2025/08/07 Thu 月の庭 「また飲んでんのかよ」 夜の薄暗い中を、月明かりがほのかに照らしていた。 黒鋼が縁側に顔を出すと、そこにどっかりと腰を落ち着けていた父が、酒の入ったグラスをひょいと持ち上げて笑った。 苦笑しつつ、その横に同じように胡坐をかいて腰を落ち着けた。 父の膝元には、知世が作ったクッキーの包みが置いてある。黒鋼も思い出したように、ポケットからそれを取り出した。 「やっちまった……」 それは見事に潰れて、粉々とまではいかないが相当食べやすいサイズにまで砕けている。父が笑う。 「知世に知れたら大事だな、これは」 妹なら、もう眠っているだろう。証拠を隠滅するには、今ここで食べてしまえばそれで済むことだ。 「言うなよ」 「さぁな……父親ってのは娘が一番可愛いからな」 黒鋼は舌打ちをすると、父と笑い合った。 ふんわりと蚊取り線香の香りが漂う庭では、気の早い鈴虫が涼やかな音色を奏でている。 「母さんがブツブツ言ってたぞ。もっと時間取れなかったのか」 父はグラスに新たな酒を注いでいた。黒鋼は砕けたクッキーを口に放り込む。本当に、甘みが少なく食べやすい。 「バイト入れちまってんだよ」 「小遣い、ほとんど使ってないな?」 「……ああ」 「まったく可愛げのない息子を持ったもんだ、俺たちは」 両親には、昼間の席で進路のことは話した。このまま向こうにいて、大学へ進学するつもりだった。必死に働いているのは、ただファイを忘れるためだけでなく、寮を出た後の生活を見越してのことだった。 自分にはまだ一人で生きていくだけの力がないことは、ちゃんと分かっている。大学の費用にしたってそうだ。けど、だからといって甘え続けるのは性に合わない。少しでも彼らの負担を軽減したかった。 本当は卒業したらすぐにでも家を継げば一番楽だし、家族も安心するということは分かっている。だが、黒鋼には黒鋼なりにやりたいこともある。反対されても無理に押し切るほど、それに賭けていたわけではなかったのだが。 子供の頃は、ただ漠然と父や母の手伝いをしたいと考えていたものだ。民宿を継ぐこと自体に異存はない。だがそれを昼間の席で言うと、父は中途半端なことを考えるなと、黒鋼を叱咤した。 おかげで、もやもやとしていたものが吹っ切れたような気がする。 「今日のは見事におまえ好みだ」 父はぼんやりと物思いに耽っていた黒鋼に向かって、満足そうに微笑むと言った。 知世の作ったクッキー。けれど、おそらくファイの計らいなのだろう。そうじゃなければ、きっとあの可愛げのない妹のことだ。胸焼けがするくらい甘いクッキーに仕上がっていたに違いなかった。 口の中に広がる甘さは、泣きたくなるくらい優しいものだった。 黒鋼はぼんやりと月を見上げた。心の中が空っぽだった。父も同じように、見事な丸い月を見上げていた。やがて、彼はおもむろに語り出した。 「今の知世よりも、もう少し子供の頃だった。母さんが、この田舎町に来たのは」 「母さん、ここの生まれじゃねぇのか」 父が頷いた。黒鋼は、そういえば父や母がここでどんな風に出会い、育ったのかをよくは知らない。ただ、幼馴染として幼い頃から共にあったということ以外は。 ふと、ファイと出会った校庭の桜の木を思い出した。薄紅の花びらの中、初めて会話をしたあの瞬間のことを。 「都会のお嬢様学校から来て、なかなか環境に馴染めなかった」 「じゃあ……」 「ああ、嫌な話だがな。余所者に、ここはあまり優しい土地じゃあない」 どこかで聞いたような話だと思った。それもそのはずで、父の話を聞けば聞くほど、重なるものを感じてしまう。 「今の知世にそっくりでな、初めて見たときは驚いた。人形かと思った。男も女も、鼻垂らした小汚いガキしかいない中にな、母さんは……」 父は、ふいに照れたように頭を掻いた。彼はきっと、初めて母を見た瞬間には恋に落ちていたのだろう。あのときの自分のように、小さな人形のような子供に、心から惹かれてしまったのだ。 