2025/07/27 Sun 「里帰り!?」 夏の真っ盛り。 エアコンを嫌う黒鋼の部屋では扇風機が首を振り、開け放たれた窓にぶら下がる花火模様のガラス風鈴が涼やかな音を奏でている。 ほんのりと漂う蚊取り線香の香りが夏の風情を遺憾なく発揮する、そんな夜のこと。 「ちょっと待ってちょっと待って!? 里帰りって、あの里帰りのこと!?」 「他にどの里帰りがあるんだよ」 タンクトップに短パンという、夏休みの子供のような装いのファイは、風呂上りに冷えた水で喉を潤す黒鋼に縋りついてキャンキャンと吠えていた。 「急に言われても! そんなの聞いてないって!」 「今初めて言ったからな」 「そんなぁー!!」 高所から落ちてきた鉢植えが頭部に直撃したかの勢いで、ファイは衝撃を受けていた。唇を戦慄かせ、青い瞳にみるみる涙がたまってゆくのを見た黒鋼は、面倒臭そうにムッと顔を顰めて見せた。 「なんだっつうんだよ。なんか問題あんのか」 「あるよ! 大アリですー! 黒たん先生、オレとした約束忘れちゃったんだ!!」 「約束……?」 頭上に「?」マークを浮かべる黒鋼は腕を組み、首を傾げながら脳内で記憶の引き出しをまさぐっているらしい。 きっと思い出してくれるはず、と固唾を飲んで見守るファイだったが、いくら待っても沈黙が破られることはなく、ついに癇癪を起すと拳で床をガンガン叩く。 「キー! お盆休みはいっぱいお出かけしてイチャイチャするってあんなに約束してくれたのにー! 忘れるなんて最低ー!!」 「あぁ? おい待てよ。まったくもって記憶にねぇぞ」 「しーまーしーたー! お祭りに行ってー、映画見てー、海にも行ってー、動物園にトラの赤ちゃん見に行くって! 夢の中で約束したー!!」 「……ついに夢と現実の区別もつかなくなっちまったんだな」 紅い瞳が、どこか儚いものを見るように細められた。切なげに瞳を揺らす黒様も素敵というときめきは、今はとりあえず置いておく。 それよりなにより、今のファイにとってはせっかくの連休を二人で過ごせないことの方が大問題だった。 そう、数少ない連休。 しかも季節は夏、真っ盛り。思い出を積み重ねることによって、恋はさらに燃え上がる。 そんな期待を胸に黒鋼が好きそうな映画をチェックしてみたり、ネットの口コミで評判のいい店を探してみたりと、日々ウキウキ気分で過ごしていたというのに。 いよいよ盆休みまであと僅かというところで、まさかの「今年の盆は実家に帰る」発言が飛び出したのである。 これが困惑せずにいられようか。 黒鋼の予定を一切聞いていなかったことは、確かに身勝手だったかもしれない。が、当然のように二人で過ごす気満々でいたため、疑う余地もなかった。 「ねぇ黒様せんせぇ~……今からでも考え直さない? 黒たんさ、ほら、見たい映画あるって言ってたでしょ? 仁義なき宇宙冷戦だっけ? 戦闘力53万の宇宙ヤクザと、地球のヤクザが織りなす壮大なSFファンタジーでさー」 「誰がそんなB級以下の映画見たいっつった……しかも冷戦って言いきってる時点で壮大さの欠片も期待できねぇじゃねぇか」 そんなぁ……と肩を落とすファイに、黒鋼は重々しい息を漏らす。 「普段から嫌ってくらいくっついてんだから、たまにゃいいだろ。弟は国に帰るんだろ? てめぇも一緒に行ったらどうだ。ずっと帰ってねぇだろ」 「それは……そうだけど……」 確かに彼の言う通り。 まとまった連休が取りにくいというのもあるが、それを理由にファイも長らく故郷へ戻っていなかった。 例えどんなに重たいと思われようが、一日でも黒鋼と離れるなんて考えられない。出張の類ならまだ我慢できるものの、プライベートではそれこそ嫌というほどくっついていたかった。 だが、これが自分の我儘で、黒鋼の言っていることが正論であることも分かっている。 勝手に盛り上がっていたのはこちらの方だし、たまには静かに実家でのんびりしたい気持ちは分からないでもない。仕事が忙しいのはお互い様だが、特に黒鋼は運動部の夏合宿を終えたばかりで、疲れも溜まっていることだろう。 (諦めるしかないかなぁ……。これ以上疲れさせたくないし……) そこでふと、ファイは思った。 黒鋼の故郷。彼を産み、ここまで大きく育て上げた両親や、長らく暮らしていた家や、町。黒鋼という人間を作り上げたルーツが、そこにある。 (どんなところなんだろう?) 出会ってから今までの黒鋼のことはよく知っているつもりでも、彼がどんな少年時代を過ごしたのか、どんな環境で育ったのかまでは何も知らない。 聞いたってどこまで教えてくれるか分からないし、そもそもこの男が自身の過去を饒舌に語り聞かせてくれるとは到底思えなかった。 (なんかすっごーく気になってきちゃった!) ならば話は簡単だった。この身をもってして、直に触れればいいだけのことだ。 しょんぼりと俯いたままだったファイは、パッと顔を上げると目を輝かせた。 「黒わんころ!」 「あ?」 「オレね、いいこと思いついたよ!」 「……なんだよ」 そこはかとなく嫌そうな顔をしている黒鋼に向かって、ファイは声高らかに言った。 「オレも一緒に黒たん先生のおうちに帰る!」 嫌な予感が的中したとばかりに、黒鋼は苦虫を噛み潰したような顔になる。 「バカ言ってんじゃねぇ! なんでてめぇまで一緒に!?」 「わー、楽しみだなー! あ、いくら実家だからって、久しぶりに帰るんだし手ぶらはダメだよー。なにか気の利いたお土産を用意しないとねー」 「おい!? 勝手に話を進めるな!」 「ふふふー。楽しみだなー!」 「聞けこのタコ!!」 荒げられた黒鋼の声を、浮かれきったファイは右耳から左耳へと聞き流した。 +++ そんなこんなでついにやってきた盆休み。 電車に揺られること数時間、蒸し暑い駅構内を出ると、そこには抜けるような夏の青空が広がっていた。 「到着ー! ずっと座りっぱなしで疲れたー!」 着替えなどが入ったバッグを地面に置いて、半そでシャツにジーンズ姿のファイは思いっきり両手を伸ばして背伸びをする。痺れるような解放感が、指先にまでじんと染み渡るのが心地よかった。 電車での長旅は快適なものではあったが、こうして外の空気を吸うとホッとして身体から力が抜ける。 「よく言うぜ。グースカいびきかいて寝てたやつが」 少し遅れて駅から出てきた黒鋼が吐き捨てる。彼もまた、いつもの黒ジャージを脱いでラフな装いだった。変わらないのは全体的に黒が基調となっていることくらいか。 彼はバッグの他に紙袋も手にしていた。中身はユゥイが持たせてくれたお手製の菓子類だ。その辺の有名店で買う土産物よりも、確実にこちらの方がハズレがない。 便利な……いや、いい弟を持ったなぁと、今はイタリアの地を踏みしめているであろう弟に感謝する。 「言っとくけどねー、先に寝ちゃったのは黒様先生の方だからねー。お弁当食べたらすぐに寝ちゃうんだもん。いきなりもたれかかってくるから、ビックリしちゃったよー」 うるせぇな、と吐き捨てる黒鋼についつい笑ってしまう。 本当は流れゆく景色を眺めながら会話を楽しんでいたかったけれど、そうやって無防備に身を預けてこられるのは嬉しかった。 眠っていることを口実に、人目を気にすることなく寄り添っていられることも。 電車の心地よい揺れと黒鋼の寝息に耳を傾けているうちに、ファイもまたすっかり意識をさらわれてしまったのだった。 「最後まで寝コケてたのはおまえだ。俺がいなけりゃ乗り過ごしてたぜ」 「はいはいわかったよー。のんきな寝ぼすけはオレの方ですー」 ファイが素直に折れたことに気を良くしたのか、黒鋼は満足気にふんと鼻を鳴らした。 この男は妙なところで子供っぽいし、何においても負けず嫌いだ。普段は頼りがいのあるお父さんタイプのくせに、こんなところがあるからつい可愛いなんて思ってしまう。 黒鋼がいなければ、そもそもこの場所にファイが訪れることだってなかったろうに。 +++ 二人が出た場所は、ちょうど小規模な駅前ロータリーだった。 容赦なく降り注ぐ日差しと照り返しの中、それでも自分たちと同じように帰郷した家族連れなども目立って辺りはそこそこ賑わっている。 タクシーやバス、送迎マイカーなどが列をなす光景を横目に、二人は見通しのいい場所を目指してのんびりと歩き出した。 「お父さんわざわざ迎えに来てくれるなんて優しいねー。どんな車かなー?」 「さぁな。俺がガキの頃は軽トラばっか乗り回してたが……お袋の話じゃ、最近新車買ったとかなんとか言ってたな」 「じゃあどんなので来るかわかんないんだねー」 これだけ目立つ息子の姿を見落とすということもないだろうし、ファイもファイで太陽の下で光り輝く金髪頭がよく目立つ。 それと思しき車が見当たらないとなると、おそらくまだ到着していないのだろう。 ある程度ロータリーを迂回し、歩道近くに出たところで、二人は足を止めると息をつく。 日差しは厳しいが、どこかカラリとしていて決して不快な暑さではなかった。 黒鋼はどこか懐かしそうに目を細めながら、周辺の景色を眺めていた。ファイはその様子をちらりと見やり、肩を竦めるようにして微笑むと、覗き込むようにしてその表情を見上げる。 「懐かしい?」 「そうだな。俺がいた頃より、ここもずいぶん整備されてるみてぇだが……お」 「なにー?」 「いや」 黒鋼の視線が広い通りの向こう側に向けられるのを、同じく視線で追いかける。 そこはまだどこか真新しさを醸し出す大型のネットカフェと、その駐車場だった。 「昔あそこは本屋だった。その横は古くせぇ文房具屋だったんだが」 どっちもなくなっちまったんだな、と独り言のように落とされた声から、彼の郷愁がファイの胸にも伝染して、少し切ない気持ちになった。 なんとなく、脳裏に小さくて古びた本屋と文具屋が並んでいるのを思い浮かべてみる。 きっとよく利用していたのだろう。ファイが知らない頃の黒鋼の姿も想像して、物懐かしさの片鱗に触れた。 「変わるもんだな。長いこと離れてるとよ」 「そうだねー」 口元だけで小さく笑う黒鋼に、ファイもふわりと笑顔を返した。 時の流れにその景色がどれほど姿かたちを変えようとも、ここが黒鋼の生まれ育った故郷であることに変わりはない。 そんな場所に立って、同じ目線で『今』を見つめていられることに感動を覚えた。 無理を言ってしまったが、やっぱり来てよかった。そう思う。胸が、温かく震えていた。 しかもこれから会うことになるのは黒鋼の両親である。ファイがこうして最愛を得て日々を送ることができているのは、他ならぬ彼らのおかげだ。 「黒たん。オレ、失礼のないようにちゃんと振る舞うから安心してね」 いたって真面目に宣言したつもりが、それを聞いた黒鋼が珍しく小さく吹きだした。 「なんで笑うかなー?」 「借りてきた猫にでもなるつもりか、おまえは」 「もー! 真面目に言ったのにー!」 「気負うと逆にヘマすんぞ。騒がしくてアホみてぇな外人が一緒だってことは言ってある。安心しろ」 「ちょ、ちょっと黒様せんせー! 変な伝え方しないでよー!」 逆に不安になるではないか……。 とはいえ、どんな紹介のされ方をしようとも今のファイはあくまでも黒鋼の職場の同僚であり、友人だ。 