2025/08/03 Sun 「おかえりご主人様ー」 珍しくバイトが入っていない日。 日付が変わるよりだいぶ早く帰宅した黒鋼を、のんびりとした間抜けな声が出迎えた。 「その言い方はよせ。気色悪ぃ」 「ひどーい。愛するご主人様のために、ご飯作って待ってたのにー」 何が愛する、だ。小さな玄関と隣接するキッチンスペースで、お玉を持った黒ジャージ姿のファイが、指先で濡れてもいない目元を拭う動作を見せる。 サイズが合っていないため、足元はズルズルに引きずっているし、腕まくりをした袖は肩位置の線が思い切り下にズレている。 そんなわざとらしいリアクションにノーリアクションで応じた黒鋼は、靴を脱ぎながらすんと鼻を鳴らした。 「鍋か?」 「そ。そろそろ帰ってくるだろうと思って、温めなおしてた。一度冷ました方が、味が染みて美味しいもんねー」 階段を上る時点ですでに美味そうな匂いがしていたが、ドアを開けた途端にそれは熱気と共に黒鋼の胃袋を刺激した。 季節は晩秋。冬を間近に鍋というチョイスは悪くない。 なんとなくふらりとコンロ台の前にいるファイの横に並び、火にかけられた蓮こん柄の土鍋の蓋を覗き込んでみる。そしてふと首を傾げた。 「こんな土鍋なんか、うちにあったか?」 聞けば、ファイは手にすっかりはめ込むタイプの鍋掴みを装備して、蓋を開けながら「ないよー」と悠長に答える。 湯気と共によく煮込まれた味噌の香りが立ち込めた。 「んー、美味しそー! えとね、隣のおじさんに貸してもらったんだー。余ってるからって大根も一本くれたよー」 「……隣っておまえ」 ここはとにかくその安さだけが取り柄のような、防犯はセルフと言わんばかりのオンボロアパートだ。 明らかに借金の取り立てから逃れるべく潜伏しているような輩や、逆に取り立てる側の空気を纏う人間もいる。 近所付き合いは皆無に等しいものの、自分の記憶が確かなら、隣は取り立てる側の、いかにもな風貌の中年親父だった気がする。 「たまにお醤油とかも借りるよー。胸毛と刺青が渋くて、優しいオジサンだよね」 「……おまえ、まさかと思うが」 「へ?」 「…………」 横目でじっとりと睨み付ける黒鋼を、ファイは首を傾げながら見上げてきた。 きょとんとした表情だったが、すぐに合点がいったようで「あぁ」と短い声を漏らしながら苦笑する。 「 “売って”ないってよ。ただの純粋な、ご近所付、き、合、い」 猫のように目を細め、緩く口角を持ち上げる笑い方が相変わらず胡散臭いことこの上なかった。 * このどこか得体の知れない男を一匹飼う羽目になってから、もうじき一ヶ月。 彼はこうして毎晩食事を作って、黒鋼の帰りを待っている。 もちろん朝食も作り、昼の弁当もしっかり作って寄越すという徹底ぶりで、しかもファイの料理は、まるで最初から知っていたかのように黒鋼好みの味付けだった。 別に一人暮らしの食生活に不便を感じていたわけではないのだが、なんだかんだで不規則になりがちだったのは否定できない。こうして手をかけて作られる食事の温かさは、味わってしまうとなかなか離れがたいものがある。 ファイは少々いい加減でズボラなところはあるものの、面倒な掃除や洗濯といった家事もそれなりにこなす。 手先が器用で、特に料理に関してこだわりを見せるだけあり、油汚れを放置したまま色褪せていたキッチンがピカピカに磨かれていたのを見たときは、思わず感動してしまった。 そんなこんなで、ついつい出て行けというタイミングを逃し続けている。 見事に甘い汁だけを吸わされ、飼いならされているのはこちらのような気がしないでもない。が、ファイがいて困るようなことが、ほぼ無いに等しいのだから、ついつい現状に甘んじてしまうのだった。 そして甘い汁といえば。 「ねぇ、してあげよっか」 美味い飯で腹を満たし、鍋がすっかり空になった頃。 そろそろ風呂にするかと考えつつ胡坐をかいて寛いでいた黒鋼の膝に、白い手が這うように触れてきた。 すり寄ってくる薄い肩に、一応は顔を顰めて見せる。 「ゆうべもしただろ。俺は今から風呂だ」 「いいじゃない。どうせ汚れるんだから、お風呂なんて後でいいよ」 「おまえな……」 呆れた溜息も、ファイをくすぐる材料にしかならないようだ。 彼は小さく肩を揺らしながら笑って、金色の前髪を片耳にかけながら身を屈める。節の目立たない華奢な指先で黒鋼の前を寛げると、慣れた手つきで下着の中から萎れた性器を引きずり出してしまう。 「もうこれなしじゃいられない身体になってるんでしょ?」 長い両足を折り重ねるようにして床に身を伏せたファイが、手にしたそれに口づけながら上目使いを寄越す。 最初のうちこそ突っぱねるばかりだった黒鋼も、ほぼ毎晩に渡り巧みな性技を味わわされた結果、今や黙り込むより他になかった。 例え口が裂けても言わないが、身体にしろ技術にしろ、これで稼いでいるだけのことはある。この男の言う通り、おそらくもう他では満足できないだろう。 音を立てながら降り注ぐ口づけと、時折向けられる物欲しげな濡れた瞳と。滑らかな手の中で情けないほど簡単に自身が育っていくのを、ただ黙って見ているしかなかった。 「ッ!」 乱れた息を必死でかみ殺し、柔らかな金糸に覆われた頭部を緩く掴む。 ファイの顔がすっかり身体の中心に埋まる頃になると、黒鋼の性器は熱い口内で膨らみきっていた。 唇で食むように飲み込みながら、こちらの呼吸に合わせて手を動かし、舌の裏側を擦り付けるようにして絡めてきたかと思えば、緩く歯を立ててよこす。 毎度のことだが、これはある種の我慢大会だ。 気を抜いたが最後、あっという間に搾り取られる。そのあとの満足げな笑顔を思い浮かべるだけで悔しさが募り、闘争心の炎に油が注がれていく。 最初から勝敗は見えているというのに。 現に黒鋼は、肉体だけならすでに白旗をあげかけている。どれほど気持ちで意地を張ったとしても、相手はプロで、こちらはただの素人だ。 心の中で「ちくしょう」と幾度も呟き、手の中の金糸をぐっと握りこむ。 閉じた瞼の裏側に、赤い波が押し寄せる。 だがそこで、ファイは鼻から楽しげな息を漏らして性器から口を離してしまった。 「ッ、……!」 あと少しというところで口淫が止み、黒鋼は強張りながら目を開けた。 「ねぇ、イキたい?」 「……なんだよ」 「イキたかったら、聞かせてほしいな。イかせてって言ってごらんよ」 ファイは床に右肘を立て、手の平に顎を載せながら左手の人差し指で先走りの滲む鈴口をくるりと撫でる。 ぐっと喉を詰まらせながら目を細め、眉間の皺を深くする黒鋼に、意地の悪そうな笑みを向けてきた。赤く色づいた唇が濡れて、てらてらと光り輝いている。 「可愛くおねだりしてみてよ。じゃなきゃもう、今日はしてあげない」 (仕掛けてきたのはどっちだこの野郎……) 正直な話、今にも再びこの生意気な口の中に捻じ込んで、喉の奥まで突き上げたい。 小さな顔の両頬を掴んで、泣こうが吐こうがお構いなしに。何度も何度も奥まで犯して、そして限界まで押し込んだところで、思い切り欲望をぶちまけてやりたかった。 