黒鋼は、手の中で歪なクッキーを弄んだ。 「父さんは、母さんを守ったのか」 「どうだろうな。俺は必死だったが、俺の知らないところでは、辛い思いをしていたのかもしれないな」 「逃げようと思ったことは……」 父の懐かしそうに細められたその瞳の先には、やはり美しい月が神々しく光り輝いていた。 「何度もあった。母さんの手を引いて、山を降りて。だが、ガキが行けるところなんざ高が知れてる」 すぐに掴まって、たっぷり説教を食らった。そう父は言った。 黒鋼は、この父の息子として生まれて、初めて己を恥ずかしいと思った。自分にはそんな度胸はなかった。ただ胸に誓うだけで、いざ逃げ出したのは己一人だった。 父と母は、結婚に漕ぎつけるまでにも相当な苦労があったようだった。何年経ったとしても、母が他所からやって来た事実は変わらない。父の両親が、特に反対したそうだ。 黒鋼は優しかった祖父や祖母しか記憶になかった。だから、そんな彼らが父と母の仲を最後まで認めていなかったということに、少なからずショックを受けた。 だが、結局は根気と熱意で粘り勝ちしたのだという。 「俺は一人っ子だったからな。こんなボロ宿なんざ捨ててやるなんて言って、脅してやったのさ」 それに、俺たちには味方もいたからなと、父は悪戯が成功したような、誇らしげな顔で笑っていた。その味方とやらが一体誰であるかを問うよりも、黒鋼はそんな父の顔を真っ直ぐに見ることが出来なかった。 暫くはクッキーを噛み砕く音と、時おり父がグラスに酒を注ぐ音だけが辺りに響いていた。やがて、明るかった世界が黒に染まった。見上げれば、厚く大きな雲が月を隠していた。 なぜだろう。今更になって、黒鋼の中にも闇が満ちてゆく。ただ乾いた風が吹きぬけるだけだった心に、纏わりつくような混沌とした闇が。 底冷えするような喪失感が、今更のようにじわじわと足元から這い上がってくる。 「しょっちゅう帰って来い、と言いたいところだが……また、暫く戻らないつもりだろう?」 まだ逃げ続けるのかと、そう言われているような気がした。 父は、自分がまさかファイを相手に恋をして、そして逃げ出したなんてことは知らないはずだ。今日まさに、終わってしまったことも。 本当は互いに思い合っていたことなど、黒鋼でさえ知らなかった。一体何から、どれほど逃げることが出来たというのだろう。 黙ったままの息子に、父は言った。 「とりあえず、酒が飲める歳になったら一度は戻って来い」 「……わかった」 父の手が伸びてきた。昔は、もっと大きいと感じていた手だった。それが、黒鋼の髪をくしゃくしゃと乱す。 「そしたらまた俺の昔話に付き合え」 そして、彼はグラスと酒瓶を持って立ち上がった。早く寝ろよという一言を残して、行ってしまう。 黒鋼は空っぽになった包装紙を握りつぶした。それからまた空を見上げる。月は、雲に覆われたままだった。 あの厚い雲の向こうには、美しい月が確かに存在している。今すぐにでも会える距離にファイがいることと、それは同じことだった。 けれど黒鋼にはあの雲を吹き飛ばすだけの人知を超えた力もないし、父のように、真っ直ぐに愛するものへの思いを貫き通す強ささえもなかった。 思わず、くしゃりと髪を乱す。口元に自嘲的な笑みを浮かべ、震える息を吐き出した。 脳裏では、背中にかかったファイの言葉が幾度も再生されていた。 ――君が好きだった。 月はまだ見えない。ファイに会いたいと思った。会えるときには会いに行かないで、会えなくなってから初めて、こんなにも切望している。もう戻れやしないことくらい嫌というほど知っているのに。 黒鋼は、いつまでもその黒い雲を見つめていた。せめて再び、微かであったとしても月が光を射すまでは。 どうせ今夜は眠れない。このまま朝を迎えて、そして帰るつもりだった。 きっと、帰りのバスの中で流れゆく景色を見つめながら、自分はあの優しい薄荷の味を思い出すのだろう。 ←戻る ・ 次へ→
「また飲んでんのかよ」
