2025/07/27 Sun それはまだ年が明けて間もない頃の、肌寒い夜のことだった。 「はーい次オレオレー! オレの番ねー!」 時刻は丑三つ時、真っ只中。 暗い部屋の中央のテーブルに、蝋燭が一本だけ立っている、そんな空間に似つかわしくない陽気な声を上げるファイ。 「あのねー、これはオレの友達の友達の親戚の、そのまた友達のおばあちゃんの女学生時代の友達のお母さんが体験した話なんだけど」 遠いなオイ……という突っ込みを入れたくてウズウズしている黒鋼を余所に、ファイは上機嫌で怪談話を始める。 終始無言で腕組みをする黒鋼の横で、ユゥイが「へぇ」とか「ふぅん」とか、いちいち相槌を打っていた。 一体これで何話目だろうか。 夕飯後、唐突に「冬こそ怪談だー!」と一人勝手に盛り上がりだしたファイによって、なぜか百物語的なものに付き合わされている。 流石に百本の蝋燭は用意できなかったので、有り合わせの一本だけだが。 「でね、朝目が覚めたら、天井にいっぱい手形がついてたんだってー!」 「へぇ。じゃあ掃除するのが大変だったろうね。ちゃんと綺麗に落とせたのかな?」 「気にするとこ違うんじゃねぇか……?」 のほーんとしたユゥイの反応に堪らず突っ込みを入れる。始まってからずっとこの調子だった。 そもそもニコニコ顔で怪談話をする兄もどうかと思うが、全く同じ笑顔で聞き入る弟もどうかと思う。(しかも反応する場所があきらかにズレてる) 興味のない振りでその実ちゃっかり耳を傾ける黒鋼にしてみれば、そこそこ背筋にゾッと来るような内容だったのだが。 「ユゥイも黒様先生も、もっと怖がってよー! 特に黒様先生は軽く失禁くらいしてくんなきゃつまんなーい」 「するか! くだらねぇ!」 「そうだよファイ。そんなことされたら絨毯を取り変えなくちゃいけなくなるよ」 「でもさー、将来的にはオレ、黒様の下の世話もする気満々だから、今から練習しておきたいんだよー。すでにオムツとか屎尿瓶もネットで購入済みだし」 「でも絨毯が……」 「おまえら……」 二人まとめて本気で顔の形が変わるまで殴りつけたい……と拳を震わせる。 だが、下の世話云々の下りにはちょっと感動している黒鋼。そのせいでオムツと屎尿瓶に突っ込むのを忘れた。 「うーん。どうすれば二人とも怖がるかなぁ……そろそろお話のストック尽きてきちゃったよー」 決して怖くないわけではない。中には『それ洒落にならねぇだろ』と思わざるをえない話も幾つかあった。 だが顔に出さないだけだ。ただでさえ平気な顔した双子に挟まれて、自分一人がビビっていると思われるのは癪だった。 そもそも実態の掴めない存在というものは性質が悪い。腹が立っても殴れないではないか。 「だったらもうお開きでいいんじゃねぇか?」 「ねぇねぇユゥイー。次はどんな話がいいー? 人形系? あ、幽体離脱の話とかは?」 余裕でストックあるじゃねぇか……しかも無視か……と密かに傷つく黒鋼を他所に、ユゥイはやんわりとした笑顔を崩さず「うーん」と小さく唸った。 「話はどれも面白いけど……幽霊話って実はどれもピンと来ないんだよね」 「ふぅん? じゃあユゥイは何が怖いのー?」 「そうだね……人間、かな……」 「え?」 「結局、生きてる人間が一番怖いと、ボクは思うな……」 フッ……と翳りのある笑みを浮かべるユゥイ。蝋燭だけの仄暗い空間に、その言葉はどこか重い。 彼に一体なにがあったのだろう。女か? 女関係か? 黒鋼の野生の勘が、詳しく聞けば本気で失禁しかねないぞ、と告げているので訊ねるのは止めておいた。 「そっかー。確かにそれは頷けるかもー。オレだってもし黒様がどっかのメス豚と浮気なんかしたら、細切れにしても気が済まないと思うしー」 おまえは愛が重い……。 「そういやぁ……」 黒鋼はそのとき、なぜかふといつだったか聞いたことのある噂話を思い出した。 「幽霊でも人間でもねぇが、エグい話があったな……」 「え!? なになに!? グロ!? グロなの!?」 ファイがテーブルに両手をついて身を乗り出す。その目が期待にキラキラしているのを見て、黒鋼は仕方なく話して聞かせることにした。 「ちょっと聞きかじった程度で、よくは知らねぇが……。確かえらく大昔の話だったか……」 それは、人里離れた山間部の小さな村が、体長2メートルを優に超える巨大なヒグマに襲われ、ほぼ壊滅状態に陥ったという話。 今のようにまともな通信手段もなければ車もなく、助けを呼ぶこともままならない中、一人、また一人と、村人たちはヒグマによってなす術もなく喰い荒されたと言う。 やがて町の討伐隊によって仕留められたヒグマの腹を裂くと、喰われた人間のものと思しき着物の切れ端や帯、髪の毛が次から次へと出てきたそうだ。 「クマってのは、一度目をつけた獲物にはとことん執着するらしいぜ。人間の味をしめて、しつこく襲って……って、おい、なんだよ……?」 気がつけば、室内がしんと静まり返っていた。 さっきまでバリバリの怪談話に花を咲かせていたファイですら、無言で『つつつ……』とこちらに身を寄せてくると、ぎゅっと腕を組んでくる。 「そ、それ……下手するとお化けよりずっと怖い……」 お? これはなかなか新鮮でいい反応だ……。 普段は幽霊だろうがゴキブリだろうが雷親父だろうが楽しげに飄々としている化学教師が、今は背筋を震わせながらしがみついているのだ。なかなか可愛げがあるではないか。 「ユゥイー、今だけ特別ユゥイも一秒五千円で黒たん先生にくっついてもいいよ……ってユゥイ? どうしたの? ユゥイ?」 見ると、ユゥイは相変わらずにこやかな顔をして動かない。 「おい」 思わず気になって手を伸ばし、その肩を指先でつつくと……。 ゴロン、と座っていた体勢のまま、ユゥイが床に転がった。 「うわあぁぁぁユゥイー!? 黒様のせいでユゥイが笑顔のまま気を失ったー!!!」 あわあわと騒ぎ出すファイを余所に、これまた意外な展開に黒鋼はただ戸惑うばかりだった。 * と、いうひと騒動から半年近くが過ぎようとしていた。 季節はじきに夏へと差し掛かろうという、梅雨入り直前。 黒鋼の目の前で、ファイが難しい顔をして唸っている。 「なんなんだよ、わざわざ呼び出しやがって」 黒鋼は休み時間の合間を縫って、化学準備室に呼び出されていた。 次の枠に授業はないものの、それなりにすることはある。くだらないことに時間を割いている余裕はないのだが。 キャスター付きの椅子にどっかりと腰掛ける黒鋼の視線は、行儀悪く机に腰掛けて腕組みをするファイに真っすぐ向けられていた。 「ねぇ先生。ちょっと前に、怪談話した夜のこと、覚えてる?」 「あ? あのてめぇの弟が失神したあんときか」 「そう、それ」 切り出されるまでとっくに忘れ去っていた。なにしろ半年近くも前の話である。それが今更どうしたというのか。 今のファイにはいつものお祭りムードの騒がしさはなく、どこか真剣で思いつめた表情をしていた。 どうもただならぬ空気を感じて、黒鋼は大人しく話を聞いてやることにした。 「実はあれ以来ね……」 あれからというもの、ユゥイはすっかり『クマ』に拒絶反応を示すようになったらしい。 たまたまテレビで動物番組がやっていても、クマが映されるだけでチャンネルを変え、以前はよくクマの形のクッキーやドーナツやパンケーキを焼いてくれたのに、今はそれが全くない。 「……それ、てめぇが単にクマ型のパンケーキ食いてぇだけだろ」 「べ、別に……オレはウサギさんでも満足してるもーんだ……」 なるほど、クマ型からウサギ型にシフトしたんだな……。 凄くどうでもいい話に、黒鋼は一瞬にして冷めた。そして「くだらねぇ」と吐き捨てて立ち上がろうとする。 「待ってよー! こんなのまだまだ序の口なんだからー!」 「どうせゲームセンター辺りで取って来たクマの縫いぐるみ捨てられたとか、糞みてぇにどうでもいい話だろ。付き合いきれねぇ」 「なんで解ったのー!? 愛!? 愛なの!?」 瞳を輝かせるファイ。さらに膝に乗り上げるようにしてしがみついてくるものだから、より鬱陶しさに磨きがかかる。 そろそろ黄金の拳の出番か……と密かに左手をニギニギしていると、子供のように頬を膨らませたファイが愚痴りはじめる。 「あのリ●ックマ取るのに何千円かけたと思ってるのさ……それをオレが寝てる間にガムテープで簀巻きにして生ごみの袋に放り込むなんて、悪魔の所業としか思えない暴挙だよー……」 「……ふむ」 この男の主張は、ズバリくだらない。 だが、流石の黒鋼もそれは確かに重症な気がしはじめる。まさかそこまでトラウマになるというのは予想外だった。 どうやらあのヒグマトークは、ユゥイの中の恐怖のツボを酷く刺激してしまったようだ。 そしてそれは、あのとき何気なく話題を提供した自分に責がある、ような気がする。 どうしたものか……と、この隙に乗じてこちらに頬擦りしたり髪の毛をクシャクシャと乱してキャッキャしている化学教師を無視していると、彼は黒鋼の目の前にピンと人差し指を立てた。 