。
「ひとつになんかなれなかった。私は死んで、ただのユーリーになった。彼に触れることも、話すこともできない。ここでこうして待つことしかできなくなった。800年ものあいだ、ずっと」
強い風が吹き抜けた。けれどチュラの青い髪が風に揺れることはなく、そこだけ時間が止まってしまったかのようだった。
波音だけが響くなか、海の匂いが濃くなった気がした。生と死のあいだをたゆたうような、重く湿った匂いだった。
「でも、それももう終わり。私はウークマーに触れたい。話がしたい。そのためには、生身の肉体が必要だったの。だからずっと探していたの」
そんな折、ナギムナー村に突如として観光客が増えた。恋する若者たちが多くしじまヶ浜を訪れるようになり、チュラは強く引き寄せられた。
けれどなかなか上手く憑依できる人間がいなかった。無理やり入り込もうとしたせいで、女性たちが体調を崩してしまったのだという。
「そんなとき、アナタたちが来た」
チュラは自分の胸に手を当てると、小首をかしげて情けない笑みを浮かべた。
「この子、ちょっと危ういね。だから私なんかにつけこまれるのよ。心の形が、よく似ていたから。そしてアナタも──」
イレブンを見つめるチュラの瞳が、悲しげに揺らめいた。
「ウークマーに、少し似ている」
イレブンは言葉を失った。
チュラの語る願いは、あまりにも切実で、あまりにも哀しいものだった。分かたれた彼らを思うと、胸の奥が軋むように痛んだ。
けれど同時に、イレブンはどうしようもない焦燥感に駆られてもいた。
いつだって隣にあるはずのぬくもりが、今はひどく遠い場所にある。こうしてる間にも消えてなくなってしまうのではないかと、それがたまらなく怖かった。
「お願いだ。彼はボクの大切な人なんだ。どうか連れて行かないでくれ」
するとチュラは目を細めて微笑みながら、「大丈夫」と言った。
「少し借りるだけ。ちゃんとアナタに返すから」
そう言って、チュラは岩場の方へと歩いていく。
イレブンはただ黙ってその背を追いかけることしかできなかった。
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