2025/07/27 Sun 春。 化学準備室から、校庭の桜の木々がよく見えた。 「わー、今年も満開だー!」 開け放った窓のサンに両手をついて、ファイは身を乗り出すと春の香りをいっぱいに吸い込んだ。真下から見る桜の花もいいが、こうして少し高い位置から眺める景色も絶景だ。 「美味しいお酒が飲みたくなっちゃうなー」 しかし、今はあいにく平日の昼間。 このあと立て続けに授業が控えているため、間違っても酒なんか飲めない。 どうせ今週末には花見大会があるし、とりあえず我慢しておこう。酒気帯び授業なんかやらかしたら、きっとの体育教師の刀(ゲンコツ)の錆になってしまう。 新入生も入ってきていっそう賑やかになった、この春真っ盛りの時期に頭蓋骨を陥没させているわけにもいなかい。 「ほんと、DV夫だよ黒たん先生は」 そういえば、とファイは思う。 こうして満開の桜を眺める度に、ふと思い出すことがある。 それは、この学園に来て最初に黒鋼と顔を合わせたときのことだ。あれからもうずいぶん時間が経ったが、あの記憶は決して色褪せることがない。 「懐かしいなぁ」 温かな春風にそっと瞼を伏せながら、ファイは教師になって最初の春のことに思いを馳せた。 以下、回想シーン↓ 「やっぱり日本の春って凄いなー!」 校庭を取り囲むように、幾本もの桜の大木が鮮やかに咲き乱れていた。 ファイはその木の一本に片手をついて、空を仰ぐように美しい花を見上げる。朝の清んだ空気に春の香りが色濃く滲み、新しい生活への期待に胸が膨らむ。 今日からファイはこの学園の教師になる。 学生時代、休みを利用して訪れた憧れの国。ちょっと酷い目には遭ったが、直にその空気や人に触れ、ファイは日本への憧れを強めた。 そういえばあのとき出会った青年は、今頃どうしているのだろうか。 彼も観光客だったらしいが、名前すら聞けなかった。旅は一期一会。こうして日本に根を下ろしても、彼とはきっともう出会うことはない。 でも、どうしてだろう。彼のことが忘れられなかった。あのときからずっと、胸の中にあり続ける不思議な存在。 そのときだった。 土を踏みしめる音がして、ファイは上へ固定したままだった視線を戻し、音のする方向へ向けた。 自分と同じようにスーツを着た男が一人、桜の木々を見上げながらこちらへ歩いてくる。 ファイは大きく目を見開いた。 それはたった今、脳裏に思い描いていた青年の姿だった。 漆黒の髪と紅蓮の瞳、日本人離れした長身と、逞しい身体。ファイは、全身に鳥肌が立つような感覚を覚える。 息をするのも忘れて見つめていると、彼はその視線に気づいたのか、桜の木からこちらに顔を向けた。 「君は、あのときの……!」 ファイを見た彼は、僅かに目を見開いた。 時間が止まったような気がした。旅先で出会った青年。どうして彼がここに……。 二人はそのまましばらくの間、見つめ合ったまま動けなかった。 偶然の再会。けれど、強い力で結びつけられたような運命を感じる。 先に一歩を踏み出したのはどちらだったのか。引き合うようにファイと青年は歩み寄っていた。 手を伸ばし合い、交差するその両腕が互いをきつく抱きしめ合う。 「また会えるなんて……信じられない!」 「おまえを忘れたことはなかったぜ」 「ッ、オレも……オレも忘れたことなかったよ……!」 会いたかった。 ファイは溢れる涙を堪えることができなかった。憧れの地で、憧れの職について。 全てが新しく始まるまさにその日、運命の人と再会した。 「もう離さねぇ……俺たちの旅はこれからだ……」 「恋のチケットは……永遠にソウルドアウトだね……!」 そして二人は桜の木の下で、熱烈な再会のキs 「待てぇえぇぇい!!!」 そのとき、化学準備室のドアがスパーンと開いた。 「あ、黒様先生だ」 「あ、黒様先生だ、じゃねぇ!! てめぇはまた記憶を都合よく改竄してんのか!!」 校舎が揺れん勢いの足音を立てて、肩を怒らせた黒鋼が鬼の形相でやってくると、胸倉を掴まれる。 