2025/08/04 Mon 道祖神の傍らで 窓の外は蝉時雨がひっきりなしに響き渡っていた。 それと連動するかのような夏の暑さに、扇風機なんてただの気休めにしかならない。それでも縋るものは他になくて、ファイはカタカタと音がする年代物のそれに顔を寄せ「あー」と声を上げていた。 声が振動して、まるでロボットにでもなったみたいだった。なんだかおかしくて「うふふ」と笑ったら、それもやっぱり振動した。 「おもしろーい」 ファイはそのままコロンと寝転がった。自室の天井を眺めながら、小さく唸って首を傾げる。 「もしかしてこれって、たいくつ、っていうのかな?」 そう、ファイは夏休み真っ只中のこの時期、思い切り暇を持て余していた。 * 夏休みになったら、学校へ行けない代わりに黒鋼と遊ぶ時間がもっと増えるのだと思っていた。けれど、その期待はあっさり裏切られた。 黒鋼の家は小さな民宿を営んでおり、彼はこの時期になると、毎年手伝いに借り出されているのだという。 ファイは家のために遊ぶのを我慢する黒鋼を、とても偉いと思った。でも、やっぱり会えないと寂しい。もしそう言ってお願いしたら、黒鋼は我侭を聞いてくれるだろうか。 そこで、ファイはブンブンと首を振って起き上がった。 「そんなのダメだよー……オレ、もう子供じゃないんだもん」 なんだかこんな風に独り言ばかりが増えた気がした。だが、元々こうだったような気もする。ファイは考え込んだ。 「いいお天気だし……おさんぽ、しちゃおうか?」 そういえば祖母がお古の麦藁帽子をくれたけど、まだかぶっていないことを思い出す。それに、最後に黒鋼と会ったのはもう一週間も前のことで、それ以来ずっと秘密基地へ行っていない。子猫のお墓に庭の向日葵を供えたいと思った。 だがそこで、ファイはまた首を振った。黒鋼にきつく言われていることがあるのを思い出したのだ。 『俺がいないときは、一人で外に遊びに出歩くのは禁止だぞ!』 ファイは白い眼帯に覆われた左目を、指先でちょこちょこと引っ掻いた。怪我をしてから、こちらの目は空っぽになってしまった。目蓋にはすっかり傷が残ってしまって、なんだかそれが恐くて気持ち悪くて、鏡で見るのも嫌だった。 だから他の人間に見せるもの嫌で仕方ない。特に、黒鋼がこれを見て恐がったりしたら、とても悲しい。嫌われるのは嫌だ。だから眼帯は絶対に、寝るときと風呂に入る以外では、外さない。 この怪我のせいで見える世界は半分だけになってしまった。一人で歩くと転びそうになることもあるけれど、そのおかげで、黒鋼は今までよりもっとファイの近くにいてくれるようになった。いつも手を繋いでくれるし、転びそうになっても助けてくれる。たくさん心配をかけてしまったけれど、そのことがファイには嬉しくて仕方がなかった。 黒鋼は皆の人気者だから、本当はこんなことを思うのはいけないことだ。こんな風に思う自分は、とても嫌な人間だと思う。でも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。 ファイは猫のように四つん這いで窓の側までにじり寄った。膝立ちで網戸越しに景色を眺める。晴れた空と、美しい緑の田畑が、ずっと遠くまで見通せた。視界は狭まったけれど、ファイはかなり視力がよかったりする。 「あれー?」 その中の一角に、見慣れぬものが混ざっていることに気がついた。ファイは片方しかない目を細めて、網戸を開けると僅かに身を乗り出した。 「わー! お祭だー!」 よくよく耳を澄ませば、蝉の合唱に混じって『ドンドン』とか『テンテン』という面白い音がする。色とりどりの提灯と、紅白の幕がかかったやぐらが見えた。 