2025/08/03 Sun 夏休みに突入し、十日ほどが過ぎたある日の午後。 晴れ渡る青空に、大きな入道雲が山々を織りなしていた。電柱にとまったセミが大きな声を張り上げるなか、花京院典明は建物の影を踏み、日差しを避けながら歩いている。 「やっぱり外は暑いな」 半袖のシャツからすらりと伸びた腕をあげ、太陽に向かって翳すようにして空を見上げた。コンクリートの照り返しも相まって、結局は眩しさに目を細める。 こんなことなら、もう少し図書館にいてもよかったのかもしれない。エアコンが効いた静かな空間は快適そのもので、そのぶん一歩でも外に出ると、よりいっそう暑さを痛感させられる。涼しさを乞うように滲む汗が、首筋から鎖骨にかけて流れ落ちるのを感じた。 「あら? 花京院くんじゃない。こんにちは」 そのとき、ちょうど向かい側から歩いて来たらしい女性に声をかけられ、足を止める。フリルのついた藍色の日傘の下で、よく知る人物が涼しげに微笑んだ。 「ホリィさん! こんにちは」 薄桃色のワンピースを品よく着こなしたそのひとは、花京院の友人であり、先輩であり、そして恋人である空条承太郎の母、ホリィだった。 「どこかへお出かけかしら? 今日も暑いわね」 「ええ、本当に。ぼくは図書館の帰りです。ホリィさんはお買い物ですか?」 「そうなの。今夜はハンバーグにでもしようかと思って!」 「フフ、ホリィさんはお料理上手で、承太郎は幸せ者ですね」 緩く握り込んだ指の甲を口元にあて、小さく笑いながら言うと、ホリィはどうしてか僅かに表情を曇らせた。 「はぁ……花京院くんは、本当に素直でいい子ね」 片手を頬に当てながら、ホリィがささやかな溜息を漏らす。 「承太郎となにかあったのですか?」 「ええ……」 息子とよく似た、緑がかったブルーの瞳に翳りが浮かべ、どこか曖昧に頷いて見せたホリィに向かって、花京院は思わず小首を傾げた。 * 「バイトですって!?」 張り上げてしまった声が、静かなジャズが流れる喫茶店内に響き渡った。 店員や客の視線を集めてしまい、花京院は小さく赤面しながら咳払いをする。誤魔化すみたいにして、目の前のチェリーが浮かんださくらんぼサイダーに口をつけた。そして今度は声を潜め「承太郎が? バイトを?」と改めて問いかける。 「そうなのよ……どうしても欲しいものがあるんですって。それならママがお小遣いあげちゃう♡って言っても、完全無視するんだもの!」 「それはまあ」 気持ちは分からないでもない。高校生にもなって、親にいちいち欲しいものを強請る、というのは、少しばかり気が引けるのだ。花京院も交際費やゲームなどの娯楽品に関しては、なるべく小遣いの範囲や、昔から貯金しているお年玉などから自分で出すように心がけていた。 確か、それは承太郎も同じだったはずだ。数日前にも、ふたりで海へ遊びに行った先でATMから引きだしているところを見たばかりだった。彼の場合、お年玉貯金といえども桁が違いそうである。 「承太郎ったら、いつだってママにはな~んにも相談しないで決めちゃうんだもの……」 ホリィは片肘で頬杖をつき、頬を膨らませながらストローで目の前のアイスティーをかき混ぜた。少女めいた仕草で臍を曲げる姿が微笑ましい。 「彼は一体どんなバイトを?」 「コンビニですって。すぐ隣町のOWSONよ」 「こ、コンビニ……承太郎が、コンビニですか」 (ふ、普通すぎる) あの泣く子も黙る空条承太郎が、コンビニでレジを打つ姿などまるで想像できない。高校生のバイト先としては、あまりにもテンプレートにハマりすぎている気がした。ならどんなバイトなら納得なのかと問われれば、それはそれで困ってしまうのだが。 あのギリシャ彫刻もケツをまくって逃げ出しそうな美貌の男と、バイトという三文字がそもそも不釣り合いなのだから、仕方ない。 「ああッ! 心配だわ……お客さんや店長さんに怒られて、今ごろ泣いているかもしれないわ……!」 「それは流石にないんじゃあ……」 「だって初めてなのよ……スーパーへ買い出しにだって行かせたことないのにッ!」 「いくらなんでも箱に入れすぎじゃあありませんか、おたくの息子さん……」 「ハッ! いま承太郎ったら、バイト先であたしのこと考えてるッ! ママ助けてって泣いているわッ! 息子と心が通じ合った感覚があったものッ!」 「うぅん相手がホリィさんだと強めに突っ込めない!」 分かっちゃいたが天然ボケである。彼女の中で、あの195センチ級の最強のスタンド使いは、まだまだ小さな子供のようなものなのだろうか。あらゆる意味で偉大な人だなと思った。 「まあまあ、落ち着いてくださいホリィさん。彼はもう立派な大人です。頭もいいし、手先も器用ですから、心配しなくてもきっと上手くやっていると思いますよ」 (た、多分) 最後は心の中でだけ付け足しておくとして、花京院が宥めるとホリィは少しだけホッとしたように息を吐きだし、肩から力を抜いた。 「そうよね……あたしもね、ちゃあんとわかっているのよ。あの子はしっかりしているもの……いつかきっと、元気な姿で帰って来てくれるわよね……」 「あの、確認ですが、承太郎はコンビニのバイトに行っているのですよね? 塀の向こうで服役的なことをしているわけじゃあないですよね?」 「ママ、ハンバーグ作って待ってるから……ずっと、待ってるからね承太郎……ッ!」 ついにハンカチを取りだして泣きだしてしまったホリィを見て、花京院は途方に暮れた。承太郎ではないが「やれやれだぜ」のひとつも零したい気分だ。 なんと声をかけていいのか分からず、しかし女性が泣いている姿を見続けるのはしのびない。というより、コソコソとなにか耳打ちしながらこちら見ている客の多いこと……。これは確実に、何かよからぬ目で見られているに違いない。歳の差カップルの男の方が、やっぱり若い女がいいなどと言いだして、彼女を泣かせている図に見られている予感しかしない。 「わ、わかりましたホリィさん、ぼくが様子を見てきますから!」 「え……?」 「承太郎がちゃんと上手くやっているか、ぼくが行ってこの目で確かめてきます。だからどうか、涙を拭いてください」 「本当に!? いいの!?」 「ええ……任せてください……」 「きゃー! 助かるわ花京院くんッ! どうもありがとう!」 この短い間で、一気に頬がこけたような気がしつつ、花京院は引き攣った笑みを浮かべて見せた。 * 大喜びのホリィと別れたその足で、花京院は問題のOWSONへ向かうことにした。 (未だにちょっと信じられないが、あの承太郎がバイトとは……) 隣町とはいえ、電車やバスを使うほどでもない距離の道を、先刻と同じように影を踏みながら歩く。花京院は学校での承太郎の威風堂々とした姿や、あのエジプトの旅で豪快にスタンドバトルを繰り広げる様子を思い浮かべ、まだどこか信じられない気持ちでいた。 半ば勢いで引き受けたものの、だんだん自分の意思でバイトに勤しむ承太郎の姿が見たくてしょうがなくなってくる。彼は気の置けない仲間たちや、とりわけ恋人である花京院の前ではよく笑うし、豊かな表情を見せることはあっても、基本的には無愛想で寡黙な男だ。教師の言うことすらまともに聞かない彼が、上の人間の指示を素直に受け入れ、接客業に従事することなど可能なのだろうか。やっぱり、想像がつかない。だから正直、興味は尽きないのだ。 (それにしても、どうしても欲しいものというのは、一体なんだろう?) しかも金銭面でも恵まれすぎている彼が、わざわざ自ら金を稼ぐ発想に至った経緯が、まるで理解できない。 とはいえ、今は考えるより先にやることがある。花京院はまずは目的のOWSONではなく、とある別の場所を目指すことにした。承太郎の様子を見に行く前に、用意しなくてはならないものがあるからだ。 * 小一時間後、花京院は目的地であるOWSON前に辿り着いた。しかし、先刻のシンプルなポロシャツとパンツ姿とは、装いがまるっと異なっている。 (泣くほど心配していたホリィさんの代わりに、ぼくが様子を見に来たなんて言ったら、承太郎が気を悪くする恐れがある) 数え年ではもはや19にもなる男だ。そんなことを知れば、彼が臍を曲げかねない。OWSONはどこにだってあるコンビニだし、わざわざ隣町まで足を運ぶ理由も、特には思いつかなかった。承太郎も、案外それを予想して近所ではなく隣町を選んだのかもしれない。だから考えた結果、花京院は生まれて初めての『変装』にチャレンジすることにした。 (ふふ……これなら流石の承太郎も、ぼくだなんて気づくまい。ぼくは今、完璧にラッパーの姿をしているのだからな!) そう、今の花京院はリズミカルに韻を踏む、どこからどう見てもノリノリでイケイケのヒップホップミュージシャンだった。 特徴的な前髪を隠すために黒のキャップをかぶり、ダボッダボのパーカーを着て、同じくダッボダボのジーンズを穿いている。全身が服の中で泳ぎまくっているし、ウエストはベルトで固定してはいるものの、それでも腰穿きのような状態になっていた。はっきり言ってだらしない。普段なら頼まれてもしない格好だし、する機会もない装いだ。だが、これならいつも承太郎が「エロいエロい」と言うせいで、若干コンプレックスになっている細すぎる腰のラインも隠せるし、一石二鳥である。もちろんピアスも外し、サングラス(例のやつ)とマスクも忘れない。 これらの品を揃えるため、まずはショッピングモールに立ち寄ったというわけである。ちなみに元々着ていた洋服は、駅のトイレで着替えがてらコインロッカーに預けてきた。 こっそり様子を探る程度なら、スタンドの力を借りればいいだけのような気もするが、それじゃあ面白味がない。結局のところ、変装も込みで楽しむ気マンマンの花京院がそこにいた。 (ノォホホ、なんだか潜入捜査みたいでカッコいいなあ!) 変装だけでなく、心までノリノリのイケイケになってきたところで、いざOWSONへ――。 * 「いらっしゃいませー!」 入店してすぐ、元気よく声を張ったのは同じバイトと思しき女性の店員だった。承太郎はというと、入ってすぐのレジカウンターで、客を相手に熱心にレジを打っているところだった。 (おお! やってるやってる!) 無愛想ではあるが、パッと見モタついている様子もない。それより気になるのは、彼が着ているOWSONの制服だ。 (ち、小さすぎる……いや、承太郎がデカすぎるんだ……ッ!) 明らかにサイズが合っていない。青に白のストライプ模様が入っている制服が、はち切れんばかりにパッツンパッツンになっていて、今にも100%超えしそうな状態だ。しかも彼は制服の下になにも着ていないようだった。少しでもパツパツの状態を和らげる効果を狙ったのかもしれないが、ここまで来ると完全に悪ふざけとしか思えない。不味い。承太郎が戸●呂(弟)に見えてきた……。 サングラスの奥で目をぎょっとさせつつも、花京院は何気なさを装って書籍コーナーの前へと移動した。とりあえず、ここなら横目でレジの様子がある程度は観察できそうだ。怪しまれないよう、適当にメンズノ●ノを手に取り、ページを開いた。 