「改竄なんかしてないもん! オレの脳内の黒様メモリアルにはちゃんとそう書いてるもん!」 「脳ミソすり潰すか!? おまえはどこまでも頭がおかしい! 完膚なきまでにおかしいぞ!! おかしい!!」 「わざわざ3回も言うなんて酷すぎるぅー!!」 「何べんでも言うぞ俺は!! 何が俺たちの旅だ! 何が恋のチケットだ! あぁ!?」 「もー! 何がそんなに不満なの! こんな薄汚れた現実の世界より、妄想の世界の方が住みやすいんだから、それでいいじゃない!」 「仮にも教師のセリフかそれが!?」 とにかく、と、掴んでいた胸倉を乱暴に離した黒鋼は、側にあった椅子を引き寄せて座ると、腕を組んで言った。 「やりなおしだ! やりなおし! 現実と向き合え!」 「えー……どっからだっけなぁ……キスのあと?」 「君はあのときの! からだ!!」 テイク2 「君は、あのときの……!」 ファイの姿を見るやいなや、青年は『ゲッ』という顔をした。 なんだろうか。このあからさまにもう二度と会いたくないと思っていたはずの人間と、運悪く遭遇しちゃいました的な反応は。 だが、ファイは持前のポジティブさでその表情を華麗にスルーすると、懐かしさに両手を広げた。 「君ってあのときのふんどし忍者くんだよねー!? うわー! ひっさしぶりー!」 「ふんどしじゃねぇし忍者でもねぇ!! なんでてめぇがここにいる!?」 「あの時はどうもありがとー! おかげでちゃーんとお土産のお守り持って帰って渡せたよー!」 「質問に答えろこの変態外人!!」 相手は明らかにこちらに牙を剥き、威嚇している様子だった。 ずっと野生のライオンに育てられていた人間が、初めて人の世界に保護された時ってこんな感じの反応なのかなー、とファイは思った。 今にも唸りだしそうな恐ろしい表情も、奇跡的な出会いの中ではただただ感動を生む。 お互い旅の途中ですれ違った程度の間柄だし、もう二度と会うことはないだろうと思っていたので、なおのこと。 「もー! 昔のことは水に流してー、再会を喜び合おうよー!」 万歳のポーズで走り寄ろうとすると、彼は今度は声に出して「うげっ」と言った。 「来んな! 近寄んじゃねぇ変態!!」 「再会のハグー!」 青年は慌てて逃げ出そうと、ファイに背を向けた。 逃げられると追いかけたくなる本能に基づき、ファイは容赦なく追跡する。えいっと飛びかかり、力いっぱいタックルすると、走り去ろうとしていた青年はその勢いで態勢を崩し、思い切り前のめりになった。 「わあぁ!!」 ドテーンという音が重なり、土埃が立ち込める中で、二人はうつ伏せに地面に崩れ落ちた。 一瞬ファイは痛みに顔を歪めたが、すぐに自分の両手が何かを掴んでいることに気付く。その場所を見て「あ」と短く声を発した。 なんだか凄く懐かしい感じがする。ファイは彼のスーツのズボンのウエストに、指を引っかけるようにして手をかけていた。 ちょうどベルトに掴まるような形で掴んでいたせいで、半分だけずり下がっている。黒い下着に覆われた半ケツ状態の尻が目の前にあった。 「……なぁんだやっぱふんどしじゃないんだねー」 以前、同じようにズボンに手をかけたときは、すかさず抵抗されて中身は見られなかった。と、いうより、あの時はおそらく下着ごと下げてしまったので、文字通り割れ目くっきりの半ケツだったのだ。(公衆の面前) 宿泊先の風呂で再会した時も、彼が服を脱ぐ場面を見る前に追いかけまわされてしまった。結局ファイはふんどしへの心残りを残して帰国する羽目になったのだが。 「なーんかガッカリー。これってボクサー?」 ファイは中途半端な状態の尻に指をやると、下着を少しだけ摘み上げてテントを作った。どこにでもあるような素材の、男性用下着だ。 「せめてTバックとか履いててくれたらネタになったのにー。つまんなーい」 「…………す」 「それにしてもお尻のお肉カチカチだねー。引き締まってるー!」 「…………ろすぞ」 「ん? なぁに? あー、大丈夫ー、あの時と違って誰も見てな……ん?」 