久しぶりに帰ってきた息子が、まさか男の恋人を連れてきたなんて、そんなことを両親に悟られるわけにはいかない。 (ちょっと寂しいけど……連れてきてもらえただけで満足しなきゃねー) よき友人としての振る舞いを、しっかりと見せなくては。 ファイが心の中で気合を入れたのと、小さく二度ほどクラクションを鳴らしながら黒の乗用車が路肩に横づけされたのはほぼ同時だった。 * 「アホな外人を連れてくるなんて言うもんだから、どんなアホかと思えば……可愛い顔した先生じゃないか。なぁ奥」 「ええ本当に……。外人さんって聞いたときは、もっと毛むくじゃらで大柄なのかと思ってましたけど、モデルさんみたいなイケメンさんね」 茶の間にあたる広い和室で、仲睦まじい夫婦が笑っている。 ファイと黒鋼と、四人で囲んだテーブルの上には、旬の野菜や魚介類を使った天ぷらや煮物に漬物など、豪華な食事が所狭しと並んでいた。酒はもちろん、さらに握り寿司が詰まった巨大な桶まで並ぶ様は圧巻の一言である。(残念ながら生魚は食べられないが) 日本の食卓ってどこもこんな感じなの? と驚きを隠せないファイだったが、おそらく久しぶりに戻る息子と客人のために奮発してくれたのだろう。 このさい悪意のない散々な言われようには、目をつぶらざるをえない。もとはと言えば黒鋼が失礼極まりない情報を事前に吹き込んだせいでもあるのだから。 じろ、と横目で隣を睨んではみたものの、元凶はふてぶてしく胡坐をかいてビールジョッキに口をつけるだけで、こちらを見ようともしない。 彼は父親が運転してきた車に乗り込んでから今まで、いつも以上に口数が減っていた。久しぶりの両親との対面は、幾つになっても照れ臭いものなのだろうか。 「さ、ファイ先生も遠慮なくどうぞ。お腹ぺこぺこでしょう?」 「足も崩して楽にするといい。正座は辛かろう」 「すみませんー。じゃあ、お言葉に甘えて……」 どこか辛気臭い雰囲気の息子とは違い、その両親は気さくでよく笑う人たちだった。 母親は長い黒髪に、ふわりとした淡い花柄の着物をまとった優しそうな女性で、父親はちょっと笑ってしまいそうになるくらい、息子と瓜二つである。 正直あと少し遅かったら引っくり返って悶絶していたであろう正座を崩しながら、ファイはにこりと笑い返す。 とりあえずは、明るい人たちで安心した。アホな外人でも、こうして快く迎え入れてくれるのだから。 「この子はしっかりやれていますか? この通り愛想のない子ですから、生徒さんたちに受け入れられているのかどうか……」 黒鋼母が小皿に天ぷらを盛りつけながら、少し困ったように眉尻を下げて微笑んだ。 この息子のことだから、まともに近況を告げてはいないのだろう。 どうぞ召し上がって、と差し出された皿を礼を言いつつ受け取りながら、ファイは安心させるようにこくりと頷いた。 「黒鋼先生はとっても頑張ってますよー。生徒たちも彼が大好きですし。理事長先生にはちょーっとこき使われてますけどねー」 「おいこら、余計なこと言うな」 「えー? お茶汲みだって立派なお仕事だよ黒た……黒鋼せんせー」 「てめぇ……帰ったら見てろよ……」 その掛け合いを聞いて、黒鋼父は豪快に笑った。 母親の方もどこかホッとしたように胸に手を当てながら、控えめな笑い声をあげた。 「そうか、昔はまともに茶のひとつも淹れられなかった息子が、今では立派にやっているというのは嬉しい知らせだ」 「え? そうだったんですかー?」 「おい親父……」 「ええ、誰に似たのか不器用な子でしたのよ。絵を描かせてもクラスで断トツの惨さで……」 「むご……お袋まで、勘弁してくれ」 「ぷぷっ」 「アホ教師! 笑うんじゃねぇ!!」 ただでさえ悪い目つきをさらに吊り上げて怒鳴る黒鋼に、他三人は大いに笑った。 舌打ちしながらそっぽを向く様子に多少は悪いと感じつつ、なかなか聞けない貴重な話にファイの気分は高揚する一方だった。 「もっと黒鋼先生の昔のお話、聞かせてくれませんかー?」 目を輝かせ、少し前のめりになって強請るファイに殺気立った視線が突き刺さる。が、黒鋼父はよしきたとばかりに頷いた。 「そうだな、とにかく変わった子供だった」 「変わった子……ですか。どんなふうに?」 「いつだったかな……これが小学校に上がる少し前だったか、なぁ奥」 「そうそう。この子、駅の近くで路上生活をしていた男の人を連れてきて……」 「大事に世話するから飼ってもいいか……ってな……」 「えぇ!? ホームレスをお持ち帰りしたんですか!? しかもペット扱い!?」 真っ先に飛び出す幼少期トークにしては、あまりにもヘビーな内容である。 咄嗟に見開いた目で黒鋼を見れば、彼は残り少ないジョッキのビールをチビチビと飲みながら恐ろしい形相で震えている。 これ以上は危険なのでは……と思いつつ、先が気になった。 「で……どうなったんですか……?」 「流石にちょっと……ちょうど新米が炊き立てだったので、おむすびと一緒に……」 お引き取り願ったわけか。 当たり前の話だとは思うが、ついて来る方もどうかしているような。 当時はそれだけで済んだそうだが、もし今の時代だったらどえらい騒動になっていただろう。擦れ違った児童に挨拶をしただけでも通報されて、ネットで祭り上げられる時代である。 「中学の頃もあったぞ。そこらへんの畑を荒らしまわっていた巨大イノシシを、担いで持ち帰ってきたことが」 「素手で仕留めたんですか!?」 「あの時は父として誇らしかったぞ。逞しい子に育ったもんだと」 「ええ、ご近所さんにもお裾分けして、美味しく頂きましたのよ」 鍋にでもして食ったんかい。 流石のファイも笑顔を引き攣らせ、パワフルなお子さんですね……と返すだけで精一杯だった。 なるほど、確かにここは黒鋼という人間を形成したルーツの宝庫だ。 そこはかとなくだが、この仲のいい夫婦からも天然チックなオーラが漂っている気がした。巨大イノシシを素手で仕留めて担ぐ中学生というのも常識外れだが、まずは無茶な真似をした息子を咎めるのが先のような気がするが……。 (黒たんも天然なとこあるからなぁ……このご両親なら納得かもー……) 「もういいだろ……こいつに余計な話は吹き込むなとあれほど」 「いいじゃないの。せっかくこうして楽しくお食事ができているんだもの。そうだわファイ先生、よければこの子の昔のアルバムもご覧になりません?」 「お、いいな。久しぶりにみんなで見るか!」 「頼むからもうよせ!!」 よほど恥ずかしいのか、黒鋼は顔を真っ赤にしながら叫ぶ。 シャイな彼にとって今の状況は地獄に等しいものなのかもしれない。それでも嬉しそうに笑っている両親の顔を見ているうちに、ファイはふと、楽しかったはずの心が沈みかけているのに気づいてしまった。 (いいご両親だなぁ。優しくて、寛大で) 二人とも、長らく離れていた息子との時間を心から楽しんでいる。ファイのことも優しく迎えてくれる。 だけどきっと、彼らが本当に連れてきて欲しいのは、同僚でも友人でもないはずだ。 もしこの場にいるのが自分ではなく、将来可愛い孫を産むことができる綺麗な女性だったなら、二人はもっと喜んだに違いない。 黒鋼は絶対にいい夫になるし、いい父親になるし、そしてこの夫婦は優しいおじいちゃんと、おばあちゃんになる。このおっとりとした母親なら、嫁と折り合いがつかずに揉めるということもなさそうだ。 言い合う親子から、ファイはそっと目を逸らした。視線の先では障子が開け放たれていて、よく磨かれた板の間の縁側の向こうには、広い庭があった。 手入れされた木々と、花々と、綺麗な芝生。きっと黒鋼が幼い頃はここを駆けまわって父親と一緒に遊んでいたに違いない。 今度は黒鋼が同じように、自分の子供と過ごす姿を見せることこそが、きっと両親への最大の孝行になるのだと思う。 (あー……ダメだなぁ、こんなんじゃ) 今までだってこの手の不安は幾度も抱いてきた。 その度にどれほど落ち込んでも、必ず引きずり上げてくれたのは黒鋼の力強い腕と、真っ直ぐな愛情だった。 だからファイはいつだって彼の側で笑っていることができたし、ほんの数日だって離れていられない自分に、今さらこの幸せを手放すことが出来るとは思えない。 来てよかったという気持ちに偽りはないけれど、会うべきではなかったのかもしれない。どこかで捨てきれない後ろ暗さが、両親へ対する罪悪感にぴったりと折り重なった。 「おい、どうした急に」 「……ふぇ!?」 いつしか得意の笑顔すら手離して消沈していたファイの顔を、黒鋼が横から覗き込んでいた。咄嗟におかしな声を上げて肩を揺らしたファイに、彼は眉間の皺を深める。 ファイは慌てて大きく首を振ると、笑顔を取り繕った。 「な、なんでもないよー! 色々ビックリするお話聞いたから、ちょっと余韻が抜けきらないだけー」 「顔色が悪い。ちっと横になるか?」 「ッ……!」 そう言いながら、黒鋼の手が伸びて頬に触れようとするのを、咄嗟に身を引いて拒絶した。一瞬のことだが、明らかに避ける動作を見せたファイに、黒鋼は何か言いたげな様子で渋々手を引っ込める。 この場所で、まるで恋人を気遣うような触れ方をしてはいけないはずだ。 いつもの癖で出てしまったのかもしれないが、今もし彼に優しく触れられようものなら、ファイだって自信がない。瞳を潤ませて、いつものように甘えた口をきいてしまうかもしれない。 そんな姿を、目の前の両親には見せられない。友達でもただの同僚でもなく、深く愛し合っているという事実を、悟られるわけには。 もし万が一バレるようなことがあれば、反対されるのは目に見えている。何より、大切な息子が道を踏み外したと知ったら、きっと彼らは深く傷つくだろう。 「奥、だから言っただろう。長旅な上にこの暑い中、揚げ物はないだろうって」 「いやだわ、貴方が作れって言ったのに」 「そうだったか?」 「そうですよ」 ごめんなさいね、と申し訳なさそうに小首を傾げる母親に、ファイはぶんぶんと首を振って満面の笑みを浮かべた。 「ぜんぜん平気ですー! オレこう見えてけっこう食べるし、凄く美味しいですー!」 「そう? ならよかったわ。さ、煮物も召し上がって」 「はーい! いただきまーす! あ、そうだ、アルバムもぜひ拝見したいですー!」 「おおそうか! よし、じゃあ取ってくるとしよう」 「わーい! ありがとうございますー!」 横から突き刺さる黒鋼の視線はかなり痛かったが、ファイは大袈裟なくらいはしゃぎながら、その後も両親から様々な昔話を聞いたのだった。 * アルバムを見たり、昔の黒鋼の話を聞いたり、学校での仕事ぶりを話したり。 そうこうしながら食事を終える頃には、とっぷりと陽が暮れようとしていた。 黒鋼父はすっかり酔い潰れて、息子に抱えられて部屋に引っ込んでいった。黒鋼の酒豪ぶりは見た目通り父親譲りかと思っていたが、どうやら違っていたらしい。 夫に勧められるままそれなりに杯を重ねた母親の方が、顔色ひとつ変えずにケロリとしているから驚いた。 広い台所では、黒鋼母が山のように積まれた食器を洗っていた。 