「おにぎりは温めますか」 承太郎が向かい合っている客に愛想もへったくれもないトーンで訊ねる。なんなら棒読みだ。客はスーツを着た中年男性だった。最近の若者はなっとらん、と説教をかまされても仕方がない対応に、花京院は手に汗握った。 「あ、は、はい……」 が、客は195センチ級の目力ハンパない店員に圧倒され、完全にビビって萎縮している。 (承太郎ッ! 客を怖がらせてどうする! スマイル! スマイルだ承太郎ッ!!) 「お、お願いしても……よよ、よろしいでしょうか……?」 (お客様ッ! あなた神様なんですからッ! 苦情のひとつくらい言っても許されますよッ!!) 「チッ……いいぜ」 (承太郎ォォォッ!!) 完全に立場が逆である。見ていられない。マスクとサングラスの下の顔面が汗だくだ。 (こ、このままでは心臓がもたない……なんかもう店から出たい……) が、このままではホリィにまともな報告ができそうにない。もう少し、もう少しだけ見守ろうと心に決めながら、見てもいない雑誌のページを震える指先でめくった。 * その後はなんやかんやで順調だった。承太郎は幾度か舌打ちはしたように見えたが、てきぱきとレジ打ちをこなしていた。客は男性なら思いっきり縮みあがり、女性はみな一様にして顔を赤く染めながら、蕩けたチーズのようになっていた。 (これならなんとかホリィさんに報告できそう、だな) でも舌打ちのことは黙っていよう……と密かに決めて、そろそろ店を出ようとした、そのときだった。 一人の若い男性客が、なにを買うでもなくフラリと店を出て行こうとした。その瞬間、承太郎の目つきが鋭く光った、ように見えた。 「おい、待ちな」 「ッ!」 息を飲んだのは、呼び止められた男性客と花京院、同時だった。凄みのある声に、彼は足を止めて動かなくなった。 (な、なんだ……?) 花京院は息を殺しながら、男性客を見た。ごく普通の大学生くらいの青年だ。一見して真面目で、気が弱そうな印象を受ける男だったが、なぜか酷く青褪めている。 承太郎は彼を睨み付けたまま、レジカウンターからこちら側に回り込んで来た。そして片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で青年を指さした。正確には、青年が肩からさげている黒いショルダーバッグを、だ。 「てめー、その鞄の中を見せてみな」 「え、えぇッ? な、なんですか急に……」 「とっととしろ」 「うぅ……」 青年は真っ白になっている唇を噛み締め、弱々しく呻きながら俯いてしまう。まさか、と花京院は思った。 「早くしねえと無理やりにでも剥ぎ取るぜ。今なら見逃してやる……か も」 「ちち、ちっくしょおッ!」 「ッ!?」 青年は観念するどころか、はじかれたようにその場から走り去ろうとした。 (いけないッ! ヤツは万引き犯だッ!) 承太郎は微動だにしない。何か考えがあるのか知らないが、まさか彼がこのまま取り逃がすわけはないとも思いつつ、傍観者であるはずの花京院の方が焦ってしまう。 (このままでは逃げられるッ! こうなったら……ッ) 「出ろッ! ハイエロファントグ」 ――そのときである。 ブチン、というなにかが弾ける音がして、次の瞬間、青年が低い呻きを上げながら前のめりに吹っ飛んだ。 (な、なんだッ!? なにが起こったんだ!?) 一瞬の出来事に唖然としながら、自動ドアに挟まれる形ですっかり伸びているらしい青年を凝視する。よく見ると、その脇にボタンと思しきものが転がっていた。 (ボタン……ま、まさかッ!?) そのまさかだった。視線を承太郎へと走らせると、彼の制服はついにそのムキムキボディに耐えきれず、張り裂けてしまっていた。ボロボロにはち切れて布きれと化した制服が、中途半端に肌に張りついている。やった。ついにやった。120%である。 襟部分についていたボタンがその際に勢いよく弾け飛び、ちょうど青年の後頭部に直撃したらしかった。 「きゃあああっなに!? 空条くん、なにがあったの!? ちょ、なにその制服!?」 その音を聞きつけたもう一人の女店員が、裏から血相を変えて飛び出してきた。承太郎は彼女に向かって顎をしゃくり「こいつの鞄を見ろ」と命じる。 女店員が恐る恐る気を失っている青年の鞄を開けると……中からは封を切っていない菓子パンが幾つか、姿を現した。それはどれもOWSON印で、スーパーや他のコンビニでは売っていないものだった。 「こ、これってうちの商品……? もしかして、万引き!?」 「とっとと警察を呼びな。いや、その前に救急車かな」 「は、はいッ!」 慌ててカウンター裏へと走っていく女店員を尻目に、承太郎は肩に手をやり、小気味よく関節を外しながら「やれやれだぜ」と決め台詞を放った。一連の光景を見ていた花京院が、心の中で「流石だ、承太郎」とガッツポーズをしていると、彼の視線がこちらに向けられた。 (ッ、ま、まずいッ!) 「さっき……ハイエロファントグ、まで聞こえたような気がしたが……」 ズン、ズン、と上半身裸の男が迫ってくる。終わった、と感じた。が、終わってなかった。正面までやってきた承太郎だったが、花京院の姿を上から下までねめつけたあと、呟いた。 「あいつがこんなだらしのねえ格好をするわけがねえ、か」 思ってても口に出して言うんじゃあない……と思いつつも安堵が込み上げ、身体から力が抜けそうになる。やはり承太郎の目をもってしても、この変装は完璧だったというわけだ。 「悪いな。あんたの方からよく知る声が聞こえたような気がしたもんでよ」 「そ、そうなんですか。空耳ですかねえ。ははっ」 声でバレては意味がないので、花京院は自分に出せる限りの裏声を駆使して、思いっきり高い声を出す。流石に不味いかと、サングラスの奥で怖々と上目使いで様子を伺った。 「みてえだな……それよりあんた、ずいぶんと声が高えようだが……」 「えッ!? そ、そうかな!?」 「ああ。ミッ●ーマウスに似ているぜ」 「よく言われるよッ! ははッ!」 冷や汗をダラダラに掻きながら陽気に言い放つと、承太郎は「ふうん」と微かに唸り、それからすぐに興味を失くしたように背を向けて、バックルームへと姿を消した。 (肝が冷えた……) ラップでも披露してくれなんて言われていたら、今度は自分が万引き犯よろしく店から逃走するところだった。 * そんなこんなで偵察を終えた花京院がホリィに報告を入れると、彼女はホッとした様子だった。が、それから数日後、予期せぬ出来事が起こった。 (この貴重な夏休みに、ぼくは一体なにをしているんだろうか) 花京院は町はずれのとあるファミレスにいた。『ジョナソン』という名の、これまたどこにでもあるファミレスチェーン店だ。昼時をわずかに過ぎたこの時間帯、それでも夏休みということもあり、若者や家族連れ、ママ友さんなどなどが食事をしながらお喋りに夢中になっている。 花京院はちょうど店の角、窓際の席に一人でついていた。来る前に寄ったコンビニでスポーツ新聞を購入し、それを開いて読んでいるふりをしながら、サングラスの下で店内を探る。もちろん、探しているのはあの195センチの大男の姿だった。 なぜこんな場所にこうしているのかというと、このファミレスが承太郎の新たなバイト先だからだ。あの密偵から数日後、承太郎がOWSONをクビになったという情報が、ホリィからもたらされたのである。 クビになってしまった原因は、承太郎があまりにも有名であるがゆえの、不幸な結果だった。その悪評や伝説は、隣町の高校まで当然のように響き渡っていた。結果、不良のお兄さんたちがケンカをふっかけに、徒党をくんでコンビニに押し寄せたというのだ。もちろん承太郎は売られたケンカを買った。コンビニの駐車場に死屍累々と山をなす不良たちの姿が目に浮かぶ。当然、クビにもなるだろう。 そこで承太郎が新たに選んだのが、地元の町はずれにあるこのファミレスだった。花京院は思う。君という男は、なぜ頑なに接客業を選ぶのだ、と……。 もちろん、今回も花京院が様子を見てくることになった。前回と同じ変装というわけにはいかず、今日は探偵ルックである。いかにもな鹿撃ち帽に、ケープのついたインバネスコート。一応、中身も父の洋服ダンスから拝借したベージュのスーツを着て、靴も革靴を選んだ。さらに大きなモサモサとした口ひげを、鼻の下にぺたりとくっつけて口元を隠している。パイプを調達している時間はなかったため、割愛した。それにしてもこの夏場、スーツにコートはかなりキツい。しかもついた矢先に勢いで注文してしまったのがホットコーヒーだったため、全く口をつける気にならなかった。 (そんなことより承太郎はどこだ? まさか厨房なんてことはないだろうな……いや、ありえるか) なんとなく前回と同じようなノリでここまで来たが、承太郎が厨房で仕事をしていれば、流石に直接覗くのは難しい。見た感じ接客をしているのは女性ばかりのようだし、今回は失敗に終わるかもしれない。と、それならそれでもういいか、と思いかけた花京院の目に、ギャルソン風の制服を着た承太郎が目に飛び込んできた。白いシャツに黒のベストとパンツ、そして丈の長いギャルソンエプロン。今回は制服がパツパツということもなく、ジャストフィットしている。 (か、かっこいい……) 通路を颯爽と歩いてやって来る承太郎に、花京院は思わず頬を赤らめた。ギャルソン姿の承太郎は、恐ろしく様になっている。絶世の美男子であることは知っていたつもりだが、あまりにも近くにいすぎて、慣れたつもりにでもなっていたのだろうか。僅かに光沢のあるベストの胸元が、美しく隆起した胸筋を際立たせ、エプロンを装備したなだらかな腰のラインも、完璧なバランスを描いている。堪らない。思わず喉が鳴ってしまう。正直いますぐ抱かれたい。 承太郎は注文を取るため、ちょうど花京院の前の座席のテーブルで立ち止まった。壁に背を向ける形で座っているため、この位置だと仕事ぶりがよく見える。メニューを眺めるふりをして、様子を観察することにした。 その席には、4人のママ友グループと思しき女性たちがついていた。彼女たちはやってきた超絶イケメン店員を見上げ、口をぽかんと開けている。花京院は誇らしい気持ちになった。瞬時にして女性たちの瞳が潤み、表情がとろんと蕩けたようになっていく。しかし彼の魅力は外見だけではない。その声も聞く者の鼓膜を揺さぶる低音の持ち主なのだ。さあ行け承太郎、その女泣かせの美声で、女子の鼓膜破ったれ……と、花京院が付けヒゲの下でにやりと笑ったそのとき、承太郎は4人を見下ろし、第一声をあげた。 「いらっしゃいましぇ」 「!?」 (ええッ!?) 花京院を含め、全員が耳を疑った。 (か……噛んだ……?) 気のせいだと思いたい。が、女性陣がざわついている。噛んだ。承太郎が噛んだ。しかし彼は何事もなかったかのように、さらに続けた。 「ご注文はお決まりでしょうか」 (よしクリアッ!!) 今度は大丈夫だった。心底ホッとしていると、女性たちがメニューを述べる。承太郎は腰に下げていたハンディターミナルに、それを打ち込む。 