2025/08/04 Mon 雨の調べ 「みんな……死ぬの……?」 雨が降っていた。冷たい雨が。 彼は寒さに青褪めた肌をして、震える声は今にも掻き消えそうな儚さだった。駆け寄って抱きしめてやりたかったのに、黒鋼にはただ淡々と、真実を告げること以外に術はない。 「そうだよ」 そんなことくらい、子供だって分かる。けれどファイには分からないのだ。 彼は小さくて、可愛くて、可哀想な子だから。 「黒ぽんも死ぬの……?」 言葉にならない激しい感情が込み上げて、それを押し殺すために息をのみ込んだ。 「……いつかは」 「やだよ」 「…………」 「なんで死なないって言ってくれないの」 「…………」 「死なないって……言ってよぉ……」 雨が。雨が。止むことなく、ずっと、ずっと。 * 土曜日。昼過ぎまで家の手伝いに駆り出されていた黒鋼は、そのあとファイと遊ぶために小学校の向かいにある、小さな商店の前で待ち合わせをしていた。 いつものように鞄に適当なものを詰め込んできた黒鋼が、軒先にポツンと佇んでいたファイに声をかけると、すっかり見慣れた笑顔が迎えてくれた。しかし、ファイの腕の中のものを見て、目を丸くした。 「なんだ、これ?」 「にゃんこだよ」 「それは分かるけどよ」 「にゃんこ、黒ぴっぴもだっこして」 はい、と手渡されたのは白い、けれど泥や埃にまみれて酷く汚れた、小さな子猫だった。 戸惑いながらも受け取ると、子猫は小さく「ミー」と鳴いたようだった。けれどその声は、ただ弱々しく息が吐き出されるだけで、音になっていない。顔を覗き込むとようやく目が開いたばかりと言った風で、目尻にグジュグジュとした汚れがこびり付いている。 見た目にも分かるほど、それは弱りきっていた。 「これどうしたんだよ」 「そこでねてたよ」 ファイが指差した方を見る。そこはゴミ捨て場で、汚らしいポリバケツが置いてあるだけだった。 「……捨て猫か」 「ちがうよ、あれの中でねてたんだよ」 「そういうのを捨てられてたっていうんだ、バカ」 「ちがうもん……」 ファイはどうしても納得がいかないようだったが、黒鋼はそれよりもこの子猫をどうするべきかと考えあぐねていた。 黒鋼の家には大きな犬がいる。鋼丸という黒いその犬は、黒鋼が生まれたときにはもう庭先で飼われていた。物静かで食が細く、今では散歩もままならないくらいの老犬だった。 彼を差し置いて他の生き物を連れ帰るのは、なんだか気が引ける。けれどそれより何より……。 「俺の親父……アレルギー持ちなんだよ……」 いわゆる猫アレルギーというやつである。大きくて優しくて力持ちで、黒鋼にとって自慢の父だが、たった一つの弱点がまさに猫だった。 「おまえんちは」 「あれまぁ! めごい(可愛い)の抱いてるっちゃね~」 「あ」 黒鋼がファイに問いかけようとしたのを遮るかのように、商店からニコニコ顔の婆さんが顔を出した。子供好きで優しいその人は、近所の子供たちからもよく慕われていて、買い物をするとちょっとした駄菓子のオマケなんかをつけてくれたりもする。黒鋼ももちろん、彼女が大好きだった。 「ばあちゃん、これ捨て猫なんだよ。どうすりゃいいかな」 黒鋼が駆け寄り、腕の中の子猫を見せると、彼女はただでさえシワシワな顔の細い目を、さらに細めた。皺とシミだらけの太い指が、子猫の小さな頭をそっと撫でる。 「もぞこい(かわいそう)なや……ちょっと待ってなぁ」 そう言うと、婆さんは曲がった腰でしんどそうに店の中へ戻っていった。ややしばらくして再び店の中から顔を出すと、黒鋼に手招きをする。腕の中にいた子猫をファイに託すと「ちょっと待ってろ」と言い残して店に入った。 少し薄暗い店内は酷く狭い。駄菓子をメインにその他食料品は勿論、雑誌や飲み物など、様々な生活用品が狭い空間に売り物として置かれている。 そんな店内の奥がレジになっていて、煙草の箱が積まれている場所に彼女はいた。 「これやんな。そすたら、あと構うなわ」 小さな青い牛乳パックを手渡される。それは給食で出てくるものと同じもので、よく冷えていた。 「これもやっから」 何か惣菜でも入っていたものなのか、プラスチックの透明な容器も手渡された。これにでも注げということなのだろう。 黒鋼はそれを受け取りながらも、少しショックを受けていた。つまりこれを飲ませたら、後は放っておけと言う、その無責任な言葉に納得がいかない。 「……でもさ、ばあちゃん」 「あのみったくなし(みにくい子)も、あと構うなわ」 「!」 ピシリと音を立てて、心にヒビが入ったような気がする。それは、ファイのことを指している言葉だった。彼女にとって、薄汚れて腹を空かせている子猫とファイは同じ存在なのかと思うと、ずっと慕ってきたはずの気持ちが、簡単に薄れてゆくのを感じた。 黒鋼は黙って容器を受け取ると、礼も言わずに背を向けた。やりきれない思いで胸がいっぱいだった。 店を出て、子猫に向かって笑っているファイの、シャツの袖を引いて歩き出す。ファイは上機嫌で「にゃんこかわいいねー」と幾度も歌うように言っていた。 * 秘密基地への道のりを、黒鋼は何も言わずにただ黙々と歩いた。