いくら客人とはいえただ何もしないでいるわけにはいかないと、ファイはおずおずと台所を仕切るガラス戸を開けて、ひょこりと顔を出す。 「あ、あのー」 「あら先生、どうかし……あ、ごめんなさいね。お酒を飲んだあとは喉が渇きますものね」 私ったら気が利かなくて、なんて言いながら水道を止めようとする黒鋼母に、ファイは慌てて両手を翳すと首を振る。 「い、いえ、オレも何かお手伝いがしたくてー」 「まぁ、そんな気を使わなくてもいいんですよ。ゆっくりしてらして」 「でもやっぱり悪いですし」 普段、台所に立つことは黒鋼とユゥイに止められている。それでも何かしら手伝えることはあるはずだ。確かに料理センスは呪われているかもしれないが、片付けくらいは別にしようと思えばできる。ただしないだけで。 黒鋼母は嬉しそうにニッコリと微笑んで、「じゃあ、食器を拭くのをお願いしようかしら」と言った。 +++ うっかり手を滑らせて食器を割ったりしたら大変だと、ファイは緊張しながら次々と重ねられてゆく皿を和柄の上質な手拭で丁寧に拭いた。引け目を感じている相手と二人きり、ということも相まってか、時おり指先が震える。 その緊張感が隣で食器を洗っている母親に伝わったのか、彼女は小さく肩を揺らして笑った。 「す、すみません……普段家事は弟に任せきりで……」 「ごめんなさね。笑ってしまって。あの子に聞いていた通りだから、つい」 咄嗟に母親の方に顔を向けて、ファイは手を止めた。 「黒た……えと、黒鋼先生、他にもまだ何か言ってたんですか?」 「ええ、台所には立たせるなって。バレたら叱られてしまいますね」 「うわぁ……やだなぁもう……」 自分の近況はまともに伝えていなかったくせに、余計なことばかり話すあたり、人のことは言えないではないか。 軽く赤面して目を泳がせるファイを見て、黒鋼母はやっぱりクスクスと笑うと、それから少し間を置いて言った。 「とてもいい方だと。そうお聞きしていますよ」 「……え?」 黒鋼母もまた、手を止めてファイを見上げた。優しげに細められた瞳に、どうしてか息が詰まる。 「いつも明るくてニコニコしているくせに、辛いことは全て一人で背負い込もうとするから」 「……」 「だから側で、見ていてやらなくちゃいけないんですって」 ファイはただただ、戸惑った。 黒鋼がそんなことを言っていたというのも驚きだが、かといって返す言葉が咄嗟に見つからない。うまく声を発することすらできそうもなく、ファイはただ俯いた。 「あの子のこと、よろしくお願いしますね」 「……それは」 どういう意味だろう。 友達として。同僚として。それは分かっている。彼女が自分たちの関係を知っているはずはないのだから。 なのになぜだろう。この優しい瞳の前では、何も隠し事ができないような気がして。全て見透かされているような、心もとない気持ちにさせられた。 そんなはずはないと思いつつ、ファイは誤魔化すように無理やり笑って首を振った。 「オレは何もできません。黒鋼先生は一人でもちゃんとやっていける人だし……その、オレはたまたま一緒に仕事をすることが多くて、部屋も隣同士ってだけで……」 「そんなことはありません」 「お母さん……」 「あの子は、一人ではやっていけません。可愛いお嫁さんが、ちゃんと側で見ていてあげないと」 黒鋼母は少女のように「うふふ」と可憐に笑って、さらに続けた。 「嫁を連れて帰るって。あの子、そう言いましたのよ」 「……へ!?」 ファイは我が耳を疑った。 彼女は今、なんと言ったのだろうか。紡がれた言葉がすんなりと頭に入らず、戸惑いに拍車をかけるばかりだった。 嫁とはあの嫁のことでいいのか。女に家と書いてヨメと読ませる、あの嫁ことで間違いないのだろうか。 「お、お、お嫁さん!? あれ!? 今日ってここに来たのはオレ達ふたりだけでしたよねー? おっかしーなー?」 もしかしたら自分は、物凄く苦しい言い訳をしているのではないか。 そんな気にさせられるのは、天井を仰ぎ見るように目を泳がせるファイにとって、彼女の優しくて綺麗な瞳が皮膚に突き刺さるように感じられるからだった。背筋にヒヤリと冷たい汗が伝った気がする。 「気を使ってくださっていたのね」 「お、お母さん、あの……」 大きな瞳をゆっくりと細めて、彼女は微笑んだままだった。 ファイはその瞬間、ふっと肩から力が抜けたような気がした。悪戯が見つかった子供のような気分だ。あの決意はなんだったんだろう。なんのために無理をしていたんだろう。何も意味がなかったということだ。 両親は最初から知っていた。黒鋼が、包み隠さず言っていたから。 騒がしくてアホみたいな外人の嫁を、連れて帰る、と。 (最初に言っておいてよね……照れ屋にも程があるでしょ、バカ!) 知っていて、彼らはこうして受け入れてくれていた。 まだ驚きや戸惑いの方が大きいけれど、じわじわと込み上げてくる安堵や気恥ずかしさに、ファイはじんわりと浮かぶ涙を抑えきれない。 黒鋼が、そんなことを。しかも両親に向かってハッキリと。彼は初めから隠す気など毛頭なかったということだ。もしかしたら、ずっとどこか不機嫌そうだったのは、両親に二人並んだ姿を見られていることが照れ臭かったから、なのかもしれない。 (黒たんのバカ) 本当に嬉しかった。夢を見ているような気さえした。 けれど、かといって不安の種は完全に消えてはいなかった。 「でも……嫌じゃないですか? 大事に育てた息子さんなのに、相手が男って。お孫さんの顔だって……オレが相手じゃ見せてあげられない……」 「うふふ」 「あの、ここ笑うところじゃないんですけどー……」 「だって……ふふ、おかしい」 ジョークを言って笑わせようとしたわけでもないのに、黒鋼母は手拭で拭いた白い手を口元に当てて笑い続けている。本当によく笑う、可愛い人だ。 ファイはただ困惑するばかりで、彼女が落ち着くのを待っていることしかできなかった。 「ごめんなさい。だって、ホームレスの人を連れてきて大事にするって言ってのけた子ですもの。それに比べたら、こんなに可愛らしい顔をした若い男の人で、むしろ安心しましたわ。ふふふ」 ホームレスと比べられましても……というツッコミはとりあえず飲み込んだ。 そういえば彼女は「外人=毛むくじゃらの大男」という偏った思考の持ち主だった。父親の方も大方同じようなイメージを持っていたに違いない。 やっぱりこの親子は、天然だ……。 ファイはクスクスと笑い続けている母親に釣られて、思わず小さく吹きだしてしまった。しばらくの間、そうやって二人で手を止めたままずっと声をあげて笑った。 やがて、笑いすぎてうっすら浮かんだ涙を指先で拭いながら、黒鋼母は改めて言った。 「愛想のない不器用な子ですけれど……末永く、よろしくお願いしますね、ファイさん」 まだ少し恥ずかしかったけれど、ファイは今度こそなんの迷いもなく「はい」と返事をして、ふにゃりと泣きそうに笑った。 * 夜。 風呂上りには縁側で、四人並んで冷たいスイカを食べた。 黒鋼父は少し休んでどうにか復活したようで、尽きることのない話の中で、明日は買い物がてら海でも見に行こうかと言い出した。 道中には黒鋼が通っていた学校が小中高と見れると聞いて、ファイは万歳をしながら喜んだ。 黒鋼はもちろん渋い顔をしていたが、ファイはすっかり両親に心を開いて、絶え間なく三人の笑い声が夜の庭に響いていた。 +++ 就寝場所は二階にある八畳ほどの広い和室で、黒鋼が子供の頃に使っていた部屋だった。 地球儀や船の模型が飾ってある机や、当時使っていたのであろう教科書や参考書などと一緒に、昆虫やら恐竜やらの図鑑が並べてある背の高い本棚。 これらはきっと、黒鋼がここを出た時のままの形で、常に綺麗に手入れされているに違いなかった。 「本当にいいご両親だねー」 今は灯りを落とし、枕元にある和紙の照明だけがほんのりと光を放っている。 二人は布団の脇に綺麗に畳まれていた浴衣を身にまとい、のんびりと寛いでいた。着替えは準備して来ていたが、せっかくの心遣いを無駄にはできなかった。 黒鋼は父親のお古で黒の綿麻、ファイには黒鋼が高校時代に着ていたという、濃紺のしじら織が用意されていたけれど、やっぱり少し大きい。 部屋の中央に布団を二組並べて、その上にちょこんと座り込んだファイは、枕を抱え込みながらゆらゆらと身体を揺らし、上機嫌で言った。 「最初は緊張したけど、ちゃんと仲良くなれてよかったー」 ファイは横に枕を放ると、胡坐をかく黒鋼のすぐ側まで近寄って、その顔を覗き込んでにっこり笑う。 「黒たん先生のおかげでね」 「俺は別に何もしてねぇよ」 ファイとは逆に、黒鋼の方はまだ少しばかり不機嫌そうだった。ぷいっと顔を背け、そのままこちらを見ようともしない。 子供の頃の話や、学園での話など。それらを存分に酒の肴にされてしまったことを、まだ根に持っているらしかった。 ファイは小さく笑うと、黒鋼にすっかり身を寄せてその腕に抱きつく。 「怒らないでよー。オレは黒様先生の昔のお話、いっぱい聞けて嬉しかったんだからー」 「怒ってねぇし、俺はまったく嬉しくねぇ」 「じゃあ、拗ねてる?」 「……うるせぇな」 がっしりとした腕に回していた手を、片方取られる。骨ばった大きな手に手首を掴まれ、引っ張られるようにして導かれれば、胡坐をかく黒鋼とちょうど向き合う形になった。 膝立ちのファイはその首に両腕を回しながら、いつもより低い位置にある仏頂面を見下ろして微かに笑った。 「ちょっと仲良くなりすぎちゃった?」 黒鋼の両親は賑やかで、会話も笑顔も途切れない人たちだった。 台所での母親とのやり取りですっかり立ち直ったファイの笑顔は、無理やり作り上げた愛想笑いとは程遠いもので、彼らとの時間を心から楽しむことができた。 きっと明日も、楽しい一日になるはずだ。もっと沢山、可愛い息子の話が聞きたいし、愛しい恋人の話をしたい。 黒鋼はもう一度、囁くように「うるせぇぞ」と言った。 腰に回された腕に強く引き寄せられて、自然と唇が重なる。 可愛いなと、ファイは思う。きっと彼はファイが両親と打ち解けたことに安堵している。けれど、少しばかり懐きすぎたせいか、こうしてヤキモチも妬いてくれる。 「愛しいよ」 軽く触れ合っただけの唇から、ファイは吐息のような声を漏らした。 黒鋼の額に自分の額を押し付けて、その頬を両手で包み込む。 「君を生んで、育ててくれた人たちだもの。オレのことも、ちゃんと……」 続きを待たずに、黒鋼がファイの腰を抱えたまま態勢を変えた。頭部にも手を添えられ、そっと厚みのある布団に押し倒された。 見下ろす姿勢から、見下ろされる態勢になって、胸が大きく高鳴った。キスもセックスも、数えきれないくらい交わしてきたはずなのに、いつだって初めての恋をしているみたいに心がきゅっと締め付けられる。 黒鋼は何も言わなかった。ただじっと、真っ直ぐに表情を見下ろされることに今度はファイの方が照れ臭くなってしまう。心臓の高鳴りが伝わってしまいそうな気がして。今更だけど恥ずかしい。 赤い頬で目を逸らし、弱々しくその胸板を押した。 「なんか、照れるよ……」 「今更だろ」 「だって……下でお父さんとお母さん、が、ッ」 寝てるのに、と続くはずだった言葉が熱い唇に塞がれた。 