2025/06/14 Sat 夜の砂漠は雪原の風景にどこか似ていた。降り注ぐ月明かりに、隆起する砂の景色が青白く光り輝いている。 静寂のなかにはパチパチという、火の粉が弾ける音だけが響いていた。 「マヤ」 マヤは焚き火を挟んだ向かい側に腰かけている。カミュが声をかけても、彼女は器の中身をスプーンでかき混ぜるばかりで反応を示さない。 「マーヤ」 「……ぁ、なに? 兄貴、なんか言った?」 二度目の声がけで、マヤがようやく顔をあげた。カミュはヒョイと片眉を上げると小さな息をつく。 「飯、冷めちまったろ。あっためなおしてやるから、器よこしな」 するとマヤはどこか気まずそうに目を泳がせ、それから首を横に振った。 「あー、いいや。おれもうハラいっぱいだし」 「言うほど食ってねえだろ。どっか具合でも悪いのか?」 「そんなんじゃねーって。ほんっと心配性だよなあ兄貴は」 表情を曇らせるカミュに、マヤは呆れ顔でヒラヒラと片手を振った。 食べ盛りで食いしん坊な妹が、ろくに食事もとらずにぼうっとしているのだ。心配するなと言うほうがおかしい。 (ここんとこずっと様子が変だ。そろそろ長旅の疲れが出てるのかもな) 邪神討伐後、カミュとマヤは兄妹水入らずでお宝探しの旅に出ていた。のんびりと世界を巡り、そろそろ半年が過ぎようとしている。 しかしここ数日はマヤの不調が続いていた。顔色が優れず、この通り食欲も落ちている。気づくと上の空でいることが多かった。 目的地であるサマディー王国までは、あと少しというところだ。旅の最初の頃にも来ているが、マヤがもう一度ウマレースが見たいと言うので再びこの地を訪れた。 だが無理はせず、今日のところは早めにキャンプで休ませることにした。 そういえば先日ダーハルーネに立ち寄った際、シルビアがサマディーで長期公演を行っているという話を聞いた。マヤにもシルビアのショーを見せてやりたいし、久しぶりに会えると思うと楽しみだ。 「……兄貴さ」 膝を抱えて焚き火を眺めながらぼうっとしていたマヤが、おもむろに口を開いた。 「そろそろ一回くらい、勇者さまんとこ帰らなくていいの?」 「なんだよ。どうしたんだ急に?」 「だって、もう半年近くなるだろ」 最初、この旅にはイレブンも同行する予定だった。 けれどそれを知ったマヤが、「勇者はずっと兄貴と一緒だったじゃん」と直前で駄々をこねた。するとイレブンは「それを言われると弱いな」と苦笑して身を引いた。 妹の独占欲を可愛いと思う反面、相棒に気を使わせてしまったことを申し訳なく思う。 しかしマヤの子供っぽさは奪われた時の代償だ。カミュにはそのツケを払う責任がある。彼女は本来、イレブンとそう歳の変わらぬ成人女性であるはずだった。 そのマヤの口から、このような打診が飛びだすとは驚いた。彼女なりに、本心ではずっと気にしていたのだろう。半年の旅をへて、多少落ち着いた部分もあるのかもしれない。 「手紙は定期的に出してるし、大丈夫だ。気にすんな」 「ふーん。ま、兄貴がいいってんなら別にいいけど」 口調はそっけないが、口元にじんわりと浮かぶ笑みが隠しきれていなかった。なんだかんだで、兄が相棒より自分を優先させたことに気をよくしたらしい。 「おれ水浴びしてくる!」 マヤはランタンを片手に、鼻歌まじりで少し離れた茂みのオアシスに消えていく。 カミュは焚き火を眺め、現金な妹に笑みをこぼした。まだまだあんな感じだが、他者を思いやれるくらいには、気持ちに余裕が生まれてきたということだ。 旅をするなかで様々な人と触れ合う機会もあり、マヤの世界は着実に広くなっている。 これからも多くの経験を積ませてやりたい。そして叶うならメダ女に入れて、同年代の友人を作ったりもしてほしいし、マナーや教養も身につけて欲しいと思う。 パチンッ ふいに火の粉が大きく弾ける音がした。 カミュの思考がいったん途切れる。