この一ヶ月近く、何度も身体を交わらせたにも関わらず、一度も主導権を握れた試しがない。ねじ伏せることなど簡単なはずなのに、どういうわけかファイのペースに流されるばかりで、それが出来ない。 これを生業にしている相手へ対しての遠慮だろうか。翻弄されるだけのセックスに性欲だけが満たされる反面、支配したいという欲求が爆発的に膨らむ一方だった。 それすらも見透かしたように細められた青い瞳には、余裕の色しか見当たらない。優位に立つことに慣れきったその表情が、ただ憎らしい。 指先が、浮き上がった血管をつう、と撫でる。 「ッ、調子に乗りやがって……」 「可愛いなぁ。悔しがってる黒たんの顔、オレだぁい好き」 「そのふざけた呼び方もやめろ!」 「ふふ。ねぇ、言わないならいっそこれ縛っちゃおうか? 絶対にイケないようにして、いっぱい酷いことしてあげる」 冗談じゃない。性器だけでなく、苛立ちもまたギリギリまで張りつめていた。 拳を握りしめた瞬間、図ったかのように先端に口付けられて、奥歯を噛みしめる。欲求が、あっけないほど簡単に怒りを凌ぐ。いつだってこの繰り返し。 もうなんだっていい。今は高ぶらされたままチクチクと弄ばれるこの地獄を、どうにかしたい。 「いいから、とっとと終わらせろ」 黒鋼ができる、精一杯の懇願。 それでも満足したらしいファイは「しょうがないねぇ」と言って笑った。 * 「おまえ、結局これからどうするつもりだ?」 狭いベッドに一糸纏わぬ長身の男が二人。 後頭部で両手を組み、仰向けに寝そべる黒鋼の隣で、身体を起こしたファイはのんきに欠伸をする。 「ふぁー? なにがー?」 「何がじゃねぇよ」 そう言いながら、ちょうどいい位置で視界に収まる白い背中を眺める。 しなやかな背骨のラインと、肩甲骨のくぼみに落ちる影。それをなぞってみたくて、手を伸ばしかけて結局やめる。目を逸らし、鼻から小さく息を漏らした。 「いつまでいる気かって聞いてる」 「んー?」 ファイは振り向きがてらころりと横になり、黒鋼の胸に両手と顎を乗せた。 「なになにー? もしかして出てけって言ってるー?」 ぶぅ、と唇を尖らせる子供っぽい表情に「そうじゃねぇけど」と言葉を濁す。 ついさっきまで人の上に馬乗りになって淫らに腰を振っていたくせに、いちど性欲の波が引くと、まるで憑き物が落ちたように幼さを覗かせる。 結局あれから散々焦らされたあとにイかされて、その後乗り上げてきたファイの中で二度も出してしまった。 「こんなに尽くしてるのに、オレのこと邪険にするんだー」 「だから、そうじゃねぇって」 「じゃあなにー? オレとエッチするの飽きた……?」 「……別に。そうは言ってねぇだろ」 言いにくそうに答えれば、ファイは「だろうね」と言って余裕の笑みを浮かべる。 「せっかくオレなしじゃいられない身体に躾けてあげたんだから」 「躾けって何様のつもりだてめぇは……」 「オレ様ー」 本当に腹の立つ野郎だと思う。 決して否定しきれないから、なおのこと。 黒鋼がふつふつと腸を煮えくり返らせる中、ファイはそれでも何かしらは考えているようで「そうだなぁ」と呟いた。 「確かに、このままってわけにもいかないよねー……」 「一度も戻ってねぇだろ。自分の部屋に」 「だってー……」 ファイは再びぷうっと唇を尖らせた。 あの雨の夜にこの部屋に上がり込んでからというもの、ファイは黒鋼のジャージばかりを着用して生活している。 下着はかろうじてコンビニで適当なものを見繕ったようだが、彼は頑なに自分のマンションに帰ることを拒んでいるようだった。 ちなみにこの一ヶ月、彼が『仕事』に出かけた様子はない。余裕たっぷりな暮らしぶりを側で見ていると、相当貯めこんでいるらしいことは予想がつく。それだけこの男の身体は『高い』ということなのだろう。 「あんな鬼の棲家になんか帰れないよー……」 「鬼って……ただの虫だろ……」 最初こそ何かとてつもない事情があるのだろうかと思っていた黒鋼だが、雨の翌朝、この男が作った朝飯を食いながら聞いた理由は、実にくだらないものだった。 あの朝、彼は味噌汁の中の豆腐を箸でつつきながら、こう言った。 『台所にゴキブリが出て……一匹いると三十匹はいるっていうし……』 聞いたときは思わず鼻で笑ってしまった。 もちろんファイはその反応を見て頬を膨らませたが、大の男がゴキブリ一匹に泣きべそかいて、雨の中を飛び出したのかと思うと、やっぱり情けなくて笑えてしまう。 このアパートを雨宿りの場所に選んだのは、単なる偶然だったらしいが。 「業者にでも頼んでとっとと駆除してもらえ」 「そ、そうだけどー……」 「このままほっといて冬越えしようもんなら、来春はもうひと回りでかくなって出てくんぞ」 ファイはブルっと肩を震わせて、青い顔をしている。 人のことは散々コケにするくせに、たかが虫けらにこの有様とは。 なぜか何も言おうとしないのを見て「何か問題あんのか」と問えば、彼は目を逸らして「別にー」と答えた。 「狭くて汚くて見るからに貧しそうなボロアパートでも、住めば都っていうかー。ゴキブリがいないだけで天国っていうかー、具合のいいペットまでついてて、お得っていうかー?」 「何から何まで癪に障る言い方しやがる」 だいたい、と黒鋼は続けた。 「誰がペットだ。ここは俺んちだぞ。飼われてんのはてめぇの方だってこと忘れんな」 「すっかりオレに乗りこなされちゃってるくせにー?」 「殴るぞ。俺をてめぇの客と一緒にすんじゃねぇ」 「まぁね。黒たんは間違ってもお尻ぶたれて悦ぶタイプじゃないしねー。だから逆にイジメたくなるんだけど」 「…………」 こいつのサドっけ溢れる物言いや仕草を見れば、どんな客層かは容易に想像できる。 だが黒鋼には彼と対になる性癖がない。それこそ金を出してまでケツを叩かれる趣味もなければ、いい加減やりたい放題されるのだって限界だ。 どこかしらでひっくり返してやらなければ、この先もずっと支配者面され続けることになる。 そんなことは真っ平御免だ。いや、そもそも。 (……この先もずっと一緒にいる気かよ) 思わず額を押さえ、深々と溜息を洩らした。 すっかり餌付けされ、その居心地のよさに甘んじ、夜は夜で骨抜きにされて。 娼婦のような顔と無邪気な子供のような顔を使い分ける、この掴みどころのない男をどうにかして掴んでみたくて、気がつけば足掻いている。 散々人の上に乗って好き勝手した後、平然と『客』の話をするファイを目の当りにして、改めてこの男は『商品』なのだということを思い知ったような気がした。 ならば金と引き換えに身体で夢を与える彼にとって、自分もまたその他大勢と同じ存在ということになるのだろうか。宿を提供する代わりに、ちょっと他人より多くサービスをしてもらっているだけの。 だとしたら。 (……面白くねぇな) どうしてか、異様なまでに腹が立つ。 言葉では言い表せない何かが、黒鋼の中に黒く渦巻いている。ぎりぎりまで膨らんだ風船が、許容量を超えて破裂するみたいに。 「ねぇ誤解しないでよー。別に好きでオッサンのお尻ぶったり、足で思いっきり玉潰したわけじゃないんだよ。やってくれーって頭下げてくるから、仕方なくだよ。