あそこは確か集会所のある公園だったはずだ。幾つかテントが並んでいる。きっと夜に向けて、大勢の人間が準備に勤しんでいるのだろう。ファイは少し嬉しくなった。 「黒たんもいるかな?」 そういえば最後に会ったとき、黒鋼は祭の手伝いにも駆りだされるのだと零していたっけ。 行ったら会えるかもしれない。でもきっと黒鋼は忙しいし、何より自分がそんなものに参加すれば、また祖父が怒るに違いないと思った。祖父はそもそもファイが学校へ行くことすら、快く思っていないのだ。それこそ、我侭など言えっこない。 それでもファイは、遠く田畑の一角を眺めながら、その音を聞いているだけで十分楽しい気分になれた。だってあそこには、きっと黒鋼もいるから。 ファイは一日中それを眺めて過ごした。 * 夕方頃になると、祭囃子がよく聞こえるようになって、提灯に明かりが灯された。 ゆっくりと陽が沈み、辺りが闇に染まると、色とりどりのそれはまるで夢のように美しく光り輝いていた。 ファイは夕食の後、部屋に電気もつけずにその光景を眺めた。聞きなれないお囃子と、田んぼから聞こえるカエルの合唱とが入り混じって、耳を楽しませてくれる。昼間の暑さが嘘のように、涼しい風が窓から吹き込んでくるのが気持ちいい。 ファイは瞳を輝かせながらそれを眺めて、そして黒鋼を思った。遠くから眺めているのも楽しいけれど、いつかきっと一緒に参加できたらいいなと思う。心の中で願うだけなら、誰にも叱られることはない。 どれくらいそうやって思いを馳せていただろうか。ファイは視界の中で、何かが動くのを見たような気がした。 「んん?」 遠くを見ていた視線を落とす。今はほとんど廃墟と化している、元茶屋の建物のすぐ脇。外灯の下で、ぴょんと飛び跳ねながら背伸びをして、こちらの様子を窺っている者がいた。 「あ!」 ファイは声を上げて慌てて立ち上がると、部屋に明かりをつけた。 「黒るーだ!」 そこにいたのは黒鋼だった。部屋が明るくなったことで、彼の方からもファイの姿が確認できたらしい。大きく手を振ってくる姿に、ファイは嬉しくて同じように手を振った。 それから、ファイは唇だけを動かすと「待ってて」と告げた。黒鋼が頷いたのを確認すると、箪笥の上に置いておいた麦藁帽子を手に取り、静かに音を立てないように、部屋から抜け出す。 裸足の足が床に張り付いてペタペタと音がする。壁に身を寄せ、暗い階段をゆっくりと降りた。今にも駆け出したいけれど、バレないために必死だった。 本当はこんなことはいけないことだと思った。けれど、黒鋼が来てくれたのだと思うと、我慢ならない。少しだけ、言葉を交わしたらすぐに戻ればいいと自分に言い聞かせて、終始慎重に行動して外へ出ることに成功した。麦藁帽子をしっかりと頭にかぶる。 幸い、祖父母は朝が早い代わりに、夕食と風呂を済ませたあとの就寝時間が早い。 「黒たん」 「おう」 外灯の心許ない光を頼りに、フラフラと坂を下りて手を振った。地面は砂利が敷き詰められているせいで、ただでさえ足元がふらつく。黒鋼が転びそうになったファイを両手で受け止めてくれた。 ファイが満面の笑顔で礼を言うと、黒鋼は少し赤くなった。 「おまえ、夜だぞ。これどうした」 黒鋼の手が、ファイの帽子の天辺に触れてグリグリした。ファイはよくぞ聞いてくれましたとばかりに、大きく頷いた。 「おばあちゃんがくれたのー。どうしてもかぶりたかったんだもん。にあう?」 彼はまた、少し赤くなりながらコクコクと二度ほど首を振った。嬉しかった。 「それより黒わんこ、どうして? お手伝いは?」 「さんざん手伝った……それより、悪かったな。俺もう帰るから」 黒鋼は、夜にファイを屋敷から抜け出させてしまったことを気にかけているようだった。