2025/07/27 Sun 「このどアホがーー!!」 バーンと扉を開けてブチ切れ金剛状態の黒鋼が入って来た瞬間、セミヌードだったファイはすかさずTシャツで胸を隠した。 「キャア! 黒たん先生のエッチ! ド変態!」 ただでさえキレまくっていた黒鋼は、イラッとするファイの仕草と聞き捨てならない台詞にさらにキレて、自慢の拳をうならせた。 ゴッチーン★ という音がしたところで、夕食の準備途中だったユゥイが顔を出す。 「おかえりなさい黒鋼先生。あれ? もう部屋用ジャージに着替え終わったんですか?」 黒いジャージの下と、同じく黒いTシャツ姿の黒鋼は苛立ちが治まらないらしく、握りしめたままの拳をワナワナとさせながら答える。 「着替えどころの騒ぎじゃねぇ! このタコのせいでな!!」 「ファイ、またなにかしたの?」 うつ伏せに倒れて頭の天辺に出来たタンコブから煙を上げているファイに、ユゥイがしゃがみ込んで問いかけた。 「き……記憶にごじゃいましぇん……」 「だそうですよ?」 きょとんとした顔でユゥイが言うと、黒鋼はファイの後ろ首を掴んで力技で起こし、そのまま引きずり出した。 「このアホ借りてくぞ」 「はぁ、どうぞ」 まだ少し目を回していたファイは、セミヌードのまま隣の部屋へと連行された。 *** 「んもう~なぁに~? オレまだ着替え途中……ってウワ!? けむ!!」 黒鋼の部屋に入った途端、霧のように辺りに立ち込める煙を一気に吸い込んでしまったファイは、ゲホゲホと咽た。 「誰のせいだ、誰の」 「わ~……これ蚊取り線香? 日本の夏の行きすぎた香りがするぅ……」 目をしばしばとさせていると次の瞬間、ファイの耳元で『プ~ン』という甲高い音がした。 「ぴゃっ!?」 咄嗟のことに驚いたファイは、奇妙な声を上げながら飛び上がり、黒鋼の腕に抱きついた。 「なんか音した! 今オレの耳が謎のモスキート音をキャッチした!」 「だからてめぇのせいだろ」 エアコンをつけていないため、思いっきり蒸し暑い中で上半身裸の男に抱きつかれているという状況を表向きスルーして(驚いて飛び上がったファイがちょっと可愛かった、というのは秘密)黒鋼はそれでも憎々しげに横目で睨みつける。 「な、なんでー? なんでオレのせい? 黒たん先生が怒ってるのオレのせい?」 「よく思い出してみろ……てめぇ……人の部屋の窓開けっぱにしただろ……」 「えー?」 そこでファイは首を傾げながら記憶の糸を手繰り寄せてみた。 黒鋼の部屋の窓は今、開け放たれてはいるが網戸がしっかりと閉じている。 それでも蚊取り線香で煙たくなっている空気に顔を顰めながら、やがてファイは思いだした。 「あ、そういえば……」 昨夜、いつものように寝る前に黒鋼の部屋に侵入したファイは、蒸し暑いにも関わらず黒鋼のベッドにインした。 暑いから離れろ、と抵抗された気がするが、ぎゅうぎゅうとしがみついているうちに、いつの間にか嫌がっていたはずの黒鋼の腕が腰に回り、気づけば揃って寝息を立て始めた。 暑さなんてなんのその……オレ達の愛情を前に温暖化なんて敵じゃない……。 「ハッ! 違う違う……そうじゃなくてー」 思わず頬を染めながらドヤ顔で悦に浸りかけたファイだったが、慌てて首を振ると思いだす作業に戻った。 「そうだー! そういえば今朝、空気の入れ替えをしようと思ってー」 そう、窓を開けたのだ。網戸まで開けてしまったのは、最近いつもやって来るスズメのために、細かく千切ったパンをまいていたからだった。 「そのまま……開けっ放しに……?」 