黒鋼の身体の下で大きく身を震わせたファイだったが、見開いた瞳は滑り込んでくる生温かい舌の感触に、すぐにとろりと溶けるようにして閉じられた。 抱きしめてくる腕の感覚と一緒に、言葉にできないくらいの幸福感がファイを包んだ。負けじと黒鋼の背に必死で腕を回して受け止める。 舌を絡ませ、唇を舐め合い、いっそ痺れて感覚がなくなるくらい、深く。 「はっ、ふ……」 「声、我慢できるか?」 銀色の糸を引いて一度離れた唇の隙間から、低く呟かれる声に耳まで犯されているような気持ちになる。 下の階では彼の両親が、明日に備えて休んでいるはずだ。 いつだって正体をなくすほどに乱されてしまうファイには正直、自信がなかったけれど。 火のついた身体が今にも一つになりたくて、疼いている。抗えるはずがなかった。 「ん……がんばる……」 こくんと頷いて見せたファイに、黒鋼は小さく、笑った。 +++ 「ゃ、ん……ッ!」 思わず漏れてしまった声に、ファイはハッとして口元を両手を覆った。 黒鋼の太い指に大きく開いた両足の奥まった場所を探られながら、懸命に息を飲み込むことに努めた。 浴衣は上も下も肌蹴て、かろうじて帯だけで留まっているだけだった。素っ裸よりもずっと卑猥に思えて、羞恥心が存分に膨らんだ。 内壁の奥深い場所を指の腹で擦られる度に、ファイは泣きながら嫌々と首を振った。 「ん、ぅ、ッ」 行為はどちらかといえば性急だった。 いつもの黒鋼なら、丁寧に時間をかけて心も身体も蕩かすような抱き方をする。けれど、今日は流石にじっくりと時間をかけている余裕はないようだった。 でも今はそれが嬉しい。いくら公認とはいえ、両親がいる同じ家の中で行為に及んでいるというギリギリのスリルが、いけないと思いつつも興奮を掻きたてる。 黒鋼によって開発されてきた身体は、当然ながら黒鋼しか知らない。彼が欲してくれるなら、ファイはいつだって準備が出来ているも同然だった。 いいか、と吐息だけで投げかけられた問いに、ファイは睫毛を伏せて頷いた。 ゆらりと潤んだ瞳で見上げ、黒鋼の乱れた浴衣の胸元に両手を這わすと、そのまま肩まで撫で上げる。手首に引っかかるようにして大きく開いた襟の下から、逞しい両肩が姿を現した。 黒鋼はファイの中を解していた指を引き抜くと、もどかしげに浴衣の袖から両腕を引き抜いた。腰に纏わりつくだけの布と化したそれを掻き分けて、その手がいきり立った自身を取り出すのが緩い照明の中でもハッキリと見えた。 心臓が下から突き上げられるように鋭く高鳴っている。 ファイは喉を慣らし、両足をより大きく自ら割り開いた。飢えたような瞳と、真っ直ぐに視線が交わる。 「大好き。黒様」 汗ばんだ頬に金色の髪を張り付かせながら、ファイは小さく首を傾げると微笑んだ。 誘うように両手を黒鋼の後ろ首に這わせ、そっと抱き寄せると彼は逆らうことなくファイに覆いかぶさった。 白い足を抱え上げられ、熱の塊を濡れた穴に押し付けられながら、耳元にかかる熱い息が「愛してる」と紡ぐのを、幸福に濡れた瞳を細めて受け止めた。 +++ 「オレ、本当に嬉しかったよ」 一度の交わりを、存分に時間をかけて楽しんだあと、ファイは黒鋼の腕の中でうっとりと呟いた。 二人とも、今は乱れた浴衣をすっかり元の形に正し、同じ布団に潜り込んで身を寄せ合っている。少し蒸し暑い気もするが、限界まで高まった熱が静かに収まってゆく感覚は気持ちがよくて、何より離れがたかった。 黒鋼からの返答はなかったが、まだ眠っていないことは知っている。 「多分ね。心のどこかでは、やっぱりいつかは別れなきゃいけない日が来るのかもって……そう思ってた部分があったんだ」 「馬鹿」 「えへへ。うん」 ごめんねと、小さく呟きながら、ファイは抱きつくように黒鋼の腹に手を回す。 いつだって不安を遠のけてくれるのはこの男だった。だから信じてる。なのに、怖くて。 今まではずっと、その繰り返しだったけれど。 「オレ、いいお嫁さんになれるかな」 料理センスは壊滅的だし、ついつい不要なものまで貯めこんでしまう癖もあるし。 今はすっかりユゥイや黒鋼に甘えきっているけれど、やっぱり少しずつでも成長していかなければ、なんて思う。 その辺りに関して一切の期待を寄せていない黒鋼は、ふっと小さく息を吐くような笑い方をした。 「もー……今バカにしたでしょー?」 「んなこたねぇよ」 「いいもん。いつかあっと驚かせてやるから」 「そりゃ楽しみだ」 絶対にまだ馬鹿にしている。 むぅっと頬を膨らませるファイの髪に、黒鋼の長い指が絡まった。毛糸を弄ぶみたいに触れられているうちに、心地いい疲労感が眠気を誘う。 だけど、なんとなくまだ眠りたくなくて、ファイはゆったりと言葉を紡いでいった。 「あのね、オレ、ご両親に申し訳ないなって。オレがね、黒たんを独り占めしてる限り、お孫さんの顔も見せてあげらんないって……苦しくなったんだ」 「知ってた。また余計なこと考えてるってことくらいな」 「ん。今は、もう平気。黒たんのおかげ。ありがと」 そこまで言い切ってしまうと、胸がすっとした。 諦めることは、決して悪いことばかりではないのかもしれないと思った。例えばどんなに愛し合っても自分たちの間に子供は生まれない。黒鋼の血は後に受け継がれることはないし、ファイだってそう。 あの優しい両親も、可能であれば死ぬまでに孫の顔を見たかったはずだ。けれどそれを諦めてでも、息子が選んだ相手を受け入れることを決めた。 きっと人は生きるほどに沢山のものを手放しているのだと思う。得るほどに失うものもあって、歳を重ねるほどに大切なものだけが手の中に残れば、それでいいじゃないかと。 体のいい逃げ口上かもしれない。でも、ファイにとってはこれが最良の答えだった。 「なぁ」 「……んー」 「いつかは、ここに帰ってくるとして。そんときゃ、もちろんおまえも連れてな」 「うん」 「猫でも飼うか? おまえに似た、白くて青い目ぇしたやつ」 「あはは、なにそれ。どうして急に?」 「子供ってんじゃねぇけどよ。悪くねぇだろ」 ああ、それもいいかもしれない。 不器用な優しさに口元を綻ばせ、ファイは枕にしている黒鋼の腕に強く目元を擦り付ける。 「オレは、犬がいいな」 「犬か」 「黒たんにそっくりな、黒くておっきなの」 「そりゃ駄目だ」 「どうしてー? ちゃんと面倒見るし、いっぱい可愛がるよー」 目線を上向けて見れば、むっつりと顔を顰める黒鋼と目が合った。 彼は思いっきり眉間の皺を深くして、紅い瞳で睨みつけてくる。 「また拗ねるぞ。俺が」 真剣に言い放つその声に、ファイは一瞬目を丸くした。が、すぐに思い切り吹きだして、肩を小刻みに揺らした。 その反応を振動ごと受け止めた黒鋼が、「笑いごとじゃねぇぞ」なんてまた真剣に言うものだから、ファイはしばらくずっと笑いながら身を震わせるしかなくなってしまった。 * 里帰り最終日。 朝食を食べたあとしばらくのんびりと寛いで、二人は実家を後にした。 帰り際には野菜やら米やら、なぜか新品のティッシュの箱や洗剤など、思いつく限りのものを持たせてくれようとしたが、流石に持ちきれずに宅急便で送ってもらうことにした。(米と野菜だけであとは断った) まだゆっくりして行けばいいのに、と涙ぐむ母親に後ろ髪を引かれつつ、二人が電車に乗り込んだのは昼を少し過ぎた頃だった。 電車内はもっと混雑しているかと思いきや、行きよりも空席が目立っているように見える。これならちょっとくらいは隠れてイチャイチャできるかな、なんて目論みつつ、また居眠りしてしまうような気がしないでもない。 「そういえば黒たん、こんなに早く帰っちゃって、本当によかったの?」 母親が途中で食べるようにと作ってくれた弁当を食べ終えたあと、ファイはお茶を飲んで息をついている隣の黒鋼の顔を覗き込んで聞いた。 「あ?」 「あ? じゃなくてー」 連休は残り二日。最初に聞いていた話では、もう一泊してから帰宅するはずだった。 それを一日繰り上げて帰るぞと言い出したのは黒鋼で、理由を聞いてもはぐらかされるばかりだった。 「別にいいだろ」 「いいっちゃいいけど……お母さんもお父さんも寂しそうだったし、なんか急だったからー」 「……」 黒鋼は何も言わず、窓際にお茶のペットボトルを置いた。 やがて不思議そうにその表情を見つめ続けるファイに一瞥をくれたあと、映画、と一言呟いた。 「映画?」 「てめぇが見たいって言ってた、あのヤクザの冷戦がどうの」 「え、あぁ、うん。それが……どうかした?」 「明日までだろ」 「!」 ファイは目を丸くして、そのまま大きく瞬きを繰り返した。 黒鋼が映画の存在を覚えていたことも驚きだが、上映期間まで把握していたなんて。 「黒たん……調べててくれたの……?」 呆然としながら問いかければ、彼は腕を組み、ふんと鼻で笑いながら鋭い視線を窓の外へ向け、「たまたま雑誌で見かけただけだ」と吐き捨てるように言った。 そんなことが明らかに嘘であることくらい、ファイにはすぐに分かる。そっぽを向く黒鋼の耳たぶが、ほんの少しだけ赤くなっているのが目に入って、少し泣きそうになりながらふにゃりと笑った。 「ありがとー。黒ぽん」 「別に、付き合ってやるってだけの話だぞ。勘違いすんじゃねぇ」 「わかってるー」 ここが電車の中じゃなかったら、思いっきり抱き付いてキスをしているところだ。 自分たちは、例え両親が認めたとしてもやっぱり人前で堂々と恋人同士であることを主張することはできない。 (でも、こういうのってなんかいいかも) 忍ぶ恋。それはとても刺激的で、相手が黒鋼だからこそ、いつだってドキドキとした感覚を楽しめるような気がした。このスリルは、二人じゃなきゃ味わえない。 ファイは黒鋼に身を寄せると、その肩にもたれかかった。 「居眠りしちゃっていい?」 本当はちっとも眠くはないのだけれど。 ポツポツと等間隔で座席に座る乗客たちは、窓の外を見たり、連れと会話をしたり、本を読んだり、弁当を食べたり。それぞれの旅の最後を満喫している。 誰が見たってファイは居眠りをして隣の『友人』にもたれかかっているようにしか見えなくて、でも、二人にとっては恋人同士の戯れで。 黒鋼が、小さくふっと笑う気配にファイも口元を緩めた。 大きな身体に身を預けながら、楽しかった数日間に思いを馳せる。 本当に来てよかった。この国に、また大切な人たちができた。 窓の外は、来たときと同じように、空が青く晴れ渡っていた。 車窓を流れゆく景色は自然豊かで、まだ十分に故郷の名残を残している。これがいずれ立ち並ぶビル群に移り変わる頃、二人は日常へと帰ってゆく。 「また来ようね。絶対」 心地いい揺れと、ほどよい満腹感。寄り添うだけで満たされる安堵感に、ゆっくりと砂糖が溶けてゆくような静かさで眠気が押し寄せてくる。 そうだな、という囁くような声が金色の髪に押し付けられると、ファイはそっと目を閉じた。 ←戻る ・ Wavebox👏
夏の真っ盛り。
エアコンを嫌う黒鋼の部屋では扇風機が首を振り、開け放たれた窓にぶら下がる花火模様のガラス風鈴が涼やかな音を奏でている。