「あのねー、実はそのことですっごい名案が浮かんだんだー」 「……」 にんまりとした笑顔は、妙な恐怖症にかかっている弟の身を案じている、というよりは、悪戯でも仕掛けてやろうとしている子供のような、性質の悪い顔にしか見えない。 なにやら物凄く面倒なことになりそうな、そんな予感に黒鋼は顔を顰めた。 * 広大な学園都市の外縁部に位置する場所には、長閑な住宅地が広がっていた。 公園なども多く、豊かな自然が多く残されている。 「天気もいいし緑も多いし、絶好の行楽日和って感じだねー」 のんびりと車を走らせること数十分。 ピクニックという名目で3人はここまでやって来た。 運転する黒鋼の隣でファイがのほほんとした口調で言うと、後部座席にいるユゥイが「そうだね」と返す。 「でもよかったのかな? ボクはお邪魔だったんじゃない? ねぇ、黒鋼先生」 「なんで俺に聞くんだよ」 「そうだよー。三人でお出かけってなかなか機会ないしー。ねぇ黒たん先生」 「だから俺に話を振るな」 「なんでー?」 ハンドルを操作しつつ、黒鋼は横目で白々しい化学教師を睨みつける。 バックミラー越しに見るユゥイは、それでもまだ遠慮がちに苦笑していた。 本当なら言ってやりたい。今日の主役はてめぇだと。 いくら自分がした話がキッカケとはいえ、黒鋼とてこんな大掛かりなことになるとは、夢にも思っていなかった。 それもこれも、全て横にいるアホのせいだ。 黒鋼は、腹立たしさを覚えつつ昨晩の出来ごとを思い出していた。 * 「ねぇ知ってる? 恐怖症の中には、ごく普通に生活してるオレ達には想像も及ばないようなものが、実際にあるんだよ」 生徒たちはもちろんのこと、ほとんどの教師たちも帰宅してしまった夜の校内。 作戦会議と称して化学準備室に再び呼び出された黒鋼の目の前に、長い脚を優雅に組んだファイが椅子に腰かけている。 「例えばピエロを極度に恐れる道化恐怖症なんてのもあるし、ボタノフォビアと呼ばれる植物恐怖症。水を恐れる水恐怖症……。狂犬病の特徴に怖水症があるけど、これはウィルス感染によるものだから、原因はハッキリしてるよね」 「原因、て。どうせガキの頃のトラウマとか、ほとんどの場合はそんなもんだろ」 「それがねぇ、明確な理由もなく発症するケースって、案外少なくないんだよ。まぁ今回のユゥイの件に関しては、原因は明らかなわけだけど……」 突かれると痛い部分だったので、思わず目を逸らす。 初めてファイからその話を聞いたときは、まだ半信半疑だった。 そこで試しに今日の昼休みに、校庭脇のベンチで昼食をとっていた際に、何気なく空を見上げながら「あの雲、クマの形してるぜ」と話題を振ってみた。 するとユゥイは手を滑らせ、熱々の緑茶が入ったステンレスマグを引っくり返した。黒鋼の膝に。 (凄く熱かった……) これは本物だ……と確信した瞬間だった。 何がトラウマになるのか、理由があるにしろないにしろ人それぞれなら、何を恐れるかという恐怖のツボも、人それぞれなのだ。 確かに、どんなに完璧な人間だって、一つくらい弱点はあるだろう。 それにしても……と、壁に背を預け、腕組みをしつつ真剣に語るファイの様子を見て、黒鋼は思った。 今のファイは、まるで学校の先生のようだ……と。 普段はふにゃふにゃのアホアホな発言や行動が目立つ彼が、たまにこうしてまともな話をしているのを見ると、ギャップを感じて思わず感心してしまう。 べ、別に惚れ直してなんかいないんだからね、と内心ツンツンしている黒鋼だったが、いよいよ先刻から気になって仕方がなかったファイの身なりに、我慢の限界がきた。 「なぁ」 「ん?」 「ひとついいか?」 「なんでしょうー?」 「てめぇのその格好はなんだ……?」 「あ、これ?」 「はちみつ大好きなクマさんだよー」 椅子から立ち上がったファイは、くるりと一つ回転して見せた。 「可愛いでしょー?」 「アホだろてめぇ! なんで着ぐるみなんか着てんだって話だ!」 黒鋼が化学準備室に足を踏み入れた瞬間から、彼はすでにこのふざけた気ぐるみを纏っていた。 一瞬誰かわからず絶句してしまったこちらの身にもなって欲しい。が、すぐにこんなアホな真似をする人間はたった一人しかいないことを思いだし、無視していたのだが。 「やっと突っ込んでくれたねー。待ちわびたよー。これでユゥイを脅かして、ショック療法なんてどうかなーって。ねぇ、どう? 似合ってる?」 まぁそんなところだろうと薄々感づいてはいたが、だんだん頭が痛くなってきた。思わず額を抑えながら溜息を零す。 「似合う似合わないの問題じゃねぇ……とりあえずその着ぐるみは特大NGだろ……」 「えー? ダメー?」 不満そうな声を漏らすファイだが、表情は一切見えないので少し不気味である。 彼はしょうがないなぁ、と呟くと衝立の向こうに消えていった。 ゴソゴソと音がして、着替えているのがわかる。暫し待つ。 すると今度は。 「これならどうかなー?」 のっそり…… 「!?」 そこには完全なクマがいた。 「てめぇそれ着ぐるみの域越えてんじゃねぇか!! 中身どうなってんだ今!?」 「え? そんなに完成度高い? やっぱりオレって才能あるなー」 「手作り!? その着ぐる……いや、クマはてめぇの手作りか!?」 「質感にこだわってみましたー」 そのハリウッドばりの技術と熱意をもっと他に生かす場所はなかったのか。ショック療法という名のドッキリ作戦のためだけに本気を出すのはやめてほしい。 それにしてもこれではユゥイでなくとも、誰だって腰を抜かすのではないか。流石の黒鋼も失禁……まではいかないが、正直ちょっとビビった。と、いうか普通に怖い。 「それだけはよせ! やめとけ! おまえがあの弟を愛してるなら、マジでやめとけ!」 「いいから脱げーー!!!」 リアルクマに飛びかかり表面を剥がそうとすると、クマ(ファイ)は激しく暴れた。 「イヤ! やめてこんなところで! 脱がすならベッドの上にして!」 「気色悪ぃこと言ってんじゃねぇ!! 腹かっ捌くぞ!!」 「奥の奥まで犯されるー!!」 「ド阿保!!!」 見た目はリアルなクマでも、所詮中身は非力な化学教師であることに代わりはなく、その後ファイはあっけなく剥かれた。 そして結局……。 見るもファンシーなクマに落ち着くことになった。 ファイは少し不満そうだったが、これなら誰でもただの着ぐるみだと判るだろう。 作戦としては、どこか自然豊かな山か森のような場所に当たりをつけて、そこにユゥイを呼び出し、驚かせよう……というものだった。 『驚かせよう』と言いきっている時点で、もはや治療という本来の目的から遠ざかっている気がするが、状況は違えども実際に似たような治療方法は存在するらしい。 例えば高所恐怖症の人間に、ひたすら高所から下を見下ろす映像を見せ続け、慣れさせていくことで恐怖を緩和させていく、というものらしいが、ファイの楽しげな様子を見ていると、完全にただのこじつけに思えてならない黒鋼だった……。 * と、黒鋼が昨夜の回想に耽っている間に、目的の場所に辿り着いた。 そこは住宅地から外れた一角にある、大きな自然公園の駐車場だった。 小高い山は散歩コースになっているらしい。遠目から見ても丸太で出来た柵が小道沿いに連なっているのがわかった。 おそらくあそこが作戦の舞台になるのだろう……。 ここまで来ておいてなんだが、本気でやるのか……とファイを横目で見ると、彼はなぜか屈みこみ、口元を押さえて震えていた。 「うぅ……」 「ど、どうしたのファイ? 具合でも悪いの?」 後部座席から顔を出したユゥイが、心配そうにファイを覗き込む。 ファイは額に汗をにじませ、青白い顔を上げると頼りなげに微笑んだ。 女優だ……女優がいる……。 「うん……ちょっと、車酔いしたのかもしれない……少し休めば大丈夫だと思う……」 「でも……」 「せっかくだし、ユゥイと黒様先生は先に行ってて。よくなったらすぐに行くから」 ユゥイは困り顔で黒鋼に目を合わせてきた。 彼としては、調子の悪いファイを置いて先に行くなんて真似は考えられないのだろう。 よし、じゃあ今ここで弁当だけ食って家に帰ろう……と言いたかったが、ここまで来たら後戻りはできない。 チラチラとこちらに目配せしてくるファイにイラッとしつつ、シナリオ通りの台詞を口にする。 「せ っ か く 来 た ん だ。 先 に 行 っ て よ う ぜ」 (棒読み) 「でもファイが……」 「ホントに大丈夫だよー。お兄ちゃんすぐに追いかけるからー。ね?」 「……うん……」 渋々といった具合で頷くユゥイを見て、そういえば双子といえども、一応はファイの方が兄貴だったことを思い出す。 お兄ちゃん、という言葉をファイ自身が口にしたことで、なんだかんだで素直なユゥイはどうにか納得したらしい。 「そ れ じ ゃ あ 行 こ う ぜ」 (棒読み) 弁当の入ったバッグを担いで先に車を降りた黒鋼に続いて、ユゥイもドアを開ける。 二人並んで歩きながらも、ユゥイは幾度も車の中のファイを心配そうに振り返っていた。 * 木漏れ日の射す、森の散歩道。 