どうしようもない苛立ちに息が詰まりそうだった。 ファイがクラスの中だけでなく、周りの大人たちからもよく思われていないことは、知っていた。狭い町の中では、会うもの皆が親戚も同然であり、ごく稀に知らない顔があれば、それが観光客などの余所者であることがすぐに分かる。 ファイと共にいて誰かしらと顔を合わせることがあると、大抵咎めるような眼差しを送られた。それでも、これまではずっと気がつかない振りをしていた。けれど面と向かって、しかもあのいつだって優しかった商店の婆さんの言葉を聞いたとき、その目の奥の暗いものを垣間見た気がして、黒鋼は酷く打ちのめされた気がした。 ファイはよく分からないことばかり言うし、何を考えているかも分からない変わった奴だけど、黒鋼のように悪戯もしなければ、ハメを外してガラスを割ったりもしない。上級生とケンカだってしないし、いつだってふにゃふにゃと笑って絵を描いたり、飴玉を口の中で転がしているだけだ。 何をしたというのだろう。 ただ、外からやって来たというだけで。 ただ、他の人間と違う色をしているというだけで。 何が違うのか、分からない。 両親はどう思うのだろうか。あの優しくて穏やかな父と母は、自分がファイといることを知ったら。あの婆さんと、同じことを言うのだろうか。他の者と同じ目で見るのだろうか……。 黒鋼はブルブルと首を振った。考えたくもなかった。 やがて見慣れた鳥居を潜り、神木が目の前に現れた。ファイが駆け出して、子猫を抱えたまま中に入り込んだ。冷たかった牛乳は、黒鋼の手の中ですっかり温くなっていた。 * 夕日が傾き始めた頃、神木の中の空洞にはオレンジ色の光の柱が射し込んでいた。 ぺったりと、女の子みたいな座り方をしたファイの膝の上には、子猫が丸くなっている。 「ちっちゃいねぇ、かわいいねぇ。どうしてこんなにちっちゃいのー?」 ファイが指でしきりに頭を撫でているけれど、やはり子猫はぐったりとしていて、呼吸をする度に苦しげに背中が大きく上下していた。 黒鋼は貰ってきたプラスチックの容器に、温くなった牛乳を注いで置いた。ファイの膝からそっと子猫を抱き上げて、容器の側に移動させる。 「ほら、飲めって」 「にゃんこー、のんでー」 子猫は弱々しく顔を上げて、自分の身体よりも大きなパックの縁に鼻をペタリと押し付けた。匂いを嗅いで、それからまた地面に顔を埋める。 「牛乳、キライなのかな? 黒たんとおんなじだー」 「うるせぇな……」 このくらいの子猫なら、まだ母猫にピタリとくっついて、お乳を貰わねばならないはずだ。自分だけの力では、まだ腹を満たすことが出来ないのかもしれない。知世だって、ほんの少し前までは母に抱かれてミルクを飲んでいた。母が乳房を出すのをなんとなく見ていられなくて、黒鋼はいつもそっぽを向いていたけれど。 「やっぱりダメか」 「ダメじゃないよー! にゃんこー、ほら、牛乳はおいしいよー」 ファイが小さな背中を撫でた。黒鋼はもうすっかり諦めの境地だったけれど、ファイに撫でられていた子猫がそろそろと顔を上げて、今にも折れそうな手足を震わせながら立ち上がった。 「お?」 「あ!」 探るように、牛乳の表面に鼻をつける。白い液体が鼻先について、それをキッカケに子猫はチロチロと牛乳を舐めた。砂漠で水を得たように、そのままの勢いで夢中になって舐め続けている。 ファイは「やったねー」と言ってバンザイをした。黒鋼もほっと胸を撫で下ろす。 「飯が食えるなら大丈夫なんだ。鋼丸だってそうだ。病院の先生が、いつもそう言ってるからな」 真っ黒な老犬の鋼丸は、昔に比べれば随分と食が細くはなったが、これといって大きな病気をすることもなく、毎日ちゃんとご飯を食べてくれる。それでも月に一度、父が運転する車で山を下りて市街地の動物病院へ行くのだが、黒鋼はいつもくっついて行っていた。 そこで頭がすっかりハゲてしまっている、眼鏡をかけた初老の男性医師が、鋼丸を撫でながらよく言うのだ。人間も動物も、食べられなくなったら終いだと。 「ねねね黒たん、にゃんこのおなか、ちょっとだけポッコリしてきたよー」 「ほんとだ」 ぺしゃんこだった腹が、ほんの僅かであるが膨らんできたように見えた。そこで黒鋼はようやく少し笑うことが出来て、ファイの金色の頭を撫でてやった。 「オレもおなかすいたよー、黒たん」 「だな」 ふと見ると、射し込んでいた暖色の光が弱まっていた。切り込みから少し顔を出すと、空山の境界線が僅かに青い。ここのところ随分と日が長くなってきたことを考えると、もうかなり遅い時間なのかもしれない。 「帰らないとまずいな」 「にゃんこどうするのー?」 「うん……」 夏が近いとは言っても、夜から朝にかけてはまだ冷え込む。このままではせっかく腹が満ちても意味がないだろう。とはいえ黒鋼の家には、どうしても連れて帰れない事情がある。 「おまえんちは?」 「オレのおうち?」 ファイは黒鋼の問いに小さく首を傾げた。薄暗くなってきた空洞の中で、ファイの大きくていつも濡れたように潤んでいる瞳が、少しだけ曇ったように見えた。そのまま口を噤んでしまった様子を見て、黒鋼は眉を寄せる。