上目使いで問うと、黒鋼は額に血管を浮き上がらせた。 「ちゃんと閉めてから出てこいって言ったはずだがな……」 黒鋼は部活の朝練のためにファイよりも先に部屋を出たのだった。 その忠告は、スズメの可愛らしさに夢中になっていたファイの右耳から左耳を思いっきり通り抜け、その後ついつい時間を忘れて見入っていたせいで、慌てて部屋を飛び出すことになった。 部屋の鍵は合鍵でしっかり閉めたが、どうやら窓の方はウッカリ忘れてしまったらしい。 そうと知らず帰宅した黒鋼は、まず窓が開け放たれていたことに驚き、そして怒り心頭で部屋を出る時には、すでに右手の甲と左の二の腕を二か所、蚊に刺されていた。 「てめぇの不注意のせいで、今この部屋は蚊の巣窟だ! 責任とってなんとかしろ!」 「そ、そんなぁ~! 蚊取り線香先生に任せて、隣の部屋に逃げてようよぉー……ん? あ? あ! 刺されたぁ!!」 黒鋼の腕から離れたファイは、右手首がぷっくりと赤くなっているのに気付いた途端、ガリガリとその場所を掻いた。 このなんともいえないムズ痒さ……まさに日本の夏……。 「ああこら! そんな強く掻くな! 赤くなる!」 「黒様先生が半裸のオレを引っ張り込んだせいじゃんかー! オレもう帰るー!!」 「てめぇの責任だろ……って、オイ! ちょっと動くなよ!?」 「え、なにな……にぃっ!?」 バチコーン★ と、音がしたと思った瞬間、ファイは背中に激痛を覚え、前につんのめってそのまま床に崩れ落ちた。 「い、い、いったぁーいぃ!! 今のDV!? DVなの!?」 「見ろ! 一匹仕留めたぞ! てめぇの背中はこの通り守られた!!」 涙目で見上げた先で、黒鋼が手の平を見せている。ありがたいとは思うが、物凄い勢いで張り手を食らったせいで転んだ上に、ぶたれた場所がヒリヒリする。 おそらくファイの白い背中には、彼の大きな手形が残っているだろう。 「もっと手加減してよ! そういうプレイかと思ったじゃん!! ん!? アー!! 黒たんちょっとストップ動かないで!!」 「!?」 ファイは俊敏な動きで態勢を立て直し、思いっきり床を蹴って黒鋼に飛びかかると、その形のいい額を思いっきりバチンと叩いた。 「とったどー!!」 「~~~ッ」 今度はファイが手の平を高らかに見せびらかす番だった。 黒鋼は、どうやら額にヒットしたビンタで目までやられたらしく、顔を押さえてしゃがみ込んでいる。これは痛い。 「て、てめぇ……」 流石にあの勢いのある平手が目にまで入ったとあって、指の隙間から睨みつけてくる黒鋼は瞳を赤くして涙ぐんでいた。 それを見たファイは思わずドキっとする。そして、ムラッとする。 (わぁ、黒たんがちょっと泣きそうになりながらオレのこと睨んでる……!) それは生理的な現象であって決して深い意味はないのだが、屈辱的な表情の黒鋼に下から睨みつけられているというこの状況に、ファイはちょっとSな気分になりかけた。 (痛みで)泣きそうな瞳、(怒りで)赤くなった目元、(苛立ちで)歯を食いしばっている表情……。 なかなかお目にかかれないシチュエーションにゾクゾクした……のも束の間、黒鋼の俊敏な左手がビターンと音を立ててファイの腹にお見舞いされた。 「ッ!?」 衝撃を受け止めきれず、勢いよく尻もちをつくファイ。思わず腹を押さえてプルプルと震える。一瞬息が止まるほどに派手な一発だった。 「く、黒……これは……もはや正拳突きのレベ……ル……」 「見ろ、とったぞ!」 嬉しそうな黒鋼が、これ見よがしに蚊を仕留めた手を見せびらかしてくる。