初夏の風と小鳥のさえずりの中、黒鋼とユゥイはほとんど会話もなくコースを散策していた。 なぜこんな茶番に付き合わされているのだろう。 基本的に、人ひとりの生涯で巨大なクマに遭遇する確率というのは、如何ほどのものなのだろうか。少なくともアウトドアが趣味でもなければ、山奥に暮らす予定もない黒鋼のような人間にとっては、ほぼ0に近いのではないか。 たかだか縫いぐるみを捨てられるとか、クマ型の菓子類が食えないとか、そんなことは校庭の隅っこに生える雑草で羽を休めるハエ以上にどうでもいい話だ。 それでも律儀に付き合ってやっているのは、やはりユゥイに対して申し訳ない気持ちがあるから、なのかもしれない。 そこで黒鋼はハッとした。 申し訳ないと感じているなら、なぜ自分はこんなくだらないドッキリ作戦に参加しているのか。 ファイはアホなので、アホみたいな悪戯をアホの如く実行に移してしまうのは仕方がないとして、自分のキャラクターはそんなアホの悪行を、拳で止めるのが役目だったのではなかったか。 (なにやってんだ俺は……) 今更になって自分の方向性を見失っていたことに気づいても、もう遅い。今頃ファイは着々と準備を進めている頃だろう。 そうだ。何にしろ、奴がえらく楽しそうだったのが全ていけない。 あまりにウキウキとして、まるで本当にピクニックにでも出かけるような空気を出しているものだから、ついそんな様が微笑ましくて……。 (あーっ! ちくしょう!!) ユゥイはよほどファイが気になるのか、時おり背後を気にしている。 だが、黒鋼が思い切り顔色を損ねていることに気がついて、顔を覗き込んできた。 「もしかして、黒鋼先生も体調が優れませんか?」 「あ? なんだ? なにか言ったか?」 まるで聞こえていなかった黒鋼の反応を見て、ユゥイは小さくクスリと笑った。 「なんだよ」 「いえ、やっぱりファイがいないと退屈なのかと思って」 「!?」 「黒鋼先生はなんだかんだ言って、ファイのことで頭がいっぱいですよね」 「!?」 なぜか否定できなかった。なんと言っても、今まさに黒鋼の頭はファイのことでパンクしそうになっていたからだ。 決してユゥイが微笑ましげに語るような、甘ったるい意味だけではないのが残念なところなのだが……。 「それにしてもファイは大丈夫なのかな。なんだか様子が妙でしたよね」 「……あいつが妙なのはいつものこったろ」 「いえ……ああいうときのファイって、必ず何か企んで」 「しかしあれだな、いい天気だな」 咄嗟にユゥイの言葉にかぶせて話題を逸らす。 何もここでバラしたところで罰は当たらない……というより、むしろファイに罰が下るだけで黒鋼的に問題はないはずなのだが。 反射的に庇う真似をしてしまったことに頭を抱えたくなる。 これら全てを惚れた弱みと呼ぶのなら、奴に惹かれてしまった自分の好みを呪いたい……。 ユゥイは少し不思議そうにしながらも「そうですね」とのんびり返してくる。 黒鋼としては、あんな残念な男でも一応は恋仲であり、自分なりに大切にしているつもりなのだ。 そして今、すぐ隣を歩く男はそれと同じ顔の造りをしているわけで、そんな相手を騙しているのだと思うと、それなりに罪悪感は拭えない。 そうだ、自分にも非があるのだと認めているのなら、せめて謝罪くらいはしておくか……。 「おい」 「はい?」 「奴から聞いた。俺が妙な話しちまったせいで、なんかえらいことになってるってな」 ユゥイは微かに眉をひそめ、そして足を止めた。 木の柵に手をつくと俯いて「いいえ」と首を振る。 「あのときは、ちょっと子供の頃の嫌なことを思い出してしまって……」 「ガキの頃?」 演技ではなく正真正銘、顔色を悪くしているユゥイが力なく笑う。 「……詳しく聞いてもいいか?」 「そうですね……」 遠くの空に瞳を眇めながら、ユゥイが語りだした。 「まだボクらが小さかった頃。ファイはよく寝る前に、ボクに色々なお伽噺を聞かせてくれました」 「ほう?」 あいつもあいつなりに、兄貴らしいことをしてきたんだな……と感心する。 以前、二人が子供の頃のアルバムを見せてもらったことがあったが、はっきり言ってそれこそ頭からかぶりつきたくなるくらい可愛らしかった。(口に出しては言わなかったが) 「それが、ファイなりに色々と脚色してあって……」 「ふむ……」 ただ童話の類を聞かせるだけでなく、自分なりに想像力を働かせてアレンジしていたのか。弟のためにそこまでするなんて、なんと心優しく聡明なお子さんだ。それがどうしてああなった……。 だがユゥイの表情はさらに曇っていく。 「なんと言うか……いちいち描写が詳細というか、グロテスクというか……絵本には描かれていない現実を、まざまざと見せつけられるような……」 「……あ?」 例えば赤ずきんの話。 おばあさんや赤ずきんが狼に食べられるシーンでは、肉や骨を噛み砕き、中から引きずりだした内臓の細部やら、赤黒い血液が壁一面に飛び散る場面などを、まるで実際に現場を見てきたかの如くリアルに話して聞かせられたらしい。 しかも最終的には狼はただ猟師に撃たれ、赤ずきんとおばあさんが救われるオチは、当然ながら揉み消されていた……。 「なぁそれってつまり……」 本当は怖い童話ってやつではないのか……? 「幼いボクには刺激が強すぎました……眠る、というよりは、いつも途中で気を失っていただけでした……」 どこかやさグレた、力ない笑顔で、ユゥイは長年の胸の痞えを吐きだしたかのような溜息を零した。 「普段は忘れていられました……だけど、あの夜は部屋も暗かったし、状況が似ていたので、ついフラッシュバックのようなものを起こしてしまって……」 点と点が繋がったような気がした。 つまり、だ。 元を正せば彼がおかしな恐怖症を患ったのも、こんな茶番劇が繰り広げられているのも、全ての元凶は……。 「あんの野郎~~~っ!!!」 咄嗟に握った拳を、すぐ傍の大木に打ちつけていた。 ズドン、という音がして、枝が激しくざわめき、鳥たちが飛び立っていく。これが夏の真っ盛りだったら、カブトムシやクワガタの一匹や二匹くらいは落ちてきたかもしれない。 「黒鋼先生がそこまで怒らなくても……ファイはちょっと変わった子でしたけど、このトラウマはいまだに引きずっているボクの問題で……」 「てめぇだけの問題じゃねぇ!! 現に俺はあのアホのせいでわざわざこんな場所まで……っ」 「え……?」 ユゥイは、信じられないものを見る目で黒鋼の方を見た。 「だから、これはあの馬鹿が全部仕組んだくだらねぇドッキリ企画で、てめぇを怖がらせるためにだな……って、聞いてんのかこら!!」 「あ……」 ついに完全に顔面蒼白になっているユゥイは、震える指で黒鋼の方を指さしている。 だが、その表情も指先も、こちらに向けられているようでいて、実は違っていた。それはどちらも黒鋼を通り越して、後方へと向けられていたのだ。 「!?」 あの馬鹿がもう来たのか!? と、咄嗟に振り返る。 そこには……。 見事にリアリティ溢れるクマが、二人の視界の数メートル先にいた。 「こらてめぇ!! 全部聞いたぞ!! だいたいそのリアルな方の着ぐるみはよせってあれほど言ったろうが!!」 クマはいきなりこちらに向かって怒鳴りだした人間を見て、首を傾げている。 なんという白々しい演技だろう。明かされた事実も相まって、黒鋼はブチ切れた。 ボッコボコにするために飛びかかって行こうとしたその瞬間、背後から羽交い絞めにされる。 「!?」 見れば、相手は必死な形相のユゥイだった。 「おい……なんのつもりだ……?」 「食べるならこの黒い人を食べてください!!」 「あぁ!? 俺は生贄か!? この野郎なに考えて……っ」 「大丈夫……ファイは一生ボクが大切に面倒を見ていくので、黒鋼先生はここで大人しく」 「できるか!!」 「ファイの老後の下の世話もちゃんとしますから!!」 「てめ、マジふざけんじゃねぇってか、何だこの火事場の馬鹿力!?」 この自分がどんなに力を振り絞っても身動き一つ出来ないのだ。彼の細腕のどこにこれほどの力が眠っていたのか……。 そしてユゥイの中で完全に黒鋼は『捕食される側』として食物連鎖のピラミッドに組み込まれているこの事実。 とは言ってもあのクマの中身はファイなのだから、何もこんなに激しく揉み合うこともないのだが……と、思っていると、二人の後方から声がした。 「あれ!? ちょっとー、なに二人でくっついてんのさー!!」 「「!?」」 そこにいたのはファンシーなクマの着ぐるみ男だった。 その可愛らしいクマは、くっついて硬直している二人を見て酷く憤慨しているらしく、飛び跳ねて地団太を踏んでいる。 「駄目だよユゥイったらー!! しかもその体勢から察するに黒様が下なの!? ちょ、ダメダメ絶対に駄目ーっ!! 黒様の初めてはオレが狙ってるんだからー!!」 おまえ受のくせしてなんてもの狙ってやがる!? などと突っ込みを入れる余裕など、微塵もない。 黒鋼はリアルな方とファンシーな方のクマを交互に見やった。 そしてふと一連の不自然さに気がつく。 