夜の薄暗い中を、月明かりがほのかに照らしていた。
黒鋼が縁側に顔を出すと、そこにどっかりと腰を落ち着けていた父が、酒の入ったグラスをひょいと持ち上げて笑った。
苦笑しつつ、その横に同じように胡坐をかいて腰を落ち着けた。
父の膝元には、知世が作ったクッキーの包みが置いてある。黒鋼も思い出したように、ポケットからそれを取り出した。
「やっちまった……」
それは見事に潰れて、粉々とまではいかないが相当食べやすいサイズにまで砕けている。父が笑う。
「知世に知れたら大事だな、これは」
妹なら、もう眠っているだろう。証拠を隠滅するには、今ここで食べてしまえばそれで済むことだ。
「言うなよ」
「さぁな……父親ってのは娘が一番可愛いからな」
黒鋼は舌打ちをすると、父と笑い合った。
ふんわりと蚊取り線香の香りが漂う庭では、気の早い鈴虫が涼やかな音色を奏でている。
「母さんがブツブツ言ってたぞ。もっと時間取れなかったのか」
父はグラスに新たな酒を注いでいた。黒鋼は砕けたクッキーを口に放り込む。本当に、甘みが少なく食べやすい。
「バイト入れちまってんだよ」
「小遣い、ほとんど使ってないな?」
「……ああ」
「まったく可愛げのない息子を持ったもんだ、俺たちは」
両親には、昼間の席で進路のことは話した。このまま向こうにいて、大学へ進学するつもりだった。必死に働いているのは、ただファイを忘れるためだけでなく、寮を出た後の生活を見越してのことだった。
自分にはまだ一人で生きていくだけの力がないことは、ちゃんと分かっている。大学の費用にしたってそうだ。けど、だからといって甘え続けるのは性に合わない。少しでも彼らの負担を軽減したかった。
本当は卒業したらすぐにでも家を継げば一番楽だし、家族も安心するということは分かっている。だが、黒鋼には黒鋼なりにやりたいこともある。反対されても無理に押し切るほど、それに賭けていたわけではなかったのだが。
子供の頃は、ただ漠然と父や母の手伝いをしたいと考えていたものだ。民宿を継ぐこと自体に異存はない。だがそれを昼間の席で言うと、父は中途半端なことを考えるなと、黒鋼を叱咤した。
おかげで、もやもやとしていたものが吹っ切れたような気がする。
「今日のは見事におまえ好みだ」
父はぼんやりと物思いに耽っていた黒鋼に向かって、満足そうに微笑むと言った。
知世の作ったクッキー。けれど、おそらくファイの計らいなのだろう。そうじゃなければ、きっとあの可愛げのない妹のことだ。胸焼けがするくらい甘いクッキーに仕上がっていたに違いなかった。
口の中に広がる甘さは、泣きたくなるくらい優しいものだった。
黒鋼はぼんやりと月を見上げた。心の中が空っぽだった。父も同じように、見事な丸い月を見上げていた。やがて、彼はおもむろに語り出した。
「今の知世よりも、もう少し子供の頃だった。母さんが、この田舎町に来たのは」
「母さん、ここの生まれじゃねぇのか」
父が頷いた。黒鋼は、そういえば父や母がここでどんな風に出会い、育ったのかをよくは知らない。ただ、幼馴染として幼い頃から共にあったということ以外は。
ふと、ファイと出会った校庭の桜の木を思い出した。薄紅の花びらの中、初めて会話をしたあの瞬間のことを。
「都会のお嬢様学校から来て、なかなか環境に馴染めなかった」
「じゃあ……」
「ああ、嫌な話だがな。余所者に、ここはあまり優しい土地じゃあない」
どこかで聞いたような話だと思った。それもそのはずで、父の話を聞けば聞くほど、重なるものを感じてしまう。
「今の知世にそっくりでな、初めて見たときは驚いた。人形かと思った。男も女も、鼻垂らした小汚いガキしかいない中にな、母さんは……」
父は、ふいに照れたように頭を掻いた。彼はきっと、初めて母を見た瞬間には恋に落ちていたのだろう。あのときの自分のように、小さな人形のような子供に、心から惹かれてしまったのだ。
黒鋼は、手の中で歪なクッキーを弄んだ。