なんともいえない、不安を覚えた。 「仕方ねぇか」 黒鋼は空気を変えようと、なるべく何でもないことのように言って、おもむろにシャツを脱いだ。 「黒たん、なにしてるの? からだ、寒くてヒエヒエになっちゃうよー」 「寒くねぇよ、こんくらい」 上半身すっかり裸になった黒鋼は、悪戯っ子のような顔でニヤっと笑うと、地面に顔を埋めて眠りはじめた子猫を抱いて、シャツで包み込んだ。 「これなら大丈夫だろ」 その温かさに気分がいいのか、子猫が微かに喉を鳴らす。 「ひゃあ! ころころっていったよ!」 「しー、起きちまうだろうが」 「うん、うん、にゃんこおやすみー」 幾度も頷いているファイと、明日の朝早くにここにまた来ようと約束をして、神木を後にした。 そしてシャツを置き去りにして、裸でいつもより遅い時間に戻った黒鋼は、一体どんな悪戯をしてきたのかと呆れた父に、軽くゲンコツを食らった。 * 翌朝は小雨が降っていた。 天気予報では晴れだと言っていたはずなのに、ぜんぜん当たらねぇじゃねぇかと内心で愚痴りながら、黒鋼はいつものリュックの中に牛乳やら魚の缶詰やらボロのブランケットやら、思いつくものを片っ端から詰め込んで家を出た。 日曜日なのに学校へ行くよりも早起きをした黒鋼に、母は「だから雨が降ったのね」と笑っていた。正直、子猫のことが気になってほとんど眠れなかったのだ。 黒い大きな傘を差しながら、秘密基地への道を駆ける。おそらくファイはまだ来ていないだろうが、とにかく置き去りにした子猫が心配だった。今日もちゃんと牛乳を飲んでくれるといいのだが。もし万が一、昨日より弱っているようならば、父には悪いがいよいよ連れて帰るしかない。毎月通っている動物病院は、日曜でも診療を行っている。体質的には受け付けなくても、父ならきっと連れて行ってくれると思うから。 神木の側で傘を投げ出して、手や膝が水気を含んだ土で汚れるのもお構いなしに、薄暗い内部へと潜り込んだ。 するとそこには、まだいないと思っていたはずのファイの、ペタンと座り込んでいる背中があった。意外に思いつつ、中腰で側まで行って小さく笑いかける。 「なんだ、一番乗りじゃなかったな」 「黒たん」 子猫はファイの膝の上、シャツの中で昨日と同じ様に目を閉じていた。 けれど、何か違うような気がした。 「にゃんこ動かないよ」 「え……?」 「あのね、つめたくて、かたいの」 「…………」 「どうしたのかなぁ?」 「ッ、おい、おまえ……!?」 大きな目をパチクリとさせながら顔を向けてきたファイの左頬が、赤黒く腫れて変色しているのを見て、黒鋼は目を見開く。咄嗟に手を伸ばし頬に指を添えれば、あまりにも痛々しいそこは、信じられないほどの熱を孕んでいた。 「ど、どうしたんだよこれ……!?」 その殴られたような痕と、そして動かなくなった子猫を交互に見て、黒鋼は酷く混乱していた。なぜこんなことになっているのだろうか。この痛々しく腫れた皮膚はなんだ。一体なにが、どうして。 昨日まではあった命と、昨日まではなかった痣と。 一瞬にして身体が芯まで冷え切ったような感覚に陥る。底の見えない闇の中に、唐突に放り出されたみたいに、絶望が胸をいっぱいに満たして、今にも溢れてしまいそうだった。 ファイは黒鋼の問いには答えず、抱いていた子猫を近づけてくる。 「ね、さわってみて」 「…………っ」 触らなくとも、子猫がもう死んでいることくらい、見れば分かる。同じ寝顔でも、生きているのと死んでいるのとではまるで違う。説明は出来ないけれど、違うのだ。 それでも黒鋼は無意識に言われるままそれに触れた。ファイの顔のことを詳しく問い質したい思いはあったけれど、子猫の死もまた、あまりに大きすぎた。 指先で触れて、その氷のような感触に目を閉じると首を振った。 「黒たん?」 「よこせ」 「黒たん……」 ファイの膝の上から、シャツに包まれた躯を取り上げる。何も言わない黒鋼に、彼はようやく少し不安そうな顔になった。子猫を抱いたまま神木から抜け出せば、すぐにその後を追ってくる。 小振りだった雨が、少し強くなっていた。暗い曇天に覆われた空を見上げると、雨が目の中に入ってくる。今の、この空は。黒鋼の胸の中と、まるで同じだ。 「ねぇ、にゃんこ……」 見上げてくるファイの痛々しい顔を、悲痛な面持ちで見つめてから、黒鋼は神木の側で膝をついた。 「埋めるんだ」 「うめる……?」 死んでいるのだから。 なぜか、それをハッキリと告げるのは躊躇われた。言葉にするのが怖かった。言えば、きっと後悔に押し潰されてしまう。 なぜ迷惑をかけてでも、昨日のうちに連れて帰らなかったのか。ほんの少し牛乳を舐めたくらいで、安心してしまったのか。なぜファイに、これを先に見つけさせてしまったのか。考えても仕方のないことばかり。 黒鋼は亡骸を傍に置くと、手で土を掘りはじめた。幸い雨で地面は湿っていたから、すんなりと掘れる。小さな身体を納めるための、小さな穴を。深く。 背後で呆然と立ち尽くすファイが呟いた。 「どうしてうめるの?」 やっぱり。ファイは分かっていないのだ。 