そうだ、リアルなクマがいるのは黒鋼とユゥイが向かっていた方向であり、ファイは後から追いかけてくる手筈になっていた。 ファイが自分たちの前方から来ようと思えば、全力で山を迂回して、道なき道を突き進み、この遊歩道に入って来るしかなかったはず。 このへなちょこ化学教師に、それだけの気力と体力があるとは到底思えない。そんな簡単なことに、なぜ気がつかなかったのだろう……。 「……マジもんだ、ありゃあ……」 その瞬間、黒鋼の背後からユゥイが遠ざかる。 「おい……っ!?」 腕を引く間もなく、彼は地面にバッタリと倒れて気を失っていた……。 流石のファイも転びそうになりながら駆け寄って来た。そしてようやく彼も状況を飲み込んだ。 ユゥイの傍にしゃがみこみ、視線は数メートル先へ向けられている。 おそらく凍りついた表情をしてるのだろうが、着ぐるみのせいで読み取ることは出来ない。 「……ねぇ黒様……オレたち以外に、助っ人なんていたっけ……?」 「いるわけねぇだろ……ありゃあ正真正銘、リアルの方だ……」 こちらを注意深く窺いながら、クマがゆっくりと近づいてきた。 「逃げるぞ!!」 この距離で果たして逃げ切れるかはわからない。だが、最悪ファイとユゥイの二人だけでも、無事に逃がしてやらなければ。 即座に決意して、ユゥイを担ぎあげるために咄嗟に腕を伸ばそうとした、その瞬間、なぜか黒鋼は、再びとてつもない力によって羽交い絞めにされていた……。 「なっ!?」 「ギャアーーッ!! ごめんなさいごめんなさいオレなんか食べるとこないから美味しくないよーっ!! 食べるならこの極上の筋肉を!!」 「てめぇーー!? 揃いも揃って俺を人柱に捧げんじゃねぇー!!!」 「オレと黒様の愛は永遠に不滅だよ!! 会えなくなっても、ずっと愛してる!!!」 「破局だ破局!! てめぇとなんかやってられっか!!!」 一瞬でも身を犠牲にして守り抜こうとした決意を返せ……。 揉み合う二人に、ついに巨大なクマが雄たけびを上げて、襲いかかろうとした。その一瞬がまるでスローモーションのように黒鋼の目に映る。 (でけぇ……!!) 黒鋼と同等か、あるいはそれ以上かもしれない。二本足で立ちあがったクマの影が、二人をすっぽりと包みこむ。 咄嗟に、黒鋼はファイ(着ぐるみ)を抱き込んで背を向けた。 頭の中を行き来するのは、これまでの人生の走馬灯。 ごく平凡な家庭に育ち、多少のヤンチャはしたかもしれないが、真っ当な青春時代を過ごして教師になった。 そこでこの腕の中の男(着ぐるみ)と出会った。 出会って、なぜか惹かれてしまった。 時にはちょっとした擦れ違いから言い合うこともあったし、寂しい思いをさせたこともある。幾度ゲンコツを食らわせて昏倒させたかも解らない。 それでもいつでも笑顔を絶やさないファイ(着ぐるみ)を愛していた。 突っ込みどころ満載な仲間達に囲まれて、傍にはファイ(着ぐるみ)もいて、毎日が一瞬の光のように感じられていたのはきっと、それほどまでに満ち足りた日々だったことの、何よりの証に思えた。 (ちと短かったが……悪くない人生だったぜ……) 目を閉じて、覚悟を決める。 だが、衝撃はいつまで経っても訪れない。 「…………?」 代わりに、ドォンという何かが激しくぶつかるような衝撃音がした。それからすぐに、バキバキという音が立て続けに聞こえて、黒鋼とファイの二人は目を見開いてその方向を凝視する。(ファイは着ぐるみなので表情は謎だが) 「……ほへ?」 ファイが間抜けな声を上げた。二人の何メートルも先の山の斜面の一角の木々が、綺麗に薙ぎ倒されている。 その中心にはピクリとも動かないクマが、腹を見せて倒れていた。泡を噴いているところを見ると、完全に意識を失っているようだ。辺りにもうもうと土埃が立ち込めている。 「……何が起きた……?」 「ゆ、ユゥイ……?」 ファイの茫然とした呟きに、黒鋼も目を向ける。 そこには、ゆらりと立ち上がったユゥイが、肩で息をしている姿があった。 「ふふ……あはは……」 低い声で、彼は笑い声を上げた。その表情は前髪に隠れてよくは見えない。 「人間……死ぬ気でかかれば出来ないことはないんだね……」 「お、おい……おまえまさか……あれを……」 投げたのか……。 あの状況では、死ぬ気でかかっても生還できる確率は限りなく低く思えるのだが。 これが本当の火事場の馬鹿力というやつなのか。 「さてと……」 どこか禍々しいオーラを放つユゥイが、ゆっくりとこちらに向けて歩いてくる。 極限状態のせいか、足を縺れさせて近づいてくる身体は時折ガクンと左右に傾き、まるでテレビのブラウン管の中から物理的な概念を捻じ曲げて這い出して来た、あの超有名人のようになっていた。(主な生息地:井戸) 「ここにもまだ一匹、可愛い小熊がいるね……?」 「ヒッ!? ゆ、ユゥイ? ユゥイちゃん? オレだよ、ほら、この頭のやつを取れば……って、あ、あれ? 取れない……?」 黒鋼の腕の中から飛び出したファイが、必死で着ぐるみの頭の部分を引っこ抜こうとしてもがいている。設計ミスだろうか。 「!?」 あはは……と笑いながら距離を縮めてくるユゥイを見て、黒鋼は彼があの夜、しみじみと呟いていた言葉を思い出していた。 『結局、生きてる人間が一番怖いと、ボクは思うな……』 なるほど、こういうことか……と、妙に納得している間に、ユゥイによって華麗に背負い投げされたファンシーなクマの悲鳴が、小高い山の中に響き渡った……。 * あ、死んだ……と思ったファイは生きていた。 そして適当な枝の棒きれをついて、腰の曲がった老人のようにヨロヨロしながら背後をついてくる。 投げ飛ばされ、なぜかキリモミ状に吹っ飛んだ拍子に頭の部分だけは無事に取れていた。 季節は初夏である。風通し最悪の着ぐるみ姿のファイは、顔を真っ赤にして少しのぼせているようだった。ご利用は計画的に……。 「あのぉ~……黒たん先生……オレもおぶってほしいんだけど~……」 「定員オーバーだ」 黒鋼の背中には、ぐったりと気を失うユゥイが背負われ、気を失っている。 彼はファイを投げ飛ばしたあと「勝った……」という呟きを最後に、再び地に伏した。 果たして彼が勝利したのは、クマという存在に対してなのだろうか。黒鋼には、ユゥイが抱えていた深いトラウマのことのように思えてならなかった。 「これアバラの一本や二本は確実に行ってる気がする……」 それに関しては自業自得としか言いようがない。 「なんにしろ、一件落着だな……」 「無視しないでよーっ」 うわあぁぁぁ……と泣きべそをかくファイを、それでも「頑張れ」と励ましてやりながら、妙に長く感じる山の散歩コースを歩いて下山した。 * 翌日、気を失った巨大熊が捕獲されたという記事が、新聞の見出しを飾った。 クマは動物園に送られ、飼育される運びとなったらしい。 恐ろしい生き物ではあったが、決して罪はないぶん、殺されなかったことに少し安堵する。 ユゥイはその新聞の記事を見ながら「これってボクらが行った公園じゃない?」と目を丸くしていた。 彼は黒鋼と共に車を降りた辺りからの記憶が、スッポリと抜け落ちていいるらしい。 その横で、骨にはどこも異常のなかったファイが、ユゥイが焼いたパンケーキを頬張って幸せそうにしている。 日ごろから黒鋼の拳に鍛えられているせいか、頬に掠り傷を負った程度で頭にも異常はなかった。 そんなファイが美味そうに食べているパンケーキはクマの形。 弟はトラウマを克服できたらしいし、兄には多少はお灸をすえることが出来たし、晴れて丸く収まったことに安堵しながら、ほんの気まぐれで口に入れてみたパンケーキの甘さに咳込む黒鋼を見て、仲のいい双子が声を上げて笑った。 おしまい 素材・M/Y/D/S動物のイラスト集 いらすと や まぜわん。 ←戻る ・ Wavebox👏
「はーい次オレオレー! オレの番ねー!」
時刻は丑三つ時、真っ只中。
暗い部屋の中央のテーブルに、蝋燭が一本だけ立っている、そんな空間に似つかわしくない陽気な声を上げるファイ。
「あのねー、これはオレの友達の友達の親戚の、そのまた友達のおばあちゃんの女学生時代の友達のお母さんが体験した話なんだけど」
遠いなオイ……という突っ込みを入れたくてウズウズしている黒鋼を余所に、ファイは上機嫌で怪談話を始める。
終始無言で腕組みをする黒鋼の横で、ユゥイが「へぇ」とか「ふぅん」とか、いちいち相槌を打っていた。
一体これで何話目だろうか。
夕飯後、唐突に「冬こそ怪談だー!」と一人勝手に盛り上がりだしたファイによって、なぜか百物語的なものに付き合わされている。
流石に百本の蝋燭は用意できなかったので、有り合わせの一本だけだが。
「でね、朝目が覚めたら、天井にいっぱい手形がついてたんだってー!」
「へぇ。じゃあ掃除するのが大変だったろうね。ちゃんと綺麗に落とせたのかな?」
「気にするとこ違うんじゃねぇか……?」
のほーんとしたユゥイの反応に堪らず突っ込みを入れる。始まってからずっとこの調子だった。
そもそもニコニコ顔で怪談話をする兄もどうかと思うが、全く同じ笑顔で聞き入る弟もどうかと思う。(しかも反応する場所があきらかにズレてる)
