2025/08/07 Thu 距離 決して離さないと決めていたはずのその手を。 振り切ることは、思っていた以上に簡単なことだった。 「はい!」 朝日の下で、彼の笑顔はいつもと変わらず無邪気で眩しいものだった。 けれど元気のいい掛け声と共に差し出された白い手を、黒鋼は取ることが出来ない。ただ息を呑んで、表情を凍てつかせた。 夏休みが終わった、最初の登校日。あの公園での一件以来、二人が顔を合わせるのはこれが初めてのことだった。 「?」 ファイが目を丸くしながら、きょとんとした顔で首を傾げる。黒鋼は、強く拳を握った。 ほんの少し前までは。それでもこの手を取ることが出来たはずだった。辺りに人がいれば咄嗟に離してしまうようにはなったけど、それでも。 本当は一言でも謝ることが出来ればと考えていた。あの花火の夜から残された夏休みの間、黒鋼は後悔と苦悩だけを胸に過ごしていた。 だが、変わらず微笑んで手を差し伸べて寄越すファイの顔を見て、黒鋼は悟った。ファイは、何もなかったことにしてくれたのだ。あれほど恐い思いをさせてしまったのに、傷つけてしまったのに。 もう、決して触れてはいけないような気がした。この優しさに甘えてしまったら、愚かな自分はきっとまた同じ過ちを繰り返す。 不安そうに見上げるファイの手が、行き場を失ったようにゆらゆらと揺れる。黒鋼はその視線から目を逸らして、声を絞り出した。 「もうガキじゃねぇんだ。こういうのは、もういいだろ」 押し殺した声が、自分でも酷く冷たいものに聞こえて、やるせなさに心が痛む。咄嗟に見たファイの顔は、何を言われているのか分からないとでもいうような、不思議そうなものだった。けれど再び黒鋼が顔を逸らすと、空を彷徨うようにして差し出されていた手が、ストンと落ちた。 「そっか。そうだよね。オレたちもう大人だもんねー」 ファイは笑っている。そんなこと、見なくとも痛いほど分かっていた。 * それから。 黒鋼がファイの手を引くことも、そしてファイが黒鋼に手を差し出すこともなくなった。お互いまっすぐに目を合わせることさえも。以前のように擦り寄ってくることもなければ、帰り道に鼻歌を口ずさむこともなくなった。 手を繋がずとも朝は迎えに行くし、帰りも送り届ける。けれど、二人の間には明らかな距離があった。それは黒鋼が自ら作り上げた壁だった。 少し前を行く黒鋼の後ろから数歩下がった位置を、ファイが歩いている。それでも幾度か振り返って確認すると、俯いていたファイは咄嗟に顔を上げて微笑むのだった。 これまでファイと何を話しながら過ごしていたのか、この頃にはなぜか霧がかったように思い出せなくなっていた。思えば黒鋼は、自ら進んで会話をしていなかったように思う。いつだって勝手に喋ったり、訳の分からない歌を歌ったりして、楽しそうにしていたのはファイだった。 自分から壁を作っておいて、今はあの繰り返される調子はずれの鼻歌が恋しい。今も夕暮れの道を無言で歩きながら思い出すのは、少女のような可憐な歌声だった。もうあの声は、黒鋼の記憶の中にしか存在しないけれど。 何事もなかったかのように振り向いて、手を握ってやれたらどんなにいいだろう。ファイを傷つけて、寂しい思いをさせていることは分かっている。甘ったれな彼が差し出してきた手を、冷たく払ったあの朝から、この痛みと葛藤は消えることがない。ずっと、苦しいままだ。 でもそれ以上に、彼の温もりを、息使いを、甘えた声を傍で聞けば、また繰り返してしまうかもしれないと思った。 黒鋼は、自分自身を完全に信じることが出来なくなるほど、追い詰められていた。 * 長い長い道の先には、見慣れたファイの家がある。 トボトボと会話もなく歩きながら、それでも今日は言わなければならないことがあった。 「黒たん」 どう切り出そうかと窺っていると、まるで見越していたかのように先にファイが呼びかけてきた。彼は昔から、こんな風に黒鋼を驚かせることがあった。 「……なんだ」 戸惑いを押し殺すと、やはり声も自然と、まるで突き放したような色を含むから嫌気がさす。ファイは少しだけ歩く速度を早めると、黒鋼の横に並んだ。頭ひとつぶん低い位置で、金色が揺れる。 