大事なお客さんだもの」 額を押さえたまま動かなくなってしまった黒鋼を、流石に少しは気にしたのか。 聞いているだけでこちらの股間がキュッと萎みそうな空恐ろしいことを言ってのける顔を、指の隙間から睨み付けた。 どうせ楽しんでやっていたに違いない。なんといっても『天職』なのだから。 「だからいいでしょ?」 「……何が」 「家のことやるしー、食費も出すしー、ちゃんと身体で支払いもするしー」 「そうだな」 だったら。 黒鋼は胸の上にぺたりと這わされていたファイの手を強く掴む。そのまま抱き込むようにして身体を反転させ、ベッドに縫い付けた。 突然のことに小さく息を飲んだファイは、真上から見下ろす黒鋼の顔を見て目をパチクリとさせた。 あの雨の夜から、ずっと思っていた。 楽しげに人の身体を弄繰り回し、何もかも思いのままにしようとする憎たらしい笑みを、この手で歪ませてみたい。細腰を掴み上げて、壊れるくらい揺さぶってみたいと、何度も。 「まだするの? 若いねぇ」 「悪いか?」 「別にいいけど、ちょっとこの態勢は嫌かなぁ」 「うるせぇよ」 両膝を掴み、大きく開かせる。ファイは思い切り嫌そうな顔をして身を捩り、そこから逃げ出そうとした。 「おとなしくしろ」 「やだってばー。オレ乗るのは好きだけど、乗られるのは嫌い」 「なんでもてめぇの思い通りになると思うなよ。俺は客じゃねぇ」 「ッ!?」 身体を捻っているファイの片足を抱え込み、体重をかけるようにして押さえつける。 ぱっくりと開いた股の中心に指を差し込むと、先刻まで黒鋼のものを飲み込んでいた穴に人差し指と中指を深く突き立てた。 「いたっ……! ぁ、急に……っ!」 「痛ぇ? もっと太いもん散々食らっといて嘘つくな」 「ちょ、やめ、かき回さないで!」 どうやら本気で嫌がっているらしい声と、絡みつく媚肉の熱さにゾクリとする。ここに自身が納まり、嬲られていたのかと思うと、無意識に喉が鳴った。 二度も出したせいか、逆流した精液が指を突き動かす度にとめどなく溢れる。 ファイはシーツを両手で握りしめ、掻き毟るようにしてもがいていた。抱えられた足の先をバタつかせ、髪を振り乱す。 ここまで嫌がるとは正直予想外ではあるのだが、彼が逃れようとすればするほど、黒鋼の中の溜まりに溜まった凶暴な欲求が満たされ、そしてさらに燃え上がる。 「も、いいってば! オレがするから、黒たんはマグロやってればいいの!」 「ざけんな。性に合わねぇんだよ。受け身ってのは」 「ね、ホントにやめよ? ね?」 「支払いはもう十分だ。余ってる釣りを返さねぇとな」 「――ッ!!」 これ以上の御託はいいとばかりに、黒鋼は指を引き抜いた瞬間、息継ぐ間もなく濡れた穴に自身を突き立てた。 ファイの拒絶の声を聞き、焦る表情を見ただけで、すっかり天を仰ぐほど復活しきっていたそれを、思い切り体重をかけて押し込める。 「イッ、ぅあ……!!」 自分のタイミングで受け入れられない熱の鋭さに、ファイは苦しげに歪めた顔を腕で隠した。唇が震えながら噛みしめられるのを見て、黒鋼は身を乗り出すとそこに短く口づける。 「ッ!」 ビクンと肩を揺らしたファイは、顔を隠すのも忘れて目を見開いた。 なんて間抜けな表情だろうか。これだけ何度も身体を重ねていれば、キスくらいしたって何もおかしくはないのに。 今の今まで、一度もしたことがなかったなんて。 「な、ん……ッ、あっ、――……!?」 濡れた唇が何かを発する前に。ファイの弱い場所を目がけて抉るように突き上げる。何度も何度も繰り返し、呼吸する間も与えないほどに。 黒鋼だってただ攻められるだけに甘んじていたわけではない。彼が自分の上でどう動き、どんな瞬間に甘い息を漏らしていたか、この身体を支配する瞬間に思いを馳せながら、嫌というほど目に焼き付けていた。 汗ばむ素肌が薄紅に染まり、シーツの上で大きくしなる。 「ひッ、ぃ、やめってッ、そこ、ばっか、あ、ア……!」 これ以上ないくらいにベッドが激しく軋む。 ファイの身体がガクガクと揺れて、赤く染まった目元に透明な雫が伝う。苦しげに顔を歪めて、彼は情けなく上擦った声を途切れさせながら「やめて」と何度も繰り返し泣いた。 そのくせ、中心でそそり勃つ性器が揺さぶるたびに美味そうな蜜を零す。意図したものでなく、無意識に締め付ける感触に思わず口元が悦楽に歪む。 組み敷いて穿つだけで、この男はこんなにも余裕をなくす。優位に立てないという状況は、彼にとってどれほどの屈辱なのかと。考えるだけで興奮する。 もっと乱れればいい。泣けばいい。他では満足できなくなるくらい、いっそ溺れ死んでしまえばいい。 「ずいぶん感じてんじゃねぇか。こうされる方が合ってんだろ?」 「あっ、あっ、や、ぁ……! ほん、と、だめ、だめ! もうやだぁ……ッ!」 「こいつがなきゃ生きられなくなってんのは、どっちだ?」 「ヒぁ……――ッ!?」 シーツを掻き毟る両腕を取り、ぐいと強く引き寄せる。 華奢な身体を抱き込んで、自分はベッドに腰を落ち着け胡坐をかいた。体重がさらに深い場所への挿入を助け、最奥への圧迫にファイの身体がギクリと強張った。 「ッ、ぁ、……ッ、ふ、か……すぎ、る、ぅ……」 僅かに見上げる光景は見慣れたものでも、明らかに景色が違って見えた。 ファイは酷く怯えた表情で、時折小さく歯の根を鳴らす。カタカタと震える指先が、縋るもの欲しさに黒鋼の肩に爪を立てていた。 「乗られんのは好かねぇんだろ? おら、望み通りにしてやったぜ。いつもみたいに腰振ってみろよ」 古いなりに頑丈なベッドのスプリングを生かし、がっちりと腰を固定した状態で下から強く突き上げる。ファイは「あ」という形に口を開いたまま、背を反らしてガクンと揺れた。 相当乱暴に扱っているはずなのに、口とは裏腹にファイの性器は萎えない。膨らみ切って先走りを滴らせ、解放を求めて脈打っている。 堪らない。念願が叶っていること以前に。しなる身体を思うさま揺さぶりながら、黒鋼は自身の中に眠っていた獰猛さが解放されるのを感じていた。 こんなものを飼っていたのか。ずっとセックスに対しては淡泊な性分だと思っていた。これといって特別な性癖もなければ、今まで誰と付き合っても、こんな自分にはお目にかかったことが無い。 今、黒鋼は苦痛と快楽がせめぎ合うファイの表情を見て、どうしようもなく高揚していた。 どうしてだろう。どうしてこの男なのだろう。こんな自分を引きずりだしたのが、他の誰でもなく、どうして。 もしかしたら、どこかでこれを恐れていたのかもしれない。 あの雨の夜に初めて男を知ったときから。きっと本能が悟っていた。 傷つけてでも支配したい欲求に、歯止めがきかなくなるであろう自分に。 「あっ、んぐ、ぅ……ッ、い、ィ、く! いく、からぁッ、も、やめ、て……!」 黒鋼の肩の肉を抉りながら、ファイは呻くように言葉を紡いだ。 強烈な熱が一周して、いっそ寒いくらいのゾクゾクとした感覚に鳥肌が立つ。口元を笑みの形に歪めたまま、黒鋼は射抜くように目を細める。 吐息のような声で「いけよ」と漏らせば、ファイは顔をくしゃくしゃにして泣きながら達した。