信じられないようなことだけれど、ファイはおつむが足りないから、だから知らない。 死ぬということを。 「ねぇ、どうして?」 分かっているのに、黒鋼はその悲しさに苛立ちを覚えた。 「うめたらよごれちゃうよ? どうしてそんなことするの?」 ――もう、我慢できなかった。 「死んだからに決まってんだろうが!!」 声が大きく響き渡る。バサバサと、枝で雨宿りをしていた鳥達が飛び立つ。 空気が凍り付いて、ふいに、ここは一体何処だったろうかと、まるで迷子にでもなったような気持ちになった。世界がここだけ切り離されたように、時間が止まったような気がして。 後悔が次から次へと込み上げて、黒鋼は涙を流した。男は簡単に泣くもんじゃない。でも、雨がそれを隠してくれるから。だから今だけは。 ファイがどんな顔をしているのか、確かめるのが怖くて黙々と穴を掘る。小石や小枝が指先を傷つけても、ぐっと堪えた。こんな痛みは痛みなんかじゃない。死んでしまった子猫は、もう何も感じることができないのだから。 一人ぼっちで、夜の闇の中。最期まで、きっと寂しかったに違いない。 深い穴に、シャツごと子猫を納めた。ドロドロの土を上から被せ終わる頃には、雨はもっと強く二人の身体を叩いていた。震える息を吐き出すと、立ち上がって振り向く。雨に打たれたファイは呆然とした表情で、子猫が埋まっている場所を見つめている。金色の髪が頬に張り付いて、痛々しい傷を隠していた。 何か言おうとして、声が出ない。 優しい言葉をかけて、それから、その傷はどうしたのかを聞いて。またイジメられでもしたのなら、たとえこんな天気の中だろうがソイツの所へ行って、殴り返してやる。そう言ってやったら、またいつもみたいに笑ってくれるだろうか。 なのに言葉が出なかった。 一秒一秒、確かに時間は進んでいるはずなのに、まるでこの瞬間が永遠にも感じられるほど、重苦しい。やがて青褪めた唇が小さく動いた。 「どうして死ぬの?」 黒鋼に言ったというよりは、自らに問いかけているように聞こえた。虚ろな瞳は、もうどこを見ているのかさえ分からない。 胸が痛くて、張り割けそうだった。思い切り叫び出せたら、少しは楽になれるだろうか。こんな切り裂かれるような痛みは、知らない。 喉に何かが詰まっているみたいな感覚を押し殺して、黒鋼は声を絞り出した。 「……弱ってたから」 「牛乳、のんだよ」 「それでも」 「どうして……?」 「母猫がいなくて……捨てられたから……」 「じゃあなんで……」 ファイの肩や、強く握り締めた拳が震えた。 「じゃあなんでオレは生きてるの!?」 聞いたこともないような大きな声だった。ファイがこれほど感情的になる様を初めて見て、黒鋼は再び声を失った。 華奢な肩が激しく上下に揺れる。ファイは泣いていた。ぎゅうと閉じた目蓋から、大粒の涙が溢れて止まらないのを、降りしきる雨は隠してもくれない。 ファイの家庭の事情は知らない。彼が言うのはいつも『大好きなおばあちゃん』のことばかりで、他の誰かのことを口にしているのを聞いたことがないということに、今さら気がついた。 ファイのことを、何も知らないのだということを。 「みんな……死ぬの……?」 しゃくり上げながら、ファイはどうにか声を紡いでいるようだった。自分も同じように泣いてしまいたいと思ったけれど、必死で我慢する。 「そうだよ」 優しいことは言えなかった。嘘はつけない。ついては、いけない。 「黒ぽんも死ぬの……?」 言いようのない激しい感情が込み上げて、それを押し殺すために息を飲み込んだ。 「……いつかは」 「やだよ」 「…………」 「なんで死なないって言ってくれないの」 「…………」 「死なないって……言ってよぉ……」 しくしくと、ファイは声を上げずに泣いていた。時折、悲鳴のように細くしゃくるだけで、その静かな泣き方が酷く悲しかった。 死なないよと、大丈夫だと、そう言ってやれたならどんなによかったろう。でもそれはとても残酷なことだと思ったから。 ふと、幼い頃に死んでしまった祖父のことを思い出した。まだ知世が産まれる前のこと、黒鋼は祖父が大好きだったから、声を上げて泣いていたのを覚えている。そのとき、父が言ったのだ。 『誰だって最初から、死ぬことは決まっているんだ。だから最期まで、後悔しないように精一杯生きるんだ』 おじいちゃんはそんな風に生きることが出来たのかと、幼い黒鋼は聞いた。父は笑って、『俺の親父だからな』と言って微笑んだ。 だから、生きているものは必ず死ぬ。 ファイだって、黒鋼だって、庭先で眠ってばかりの鋼丸だって。きっとあの小さな子猫だってそうだったのだ。光のような速さでしかなかった一瞬の生を、それでも全力で生きていた。 黒鋼はそれをファイに教えてやりたかったけれど、今は上手く言葉にするだけの自信がなかった。だから、ただ泣いているファイに近寄って、落ちている黒い傘を拾うと雨を遮りながら、細い身体を抱きしめた。 震える身体があまりにも冷たくて、可哀想で、悲しくて、黒鋼は唇を噛み締めた。 雨が、止むことなくずっと降り続いていた。 ←戻る ・ 次へ→
「みんな……死ぬの……?」