言いかけて、ファイはどこからか視線を感じた。 辺りを見回すと、遠くの校舎の窓に人影が。 「あそこって……確か理事長室? だっけ?」 そこから顔を覗かせているのは、長い黒髪の女性だった。 確か彼女はこの学園の理事長だったはず。彼女は赤い口紅を引いた唇を、にやりと笑みの形に歪めてサッと消えた。 「…………ごめん忍者くん……バッチリ見られてたみたい……」 「殺すぞ」 「!?」 その瞬間、後ろ手に手を伸ばした青年に片方の手首を掴まれた。 そして彼は膝をついて身体を起こすと同時に、ファイを一本背負いした……。 「ぴぎゃあああ!!!」 ファイは奇妙な悲鳴を上げながら、背中を地面にしたたか打ち付ける。 とてつもない衝撃に、一瞬本当に息が止まった。背面に激痛が走ってのたうつ。 「いったぁ~い~! ゲホッ ひ、酷いよー!」 「覚 悟 は で き て る な ?」 「え?」 仰向けの状態で制止したファイが視線を上へ走らせると、そこには指をバキバキと鳴らしながら仁王立ちしている男の姿があった。 テイク2終了 「いやー、あのあとはまさに地獄絵図だったよねー。黒様ったらどこまでも追いかけてくるし、生きるか死ぬかのリアル鬼ごっこだったなー」 ファイは腕を組んでしみじみと唸った。 「今でこそ黒たん先生のパンツなんか、見たければいつでも見れるような間柄だけどー、ここまでくるのには苦労させられたよー」 「おい」 「黒様ったらあれ以来しばらく口利いてくれなかったしー、でもそれも今ではいい思い出……ん? なに? どうかした?」 「回想シーンの合間にさりげなく人の膝に乗ってんじゃねぇよ!」 ファイは黒鋼の首に両腕を回しながら唇を尖らせ「えー、いいじゃーん」と言った。が、どうやらよくなかったらしい。黒鋼は当時の記憶と相まって、ただでさえ目つきの悪い両目をさらに吊り上げて内震えている。 「なんかこの姿勢……対面座位って感じでエッチだね……ハァハァ」 「どけこの変態教師!! てめぇのせいで俺は初日からあの女理事長に揺すりのネタを提供しちまったんだ! てめぇのアホのせいで俺のお茶汲み人生が始まったようなもんだ!!」 「プリプリしないでー。終わりよければ総て無駄って言葉もあるしー」 「あってたまるか!!」 黒鋼が必死で引き離しにかかってくるので、ファイは意地でも退くものかと両手両足でしがみついた。 どうやらファイにとって春という季節がいい思い出でも、彼にとってはトラウマをフラッシュバックさせる、暗黒の季節であるらしい……。 「やー! 今オレは黒様先生のお膝の上にいたい気分なのー!」 「生憎俺はそういう気分じゃねぇんだよ!!」 「もう許してよー。今夜もとっておきの中のとっておきなお酒持っていくからー。あ、夜桜見物でもしよっかー?」 「てめぇは一体どんだけのとっておきを隠し持ってんだ……」 地の底まで響きそうな深い溜息をついて、黒鋼は諦めたように脱力した。 やっぱりファイの『とっておき作戦』は効果覿面だ。彼も彼で、どこかで気持ちを静める材料が欲しかったのだろう。 もはや抱き付いてスリスリと頬ずりしても、何も言わなくなってしまった。 本当に丸くなったというか、なんというか。 「ねぇ、マイナスからスタートした方が、プラスになった時の気持ちって大きくなると思わない?」 今だって実はさりげなく腰に回される太い腕とか、もっと本気で抵抗すれば、とっくに開いているはずの二人の距離とか。 物凄く面白くなさそうな顔をしてるくせに、黒鋼は否定の言葉を口しない。 自覚があるのはいいことだ。 (オレの中では最初からプラスの感情しかなかったけどねー) その感情は、マイナスから始まるものに負けないくらい、今も大きく成長し続けているのだが。 ここまで辿り着くまでの道のりを思い出すのは、また今度にしよう。 そう思いながら、怒られるんだろうなと知りつつも、ファイは黒鋼のむっつりと引き結ばれる唇に、音を立ててキスをした。 ←戻る ・ Wavebox👏