ほんのりと漂う蚊取り線香の香りが夏の風情を遺憾なく発揮する、そんな夜のこと。
「ちょっと待ってちょっと待って!? 里帰りって、あの里帰りのこと!?」
「他にどの里帰りがあるんだよ」
タンクトップに短パンという、夏休みの子供のような装いのファイは、風呂上りに冷えた水で喉を潤す黒鋼に縋りついてキャンキャンと吠えていた。
「急に言われても! そんなの聞いてないって!」
「今初めて言ったからな」
「そんなぁー!!」
高所から落ちてきた鉢植えが頭部に直撃したかの勢いで、ファイは衝撃を受けていた。唇を戦慄かせ、青い瞳にみるみる涙がたまってゆくのを見た黒鋼は、面倒臭そうにムッと顔を顰めて見せた。
「なんだっつうんだよ。なんか問題あんのか」
「あるよ! 大アリですー! 黒たん先生、オレとした約束忘れちゃったんだ!!」
「約束……?」
頭上に「?」マークを浮かべる黒鋼は腕を組み、首を傾げながら脳内で記憶の引き出しをまさぐっているらしい。
きっと思い出してくれるはず、と固唾を飲んで見守るファイだったが、いくら待っても沈黙が破られることはなく、ついに癇癪を起すと拳で床をガンガン叩く。
「キー! お盆休みはいっぱいお出かけしてイチャイチャするってあんなに約束してくれたのにー! 忘れるなんて最低ー!!」
「あぁ? おい待てよ。まったくもって記憶にねぇぞ」
「しーまーしーたー! お祭りに行ってー、映画見てー、海にも行ってー、動物園にトラの赤ちゃん見に行くって! 夢の中で約束したー!!」
「……ついに夢と現実の区別もつかなくなっちまったんだな」
紅い瞳が、どこか儚いものを見るように細められた。切なげに瞳を揺らす黒様も素敵というときめきは、今はとりあえず置いておく。
それよりなにより、今のファイにとってはせっかくの連休を二人で過ごせないことの方が大問題だった。
そう、数少ない連休。
しかも季節は夏、真っ盛り。思い出を積み重ねることによって、恋はさらに燃え上がる。
そんな期待を胸に黒鋼が好きそうな映画をチェックしてみたり、ネットの口コミで評判のいい店を探してみたりと、日々ウキウキ気分で過ごしていたというのに。
いよいよ盆休みまであと僅かというところで、まさかの「今年の盆は実家に帰る」発言が飛び出したのである。
これが困惑せずにいられようか。
黒鋼の予定を一切聞いていなかったことは、確かに身勝手だったかもしれない。が、当然のように二人で過ごす気満々でいたため、疑う余地もなかった。
「ねぇ黒様せんせぇ~……今からでも考え直さない? 黒たんさ、ほら、見たい映画あるって言ってたでしょ? 仁義なき宇宙冷戦だっけ? 戦闘力53万の宇宙ヤクザと、地球のヤクザが織りなす壮大なSFファンタジーでさー」
「誰がそんなB級以下の映画見たいっつった……しかも冷戦って言いきってる時点で壮大さの欠片も期待できねぇじゃねぇか」
そんなぁ……と肩を落とすファイに、黒鋼は重々しい息を漏らす。
「普段から嫌ってくらいくっついてんだから、たまにゃいいだろ。弟は国に帰るんだろ? てめぇも一緒に行ったらどうだ。ずっと帰ってねぇだろ」
「それは……そうだけど……」
確かに彼の言う通り。
まとまった連休が取りにくいというのもあるが、それを理由にファイも長らく故郷へ戻っていなかった。
例えどんなに重たいと思われようが、一日でも黒鋼と離れるなんて考えられない。出張の類ならまだ我慢できるものの、プライベートではそれこそ嫌というほどくっついていたかった。
だが、これが自分の我儘で、黒鋼の言っていることが正論であることも分かっている。
勝手に盛り上がっていたのはこちらの方だし、たまには静かに実家でのんびりしたい気持ちは分からないでもない。仕事が忙しいのはお互い様だが、特に黒鋼は運動部の夏合宿を終えたばかりで、疲れも溜まっていることだろう。
(諦めるしかないかなぁ……。これ以上疲れさせたくないし……)
そこでふと、ファイは思った。
黒鋼の故郷。彼を産み、ここまで大きく育て上げた両親や、長らく暮らしていた家や、町。黒鋼という人間を作り上げたルーツが、そこにある。
(どんなところなんだろう?)
出会ってから今までの黒鋼のことはよく知っているつもりでも、彼がどんな少年時代を過ごしたのか、どんな環境で育ったのかまでは何も知らない。
聞いたってどこまで教えてくれるか分からないし、そもそもこの男が自身の過去を饒舌に語り聞かせてくれるとは到底思えなかった。
(なんかすっごーく気になってきちゃった!)
ならば話は簡単だった。この身をもってして、直に触れればいいだけのことだ。
しょんぼりと俯いたままだったファイは、パッと顔を上げると目を輝かせた。
「黒わんころ!」
「あ?」
「オレね、いいこと思いついたよ!」
「……なんだよ」
そこはかとなく嫌そうな顔をしている黒鋼に向かって、ファイは声高らかに言った。
「オレも一緒に黒たん先生のおうちに帰る!」
嫌な予感が的中したとばかりに、黒鋼は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「バカ言ってんじゃねぇ! なんでてめぇまで一緒に!?」
「わー、楽しみだなー! あ、いくら実家だからって、久しぶりに帰るんだし手ぶらはダメだよー。なにか気の利いたお土産を用意しないとねー」
「おい!? 勝手に話を進めるな!」
「ふふふー。楽しみだなー!」
「聞けこのタコ!!」
荒げられた黒鋼の声を、浮かれきったファイは右耳から左耳へと聞き流した。
+++
そんなこんなでついにやってきた盆休み。
電車に揺られること数時間、蒸し暑い駅構内を出ると、そこには抜けるような夏の青空が広がっていた。
「到着ー! ずっと座りっぱなしで疲れたー!」
着替えなどが入ったバッグを地面に置いて、半そでシャツにジーンズ姿のファイは思いっきり両手を伸ばして背伸びをする。痺れるような解放感が、指先にまでじんと染み渡るのが心地よかった。
電車での長旅は快適なものではあったが、こうして外の空気を吸うとホッとして身体から力が抜ける。
「よく言うぜ。グースカいびきかいて寝てたやつが」
少し遅れて駅から出てきた黒鋼が吐き捨てる。彼もまた、いつもの黒ジャージを脱いでラフな装いだった。変わらないのは全体的に黒が基調となっていることくらいか。
彼はバッグの他に紙袋も手にしていた。中身はユゥイが持たせてくれたお手製の菓子類だ。その辺の有名店で買う土産物よりも、確実にこちらの方がハズレがない。
便利な……いや、いい弟を持ったなぁと、今はイタリアの地を踏みしめているであろう弟に感謝する。
「言っとくけどねー、先に寝ちゃったのは黒様先生の方だからねー。お弁当食べたらすぐに寝ちゃうんだもん。いきなりもたれかかってくるから、ビックリしちゃったよー」
うるせぇな、と吐き捨てる黒鋼についつい笑ってしまう。
本当は流れゆく景色を眺めながら会話を楽しんでいたかったけれど、そうやって無防備に身を預けてこられるのは嬉しかった。
眠っていることを口実に、人目を気にすることなく寄り添っていられることも。
電車の心地よい揺れと黒鋼の寝息に耳を傾けているうちに、ファイもまたすっかり意識をさらわれてしまったのだった。
「最後まで寝コケてたのはおまえだ。俺がいなけりゃ乗り過ごしてたぜ」
「はいはいわかったよー。のんきな寝ぼすけはオレの方ですー」
ファイが素直に折れたことに気を良くしたのか、黒鋼は満足気にふんと鼻を鳴らした。
この男は妙なところで子供っぽいし、何においても負けず嫌いだ。普段は頼りがいのあるお父さんタイプのくせに、こんなところがあるからつい可愛いなんて思ってしまう。
黒鋼がいなければ、そもそもこの場所にファイが訪れることだってなかったろうに。
+++
二人が出た場所は、ちょうど小規模な駅前ロータリーだった。
容赦なく降り注ぐ日差しと照り返しの中、それでも自分たちと同じように帰郷した家族連れなども目立って辺りはそこそこ賑わっている。
タクシーやバス、送迎マイカーなどが列をなす光景を横目に、二人は見通しのいい場所を目指してのんびりと歩き出した。
「お父さんわざわざ迎えに来てくれるなんて優しいねー。どんな車かなー?」
「さぁな。俺がガキの頃は軽トラばっか乗り回してたが……お袋の話じゃ、最近新車買ったとかなんとか言ってたな」
「じゃあどんなので来るかわかんないんだねー」
これだけ目立つ息子の姿を見落とすということもないだろうし、ファイもファイで太陽の下で光り輝く金髪頭がよく目立つ。
それと思しき車が見当たらないとなると、おそらくまだ到着していないのだろう。
ある程度ロータリーを迂回し、歩道近くに出たところで、二人は足を止めると息をつく。
日差しは厳しいが、どこかカラリとしていて決して不快な暑さではなかった。
黒鋼はどこか懐かしそうに目を細めながら、周辺の景色を眺めていた。ファイはその様子をちらりと見やり、肩を竦めるようにして微笑むと、覗き込むようにしてその表情を見上げる。
「懐かしい?」
「そうだな。俺がいた頃より、ここもずいぶん整備されてるみてぇだが……お」
「なにー?」
「いや」
黒鋼の視線が広い通りの向こう側に向けられるのを、同じく視線で追いかける。
そこはまだどこか真新しさを醸し出す大型のネットカフェと、その駐車場だった。
「昔あそこは本屋だった。その横は古くせぇ文房具屋だったんだが」
どっちもなくなっちまったんだな、と独り言のように落とされた声から、彼の郷愁がファイの胸にも伝染して、少し切ない気持ちになった。
なんとなく、脳裏に小さくて古びた本屋と文具屋が並んでいるのを思い浮かべてみる。
きっとよく利用していたのだろう。ファイが知らない頃の黒鋼の姿も想像して、物懐かしさの片鱗に触れた。
「変わるもんだな。長いこと離れてるとよ」
「そうだねー」
口元だけで小さく笑う黒鋼に、ファイもふわりと笑顔を返した。
時の流れにその景色がどれほど姿かたちを変えようとも、ここが黒鋼の生まれ育った故郷であることに変わりはない。
そんな場所に立って、同じ目線で『今』を見つめていられることに感動を覚えた。
無理を言ってしまったが、やっぱり来てよかった。そう思う。胸が、温かく震えていた。
しかもこれから会うことになるのは黒鋼の両親である。ファイがこうして最愛を得て日々を送ることができているのは、他ならぬ彼らのおかげだ。
「黒たん。オレ、失礼のないようにちゃんと振る舞うから安心してね」
いたって真面目に宣言したつもりが、それを聞いた黒鋼が珍しく小さく吹きだした。
「なんで笑うかなー?」
「借りてきた猫にでもなるつもりか、おまえは」
「もー! 真面目に言ったのにー!」
「気負うと逆にヘマすんぞ。騒がしくてアホみてぇな外人が一緒だってことは言ってある。安心しろ」
「ちょ、ちょっと黒様せんせー! 変な伝え方しないでよー!」
逆に不安になるではないか……。
とはいえ、どんな紹介のされ方をしようとも今のファイはあくまでも黒鋼の職場の同僚であり、友人だ。
久しぶりに帰ってきた息子が、まさか男の恋人を連れてきたなんて、そんなことを両親に悟られるわけにはいかない。