痛みに本気で泣きそうになっているファイは、これは確実に手形どころではなく痣になるだろうと思った。 だが……それもいい……! なんだかとってもバイオレンスなプレイの餌食になっているような倒錯感。 相手を傷つけることで快感と愛情を得んとする恋人の、歪んだ心の捌け口にされる自分……と、いう設定を瞬時に妄想して、今度はドM精神にスイッチが入る。 しかし、状況がそれに浸る間を与えなかった。 「ハッ! 黒様危ない!!」 今度はファイのチョップが黒鋼の首筋に入った。 「いってぇ!! やりやがったなてめぇ!?」 「黒様の血は誰にもやらない! オレのだから! オレが吸うから!!」 「なんだこの妙な既視感は!!」(inインフィニティ) その後しばらくの間、二人の殴り愛が繰り広げられた……。 * 「はぁ……はぁ……はぁ……」 「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」 「ね、ねぇ黒たん先生……」 「なんだ……アホ教師……」 「いっそバルサンでも焚かない……?」 「そいつは名案だな」 二人は痣と真っ赤な手形だらけになりながら「はぁ~……」と溜息を零し、床に座り込んだ。 汗だくになって一体なにをしているのだろう……。 しかもど突き合った割には双方、チョイチョイ刺されている。 「なんか……疲れちゃった……」 「だな……」 「でも、もう大体いなくなったような気もするね……」 「確かに」 「なんか……青春したって感じがしない……?」 「そうだな……。おまえ、なかなかいいパンチ持ってるじゃねぇか」 「黒様こそ、流石だよね」 拳で語り合った男たちに友情という名の絆が生まれる的な、妙に爽やかな気分だった。この場が夕暮れ時の海辺だったなら、もっと様になっただろう。だが残念ながら、ここは蚊取り線香で白く煙る宿舎の一室である。 「あ」 そのとき、ファイはある場所にムズムズとしたものを感じて肩を竦めた。 「どうした」 「うん……あの、なんでもない……」 咄嗟に左胸を手の平で押さえる。着替え途中に連れ込まれ、上半身裸だったファイは、とんでもない場所を刺されていた。 (やばい……思いっきり掻きたいけど……場所が場所だけに……) 左の乳首のすぐ脇。触れたらますます痒くなってきた。 「おまえ、そこ刺されたのか」 「ギクーッ」 どこか爽やかだった黒鋼の表情が、みるみるうちに企み顔に変貌した。嫌な予感がビンビンする。 「ちょっと見せてみろ」 「ぅえぇ!? い、いいよぉ……」 「おら、抵抗すんな」 「や!」 青春ムードが一気に爛れた空気に変わる。 ファイは問題の個所を押さえていた手首を取られ、思い切り引き寄せられた。 「こりゃまた際どいとこ刺されてんな」 「さ、触ったらダメだからね……」 「そう言われると逆にな」 「!?」 黒鋼の悪戯な指が、問題の場所をちょん、と突く。その瞬間、ムズムズとした痒さが爆発的なものへと変わって、ファイは身を激しく捩る。 「ぅひゃぁ! だ、ダメだってば!」 「なんだよ? 何がダメだって?」 「アッ! さわっちゃ、ぁ、んん、かゆ、ぃ……ッ」 その場所を指先で引っ掻かれる度に、ゾワゾワとした別の何かが背筋を駆け抜ける。 すっかり体力を消耗しきっている上に、持久力で遥かに劣るファイに抵抗の術はなかった。 (どうしよう……黒たん先生が完全にドSモード入っちゃったよ……!) そんなファイはドM魂に思いっきり火がついているわけだが、流石にここで行為に及ぶのは不味い。 汗だくなのも気になるし、きっとユゥイがそろそろ夕飯の支度を終える頃だ。 