興味のない振りでその実ちゃっかり耳を傾ける黒鋼にしてみれば、そこそこ背筋にゾッと来るような内容だったのだが。
「ユゥイも黒様先生も、もっと怖がってよー! 特に黒様先生は軽く失禁くらいしてくんなきゃつまんなーい」
「するか! くだらねぇ!」
「そうだよファイ。そんなことされたら絨毯を取り変えなくちゃいけなくなるよ」
「でもさー、将来的にはオレ、黒様の下の世話もする気満々だから、今から練習しておきたいんだよー。すでにオムツとか屎尿瓶もネットで購入済みだし」
「でも絨毯が……」
「おまえら……」
二人まとめて本気で顔の形が変わるまで殴りつけたい……と拳を震わせる。
だが、下の世話云々の下りにはちょっと感動している黒鋼。そのせいでオムツと屎尿瓶に突っ込むのを忘れた。
「うーん。どうすれば二人とも怖がるかなぁ……そろそろお話のストック尽きてきちゃったよー」
決して怖くないわけではない。中には『それ洒落にならねぇだろ』と思わざるをえない話も幾つかあった。
だが顔に出さないだけだ。ただでさえ平気な顔した双子に挟まれて、自分一人がビビっていると思われるのは癪だった。
そもそも実態の掴めない存在というものは性質が悪い。腹が立っても殴れないではないか。
「だったらもうお開きでいいんじゃねぇか?」
「ねぇねぇユゥイー。次はどんな話がいいー? 人形系? あ、幽体離脱の話とかは?」
余裕でストックあるじゃねぇか……しかも無視か……と密かに傷つく黒鋼を他所に、ユゥイはやんわりとした笑顔を崩さず「うーん」と小さく唸った。
「話はどれも面白いけど……幽霊話って実はどれもピンと来ないんだよね」
「ふぅん? じゃあユゥイは何が怖いのー?」
「そうだね……人間、かな……」
「え?」
「結局、生きてる人間が一番怖いと、ボクは思うな……」
フッ……と翳りのある笑みを浮かべるユゥイ。蝋燭だけの仄暗い空間に、その言葉はどこか重い。
彼に一体なにがあったのだろう。女か? 女関係か?
黒鋼の野生の勘が、詳しく聞けば本気で失禁しかねないぞ、と告げているので訊ねるのは止めておいた。
「そっかー。確かにそれは頷けるかもー。オレだってもし黒様がどっかのメス豚と浮気なんかしたら、細切れ
おまえは愛が重い……。
「そういやぁ……」
黒鋼はそのとき、なぜかふといつだったか聞いたことのある噂話を思い出した。
「幽霊でも人間でもねぇが、エグい話があったな……」
「え!? なになに!? グロ!? グロなの!?」
ファイがテーブルに両手をついて身を乗り出す。その目が期待にキラキラしているのを見て、黒鋼は仕方なく話して聞かせることにした。
「ちょっと聞きかじった程度で、よくは知らねぇが……。確かえらく大昔の話だったか……」
それは、人里離れた山間部の小さな村が、体長2メートルを優に超える巨大なヒグマに襲われ、ほぼ壊滅状態に陥ったという話。
今のようにまともな通信手段もなければ車もなく、助けを呼ぶこともままならない中、一人、また一人と、村人たちはヒグマによってなす術もなく喰い荒されたと言う。
やがて町の討伐隊によって仕留められたヒグマの腹を裂くと、喰われた人間のものと思しき着物の切れ端や帯、髪の毛が次から次へと出てきたそうだ。
「クマってのは、一度目をつけた獲物にはとことん執着するらしいぜ。人間の味をしめて、しつこく襲って……って、おい、なんだよ……?」
気がつけば、室内がしんと静まり返っていた。
さっきまでバリバリの怪談話に花を咲かせていたファイですら、無言で『つつつ……』とこちらに身を寄せてくると、ぎゅっと腕を組んでくる。
「そ、それ……下手するとお化けよりずっと怖い……」
お? これはなかなか新鮮でいい反応だ……。
普段は幽霊だろうがゴキブリだろうが雷親父だろうが楽しげに飄々としている化学教師が、今は背筋を震わせながらしがみついているのだ。なかなか可愛げがあるではないか。
「ユゥイー、今だけ特別ユゥイも一秒五千円で黒たん先生にくっついてもいいよ……ってユゥイ? どうしたの? ユゥイ?」
見ると、ユゥイは相変わらずにこやかな顔をして動かない。
「おい」
思わず気になって手を伸ばし、その肩を指先でつつくと……。
ゴロン、と座っていた体勢のまま、ユゥイが床に転がった。
「うわあぁぁぁユゥイー!? 黒様のせいでユゥイが笑顔のまま気を失ったー!!!」
あわあわと騒ぎ出すファイを余所に、これまた意外な展開に黒鋼はただ戸惑うばかりだった。
*
と、いうひと騒動から半年近くが過ぎようとしていた。
季節はじきに夏へと差し掛かろうという、梅雨入り直前。
黒鋼の目の前で、ファイが難しい顔をして唸っている。
「なんなんだよ、わざわざ呼び出しやがって」
黒鋼は休み時間の合間を縫って、化学準備室に呼び出されていた。
次の枠に授業はないものの、それなりにすることはある。くだらないことに時間を割いている余裕はないのだが。
キャスター付きの椅子にどっかりと腰掛ける黒鋼の視線は、行儀悪く机に腰掛けて腕組みをするファイに真っすぐ向けられていた。
「ねぇ先生。ちょっと前に、怪談話した夜のこと、覚えてる?」
「あ? あのてめぇの弟が失神したあんときか」
「そう、それ」
切り出されるまでとっくに忘れ去っていた。なにしろ半年近くも前の話である。それが今更どうしたというのか。
今のファイにはいつものお祭りムードの騒がしさはなく、どこか真剣で思いつめた表情をしていた。
どうもただならぬ空気を感じて、黒鋼は大人しく話を聞いてやることにした。
「実はあれ以来ね……」
あれからというもの、ユゥイはすっかり『クマ』に拒絶反応を示すようになったらしい。
たまたまテレビで動物番組がやっていても、クマが映されるだけでチャンネルを変え、以前はよくクマの形のクッキーやドーナツやパンケーキを焼いてくれたのに、今はそれが全くない。
「……それ、てめぇが単にクマ型のパンケーキ食いてぇだけだろ」
「べ、別に……オレはウサギさんでも満足してるもーんだ……」
なるほど、クマ型からウサギ型にシフトしたんだな……。
凄くどうでもいい話に、黒鋼は一瞬にして冷めた。そして「くだらねぇ」と吐き捨てて立ち上がろうとする。
「待ってよー! こんなのまだまだ序の口なんだからー!」
「どうせゲームセンター辺りで取って来たクマの縫いぐるみ捨てられたとか、糞みてぇにどうでもいい話だろ。付き合いきれねぇ」
「なんで解ったのー!? 愛!? 愛なの!?」
瞳を輝かせるファイ。さらに膝に乗り上げるようにしてしがみついてくるものだから、より鬱陶しさに磨きがかかる。
そろそろ黄金の拳の出番か……と密かに左手をニギニギしていると、子供のように頬を膨らませたファイが愚痴りはじめる。
「あのリ●ックマ取るのに何千円かけたと思ってるのさ……それをオレが寝てる間にガムテープで簀巻きにして生ごみの袋に放り込むなんて、悪魔の所業としか思えない暴挙だよー……」
「……ふむ」
この男の主張は、ズバリくだらない。
だが、流石の黒鋼もそれは確かに重症な気がしはじめる。まさかそこまでトラウマになるというのは予想外だった。
どうやらあのヒグマトークは、ユゥイの中の恐怖のツボを酷く刺激してしまったようだ。
そしてそれは、あのとき何気なく話題を提供した自分に責がある、ような気がする。
どうしたものか……と、この隙に乗じてこちらに頬擦りしたり髪の毛をクシャクシャと乱してキャッキャしている化学教師を無視していると、彼は黒鋼の目の前にピンと人差し指を立てた。
「あのねー、実はそのことですっごい名案が浮かんだんだー」
「……」
にんまりとした笑顔は、妙な恐怖症にかかっている弟の身を案じている、というよりは、悪戯でも仕掛けてやろうとしている子供のような、性質の悪い顔にしか見えない。
なにやら物凄く面倒なことになりそうな、そんな予感に黒鋼は顔を顰めた。
*
広大な学園都市の外縁部に位置する場所には、長閑な住宅地が広がっていた。
公園なども多く、豊かな自然が多く残されている。
「天気もいいし緑も多いし、絶好の行楽日和って感じだねー」
のんびりと車を走らせること数十分。
ピクニックという名目で3人はここまでやって来た。
運転する黒鋼の隣でファイがのほほんとした口調で言うと、後部座席にいるユゥイが「そうだね」と返す。
「でもよかったのかな? ボクはお邪魔だったんじゃない? ねぇ、黒鋼先生」
「なんで俺に聞くんだよ」
「そうだよー。三人でお出かけってなかなか機会ないしー。ねぇ黒たん先生」
「だから俺に話を振るな」
「なんでー?」
ハンドルを操作しつつ、黒鋼は横目で白々しい化学教師を睨みつける。
バックミラー越しに見るユゥイは、それでもまだ遠慮がちに苦笑していた。
本当なら言ってやりたい。今日の主役はてめぇだと。
いくら自分がした話がキッカケとはいえ、黒鋼とてこんな大掛かりなことになるとは、夢にも思っていなかった。
それもこれも、全て横にいるアホのせいだ。
黒鋼は、腹立たしさを覚えつつ昨晩の出来ごとを思い出していた。