びゅう、と凄まじい勢いで噴出した精液が飛び散る。 ファイは何度も大きく身体を跳ねさせ、小刻みに内腿を痙攣させた。壊れた玩具のように幾度かそれを繰り返したあと、弛緩する。 グッタリとして落ちてきた額が首筋に押し付けられた。 締め付けに息を詰めていた黒鋼は、その後頭部と背中に手を這わせて支えると、挿入したままベッドに押し倒した。 ひ、ひ、と浅い呼吸を繰り返すファイは、どこか呆然とした表情で濁った視線を彷徨わせ、なすがまま力なくシーツに沈んだ。 「飛んでんじゃねぇよ。まだ俺がイってねぇ」 「も、ぉ……ゆる、し……」 ふん、と黒鋼はそれを鼻で笑って一蹴する。 「一ヶ月分だ。気が済むまで付き合ってもらうぜ」 絶望を色濃く滲ませた瞳で、ファイは再び顔を歪める。 そのまま小さな子供のように泣き出す姿に、あの小憎らしい勝者の笑みは影を潜め、そこには売り物でもなんでもない、支配に屈する憐れな男の姿があるだけだった。 * 朝方近くになって、心地よい疲労感からどっぷりと眠りに落ちていた黒鋼は、頭部に強い衝撃を受けて飛び起きた。 「いってぇ!! なんだ!?」 慌てて周囲をキョロキョロと見渡して、薄ぼんやりとした青い闇の中、隣で拳を震わせるファイの存在に気付く。 「てめぇかこら。無抵抗な人間になにしやがる」 「なにしやがる、じゃないよ! この鬼畜! 絶倫ー!!」 「あ? なんだ、ヒステリーか」 「このーっ」 ご立腹のファイは再び拳を叩きつけてこようとした。軽く手の平で受け止めて、腕を捻る。 「いったー! 痛いってば鬼ー! 悪魔ー!!」 「るっせぇ野郎だ……」 「やだって言ったのに! こんな酷い目にあったの初めてだよ!!」 キャンキャンと金髪を逆立てて怒り狂う様子に、黒鋼はうんざりとした息を漏らしながら頭を掻いた。 ボロアパートの壁は薄い。こんな朝方近くに騒がれたのでは近所迷惑に……なんて考えて、今更かと思い直した。騒音ならほぼ一晩中立てていたし、この夜に限ったことでもないし。 下の階や隣から苦情がこないのは、どの住人もどっこいどっこいだからだ。 このアパートに基本女っ気はないが、連れ込む輩は当然いて、昼夜お構いなしにお盛んだったりする。 それでも正直、黒鋼はもう少しゆっくり寝ていたかった。 だから仕方なくこんな時、相手を黙らせるにはどうするべきかと考えて、すぐに行動に移す。 「いくら若いからって精力ありすぎなんだよ! ガッバガバになって使い物にならなくなったらどうしっ、ぃ!?」 掴んだままだった拳を引き寄せ、肩を抱くとうるさい唇を唇で塞いでしまう。 一瞬怯えたように肩をビクつかせたファイは、それで一気に勢いをなくした。 唇はほんの僅かな時間で離れたけれど、効果覿面だったようだ。ぐっと押し黙ってしまったファイは、きっと真っ赤な顔をしているに違いない。腕の中の体温が急激に上がるのを感じて、小さく鼻で笑う。 「緩くて使いもんにならなくなっても、俺専用なら問題ねぇだろ」 「……なに勝手に開き直ってるの」 あーぁ、とため息交じりの声を放って、ファイは諦めたように黒鋼に身を預けてきた。 「こんなことならとっとと自分の部屋に帰ってればよかったなー」 「おっかねぇゴキブリの棲家にか?」 「……もういないもん」 「あ?」 ファイの顔を覗き込む。けれど、薄闇の中で俯かれては、何も見えない。ただ、熱い頬が胸に押し付けられる。 「とっくに駆除してもらったよ。あの雨の夜の翌日に、業者に連絡して」 「……どういうこった?」 「……鈍いなぁ」 「いってぇ!!」 次の瞬間、右の乳首に凄まじい激痛を感じた。 思い切り捻るようにして引っ張られたらしい。容赦ない攻撃に、流石の黒鋼も少し涙ぐんだ。 「いてぇぞこら!! 俺はマゾじゃねぇからな!! そんなんで喜ぶと思うなよ!!」 「知ってるよ! 実はとんでもないドSだったんでしょ! 猫かぶってたんでしょ!」 「……てめぇはマゾッ気があったんだな」 「このっ」 「いって!! だからいてぇっつうに!!」 またしても、今度は逆側をつねられた。 どちらもジンジンと痺れて痛みが引かない。これは下手すると腫れてしまう可能性がある。なんて凶暴な飼い猫だろうか。 最後の方なんて、すっかり壊れて「もっともっと」と泣きながら腰を振っていたくせに。 盛りのついたメス猫のように毛を逆立たせるファイは、なおも乳首をつねろうとしてくる。これ以上やられてたまるかと、逆に仕掛けてみたりして。薄暗い中ではもうお互いにどこをつねっているのか分からない状態だった。 しばらくの間、二人でギャンギャンと吠えながらの攻防が続いた。そうしているうちに、安物のカーテンの向こう側がどんどん白んでくる。 隙間から漏れた光の中で、案の定黒鋼とファイは乳首を真っ赤に腫らして、その他にも赤い痕が点々と散らばっているのが分かった。 流石に疲れたのか、先にぷいっと顔を背けたのはファイだった。 「嫁ぎ先間違えちゃった!」 「この野良猫が。最初っから居つく気満々だったんじゃねぇか」 「……だってー……気に入っちゃったんだもん。これ」 散々黒鋼の乳首や皮膚をつねっていた指先が、今度は股間をツンとつついた。 なんだか複雑な気持ちになる。用があるのはそこだけかと。 だが、こちらだってもうやられっぱなしではない。黒鋼はニヤリと笑うと、攻防のあと僅かに距離が開いていた肩を抱き、胸に引き寄せると素直に腕の中に納まる身体を抱きしめる。 「好きになっちゃダメ、なんて言っといてよ」 「……そんなこと言ったかな」 「先に惚れたんだろ。そうならそうと素直に言え」 「……もっと消極的でおとなしい子だと思ってたんだけどね」 「アテが外れたな」 そんなことを言いながら、本当はどちらが先かなんて問題ではなかった。 あの雨の夜に全てが始まっていて、どうせ二人同時に落ちていたのだろうから。 「餌ぐれぇは好きにくれてやるよ」 狭くて汚くて、見るからに貧しそうなボロアパートでも、住めば都なのだろうし。 どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべて見せれば、ファイはぷうっと唇を膨らませる。それからすかさず「食べ方くらいは選ばせてよね」なんて、居候のくせに生意気なことを言った。 躾けのし甲斐がありそうだと思えば、どんどん楽しい気分になってくる。黒鋼はおとなしくなんかないし、やられたらやり返すし、これからは多分、やられる前にやる。 だから傍にいて、もっともっと後悔すればいい。 そして、そうと決まればまず初めに言っておかねばならないことがあったのを思い出した。 「おまえ」 「なぁに」 「仕事、足洗えよ」 もう少し余裕たっぷりに、命じるように言うつもりが、無意識に真顔になってしまった。ここぞとばかりに揚げ足を取ってくるかと思いきや、ファイは目を丸くしたあと、どこかくすぐったそうに笑って肩を竦めた。 「黒様専用なんだもんね。オレ」 「分かってんじゃねぇか」 双方の意見がまとまったところで、二人は朝日の中、啄むようなキスをした。 ←戻る ・ Wavebox👏