(ちょっと寂しいけど……連れてきてもらえただけで満足しなきゃねー)
よき友人としての振る舞いを、しっかりと見せなくては。
ファイが心の中で気合を入れたのと、小さく二度ほどクラクションを鳴らしながら黒の乗用車が路肩に横づけされたのはほぼ同時だった。
*
「アホな外人を連れてくるなんて言うもんだから、どんなアホかと思えば……可愛い顔した先生じゃないか。なぁ奥」
「ええ本当に……。外人さんって聞いたときは、もっと毛むくじゃらで大柄なのかと思ってましたけど、モデルさんみたいなイケメンさんね」
茶の間にあたる広い和室で、仲睦まじい夫婦が笑っている。
ファイと黒鋼と、四人で囲んだテーブルの上には、旬の野菜や魚介類を使った天ぷらや煮物に漬物など、豪華な食事が所狭しと並んでいた。酒はもちろん、さらに握り寿司が詰まった巨大な桶まで並ぶ様は圧巻の一言である。(残念ながら生魚は食べられないが)
日本の食卓ってどこもこんな感じなの? と驚きを隠せないファイだったが、おそらく久しぶりに戻る息子と客人のために奮発してくれたのだろう。
このさい悪意のない散々な言われようには、目をつぶらざるをえない。もとはと言えば黒鋼が失礼極まりない情報を事前に吹き込んだせいでもあるのだから。
じろ、と横目で隣を睨んではみたものの、元凶はふてぶてしく胡坐をかいてビールジョッキに口をつけるだけで、こちらを見ようともしない。
彼は父親が運転してきた車に乗り込んでから今まで、いつも以上に口数が減っていた。久しぶりの両親との対面は、幾つになっても照れ臭いものなのだろうか。
「さ、ファイ先生も遠慮なくどうぞ。お腹ぺこぺこでしょう?」
「足も崩して楽にするといい。正座は辛かろう」
「すみませんー。じゃあ、お言葉に甘えて……」
どこか辛気臭い雰囲気の息子とは違い、その両親は気さくでよく笑う人たちだった。
母親は長い黒髪に、ふわりとした淡い花柄の着物をまとった優しそうな女性で、父親はちょっと笑ってしまいそうになるくらい、息子と瓜二つである。
正直あと少し遅かったら引っくり返って悶絶していたであろう正座を崩しながら、ファイはにこりと笑い返す。
とりあえずは、明るい人たちで安心した。アホな外人でも、こうして快く迎え入れてくれるのだから。
「この子はしっかりやれていますか? この通り愛想のない子ですから、生徒さんたちに受け入れられているのかどうか……」
黒鋼母が小皿に天ぷらを盛りつけながら、少し困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
この息子のことだから、まともに近況を告げてはいないのだろう。
どうぞ召し上がって、と差し出された皿を礼を言いつつ受け取りながら、ファイは安心させるようにこくりと頷いた。
「黒鋼先生はとっても頑張ってますよー。生徒たちも彼が大好きですし。理事長先生にはちょーっとこき使われてますけどねー」
「おいこら、余計なこと言うな」
「えー? お茶汲みだって立派なお仕事だよ黒た……黒鋼せんせー」
「てめぇ……帰ったら見てろよ……」
その掛け合いを聞いて、黒鋼父は豪快に笑った。
母親の方もどこかホッとしたように胸に手を当てながら、控えめな笑い声をあげた。
「そうか、昔はまともに茶のひとつも淹れられなかった息子が、今では立派にやっているというのは嬉しい知らせだ」
「え? そうだったんですかー?」
「おい親父……」
「ええ、誰に似たのか不器用な子でしたのよ。絵を描かせてもクラスで断トツの惨さで……」
「むご……お袋まで、勘弁してくれ」
「ぷぷっ」
「アホ教師! 笑うんじゃねぇ!!」
ただでさえ悪い目つきをさらに吊り上げて怒鳴る黒鋼に、他三人は大いに笑った。
舌打ちしながらそっぽを向く様子に多少は悪いと感じつつ、なかなか聞けない貴重な話にファイの気分は高揚する一方だった。
「もっと黒鋼先生の昔のお話、聞かせてくれませんかー?」
目を輝かせ、少し前のめりになって強請るファイに殺気立った視線が突き刺さる。が、黒鋼父はよしきたとばかりに頷いた。
「そうだな、とにかく変わった子供だった」
「変わった子……ですか。どんなふうに?」
「いつだったかな……これが小学校に上がる少し前だったか、なぁ奥」
「そうそう。この子、駅の近くで路上生活をしていた男の人を連れてきて……」
「大事に世話するから飼ってもいいか……ってな……」
「えぇ!? ホームレスをお持ち帰りしたんですか!? しかもペット扱い!?」
真っ先に飛び出す幼少期トークにしては、あまりにもヘビーな内容である。
咄嗟に見開いた目で黒鋼を見れば、彼は残り少ないジョッキのビールをチビチビと飲みながら恐ろしい形相で震えている。
これ以上は危険なのでは……と思いつつ、先が気になった。
「で……どうなったんですか……?」
「流石にちょっと……ちょうど新米が炊き立てだったので、おむすびと一緒に……」
お引き取り願ったわけか。
当たり前の話だとは思うが、ついて来る方もどうかしているような。
当時はそれだけで済んだそうだが、もし今の時代だったらどえらい騒動になっていただろう。擦れ違った児童に挨拶をしただけでも通報されて、ネットで祭り上げられる時代である。
「中学の頃もあったぞ。そこらへんの畑を荒らしまわっていた巨大イノシシを、担いで持ち帰ってきたことが」
「素手で仕留めたんですか!?」
「あの時は父として誇らしかったぞ。逞しい子に育ったもんだと」
「ええ、ご近所さんにもお裾分けして、美味しく頂きましたのよ」
鍋にでもして食ったんかい。
流石のファイも笑顔を引き攣らせ、パワフルなお子さんですね……と返すだけで精一杯だった。
なるほど、確かにここは黒鋼という人間を形成したルーツの宝庫だ。
そこはかとなくだが、この仲のいい夫婦からも天然チックなオーラが漂っている気がした。巨大イノシシを素手で仕留めて担ぐ中学生というのも常識外れだが、まずは無茶な真似をした息子を咎めるのが先のような気がするが……。
(黒たんも天然なとこあるからなぁ……このご両親なら納得かもー……)
「もういいだろ……こいつに余計な話は吹き込むなとあれほど」
「いいじゃないの。せっかくこうして楽しくお食事ができているんだもの。そうだわファイ先生、よければこの子の昔のアルバムもご覧になりません?」
「お、いいな。久しぶりにみんなで見るか!」
「頼むからもうよせ!!」
よほど恥ずかしいのか、黒鋼は顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
シャイな彼にとって今の状況は地獄に等しいものなのかもしれない。それでも嬉しそうに笑っている両親の顔を見ているうちに、ファイはふと、楽しかったはずの心が沈みかけているのに気づいてしまった。
(いいご両親だなぁ。優しくて、寛大で)
二人とも、長らく離れていた息子との時間を心から楽しんでいる。ファイのことも優しく迎えてくれる。
だけどきっと、彼らが本当に連れてきて欲しいのは、同僚でも友人でもないはずだ。
もしこの場にいるのが自分ではなく、将来可愛い孫を産むことができる綺麗な女性だったなら、二人はもっと喜んだに違いない。
黒鋼は絶対にいい夫になるし、いい父親になるし、そしてこの夫婦は優しいおじいちゃんと、おばあちゃんになる。このおっとりとした母親なら、嫁と折り合いがつかずに揉めるということもなさそうだ。
言い合う親子から、ファイはそっと目を逸らした。視線の先では障子が開け放たれていて、よく磨かれた板の間の縁側の向こうには、広い庭があった。
手入れされた木々と、花々と、綺麗な芝生。きっと黒鋼が幼い頃はここを駆けまわって父親と一緒に遊んでいたに違いない。
今度は黒鋼が同じように、自分の子供と過ごす姿を見せることこそが、きっと両親への最大の孝行になるのだと思う。
(あー……ダメだなぁ、こんなんじゃ)
今までだってこの手の不安は幾度も抱いてきた。
その度にどれほど落ち込んでも、必ず引きずり上げてくれたのは黒鋼の力強い腕と、真っ直ぐな愛情だった。
だからファイはいつだって彼の側で笑っていることができたし、ほんの数日だって離れていられない自分に、今さらこの幸せを手放すことが出来るとは思えない。
来てよかったという気持ちに偽りはないけれど、会うべきではなかったのかもしれない。どこかで捨てきれない後ろ暗さが、両親へ対する罪悪感にぴったりと折り重なった。
「おい、どうした急に」
「……ふぇ!?」
いつしか得意の笑顔すら手離して消沈していたファイの顔を、黒鋼が横から覗き込んでいた。咄嗟におかしな声を上げて肩を揺らしたファイに、彼は眉間の皺を深める。
ファイは慌てて大きく首を振ると、笑顔を取り繕った。
「な、なんでもないよー! 色々ビックリするお話聞いたから、ちょっと余韻が抜けきらないだけー」
「顔色が悪い。ちっと横になるか?」
「ッ……!」
そう言いながら、黒鋼の手が伸びて頬に触れようとするのを、咄嗟に身を引いて拒絶した。一瞬のことだが、明らかに避ける動作を見せたファイに、黒鋼は何か言いたげな様子で渋々手を引っ込める。
この場所で、まるで恋人を気遣うような触れ方をしてはいけないはずだ。
いつもの癖で出てしまったのかもしれないが、今もし彼に優しく触れられようものなら、ファイだって自信がない。瞳を潤ませて、いつものように甘えた口をきいてしまうかもしれない。
そんな姿を、目の前の両親には見せられない。友達でもただの同僚でもなく、深く愛し合っているという事実を、悟られるわけには。
もし万が一バレるようなことがあれば、反対されるのは目に見えている。何より、大切な息子が道を踏み外したと知ったら、きっと彼らは深く傷つくだろう。
「奥、だから言っただろう。長旅な上にこの暑い中、揚げ物はないだろうって」
「いやだわ、貴方が作れって言ったのに」
「そうだったか?」
「そうですよ」
ごめんなさいね、と申し訳なさそうに小首を傾げる母親に、ファイはぶんぶんと首を振って満面の笑みを浮かべた。
「ぜんぜん平気ですー! オレこう見えてけっこう食べるし、凄く美味しいですー!」
「そう? ならよかったわ。さ、煮物も召し上がって」
「はーい! いただきまーす! あ、そうだ、アルバムもぜひ拝見したいですー!」
「おおそうか! よし、じゃあ取ってくるとしよう」
「わーい! ありがとうございますー!」
横から突き刺さる黒鋼の視線はかなり痛かったが、ファイは大袈裟なくらいはしゃぎながら、その後も両親から様々な昔話を聞いたのだった。
*
アルバムを見たり、昔の黒鋼の話を聞いたり、学校での仕事ぶりを話したり。
そうこうしながら食事を終える頃には、とっぷりと陽が暮れようとしていた。
黒鋼父はすっかり酔い潰れて、息子に抱えられて部屋に引っ込んでいった。黒鋼の酒豪ぶりは見た目通り父親譲りかと思っていたが、どうやら違っていたらしい。
夫に勧められるままそれなりに杯を重ねた母親の方が、顔色ひとつ変えずにケロリとしているから驚いた。
広い台所では、黒鋼母が山のように積まれた食器を洗っていた。