「え、えっと、このふわふわフレンチトーストのミックスベリーをふたつと」 「ふわふわフレンチュ……フレンチトーストのみっくちゅ…ベリーをおふたつと」 「自家製プリンとチーズケーキのスペシャルサンデーがひとつ」 「自家しぇえプリンとチーズケーキのしゅぺしゃ……シャ、サンデーがおひとつ」 「あと、桃のソルベをひとつください」 「桃のソルベがおひとつでございますね」 (カミカミだァーー!! 最後の桃のソルベ以外全部噛んだーーッ!!) 思わず新聞紙を握りしめてしまう。こんなに滑舌の悪い男だったろうか。ハラハラした思いのまま承太郎を見ると、流石の鉄仮面も恥ずかしかったのか、無表情ながらに耳が赤い。 (く、くそッ! それはいくらなんでも可愛すぎるんじゃあないか!?) 愛しさと切なさとやるせなさで、いっそ今すぐ連れて帰りたい気分だ。もうバイトなんかしなくていいから、欲しいものがあるならぼくが買ってあげるから、と言ってやりたい。が、そんなことを言えば、きっと承太郎のプライドが粉々になってしまうから、ひとまず涙をのんで我慢することにした。 彼はあれでいて、実はちょっぴり緊張していたのかもしれない。ファミレスで注文を受けるなんて初めての経験なのだし、悪いのはスイーツだ。やたらめったら名前の長いスィーツが悪なのだ。承太郎は悪くない……。 女性たちは他にも紅茶やコーヒーを頼み、承太郎はどうにか噛まずに注文を取り終えた。 ひとまず無事に(?)去っていく後姿にホッとしながら新聞を畳むと、側に置いてあったコーヒーカップを取り、ひとくち飲む。この数分で、喉がカラカラに乾いてしまった。 「ねえ、さっきの店員さん、素敵な方だったわね」 すると、例のママ友集団が心無しか上擦ったような高いトーンで話す声が耳に飛び込んでくる。 「ほんと、長身で筋肉質で、ねえ唇見た? 少しぽってりしていてセクシーだったわ!」 だいぶ取り乱したものの、その会話を聞いて花京院はまた上機嫌になる。 (ええ、そうなんですよ奥さん。彼はどこもかしこもセクシーなのです) 「あんな男前を見ちゃったら、もう家に帰って旦那の顔なんか見れないわよ!」 (そうでしょうとも、そうでしょうとも) 「メニューもカミカミで可愛かったわよね。母性くすぐられちゃった」 (わかります……あれはぼくもヤバかった……) 「あーあ、あたしが独身だったら、思いっきりオシャレしてアピールしちゃうのにな~」 「人妻だって需要あるわよ? ほら、昼顔ってやつ?」 「やだぁ~もう~! よしてよ~!」 (よよよ、よしてくださいあれはぼくの彼氏ですッ!!) というより、昼間から不倫を匂わせる会話をこうも堂々とするなんて。なんというゲスの極みトークだろうか。女性との結婚を夢見ていたのがもう随分と昔のように感じるが、憧れは未だ捨てきれない、ガラスの十代のハートがちょっぴり傷つく。 (それにしても、今回は何事もなく終わりそうでなによりだ。このぶんだと、そろそろ退散してもよさそうかな) 噛みっぷりには少々の不安はあるものの、承太郎ならすぐに慣れるだろう。今回もいい報告ができそうだ。結局ひとくちだけ飲んだコーヒーをそのままに、伝票を持って立ちあがろうとしたそのとき、さきほど注文を受けた品々をカートに乗せた承太郎がやってきた。 どうせなら最後まで見届けよう。浮かしかけた腰を再びおろし、スイーツや飲み物を慎重にテーブルに乗せていく光景を、再び開いた新聞紙越しに見つめる。全て事なきを得ると、承太郎は「ごゆっくりどうぞ」と言い、その場を去りかけた。が、すぐに何かに気がついたような顔をこちらに向けた。 (!?) 思わず肩が跳ねる。どういうわけか、承太郎が思いっきりこちらを見つめているではないか。なにかおかしな点でもあるのだろうか。咄嗟に新聞紙を確認するが、逆さまに見ているなんて失態は犯していない。ならばどうして見られているのだろう……。 承太郎がこちらのテーブルへと歩み寄ってくる。花京院はカラカラになって張りついたようになっている喉を、強引に鳴らした。 「お客さん、あんた……」 「は、はいッ!?」 新聞紙から顔をあげ、肩を跳ねさせる。声のバリエーションはミッ●ー以外にない。が、素の声を出すわけにもいかなかった。しかし承太郎は特に気にする様子もなく続けた。 「その格好……ひょっとして探偵か?」 「は、え、ええ。そうでしゅお」 噛んだ。今度はこちらが噛んでしまった。だが恥ずかしがっているほどの余裕はない。 「そうか、やっぱりな。その格好、もしやと思ったが」 承太郎は心なしか嬉しそうに表情を和らげた。警察官やサッカー選手など、憧れの職につく人間を前にしたときの、少年のような瞳をしている。 「本物は初めてお目にかかったぜ。あんた、刑事コロンボは知ってるかい」 「いや、あ、はい」 「声高えなあんた。まあいい。子供の頃から大ファンでよ。中には探偵が犯人なんて回もあるんだぜ。ありゃあ傑作だ。まあ、あんたのようなベタな格好はしちゃいないがね」 (し、しまった……まさかこの探偵ルックが裏目に出るとは……ッ) へえ、そうなんだ、などと震え声(高音)で返しつつ、冷や汗が背筋を伝う。やけに饒舌な様子から、まさか勘づかれているのではと思うと、生きた心地がしなかった。 「そんなわけで、本物の探偵さんよ。握手してもらっても?」 「あ、握手ですか、はあ、わたしでよければ」 「ありがとうよ」 なんだ、握手を求められただけか。悟られぬ程度にホッと息をつきながら、右手を差し出して握手を交わした。掌がだいぶ汗ばんでしまっていたのが気になったが、どうせ正体はバレていないのだからと、気にしないことにする。 「探偵さん、あんたひょっとして仕事中かい?」 「え!? あ、ああ、そうなんだ。このあとちょっとね」 「刑事ばりに張り込みなんかもするんだろ。ちょっと待ちな、確か尻ポッケに……」 「尻ポッケ!? ポッケ!?」 「なんだ?」 「いいいや、なん、なんでもないさ」 (尻ポッケって!) ポッケなんて言うの可愛すぎないか……と痙攣を起こしそうになっている花京院を他所に、承太郎は自分の尻のポケットをまさぐっている。そして目当てのものをズルリと引き抜くと、そっと差し出してきた。 「こ、これは……おせんべい、かな?」 なにやら透明なビニール袋に入った、円形で平べったい、茶色の物体。よく見ると、小豆色をしたペースト状のなにかがはみ出しているように見える。 「アンパンだぜ」 「アンパン!? アンパンを尻ポッケに入れてたのかい!? そのピタピタのズボンに!? そりゃあ潰れるだろうね!!」 「腹が減ったら適当に食うつもりでいたんだが、なかなかその暇がなくてよ。張り込みっつったらこれだろ。よかったらあんたが食ってくれ」 「そんな昔の刑事ドラマみたいな……ていうかよく入ったな尻ポッケに……」 ペースト状のはみ出しているなにかは、あんこだったというわけだ。悪意なき悪意の産物に、戸惑う以外の術がない。しかし承太郎は曇りなき眼でこちらを見ている。受け取るしか他にないことにちょっとした絶望感を味わいながら、それでもとりあえず「ありがとう」と礼を言って受け取った。 その後、アンパンは帰宅後に花京院が牛乳と一緒に美味しく食べた。 * その日、花京院はとある駅前の大きな通りにいた。 (二度あることは三度あるとは、よく言ったものだ……) 昨夜、ホリィから電話がきた。承太郎がファミレスを辞め、またしてもバイト先が変わった、と……。 その理由について承太郎自身は多くを語ろうとしなかったようだが、ホリィの調べによると、今度も承太郎ならではの理由があった。ファミレス『ジョナソン』に、スーパーイケメン店員がいるという噂は、周辺の女性たちの間で瞬く間に広がった。結果、承太郎効果で女性たちはみな連日のように押しかけ、長蛇の列ができたという。 それだけなら十分貢献していると思いがちだが、そうはいかないのが承太郎クオリティだ。なんと、彼を狙う女性たちの間で口論が起こり、最終的には取っ組み合いのケンカに発展してしまったというのだ。キャットファイトというやつである。しかも一度ならず二度までも。 結果、べそをかいた店長に頭を下げられ、やむなくバイトを辞めることになってしまった。 流石と言うべきか、気の毒というべきか。ダブりとはいえ、花の高校生がバイトのひとつもできないなんて、あまりにも憐れな話だと思った。 しかし承太郎はめげなかった。彼が次に選んだバイト先。それは駅前通りのブティックだった。なぜまたしても接客業なのか。しかもブティックなのか。婦人服や装飾品を扱っているがゆえに、今回ばかりは変装して店に直接入り込むことが不可能な領域である。 仕方なく、花京院はこうしてごく普通のシャツとパンツ姿で、双眼鏡を手に道路を挟んだ向かい側に潜んでいるというわけだ。身を隠せるものといえば道路脇にずらりと並ぶ植木くらいのもので、しゃがみこんで向かいを双眼鏡で覗くという奇行が、嫌でも通行人の目にとまってしまう。 (さっさと済ませないと、職務質問されかねないぞ) 行き交う人々の視線を嫌というほど浴びながら、花京院は向かいのブティックを観察する。すると店の正面に、黒いスーツ姿の承太郎が佇んでいるではないか。 (客引き? いや、それにしても動かないな……本当に、ただ突っ立っているだけじゃあないか) いったい彼は何をしているのだろうか。その表情はどこか不満そうでもある。しかし流石は承太郎。通行人のほとんどが彼を見やり、ハッと息を飲んでいる。なにより女性はすべからく彼に見惚れ、蕩けた表情でフラフラと店に入っていくのだ。 (か……看板にされている……?) 花京院はひとつの仮説を立ててみた。あの店はいかにも高級ブティックだ。おそらく接客も一流でなくてはならないはず。舌打ちをしたり、無表情でカミカミな接客をする人間が、まともに使われるはずがない。しかも、こういった店の店員は自ら客と接触し、あれこれと商品を勧めなくてはならない。人当たりのよさと、それなりの話術がなければ立ち回れない仕事のはずだ。 承太郎にはかなり難易度が高いと思われる。店長は頭を抱えたことだろう。そして最終的に、こう言ったに違いない。 『空条くん、あなたは店の外に立っているだけでいい』 と――。 戦略は大成功を収めている。接客を任せることはできないが、絶世の美男子を易々とクビにすることもできなかった、というわけだ。あるいは最初から看板にするつもりで雇ったという可能性も十分に考えられる。 口をへの字に曲げる承太郎の顔には「思っていたのと違う」という文字が描かれているように見えた。ただ時間いっぱい突っ立っているだけなんて、そりゃあ退屈でしかないだろう。しかし次から次へと女性客が店に吸い寄せられては、店の中に黒い人だかりを作り上げていた。承太郎は「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」のみを口にするマシーンと化している。 花京院はどことなくホッとしていた。これならきっとなんの問題も起こらない。