珍しくバイトが入っていない日。
日付が変わるよりだいぶ早く帰宅した黒鋼を、のんびりとした間抜けな声が出迎えた。
「その言い方はよせ。気色悪ぃ」
「ひどーい。愛するご主人様のために、ご飯作って待ってたのにー」
何が愛する、だ。小さな玄関と隣接するキッチンスペースで、お玉を持った黒ジャージ姿のファイが、指先で濡れてもいない目元を拭う動作を見せる。
サイズが合っていないため、足元はズルズルに引きずっているし、腕まくりをした袖は肩位置の線が思い切り下にズレている。
そんなわざとらしいリアクションにノーリアクションで応じた黒鋼は、靴を脱ぎながらすんと鼻を鳴らした。
「鍋か?」
「そ。そろそろ帰ってくるだろうと思って、温めなおしてた。一度冷ました方が、味が染みて美味しいもんねー」
階段を上る時点ですでに美味そうな匂いがしていたが、ドアを開けた途端にそれは熱気と共に黒鋼の胃袋を刺激した。
季節は晩秋。冬を間近に鍋というチョイスは悪くない。
なんとなくふらりとコンロ台の前にいるファイの横に並び、火にかけられた蓮こん柄の土鍋の蓋を覗き込んでみる。そしてふと首を傾げた。
「こんな土鍋なんか、うちにあったか?」
聞けば、ファイは手にすっかりはめ込むタイプの鍋掴みを装備して、蓋を開けながら「ないよー」と悠長に答える。
湯気と共によく煮込まれた味噌の香りが立ち込めた。
「んー、美味しそー! えとね、隣のおじさんに貸してもらったんだー。余ってるからって大根も一本くれたよー」
「……隣っておまえ」
ここはとにかくその安さだけが取り柄のような、防犯はセルフと言わんばかりのオンボロアパートだ。
明らかに借金の取り立てから逃れるべく潜伏しているような輩や、逆に取り立てる側の空気を纏う人間もいる。
近所付き合いは皆無に等しいものの、自分の記憶が確かなら、隣は取り立てる側の、いかにもな風貌の中年親父だった気がする。
「たまにお醤油とかも借りるよー。胸毛と刺青が渋くて、優しいオジサンだよね」
「……おまえ、まさかと思うが」
「へ?」
「…………」
横目でじっとりと睨み付ける黒鋼を、ファイは首を傾げながら見上げてきた。
きょとんとした表情だったが、すぐに合点がいったようで「あぁ」と短い声を漏らしながら苦笑する。
「 “売って”ないってよ。ただの純粋な、ご近所付、き、合、い」
猫のように目を細め、緩く口角を持ち上げる笑い方が相変わらず胡散臭いことこの上なかった。
*
このどこか得体の知れない男を一匹飼う羽目になってから、もうじき一ヶ月。
彼はこうして毎晩食事を作って、黒鋼の帰りを待っている。
もちろん朝食も作り、昼の弁当もしっかり作って寄越すという徹底ぶりで、しかもファイの料理は、まるで最初から知っていたかのように黒鋼好みの味付けだった。
別に一人暮らしの食生活に不便を感じていたわけではないのだが、なんだかんだで不規則になりがちだったのは否定できない。こうして手をかけて作られる食事の温かさは、味わってしまうとなかなか離れがたいものがある。
ファイは少々いい加減でズボラなところはあるものの、面倒な掃除や洗濯といった家事もそれなりにこなす。
手先が器用で、特に料理に関してこだわりを見せるだけあり、油汚れを放置したまま色褪せていたキッチンがピカピカに磨かれていたのを見たときは、思わず感動してしまった。
そんなこんなで、ついつい出て行けというタイミングを逃し続けている。
見事に甘い汁だけを吸わされ、飼いならされているのはこちらのような気がしないでもない。が、ファイがいて困るようなことが、ほぼ無いに等しいのだから、ついつい現状に甘んじてしまうのだった。
そして甘い汁といえば。
「ねぇ、してあげよっか」
美味い飯で腹を満たし、鍋がすっかり空になった頃。
そろそろ風呂にするかと考えつつ胡坐をかいて寛いでいた黒鋼の膝に、白い手が這うように触れてきた。
すり寄ってくる薄い肩に、一応は顔を顰めて見せる。
「ゆうべもしただろ。俺は今から風呂だ」
「いいじゃない。どうせ汚れるんだから、お風呂なんて後でいいよ」
「おまえな……」
呆れた溜息も、ファイをくすぐる材料にしかならないようだ。
彼は小さく肩を揺らしながら笑って、金色の前髪を片耳にかけながら身を屈める。節の目立たない華奢な指先で黒鋼の前を寛げると、慣れた手つきで下着の中から萎れた性器を引きずり出してしまう。
「もうこれなしじゃいられない身体になってるんでしょ?」
長い両足を折り重ねるようにして床に身を伏せたファイが、手にしたそれに口づけながら上目使いを寄越す。
最初のうちこそ突っぱねるばかりだった黒鋼も、ほぼ毎晩に渡り巧みな性技を味わわされた結果、今や黙り込むより他になかった。
例え口が裂けても言わないが、身体にしろ技術にしろ、これで稼いでいるだけのことはある。この男の言う通り、おそらくもう他では満足できないだろう。
音を立てながら降り注ぐ口づけと、時折向けられる物欲しげな濡れた瞳と。滑らかな手の中で情けないほど簡単に自身が育っていくのを、ただ黙って見ているしかなかった。
「ッ!」
乱れた息を必死でかみ殺し、柔らかな金糸に覆われた頭部を緩く掴む。
ファイの顔がすっかり身体の中心に埋まる頃になると、黒鋼の性器は熱い口内で膨らみきっていた。
唇で食むように飲み込みながら、こちらの呼吸に合わせて手を動かし、舌の裏側を擦り付けるようにして絡めてきたかと思えば、緩く歯を立ててよこす。
毎度のことだが、これはある種の我慢大会だ。
気を抜いたが最後、あっという間に搾り取られる。そのあとの満足げな笑顔を思い浮かべるだけで悔しさが募り、闘争心の炎に油が注がれていく。
最初から勝敗は見えているというのに。
現に黒鋼は、肉体だけならすでに白旗をあげかけている。どれほど気持ちで意地を張ったとしても、相手はプロで、こちらはただの素人だ。
心の中で「ちくしょう」と幾度も呟き、手の中の金糸をぐっと握りこむ。
閉じた瞼の裏側に、赤い波が押し寄せる。
だがそこで、ファイは鼻から楽しげな息を漏らして性器から口を離してしまった。
「ッ、……!」
あと少しというところで口淫が止み、黒鋼は強張りながら目を開けた。
「ねぇ、イキたい?」
「……なんだよ」
「イキたかったら、聞かせてほしいな。イかせてって言ってごらんよ」
ファイは床に右肘を立て、手の平に顎を載せながら左手の人差し指で先走りの滲む鈴口をくるりと撫でる。
ぐっと喉を詰まらせながら目を細め、眉間の皺を深くする黒鋼に、意地の悪そうな笑みを向けてきた。赤く色づいた唇が濡れて、てらてらと光り輝いている。
「可愛くおねだりしてみてよ。じゃなきゃもう、今日はしてあげない」
(仕掛けてきたのはどっちだこの野郎……)
正直な話、今にも再びこの生意気な口の中に捻じ込んで、喉の奥まで突き上げたい。
小さな顔の両頬を掴んで、泣こうが吐こうがお構いなしに。何度も何度も奥まで犯して、そして限界まで押し込んだところで、思い切り欲望をぶちまけてやりたかった。
この一ヶ月近く、何度も身体を交わらせたにも関わらず、一度も主導権を握れた試しがない。ねじ伏せることなど簡単なはずなのに、どういうわけかファイのペースに流されるばかりで、それが出来ない。