黒鋼もそれは分かっているはずで、だからこそ真っ赤になって慌てふためくファイの反応を見て楽しんでいる。 ファイの両手を一纏めにして掴みあげる黒鋼が、獣のように舌舐めずりした。このままでは、玩具のように弄ばれてしまう。そんな気がする。 だが、そうは問屋が卸さなかった。 「二人ともー? 夕飯できたよ?」 ひょっこりと、ユゥイが顔を出した。 「「!?」」 子供に寝室を覗かれそうになった夫婦のように、二人は慌てて距離を取った。 「わ、わぁいご飯だー」 「うわ、この部屋けむい……。二人とも一体なにしてたの? ケンカ……? それともここは強姦未遂現場……?」 「ゲッホゲホゲホゴホォ!!」 痣と手形だらけになっている二人を見たユゥイが、怪訝そうな顔をした。黒鋼は派手に突っ込もうとして勢いをつけすぎたせいか、思いっきり咽ている。 「いきなり襲いかかって来た黒鋼先生にファイが激しく抵抗して、殴り合いの取っ組み合いに……?」 「ち、違うってばー!」 確かに、これではおかしな目で見られても仕方がない。無理やりされるのは嫌いじゃないけど……とは、今は口が裂けても言わない方がよさそうだ。 「あの、これはね、蚊が」 と、説明しかけたその瞬間、ユゥイがクワッと目を見開いた。 「いけない! 黒鋼先生!!」 「あ?」 「危ない!!」 ゴッ! ザシャァ……!! という音がして、すぐ横にあったはずの黒鋼の姿が視界から消えていた。 「え……?」 何が起こったのか瞬時に理解できず、ファイはゆっくりと背後を見やった。 なぜか黒鋼が、部屋の端から端まで吹っ飛ばされて目を回していた。本棚から雑誌やDVD等の類が落ちてきて、身体の上に降り積もっている。その頬には、真っ赤な手形が……。 「く、黒様ぁぁぁ!?」 慌てて四つん這いでザカザカと駆け寄り、その両肩を掴んで激しく揺すった。すると、黒鋼はハッと意識を取り戻した。 「今、ただっ広い草原の向こうにでけぇ川が見えたんだが……」 「逝きかけた!? 黒たんアッチに逝きかけたの!? うわあぁん戻って来てくれてよかったよぉ~ッ」 泣きながら縋りつくファイの肩に触れつつ、黒鋼はようやく頬への痛みを感じ始めたらしい。思いっきり顔を顰めて、赤く腫れはじめた右頬を摩り始めた。 まだ視界がクラクラするらしく、幾度か頭を振っている。 「つーか何が起こったんだ……?」 「あれ、おかしいなぁ? 今、黒鋼先生の頬っぺたに蚊がいたはずなんですけど」 ユゥイは自分の右手の平を見て首を傾げた。 どうやら蚊を退治してくれようとしたらしい。が、黒鋼の巨体を軽く吹っ飛ばすほどのビンタをかますとは、なんたる威力……。 「て、てめ、蚊じゃなくて俺を殺す気だったろ!?」 「そんなぁ。人聞きが悪い……でも……」 (ゆ、ユゥイ……目が笑ってない……!?) ユゥイは空ぶった右手を口元へとやった。 「残念。薄汚い虫ケラを仕留め損なっちゃったね」 冷ややかに言うと赤い舌で親指を舐め、優雅に、そして不敵に微笑んだ。 「「!?」」 それを見た瞬間、黒鋼とファイの背筋に凄まじい電流が駆け抜ける。 ほんまもんのドSの微笑……!! 「さぁ、ご飯にしようか」 冷笑をすぐさまにこやかな笑顔に変えたユゥイが、二人を残して部屋を後にした。 その背中を茫然と見送りながら、黒鋼とファイは手と手を取り合い、ゾクゾクとした感覚に身を震わせる。 「ユゥイ……うぅん、ユゥイ様……」 「よせ……行くんじゃねぇ……戻れなくなるぞ……」 そんな二人の表情は、どこか恍惚としていて悩ましげだったという……。 ←戻る ・ Wavebox👏