やはり、彼が自分の背を追い越すことはなかったなと、遠い日のことを思い出した。これからのことは、分からないけれど。 「学校、決めた?」 ドキリとした。やっぱりファイには不思議な力があるのではないかと思う。黒鋼が切り出そうとした内容もまた、志望校に関することだったからだ。 「……おまえは?」 「うん……」 質問に質問で返したのは咄嗟のことで、黒鋼は未だに自分が迷っているのだということを痛感した。今ならばまだ戻れるかもしれないという、仄かな希望が少なからずあった。ファイは俯いたまま、足元を見ている。 「おばあちゃんが、近い方がいいんじゃないかって。通うのも楽だし、安心だから」 「……そうか」 現在二人が通う中学の、目と鼻の先にある高校のことを言っているのだろう。隣の市に本校があるという、そこはいわゆる分校というもので、規模も小さかった。 「でも、あのね、オレ……まだ完全に決めたわけじゃなくてね、黒たんはどこ行くのかなって、気になってて」 「…………」 まだ決めてないならいいんだけど、と口ごもるファイは、照れ臭そうに少しだけ頬を染めていた。 黒鋼は暫し黙り込んでしまう。まだ決めていないと嘘をつくのは簡単だ。夏休みがとうに過ぎてしまったこの時期になっても、未だ志望校を決められずフラフラしている生徒は案外少なくない。黒鋼もファイもそれなりの成績を収めているから、目指そうと思えば同じ高校を受験することは可能だろう。けれど。 「俺は」 ファイの住む大きな屋敷の前にたどり着いて、ようやく黒鋼は口を開いた。ずっと俯いていたファイが顔を上げる。酷く久しぶりに、こうやって間近で向き合ったような気がした。 透き通るような淡い瞳の青が、水を含んでキラキラと輝いて見えた。本当に美しい色だった。もし天使なんて生き物が存在するなら、きっと彼のような姿をしている。そんな臭いことを恥ずかしげもなく、しみじみと思った瞬間、黒鋼は迷いを振り払った。 「桜都に行く」 「え?」 「だから、おまえとは同じ高校へは行けねぇ」 そこはここから遠く離れた市街地にある、全寮制の男子校だった。実のことを言えば、この進路は夏休みに入る前にはすでにある程度決めていたことだった。両親や担任の教師にも、すでに相談済みだ。 ファイが年老いた祖母を置いて、共に進みたいとは決して言えないことを見越しての選択だった。。 「……そっか……そうなんだ」 ファイは俯きがちに幾度か視線を泳がせた。それから、無理をしていることがありありと分かるような、ぎこちない笑みを浮かべた。こんなにも下手くそな笑顔なんて、初めて見た気がする。 「そこ、レベル高いし……おばあちゃんと離れるのもやだから、オレは行けないねー」 「…………」 「寂しくなっちゃうなー。あ、でも、いつでも会えるよね? 別にすっごーく遠くに行くんじゃないし、それに、まだちょっとだけ先のことなんだもんねー」 これ以上ファイに無理をさせたくなくて、黒鋼は声を押し殺して「そうだな」とだけ返事をした。 頼りなく細い身体を、強く引き寄せて抱きしめてしまいたいという欲求を、必死で抑えながら。 * 一人になって、自宅への道を淡々と歩きながら、黒鋼は夕陽に目を向けた。 幼い声が紡ぐ、あの異国の歌を思い出す。こうして一人で歩きながら誓ったのは、遠い日のこと。あの頃は、まさか自分がファイを傷つけてしまうかもしれないなんて、欠片も思っていなかった。 今も終わらない、夜毎の悪夢。 声にならない声を上げて、闇の中で目を覚ますたびに、一刻も早く彼から離れたいと思った。日に日に強くなっていく想いを抱えながら、ファイの隣にいるのは限界だった。 いつか本当に、制御がきかなくなってしまったら。 ずっと小さいままだと思っていた彼が、すぐ隣で成長していく様を、そんな彼が変わらず無邪気に身を寄せてくるのを。変わらずにただ受け入れることが、果たして出来るのだろうかと。 幼い日の固い誓いから、あの夏の神木の中での約束から、何よりも守りたかったはずのファイから、そして自分自身からも。 黒鋼は、逃げ出すことを決めたのだった。 ←戻る ・ 次へ→
決して離さないと決めていたはずのその手を。