これを生業にしている相手へ対しての遠慮だろうか。翻弄されるだけのセックスに性欲だけが満たされる反面、支配したいという欲求が爆発的に膨らむ一方だった。
それすらも見透かしたように細められた青い瞳には、余裕の色しか見当たらない。優位に立つことに慣れきったその表情が、ただ憎らしい。
指先が、浮き上がった血管をつう、と撫でる。
「ッ、調子に乗りやがって……」
「可愛いなぁ。悔しがってる黒たんの顔、オレだぁい好き」
「そのふざけた呼び方もやめろ!」
「ふふ。ねぇ、言わないならいっそこれ縛っちゃおうか? 絶対にイケないようにして、いっぱい酷いことしてあげる」
冗談じゃない。性器だけでなく、苛立ちもまたギリギリまで張りつめていた。
拳を握りしめた瞬間、図ったかのように先端に口付けられて、奥歯を噛みしめる。欲求が、あっけないほど簡単に怒りを凌ぐ。いつだってこの繰り返し。
もうなんだっていい。今は高ぶらされたままチクチクと弄ばれるこの地獄を、どうにかしたい。
「いいから、とっとと終わらせろ」
黒鋼ができる、精一杯の懇願。
それでも満足したらしいファイは「しょうがないねぇ」と言って笑った。
*
「おまえ、結局これからどうするつもりだ?」
狭いベッドに一糸纏わぬ長身の男が二人。
後頭部で両手を組み、仰向けに寝そべる黒鋼の隣で、身体を起こしたファイはのんきに欠伸をする。
「ふぁー? なにがー?」
「何がじゃねぇよ」
そう言いながら、ちょうどいい位置で視界に収まる白い背中を眺める。
しなやかな背骨のラインと、肩甲骨のくぼみに落ちる影。それをなぞってみたくて、手を伸ばしかけて結局やめる。目を逸らし、鼻から小さく息を漏らした。
「いつまでいる気かって聞いてる」
「んー?」
ファイは振り向きがてらころりと横になり、黒鋼の胸に両手と顎を乗せた。
「なになにー? もしかして出てけって言ってるー?」
ぶぅ、と唇を尖らせる子供っぽい表情に「そうじゃねぇけど」と言葉を濁す。
ついさっきまで人の上に馬乗りになって淫らに腰を振っていたくせに、いちど性欲の波が引くと、まるで憑き物が落ちたように幼さを覗かせる。
結局あれから散々焦らされたあとにイかされて、その後乗り上げてきたファイの中で二度も出してしまった。
「こんなに尽くしてるのに、オレのこと邪険にするんだー」
「だから、そうじゃねぇって」
「じゃあなにー? オレとエッチするの飽きた……?」
「……別に。そうは言ってねぇだろ」
言いにくそうに答えれば、ファイは「だろうね」と言って余裕の笑みを浮かべる。
「せっかくオレなしじゃいられない身体に躾けてあげたんだから」
「躾けって何様のつもりだてめぇは……」
「オレ様ー」
本当に腹の立つ野郎だと思う。
決して否定しきれないから、なおのこと。
黒鋼がふつふつと腸を煮えくり返らせる中、ファイはそれでも何かしらは考えているようで「そうだなぁ」と呟いた。
「確かに、このままってわけにもいかないよねー……」
「一度も戻ってねぇだろ。自分の部屋に」
「だってー……」
ファイは再びぷうっと唇を尖らせた。
あの雨の夜にこの部屋に上がり込んでからというもの、ファイは黒鋼のジャージばかりを着用して生活している。
下着はかろうじてコンビニで適当なものを見繕ったようだが、彼は頑なに自分のマンションに帰ることを拒んでいるようだった。
ちなみにこの一ヶ月、彼が『仕事』に出かけた様子はない。余裕たっぷりな暮らしぶりを側で見ていると、相当貯めこんでいるらしいことは予想がつく。それだけこの男の身体は『高い』ということなのだろう。
「あんな鬼の棲家になんか帰れないよー……」
「鬼って……ただの虫だろ……」
最初こそ何かとてつもない事情があるのだろうかと思っていた黒鋼だが、雨の翌朝、この男が作った朝飯を食いながら聞いた理由は、実にくだらないものだった。
あの朝、彼は味噌汁の中の豆腐を箸でつつきながら、こう言った。
『台所にゴキブリが出て……一匹いると三十匹はいるっていうし……』
聞いたときは思わず鼻で笑ってしまった。
もちろんファイはその反応を見て頬を膨らませたが、大の男がゴキブリ一匹に泣きべそかいて、雨の中を飛び出したのかと思うと、やっぱり情けなくて笑えてしまう。
このアパートを雨宿りの場所に選んだのは、単なる偶然だったらしいが。
「業者にでも頼んでとっとと駆除してもらえ」
「そ、そうだけどー……」
「このままほっといて冬越えしようもんなら、来春はもうひと回りでかくなって出てくんぞ」
ファイはブルっと肩を震わせて、青い顔をしている。
人のことは散々コケにするくせに、たかが虫けらにこの有様とは。
なぜか何も言おうとしないのを見て「何か問題あんのか」と問えば、彼は目を逸らして「別にー」と答えた。
「狭くて汚くて見るからに貧しそうなボロアパートでも、住めば都っていうかー。ゴキブリがいないだけで天国っていうかー、具合のいいペットまでついてて、お得っていうかー?」
「何から何まで癪に障る言い方しやがる」
だいたい、と黒鋼は続けた。
「誰がペットだ。ここは俺んちだぞ。飼われてんのはてめぇの方だってこと忘れんな」
「すっかりオレに乗りこなされちゃってるくせにー?」
「殴るぞ。俺をてめぇの客と一緒にすんじゃねぇ」
「まぁね。黒たんは間違ってもお尻ぶたれて悦ぶタイプじゃないしねー。だから逆にイジメたくなるんだけど」
「…………」
こいつのサドっけ溢れる物言いや仕草を見れば、どんな客層かは容易に想像できる。
だが黒鋼には彼と対になる性癖がない。それこそ金を出してまでケツを叩かれる趣味もなければ、いい加減やりたい放題されるのだって限界だ。
どこかしらでひっくり返してやらなければ、この先もずっと支配者面され続けることになる。
そんなことは真っ平御免だ。いや、そもそも。
(……この先もずっと一緒にいる気かよ)
思わず額を押さえ、深々と溜息を洩らした。
すっかり餌付けされ、その居心地のよさに甘んじ、夜は夜で骨抜きにされて。
娼婦のような顔と無邪気な子供のような顔を使い分ける、この掴みどころのない男をどうにかして掴んでみたくて、気がつけば足掻いている。
散々人の上に乗って好き勝手した後、平然と『客』の話をするファイを目の当りにして、改めてこの男は『商品』なのだということを思い知ったような気がした。
ならば金と引き換えに身体で夢を与える彼にとって、自分もまたその他大勢と同じ存在ということになるのだろうか。宿を提供する代わりに、ちょっと他人より多くサービスをしてもらっているだけの。
だとしたら。
(……面白くねぇな)
どうしてか、異様なまでに腹が立つ。
言葉では言い表せない何かが、黒鋼の中に黒く渦巻いている。ぎりぎりまで膨らんだ風船が、許容量を超えて破裂するみたいに。
「ねぇ誤解しないでよー。別に好きでオッサンのお尻ぶったり、足で思いっきり玉潰したわけじゃないんだよ。やってくれーって頭下げてくるから、仕方なくだよ。大事なお客さんだもの」