いくら客人とはいえただ何もしないでいるわけにはいかないと、ファイはおずおずと台所を仕切るガラス戸を開けて、ひょこりと顔を出す。
「あ、あのー」
「あら先生、どうかし……あ、ごめんなさいね。お酒を飲んだあとは喉が渇きますものね」
私ったら気が利かなくて、なんて言いながら水道を止めようとする黒鋼母に、ファイは慌てて両手を翳すと首を振る。
「い、いえ、オレも何かお手伝いがしたくてー」
「まぁ、そんな気を使わなくてもいいんですよ。ゆっくりしてらして」
「でもやっぱり悪いですし」
普段、台所に立つことは黒鋼とユゥイに止められている。それでも何かしら手伝えることはあるはずだ。確かに料理センスは呪われているかもしれないが、片付けくらいは別にしようと思えばできる。ただしないだけで。
黒鋼母は嬉しそうにニッコリと微笑んで、「じゃあ、食器を拭くのをお願いしようかしら」と言った。
+++
うっかり手を滑らせて食器を割ったりしたら大変だと、ファイは緊張しながら次々と重ねられてゆく皿を和柄の上質な手拭で丁寧に拭いた。引け目を感じている相手と二人きり、ということも相まってか、時おり指先が震える。
その緊張感が隣で食器を洗っている母親に伝わったのか、彼女は小さく肩を揺らして笑った。
「す、すみません……普段家事は弟に任せきりで……」
「ごめんなさね。笑ってしまって。あの子に聞いていた通りだから、つい」
咄嗟に母親の方に顔を向けて、ファイは手を止めた。
「黒た……えと、黒鋼先生、他にもまだ何か言ってたんですか?」
「ええ、台所には立たせるなって。バレたら叱られてしまいますね」
「うわぁ……やだなぁもう……」
自分の近況はまともに伝えていなかったくせに、余計なことばかり話すあたり、人のことは言えないではないか。
軽く赤面して目を泳がせるファイを見て、黒鋼母はやっぱりクスクスと笑うと、それから少し間を置いて言った。
「とてもいい方だと。そうお聞きしていますよ」
「……え?」
黒鋼母もまた、手を止めてファイを見上げた。優しげに細められた瞳に、どうしてか息が詰まる。
「いつも明るくてニコニコしているくせに、辛いことは全て一人で背負い込もうとするから」
「……」
「だから側で、見ていてやらなくちゃいけないんですって」
ファイはただただ、戸惑った。
黒鋼がそんなことを言っていたというのも驚きだが、かといって返す言葉が咄嗟に見つからない。うまく声を発することすらできそうもなく、ファイはただ俯いた。
「あの子のこと、よろしくお願いしますね」
「……それは」
どういう意味だろう。
友達として。同僚として。それは分かっている。彼女が自分たちの関係を知っているはずはないのだから。
なのになぜだろう。この優しい瞳の前では、何も隠し事ができないような気がして。全て見透かされているような、心もとない気持ちにさせられた。
そんなはずはないと思いつつ、ファイは誤魔化すように無理やり笑って首を振った。
「オレは何もできません。黒鋼先生は一人でもちゃんとやっていける人だし……その、オレはたまたま一緒に仕事をすることが多くて、部屋も隣同士ってだけで……」
「そんなことはありません」
「お母さん……」
「あの子は、一人ではやっていけません。可愛いお嫁さんが、ちゃんと側で見ていてあげないと」
黒鋼母は少女のように「うふふ」と可憐に笑って、さらに続けた。
「嫁を連れて帰るって。あの子、そう言いましたのよ」
「……へ!?」
ファイは我が耳を疑った。
彼女は今、なんと言ったのだろうか。紡がれた言葉がすんなりと頭に入らず、戸惑いに拍車をかけるばかりだった。
嫁とはあの嫁のことでいいのか。女に家と書いてヨメと読ませる、あの嫁ことで間違いないのだろうか。
「お、お、お嫁さん!? あれ!? 今日ってここに来たのはオレ達ふたりだけでしたよねー? おっかしーなー?」
もしかしたら自分は、物凄く苦しい言い訳をしているのではないか。
そんな気にさせられるのは、天井を仰ぎ見るように目を泳がせるファイにとって、彼女の優しくて綺麗な瞳が皮膚に突き刺さるように感じられるからだった。背筋にヒヤリと冷たい汗が伝った気がする。
「気を使ってくださっていたのね」
「お、お母さん、あの……」
大きな瞳をゆっくりと細めて、彼女は微笑んだままだった。
ファイはその瞬間、ふっと肩から力が抜けたような気がした。悪戯が見つかった子供のような気分だ。あの決意はなんだったんだろう。なんのために無理をしていたんだろう。何も意味がなかったということだ。
両親は最初から知っていた。黒鋼が、包み隠さず言っていたから。
騒がしくてアホみたいな外人の嫁を、連れて帰る、と。
(最初に言っておいてよね……照れ屋にも程があるでしょ、バカ!)
知っていて、彼らはこうして受け入れてくれていた。
まだ驚きや戸惑いの方が大きいけれど、じわじわと込み上げてくる安堵や気恥ずかしさに、ファイはじんわりと浮かぶ涙を抑えきれない。
黒鋼が、そんなことを。しかも両親に向かってハッキリと。彼は初めから隠す気など毛頭なかったということだ。もしかしたら、ずっとどこか不機嫌そうだったのは、両親に二人並んだ姿を見られていることが照れ臭かったから、なのかもしれない。
(黒たんのバカ)
本当に嬉しかった。夢を見ているような気さえした。
けれど、かといって不安の種は完全に消えてはいなかった。
「でも……嫌じゃないですか? 大事に育てた息子さんなのに、相手が男って。お孫さんの顔だって……オレが相手じゃ見せてあげられない……」
「うふふ」
「あの、ここ笑うところじゃないんですけどー……」
「だって……ふふ、おかしい」
ジョークを言って笑わせようとしたわけでもないのに、黒鋼母は手拭で拭いた白い手を口元に当てて笑い続けている。本当によく笑う、可愛い人だ。
ファイはただ困惑するばかりで、彼女が落ち着くのを待っていることしかできなかった。
「ごめんなさい。だって、ホームレスの人を連れてきて大事にするって言ってのけた子ですもの。それに比べたら、こんなに可愛らしい顔をした若い男の人で、むしろ安心しましたわ。ふふふ」
ホームレスと比べられましても……というツッコミはとりあえず飲み込んだ。
そういえば彼女は「外人=毛むくじゃらの大男」という偏った思考の持ち主だった。父親の方も大方同じようなイメージを持っていたに違いない。
やっぱりこの親子は、天然だ……。
ファイはクスクスと笑い続けている母親に釣られて、思わず小さく吹きだしてしまった。しばらくの間、そうやって二人で手を止めたままずっと声をあげて笑った。
やがて、笑いすぎてうっすら浮かんだ涙を指先で拭いながら、黒鋼母は改めて言った。
「愛想のない不器用な子ですけれど……末永く、よろしくお願いしますね、ファイさん」
まだ少し恥ずかしかったけれど、ファイは今度こそなんの迷いもなく「はい」と返事をして、ふにゃりと泣きそうに笑った。
*
夜。
風呂上りには縁側で、四人並んで冷たいスイカを食べた。
黒鋼父は少し休んでどうにか復活したようで、尽きることのない話の中で、明日は買い物がてら海でも見に行こうかと言い出した。
道中には黒鋼が通っていた学校が小中高と見れると聞いて、ファイは万歳をしながら喜んだ。
黒鋼はもちろん渋い顔をしていたが、ファイはすっかり両親に心を開いて、絶え間なく三人の笑い声が夜の庭に響いていた。
+++
就寝場所は二階にある八畳ほどの広い和室で、黒鋼が子供の頃に使っていた部屋だった。
地球儀や船の模型が飾ってある机や、当時使っていたのであろう教科書や参考書などと一緒に、昆虫やら恐竜やらの図鑑が並べてある背の高い本棚。
これらはきっと、黒鋼がここを出た時のままの形で、常に綺麗に手入れされているに違いなかった。
「本当にいいご両親だねー」
今は灯りを落とし、枕元にある和紙の照明だけがほんのりと光を放っている。
二人は布団の脇に綺麗に畳まれていた浴衣を身にまとい、のんびりと寛いでいた。着替えは準備して来ていたが、せっかくの心遣いを無駄にはできなかった。
黒鋼は父親のお古で黒の綿麻、ファイには黒鋼が高校時代に着ていたという、濃紺のしじら織が用意されていたけれど、やっぱり少し大きい。
部屋の中央に布団を二組並べて、その上にちょこんと座り込んだファイは、枕を抱え込みながらゆらゆらと身体を揺らし、上機嫌で言った。
「最初は緊張したけど、ちゃんと仲良くなれてよかったー」
ファイは横に枕を放ると、胡坐をかく黒鋼のすぐ側まで近寄って、その顔を覗き込んでにっこり笑う。
「黒たん先生のおかげでね」
「俺は別に何もしてねぇよ」
ファイとは逆に、黒鋼の方はまだ少しばかり不機嫌そうだった。ぷいっと顔を背け、そのままこちらを見ようともしない。
子供の頃の話や、学園での話など。それらを存分に酒の肴にされてしまったことを、まだ根に持っているらしかった。
ファイは小さく笑うと、黒鋼にすっかり身を寄せてその腕に抱きつく。
「怒らないでよー。オレは黒様先生の昔のお話、いっぱい聞けて嬉しかったんだからー」
「怒ってねぇし、俺はまったく嬉しくねぇ」
「じゃあ、拗ねてる?」
「……うるせぇな」
がっしりとした腕に回していた手を、片方取られる。骨ばった大きな手に手首を掴まれ、引っ張られるようにして導かれれば、胡坐をかく黒鋼とちょうど向き合う形になった。
膝立ちのファイはその首に両腕を回しながら、いつもより低い位置にある仏頂面を見下ろして微かに笑った。
「ちょっと仲良くなりすぎちゃった?」
黒鋼の両親は賑やかで、会話も笑顔も途切れない人たちだった。
台所での母親とのやり取りですっかり立ち直ったファイの笑顔は、無理やり作り上げた愛想笑いとは程遠いもので、彼らとの時間を心から楽しむことができた。
きっと明日も、楽しい一日になるはずだ。もっと沢山、可愛い息子の話が聞きたいし、愛しい恋人の話をしたい。
黒鋼はもう一度、囁くように「うるせぇぞ」と言った。
腰に回された腕に強く引き寄せられて、自然と唇が重なる。
可愛いなと、ファイは思う。きっと彼はファイが両親と打ち解けたことに安堵している。けれど、少しばかり懐きすぎたせいか、こうしてヤキモチも妬いてくれる。
「愛しいよ」
軽く触れ合っただけの唇から、ファイは吐息のような声を漏らした。
黒鋼の額に自分の額を押し付けて、その頬を両手で包み込む。
「君を生んで、育ててくれた人たちだもの。オレのことも、ちゃんと……」
続きを待たずに、黒鋼がファイの腰を抱えたまま態勢を変えた。頭部にも手を添えられ、そっと厚みのある布団に押し倒された。
見下ろす姿勢から、見下ろされる態勢になって、胸が大きく高鳴った。キスもセックスも、数えきれないくらい交わしてきたはずなのに、いつだって初めての恋をしているみたいに心がきゅっと締め付けられる。
黒鋼は何も言わなかった。ただじっと、真っ直ぐに表情を見下ろされることに今度はファイの方が照れ臭くなってしまう。心臓の高鳴りが伝わってしまいそうな気がして。今更だけど恥ずかしい。
赤い頬で目を逸らし、弱々しくその胸板を押した。
「なんか、照れるよ……」
「今更だろ」