ここらの不良は承太郎に敵わないことを熟知しているため、下手に手を出してもこないだろう。気がかりがあるとすれば、またもや女性たちがキャットファイトを繰り広げないかどうかだけだが……。 (どんな仕事も、お金を稼ぐというのは大変なことだな、承太郎) 彼がなにを思ってバイトなんて真似をしているのかは未だ謎だが、どうしても欲しいもの、とやらが無事に手に入るよう祈りながら、花京院はその場を後にするのだった。 * 夏休みもそろそろ終わりにさしかかってきた。 その日、花京院は承太郎から誘いを受けて、以前ホリィと話をした喫茶店で待ち合わせをした。 「ずいぶんと久しぶりになっちまったな」 店の奥まった席で、向かい合うように腰かけた承太郎が言った。 「そうだな。こうして会うのは、夏休みの初めに海へ行った以来、かな」 「悪いな、ちょっと野暮用が続いてよ」 「気にしないでくれ。ぼくも田舎の祖父母の家へ行ったりして、不在がちだったんだ」 嘘はついていない。承太郎のバイト偵察が一通り終わったあと、しばらくは東北にある父方の祖父母の実家へ里帰りしていたのだ。 久しぶりに会う承太郎は、ずいぶんと日に焼けて精悍さに磨きをかけていた。元々健康的な肌色をしていたが、見慣れたいつものシャツから伸びる筋肉質な両腕がさらに逞しくなったように見える。少しのあいだ離れていたせいだろうか。いやにドキドキとして、自然と頬に熱が集まった。 承太郎はアイスコーヒーを、花京院は今回もチェリーのソーダを、互いにひとくち飲んで、息をつく。ほどよく冷房の利いた店内には、今日も品のいいジャズが微かに流れていた。 「ところで花京院」 まったりとした空気のなか、承太郎がどこか緊張したような真剣な面持ちで口を開いた。 「なにかな」 「今日はてめーに渡したいものがある」 「え?」 きょとんとして首を傾げていると、どこに隠し持っていたのか、承太郎が長方形の箱を取りだし、テーブルに置いた。それをずいっと滑らせるようにして目の前に突きつけてくる。 「これは?」 薄桃色の和紙で包装された箱と、承太郎の顔を交互に見て目を丸くしていると、彼は無言であごをしゃくる。開けろ、ということだ。花京院は素直に従い、箱を手に取ると和紙を傷つけないよう、慎重に包装を解いていく。中からは、金色で店名と思しき文字が書かれた木箱が姿を現した。 「開けても?」 「いいぜ」 一度だけ承太郎を見やり、改めて了承を得てから木箱を開けた。真っ先に目に飛び込んできたのは、金の丸い枠に縁どられた、桜の花々だった。 「これは……七宝焼きというやつかい?」 掌にちょうど収まるくらいのそれには、ゴールドのチェーンがついている。深みのある赤地に繊細なグラデーションの桜の花が、満開に咲き誇っていた。 「そいつが蓋になってる。開けてみな」 言われるがまま、チェーンを摘まむようにして持ちあげ、掌に乗せる。七宝焼きの部分は彼が言うように蓋になっていて、そっと開くと中は時計の文字盤になっていた。 「懐中時計か」 光沢のある白い文字盤で、秒針が規則的に踊っている。さりげなくあしらわれたピンクゴールドのルビーが、まるで桜の花弁を表現しているようで、美しかった。 花京院は驚きに目を見開き、承太郎の顔を見やる。彼はどこか照れたように目線だけを逸らし、小さな咳払いをした。 「たまたま通りがかった店で見かけてよ。桜はちと季節外れだが……なんとなくてめーを思いだしちまった」 「これ、ぼくに?」 問うと、彼は「誕生日だろ」と言って微かに笑った。 「嬉しいな。覚えていてくれたのか」 「当たり前のことを言うもんじゃあないぜ」 「しかし……」 掌の懐中時計は、大きさ以上にずっしりとした重みがある。物の価値が分かるわけではないが、そうとう値が張るものであることは容易に想像できた。 「こんな高価なものをもらってしまって、いいのだろうか」 花京院が承太郎へ誕生日プレゼントの代わりに渡したものといえば、本屋で購入した付録付きの『海の生きもの大図鑑』である。これと比べれば、ずいぶんと幼稚なものを渡してしまったことに気がついて、なんだか恥ずかしい気持ちになってしまった。 しかし承太郎はなんでもないことのように「大した額じゃあねえよ」と言う。 「てめーはそんなこと気にしなくていい。素直に受け取りな」 「承太郎……」 両手で包み込むようにして、懐中時計を胸に抱いた。じんわりと染み渡るように、胸いっぱいに熱いものが込み上げる。その思いがすっかり胸を満たして、溢れだしそうになるのと同時に、目頭がじんと痛んだ。 「ありがとう……」 「ばか、泣くやつがいるかよ」 「だ、だって、しょうがないだろ……そうか、君はこれを買うために、わざわざバイトなんて……あ」 しまった、と思い、つい目を泳がせる。せっかく今の今まで内緒にしておいたというのに、今の台詞で台無しではないか。今までと違う意味で心臓をドキドキとさせながら、恐る恐る承太郎を見ると、彼はエメラルドの瞳を真っ直ぐこちらに向けていた。 「あ、いや、えーと……今のはその、つまりだな」 「構わねえよ。つーかてめー、変装するならもっと上手くやりな」 「……バレてた」 承太郎は思わずといった様子で噴きだした。肩を揺らし、くつくつと笑っている。花京院は顔を耳まで真っ赤にしながら眉を吊り上げた。 「き、君な、気づいていたくせに泳がせる真似をするなんて、卑怯だぞッ!」 「それを言ったらおあいこだぜ」 「そ、それは……そうだけど……。し、しかし、よく気がついたな……そこそこ自信があったのに」 「やれやれ、みくびられたもんだ。おれがてめーの気配を察知できないとでも? つうかよ、あの探偵ルックは流石にツッコミ待ちかと思ったぜ」 「くッ……!」 まるでピエロである。高熱で頭がパンクしそうになりながら、木箱に懐中時計を戻した。そして少しでも気持ちを落ち着かせようと、サイダーを一気に飲み干した。 「はぁ……。悪かったよ、ストーカーのような真似をしてしまって」 「いや、どうせお袋だろ」 「……まあね」 承太郎もアイスコーヒーに口をつけ、それから思いだしたように「そういえば」と言った。 「工事現場のときは姿が見えなかったな……ああ、そういや里帰りしてたって言ったか」 「工事現場? なんのことだい?」 目を丸くしながら首を傾げると、今度は承太郎の方が「余計なことを言ってしまった」というような顔をした。 「え、まさか君、あれからまたバイト先を変えたのか?」 「……まあな」 「あの店でも何か問題があったのかい?」 「そういうわけじゃあねーけどよ」 詳しく訳を聞いてみると、店自体でなにか問題が起こったというよりは、承太郎自身の気持ちの問題だったということが分かった。ただ突っ立っているだけで金をもらう、という状況に、納得がいかなかったのだと、彼は吐き捨てるように言った。 「だから辞めて、工事現場に?」 「ああ。なかなかやりがいがあったぜ。あの店じゃあ働いてるって実感がまったくなかったからな。あれじゃあただの金銭泥棒だぜ」 「変なところで真面目だな、君は……」 「てめーの力だけで稼いだ金が欲しかったのさ。人からの施しや、楽して得たもんじゃあおれの気が済まねえ」 「承太郎……」 承太郎はそっと右手を伸ばすと、木箱の上に添えられていた花京院の手の甲に、掌をかぶせた。 「あまりベラベラと喋ることじゃあねえのかもしれんが」 「……うん」 「あの旅で、DIOの野郎と戦ったとき……花京院、てめーはヤツの能力をじじいに伝えるため、時計塔をぶっ壊して時計を止めたな」 そこでいちど、承太郎は大きく息をついた。それが少しだけ震えている気がして、花京院はなにも言うことができなかった。 「今でもよく思うことがある。あのとき止まっていたのは、時計の針だけじゃあなかったかもしれねえ。おまえの時間まで、永遠に止まっちまっていたかもしれねえ、とよ」 「承太郎……」 「考えだすとよ、怖くなっちまう。今この瞬間、ここにてめーはいなかったかもしれねえ。けどな、考えれば考えるほど、今のこの瞬間が愛おしいと感じる。おまえが生きて、ここにいるこの時間が」 ただ重なり合うだけだった手を、知らず知らずのうちに握り合っていた。指と指とを絡め、祈るような形に。花京院はその翡翠の瞳から決して目を逸らさなかった。承太郎もまた、慈しむように目を細めた。 「花京院典明。この先ずっと、互いに歳食ってじじいになって死ぬまで。おれの隣で、おれだけのために時を刻んじゃくれねえか。この空条承太郎の傍で、一緒に生きちゃあくれねえか」 「ッ……!」 息を飲む花京院に、承太郎はふっと笑って「勝手かな」と言った。そのささやかな照れ隠しにすら愛しさを覚えて、花京院は握り合う指先に力を込める。胸がいっぱいで、うまく言葉が出そうになかった。だから、涙がいっぱいに浮かんだ目を細めながら笑って、こくりと頷いた。 「ありがとうよ」 「ぼく、も。ありがとう、承太郎。これ、大事にするよ。一生、君の隣でね」 失っていたかもしれないのは、花京院だって同じだ。時を止めた世界で、彼は孤高に戦った。今この瞬間、この場所に承太郎はいなかったかもしれない。決して考えなかったわけじゃなかった。ただ、考えるのが怖かった。遺されることも、遺して逝くことも。今こうして生きているからこそ、怖かった。 承太郎は、まるで遺される孤独を知っているかのように、その恐怖と向き合っていた。当たり前のように息をして、食事をして、眠って、学校へ行って、そして愛し合って。こうして生きられる今は、決して当たり前のことなんかじゃあないのだ。だから彼はあえて目に見える形として、花京院にこの懐中時計を贈ったのかもしれない。 「ああ、どうして君はこんな場所にぼくを呼びつけたんだい。ここじゃあ、君を抱きしめて、キスをするができないじゃあないか」 夏休み中の喫茶店には、多くの人が休息と涼を求めてテーブルについている。奥まった場所にいるふたりは、植木によってある程度は隠されているけれど、例えばいま思い切って互いに顔を寄せ合い、小さなキスくらいならできたとしても、それだけで済みそうもないことを知っている。 今夜はきっと離せないと思った。最初からそのつもり来ていたし、承太郎だってそうに違いない。だから花京院は彼が次に発する言葉を待った。どんなものでもいい。今はまだ、理由がなければ大胆に誘うことができない、ひとつ年下の恋人に。彼ならきっと。 「浴衣着て、縁側で夕涼みなんてどうだ。スイカ冷やしてよ」 そう言ってくれると思っていたから。 「いいな。風情があって、素敵だと思うよ」 花京院は桃色の頬で、蕩けた砂糖菓子のように、甘ったるい笑みを浮かべた。 ←戻る ・ Wavebox👏
晴れ渡る青空に、大きな入道雲が山々を織りなしていた。電柱にとまったセミが大きな声を張り上げるなか、花京院典明は建物の影を踏み、日差しを避けながら歩いている。
「やっぱり外は暑いな」
半袖のシャツからすらりと伸びた腕をあげ、太陽に向かって翳すようにして空を見上げた。コンクリートの照り返しも相まって、結局は眩しさに目を細める。