ファイは黒鋼にしがみついたまま、思い切り首を振る。 「へいきだよー。おじいちゃんもおばあちゃんも、もう寝てるの。だからもうちょっとお話しよー?」 ね? と頼み込むと、黒鋼は少し考え込んだ後「じゃあ……」と遠慮がちに切り出した。 「少しだけな……。あのな、もうすぐ花火が上がるんだぜ」 「花火!?」 「しーっ! おまえ、声でかすぎだぞ……」 「ご、ごめんー」 ファイは両手で口元を押さえた。胸がうきうきと跳ね上がっていて、嬉しくて叫び出したくて仕方がない。黒鋼の腹に両手を回して、力いっぱいしがみつく。 「だって、だってね、オレ黒たんに会いたかったんだもんー」 「わ、わかったから離れろって」 「どうして赤いのー?」 「うるせぇな」 黒鋼は、なぜか慌てた様子でファイの肩を掴むと引き離した。ファイはその赤くなっている頬を見て、リンゴみたいで可愛いなぁと思った。 * 花火が上がるまでの間、二人は田んぼの畦道を、祭り会場を尻目にブラブラ歩いた。 時折、浴衣姿の観光客と擦れ違うと、皆が夜に麦藁帽子をかぶっているファイをクスクスと笑った。黒鋼が「ほれ見ろ」と呆れたように言うけれど、ファイはちっとも気にしないで、むしろ笑っている彼らに向かって手を振った。 ファイは黒鋼に会えなかったこの数日のことを、ぺらぺらと一生懸命に喋った。黒鋼は時折頷いたり、笑ったりしてただ聞いてくれる。実際は家で宿題をしたり、時々祖母の畑仕事などを手伝ったりと、何の変哲もないことばかりだった。 ファイはとにかく楽しくて仕方がなかった。黒鋼が会いに来てくれたこと、繋いだ手の熱さ、夜にこっそりと家を抜け出しているということも、悪いことだと思えば思うほど、なぜかドキドキした。 「ねぇ黒たん。黒たんはお手伝いエライねー。お手伝い、楽しかったー?」 「楽しいわけあるか。退屈だし面倒だし、嫌んなるぜ」 「あのねあのね、オレもおばあちゃんのお手伝いしたよー。えらい?」 黒鋼が笑って、麦わらの頭をグリグリと撫でた。少し乱暴なその動作に、ファイの声が裏返る。 「きゃあ」 「エライよ、おまえは」 ファイはなんだか自分の頬がぽわっと熱くなるのを感じた。きっと赤くなっているに違いない。黒鋼も同じように頬を赤くしていたのは、きっと今の自分と同じだからなのだと思った。嬉しくて楽しいから、胸がドキドキして顔が赤くなるのだと。 やがて二人は道祖神の傍で、ふと足を止めた。ファイは小首を傾げ、黒鋼を見上げる。 「黒たん、明日もずっといそがしいー?」 「すぐにまた遊べる」 「ほんとー?」 「ほんと」 「そしたら、またこうやってむかえに来てくれるー?」 黒鋼が大きく頷いた。ファイはほっとして、ふにゃりと笑った。 「うれしい」 本当は、どうしたらいいか分からなくて、ずっと考えていた。 黒鋼と仲良くなるまでは、一人でいることなんて当たり前のはずだったのに。今は、そんなとき自分がどんな風にして時間を過ごしていたのかを、思い出せなくなっていたから。 一人だった時間の方が、今この瞬間よりもずっと長かったはずなのに。 けれど黒鋼は会いに来てくれた。次に会えるときの約束をくれた。ファイは、ちゃんといい子にして待っていようと、改めて胸に誓った。 そのとき、ひゅうと音がして花火が上がった。 「わぁ!」 赤や橙の光が空の上で弾ける。二人は手を繋いだままそれを見上げた。遠くから、同じようにそれを見る人たちの歓声が聞こえた。ファイも思い切り声を上げる。 「キレイー!!」 「うん」 その花火は、テレビなどで見るものよりは随分と小さなものだったけど、ファイの眼には世界で一番大きくて、綺麗なものに映った。 黒鋼を見ると、彼の瞳の中にも花火が散っていた。