次に浮かんだのはイレブンのことだった。 サマディーで落ち着いたら、また手紙を送ろう。デク宛てに送るのは、イレブン相手だとどうも照れ臭く感じるからだ。 デクのことだから、こちらの近況は伝えてくれているはず。まさか手紙をそのまま読ませるとか、ましてや音読して聞かせるなんて真似はしていないだろう──多分。 (ごめんな相棒……待たせちまって……) 皮のグローブの上から、左手の薬指にそっと口づけた。小さく硬い感触がある。そこにはマヤと旅立つ前夜、イレブンから贈られた指輪があった。 レシピはなく、彼のオリジナルだった。何度も何度も打ち直し、デザインに頭を悩ませ、そして出来上がったのはなんの飾り気もないシルバーのリングだった。 地味でごめん、なんて言いながら眉を下げて笑っていたが、そこにどれだけ強い思いが込められているかくらい、言葉にしなくても伝わった。 「あ、ああぁ……ッ! 兄貴ッ、あにきぃ……!!」 そのとき、茂みの向こうから悲鳴と共に自分を呼ぶ声が聞こえた。 カミュは息をのみながら顔をあげる。 「マヤ!?」 腰に差した短剣に手をやりながら、慌てて茂みを分け入って行く。 水辺のランタンに照らされながら、裸のマヤが座り込んで震えていた。下半身だけを水につけ、駆けつけた兄に怯えきった視線を向ける。目にはいっぱいの涙が浮かんでいた。 「あ、あに……、おにい、ちゃ……」 「マヤ! どうした!? なにがあった!?」 「っ、ち……血が……」 透き通るオアシスの水に目をこらす。うっすらと赤黒い色をしたものが、マヤの身体の中心からジワジワと流れでているのが見えた。 「ッ……!?」 ぞわりと血の気が引くような怖気を感じ、とっさに声が出なかった。 マヤはひどく怯えた様子で、自身の身体を抱きしめると背中を丸めた。 「最近、なんかずっと変で、身体が重くて……腹も、すげえ痛くて……っ」 カミュは濡れるのも構わず膝をつき、真っ青になって震えるマヤを抱え込んだ。 死んだような顔色で、マヤはぐったりとカミュの胸にもたれかかった。 「まっ、マヤ!? しっかり、しっかりしろ……ッ!」 痩せっぽちの身体を抱き上げ、テントに走った。毛布でその身体をぐるぐる巻きにすると、道具袋を漁って舌打ちをする。こんなときに限ってキメラのつばさを切らしていた。 取るものもとりあえず、繋ぎ止めていた旅馬にまたがった。 「大丈夫、大丈夫だ、兄ちゃんがついてる! だからしっかりしろ!」 ともすれば震えそうになる声で、マヤと自分自身に言い聞かせた。 毛布越しからも伝わる冷えた身体を腕に抱き、サマディーへと馬を走らせた。 * 今日も今日とてシルビアのショーは大成功だった。 あふれる熱気と最高の笑顔で埋め尽くされた客席。その余韻にひたりながら、トレビアンなステージ衣装から着替えを済ます。 普段着であってもチェックは欠かさず、鏡台の前で腰に手をやりポーズを決めた。 するとそこに突然、マヤを抱えたカミュが 「シルビアはいるか!?」 と、物凄い剣幕で楽屋に駆け込んできた。 「ちょっ、どうしたのカミュちゃん!? それにマヤちゃん!?」 「マヤがっ、マヤが……ッ!」 久しぶりの再会を喜び合うヒマもない。カミュは凍りついたように青ざめて、見たこともないほど取り乱している。 しかしそれ以上に、毛布に包まれたマヤの表情は死人のようだった。 「カミュちゃん落ち着いて! マヤちゃんの具合が悪いなら、アタシのところよりまずはお医者さまが先でしょ!」 多少の怪我や消耗であればハッスルダンスで対応できる。しかしマヤの様子とカミュの動揺ぶりを見るに、これはただ事ではないと感じた。 雷に打たれたように肩を揺らし、カミュがハッと息をのむ。 「あ……、そう、か、そうだよな? あんたがここにいるって聞いたから、つい……」 とっさに知った顔を頼るしか頭に浮かばなかったのだろう。