こんなことなら、もう少し図書館にいてもよかったのかもしれない。エアコンが効いた静かな空間は快適そのもので、そのぶん一歩でも外に出ると、よりいっそう暑さを痛感させられる。涼しさを乞うように滲む汗が、首筋から鎖骨にかけて流れ落ちるのを感じた。
「あら? 花京院くんじゃない。こんにちは」
そのとき、ちょうど向かい側から歩いて来たらしい女性に声をかけられ、足を止める。フリルのついた藍色の日傘の下で、よく知る人物が涼しげに微笑んだ。
「ホリィさん! こんにちは」
薄桃色のワンピースを品よく着こなしたそのひとは、花京院の友人であり、先輩であり、そして恋人である空条承太郎の母、ホリィだった。
「どこかへお出かけかしら? 今日も暑いわね」
「ええ、本当に。ぼくは図書館の帰りです。ホリィさんはお買い物ですか?」
「そうなの。今夜はハンバーグにでもしようかと思って!」
「フフ、ホリィさんはお料理上手で、承太郎は幸せ者ですね」
緩く握り込んだ指の甲を口元にあて、小さく笑いながら言うと、ホリィはどうしてか僅かに表情を曇らせた。
「はぁ……花京院くんは、本当に素直でいい子ね」
片手を頬に当てながら、ホリィがささやかな溜息を漏らす。
「承太郎となにかあったのですか?」
「ええ……」
息子とよく似た、緑がかったブルーの瞳に翳りが浮かべ、どこか曖昧に頷いて見せたホリィに向かって、花京院は思わず小首を傾げた。
*
「バイトですって!?」
張り上げてしまった声が、静かなジャズが流れる喫茶店内に響き渡った。
店員や客の視線を集めてしまい、花京院は小さく赤面しながら咳払いをする。誤魔化すみたいにして、目の前のチェリーが浮かんださくらんぼサイダーに口をつけた。そして今度は声を潜め「承太郎が? バイトを?」と改めて問いかける。
「そうなのよ……どうしても欲しいものがあるんですって。それならママがお小遣いあげちゃう♡って言っても、完全無視するんだもの!」
「それはまあ」
気持ちは分からないでもない。高校生にもなって、親にいちいち欲しいものを強請る、というのは、少しばかり気が引けるのだ。花京院も交際費やゲームなどの娯楽品に関しては、なるべく小遣いの範囲や、昔から貯金しているお年玉などから自分で出すように心がけていた。
確か、それは承太郎も同じだったはずだ。数日前にも、ふたりで海へ遊びに行った先でATMから引きだしているところを見たばかりだった。彼の場合、お年玉貯金といえども桁が違いそうである。
「承太郎ったら、いつだってママにはな~んにも相談しないで決めちゃうんだもの……」
ホリィは片肘で頬杖をつき、頬を膨らませながらストローで目の前のアイスティーをかき混ぜた。少女めいた仕草で臍を曲げる姿が微笑ましい。
「彼は一体どんなバイトを?」
「コンビニですって。すぐ隣町のOWSONよ」
「こ、コンビニ……承太郎が、コンビニですか」
(ふ、普通すぎる)
あの泣く子も黙る空条承太郎が、コンビニでレジを打つ姿などまるで想像できない。高校生のバイト先としては、あまりにもテンプレートにハマりすぎている気がした。ならどんなバイトなら納得なのかと問われれば、それはそれで困ってしまうのだが。
あのギリシャ彫刻もケツをまくって逃げ出しそうな美貌の男と、バイトという三文字がそもそも不釣り合いなのだから、仕方ない。
「ああッ! 心配だわ……お客さんや店長さんに怒られて、今ごろ泣いているかもしれないわ……!」
「それは流石にないんじゃあ……」
「だって初めてなのよ……スーパーへ買い出しにだって行かせたことないのにッ!」
「いくらなんでも箱に入れすぎじゃあありませんか、おたくの息子さん……」
「ハッ! いま承太郎ったら、バイト先であたしのこと考えてるッ! ママ助けてって泣いているわッ! 息子と心が通じ合った感覚があったものッ!」
「うぅん相手がホリィさんだと強めに突っ込めない!」
分かっちゃいたが天然ボケである。彼女の中で、あの195センチ級の最強のスタンド使いは、まだまだ小さな子供のようなものなのだろうか。あらゆる意味で偉大な人だなと思った。
「まあまあ、落ち着いてくださいホリィさん。彼はもう立派な大人です。頭もいいし、手先も器用ですから、心配しなくてもきっと上手くやっていると思いますよ」
(た、多分)
最後は心の中でだけ付け足しておくとして、花京院が宥めるとホリィは少しだけホッとしたように息を吐きだし、肩から力を抜いた。
「そうよね……あたしもね、ちゃあんとわかっているのよ。あの子はしっかりしているもの……いつかきっと、元気な姿で帰って来てくれるわよね……」
「あの、確認ですが、承太郎はコンビニのバイトに行っているのですよね? 塀の向こうで服役的なことをしているわけじゃあないですよね?」
「ママ、ハンバーグ作って待ってるから……ずっと、待ってるからね承太郎……ッ!」
ついにハンカチを取りだして泣きだしてしまったホリィを見て、花京院は途方に暮れた。承太郎ではないが「やれやれだぜ」のひとつも零したい気分だ。
なんと声をかけていいのか分からず、しかし女性が泣いている姿を見続けるのはしのびない。というより、コソコソとなにか耳打ちしながらこちら見ている客の多いこと……。これは確実に、何かよからぬ目で見られているに違いない。歳の差カップルの男の方が、やっぱり若い女がいいなどと言いだして、彼女を泣かせている図に見られている予感しかしない。
「わ、わかりましたホリィさん、ぼくが様子を見てきますから!」
「え……?」
「承太郎がちゃんと上手くやっているか、ぼくが行ってこの目で確かめてきます。だからどうか、涙を拭いてください」
「本当に!? いいの!?」
「ええ……任せてください……」
「きゃー! 助かるわ花京院くんッ! どうもありがとう!」
この短い間で、一気に頬がこけたような気がしつつ、花京院は引き攣った笑みを浮かべて見せた。
*
大喜びのホリィと別れたその足で、花京院は問題のOWSONへ向かうことにした。
(未だにちょっと信じられないが、あの承太郎がバイトとは……)
隣町とはいえ、電車やバスを使うほどでもない距離の道を、先刻と同じように影を踏みながら歩く。花京院は学校での承太郎の威風堂々とした姿や、あのエジプトの旅で豪快にスタンドバトルを繰り広げる様子を思い浮かべ、まだどこか信じられない気持ちでいた。
半ば勢いで引き受けたものの、だんだん自分の意思でバイトに勤しむ承太郎の姿が見たくてしょうがなくなってくる。彼は気の置けない仲間たちや、とりわけ恋人である花京院の前ではよく笑うし、豊かな表情を見せることはあっても、基本的には無愛想で寡黙な男だ。教師の言うことすらまともに聞かない彼が、上の人間の指示を素直に受け入れ、接客業に従事することなど可能なのだろうか。やっぱり、想像がつかない。だから正直、興味は尽きないのだ。
(それにしても、どうしても欲しいものというのは、一体なんだろう?)
しかも金銭面でも恵まれすぎている彼が、わざわざ自ら金を稼ぐ発想に至った経緯が、まるで理解できない。
とはいえ、今は考えるより先にやることがある。花京院はまずは目的のOWSONではなく、とある別の場所を目指すことにした。承太郎の様子を見に行く前に、用意しなくてはならないものがあるからだ。
*
小一時間後、花京院は目的地であるOWSON前に辿り着いた。しかし、先刻のシンプルなポロシャツとパンツ姿とは、装いがまるっと異なっている。
(泣くほど心配していたホリィさんの代わりに、ぼくが様子を見に来たなんて言ったら、承太郎が気を悪くする恐れがある)
数え年ではもはや19にもなる男だ。そんなことを知れば、彼が臍を曲げかねない。OWSONはどこにだってあるコンビニだし、わざわざ隣町まで足を運ぶ理由も、特には思いつかなかった。承太郎も、案外それを予想して近所ではなく隣町を選んだのかもしれない。だから考えた結果、花京院は生まれて初めての『変装』にチャレンジすることにした。
(ふふ……これなら流石の承太郎も、ぼくだなんて気づくまい。ぼくは今、完璧にラッパーの姿をしているのだからな!)
そう、今の花京院はリズミカルに韻を踏む、どこからどう見てもノリノリでイケイケのヒップホップミュージシャンだった。
特徴的な前髪を隠すために黒のキャップをかぶり、ダボッダボのパーカーを着て、同じくダッボダボのジーンズを穿いている。全身が服の中で泳ぎまくっているし、ウエストはベルトで固定してはいるものの、それでも腰穿きのような状態になっていた。はっきり言ってだらしない。普段なら頼まれてもしない格好だし、する機会もない装いだ。だが、これならいつも承太郎が「エロいエロい」と言うせいで、若干コンプレックスになっている細すぎる腰のラインも隠せるし、一石二鳥である。もちろんピアスも外し、サングラス(例のやつ)とマスクも忘れない。
これらの品を揃えるため、まずはショッピングモールに立ち寄ったというわけである。ちなみに元々着ていた洋服は、駅のトイレで着替えがてらコインロッカーに預けてきた。
こっそり様子を探る程度なら、スタンドの力を借りればいいだけのような気もするが、それじゃあ面白味がない。結局のところ、変装も込みで楽しむ気マンマンの花京院がそこにいた。
(ノォホホ、なんだか潜入捜査みたいでカッコいいなあ!)
変装だけでなく、心までノリノリのイケイケになってきたところで、いざOWSONへ――。
*
「いらっしゃいませー!」
入店してすぐ、元気よく声を張ったのは同じバイトと思しき女性の店員だった。承太郎はというと、入ってすぐのレジカウンターで、客を相手に熱心にレジを打っているところだった。
(おお! やってるやってる!)
無愛想ではあるが、パッと見モタついている様子もない。それより気になるのは、彼が着ているOWSONの制服だ。
(ち、小さすぎる……いや、承太郎がデカすぎるんだ……ッ!)
明らかにサイズが合っていない。青に白のストライプ模様が入っている制服が、はち切れんばかりにパッツンパッツンになっていて、今にも100%超えしそうな状態だ。しかも彼は制服の下になにも着ていないようだった。少しでもパツパツの状態を和らげる効果を狙ったのかもしれないが、ここまで来ると完全に悪ふざけとしか思えない。不味い。承太郎が戸●呂(弟)に見えてきた……。
サングラスの奥で目をぎょっとさせつつも、花京院は何気なさを装って書籍コーナーの前へと移動した。とりあえず、ここなら横目でレジの様子がある程度は観察できそうだ。怪しまれないよう、適当にメンズノ●ノを手に取り、ページを開いた。
「おにぎりは温めますか」
承太郎が向かい合っている客に愛想もへったくれもないトーンで訊ねる。なんなら棒読みだ。客はスーツを着た中年男性だった。最近の若者はなっとらん、と説教をかまされても仕方がない対応に、花京院は手に汗握った。
「あ、は、はい……」
が、客は195センチ級の目力ハンパない店員に圧倒され、完全にビビって萎縮している。
(承太郎ッ! 客を怖がらせてどうする! スマイル! スマイルだ承太郎ッ!!)