*
「ねぇ知ってる? 恐怖症の中には、ごく普通に生活してるオレ達には想像も及ばないようなものが、実際にあるんだよ」
生徒たちはもちろんのこと、ほとんどの教師たちも帰宅してしまった夜の校内。
作戦会議と称して化学準備室に再び呼び出された黒鋼の目の前に、長い脚を優雅に組んだファイが椅子に腰かけている。
「例えばピエロを極度に恐れる道化恐怖症なんてのもあるし、ボタノフォビアと呼ばれる植物恐怖症。水を恐れる水恐怖症……。狂犬病の特徴に怖水症があるけど、これはウィルス感染によるものだから、原因はハッキリしてるよね」
「原因、て。どうせガキの頃のトラウマとか、ほとんどの場合はそんなもんだろ」
「それがねぇ、明確な理由もなく発症するケースって、案外少なくないんだよ。まぁ今回のユゥイの件に関しては、原因は明らかなわけだけど……」
突かれると痛い部分だったので、思わず目を逸らす。
初めてファイからその話を聞いたときは、まだ半信半疑だった。
そこで試しに今日の昼休みに、校庭脇のベンチで昼食をとっていた際に、何気なく空を見上げながら「あの雲、クマの形してるぜ」と話題を振ってみた。
するとユゥイは手を滑らせ、熱々の緑茶が入ったステンレスマグを引っくり返した。黒鋼の膝に。 (凄く熱かった……)
これは本物だ……と確信した瞬間だった。
何がトラウマになるのか、理由があるにしろないにしろ人それぞれなら、何を恐れるかという恐怖のツボも、人それぞれなのだ。
確かに、どんなに完璧な人間だって、一つくらい弱点はあるだろう。
それにしても……と、壁に背を預け、腕組みをしつつ真剣に語るファイの様子を見て、黒鋼は思った。
今のファイは、まるで学校の先生のようだ……と。
普段はふにゃふにゃのアホアホな発言や行動が目立つ彼が、たまにこうしてまともな話をしているのを見ると、ギャップを感じて思わず感心してしまう。
べ、別に惚れ直してなんかいないんだからね、と内心ツンツンしている黒鋼だったが、いよいよ先刻から気になって仕方がなかったファイの身なりに、我慢の限界がきた。
「なぁ」
「ん?」
「ひとついいか?」
「なんでしょうー?」
「てめぇのその格好はなんだ……?」
「あ、これ?」
「はちみつ大好きなクマさんだよー」
椅子から立ち上がったファイは、くるりと一つ回転して見せた。
「可愛いでしょー?」
「アホだろてめぇ! なんで着ぐるみなんか着てんだって話だ!」
黒鋼が化学準備室に足を踏み入れた瞬間から、彼はすでにこのふざけた気ぐるみを纏っていた。
一瞬誰かわからず絶句してしまったこちらの身にもなって欲しい。が、すぐにこんなアホな真似をする人間はたった一人しかいないことを思いだし、無視していたのだが。
「やっと突っ込んでくれたねー。待ちわびたよー。これでユゥイを脅かして、ショック療法なんてどうかなーって。ねぇ、どう? 似合ってる?」
まぁそんなところだろうと薄々感づいてはいたが、だんだん頭が痛くなってきた。思わず額を抑えながら溜息を零す。
「似合う似合わないの問題じゃねぇ……とりあえずその着ぐるみは特大NGだろ……」
「えー? ダメー?」
不満そうな声を漏らすファイだが、表情は一切見えないので少し不気味である。
彼はしょうがないなぁ、と呟くと衝立の向こうに消えていった。
ゴソゴソと音がして、着替えているのがわかる。暫し待つ。
すると今度は。
「これならどうかなー?」
のっそり……
「!?」
そこには完全なクマがいた。
「てめぇそれ着ぐるみの域越えてんじゃねぇか!! 中身どうなってんだ今!?」
「え? そんなに完成度高い? やっぱりオレって才能あるなー」
「手作り!? その着ぐる……いや、クマはてめぇの手作りか!?」
「質感にこだわってみましたー」
そのハリウッドばりの技術と熱意をもっと他に生かす場所はなかったのか。ショック療法という名のドッキリ作戦のためだけに本気を出すのはやめてほしい。
それにしてもこれではユゥイでなくとも、誰だって腰を抜かすのではないか。流石の黒鋼も失禁……まではいかないが、正直ちょっとビビった。と、いうか普通に怖い。
「それだけはよせ! やめとけ! おまえがあの弟を愛してるなら、マジでやめとけ!」
「いいから脱げーー!!!」
リアルクマに飛びかかり表面を剥がそうとすると、クマ(ファイ)は激しく暴れた。
「イヤ! やめてこんなところで! 脱がすならベッドの上にして!」
「気色悪ぃこと言ってんじゃねぇ!! 腹かっ捌くぞ!!」
「奥の奥まで犯されるー!!」
「ド阿保!!!」
見た目はリアルなクマでも、所詮中身は非力な化学教師であることに代わりはなく、その後ファイはあっけなく剥かれた。
そして結局……。
見るもファンシーなクマに落ち着くことになった。
ファイは少し不満そうだったが、これなら誰でもただの着ぐるみだと判るだろう。
作戦としては、どこか自然豊かな山か森のような場所に当たりをつけて、そこにユゥイを呼び出し、驚かせよう……というものだった。
『驚かせよう』と言いきっている時点で、もはや治療という本来の目的から遠ざかっている気がするが、状況は違えども実際に似たような治療方法は存在するらしい。
例えば高所恐怖症の人間に、ひたすら高所から下を見下ろす映像を見せ続け、慣れさせていくことで恐怖を緩和させていく、というものらしいが、ファイの楽しげな様子を見ていると、完全にただのこじつけに思えてならない黒鋼だった……。
*
と、黒鋼が昨夜の回想に耽っている間に、目的の場所に辿り着いた。
そこは住宅地から外れた一角にある、大きな自然公園の駐車場だった。
小高い山は散歩コースになっているらしい。遠目から見ても丸太で出来た柵が小道沿いに連なっているのがわかった。
おそらくあそこが作戦の舞台になるのだろう……。
ここまで来ておいてなんだが、本気でやるのか……とファイを横目で見ると、彼はなぜか屈みこみ、口元を押さえて震えていた。
「うぅ……」
「ど、どうしたのファイ? 具合でも悪いの?」
後部座席から顔を出したユゥイが、心配そうにファイを覗き込む。
ファイは額に汗をにじませ、青白い顔を上げると頼りなげに微笑んだ。
女優だ……女優がいる……。
「うん……ちょっと、車酔いしたのかもしれない……少し休めば大丈夫だと思う……」
「でも……」
「せっかくだし、ユゥイと黒様先生は先に行ってて。よくなったらすぐに行くから」
ユゥイは困り顔で黒鋼に目を合わせてきた。
彼としては、調子の悪いファイを置いて先に行くなんて真似は考えられないのだろう。
よし、じゃあ今ここで弁当だけ食って家に帰ろう……と言いたかったが、ここまで来たら後戻りはできない。
チラチラとこちらに目配せしてくるファイにイラッとしつつ、シナリオ通りの台詞を口にする。
「せ っ か く 来 た ん だ。 先 に 行 っ て よ う ぜ」 (棒読み)
「でもファイが……」
「ホントに大丈夫だよー。お兄ちゃんすぐに追いかけるからー。ね?」
「……うん……」
渋々といった具合で頷くユゥイを見て、そういえば双子といえども、一応はファイの方が兄貴だったことを思い出す。
お兄ちゃん、という言葉をファイ自身が口にしたことで、なんだかんだで素直なユゥイはどうにか納得したらしい。
「そ れ じ ゃ あ 行 こ う ぜ」 (棒読み)
弁当の入ったバッグを担いで先に車を降りた黒鋼に続いて、ユゥイもドアを開ける。
二人並んで歩きながらも、ユゥイは幾度も車の中のファイを心配そうに振り返っていた。
*
木漏れ日の射す、森の散歩道。
初夏の風と小鳥のさえずりの中、黒鋼とユゥイはほとんど会話もなくコースを散策していた。
なぜこんな茶番に付き合わされているのだろう。
基本的に、人ひとりの生涯で巨大なクマに遭遇する確率というのは、如何ほどのものなのだろうか。少なくともアウトドアが趣味でもなければ、山奥に暮らす予定もない黒鋼のような人間にとっては、ほぼ0に近いのではないか。
たかだか縫いぐるみを捨てられるとか、クマ型の菓子類が食えないとか、そんなことは校庭の隅っこに生える雑草で羽を休めるハエ以上にどうでもいい話だ。
それでも律儀に付き合ってやっているのは、やはりユゥイに対して申し訳ない気持ちがあるから、なのかもしれない。
そこで黒鋼はハッとした。
申し訳ないと感じているなら、なぜ自分はこんなくだらないドッキリ作戦に参加しているのか。
ファイはアホなので、アホみたいな悪戯をアホの如く実行に移してしまうのは仕方がないとして、自分のキャラクターはそんなアホの悪行を、拳で止めるのが役目だったのではなかったか。
(なにやってんだ俺は……)
今更になって自分の方向性を見失っていたことに気づいても、もう遅い。今頃ファイは着々と準備を進めている頃だろう。
そうだ。何にしろ、奴がえらく楽しそうだったのが全ていけない。
あまりにウキウキとして、まるで本当にピクニックにでも出かけるような空気を出しているものだから、ついそんな様が微笑ましくて……。
(あーっ! ちくしょう!!)