彼の境遇を知るだけに、まっさきに頼れる大人として自分を選んでくれたことは嬉しい。こんな非常事態でなければ、抱きしめて頬ずりの一つでもしてやりたいところだが。 「とにかく、すぐにお医者さまのところへ行きましょ。アタシも行くわ。それで、マヤちゃんは一体どんな具合なの?」 カミュの背に手を添えながら問いかける。すると彼は「股から血が」と震えた声を絞りだした。一歩を踏みだしかけていたシルビアの足がピタリと止まる。 「……あ~、なるほど。そういうことね」 あらかた察したシルビアは、ポンッと軽く両手を合わせる。 「おっさん、なにかわかるのか!?」 「カミュちゃん、マヤちゃんがこうなったのは初めて?」 「そうだけど……」 すがるような瞳が、年相応に頼りない。勇者の相棒としての勇敢な姿しか知らないはずのシルビアだが、この行き場のない子犬めいた瞳には不思議と既視感があった。 「わかる、というか……そうね。話はあとにして、ひとまずマヤちゃんを休ませてあげましょう。アナタまさか、この状態の彼女を馬に乗せてすっ飛ばしてきたんじゃないでしょうね?」 カミュの肩がまた跳ねた。答えはそれだけで十分だった。 シルビアは芝居がかった仕草で額を押さえ、深い溜息をついた。 * 宿屋で女性に対応してもらいたい旨を話すと、すぐに店主が女将を呼んできてくれた。 客室にマヤを運び入れたあと、シルビアとカミュはロビーで待っていた。 落ち着かない様子でいるカミュをなだめたりしているうちに、女将から声がかかった。 「お着替えもして、今はぐっすり眠っていますよ」 女将に礼を言い、ふたりはマヤがいる二階の一室に向かった。 マヤは宿の寝巻きを着せてもらい、ベッドで静かに寝息をたてていた。さっきよりはいくらか顔色がよく見える。その様子に、カミュがホッと息を漏らした。 「カミュちゃん、あのね」 シルビアはマヤが初潮を迎えたことをカミュに話した。すると彼は一瞬ポカンとしたあと、ようやく理解が及んだらしい。額に手をやりながら天井を仰ぎ見て、「ぅあぁ~」となんともいえない唸り声をあげた。 「そういうことか……」 「カミュちゃんったら混乱しすぎよ。アナタがそんなでどうするの?」 「悪い……世話かけちまった……」 いいのよと首を振りながら、存外やわらかいツンツン頭にぽんっと触れた。 無理もない。年頃の女の子を育てるには、彼自身まだ十分に未熟さを残す若者だ。 今日この日、サマディーにいたのが自分でよかったと心底思う。もしこれがグレイグだったら、今頃どうなっていたことか。一緒になって慌てふためく大男の姿が目に浮かぶ。 「そっか……あのマヤが、な……」 でも──と、カミュは妹を案じる優しい兄の顔をして言った。 「無事でよかった」 しみじみ呟いたカミュの身体が、ぐらっと傾いだ。 シルビアは慌てて彼の肩を抱き、そのまま一緒に膝をつく。頬から首筋にかけて手を這わせると、異様な熱が伝わってきた。 「カミュちゃん!? アナタ、すごい熱じゃない……!!」 * マヤの意識が回復したのは、その翌日のことだった。 ぼうっとした意識で、ゆっくりとまばたきをする。重だるい感覚はあるが、肌に触れるサラサラとしたリネンの感触が心地よかった。 (あれ……おれ、どうしたんだっけ……?) 「お目覚めかしら。お姫さま」 柔らかな声のする方を見やると、見覚えのある姿があった。 彼──彼女と呼ぶべきかもしれない──はベッド脇の椅子に腰かけ、涼やかに微笑んでいる。確か勇者の仲間だ。黄金化の呪いから目覚めたとき、その場にいたのを覚えている。 「シルビアよ。アタシのこと覚えてる?」 「……覚えてる。けど、なんでアンタがここに? てか、ここどこ?」 そこで夜のオアシスでの出来事が脳裏によみがえってきた。 「そうだおれ、変なとこから血が出て……」 「それなんだけどね」 シルビアは昨夜のことを順を追って説明してくれた。 