化学準備室から、校庭の桜の木々がよく見えた。
「わー、今年も満開だー!」
開け放った窓のサンに両手をついて、ファイは身を乗り出すと春の香りをいっぱいに吸い込んだ。真下から見る桜の花もいいが、こうして少し高い位置から眺める景色も絶景だ。
「美味しいお酒が飲みたくなっちゃうなー」
しかし、今はあいにく平日の昼間。
このあと立て続けに授業が控えているため、間違っても酒なんか飲めない。
どうせ今週末には花見大会があるし、とりあえず我慢しておこう。酒気帯び授業なんかやらかしたら、きっとの体育教師の刀(ゲンコツ)の錆になってしまう。
新入生も入ってきていっそう賑やかになった、この春真っ盛りの時期に頭蓋骨を陥没させているわけにもいなかい。
「ほんと、DV夫だよ黒たん先生は」
そういえば、とファイは思う。
こうして満開の桜を眺める度に、ふと思い出すことがある。
それは、この学園に来て最初に黒鋼と顔を合わせたときのことだ。あれからもうずいぶん時間が経ったが、あの記憶は決して色褪せることがない。
「懐かしいなぁ」
温かな春風にそっと瞼を伏せながら、ファイは教師になって最初の春のことに思いを馳せた。
以下、回想シーン↓
「やっぱり日本の春って凄いなー!」
校庭を取り囲むように、幾本もの桜の大木が鮮やかに咲き乱れていた。
ファイはその木の一本に片手をついて、空を仰ぐように美しい花を見上げる。朝の清んだ空気に春の香りが色濃く滲み、新しい生活への期待に胸が膨らむ。
今日からファイはこの学園の教師になる。
学生時代、休みを利用して訪れた憧れの国。ちょっと酷い目には遭ったが、直にその空気や人に触れ、ファイは日本への憧れを強めた。
そういえばあのとき出会った青年は、今頃どうしているのだろうか。
彼も観光客だったらしいが、名前すら聞けなかった。旅は一期一会。こうして日本に根を下ろしても、彼とはきっともう出会うことはない。
でも、どうしてだろう。彼のことが忘れられなかった。あのときからずっと、胸の中にあり続ける不思議な存在。
そのときだった。
土を踏みしめる音がして、ファイは上へ固定したままだった視線を戻し、音のする方向へ向けた。
自分と同じようにスーツを着た男が一人、桜の木々を見上げながらこちらへ歩いてくる。
ファイは大きく目を見開いた。
それはたった今、脳裏に思い描いていた青年の姿だった。
漆黒の髪と紅蓮の瞳、日本人離れした長身と、逞しい身体。ファイは、全身に鳥肌が立つような感覚を覚える。
息をするのも忘れて見つめていると、彼はその視線に気づいたのか、桜の木からこちらに顔を向けた。
「君は、あのときの……!」
ファイを見た彼は、僅かに目を見開いた。
時間が止まったような気がした。旅先で出会った青年。どうして彼がここに……。
二人はそのまましばらくの間、見つめ合ったまま動けなかった。
偶然の再会。けれど、強い力で結びつけられたような運命を感じる。
先に一歩を踏み出したのはどちらだったのか。引き合うようにファイと青年は歩み寄っていた。
手を伸ばし合い、交差するその両腕が互いをきつく抱きしめ合う。
「また会えるなんて……信じられない!」
「おまえを忘れたことはなかったぜ」
「ッ、オレも……オレも忘れたことなかったよ……!」
会いたかった。
ファイは溢れる涙を堪えることができなかった。憧れの地で、憧れの職について。
全てが新しく始まるまさにその日、運命の人と再会した。
「もう離さねぇ……俺たちの旅はこれからだ……」
「恋のチケットは……永遠にソウルドアウトだね……!」
そして二人は桜の木の下で、熱烈な再会のキs
「待てぇえぇぇい!!!」
そのとき、化学準備室のドアがスパーンと開いた。
「あ、黒様先生だ」
「あ、黒様先生だ、じゃねぇ!! てめぇはまた記憶を都合よく改竄してんのか!!」
校舎が揺れん勢いの足音を立てて、肩を怒らせた黒鋼が鬼の形相でやってくると、胸倉を掴まれる。