バーンと扉を開けてブチ切れ金剛状態の黒鋼が入って来た瞬間、セミヌードだったファイはすかさずTシャツで胸を隠した。
「キャア! 黒たん先生のエッチ! ド変態!」
ただでさえキレまくっていた黒鋼は、イラッとするファイの仕草と聞き捨てならない台詞にさらにキレて、自慢の拳をうならせた。
ゴッチーン★
という音がしたところで、夕食の準備途中だったユゥイが顔を出す。
「おかえりなさい黒鋼先生。あれ? もう部屋用ジャージに着替え終わったんですか?」
黒いジャージの下と、同じく黒いTシャツ姿の黒鋼は苛立ちが治まらないらしく、握りしめたままの拳をワナワナとさせながら答える。
「着替えどころの騒ぎじゃねぇ! このタコのせいでな!!」
「ファイ、またなにかしたの?」
うつ伏せに倒れて頭の天辺に出来たタンコブから煙を上げているファイに、ユゥイがしゃがみ込んで問いかけた。
「き……記憶にごじゃいましぇん……」
「だそうですよ?」
きょとんとした顔でユゥイが言うと、黒鋼はファイの後ろ首を掴んで力技で起こし、そのまま引きずり出した。
「このアホ借りてくぞ」
「はぁ、どうぞ」
まだ少し目を回していたファイは、セミヌードのまま隣の部屋へと連行された。
***
「んもう~なぁに~? オレまだ着替え途中……ってウワ!? けむ!!」
黒鋼の部屋に入った途端、霧のように辺りに立ち込める煙を一気に吸い込んでしまったファイは、ゲホゲホと咽た。
「誰のせいだ、誰の」
「わ~……これ蚊取り線香? 日本の夏の行きすぎた香りがするぅ……」
目をしばしばとさせていると次の瞬間、ファイの耳元で『プ~ン』という甲高い音がした。
「ぴゃっ!?」
咄嗟のことに驚いたファイは、奇妙な声を上げながら飛び上がり、黒鋼の腕に抱きついた。
「なんか音した! 今オレの耳が謎のモスキート音をキャッチした!」
「だからてめぇのせいだろ」
エアコンをつけていないため、思いっきり蒸し暑い中で上半身裸の男に抱きつかれているという状況を表向きスルーして(驚いて飛び上がったファイがちょっと可愛かった、というのは秘密)黒鋼はそれでも憎々しげに横目で睨みつける。
「な、なんでー? なんでオレのせい? 黒たん先生が怒ってるのオレのせい?」
「よく思い出してみろ……てめぇ……人の部屋の窓開けっぱにしただろ……」
「えー?」
そこでファイは首を傾げながら記憶の糸を手繰り寄せてみた。
黒鋼の部屋の窓は今、開け放たれてはいるが網戸がしっかりと閉じている。
それでも蚊取り線香で煙たくなっている空気に顔を顰めながら、やがてファイは思いだした。
「あ、そういえば……」
昨夜、いつものように寝る前に黒鋼の部屋に侵入したファイは、蒸し暑いにも関わらず黒鋼のベッドにインした。
暑いから離れろ、と抵抗された気がするが、ぎゅうぎゅうとしがみついているうちに、いつの間にか嫌がっていたはずの黒鋼の腕が腰に回り、気づけば揃って寝息を立て始めた。
暑さなんてなんのその……オレ達の愛情を前に温暖化なんて敵じゃない……。
「ハッ! 違う違う……そうじゃなくてー」
思わず頬を染めながらドヤ顔で悦に浸りかけたファイだったが、慌てて首を振ると思いだす作業に戻った。
「そうだー! そういえば今朝、空気の入れ替えをしようと思ってー」
そう、窓を開けたのだ。網戸まで開けてしまったのは、最近いつもやって来るスズメのために、細かく千切ったパンをまいていたからだった。
「そのまま……開けっ放しに……?」
上目使いで問うと、黒鋼は額に血管を浮き上がらせた。
「ちゃんと閉めてから出てこいって言ったはずだがな……」