とても綺麗だと思う。ずっと見ていたくて、ファイはいつしか花火よりもその横顔に夢中になった。 「……なんだよ?」 すると視線に気づいた黒鋼が、ちょっと怒ったような顔で睨んでくる。にっこり笑うと、彼はさらにムッとした顔をした。 「見るとこ違ってんぞ」 「黒たんキレイだよー」 「は?」 「やっぱり黒たんはキラキラしてるねー」 そう言うと、すかさず「バカ」と言われてしまう。けれど、それから黒鋼はどこかバツが悪そうに口をもごもごさせた後、ぷいとそっぽを向いた。 クライマックスへ向けて、花火が忙しなく上がる。絶え間なく、幾つもの花が夜空に咲いては、散ってゆく。 ――てめぇのほうが、ずっとキレイだ それと被さるように、今宵一番大きな音と共に花火が上がった。その最後の一発のせいで、黒鋼の言葉は掻き消されてしまった。 ファイはなぜか、聞き取れなかった言葉について問うことをしなかった。握られていた手が、さらに強く握られた。だからファイもぎゅうと握り返した。汗ばんだ手の平が離れてしまわないよう、必死だった。 ファイの小さな胸の中は、熱いものでいっぱいに溢れかえっていた。それはとても幸せな気持ちで、甘いお菓子を目の前にたくさん差し出されたら、こんな気持ちになるのかもしれないと思った。 だけど、それを上手く言葉に出来ない。もっと大きくなって、もっとたくさんの言葉を紡げるようになったら、ちゃんと自分の気持ちを形にして、伝えることが出来るだろうか。この気持ちに、名前をつけることが出来るだろうか。 黒鋼も、同じ気持ちだったらいいと思う。 手をきつく結び合ったまま、元来た道を行きながら、二人はただ「また来年も一緒に見ようね」と言って笑い合うだけで、精一杯だった。 祭の夜は、そうして終わりを告げた。 ←戻る ・ 第二章へ→
窓の外は蝉時雨がひっきりなしに響き渡っていた。
それと連動するかのような夏の暑さに、扇風機なんてただの気休めにしかならない。それでも縋るものは他になくて、ファイはカタカタと音がする年代物のそれに顔を寄せ「あー」と声を上げていた。
声が振動して、まるでロボットにでもなったみたいだった。なんだかおかしくて「うふふ」と笑ったら、それもやっぱり振動した。
「おもしろーい」
ファイはそのままコロンと寝転がった。自室の天井を眺めながら、小さく唸って首を傾げる。
「もしかしてこれって、たいくつ、っていうのかな?」
そう、ファイは夏休み真っ只中のこの時期、思い切り暇を持て余していた。
*
夏休みになったら、学校へ行けない代わりに黒鋼と遊ぶ時間がもっと増えるのだと思っていた。けれど、その期待はあっさり裏切られた。
黒鋼の家は小さな民宿を営んでおり、彼はこの時期になると、毎年手伝いに借り出されているのだという。
ファイは家のために遊ぶのを我慢する黒鋼を、とても偉いと思った。でも、やっぱり会えないと寂しい。もしそう言ってお願いしたら、黒鋼は我侭を聞いてくれるだろうか。
そこで、ファイはブンブンと首を振って起き上がった。
「そんなのダメだよー……オレ、もう子供じゃないんだもん」
なんだかこんな風に独り言ばかりが増えた気がした。だが、元々こうだったような気もする。ファイは考え込んだ。
「いいお天気だし……おさんぽ、しちゃおうか?」
そういえば祖母がお古の麦藁帽子をくれたけど、まだかぶっていないことを思い出す。それに、最後に黒鋼と会ったのはもう一週間も前のことで、それ以来ずっと秘密基地へ行っていない。子猫のお墓に庭の向日葵を供えたいと思った。
だがそこで、ファイはまた首を振った。黒鋼にきつく言われていることがあるのを思い出したのだ。
『俺がいないときは、一人で外に遊びに出歩くのは禁止だぞ!』