額を押さえたまま動かなくなってしまった黒鋼を、流石に少しは気にしたのか。
聞いているだけでこちらの股間がキュッと萎みそうな空恐ろしいことを言ってのける顔を、指の隙間から睨み付けた。
どうせ楽しんでやっていたに違いない。なんといっても『天職』なのだから。
「だからいいでしょ?」
「……何が」
「家のことやるしー、食費も出すしー、ちゃんと身体で支払いもするしー」
「そうだな」
だったら。
黒鋼は胸の上にぺたりと這わされていたファイの手を強く掴む。そのまま抱き込むようにして身体を反転させ、ベッドに縫い付けた。
突然のことに小さく息を飲んだファイは、真上から見下ろす黒鋼の顔を見て目をパチクリとさせた。
あの雨の夜から、ずっと思っていた。
楽しげに人の身体を弄繰り回し、何もかも思いのままにしようとする憎たらしい笑みを、この手で歪ませてみたい。細腰を掴み上げて、壊れるくらい揺さぶってみたいと、何度も。
「まだするの? 若いねぇ」
「悪いか?」
「別にいいけど、ちょっとこの態勢は嫌かなぁ」
「うるせぇよ」
両膝を掴み、大きく開かせる。ファイは思い切り嫌そうな顔をして身を捩り、そこから逃げ出そうとした。
「おとなしくしろ」
「やだってばー。オレ乗るのは好きだけど、乗られるのは嫌い」
「なんでもてめぇの思い通りになると思うなよ。俺は客じゃねぇ」
「ッ!?」
身体を捻っているファイの片足を抱え込み、体重をかけるようにして押さえつける。
ぱっくりと開いた股の中心に指を差し込むと、先刻まで黒鋼のものを飲み込んでいた穴に人差し指と中指を深く突き立てた。
「いたっ……! ぁ、急に……っ!」
「痛ぇ? もっと太いもん散々食らっといて嘘つくな」
「ちょ、やめ、かき回さないで!」
どうやら本気で嫌がっているらしい声と、絡みつく媚肉の熱さにゾクリとする。ここに自身が納まり、嬲られていたのかと思うと、無意識に喉が鳴った。
二度も出したせいか、逆流した精液が指を突き動かす度にとめどなく溢れる。
ファイはシーツを両手で握りしめ、掻き毟るようにしてもがいていた。抱えられた足の先をバタつかせ、髪を振り乱す。
ここまで嫌がるとは正直予想外ではあるのだが、彼が逃れようとすればするほど、黒鋼の中の溜まりに溜まった凶暴な欲求が満たされ、そしてさらに燃え上がる。
「も、いいってば! オレがするから、黒たんはマグロやってればいいの!」
「ざけんな。性に合わねぇんだよ。受け身ってのは」
「ね、ホントにやめよ? ね?」
「支払いはもう十分だ。余ってる釣りを返さねぇとな」
「――ッ!!」
これ以上の御託はいいとばかりに、黒鋼は指を引き抜いた瞬間、息継ぐ間もなく濡れた穴に自身を突き立てた。
ファイの拒絶の声を聞き、焦る表情を見ただけで、すっかり天を仰ぐほど復活しきっていたそれを、思い切り体重をかけて押し込める。
「イッ、ぅあ……!!」
自分のタイミングで受け入れられない熱の鋭さに、ファイは苦しげに歪めた顔を腕で隠した。唇が震えながら噛みしめられるのを見て、黒鋼は身を乗り出すとそこに短く口づける。
「ッ!」
ビクンと肩を揺らしたファイは、顔を隠すのも忘れて目を見開いた。
なんて間抜けな表情だろうか。これだけ何度も身体を重ねていれば、キスくらいしたって何もおかしくはないのに。
今の今まで、一度もしたことがなかったなんて。
「な、ん……ッ、あっ、――……!?」
濡れた唇が何かを発する前に。ファイの弱い場所を目がけて抉るように突き上げる。何度も何度も繰り返し、呼吸する間も与えないほどに。
黒鋼だってただ攻められるだけに甘んじていたわけではない。彼が自分の上でどう動き、どんな瞬間に甘い息を漏らしていたか、この身体を支配する瞬間に思いを馳せながら、嫌というほど目に焼き付けていた。
汗ばむ素肌が薄紅に染まり、シーツの上で大きくしなる。
「ひッ、ぃ、やめってッ、そこ、ばっか、あ、ア……!」
これ以上ないくらいにベッドが激しく軋む。
ファイの身体がガクガクと揺れて、赤く染まった目元に透明な雫が伝う。苦しげに顔を歪めて、彼は情けなく上擦った声を途切れさせながら「やめて」と何度も繰り返し泣いた。
そのくせ、中心でそそり勃つ性器が揺さぶるたびに美味そうな蜜を零す。意図したものでなく、無意識に締め付ける感触に思わず口元が悦楽に歪む。
組み敷いて穿つだけで、この男はこんなにも余裕をなくす。優位に立てないという状況は、彼にとってどれほどの屈辱なのかと。考えるだけで興奮する。
もっと乱れればいい。泣けばいい。他では満足できなくなるくらい、いっそ溺れ死んでしまえばいい。
「ずいぶん感じてんじゃねぇか。こうされる方が合ってんだろ?」
「あっ、あっ、や、ぁ……! ほん、と、だめ、だめ! もうやだぁ……ッ!」
「こいつがなきゃ生きられなくなってんのは、どっちだ?」
「ヒぁ……――ッ!?」
シーツを掻き毟る両腕を取り、ぐいと強く引き寄せる。
華奢な身体を抱き込んで、自分はベッドに腰を落ち着け胡坐をかいた。体重がさらに深い場所への挿入を助け、最奥への圧迫にファイの身体がギクリと強張った。
「ッ、ぁ、……ッ、ふ、か……すぎ、る、ぅ……」
僅かに見上げる光景は見慣れたものでも、明らかに景色が違って見えた。
ファイは酷く怯えた表情で、時折小さく歯の根を鳴らす。カタカタと震える指先が、縋るもの欲しさに黒鋼の肩に爪を立てていた。
「乗られんのは好かねぇんだろ? おら、望み通りにしてやったぜ。いつもみたいに腰振ってみろよ」
古いなりに頑丈なベッドのスプリングを生かし、がっちりと腰を固定した状態で下から強く突き上げる。ファイは「あ」という形に口を開いたまま、背を反らしてガクンと揺れた。
相当乱暴に扱っているはずなのに、口とは裏腹にファイの性器は萎えない。膨らみ切って先走りを滴らせ、解放を求めて脈打っている。
堪らない。念願が叶っていること以前に。しなる身体を思うさま揺さぶりながら、黒鋼は自身の中に眠っていた獰猛さが解放されるのを感じていた。
こんなものを飼っていたのか。ずっとセックスに対しては淡泊な性分だと思っていた。これといって特別な性癖もなければ、今まで誰と付き合っても、こんな自分にはお目にかかったことが無い。
今、黒鋼は苦痛と快楽がせめぎ合うファイの表情を見て、どうしようもなく高揚していた。
どうしてだろう。どうしてこの男なのだろう。こんな自分を引きずりだしたのが、他の誰でもなく、どうして。
もしかしたら、どこかでこれを恐れていたのかもしれない。
あの雨の夜に初めて男を知ったときから。きっと本能が悟っていた。
傷つけてでも支配したい欲求に、歯止めがきかなくなるであろう自分に。
「あっ、んぐ、ぅ……ッ、い、ィ、く! いく、からぁッ、も、やめ、て……!」
黒鋼の肩の肉を抉りながら、ファイは呻くように言葉を紡いだ。
強烈な熱が一周して、いっそ寒いくらいのゾクゾクとした感覚に鳥肌が立つ。口元を笑みの形に歪めたまま、黒鋼は射抜くように目を細める。
吐息のような声で「いけよ」と漏らせば、ファイは顔をくしゃくしゃにして泣きながら達した。びゅう、と凄まじい勢いで噴出した精液が飛び散る。