雨が降っていた。冷たい雨が。
彼は寒さに青褪めた肌をして、震える声は今にも掻き消えそうな儚さだった。駆け寄って抱きしめてやりたかったのに、黒鋼にはただ淡々と、真実を告げること以外に術はない。
「そうだよ」
そんなことくらい、子供だって分かる。けれどファイには分からないのだ。
彼は小さくて、可愛くて、可哀想な子だから。
「黒ぽんも死ぬの……?」
言葉にならない激しい感情が込み上げて、それを押し殺すために息をのみ込んだ。
「……いつかは」
「やだよ」
「…………」
「なんで死なないって言ってくれないの」
「…………」
「死なないって……言ってよぉ……」
雨が。雨が。止むことなく、ずっと、ずっと。
*
土曜日。昼過ぎまで家の手伝いに駆り出されていた黒鋼は、そのあとファイと遊ぶために小学校の向かいにある、小さな商店の前で待ち合わせをしていた。
いつものように鞄に適当なものを詰め込んできた黒鋼が、軒先にポツンと佇んでいたファイに声をかけると、すっかり見慣れた笑顔が迎えてくれた。しかし、ファイの腕の中のものを見て、目を丸くした。
「なんだ、これ?」
「にゃんこだよ」
「それは分かるけどよ」
「にゃんこ、黒ぴっぴもだっこして」
はい、と手渡されたのは白い、けれど泥や埃にまみれて酷く汚れた、小さな子猫だった。
戸惑いながらも受け取ると、子猫は小さく「ミー」と鳴いたようだった。けれどその声は、ただ弱々しく息が吐き出されるだけで、音になっていない。顔を覗き込むとようやく目が開いたばかりと言った風で、目尻にグジュグジュとした汚れがこびり付いている。
見た目にも分かるほど、それは弱りきっていた。
「これどうしたんだよ」
「そこでねてたよ」
ファイが指差した方を見る。そこはゴミ捨て場で、汚らしいポリバケツが置いてあるだけだった。
「……捨て猫か」
「ちがうよ、あれの中でねてたんだよ」
「そういうのを捨てられてたっていうんだ、バカ」
「ちがうもん……」
ファイはどうしても納得がいかないようだったが、黒鋼はそれよりもこの子猫をどうするべきかと考えあぐねていた。
黒鋼の家には大きな犬がいる。鋼丸という黒いその犬は、黒鋼が生まれたときにはもう庭先で飼われていた。物静かで食が細く、今では散歩もままならないくらいの老犬だった。
彼を差し置いて他の生き物を連れ帰るのは、なんだか気が引ける。けれどそれより何より……。
「俺の親父……アレルギー持ちなんだよ……」
いわゆる猫アレルギーというやつである。大きくて優しくて力持ちで、黒鋼にとって自慢の父だが、たった一つの弱点がまさに猫だった。
「おまえんちは」
「あれまぁ! めごい(可愛い)の抱いてるっちゃね~」
「あ」
黒鋼がファイに問いかけようとしたのを遮るかのように、商店からニコニコ顔の婆さんが顔を出した。子供好きで優しいその人は、近所の子供たちからもよく慕われていて、買い物をするとちょっとした駄菓子のオマケなんかをつけてくれたりもする。黒鋼ももちろん、彼女が大好きだった。
「ばあちゃん、これ捨て猫なんだよ。どうすりゃいいかな」
黒鋼が駆け寄り、腕の中の子猫を見せると、彼女はただでさえシワシワな顔の細い目を、さらに細めた。皺とシミだらけの太い指が、子猫の小さな頭をそっと撫でる。
「もぞこい(かわいそう)なや……ちょっと待ってなぁ」
そう言うと、婆さんは曲がった腰でしんどそうに店の中へ戻っていった。ややしばらくして再び店の中から顔を出すと、黒鋼に手招きをする。腕の中にいた子猫をファイに託すと「ちょっと待ってろ」と言い残して店に入った。
少し薄暗い店内は酷く狭い。駄菓子をメインにその他食料品は勿論、雑誌や飲み物など、様々な生活用品が狭い空間に売り物として置かれている。
そんな店内の奥がレジになっていて、煙草の箱が積まれている場所に彼女はいた。
「これやんな。そすたら、あと構うなわ」
小さな青い牛乳パックを手渡される。それは給食で出てくるものと同じもので、よく冷えていた。
「これもやっから」
何か惣菜でも入っていたものなのか、プラスチックの透明な容器も手渡された。これにでも注げということなのだろう。
黒鋼はそれを受け取りながらも、少しショックを受けていた。つまりこれを飲ませたら、後は放っておけと言う、その無責任な言葉に納得がいかない。
「……でもさ、ばあちゃん」
「あのみったくなし(みにくい子)も、あと構うなわ」
「!」
ピシリと音を立てて、心にヒビが入ったような気がする。それは、ファイのことを指している言葉だった。彼女にとって、薄汚れて腹を空かせている子猫とファイは同じ存在なのかと思うと、ずっと慕ってきたはずの気持ちが、簡単に薄れてゆくのを感じた。
黒鋼は黙って容器を受け取ると、礼も言わずに背を向けた。やりきれない思いで胸がいっぱいだった。
店を出て、子猫に向かって笑っているファイの、シャツの袖を引いて歩き出す。ファイは上機嫌で「にゃんこかわいいねー」と幾度も歌うように言っていた。
*
秘密基地への道のりを、黒鋼は何も言わずにただ黙々と歩いた。どうしようもない苛立ちに息が詰まりそうだった。