「改竄なんかしてないもん! オレの脳内の黒様メモリアルにはちゃんとそう書いてるもん!」
「脳ミソすり潰すか!? おまえはどこまでも頭がおかしい! 完膚なきまでにおかしいぞ!! おかしい!!」
「わざわざ3回も言うなんて酷すぎるぅー!!」
「何べんでも言うぞ俺は!! 何が俺たちの旅だ! 何が恋のチケットだ! あぁ!?」
「もー! 何がそんなに不満なの! こんな薄汚れた現実の世界より、妄想の世界の方が住みやすいんだから、それでいいじゃない!」
「仮にも教師のセリフかそれが!?」
とにかく、と、掴んでいた胸倉を乱暴に離した黒鋼は、側にあった椅子を引き寄せて座ると、腕を組んで言った。
「やりなおしだ! やりなおし! 現実と向き合え!」
「えー……どっからだっけなぁ……キスのあと?」
「君はあのときの! からだ!!」
テイク2
「君は、あのときの……!」
ファイの姿を見るやいなや、青年は『ゲッ』という顔をした。
なんだろうか。このあからさまにもう二度と会いたくないと思っていたはずの人間と、運悪く遭遇しちゃいました的な反応は。
だが、ファイは持前のポジティブさでその表情を華麗にスルーすると、懐かしさに両手を広げた。
「君ってあのときのふんどし忍者くんだよねー!? うわー! ひっさしぶりー!」
「ふんどしじゃねぇし忍者でもねぇ!! なんでてめぇがここにいる!?」
「あの時はどうもありがとー! おかげでちゃーんとお土産のお守り持って帰って渡せたよー!」
「質問に答えろこの変態外人!!」
相手は明らかにこちらに牙を剥き、威嚇している様子だった。
ずっと野生のライオンに育てられていた人間が、初めて人の世界に保護された時ってこんな感じの反応なのかなー、とファイは思った。
今にも唸りだしそうな恐ろしい表情も、奇跡的な出会いの中ではただただ感動を生む。
お互い旅の途中ですれ違った程度の間柄だし、もう二度と会うことはないだろうと思っていたので、なおのこと。
「もー! 昔のことは水に流してー、再会を喜び合おうよー!」
万歳のポーズで走り寄ろうとすると、彼は今度は声に出して「うげっ」と言った。
「来んな! 近寄んじゃねぇ変態!!」
「再会のハグー!」
青年は慌てて逃げ出そうと、ファイに背を向けた。
逃げられると追いかけたくなる本能に基づき、ファイは容赦なく追跡する。えいっと飛びかかり、力いっぱいタックルすると、走り去ろうとしていた青年はその勢いで態勢を崩し、思い切り前のめりになった。
「わあぁ!!」
ドテーンという音が重なり、土埃が立ち込める中で、二人はうつ伏せに地面に崩れ落ちた。
一瞬ファイは痛みに顔を歪めたが、すぐに自分の両手が何かを掴んでいることに気付く。その場所を見て「あ」と短く声を発した。
なんだか凄く懐かしい感じがする。ファイは彼のスーツのズボンのウエストに、指を引っかけるようにして手をかけていた。
ちょうどベルトに掴まるような形で掴んでいたせいで、半分だけずり下がっている。黒い下着に覆われた半ケツ状態の尻が目の前にあった。
「……なぁんだやっぱふんどしじゃないんだねー」
以前、同じようにズボンに手をかけたときは、すかさず抵抗されて中身は見られなかった。と、いうより、あの時はおそらく下着ごと下げてしまったので、文字通り割れ目くっきりの半ケツだったのだ。(公衆の面前)
宿泊先の風呂で再会した時も、彼が服を脱ぐ場面を見る前に追いかけまわされてしまった。結局ファイはふんどしへの心残りを残して帰国する羽目になったのだが。
「なーんかガッカリー。これってボクサー?」
ファイは中途半端な状態の尻に指をやると、下着を少しだけ摘み上げてテントを作った。どこにでもあるような素材の、男性用下着だ。
「せめてTバックとか履いててくれたらネタになったのにー。つまんなーい」
「…………す」
「それにしてもお尻のお肉カチカチだねー。引き締まってるー!」
「…………ろすぞ」
「ん? なぁに? あー、大丈夫ー、あの時と違って誰も見てな……ん?」