ユゥイはよほどファイが気になるのか、時おり背後を気にしている。
だが、黒鋼が思い切り顔色を損ねていることに気がついて、顔を覗き込んできた。
「もしかして、黒鋼先生も体調が優れませんか?」
「あ? なんだ? なにか言ったか?」
まるで聞こえていなかった黒鋼の反応を見て、ユゥイは小さくクスリと笑った。
「なんだよ」
「いえ、やっぱりファイがいないと退屈なのかと思って」
「!?」
「黒鋼先生はなんだかんだ言って、ファイのことで頭がいっぱいですよね」
「!?」
なぜか否定できなかった。なんと言っても、今まさに黒鋼の頭はファイのことでパンクしそうになっていたからだ。
決してユゥイが微笑ましげに語るような、甘ったるい意味だけではないのが残念なところなのだが……。
「それにしてもファイは大丈夫なのかな。なんだか様子が妙でしたよね」
「……あいつが妙なのはいつものこったろ」
「いえ……ああいうときのファイって、必ず何か企んで」
「しかしあれだな、いい天気だな」
咄嗟にユゥイの言葉にかぶせて話題を逸らす。
何もここでバラしたところで罰は当たらない……というより、むしろファイに罰が下るだけで黒鋼的に問題はないはずなのだが。
反射的に庇う真似をしてしまったことに頭を抱えたくなる。
これら全てを惚れた弱みと呼ぶのなら、奴に惹かれてしまった自分の好みを呪いたい……。
ユゥイは少し不思議そうにしながらも「そうですね」とのんびり返してくる。
黒鋼としては、あんな残念な男でも一応は恋仲であり、自分なりに大切にしているつもりなのだ。
そして今、すぐ隣を歩く男はそれと同じ顔の造りをしているわけで、そんな相手を騙しているのだと思うと、それなりに罪悪感は拭えない。
そうだ、自分にも非があるのだと認めているのなら、せめて謝罪くらいはしておくか……。
「おい」
「はい?」
「奴から聞いた。俺が妙な話しちまったせいで、なんかえらいことになってるってな」
ユゥイは微かに眉をひそめ、そして足を止めた。
木の柵に手をつくと俯いて「いいえ」と首を振る。
「あのときは、ちょっと子供の頃の嫌なことを思い出してしまって……」
「ガキの頃?」
演技ではなく正真正銘、顔色を悪くしているユゥイが力なく笑う。
「……詳しく聞いてもいいか?」
「そうですね……」
遠くの空に瞳を眇めながら、ユゥイが語りだした。
「まだボクらが小さかった頃。ファイはよく寝る前に、ボクに色々なお伽噺を聞かせてくれました」
「ほう?」
あいつもあいつなりに、兄貴らしいことをしてきたんだな……と感心する。
以前、二人が子供の頃のアルバムを見せてもらったことがあったが、はっきり言ってそれこそ頭からかぶりつきたくなるくらい可愛らしかった。(口に出しては言わなかったが)
「それが、ファイなりに色々と脚色してあって……」
「ふむ……」
ただ童話の類を聞かせるだけでなく、自分なりに想像力を働かせてアレンジしていたのか。弟のためにそこまでするなんて、なんと心優しく聡明なお子さんだ。それがどうしてああなった……。
だがユゥイの表情はさらに曇っていく。
「なんと言うか……いちいち描写が詳細というか、グロテスクというか……絵本には描かれていない現実を、まざまざと見せつけられるような……」
「……あ?」
例えば赤ずきんの話。
おばあさんや赤ずきんが狼に食べられるシーンでは、肉や骨を噛み砕き、中から引きずりだした内臓の細部やら、赤黒い血液が壁一面に飛び散る場面などを、まるで実際に現場を見てきたかの如くリアルに話して聞かせられたらしい。
しかも最終的には狼はただ猟師に撃たれ、赤ずきんとおばあさんが救われるオチは、当然ながら揉み消されていた……。
「なぁそれってつまり……」
本当は怖い童話
「幼いボクには刺激が強すぎました……眠る、というよりは、いつも途中で気を失っていただけでした……」
どこかやさグレた、力ない笑顔で、ユゥイは長年の胸の痞えを吐きだしたかのような溜息を零した。
「普段は忘れていられました……だけど、あの夜は部屋も暗かったし、状況が似ていたので、ついフラッシュバックのようなものを起こしてしまって……」
点と点が繋がったような気がした。
つまり、だ。
元を正せば彼がおかしな恐怖症を患ったのも、こんな茶番劇が繰り広げられているのも、全ての元凶は……。
「あんの野郎~~~っ!!!」
咄嗟に握った拳を、すぐ傍の大木に打ちつけていた。
ズドン、という音がして、枝が激しくざわめき、鳥たちが飛び立っていく。これが夏の真っ盛りだったら、カブトムシやクワガタの一匹や二匹くらいは落ちてきたかもしれない。
「黒鋼先生がそこまで怒らなくても……ファイはちょっと変わった子でしたけど、このトラウマはいまだに引きずっているボクの問題で……」
「てめぇだけの問題じゃねぇ!! 現に俺はあのアホのせいでわざわざこんな場所まで……っ」
「え……?」
ユゥイは、信じられないものを見る目で黒鋼の方を見た。
「だから、これはあの馬鹿が全部仕組んだくだらねぇドッキリ企画で、てめぇを怖がらせるためにだな……って、聞いてんのかこら!!」
「あ……」
ついに完全に顔面蒼白になっているユゥイは、震える指で黒鋼の方を指さしている。
だが、その表情も指先も、こちらに向けられているようでいて、実は違っていた。それはどちらも黒鋼を通り越して、後方へと向けられていたのだ。
「!?」
あの馬鹿がもう来たのか!? と、咄嗟に振り返る。
そこには……。
見事にリアリティ溢れるクマが、二人の視界の数メートル先にいた。
「こらてめぇ!! 全部聞いたぞ!! だいたいそのリアルな方の着ぐるみはよせってあれほど言ったろうが!!」
クマはいきなりこちらに向かって怒鳴りだした人間を見て、首を傾げている。
なんという白々しい演技だろう。明かされた事実も相まって、黒鋼はブチ切れた。
ボッコボコにするために飛びかかって行こうとしたその瞬間、背後から羽交い絞めにされる。
「!?」
見れば、相手は必死な形相のユゥイだった。
「おい……なんのつもりだ……?」
「食べるならこの黒い人を食べてください!!」
「あぁ!? 俺は生贄か!? この野郎なに考えて……っ」
「大丈夫……ファイは一生ボクが大切に面倒を見ていくので、黒鋼先生はここで大人しく」
「できるか!!」
「ファイの老後の下の世話もちゃんとしますから!!」
「てめ、マジふざけんじゃねぇってか、何だこの火事場の馬鹿力!?」
この自分がどんなに力を振り絞っても身動き一つ出来ないのだ。彼の細腕のどこにこれほどの力が眠っていたのか……。
そしてユゥイの中で完全に黒鋼は『捕食される側』として食物連鎖のピラミッドに組み込まれているこの事実。
とは言ってもあのクマの中身はファイなのだから、何もこんなに激しく揉み合うこともないのだが……と、思っていると、二人の後方から声がした。
「あれ!? ちょっとー、なに二人でくっついてんのさー!!」
「「!?」」
そこにいたのはファンシーなクマの着ぐるみ男だった。
その可愛らしいクマは、くっついて硬直している二人を見て酷く憤慨しているらしく、飛び跳ねて地団太を踏んでいる。
「駄目だよユゥイったらー!! しかもその体勢から察するに黒様が下なの!? ちょ、ダメダメ絶対に駄目ーっ!! 黒様の初めてはオレが狙ってるんだからー!!」
おまえ受のくせしてなんてもの狙ってやがる!?