ファイは何度も大きく身体を跳ねさせ、小刻みに内腿を痙攣させた。壊れた玩具のように幾度かそれを繰り返したあと、弛緩する。
グッタリとして落ちてきた額が首筋に押し付けられた。
締め付けに息を詰めていた黒鋼は、その後頭部と背中に手を這わせて支えると、挿入したままベッドに押し倒した。
ひ、ひ、と浅い呼吸を繰り返すファイは、どこか呆然とした表情で濁った視線を彷徨わせ、なすがまま力なくシーツに沈んだ。
「飛んでんじゃねぇよ。まだ俺がイってねぇ」
「も、ぉ……ゆる、し……」
ふん、と黒鋼はそれを鼻で笑って一蹴する。
「一ヶ月分だ。気が済むまで付き合ってもらうぜ」
絶望を色濃く滲ませた瞳で、ファイは再び顔を歪める。
そのまま小さな子供のように泣き出す姿に、あの小憎らしい勝者の笑みは影を潜め、そこには売り物でもなんでもない、支配に屈する憐れな男の姿があるだけだった。
*
朝方近くになって、心地よい疲労感からどっぷりと眠りに落ちていた黒鋼は、頭部に強い衝撃を受けて飛び起きた。
「いってぇ!! なんだ!?」
慌てて周囲をキョロキョロと見渡して、薄ぼんやりとした青い闇の中、隣で拳を震わせるファイの存在に気付く。
「てめぇかこら。無抵抗な人間になにしやがる」
「なにしやがる、じゃないよ! この鬼畜! 絶倫ー!!」
「あ? なんだ、ヒステリーか」
「このーっ」
ご立腹のファイは再び拳を叩きつけてこようとした。軽く手の平で受け止めて、腕を捻る。
「いったー! 痛いってば鬼ー! 悪魔ー!!」
「るっせぇ野郎だ……」
「やだって言ったのに! こんな酷い目にあったの初めてだよ!!」
キャンキャンと金髪を逆立てて怒り狂う様子に、黒鋼はうんざりとした息を漏らしながら頭を掻いた。
ボロアパートの壁は薄い。こんな朝方近くに騒がれたのでは近所迷惑に……なんて考えて、今更かと思い直した。騒音ならほぼ一晩中立てていたし、この夜に限ったことでもないし。
下の階や隣から苦情がこないのは、どの住人もどっこいどっこいだからだ。
このアパートに基本女っ気はないが、連れ込む輩は当然いて、昼夜お構いなしにお盛んだったりする。
それでも正直、黒鋼はもう少しゆっくり寝ていたかった。
だから仕方なくこんな時、相手を黙らせるにはどうするべきかと考えて、すぐに行動に移す。
「いくら若いからって精力ありすぎなんだよ! ガッバガバになって使い物にならなくなったらどうしっ、ぃ!?」
掴んだままだった拳を引き寄せ、肩を抱くとうるさい唇を唇で塞いでしまう。
一瞬怯えたように肩をビクつかせたファイは、それで一気に勢いをなくした。
唇はほんの僅かな時間で離れたけれど、効果覿面だったようだ。ぐっと押し黙ってしまったファイは、きっと真っ赤な顔をしているに違いない。腕の中の体温が急激に上がるのを感じて、小さく鼻で笑う。
「緩くて使いもんにならなくなっても、俺専用なら問題ねぇだろ」
「……なに勝手に開き直ってるの」
あーぁ、とため息交じりの声を放って、ファイは諦めたように黒鋼に身を預けてきた。
「こんなことならとっとと自分の部屋に帰ってればよかったなー」
「おっかねぇゴキブリの棲家にか?」
「……もういないもん」
「あ?」
ファイの顔を覗き込む。けれど、薄闇の中で俯かれては、何も見えない。ただ、熱い頬が胸に押し付けられる。
「とっくに駆除してもらったよ。あの雨の夜の翌日に、業者に連絡して」
「……どういうこった?」
「……鈍いなぁ」
「いってぇ!!」
次の瞬間、右の乳首に凄まじい激痛を感じた。
思い切り捻るようにして引っ張られたらしい。容赦ない攻撃に、流石の黒鋼も少し涙ぐんだ。
「いてぇぞこら!! 俺はマゾじゃねぇからな!! そんなんで喜ぶと思うなよ!!」
「知ってるよ! 実はとんでもないドSだったんでしょ! 猫かぶってたんでしょ!」
「……てめぇはマゾッ気があったんだな」
「このっ」
「いって!! だからいてぇっつうに!!」
またしても、今度は逆側をつねられた。
どちらもジンジンと痺れて痛みが引かない。これは下手すると腫れてしまう可能性がある。なんて凶暴な飼い猫だろうか。
最後の方なんて、すっかり壊れて「もっともっと」と泣きながら腰を振っていたくせに。
盛りのついたメス猫のように毛を逆立たせるファイは、なおも乳首をつねろうとしてくる。これ以上やられてたまるかと、逆に仕掛けてみたりして。薄暗い中ではもうお互いにどこをつねっているのか分からない状態だった。
しばらくの間、二人でギャンギャンと吠えながらの攻防が続いた。そうしているうちに、安物のカーテンの向こう側がどんどん白んでくる。
隙間から漏れた光の中で、案の定黒鋼とファイは乳首を真っ赤に腫らして、その他にも赤い痕が点々と散らばっているのが分かった。
流石に疲れたのか、先にぷいっと顔を背けたのはファイだった。
「嫁ぎ先間違えちゃった!」
「この野良猫が。最初っから居つく気満々だったんじゃねぇか」
「……だってー……気に入っちゃったんだもん。これ」
散々黒鋼の乳首や皮膚をつねっていた指先が、今度は股間をツンとつついた。
なんだか複雑な気持ちになる。用があるのはそこだけかと。
だが、こちらだってもうやられっぱなしではない。黒鋼はニヤリと笑うと、攻防のあと僅かに距離が開いていた肩を抱き、胸に引き寄せると素直に腕の中に納まる身体を抱きしめる。
「好きになっちゃダメ、なんて言っといてよ」
「……そんなこと言ったかな」
「先に惚れたんだろ。そうならそうと素直に言え」
「……もっと消極的でおとなしい子だと思ってたんだけどね」
「アテが外れたな」
そんなことを言いながら、本当はどちらが先かなんて問題ではなかった。
あの雨の夜に全てが始まっていて、どうせ二人同時に落ちていたのだろうから。
「餌ぐれぇは好きにくれてやるよ」
狭くて汚くて、見るからに貧しそうなボロアパートでも、住めば都なのだろうし。
どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべて見せれば、ファイはぷうっと唇を膨らませる。それからすかさず「食べ方くらいは選ばせてよね」なんて、居候のくせに生意気なことを言った。
躾けのし甲斐がありそうだと思えば、どんどん楽しい気分になってくる。黒鋼はおとなしくなんかないし、やられたらやり返すし、これからは多分、やられる前にやる。
だから傍にいて、もっともっと後悔すればいい。
そして、そうと決まればまず初めに言っておかねばならないことがあったのを思い出した。
「おまえ」
「なぁに」
「仕事、足洗えよ」
もう少し余裕たっぷりに、命じるように言うつもりが、無意識に真顔になってしまった。ここぞとばかりに揚げ足を取ってくるかと思いきや、ファイは目を丸くしたあと、どこかくすぐったそうに笑って肩を竦めた。
「黒様専用なんだもんね。オレ」
「分かってんじゃねぇか」
双方の意見がまとまったところで、二人は朝日の中、啄むようなキスをした。
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