黒鋼は部活の朝練のためにファイよりも先に部屋を出たのだった。
その忠告は、スズメの可愛らしさに夢中になっていたファイの右耳から左耳を思いっきり通り抜け、その後ついつい時間を忘れて見入っていたせいで、慌てて部屋を飛び出すことになった。
部屋の鍵は合鍵でしっかり閉めたが、どうやら窓の方はウッカリ忘れてしまったらしい。
そうと知らず帰宅した黒鋼は、まず窓が開け放たれていたことに驚き、そして怒り心頭で部屋を出る時には、すでに右手の甲と左の二の腕を二か所、蚊に刺されていた。
「てめぇの不注意のせいで、今この部屋は蚊の巣窟だ! 責任とってなんとかしろ!」
「そ、そんなぁ~! 蚊取り線香先生に任せて、隣の部屋に逃げてようよぉー……ん? あ? あ! 刺されたぁ!!」
黒鋼の腕から離れたファイは、右手首がぷっくりと赤くなっているのに気付いた途端、ガリガリとその場所を掻いた。
このなんともいえないムズ痒さ……まさに日本の夏……。
「ああこら! そんな強く掻くな! 赤くなる!」
「黒様先生が半裸のオレを引っ張り込んだせいじゃんかー! オレもう帰るー!!」
「てめぇの責任だろ……って、オイ! ちょっと動くなよ!?」
「え、なにな……にぃっ!?」
バチコーン★
と、音がしたと思った瞬間、ファイは背中に激痛を覚え、前につんのめってそのまま床に崩れ落ちた。
「い、い、いったぁーいぃ!! 今のDV!? DVなの!?」
「見ろ! 一匹仕留めたぞ! てめぇの背中はこの通り守られた!!」
涙目で見上げた先で、黒鋼が手の平を見せている。ありがたいとは思うが、物凄い勢いで張り手を食らったせいで転んだ上に、ぶたれた場所がヒリヒリする。
おそらくファイの白い背中には、彼の大きな手形が残っているだろう。
「もっと手加減してよ! そういうプレイかと思ったじゃん!! ん!? アー!! 黒たんちょっとストップ動かないで!!」
「!?」
ファイは俊敏な動きで態勢を立て直し、思いっきり床を蹴って黒鋼に飛びかかると、その形のいい額を思いっきりバチンと叩いた。
「とったどー!!」
「~~~ッ」
今度はファイが手の平を高らかに見せびらかす番だった。
黒鋼は、どうやら額にヒットしたビンタで目までやられたらしく、顔を押さえてしゃがみ込んでいる。これは痛い。
「て、てめぇ……」
流石にあの勢いのある平手が目にまで入ったとあって、指の隙間から睨みつけてくる黒鋼は瞳を赤くして涙ぐんでいた。
それを見たファイは思わずドキっとする。そして、ムラッとする。
(わぁ、黒たんがちょっと泣きそうになりながらオレのこと睨んでる……!)
それは生理的な現象であって決して深い意味はないのだが、屈辱的な表情の黒鋼に下から睨みつけられているというこの状況に、ファイはちょっとSな気分になりかけた。
(痛みで)泣きそうな瞳、(怒りで)赤くなった目元、(苛立ちで)歯を食いしばっている表情……。
なかなかお目にかかれないシチュエーションにゾクゾクした……のも束の間、黒鋼の俊敏な左手がビターンと音を立ててファイの腹にお見舞いされた。
「ッ!?」
衝撃を受け止めきれず、勢いよく尻もちをつくファイ。思わず腹を押さえてプルプルと震える。一瞬息が止まるほどに派手な一発だった。
「く、黒……これは……もはや正拳突きのレベ……ル……」
「見ろ、とったぞ!」
嬉しそうな黒鋼が、これ見よがしに蚊を仕留めた手を見せびらかしてくる。痛みに本気で泣きそうになっているファイは、これは確実に手形どころではなく痣になるだろうと思った。
だが……それもいい……!