「お、お願いしても……よよ、よろしいでしょうか……?」
(お客様ッ! あなた神様なんですからッ! 苦情のひとつくらい言っても許されますよッ!!)
「チッ……いいぜ」
(承太郎ォォォッ!!)
完全に立場が逆である。見ていられない。マスクとサングラスの下の顔面が汗だくだ。
(こ、このままでは心臓がもたない……なんかもう店から出たい……)
が、このままではホリィにまともな報告ができそうにない。もう少し、もう少しだけ見守ろうと心に決めながら、見てもいない雑誌のページを震える指先でめくった。
*
その後はなんやかんやで順調だった。承太郎は幾度か舌打ちはしたように見えたが、てきぱきとレジ打ちをこなしていた。客は男性なら思いっきり縮みあがり、女性はみな一様にして顔を赤く染めながら、蕩けたチーズのようになっていた。
(これならなんとかホリィさんに報告できそう、だな)
でも舌打ちのことは黙っていよう……と密かに決めて、そろそろ店を出ようとした、そのときだった。
一人の若い男性客が、なにを買うでもなくフラリと店を出て行こうとした。その瞬間、承太郎の目つきが鋭く光った、ように見えた。
「おい、待ちな」
「ッ!」
息を飲んだのは、呼び止められた男性客と花京院、同時だった。凄みのある声に、彼は足を止めて動かなくなった。
(な、なんだ……?)
花京院は息を殺しながら、男性客を見た。ごく普通の大学生くらいの青年だ。一見して真面目で、気が弱そうな印象を受ける男だったが、なぜか酷く青褪めている。
承太郎は彼を睨み付けたまま、レジカウンターからこちら側に回り込んで来た。そして片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で青年を指さした。正確には、青年が肩からさげている黒いショルダーバッグを、だ。
「てめー、その鞄の中を見せてみな」
「え、えぇッ? な、なんですか急に……」
「とっととしろ」
「うぅ……」
青年は真っ白になっている唇を噛み締め、弱々しく呻きながら俯いてしまう。まさか、と花京院は思った。
「早くしねえと無理やりにでも剥ぎ取るぜ。今なら見逃してやる……か も」
「ちち、ちっくしょおッ!」
「ッ!?」
青年は観念するどころか、はじかれたようにその場から走り去ろうとした。
(いけないッ! ヤツは万引き犯だッ!)
承太郎は微動だにしない。何か考えがあるのか知らないが、まさか彼がこのまま取り逃がすわけはないとも思いつつ、傍観者であるはずの花京院の方が焦ってしまう。
(このままでは逃げられるッ! こうなったら……ッ)
「出ろッ! ハイエロファントグ」
――そのときである。
ブチン、というなにかが弾ける音がして、次の瞬間、青年が低い呻きを上げながら前のめりに吹っ飛んだ。
(な、なんだッ!? なにが起こったんだ!?)
一瞬の出来事に唖然としながら、自動ドアに挟まれる形ですっかり伸びているらしい青年を凝視する。よく見ると、その脇にボタンと思しきものが転がっていた。
(ボタン……ま、まさかッ!?)
そのまさかだった。視線を承太郎へと走らせると、彼の制服はついにそのムキムキボディに耐えきれず、張り裂けてしまっていた。ボロボロにはち切れて布きれと化した制服が、中途半端に肌に張りついている。やった。ついにやった。120%である。
襟部分についていたボタンがその際に勢いよく弾け飛び、ちょうど青年の後頭部に直撃したらしかった。
「きゃあああっなに!? 空条くん、なにがあったの!? ちょ、なにその制服!?」
その音を聞きつけたもう一人の女店員が、裏から血相を変えて飛び出してきた。承太郎は彼女に向かって顎をしゃくり「こいつの鞄を見ろ」と命じる。
女店員が恐る恐る気を失っている青年の鞄を開けると……中からは封を切っていない菓子パンが幾つか、姿を現した。それはどれもOWSON印で、スーパーや他のコンビニでは売っていないものだった。
「こ、これってうちの商品……? もしかして、万引き!?」
「とっとと警察を呼びな。いや、その前に救急車かな」
「は、はいッ!」
慌ててカウンター裏へと走っていく女店員を尻目に、承太郎は肩に手をやり、小気味よく関節を外しながら「やれやれだぜ」と決め台詞を放った。一連の光景を見ていた花京院が、心の中で「流石だ、承太郎」とガッツポーズをしていると、彼の視線がこちらに向けられた。
(ッ、ま、まずいッ!)
「さっき……ハイエロファントグ、まで聞こえたような気がしたが……」
ズン、ズン、と上半身裸の男が迫ってくる。終わった、と感じた。が、終わってなかった。正面までやってきた承太郎だったが、花京院の姿を上から下までねめつけたあと、呟いた。
「あいつがこんなだらしのねえ格好をするわけがねえ、か」
思ってても口に出して言うんじゃあない……と思いつつも安堵が込み上げ、身体から力が抜けそうになる。やはり承太郎の目をもってしても、この変装は完璧だったというわけだ。
「悪いな。あんたの方からよく知る声が聞こえたような気がしたもんでよ」
「そ、そうなんですか。空耳ですかねえ。ははっ」
声でバレては意味がないので、花京院は自分に出せる限りの裏声を駆使して、思いっきり高い声を出す。流石に不味いかと、サングラスの奥で怖々と上目使いで様子を伺った。
「みてえだな……それよりあんた、ずいぶんと声が高えようだが……」
「えッ!? そ、そうかな!?」
「ああ。ミッ●ーマウスに似ているぜ」
「よく言われるよッ! ははッ!」
冷や汗をダラダラに掻きながら陽気に言い放つと、承太郎は「ふうん」と微かに唸り、それからすぐに興味を失くしたように背を向けて、バックルームへと姿を消した。
(肝が冷えた……)
ラップでも披露してくれなんて言われていたら、今度は自分が万引き犯よろしく店から逃走するところだった。
*
そんなこんなで偵察を終えた花京院がホリィに報告を入れると、彼女はホッとした様子だった。が、それから数日後、予期せぬ出来事が起こった。
(この貴重な夏休みに、ぼくは一体なにをしているんだろうか)
花京院は町はずれのとあるファミレスにいた。『ジョナソン』という名の、これまたどこにでもあるファミレスチェーン店だ。昼時をわずかに過ぎたこの時間帯、それでも夏休みということもあり、若者や家族連れ、ママ友さんなどなどが食事をしながらお喋りに夢中になっている。
花京院はちょうど店の角、窓際の席に一人でついていた。来る前に寄ったコンビニでスポーツ新聞を購入し、それを開いて読んでいるふりをしながら、サングラスの下で店内を探る。もちろん、探しているのはあの195センチの大男の姿だった。
なぜこんな場所にこうしているのかというと、このファミレスが承太郎の新たなバイト先だからだ。あの密偵から数日後、承太郎がOWSONをクビになったという情報が、ホリィからもたらされたのである。
クビになってしまった原因は、承太郎があまりにも有名であるがゆえの、不幸な結果だった。その悪評や伝説は、隣町の高校まで当然のように響き渡っていた。結果、不良のお兄さんたちがケンカをふっかけに、徒党をくんでコンビニに押し寄せたというのだ。もちろん承太郎は売られたケンカを買った。コンビニの駐車場に死屍累々と山をなす不良たちの姿が目に浮かぶ。当然、クビにもなるだろう。
そこで承太郎が新たに選んだのが、地元の町はずれにあるこのファミレスだった。花京院は思う。君という男は、なぜ頑なに接客業を選ぶのだ、と……。
もちろん、今回も花京院が様子を見てくることになった。前回と同じ変装というわけにはいかず、今日は探偵ルックである。いかにもな鹿撃ち帽に、ケープのついたインバネスコート。一応、中身も父の洋服ダンスから拝借したベージュのスーツを着て、靴も革靴を選んだ。さらに大きなモサモサとした口ひげを、鼻の下にぺたりとくっつけて口元を隠している。パイプを調達している時間はなかったため、割愛した。それにしてもこの夏場、スーツにコートはかなりキツい。しかもついた矢先に勢いで注文してしまったのがホットコーヒーだったため、全く口をつける気にならなかった。
(そんなことより承太郎はどこだ? まさか厨房なんてことはないだろうな……いや、ありえるか)
なんとなく前回と同じようなノリでここまで来たが、承太郎が厨房で仕事をしていれば、流石に直接覗くのは難しい。見た感じ接客をしているのは女性ばかりのようだし、今回は失敗に終わるかもしれない。と、それならそれでもういいか、と思いかけた花京院の目に、ギャルソン風の制服を着た承太郎が目に飛び込んできた。白いシャツに黒のベストとパンツ、そして丈の長いギャルソンエプロン。今回は制服がパツパツということもなく、ジャストフィットしている。
(か、かっこいい……)
通路を颯爽と歩いてやって来る承太郎に、花京院は思わず頬を赤らめた。ギャルソン姿の承太郎は、恐ろしく様になっている。絶世の美男子であることは知っていたつもりだが、あまりにも近くにいすぎて、慣れたつもりにでもなっていたのだろうか。僅かに光沢のあるベストの胸元が、美しく隆起した胸筋を際立たせ、エプロンを装備したなだらかな腰のラインも、完璧なバランスを描いている。堪らない。思わず喉が鳴ってしまう。正直いますぐ抱かれたい。
承太郎は注文を取るため、ちょうど花京院の前の座席のテーブルで立ち止まった。壁に背を向ける形で座っているため、この位置だと仕事ぶりがよく見える。メニューを眺めるふりをして、様子を観察することにした。
その席には、4人のママ友グループと思しき女性たちがついていた。彼女たちはやってきた超絶イケメン店員を見上げ、口をぽかんと開けている。花京院は誇らしい気持ちになった。瞬時にして女性たちの瞳が潤み、表情がとろんと蕩けたようになっていく。しかし彼の魅力は外見だけではない。その声も聞く者の鼓膜を揺さぶる低音の持ち主なのだ。さあ行け承太郎、その女泣かせの美声で、女子の鼓膜破ったれ……と、花京院が付けヒゲの下でにやりと笑ったそのとき、承太郎は4人を見下ろし、第一声をあげた。
「いらっしゃいましぇ」
「!?」
(ええッ!?)
花京院を含め、全員が耳を疑った。
(か……噛んだ……?)
気のせいだと思いたい。が、女性陣がざわついている。噛んだ。承太郎が噛んだ。しかし彼は何事もなかったかのように、さらに続けた。
「ご注文はお決まりでしょうか」
(よしクリアッ!!)