ファイは白い眼帯に覆われた左目を、指先でちょこちょこと引っ掻いた。怪我をしてから、こちらの目は空っぽになってしまった。目蓋にはすっかり傷が残ってしまって、なんだかそれが恐くて気持ち悪くて、鏡で見るのも嫌だった。
だから他の人間に見せるもの嫌で仕方ない。特に、黒鋼がこれを見て恐がったりしたら、とても悲しい。嫌われるのは嫌だ。だから眼帯は絶対に、寝るときと風呂に入る以外では、外さない。
この怪我のせいで見える世界は半分だけになってしまった。一人で歩くと転びそうになることもあるけれど、そのおかげで、黒鋼は今までよりもっとファイの近くにいてくれるようになった。いつも手を繋いでくれるし、転びそうになっても助けてくれる。たくさん心配をかけてしまったけれど、そのことがファイには嬉しくて仕方がなかった。
黒鋼は皆の人気者だから、本当はこんなことを思うのはいけないことだ。こんな風に思う自分は、とても嫌な人間だと思う。でも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。
ファイは猫のように四つん這いで窓の側までにじり寄った。膝立ちで網戸越しに景色を眺める。晴れた空と、美しい緑の田畑が、ずっと遠くまで見通せた。視界は狭まったけれど、ファイはかなり視力がよかったりする。
「あれー?」
その中の一角に、見慣れぬものが混ざっていることに気がついた。ファイは片方しかない目を細めて、網戸を開けると僅かに身を乗り出した。
「わー! お祭だー!」
よくよく耳を澄ませば、蝉の合唱に混じって『ドンドン』とか『テンテン』という面白い音がする。色とりどりの提灯と、紅白の幕がかかったやぐらが見えた。
あそこは確か集会所のある公園だったはずだ。幾つかテントが並んでいる。きっと夜に向けて、大勢の人間が準備に勤しんでいるのだろう。ファイは少し嬉しくなった。
「黒たんもいるかな?」
そういえば最後に会ったとき、黒鋼は祭の手伝いにも駆りだされるのだと零していたっけ。
行ったら会えるかもしれない。でもきっと黒鋼は忙しいし、何より自分がそんなものに参加すれば、また祖父が怒るに違いないと思った。祖父はそもそもファイが学校へ行くことすら、快く思っていないのだ。それこそ、我侭など言えっこない。
それでもファイは、遠く田畑の一角を眺めながら、その音を聞いているだけで十分楽しい気分になれた。だってあそこには、きっと黒鋼もいるから。
ファイは一日中それを眺めて過ごした。
*
夕方頃になると、祭囃子がよく聞こえるようになって、提灯に明かりが灯された。
ゆっくりと陽が沈み、辺りが闇に染まると、色とりどりのそれはまるで夢のように美しく光り輝いていた。
ファイは夕食の後、部屋に電気もつけずにその光景を眺めた。聞きなれないお囃子と、田んぼから聞こえるカエルの合唱とが入り混じって、耳を楽しませてくれる。昼間の暑さが嘘のように、涼しい風が窓から吹き込んでくるのが気持ちいい。
ファイは瞳を輝かせながらそれを眺めて、そして黒鋼を思った。遠くから眺めているのも楽しいけれど、いつかきっと一緒に参加できたらいいなと思う。心の中で願うだけなら、誰にも叱られることはない。
どれくらいそうやって思いを馳せていただろうか。ファイは視界の中で、何かが動くのを見たような気がした。
「んん?」
遠くを見ていた視線を落とす。今はほとんど廃墟と化している、元茶屋の建物のすぐ脇。外灯の下で、ぴょんと飛び跳ねながら背伸びをして、こちらの様子を窺っている者がいた。
「あ!」
ファイは声を上げて慌てて立ち上がると、部屋に明かりをつけた。
「黒るーだ!」