などと突っ込みを入れる余裕など、微塵もない。
黒鋼はリアルな方とファンシーな方のクマを交互に見やった。
そしてふと一連の不自然さに気がつく。
そうだ、リアルなクマがいるのは黒鋼とユゥイが向かっていた方向であり、ファイは後から追いかけてくる手筈になっていた。
ファイが自分たちの前方から来ようと思えば、全力で山を迂回して、道なき道を突き進み、この遊歩道に入って来るしかなかったはず。
このへなちょこ化学教師に、それだけの気力と体力があるとは到底思えない。そんな簡単なことに、なぜ気がつかなかったのだろう……。
「……マジもんだ、ありゃあ……」
その瞬間、黒鋼の背後からユゥイが遠ざかる。
「おい……っ!?」
腕を引く間もなく、彼は地面にバッタリと倒れて気を失っていた……。
流石のファイも転びそうになりながら駆け寄って来た。そしてようやく彼も状況を飲み込んだ。
ユゥイの傍にしゃがみこみ、視線は数メートル先へ向けられている。
おそらく凍りついた表情をしてるのだろうが、着ぐるみのせいで読み取ることは出来ない。
「……ねぇ黒様……オレたち以外に、助っ人なんていたっけ……?」
「いるわけねぇだろ……ありゃあ正真正銘、リアルの方だ……」
こちらを注意深く窺いながら、クマがゆっくりと近づいてきた。
「逃げるぞ!!」
この距離で果たして逃げ切れるかはわからない。だが、最悪ファイとユゥイの二人だけでも、無事に逃がしてやらなければ。
即座に決意して、ユゥイを担ぎあげるために咄嗟に腕を伸ばそうとした、その瞬間、なぜか黒鋼は、再びとてつもない力によって羽交い絞めにされていた……。
「なっ!?」
「ギャアーーッ!! ごめんなさいごめんなさいオレなんか食べるとこないから美味しくないよーっ!! 食べるならこの極上の筋肉を!!」
「てめぇーー!? 揃いも揃って俺を人柱に捧げんじゃねぇー!!!」
「オレと黒様の愛は永遠に不滅だよ!! 会えなくなっても、ずっと愛してる!!!」
「破局だ破局!! てめぇとなんかやってられっか!!!」
一瞬でも身を犠牲にして守り抜こうとした決意を返せ……。
揉み合う二人に、ついに巨大なクマが雄たけびを上げて、襲いかかろうとした。その一瞬がまるでスローモーションのように黒鋼の目に映る。
(でけぇ……!!)
黒鋼と同等か、あるいはそれ以上かもしれない。二本足で立ちあがったクマの影が、二人をすっぽりと包みこむ。
咄嗟に、黒鋼はファイ(着ぐるみ)を抱き込んで背を向けた。
頭の中を行き来するのは、これまでの人生の走馬灯。
ごく平凡な家庭に育ち、多少のヤンチャはしたかもしれないが、真っ当な青春時代を過ごして教師になった。
そこでこの腕の中の男(着ぐるみ)と出会った。
出会って、なぜか惹かれてしまった。
時にはちょっとした擦れ違いから言い合うこともあったし、寂しい思いをさせたこともある。幾度ゲンコツを食らわせて昏倒させたかも解らない。
それでもいつでも笑顔を絶やさないファイ(着ぐるみ)を愛していた。
突っ込みどころ満載な仲間達に囲まれて、傍にはファイ(着ぐるみ)もいて、毎日が一瞬の光のように感じられていたのはきっと、それほどまでに満ち足りた日々だったことの、何よりの証に思えた。
(ちと短かったが……悪くない人生だったぜ……)
目を閉じて、覚悟を決める。
だが、衝撃はいつまで経っても訪れない。
「…………?」
代わりに、ドォンという何かが激しくぶつかるような衝撃音がした。それからすぐに、バキバキという音が立て続けに聞こえて、黒鋼とファイの二人は目を見開いてその方向を凝視する。(ファイは着ぐるみなので表情は謎だが)
「……ほへ?」
ファイが間抜けな声を上げた。二人の何メートルも先の山の斜面の一角の木々が、綺麗に薙ぎ倒されている。
その中心にはピクリとも動かないクマが、腹を見せて倒れていた。泡を噴いているところを見ると、完全に意識を失っているようだ。辺りにもうもうと土埃が立ち込めている。
「……何が起きた……?」
「ゆ、ユゥイ……?」
ファイの茫然とした呟きに、黒鋼も目を向ける。
そこには、ゆらりと立ち上がったユゥイが、肩で息をしている姿があった。
「ふふ……あはは……」
低い声で、彼は笑い声を上げた。その表情は前髪に隠れてよくは見えない。
「人間……死ぬ気でかかれば出来ないことはないんだね……」
「お、おい……おまえまさか……あれを……」
投げたのか……。
あの状況では、死ぬ気でかかっても生還できる確率は限りなく低く思えるのだが。
これが本当の火事場の馬鹿力というやつなのか。
「さてと……」
どこか禍々しいオーラを放つユゥイが、ゆっくりとこちらに向けて歩いてくる。
極限状態のせいか、足を縺れさせて近づいてくる身体は時折ガクンと左右に傾き、まるでテレビのブラウン管の中から物理的な概念を捻じ曲げて這い出して来た、あの超有名人のようになっていた。(主な生息地:井戸)
「ここにもまだ一匹、可愛い小熊がいるね……?
「ヒッ!? ゆ、ユゥイ? ユゥイちゃん? オレだよ、ほら、この頭のやつを取れば……って、あ、あれ? 取れない……?」
黒鋼の腕の中から飛び出したファイが、必死で着ぐるみの頭の部分を引っこ抜こうとしてもがいている。設計ミスだろうか。
「!?」
あはは……と笑いながら距離を縮めてくるユゥイを見て、黒鋼は彼があの夜、しみじみと呟いていた言葉を思い出していた。
『結局、生きてる人間が一番怖いと、ボクは思うな……』
なるほど、こういうことか……と、妙に納得している間に、ユゥイによって華麗に背負い投げされたファンシーなクマの悲鳴が、小高い山の中に響き渡った……。
*
あ、死んだ……と思ったファイは生きていた。
そして適当な枝の棒きれをついて、腰の曲がった老人のようにヨロヨロしながら背後をついてくる。
投げ飛ばされ、なぜかキリモミ状に吹っ飛んだ拍子に頭の部分だけは無事に取れていた。
季節は初夏である。風通し最悪の着ぐるみ姿のファイは、顔を真っ赤にして少しのぼせているようだった。ご利用は計画的に……。
「あのぉ~……黒たん先生……オレもおぶってほしいんだけど~……」
「定員オーバーだ」
黒鋼の背中には、ぐったりと気を失うユゥイが背負われ、気を失っている。
彼はファイを投げ飛ばしたあと「勝った……」という呟きを最後に、再び地に伏した。
果たして彼が勝利したのは、クマという存在に対してなのだろうか。黒鋼には、ユゥイが抱えていた深いトラウマのことのように思えてならなかった。
「これアバラの一本や二本は確実に行ってる気がする……」
それに関しては自業自得としか言いようがない。
「なんにしろ、一件落着だな……」
「無視しないでよーっ」
うわあぁぁぁ……と泣きべそをかくファイを、それでも「頑張れ」と励ましてやりながら、妙に長く感じる山の散歩コースを歩いて下山した。
*
翌日、気を失った巨大熊が捕獲されたという記事が、新聞の見出しを飾った。
クマは動物園に送られ、飼育される運びとなったらしい。
恐ろしい生き物ではあったが、決して罪はないぶん、殺されなかったことに少し安堵する。
ユゥイはその新聞の記事を見ながら「これってボクらが行った公園じゃない?」と目を丸くしていた。
彼は黒鋼と共に車を降りた辺りからの記憶が、スッポリと抜け落ちていいるらしい。
その横で、骨にはどこも異常のなかったファイが、ユゥイが焼いたパンケーキを頬張って幸せそうにしている。
日ごろから黒鋼の拳に鍛えられているせいか、頬に掠り傷を負った程度で頭にも異常はなかった。
そんなファイが美味そうに食べているパンケーキはクマの形。
弟はトラウマを克服できたらしいし、兄には多少はお灸をすえることが出来たし、晴れて丸く収まったことに安堵しながら、ほんの気まぐれで口に入れてみたパンケーキの甘さに咳込む黒鋼を見て、仲のいい双子が声を上げて笑った。
おしまい
素材・M/Y/D/S動物のイラスト集 いらすと や まぜわん。
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