ファイがクラスの中だけでなく、周りの大人たちからもよく思われていないことは、知っていた。狭い町の中では、会うもの皆が親戚も同然であり、ごく稀に知らない顔があれば、それが観光客などの余所者であることがすぐに分かる。
ファイと共にいて誰かしらと顔を合わせることがあると、大抵咎めるような眼差しを送られた。それでも、これまではずっと気がつかない振りをしていた。けれど面と向かって、しかもあのいつだって優しかった商店の婆さんの言葉を聞いたとき、その目の奥の暗いものを垣間見た気がして、黒鋼は酷く打ちのめされた気がした。
ファイはよく分からないことばかり言うし、何を考えているかも分からない変わった奴だけど、黒鋼のように悪戯もしなければ、ハメを外してガラスを割ったりもしない。上級生とケンカだってしないし、いつだってふにゃふにゃと笑って絵を描いたり、飴玉を口の中で転がしているだけだ。
何をしたというのだろう。
ただ、外からやって来たというだけで。
ただ、他の人間と違う色をしているというだけで。
何が違うのか、分からない。
両親はどう思うのだろうか。あの優しくて穏やかな父と母は、自分がファイといることを知ったら。あの婆さんと、同じことを言うのだろうか。他の者と同じ目で見るのだろうか……。
黒鋼はブルブルと首を振った。考えたくもなかった。
やがて見慣れた鳥居を潜り、神木が目の前に現れた。ファイが駆け出して、子猫を抱えたまま中に入り込んだ。冷たかった牛乳は、黒鋼の手の中ですっかり温くなっていた。
*
夕日が傾き始めた頃、神木の中の空洞にはオレンジ色の光の柱が射し込んでいた。
ぺったりと、女の子みたいな座り方をしたファイの膝の上には、子猫が丸くなっている。
「ちっちゃいねぇ、かわいいねぇ。どうしてこんなにちっちゃいのー?」
ファイが指でしきりに頭を撫でているけれど、やはり子猫はぐったりとしていて、呼吸をする度に苦しげに背中が大きく上下していた。
黒鋼は貰ってきたプラスチックの容器に、温くなった牛乳を注いで置いた。ファイの膝からそっと子猫を抱き上げて、容器の側に移動させる。
「ほら、飲めって」
「にゃんこー、のんでー」
子猫は弱々しく顔を上げて、自分の身体よりも大きなパックの縁に鼻をペタリと押し付けた。匂いを嗅いで、それからまた地面に顔を埋める。
「牛乳、キライなのかな? 黒たんとおんなじだー」
「うるせぇな……」
このくらいの子猫なら、まだ母猫にピタリとくっついて、お乳を貰わねばならないはずだ。自分だけの力では、まだ腹を満たすことが出来ないのかもしれない。知世だって、ほんの少し前までは母に抱かれてミルクを飲んでいた。母が乳房を出すのをなんとなく見ていられなくて、黒鋼はいつもそっぽを向いていたけれど。
「やっぱりダメか」
「ダメじゃないよー! にゃんこー、ほら、牛乳はおいしいよー」
ファイが小さな背中を撫でた。黒鋼はもうすっかり諦めの境地だったけれど、ファイに撫でられていた子猫がそろそろと顔を上げて、今にも折れそうな手足を震わせながら立ち上がった。
「お?」
「あ!」
探るように、牛乳の表面に鼻をつける。白い液体が鼻先について、それをキッカケに子猫はチロチロと牛乳を舐めた。砂漠で水を得たように、そのままの勢いで夢中になって舐め続けている。
ファイは「やったねー」と言ってバンザイをした。黒鋼もほっと胸を撫で下ろす。
「飯が食えるなら大丈夫なんだ。鋼丸だってそうだ。病院の先生が、いつもそう言ってるからな」
真っ黒な老犬の鋼丸は、昔に比べれば随分と食が細くはなったが、これといって大きな病気をすることもなく、毎日ちゃんとご飯を食べてくれる。それでも月に一度、父が運転する車で山を下りて市街地の動物病院へ行くのだが、黒鋼はいつもくっついて行っていた。
そこで頭がすっかりハゲてしまっている、眼鏡をかけた初老の男性医師が、鋼丸を撫でながらよく言うのだ。人間も動物も、食べられなくなったら終いだと。
「ねねね黒たん、にゃんこのおなか、ちょっとだけポッコリしてきたよー」
「ほんとだ」
ぺしゃんこだった腹が、ほんの僅かであるが膨らんできたように見えた。そこで黒鋼はようやく少し笑うことが出来て、ファイの金色の頭を撫でてやった。
「オレもおなかすいたよー、黒たん」
「だな」
ふと見ると、射し込んでいた暖色の光が弱まっていた。切り込みから少し顔を出すと、空山の境界線が僅かに青い。ここのところ随分と日が長くなってきたことを考えると、もうかなり遅い時間なのかもしれない。
「帰らないとまずいな」
「にゃんこどうするのー?」
「うん……」
夏が近いとは言っても、夜から朝にかけてはまだ冷え込む。このままではせっかく腹が満ちても意味がないだろう。とはいえ黒鋼の家には、どうしても連れて帰れない事情がある。
「おまえんちは?」
「オレのおうち?」
ファイは黒鋼の問いに小さく首を傾げた。薄暗くなってきた空洞の中で、ファイの大きくていつも濡れたように潤んでいる瞳が、少しだけ曇ったように見えた。そのまま口を噤んでしまった様子を見て、黒鋼は眉を寄せる。なんともいえない、不安を覚えた。