「だって……下でお父さんとお母さん、が、ッ」
寝てるのに、と続くはずだった言葉が熱い唇に塞がれた。
黒鋼の身体の下で大きく身を震わせたファイだったが、見開いた瞳は滑り込んでくる生温かい舌の感触に、すぐにとろりと溶けるようにして閉じられた。
抱きしめてくる腕の感覚と一緒に、言葉にできないくらいの幸福感がファイを包んだ。負けじと黒鋼の背に必死で腕を回して受け止める。
舌を絡ませ、唇を舐め合い、いっそ痺れて感覚がなくなるくらい、深く。
「はっ、ふ……」
「声、我慢できるか?」
銀色の糸を引いて一度離れた唇の隙間から、低く呟かれる声に耳まで犯されているような気持ちになる。
下の階では彼の両親が、明日に備えて休んでいるはずだ。
いつだって正体をなくすほどに乱されてしまうファイには正直、自信がなかったけれど。
火のついた身体が今にも一つになりたくて、疼いている。抗えるはずがなかった。
「ん……がんばる……」
こくんと頷いて見せたファイに、黒鋼は小さく、笑った。
+++
「ゃ、ん……ッ!」
思わず漏れてしまった声に、ファイはハッとして口元を両手を覆った。
黒鋼の太い指に大きく開いた両足の奥まった場所を探られながら、懸命に息を飲み込むことに努めた。
浴衣は上も下も肌蹴て、かろうじて帯だけで留まっているだけだった。素っ裸よりもずっと卑猥に思えて、羞恥心が存分に膨らんだ。
内壁の奥深い場所を指の腹で擦られる度に、ファイは泣きながら嫌々と首を振った。
「ん、ぅ、ッ」
行為はどちらかといえば性急だった。
いつもの黒鋼なら、丁寧に時間をかけて心も身体も蕩かすような抱き方をする。けれど、今日は流石にじっくりと時間をかけている余裕はないようだった。
でも今はそれが嬉しい。いくら公認とはいえ、両親がいる同じ家の中で行為に及んでいるというギリギリのスリルが、いけないと思いつつも興奮を掻きたてる。
黒鋼によって開発されてきた身体は、当然ながら黒鋼しか知らない。彼が欲してくれるなら、ファイはいつだって準備が出来ているも同然だった。
いいか、と吐息だけで投げかけられた問いに、ファイは睫毛を伏せて頷いた。
ゆらりと潤んだ瞳で見上げ、黒鋼の乱れた浴衣の胸元に両手を這わすと、そのまま肩まで撫で上げる。手首に引っかかるようにして大きく開いた襟の下から、逞しい両肩が姿を現した。
黒鋼はファイの中を解していた指を引き抜くと、もどかしげに浴衣の袖から両腕を引き抜いた。腰に纏わりつくだけの布と化したそれを掻き分けて、その手がいきり立った自身を取り出すのが緩い照明の中でもハッキリと見えた。
心臓が下から突き上げられるように鋭く高鳴っている。
ファイは喉を慣らし、両足をより大きく自ら割り開いた。飢えたような瞳と、真っ直ぐに視線が交わる。
「大好き。黒様」
汗ばんだ頬に金色の髪を張り付かせながら、ファイは小さく首を傾げると微笑んだ。
誘うように両手を黒鋼の後ろ首に這わせ、そっと抱き寄せると彼は逆らうことなくファイに覆いかぶさった。
白い足を抱え上げられ、熱の塊を濡れた穴に押し付けられながら、耳元にかかる熱い息が「愛してる」と紡ぐのを、幸福に濡れた瞳を細めて受け止めた。
+++
「オレ、本当に嬉しかったよ」
一度の交わりを、存分に時間をかけて楽しんだあと、ファイは黒鋼の腕の中でうっとりと呟いた。
二人とも、今は乱れた浴衣をすっかり元の形に正し、同じ布団に潜り込んで身を寄せ合っている。少し蒸し暑い気もするが、限界まで高まった熱が静かに収まってゆく感覚は気持ちがよくて、何より離れがたかった。
黒鋼からの返答はなかったが、まだ眠っていないことは知っている。
「多分ね。心のどこかでは、やっぱりいつかは別れなきゃいけない日が来るのかもって……そう思ってた部分があったんだ」
「馬鹿」
「えへへ。うん」
ごめんねと、小さく呟きながら、ファイは抱きつくように黒鋼の腹に手を回す。
いつだって不安を遠のけてくれるのはこの男だった。だから信じてる。なのに、怖くて。
今まではずっと、その繰り返しだったけれど。
「オレ、いいお嫁さんになれるかな」
料理センスは壊滅的だし、ついつい不要なものまで貯めこんでしまう癖もあるし。
今はすっかりユゥイや黒鋼に甘えきっているけれど、やっぱり少しずつでも成長していかなければ、なんて思う。
その辺りに関して一切の期待を寄せていない黒鋼は、ふっと小さく息を吐くような笑い方をした。
「もー……今バカにしたでしょー?」
「んなこたねぇよ」
「いいもん。いつかあっと驚かせてやるから」
「そりゃ楽しみだ」
絶対にまだ馬鹿にしている。
むぅっと頬を膨らませるファイの髪に、黒鋼の長い指が絡まった。毛糸を弄ぶみたいに触れられているうちに、心地いい疲労感が眠気を誘う。
だけど、なんとなくまだ眠りたくなくて、ファイはゆったりと言葉を紡いでいった。
「あのね、オレ、ご両親に申し訳ないなって。オレがね、黒たんを独り占めしてる限り、お孫さんの顔も見せてあげらんないって……苦しくなったんだ」
「知ってた。また余計なこと考えてるってことくらいな」
「ん。今は、もう平気。黒たんのおかげ。ありがと」
そこまで言い切ってしまうと、胸がすっとした。
諦めることは、決して悪いことばかりではないのかもしれないと思った。例えばどんなに愛し合っても自分たちの間に子供は生まれない。黒鋼の血は後に受け継がれることはないし、ファイだってそう。
あの優しい両親も、可能であれば死ぬまでに孫の顔を見たかったはずだ。けれどそれを諦めてでも、息子が選んだ相手を受け入れることを決めた。
きっと人は生きるほどに沢山のものを手放しているのだと思う。得るほどに失うものもあって、歳を重ねるほどに大切なものだけが手の中に残れば、それでいいじゃないかと。
体のいい逃げ口上かもしれない。でも、ファイにとってはこれが最良の答えだった。
「なぁ」
「……んー」
「いつかは、ここに帰ってくるとして。そんときゃ、もちろんおまえも連れてな」
「うん」
「猫でも飼うか? おまえに似た、白くて青い目ぇしたやつ」
「あはは、なにそれ。どうして急に?」
「子供ってんじゃねぇけどよ。悪くねぇだろ」
ああ、それもいいかもしれない。
不器用な優しさに口元を綻ばせ、ファイは枕にしている黒鋼の腕に強く目元を擦り付ける。
「オレは、犬がいいな」
「犬か」
「黒たんにそっくりな、黒くておっきなの」
「そりゃ駄目だ」
「どうしてー? ちゃんと面倒見るし、いっぱい可愛がるよー」
目線を上向けて見れば、むっつりと顔を顰める黒鋼と目が合った。
彼は思いっきり眉間の皺を深くして、紅い瞳で睨みつけてくる。
「また拗ねるぞ。俺が」
真剣に言い放つその声に、ファイは一瞬目を丸くした。が、すぐに思い切り吹きだして、肩を小刻みに揺らした。
その反応を振動ごと受け止めた黒鋼が、「笑いごとじゃねぇぞ」なんてまた真剣に言うものだから、ファイはしばらくずっと笑いながら身を震わせるしかなくなってしまった。
*
里帰り最終日。
朝食を食べたあとしばらくのんびりと寛いで、二人は実家を後にした。
帰り際には野菜やら米やら、なぜか新品のティッシュの箱や洗剤など、思いつく限りのものを持たせてくれようとしたが、流石に持ちきれずに宅急便で送ってもらうことにした。(米と野菜だけであとは断った)
まだゆっくりして行けばいいのに、と涙ぐむ母親に後ろ髪を引かれつつ、二人が電車に乗り込んだのは昼を少し過ぎた頃だった。
電車内はもっと混雑しているかと思いきや、行きよりも空席が目立っているように見える。これならちょっとくらいは隠れてイチャイチャできるかな、なんて目論みつつ、また居眠りしてしまうような気がしないでもない。
「そういえば黒たん、こんなに早く帰っちゃって、本当によかったの?」
母親が途中で食べるようにと作ってくれた弁当を食べ終えたあと、ファイはお茶を飲んで息をついている隣の黒鋼の顔を覗き込んで聞いた。
「あ?」
「あ? じゃなくてー」
連休は残り二日。最初に聞いていた話では、もう一泊してから帰宅するはずだった。
それを一日繰り上げて帰るぞと言い出したのは黒鋼で、理由を聞いてもはぐらかされるばかりだった。
「別にいいだろ」
「いいっちゃいいけど……お母さんもお父さんも寂しそうだったし、なんか急だったからー」
「……」
黒鋼は何も言わず、窓際にお茶のペットボトルを置いた。
やがて不思議そうにその表情を見つめ続けるファイに一瞥をくれたあと、映画、と一言呟いた。
「映画?」
「てめぇが見たいって言ってた、あのヤクザの冷戦がどうの」
「え、あぁ、うん。それが……どうかした?」
「明日までだろ」
「!」
ファイは目を丸くして、そのまま大きく瞬きを繰り返した。
黒鋼が映画の存在を覚えていたことも驚きだが、上映期間まで把握していたなんて。
「黒たん……調べててくれたの……?」
呆然としながら問いかければ、彼は腕を組み、ふんと鼻で笑いながら鋭い視線を窓の外へ向け、「たまたま雑誌で見かけただけだ」と吐き捨てるように言った。
そんなことが明らかに嘘であることくらい、ファイにはすぐに分かる。そっぽを向く黒鋼の耳たぶが、ほんの少しだけ赤くなっているのが目に入って、少し泣きそうになりながらふにゃりと笑った。
「ありがとー。黒ぽん」
「別に、付き合ってやるってだけの話だぞ。勘違いすんじゃねぇ」
「わかってるー」
ここが電車の中じゃなかったら、思いっきり抱き付いてキスをしているところだ。
自分たちは、例え両親が認めたとしてもやっぱり人前で堂々と恋人同士であることを主張することはできない。
(でも、こういうのってなんかいいかも)
忍ぶ恋。それはとても刺激的で、相手が黒鋼だからこそ、いつだってドキドキとした感覚を楽しめるような気がした。このスリルは、二人じゃなきゃ味わえない。
ファイは黒鋼に身を寄せると、その肩にもたれかかった。
「居眠りしちゃっていい?」
本当はちっとも眠くはないのだけれど。
ポツポツと等間隔で座席に座る乗客たちは、窓の外を見たり、連れと会話をしたり、本を読んだり、弁当を食べたり。それぞれの旅の最後を満喫している。
誰が見たってファイは居眠りをして隣の『友人』にもたれかかっているようにしか見えなくて、でも、二人にとっては恋人同士の戯れで。
黒鋼が、小さくふっと笑う気配にファイも口元を緩めた。
大きな身体に身を預けながら、楽しかった数日間に思いを馳せる。
本当に来てよかった。この国に、また大切な人たちができた。
窓の外は、来たときと同じように、空が青く晴れ渡っていた。
車窓を流れゆく景色は自然豊かで、まだ十分に故郷の名残を残している。これがいずれ立ち並ぶビル群に移り変わる頃、二人は日常へと帰ってゆく。
「また来ようね。絶対」
心地いい揺れと、ほどよい満腹感。寄り添うだけで満たされる安堵感に、ゆっくりと砂糖が溶けてゆくような静かさで眠気が押し寄せてくる。
そうだな、という囁くような声が金色の髪に押し付けられると、ファイはそっと目を閉じた。
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