「父さんは、母さんを守ったのか」
「どうだろうな。俺は必死だったが、俺の知らないところでは、辛い思いをしていたのかもしれないな」
「逃げようと思ったことは……」
父の懐かしそうに細められたその瞳の先には、やはり美しい月が神々しく光り輝いていた。
「何度もあった。母さんの手を引いて、山を降りて。だが、ガキが行けるところなんざ高が知れてる」
すぐに掴まって、たっぷり説教を食らった。そう父は言った。
黒鋼は、この父の息子として生まれて、初めて己を恥ずかしいと思った。自分にはそんな度胸はなかった。ただ胸に誓うだけで、いざ逃げ出したのは己一人だった。
父と母は、結婚に漕ぎつけるまでにも相当な苦労があったようだった。何年経ったとしても、母が他所からやって来た事実は変わらない。父の両親が、特に反対したそうだ。
黒鋼は優しかった祖父や祖母しか記憶になかった。だから、そんな彼らが父と母の仲を最後まで認めていなかったということに、少なからずショックを受けた。
だが、結局は根気と熱意で粘り勝ちしたのだという。
「俺は一人っ子だったからな。こんなボロ宿なんざ捨ててやるなんて言って、脅してやったのさ」
それに、俺たちには味方もいたからなと、父は悪戯が成功したような、誇らしげな顔で笑っていた。その味方とやらが一体誰であるかを問うよりも、黒鋼はそんな父の顔を真っ直ぐに見ることが出来なかった。
暫くはクッキーを噛み砕く音と、時おり父がグラスに酒を注ぐ音だけが辺りに響いていた。やがて、明るかった世界が黒に染まった。見上げれば、厚く大きな雲が月を隠していた。
なぜだろう。今更になって、黒鋼の中にも闇が満ちてゆく。ただ乾いた風が吹きぬけるだけだった心に、纏わりつくような混沌とした闇が。
底冷えするような喪失感が、今更のようにじわじわと足元から這い上がってくる。
「しょっちゅう帰って来い、と言いたいところだが……また、暫く戻らないつもりだろう?」
まだ逃げ続けるのかと、そう言われているような気がした。
父は、自分がまさかファイを相手に恋をして、そして逃げ出したなんてことは知らないはずだ。今日まさに、終わってしまったことも。
本当は互いに思い合っていたことなど、黒鋼でさえ知らなかった。一体何から、どれほど逃げることが出来たというのだろう。
黙ったままの息子に、父は言った。
「とりあえず、酒が飲める歳になったら一度は戻って来い」
「……わかった」
父の手が伸びてきた。昔は、もっと大きいと感じていた手だった。それが、黒鋼の髪をくしゃくしゃと乱す。
「そしたらまた俺の昔話に付き合え」
そして、彼はグラスと酒瓶を持って立ち上がった。早く寝ろよという一言を残して、行ってしまう。
黒鋼は空っぽになった包装紙を握りつぶした。それからまた空を見上げる。月は、雲に覆われたままだった。
あの厚い雲の向こうには、美しい月が確かに存在している。今すぐにでも会える距離にファイがいることと、それは同じことだった。
けれど黒鋼にはあの雲を吹き飛ばすだけの人知を超えた力もないし、父のように、真っ直ぐに愛するものへの思いを貫き通す強ささえもなかった。
思わず、くしゃりと髪を乱す。口元に自嘲的な笑みを浮かべ、震える息を吐き出した。
脳裏では、背中にかかったファイの言葉が幾度も再生されていた。
――君が好きだった。
月はまだ見えない。ファイに会いたいと思った。会えるときには会いに行かないで、会えなくなってから初めて、こんなにも切望している。もう戻れやしないことくらい嫌というほど知っているのに。
黒鋼は、いつまでもその黒い雲を見つめていた。せめて再び、微かであったとしても月が光を射すまでは。
どうせ今夜は眠れない。このまま朝を迎えて、そして帰るつもりだった。
きっと、帰りのバスの中で流れゆく景色を見つめながら、自分はあの優しい薄荷の味を思い出すのだろう。
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