「仕方ねぇか」
黒鋼は空気を変えようと、なるべく何でもないことのように言って、おもむろにシャツを脱いだ。
「黒たん、なにしてるの? からだ、寒くてヒエヒエになっちゃうよー」
「寒くねぇよ、こんくらい」
上半身すっかり裸になった黒鋼は、悪戯っ子のような顔でニヤっと笑うと、地面に顔を埋めて眠りはじめた子猫を抱いて、シャツで包み込んだ。
「これなら大丈夫だろ」
その温かさに気分がいいのか、子猫が微かに喉を鳴らす。
「ひゃあ! ころころっていったよ!」
「しー、起きちまうだろうが」
「うん、うん、にゃんこおやすみー」
幾度も頷いているファイと、明日の朝早くにここにまた来ようと約束をして、神木を後にした。
そしてシャツを置き去りにして、裸でいつもより遅い時間に戻った黒鋼は、一体どんな悪戯をしてきたのかと呆れた父に、軽くゲンコツを食らった。
*
翌朝は小雨が降っていた。
天気予報では晴れだと言っていたはずなのに、ぜんぜん当たらねぇじゃねぇかと内心で愚痴りながら、黒鋼はいつものリュックの中に牛乳やら魚の缶詰やらボロのブランケットやら、思いつくものを片っ端から詰め込んで家を出た。
日曜日なのに学校へ行くよりも早起きをした黒鋼に、母は「だから雨が降ったのね」と笑っていた。正直、子猫のことが気になってほとんど眠れなかったのだ。
黒い大きな傘を差しながら、秘密基地への道を駆ける。おそらくファイはまだ来ていないだろうが、とにかく置き去りにした子猫が心配だった。今日もちゃんと牛乳を飲んでくれるといいのだが。もし万が一、昨日より弱っているようならば、父には悪いがいよいよ連れて帰るしかない。毎月通っている動物病院は、日曜でも診療を行っている。体質的には受け付けなくても、父ならきっと連れて行ってくれると思うから。
神木の側で傘を投げ出して、手や膝が水気を含んだ土で汚れるのもお構いなしに、薄暗い内部へと潜り込んだ。
するとそこには、まだいないと思っていたはずのファイの、ペタンと座り込んでいる背中があった。意外に思いつつ、中腰で側まで行って小さく笑いかける。
「なんだ、一番乗りじゃなかったな」
「黒たん」
子猫はファイの膝の上、シャツの中で昨日と同じ様に目を閉じていた。
けれど、何か違うような気がした。
「にゃんこ動かないよ」
「え……?」
「あのね、つめたくて、かたいの」
「…………」
「どうしたのかなぁ?」
「ッ、おい、おまえ……!?」
大きな目をパチクリとさせながら顔を向けてきたファイの左頬が、赤黒く腫れて変色しているのを見て、黒鋼は目を見開く。咄嗟に手を伸ばし頬に指を添えれば、あまりにも痛々しいそこは、信じられないほどの熱を孕んでいた。
「ど、どうしたんだよこれ……!?」
その殴られたような痕と、そして動かなくなった子猫を交互に見て、黒鋼は酷く混乱していた。なぜこんなことになっているのだろうか。この痛々しく腫れた皮膚はなんだ。一体なにが、どうして。
昨日まではあった命と、昨日まではなかった痣と。
一瞬にして身体が芯まで冷え切ったような感覚に陥る。底の見えない闇の中に、唐突に放り出されたみたいに、絶望が胸をいっぱいに満たして、今にも溢れてしまいそうだった。
ファイは黒鋼の問いには答えず、抱いていた子猫を近づけてくる。
「ね、さわってみて」
「…………っ」
触らなくとも、子猫がもう死んでいることくらい、見れば分かる。同じ寝顔でも、生きているのと死んでいるのとではまるで違う。説明は出来ないけれど、違うのだ。
それでも黒鋼は無意識に言われるままそれに触れた。ファイの顔のことを詳しく問い質したい思いはあったけれど、子猫の死もまた、あまりに大きすぎた。
指先で触れて、その氷のような感触に目を閉じると首を振った。
「黒たん?」
「よこせ」
「黒たん……」
ファイの膝の上から、シャツに包まれた躯を取り上げる。何も言わない黒鋼に、彼はようやく少し不安そうな顔になった。子猫を抱いたまま神木から抜け出せば、すぐにその後を追ってくる。
小振りだった雨が、少し強くなっていた。暗い曇天に覆われた空を見上げると、雨が目の中に入ってくる。今の、この空は。黒鋼の胸の中と、まるで同じだ。
「ねぇ、にゃんこ……」
見上げてくるファイの痛々しい顔を、悲痛な面持ちで見つめてから、黒鋼は神木の側で膝をついた。
「埋めるんだ」
「うめる……?」
死んでいるのだから。
なぜか、それをハッキリと告げるのは躊躇われた。言葉にするのが怖かった。言えば、きっと後悔に押し潰されてしまう。
なぜ迷惑をかけてでも、昨日のうちに連れて帰らなかったのか。ほんの少し牛乳を舐めたくらいで、安心してしまったのか。なぜファイに、これを先に見つけさせてしまったのか。考えても仕方のないことばかり。
黒鋼は亡骸を傍に置くと、手で土を掘りはじめた。幸い雨で地面は湿っていたから、すんなりと掘れる。小さな身体を納めるための、小さな穴を。深く。
背後で呆然と立ち尽くすファイが呟いた。
「どうしてうめるの?」
やっぱり。ファイは分かっていないのだ。
信じられないようなことだけれど、ファイはおつむが足りないから、だから知らない。