そこにいたのは黒鋼だった。部屋が明るくなったことで、彼の方からもファイの姿が確認できたらしい。大きく手を振ってくる姿に、ファイは嬉しくて同じように手を振った。
それから、ファイは唇だけを動かすと「待ってて」と告げた。黒鋼が頷いたのを確認すると、箪笥の上に置いておいた麦藁帽子を手に取り、静かに音を立てないように、部屋から抜け出す。
裸足の足が床に張り付いてペタペタと音がする。壁に身を寄せ、暗い階段をゆっくりと降りた。今にも駆け出したいけれど、バレないために必死だった。
本当はこんなことはいけないことだと思った。けれど、黒鋼が来てくれたのだと思うと、我慢ならない。少しだけ、言葉を交わしたらすぐに戻ればいいと自分に言い聞かせて、終始慎重に行動して外へ出ることに成功した。麦藁帽子をしっかりと頭にかぶる。
幸い、祖父母は朝が早い代わりに、夕食と風呂を済ませたあとの就寝時間が早い。
「黒たん」
「おう」
外灯の心許ない光を頼りに、フラフラと坂を下りて手を振った。地面は砂利が敷き詰められているせいで、ただでさえ足元がふらつく。黒鋼が転びそうになったファイを両手で受け止めてくれた。
ファイが満面の笑顔で礼を言うと、黒鋼は少し赤くなった。
「おまえ、夜だぞ。これどうした」
黒鋼の手が、ファイの帽子の天辺に触れてグリグリした。ファイはよくぞ聞いてくれましたとばかりに、大きく頷いた。
「おばあちゃんがくれたのー。どうしてもかぶりたかったんだもん。にあう?」
彼はまた、少し赤くなりながらコクコクと二度ほど首を振った。嬉しかった。
「それより黒わんこ、どうして? お手伝いは?」
「さんざん手伝った……それより、悪かったな。俺もう帰るから」
黒鋼は、夜にファイを屋敷から抜け出させてしまったことを気にかけているようだった。ファイは黒鋼にしがみついたまま、思い切り首を振る。
「へいきだよー。おじいちゃんもおばあちゃんも、もう寝てるの。だからもうちょっとお話しよー?」
ね? と頼み込むと、黒鋼は少し考え込んだ後「じゃあ……」と遠慮がちに切り出した。
「少しだけな……。あのな、もうすぐ花火が上がるんだぜ」
「花火!?」
「しーっ! おまえ、声でかすぎだぞ……」
「ご、ごめんー」
ファイは両手で口元を押さえた。胸がうきうきと跳ね上がっていて、嬉しくて叫び出したくて仕方がない。黒鋼の腹に両手を回して、力いっぱいしがみつく。
「だって、だってね、オレ黒たんに会いたかったんだもんー」
「わ、わかったから離れろって」
「どうして赤いのー?」
「うるせぇな」
黒鋼は、なぜか慌てた様子でファイの肩を掴むと引き離した。ファイはその赤くなっている頬を見て、リンゴみたいで可愛いなぁと思った。
*
花火が上がるまでの間、二人は田んぼの畦道を、祭り会場を尻目にブラブラ歩いた。
時折、浴衣姿の観光客と擦れ違うと、皆が夜に麦藁帽子をかぶっているファイをクスクスと笑った。黒鋼が「ほれ見ろ」と呆れたように言うけれど、ファイはちっとも気にしないで、むしろ笑っている彼らに向かって手を振った。
ファイは黒鋼に会えなかったこの数日のことを、ぺらぺらと一生懸命に喋った。黒鋼は時折頷いたり、笑ったりしてただ聞いてくれる。実際は家で宿題をしたり、時々祖母の畑仕事などを手伝ったりと、何の変哲もないことばかりだった。
ファイはとにかく楽しくて仕方がなかった。黒鋼が会いに来てくれたこと、繋いだ手の熱さ、夜にこっそりと家を抜け出しているということも、悪いことだと思えば思うほど、なぜかドキドキした。
「ねぇ黒たん。黒たんはお手伝いエライねー。お手伝い、楽しかったー?」
「楽しいわけあるか。退屈だし面倒だし、嫌んなるぜ」