振り切ることは、思っていた以上に簡単なことだった。
「はい!」
朝日の下で、彼の笑顔はいつもと変わらず無邪気で眩しいものだった。
けれど元気のいい掛け声と共に差し出された白い手を、黒鋼は取ることが出来ない。ただ息を呑んで、表情を凍てつかせた。
夏休みが終わった、最初の登校日。あの公園での一件以来、二人が顔を合わせるのはこれが初めてのことだった。
「?」
ファイが目を丸くしながら、きょとんとした顔で首を傾げる。黒鋼は、強く拳を握った。
ほんの少し前までは。それでもこの手を取ることが出来たはずだった。辺りに人がいれば咄嗟に離してしまうようにはなったけど、それでも。
本当は一言でも謝ることが出来ればと考えていた。あの花火の夜から残された夏休みの間、黒鋼は後悔と苦悩だけを胸に過ごしていた。
だが、変わらず微笑んで手を差し伸べて寄越すファイの顔を見て、黒鋼は悟った。ファイは、何もなかったことにしてくれたのだ。あれほど恐い思いをさせてしまったのに、傷つけてしまったのに。
もう、決して触れてはいけないような気がした。この優しさに甘えてしまったら、愚かな自分はきっとまた同じ過ちを繰り返す。
不安そうに見上げるファイの手が、行き場を失ったようにゆらゆらと揺れる。黒鋼はその視線から目を逸らして、声を絞り出した。
「もうガキじゃねぇんだ。こういうのは、もういいだろ」
押し殺した声が、自分でも酷く冷たいものに聞こえて、やるせなさに心が痛む。咄嗟に見たファイの顔は、何を言われているのか分からないとでもいうような、不思議そうなものだった。けれど再び黒鋼が顔を逸らすと、空を彷徨うようにして差し出されていた手が、ストンと落ちた。
「そっか。そうだよね。オレたちもう大人だもんねー」
ファイは笑っている。そんなこと、見なくとも痛いほど分かっていた。
*
それから。
黒鋼がファイの手を引くことも、そしてファイが黒鋼に手を差し出すこともなくなった。お互いまっすぐに目を合わせることさえも。以前のように擦り寄ってくることもなければ、帰り道に鼻歌を口ずさむこともなくなった。
手を繋がずとも朝は迎えに行くし、帰りも送り届ける。けれど、二人の間には明らかな距離があった。それは黒鋼が自ら作り上げた壁だった。
少し前を行く黒鋼の後ろから数歩下がった位置を、ファイが歩いている。それでも幾度か振り返って確認すると、俯いていたファイは咄嗟に顔を上げて微笑むのだった。
これまでファイと何を話しながら過ごしていたのか、この頃にはなぜか霧がかったように思い出せなくなっていた。思えば黒鋼は、自ら進んで会話をしていなかったように思う。いつだって勝手に喋ったり、訳の分からない歌を歌ったりして、楽しそうにしていたのはファイだった。
自分から壁を作っておいて、今はあの繰り返される調子はずれの鼻歌が恋しい。今も夕暮れの道を無言で歩きながら思い出すのは、少女のような可憐な歌声だった。もうあの声は、黒鋼の記憶の中にしか存在しないけれど。
何事もなかったかのように振り向いて、手を握ってやれたらどんなにいいだろう。ファイを傷つけて、寂しい思いをさせていることは分かっている。甘ったれな彼が差し出してきた手を、冷たく払ったあの朝から、この痛みと葛藤は消えることがない。ずっと、苦しいままだ。
でもそれ以上に、彼の温もりを、息使いを、甘えた声を傍で聞けば、また繰り返してしまうかもしれないと思った。
黒鋼は、自分自身を完全に信じることが出来なくなるほど、追い詰められていた。
*
長い長い道の先には、見慣れたファイの家がある。
トボトボと会話もなく歩きながら、それでも今日は言わなければならないことがあった。
「黒たん」
どう切り出そうかと窺っていると、まるで見越していたかのように先にファイが呼びかけてきた。彼は昔から、こんな風に黒鋼を驚かせることがあった。
「……なんだ」
戸惑いを押し殺すと、やはり声も自然と、まるで突き放したような色を含むから嫌気がさす。ファイは少しだけ歩く速度を早めると、黒鋼の横に並んだ。頭ひとつぶん低い位置で、金色が揺れる。