なんだかとってもバイオレンスなプレイの餌食になっているような倒錯感。
相手を傷つけることで快感と愛情を得んとする恋人の、歪んだ心の捌け口にされる自分……と、いう設定を瞬時に妄想して、今度はドM精神にスイッチが入る。
しかし、状況がそれに浸る間を与えなかった。
「ハッ! 黒様危ない!!」
今度はファイのチョップが黒鋼の首筋に入った。
「いってぇ!! やりやがったなてめぇ!?」
「黒様の血は誰にもやらない! オレのだから! オレが吸うから!!」
「なんだこの妙な既視感は!!」(inインフィニティ)
その後しばらくの間、二人の殴り愛が繰り広げられた……。
*
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」
「ね、ねぇ黒たん先生……」
「なんだ……アホ教師……」
「いっそバルサンでも焚かない……?」
「そいつは名案だな」
二人は痣と真っ赤な手形だらけになりながら「はぁ~……」と溜息を零し、床に座り込んだ。
汗だくになって一体なにをしているのだろう……。
しかもど突き合った割には双方、チョイチョイ刺されている。
「なんか……疲れちゃった……」
「だな……」
「でも、もう大体いなくなったような気もするね……」
「確かに」
「なんか……青春したって感じがしない……?」
「そうだな……。おまえ、なかなかいいパンチ持ってるじゃねぇか」
「黒様こそ、流石だよね」
拳で語り合った男たちに友情という名の絆が生まれる的な、妙に爽やかな気分だった。この場が夕暮れ時の海辺だったなら、もっと様になっただろう。だが残念ながら、ここは蚊取り線香で白く煙る宿舎の一室である。
「あ」
そのとき、ファイはある場所にムズムズとしたものを感じて肩を竦めた。
「どうした」
「うん……あの、なんでもない……」
咄嗟に左胸を手の平で押さえる。着替え途中に連れ込まれ、上半身裸だったファイは、とんでもない場所を刺されていた。
(やばい……思いっきり掻きたいけど……場所が場所だけに……)
左の乳首のすぐ脇。触れたらますます痒くなってきた。
「おまえ、そこ刺されたのか」
「ギクーッ」
どこか爽やかだった黒鋼の表情が、みるみるうちに企み顔に変貌した。嫌な予感がビンビンする。
「ちょっと見せてみろ」
「ぅえぇ!? い、いいよぉ……」
「おら、抵抗すんな」
「や!」
青春ムードが一気に爛れた空気に変わる。
ファイは問題の個所を押さえていた手首を取られ、思い切り引き寄せられた。
「こりゃまた際どいとこ刺されてんな」
「さ、触ったらダメだからね……」
「そう言われると逆にな」
「!?」
黒鋼の悪戯な指が、問題の場所をちょん、と突く。その瞬間、ムズムズとした痒さが爆発的なものへと変わって、ファイは身を激しく捩る。
「ぅひゃぁ! だ、ダメだってば!」
「なんだよ? 何がダメだって?」
「アッ! さわっちゃ、ぁ、んん、かゆ、ぃ……ッ」
その場所を指先で引っ掻かれる度に、ゾワゾワとした別の何かが背筋を駆け抜ける。
すっかり体力を消耗しきっている上に、持久力で遥かに劣るファイに抵抗の術はなかった。
(どうしよう……黒たん先生が完全にドSモード入っちゃったよ……!)