言いかけて、ファイはどこからか視線を感じた。
辺りを見回すと、遠くの校舎の窓に人影が。
「あそこって……確か理事長室? だっけ?」
そこから顔を覗かせているのは、長い黒髪の女性だった。
確か彼女はこの学園の理事長だったはず。彼女は赤い口紅を引いた唇を、にやりと笑みの形に歪めてサッと消えた。
「…………ごめん忍者くん……バッチリ見られてたみたい……」
「殺すぞ」
「!?」
その瞬間、後ろ手に手を伸ばした青年に片方の手首を掴まれた。
そして彼は膝をついて身体を起こすと同時に、ファイを一本背負いした……。
「ぴぎゃあああ!!!」
ファイは奇妙な悲鳴を上げながら、背中を地面にしたたか打ち付ける。
とてつもない衝撃に、一瞬本当に息が止まった。背面に激痛が走ってのたうつ。
「いったぁ~い~! ゲホッ ひ、酷いよー!」
「覚 悟 は で き て る な ?」
「え?」
仰向けの状態で制止したファイが視線を上へ走らせると、そこには指をバキバキと鳴らしながら仁王立ちしている男の姿があった。
テイク2終了
「いやー、あのあとはまさに地獄絵図だったよねー。黒様ったらどこまでも追いかけてくるし、生きるか死ぬかのリアル鬼ごっこだったなー」
ファイは腕を組んでしみじみと唸った。
「今でこそ黒たん先生のパンツなんか、見たければいつでも見れるような間柄だけどー、ここまでくるのには苦労させられたよー」
「おい」
「黒様ったらあれ以来しばらく口利いてくれなかったしー、でもそれも今ではいい思い出……ん? なに? どうかした?」
「回想シーンの合間にさりげなく人の膝に乗ってんじゃねぇよ!」
ファイは黒鋼の首に両腕を回しながら唇を尖らせ「えー、いいじゃーん」と言った。が、どうやらよくなかったらしい。黒鋼は当時の記憶と相まって、ただでさえ目つきの悪い両目をさらに吊り上げて内震えている。
「なんかこの姿勢……対面座位って感じでエッチだね……ハァハァ」
「どけこの変態教師!! てめぇのせいで俺は初日からあの女理事長に揺すりのネタを提供しちまったんだ! てめぇのアホのせいで俺のお茶汲み人生が始まったようなもんだ!!」
「プリプリしないでー。終わりよければ総て無駄って言葉もあるしー」
「あってたまるか!!」
黒鋼が必死で引き離しにかかってくるので、ファイは意地でも退くものかと両手両足でしがみついた。
どうやらファイにとって春という季節がいい思い出でも、彼にとってはトラウマをフラッシュバックさせる、暗黒の季節であるらしい……。
「やー! 今オレは黒様先生のお膝の上にいたい気分なのー!」
「生憎俺はそういう気分じゃねぇんだよ!!」
「もう許してよー。今夜もとっておきの中のとっておきなお酒持っていくからー。あ、夜桜見物でもしよっかー?」
「てめぇは一体どんだけのとっておきを隠し持ってんだ……」
地の底まで響きそうな深い溜息をついて、黒鋼は諦めたように脱力した。
やっぱりファイの『とっておき作戦』は効果覿面だ。彼も彼で、どこかで気持ちを静める材料が欲しかったのだろう。
もはや抱き付いてスリスリと頬ずりしても、何も言わなくなってしまった。
本当に丸くなったというか、なんというか。
「ねぇ、マイナスからスタートした方が、プラスになった時の気持ちって大きくなると思わない?」
今だって実はさりげなく腰に回される太い腕とか、もっと本気で抵抗すれば、とっくに開いているはずの二人の距離とか。
物凄く面白くなさそうな顔をしてるくせに、黒鋼は否定の言葉を口しない。
自覚があるのはいいことだ。
(オレの中では最初からプラスの感情しかなかったけどねー)
その感情は、マイナスから始まるものに負けないくらい、今も大きく成長し続けているのだが。
ここまで辿り着くまでの道のりを思い出すのは、また今度にしよう。
そう思いながら、怒られるんだろうなと知りつつも、ファイは黒鋼のむっつりと引き結ばれる唇に、音を立ててキスをした。
←戻る ・ Wavebox👏