やはり、彼が自分の背を追い越すことはなかったなと、遠い日のことを思い出した。これからのことは、分からないけれど。
「学校、決めた?」
ドキリとした。やっぱりファイには不思議な力があるのではないかと思う。黒鋼が切り出そうとした内容もまた、志望校に関することだったからだ。
「……おまえは?」
「うん……」
質問に質問で返したのは咄嗟のことで、黒鋼は未だに自分が迷っているのだということを痛感した。今ならばまだ戻れるかもしれないという、仄かな希望が少なからずあった。ファイは俯いたまま、足元を見ている。
「おばあちゃんが、近い方がいいんじゃないかって。通うのも楽だし、安心だから」
「……そうか」
現在二人が通う中学の、目と鼻の先にある高校のことを言っているのだろう。隣の市に本校があるという、そこはいわゆる分校というもので、規模も小さかった。
「でも、あのね、オレ……まだ完全に決めたわけじゃなくてね、黒たんはどこ行くのかなって、気になってて」
「…………」
まだ決めてないならいいんだけど、と口ごもるファイは、照れ臭そうに少しだけ頬を染めていた。
黒鋼は暫し黙り込んでしまう。まだ決めていないと嘘をつくのは簡単だ。夏休みがとうに過ぎてしまったこの時期になっても、未だ志望校を決められずフラフラしている生徒は案外少なくない。黒鋼もファイもそれなりの成績を収めているから、目指そうと思えば同じ高校を受験することは可能だろう。けれど。
「俺は」
ファイの住む大きな屋敷の前にたどり着いて、ようやく黒鋼は口を開いた。ずっと俯いていたファイが顔を上げる。酷く久しぶりに、こうやって間近で向き合ったような気がした。
透き通るような淡い瞳の青が、水を含んでキラキラと輝いて見えた。本当に美しい色だった。もし天使なんて生き物が存在するなら、きっと彼のような姿をしている。そんな臭いことを恥ずかしげもなく、しみじみと思った瞬間、黒鋼は迷いを振り払った。
「桜都に行く」
「え?」
「だから、おまえとは同じ高校へは行けねぇ」
そこはここから遠く離れた市街地にある、全寮制の男子校だった。実のことを言えば、この進路は夏休みに入る前にはすでにある程度決めていたことだった。両親や担任の教師にも、すでに相談済みだ。
ファイが年老いた祖母を置いて、共に進みたいとは決して言えないことを見越しての選択だった。。
「……そっか……そうなんだ」
ファイは俯きがちに幾度か視線を泳がせた。それから、無理をしていることがありありと分かるような、ぎこちない笑みを浮かべた。こんなにも下手くそな笑顔なんて、初めて見た気がする。
「そこ、レベル高いし……おばあちゃんと離れるのもやだから、オレは行けないねー」
「…………」
「寂しくなっちゃうなー。あ、でも、いつでも会えるよね? 別にすっごーく遠くに行くんじゃないし、それに、まだちょっとだけ先のことなんだもんねー」
これ以上ファイに無理をさせたくなくて、黒鋼は声を押し殺して「そうだな」とだけ返事をした。
頼りなく細い身体を、強く引き寄せて抱きしめてしまいたいという欲求を、必死で抑えながら。
*
一人になって、自宅への道を淡々と歩きながら、黒鋼は夕陽に目を向けた。
幼い声が紡ぐ、あの異国の歌を思い出す。こうして一人で歩きながら誓ったのは、遠い日のこと。あの頃は、まさか自分がファイを傷つけてしまうかもしれないなんて、欠片も思っていなかった。
今も終わらない、夜毎の悪夢。
声にならない声を上げて、闇の中で目を覚ますたびに、一刻も早く彼から離れたいと思った。日に日に強くなっていく想いを抱えながら、ファイの隣にいるのは限界だった。
いつか本当に、制御がきかなくなってしまったら。
ずっと小さいままだと思っていた彼が、すぐ隣で成長していく様を、そんな彼が変わらず無邪気に身を寄せてくるのを。変わらずにただ受け入れることが、果たして出来るのだろうかと。
幼い日の固い誓いから、あの夏の神木の中での約束から、何よりも守りたかったはずのファイから、そして自分自身からも。
黒鋼は、逃げ出すことを決めたのだった。
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