そんなファイはドM魂に思いっきり火がついているわけだが、流石にここで行為に及ぶのは不味い。
汗だくなのも気になるし、きっとユゥイがそろそろ夕飯の支度を終える頃だ。
黒鋼もそれは分かっているはずで、だからこそ真っ赤になって慌てふためくファイの反応を見て楽しんでいる。
ファイの両手を一纏めにして掴みあげる黒鋼が、獣のように舌舐めずりした。このままでは、玩具のように弄ばれてしまう。そんな気がする。
だが、そうは問屋が卸さなかった。
「二人ともー? 夕飯できたよ?」
ひょっこりと、ユゥイが顔を出した。
「「!?」」
子供に寝室を覗かれそうになった夫婦のように、二人は慌てて距離を取った。
「わ、わぁいご飯だー」
「うわ、この部屋けむい……。二人とも一体なにしてたの? ケンカ……? それともここは強姦未遂現場……?」
「ゲッホゲホゲホゴホォ!!」
痣と手形だらけになっている二人を見たユゥイが、怪訝そうな顔をした。黒鋼は派手に突っ込もうとして勢いをつけすぎたせいか、思いっきり咽ている。
「いきなり襲いかかって来た黒鋼先生にファイが激しく抵抗して、殴り合いの取っ組み合いに……?」
「ち、違うってばー!」
確かに、これではおかしな目で見られても仕方がない。無理やりされるのは嫌いじゃないけど……とは、今は口が裂けても言わない方がよさそうだ。
「あの、これはね、蚊が」
と、説明しかけたその瞬間、ユゥイがクワッと目を見開いた。
「いけない! 黒鋼先生!!」
「あ?」
「危ない!!」
ゴッ! ザシャァ……!!
という音がして、すぐ横にあったはずの黒鋼の姿が視界から消えていた。
「え……?」
何が起こったのか瞬時に理解できず、ファイはゆっくりと背後を見やった。
なぜか黒鋼が、部屋の端から端まで吹っ飛ばされて目を回していた。本棚から雑誌やDVD等の類が落ちてきて、身体の上に降り積もっている。その頬には、真っ赤な手形が……。
「く、黒様ぁぁぁ!?」
慌てて四つん這いでザカザカと駆け寄り、その両肩を掴んで激しく揺すった。すると、黒鋼はハッと意識を取り戻した。
「今、ただっ広い草原の向こうにでけぇ川が見えたんだが……」
「逝きかけた!? 黒たんアッチに逝きかけたの!? うわあぁん戻って来てくれてよかったよぉ~ッ」
泣きながら縋りつくファイの肩に触れつつ、黒鋼はようやく頬への痛みを感じ始めたらしい。思いっきり顔を顰めて、赤く腫れはじめた右頬を摩り始めた。
まだ視界がクラクラするらしく、幾度か頭を振っている。
「つーか何が起こったんだ……?」
「あれ、おかしいなぁ? 今、黒鋼先生の頬っぺたに蚊がいたはずなんですけど」
ユゥイは自分の右手の平を見て首を傾げた。
どうやら蚊を退治してくれようとしたらしい。が、黒鋼の巨体を軽く吹っ飛ばすほどのビンタをかますとは、なんたる威力……。
「て、てめ、蚊じゃなくて俺を殺す気だったろ!?」
「そんなぁ。人聞きが悪い……でも……」
(ゆ、ユゥイ……目が笑ってない……!?)
ユゥイは空ぶった右手を口元へとやった。
「残念。薄汚い虫ケラを仕留め損なっちゃったね」
冷ややかに言うと赤い舌で親指を舐め、優雅に、そして不敵に微笑んだ。
「「!?」」
それを見た瞬間、黒鋼とファイの背筋に凄まじい電流が駆け抜ける。
ほんまもんのドSの微笑……!!
「さぁ、ご飯にしようか」
冷笑をすぐさまにこやかな笑顔に変えたユゥイが、二人を残して部屋を後にした。
その背中を茫然と見送りながら、黒鋼とファイは手と手を取り合い、ゾクゾクとした感覚に身を震わせる。
「ユゥイ……うぅん、ユゥイ様……」
「よせ……行くんじゃねぇ……戻れなくなるぞ……」
そんな二人の表情は、どこか恍惚としていて悩ましげだったという……。
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