今度は大丈夫だった。心底ホッとしていると、女性たちがメニューを述べる。承太郎は腰に下げていたハンディターミナルに、それを打ち込む。
「え、えっと、このふわふわフレンチトーストのミックスベリーをふたつと」
「ふわふわフレンチュ……フレンチトーストのみっくちゅ…ベリーをおふたつと」
「自家製プリンとチーズケーキのスペシャルサンデーがひとつ」
「自家しぇえプリンとチーズケーキのしゅぺしゃ……シャ、サンデーがおひとつ」
「あと、桃のソルベをひとつください」
「桃のソルベがおひとつでございますね」
(カミカミだァーー!! 最後の桃のソルベ以外全部噛んだーーッ!!)
思わず新聞紙を握りしめてしまう。こんなに滑舌の悪い男だったろうか。ハラハラした思いのまま承太郎を見ると、流石の鉄仮面も恥ずかしかったのか、無表情ながらに耳が赤い。
(く、くそッ! それはいくらなんでも可愛すぎるんじゃあないか!?)
愛しさと切なさとやるせなさで、いっそ今すぐ連れて帰りたい気分だ。もうバイトなんかしなくていいから、欲しいものがあるならぼくが買ってあげるから、と言ってやりたい。が、そんなことを言えば、きっと承太郎のプライドが粉々になってしまうから、ひとまず涙をのんで我慢することにした。
彼はあれでいて、実はちょっぴり緊張していたのかもしれない。ファミレスで注文を受けるなんて初めての経験なのだし、悪いのはスイーツだ。やたらめったら名前の長いスィーツが悪なのだ。承太郎は悪くない……。
女性たちは他にも紅茶やコーヒーを頼み、承太郎はどうにか噛まずに注文を取り終えた。
ひとまず無事に(?)去っていく後姿にホッとしながら新聞を畳むと、側に置いてあったコーヒーカップを取り、ひとくち飲む。この数分で、喉がカラカラに乾いてしまった。
「ねえ、さっきの店員さん、素敵な方だったわね」
すると、例のママ友集団が心無しか上擦ったような高いトーンで話す声が耳に飛び込んでくる。
「ほんと、長身で筋肉質で、ねえ唇見た? 少しぽってりしていてセクシーだったわ!」
だいぶ取り乱したものの、その会話を聞いて花京院はまた上機嫌になる。
(ええ、そうなんですよ奥さん。彼はどこもかしこもセクシーなのです)
「あんな男前を見ちゃったら、もう家に帰って旦那の顔なんか見れないわよ!」
(そうでしょうとも、そうでしょうとも)
「メニューもカミカミで可愛かったわよね。母性くすぐられちゃった」
(わかります……あれはぼくもヤバかった……)
「あーあ、あたしが独身だったら、思いっきりオシャレしてアピールしちゃうのにな~」
「人妻だって需要あるわよ? ほら、昼顔ってやつ?」
「やだぁ~もう~! よしてよ~!」
(よよよ、よしてくださいあれはぼくの彼氏ですッ!!)
というより、昼間から不倫を匂わせる会話をこうも堂々とするなんて。なんというゲスの極みトークだろうか。女性との結婚を夢見ていたのがもう随分と昔のように感じるが、憧れは未だ捨てきれない、ガラスの十代のハートがちょっぴり傷つく。
(それにしても、今回は何事もなく終わりそうでなによりだ。このぶんだと、そろそろ退散してもよさそうかな)
噛みっぷりには少々の不安はあるものの、承太郎ならすぐに慣れるだろう。今回もいい報告ができそうだ。結局ひとくちだけ飲んだコーヒーをそのままに、伝票を持って立ちあがろうとしたそのとき、さきほど注文を受けた品々をカートに乗せた承太郎がやってきた。
どうせなら最後まで見届けよう。浮かしかけた腰を再びおろし、スイーツや飲み物を慎重にテーブルに乗せていく光景を、再び開いた新聞紙越しに見つめる。全て事なきを得ると、承太郎は「ごゆっくりどうぞ」と言い、その場を去りかけた。が、すぐに何かに気がついたような顔をこちらに向けた。
(!?)
思わず肩が跳ねる。どういうわけか、承太郎が思いっきりこちらを見つめているではないか。なにかおかしな点でもあるのだろうか。咄嗟に新聞紙を確認するが、逆さまに見ているなんて失態は犯していない。ならばどうして見られているのだろう……。
承太郎がこちらのテーブルへと歩み寄ってくる。花京院はカラカラになって張りついたようになっている喉を、強引に鳴らした。
「お客さん、あんた……」
「は、はいッ!?」
新聞紙から顔をあげ、肩を跳ねさせる。声のバリエーションはミッ●ー以外にない。が、素の声を出すわけにもいかなかった。しかし承太郎は特に気にする様子もなく続けた。
「その格好……ひょっとして探偵か?」
「は、え、ええ。そうでしゅお」
噛んだ。今度はこちらが噛んでしまった。だが恥ずかしがっているほどの余裕はない。
「そうか、やっぱりな。その格好、もしやと思ったが」
承太郎は心なしか嬉しそうに表情を和らげた。警察官やサッカー選手など、憧れの職につく人間を前にしたときの、少年のような瞳をしている。
「本物は初めてお目にかかったぜ。あんた、刑事コロンボは知ってるかい」
「いや、あ、はい」
「声高えなあんた。まあいい。子供の頃から大ファンでよ。中には探偵が犯人なんて回もあるんだぜ。ありゃあ傑作だ。まあ、あんたのようなベタな格好はしちゃいないがね」
(し、しまった……まさかこの探偵ルックが裏目に出るとは……ッ)
へえ、そうなんだ、などと震え声(高音)で返しつつ、冷や汗が背筋を伝う。やけに饒舌な様子から、まさか勘づかれているのではと思うと、生きた心地がしなかった。
「そんなわけで、本物の探偵さんよ。握手してもらっても?」
「あ、握手ですか、はあ、わたしでよければ」
「ありがとうよ」
なんだ、握手を求められただけか。悟られぬ程度にホッと息をつきながら、右手を差し出して握手を交わした。掌がだいぶ汗ばんでしまっていたのが気になったが、どうせ正体はバレていないのだからと、気にしないことにする。
「探偵さん、あんたひょっとして仕事中かい?」
「え!? あ、ああ、そうなんだ。このあとちょっとね」
「刑事ばりに張り込みなんかもするんだろ。ちょっと待ちな、確か尻ポッケに……」
「尻ポッケ!? ポッケ!?」
「なんだ?」
「いいいや、なん、なんでもないさ」
(尻ポッケって!)
ポッケなんて言うの可愛すぎないか……と痙攣を起こしそうになっている花京院を他所に、承太郎は自分の尻のポケットをまさぐっている。そして目当てのものをズルリと引き抜くと、そっと差し出してきた。
「こ、これは……おせんべい、かな?」
なにやら透明なビニール袋に入った、円形で平べったい、茶色の物体。よく見ると、小豆色をしたペースト状のなにかがはみ出しているように見える。
「アンパンだぜ」
「アンパン!? アンパンを尻ポッケに入れてたのかい!? そのピタピタのズボンに!? そりゃあ潰れるだろうね!!」
「腹が減ったら適当に食うつもりでいたんだが、なかなかその暇がなくてよ。張り込みっつったらこれだろ。よかったらあんたが食ってくれ」
「そんな昔の刑事ドラマみたいな……ていうかよく入ったな尻ポッケに……」
ペースト状のはみ出しているなにかは、あんこだったというわけだ。悪意なき悪意の産物に、戸惑う以外の術がない。しかし承太郎は曇りなき眼でこちらを見ている。受け取るしか他にないことにちょっとした絶望感を味わいながら、それでもとりあえず「ありがとう」と礼を言って受け取った。
その後、アンパンは帰宅後に花京院が牛乳と一緒に美味しく食べた。
*
その日、花京院はとある駅前の大きな通りにいた。
(二度あることは三度あるとは、よく言ったものだ……)
昨夜、ホリィから電話がきた。承太郎がファミレスを辞め、またしてもバイト先が変わった、と……。
その理由について承太郎自身は多くを語ろうとしなかったようだが、ホリィの調べによると、今度も承太郎ならではの理由があった。ファミレス『ジョナソン』に、スーパーイケメン店員がいるという噂は、周辺の女性たちの間で瞬く間に広がった。結果、承太郎効果で女性たちはみな連日のように押しかけ、長蛇の列ができたという。
それだけなら十分貢献していると思いがちだが、そうはいかないのが承太郎クオリティだ。なんと、彼を狙う女性たちの間で口論が起こり、最終的には取っ組み合いのケンカに発展してしまったというのだ。キャットファイトというやつである。しかも一度ならず二度までも。
結果、べそをかいた店長に頭を下げられ、やむなくバイトを辞めることになってしまった。
流石と言うべきか、気の毒というべきか。ダブりとはいえ、花の高校生がバイトのひとつもできないなんて、あまりにも憐れな話だと思った。
しかし承太郎はめげなかった。彼が次に選んだバイト先。それは駅前通りのブティックだった。なぜまたしても接客業なのか。しかもブティックなのか。婦人服や装飾品を扱っているがゆえに、今回ばかりは変装して店に直接入り込むことが不可能な領域である。
仕方なく、花京院はこうしてごく普通のシャツとパンツ姿で、双眼鏡を手に道路を挟んだ向かい側に潜んでいるというわけだ。身を隠せるものといえば道路脇にずらりと並ぶ植木くらいのもので、しゃがみこんで向かいを双眼鏡で覗くという奇行が、嫌でも通行人の目にとまってしまう。
(さっさと済ませないと、職務質問されかねないぞ)
行き交う人々の視線を嫌というほど浴びながら、花京院は向かいのブティックを観察する。すると店の正面に、黒いスーツ姿の承太郎が佇んでいるではないか。
(客引き? いや、それにしても動かないな……本当に、ただ突っ立っているだけじゃあないか)
いったい彼は何をしているのだろうか。その表情はどこか不満そうでもある。しかし流石は承太郎。通行人のほとんどが彼を見やり、ハッと息を飲んでいる。なにより女性はすべからく彼に見惚れ、蕩けた表情でフラフラと店に入っていくのだ。
(か……看板にされている……?)