「あのねあのね、オレもおばあちゃんのお手伝いしたよー。えらい?」
黒鋼が笑って、麦わらの頭をグリグリと撫でた。少し乱暴なその動作に、ファイの声が裏返る。
「きゃあ」
「エライよ、おまえは」
ファイはなんだか自分の頬がぽわっと熱くなるのを感じた。きっと赤くなっているに違いない。黒鋼も同じように頬を赤くしていたのは、きっと今の自分と同じだからなのだと思った。嬉しくて楽しいから、胸がドキドキして顔が赤くなるのだと。
やがて二人は道祖神の傍で、ふと足を止めた。ファイは小首を傾げ、黒鋼を見上げる。
「黒たん、明日もずっといそがしいー?」
「すぐにまた遊べる」
「ほんとー?」
「ほんと」
「そしたら、またこうやってむかえに来てくれるー?」
黒鋼が大きく頷いた。ファイはほっとして、ふにゃりと笑った。
「うれしい」
本当は、どうしたらいいか分からなくて、ずっと考えていた。
黒鋼と仲良くなるまでは、一人でいることなんて当たり前のはずだったのに。今は、そんなとき自分がどんな風にして時間を過ごしていたのかを、思い出せなくなっていたから。
一人だった時間の方が、今この瞬間よりもずっと長かったはずなのに。
けれど黒鋼は会いに来てくれた。次に会えるときの約束をくれた。ファイは、ちゃんといい子にして待っていようと、改めて胸に誓った。
そのとき、ひゅうと音がして花火が上がった。
「わぁ!」
赤や橙の光が空の上で弾ける。二人は手を繋いだままそれを見上げた。遠くから、同じようにそれを見る人たちの歓声が聞こえた。ファイも思い切り声を上げる。
「キレイー!!」
「うん」
その花火は、テレビなどで見るものよりは随分と小さなものだったけど、ファイの眼には世界で一番大きくて、綺麗なものに映った。
黒鋼を見ると、彼の瞳の中にも花火が散っていた。とても綺麗だと思う。ずっと見ていたくて、ファイはいつしか花火よりもその横顔に夢中になった。
「……なんだよ?」
すると視線に気づいた黒鋼が、ちょっと怒ったような顔で睨んでくる。にっこり笑うと、彼はさらにムッとした顔をした。
「見るとこ違ってんぞ」
「黒たんキレイだよー」
「は?」
「やっぱり黒たんはキラキラしてるねー」
そう言うと、すかさず「バカ」と言われてしまう。けれど、それから黒鋼はどこかバツが悪そうに口をもごもごさせた後、ぷいとそっぽを向いた。
クライマックスへ向けて、花火が忙しなく上がる。絶え間なく、幾つもの花が夜空に咲いては、散ってゆく。
――てめぇのほうが、ずっとキレイだ
それと被さるように、今宵一番大きな音と共に花火が上がった。その最後の一発のせいで、黒鋼の言葉は掻き消されてしまった。
ファイはなぜか、聞き取れなかった言葉について問うことをしなかった。握られていた手が、さらに強く握られた。だからファイもぎゅうと握り返した。汗ばんだ手の平が離れてしまわないよう、必死だった。
ファイの小さな胸の中は、熱いものでいっぱいに溢れかえっていた。それはとても幸せな気持ちで、甘いお菓子を目の前にたくさん差し出されたら、こんな気持ちになるのかもしれないと思った。
だけど、それを上手く言葉に出来ない。もっと大きくなって、もっとたくさんの言葉を紡げるようになったら、ちゃんと自分の気持ちを形にして、伝えることが出来るだろうか。この気持ちに、名前をつけることが出来るだろうか。
黒鋼も、同じ気持ちだったらいいと思う。
手をきつく結び合ったまま、元来た道を行きながら、二人はただ「また来年も一緒に見ようね」と言って笑い合うだけで、精一杯だった。
祭の夜は、そうして終わりを告げた。
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