死ぬということを。
「ねぇ、どうして?」
分かっているのに、黒鋼はその悲しさに苛立ちを覚えた。
「うめたらよごれちゃうよ? どうしてそんなことするの?」
――もう、我慢できなかった。
「死んだからに決まってんだろうが!!」
声が大きく響き渡る。バサバサと、枝で雨宿りをしていた鳥達が飛び立つ。
空気が凍り付いて、ふいに、ここは一体何処だったろうかと、まるで迷子にでもなったような気持ちになった。世界がここだけ切り離されたように、時間が止まったような気がして。
後悔が次から次へと込み上げて、黒鋼は涙を流した。男は簡単に泣くもんじゃない。でも、雨がそれを隠してくれるから。だから今だけは。
ファイがどんな顔をしているのか、確かめるのが怖くて黙々と穴を掘る。小石や小枝が指先を傷つけても、ぐっと堪えた。こんな痛みは痛みなんかじゃない。死んでしまった子猫は、もう何も感じることができないのだから。
一人ぼっちで、夜の闇の中。最期まで、きっと寂しかったに違いない。
深い穴に、シャツごと子猫を納めた。ドロドロの土を上から被せ終わる頃には、雨はもっと強く二人の身体を叩いていた。震える息を吐き出すと、立ち上がって振り向く。雨に打たれたファイは呆然とした表情で、子猫が埋まっている場所を見つめている。金色の髪が頬に張り付いて、痛々しい傷を隠していた。
何か言おうとして、声が出ない。
優しい言葉をかけて、それから、その傷はどうしたのかを聞いて。またイジメられでもしたのなら、たとえこんな天気の中だろうがソイツの所へ行って、殴り返してやる。そう言ってやったら、またいつもみたいに笑ってくれるだろうか。
なのに言葉が出なかった。
一秒一秒、確かに時間は進んでいるはずなのに、まるでこの瞬間が永遠にも感じられるほど、重苦しい。やがて青褪めた唇が小さく動いた。
「どうして死ぬの?」
黒鋼に言ったというよりは、自らに問いかけているように聞こえた。虚ろな瞳は、もうどこを見ているのかさえ分からない。
胸が痛くて、張り割けそうだった。思い切り叫び出せたら、少しは楽になれるだろうか。こんな切り裂かれるような痛みは、知らない。
喉に何かが詰まっているみたいな感覚を押し殺して、黒鋼は声を絞り出した。
「……弱ってたから」
「牛乳、のんだよ」
「それでも」
「どうして……?」
「母猫がいなくて……捨てられたから……」
「じゃあなんで……」
ファイの肩や、強く握り締めた拳が震えた。
「じゃあなんでオレは生きてるの!?」
聞いたこともないような大きな声だった。ファイがこれほど感情的になる様を初めて見て、黒鋼は再び声を失った。
華奢な肩が激しく上下に揺れる。ファイは泣いていた。ぎゅうと閉じた目蓋から、大粒の涙が溢れて止まらないのを、降りしきる雨は隠してもくれない。
ファイの家庭の事情は知らない。彼が言うのはいつも『大好きなおばあちゃん』のことばかりで、他の誰かのことを口にしているのを聞いたことがないということに、今さら気がついた。
ファイのことを、何も知らないのだということを。
「みんな……死ぬの……?」
しゃくり上げながら、ファイはどうにか声を紡いでいるようだった。自分も同じように泣いてしまいたいと思ったけれど、必死で我慢する。
「そうだよ」
優しいことは言えなかった。嘘はつけない。ついては、いけない。
「黒ぽんも死ぬの……?」
言いようのない激しい感情が込み上げて、それを押し殺すために息を飲み込んだ。
「……いつかは」
「やだよ」
「…………」
「なんで死なないって言ってくれないの」
「…………」
「死なないって……言ってよぉ……」
しくしくと、ファイは声を上げずに泣いていた。時折、悲鳴のように細くしゃくるだけで、その静かな泣き方が酷く悲しかった。
死なないよと、大丈夫だと、そう言ってやれたならどんなによかったろう。でもそれはとても残酷なことだと思ったから。
ふと、幼い頃に死んでしまった祖父のことを思い出した。まだ知世が産まれる前のこと、黒鋼は祖父が大好きだったから、声を上げて泣いていたのを覚えている。そのとき、父が言ったのだ。
『誰だって最初から、死ぬことは決まっているんだ。だから最期まで、後悔しないように精一杯生きるんだ』
おじいちゃんはそんな風に生きることが出来たのかと、幼い黒鋼は聞いた。父は笑って、『俺の親父だからな』と言って微笑んだ。
だから、生きているものは必ず死ぬ。
ファイだって、黒鋼だって、庭先で眠ってばかりの鋼丸だって。きっとあの小さな子猫だってそうだったのだ。光のような速さでしかなかった一瞬の生を、それでも全力で生きていた。
黒鋼はそれをファイに教えてやりたかったけれど、今は上手く言葉にするだけの自信がなかった。だから、ただ泣いているファイに近寄って、落ちている黒い傘を拾うと雨を遮りながら、細い身体を抱きしめた。
震える身体があまりにも冷たくて、可哀想で、悲しくて、黒鋼は唇を噛み締めた。
雨が、止むことなくずっと降り続いていた。
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