花京院はひとつの仮説を立ててみた。あの店はいかにも高級ブティックだ。おそらく接客も一流でなくてはならないはず。舌打ちをしたり、無表情でカミカミな接客をする人間が、まともに使われるはずがない。しかも、こういった店の店員は自ら客と接触し、あれこれと商品を勧めなくてはならない。人当たりのよさと、それなりの話術がなければ立ち回れない仕事のはずだ。
承太郎にはかなり難易度が高いと思われる。店長は頭を抱えたことだろう。そして最終的に、こう言ったに違いない。
『空条くん、あなたは店の外に立っているだけでいい』
と――。
戦略は大成功を収めている。接客を任せることはできないが、絶世の美男子を易々とクビにすることもできなかった、というわけだ。あるいは最初から看板にするつもりで雇ったという可能性も十分に考えられる。
口をへの字に曲げる承太郎の顔には「思っていたのと違う」という文字が描かれているように見えた。ただ時間いっぱい突っ立っているだけなんて、そりゃあ退屈でしかないだろう。しかし次から次へと女性客が店に吸い寄せられては、店の中に黒い人だかりを作り上げていた。承太郎は「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」のみを口にするマシーンと化している。
花京院はどことなくホッとしていた。これならきっとなんの問題も起こらない。ここらの不良は承太郎に敵わないことを熟知しているため、下手に手を出してもこないだろう。気がかりがあるとすれば、またもや女性たちがキャットファイトを繰り広げないかどうかだけだが……。
(どんな仕事も、お金を稼ぐというのは大変なことだな、承太郎)
彼がなにを思ってバイトなんて真似をしているのかは未だ謎だが、どうしても欲しいもの、とやらが無事に手に入るよう祈りながら、花京院はその場を後にするのだった。
*
夏休みもそろそろ終わりにさしかかってきた。
その日、花京院は承太郎から誘いを受けて、以前ホリィと話をした喫茶店で待ち合わせをした。
「ずいぶんと久しぶりになっちまったな」
店の奥まった席で、向かい合うように腰かけた承太郎が言った。
「そうだな。こうして会うのは、夏休みの初めに海へ行った以来、かな」
「悪いな、ちょっと野暮用が続いてよ」
「気にしないでくれ。ぼくも田舎の祖父母の家へ行ったりして、不在がちだったんだ」
嘘はついていない。承太郎のバイト偵察が一通り終わったあと、しばらくは東北にある父方の祖父母の実家へ里帰りしていたのだ。
久しぶりに会う承太郎は、ずいぶんと日に焼けて精悍さに磨きをかけていた。元々健康的な肌色をしていたが、見慣れたいつものシャツから伸びる筋肉質な両腕がさらに逞しくなったように見える。少しのあいだ離れていたせいだろうか。いやにドキドキとして、自然と頬に熱が集まった。
承太郎はアイスコーヒーを、花京院は今回もチェリーのソーダを、互いにひとくち飲んで、息をつく。ほどよく冷房の利いた店内には、今日も品のいいジャズが微かに流れていた。
「ところで花京院」
まったりとした空気のなか、承太郎がどこか緊張したような真剣な面持ちで口を開いた。
「なにかな」
「今日はてめーに渡したいものがある」
「え?」
きょとんとして首を傾げていると、どこに隠し持っていたのか、承太郎が長方形の箱を取りだし、テーブルに置いた。それをずいっと滑らせるようにして目の前に突きつけてくる。
「これは?」
薄桃色の和紙で包装された箱と、承太郎の顔を交互に見て目を丸くしていると、彼は無言であごをしゃくる。開けろ、ということだ。花京院は素直に従い、箱を手に取ると和紙を傷つけないよう、慎重に包装を解いていく。中からは、金色で店名と思しき文字が書かれた木箱が姿を現した。
「開けても?」
「いいぜ」
一度だけ承太郎を見やり、改めて了承を得てから木箱を開けた。真っ先に目に飛び込んできたのは、金の丸い枠に縁どられた、桜の花々だった。
「これは……七宝焼きというやつかい?」
掌にちょうど収まるくらいのそれには、ゴールドのチェーンがついている。深みのある赤地に繊細なグラデーションの桜の花が、満開に咲き誇っていた。
「そいつが蓋になってる。開けてみな」
言われるがまま、チェーンを摘まむようにして持ちあげ、掌に乗せる。七宝焼きの部分は彼が言うように蓋になっていて、そっと開くと中は時計の文字盤になっていた。
「懐中時計か」
光沢のある白い文字盤で、秒針が規則的に踊っている。さりげなくあしらわれたピンクゴールドのルビーが、まるで桜の花弁を表現しているようで、美しかった。
花京院は驚きに目を見開き、承太郎の顔を見やる。彼はどこか照れたように目線だけを逸らし、小さな咳払いをした。
「たまたま通りがかった店で見かけてよ。桜はちと季節外れだが……なんとなくてめーを思いだしちまった」
「これ、ぼくに?」
問うと、彼は「誕生日だろ」と言って微かに笑った。
「嬉しいな。覚えていてくれたのか」
「当たり前のことを言うもんじゃあないぜ」
「しかし……」
掌の懐中時計は、大きさ以上にずっしりとした重みがある。物の価値が分かるわけではないが、そうとう値が張るものであることは容易に想像できた。
「こんな高価なものをもらってしまって、いいのだろうか」
花京院が承太郎へ誕生日プレゼントの代わりに渡したものといえば、本屋で購入した付録付きの『海の生きもの大図鑑』である。これと比べれば、ずいぶんと幼稚なものを渡してしまったことに気がついて、なんだか恥ずかしい気持ちになってしまった。
しかし承太郎はなんでもないことのように「大した額じゃあねえよ」と言う。
「てめーはそんなこと気にしなくていい。素直に受け取りな」
「承太郎……」
両手で包み込むようにして、懐中時計を胸に抱いた。じんわりと染み渡るように、胸いっぱいに熱いものが込み上げる。その思いがすっかり胸を満たして、溢れだしそうになるのと同時に、目頭がじんと痛んだ。
「ありがとう……」
「ばか、泣くやつがいるかよ」
「だ、だって、しょうがないだろ……そうか、君はこれを買うために、わざわざバイトなんて……あ」
しまった、と思い、つい目を泳がせる。せっかく今の今まで内緒にしておいたというのに、今の台詞で台無しではないか。今までと違う意味で心臓をドキドキとさせながら、恐る恐る承太郎を見ると、彼はエメラルドの瞳を真っ直ぐこちらに向けていた。
「あ、いや、えーと……今のはその、つまりだな」
「構わねえよ。つーかてめー、変装するならもっと上手くやりな」
「……バレてた」
承太郎は思わずといった様子で噴きだした。肩を揺らし、くつくつと笑っている。花京院は顔を耳まで真っ赤にしながら眉を吊り上げた。
「き、君な、気づいていたくせに泳がせる真似をするなんて、卑怯だぞッ!」
「それを言ったらおあいこだぜ」
「そ、それは……そうだけど……。し、しかし、よく気がついたな……そこそこ自信があったのに」
「やれやれ、みくびられたもんだ。おれがてめーの気配を察知できないとでも? つうかよ、あの探偵ルックは流石にツッコミ待ちかと思ったぜ」
「くッ……!」
まるでピエロである。高熱で頭がパンクしそうになりながら、木箱に懐中時計を戻した。そして少しでも気持ちを落ち着かせようと、サイダーを一気に飲み干した。
「はぁ……。悪かったよ、ストーカーのような真似をしてしまって」
「いや、どうせお袋だろ」
「……まあね」
承太郎もアイスコーヒーに口をつけ、それから思いだしたように「そういえば」と言った。
「工事現場のときは姿が見えなかったな……ああ、そういや里帰りしてたって言ったか」
「工事現場? なんのことだい?」
目を丸くしながら首を傾げると、今度は承太郎の方が「余計なことを言ってしまった」というような顔をした。
「え、まさか君、あれからまたバイト先を変えたのか?」
「……まあな」
「あの店でも何か問題があったのかい?」
「そういうわけじゃあねーけどよ」
詳しく訳を聞いてみると、店自体でなにか問題が起こったというよりは、承太郎自身の気持ちの問題だったということが分かった。ただ突っ立っているだけで金をもらう、という状況に、納得がいかなかったのだと、彼は吐き捨てるように言った。
「だから辞めて、工事現場に?」
「ああ。なかなかやりがいがあったぜ。あの店じゃあ働いてるって実感がまったくなかったからな。あれじゃあただの金銭泥棒だぜ」
「変なところで真面目だな、君は……」
「てめーの力だけで稼いだ金が欲しかったのさ。人からの施しや、楽して得たもんじゃあおれの気が済まねえ」
「承太郎……」
承太郎はそっと右手を伸ばすと、木箱の上に添えられていた花京院の手の甲に、掌をかぶせた。
「あまりベラベラと喋ることじゃあねえのかもしれんが」
「……うん」
「あの旅で、DIOの野郎と戦ったとき……花京院、てめーはヤツの能力をじじいに伝えるため、時計塔をぶっ壊して時計を止めたな」
そこでいちど、承太郎は大きく息をついた。それが少しだけ震えている気がして、花京院はなにも言うことができなかった。
「今でもよく思うことがある。あのとき止まっていたのは、時計の針だけじゃあなかったかもしれねえ。おまえの時間まで、永遠に止まっちまっていたかもしれねえ、とよ」
「承太郎……」
「考えだすとよ、怖くなっちまう。今この瞬間、ここにてめーはいなかったかもしれねえ。けどな、考えれば考えるほど、今のこの瞬間が愛おしいと感じる。おまえが生きて、ここにいるこの時間が」
ただ重なり合うだけだった手を、知らず知らずのうちに握り合っていた。指と指とを絡め、祈るような形に。花京院はその翡翠の瞳から決して目を逸らさなかった。承太郎もまた、慈しむように目を細めた。
「花京院典明。この先ずっと、互いに歳食ってじじいになって死ぬまで。おれの隣で、おれだけのために時を刻んじゃくれねえか。この空条承太郎の傍で、一緒に生きちゃあくれねえか」
「ッ……!」
息を飲む花京院に、承太郎はふっと笑って「勝手かな」と言った。そのささやかな照れ隠しにすら愛しさを覚えて、花京院は握り合う指先に力を込める。胸がいっぱいで、うまく言葉が出そうになかった。だから、涙がいっぱいに浮かんだ目を細めながら笑って、こくりと頷いた。
「ありがとうよ」
「ぼく、も。ありがとう、承太郎。これ、大事にするよ。一生、君の隣でね」
失っていたかもしれないのは、花京院だって同じだ。時を止めた世界で、彼は孤高に戦った。今この瞬間、この場所に承太郎はいなかったかもしれない。決して考えなかったわけじゃなかった。ただ、考えるのが怖かった。遺されることも、遺して逝くことも。今こうして生きているからこそ、怖かった。
承太郎は、まるで遺される孤独を知っているかのように、その恐怖と向き合っていた。当たり前のように息をして、食事をして、眠って、学校へ行って、そして愛し合って。こうして生きられる今は、決して当たり前のことなんかじゃあないのだ。だから彼はあえて目に見える形として、花京院にこの懐中時計を贈ったのかもしれない。
「ああ、どうして君はこんな場所にぼくを呼びつけたんだい。ここじゃあ、君を抱きしめて、キスをするができないじゃあないか」
夏休み中の喫茶店には、多くの人が休息と涼を求めてテーブルについている。奥まった場所にいるふたりは、植木によってある程度は隠されているけれど、例えばいま思い切って互いに顔を寄せ合い、小さなキスくらいならできたとしても、それだけで済みそうもないことを知っている。
今夜はきっと離せないと思った。最初からそのつもり来ていたし、承太郎だってそうに違いない。だから花京院は彼が次に発する言葉を待った。どんなものでもいい。今はまだ、理由がなければ大胆に誘うことができない、ひとつ年下の恋人に。彼ならきっと。
「浴衣着て、縁側で夕涼みなんてどうだ。スイカ冷やしてよ」
そう言ってくれると思っていたから。
「いいな。風情があって、素敵だと思うよ」
花京院は桃色の頬で、蕩けた砂糖菓子のように、甘ったるい笑みを浮かべた。
←戻る ・ Wavebox👏