気を失ったマヤをカミュが抱えてやってきたこと、マヤの身に起きた変化について。アナタの身体が大人に大きく近づいた証よと、彼女は噛んで含めるように言い聞かせた。 「あとで女将ちゃんに、もう少し詳しく聞いてちょうだい。経血の処理だとかは、さすがのアタシでも教えてはあげられないから」 それらの話を、マヤはどこか他人事のように聞いていた。急に大人だなんて言われても、どうもいまいちピンと来ない。 「てっきりヤバい病気かと思ってビビったけど……そっか、そんなこと知らなかった。だって誰も教えてくれなかったし」 「まあ、しっかりしてるとはいえ、カミュちゃんは男の子だしね。昨日の取り乱しようといったら、邪神ちゃんと戦うときですら、あんなにあせったカミュちゃんは見たことないわ」 「そういや兄貴は?」 シルビアが目線で示した先を目で追うと、兄はすぐ隣のベッドで眠っていた。額にタオルを乗せ、浅く呼吸しているのが見える。 「あっ、兄貴!?」 とっさに勢いよく起き上がった。 「ちょっとマヤちゃん、急に起き上がって大丈夫!?」 「おれは平気だけど、兄貴が……」 シルビアは目を細め、安心させるようにマヤの頭を撫でた。 「カミュちゃんも大丈夫よ。安心したら気が抜けたみたい。ゆっくり休めばすぐによくなるわ」 兄のものより大きくてゴツゴツとした手に、不思議な安堵を覚えて力が抜けた。 誰にも縋ることなく生きてきたはずの兄が、どうしてこの人に助けを求めたのかが、なんとなく分かるような気がした。 マヤは再びカミュへと目を向けた。熱があるのだろう。頬が赤く、呼吸がはやい。あの風穴で暮らしていた頃でさえ、こんなふうに弱った兄の姿は見たことがなかった。 単に見せないようにしていただけかもしれない。このバカ兄貴はそういうヤツだ。 「……あのさ、シルビア、さん」 うつむき加減でおずおずと呼びかければ、彼女は「なあに?」と小首をかしげた。 「頼みがあるんだけど……いいかな……?」 マヤの頼み事──その内容を聞いたシルビアは幾度か目をしばたたかせたあと、「お安い御用よ」と言って自分の胸をドンと叩いた。 * 「カミュ……!!」 サマディーの宿屋。その二階にある一室に、はやる気持ちで飛び込んだ。 三人分の瞳がいっせいにイレブンへと注がれる。 椅子に掛けていたシルビアが真っ先に立ち上がり、パチンと手を合わせて満面の笑顔を浮かべた。 「きゃ~! 王子さまのお出ましよ! イレブンちゃん、いらっしゃ~い! カミュちゃんも、今ちょうど起きられるようになったところよん」 「い、イレブン……? お前、なんでここに?」 二つあるベッドのうちのひとつで、半身を起こしたカミュが目を丸くしていた。彼は宿屋の寝巻きを着用している。 イレブンの来訪に驚いている様子だが、イレブンとてまだ状況が掴めずにいた。 「マジで一瞬で来るんだな……」 同じく寝巻き姿のマヤが、自分のベッドであぐらをかきながら感心したように呟いた。 「うふふっ、だから言ったでしょ?」 シルビアがマヤにウインクをした。 「シルビア、これは一体……?」 やっとのことでイレブンが口を開いた。 シルビアの使いがキメラのつばさでイシの村にやってきたのは、早朝のことだった。受け取った手紙には『カミュちゃんが大変!』という一文と、現在地だけが書かれていた。 それだけではカミュの身になにが起こったのか分からなかった。マヤも一緒のはずだが、彼女の安否も不明だ。使いの人間も、詳しい事情は聞かされていないようだった。 生きた心地がしないまま、イレブンは即座にルーラを使ってここまで来たのだ。 しかし見たところ、カミュは少し顔が赤いようだが目立った外傷は見られない。シルビアやマヤの様子からも、危機的な問題はなんら見受けられなかった。 一泡吹かされたような気分で、ひとまずイレブンはホッと大きな息を漏らした。 「ごめんなさいねイレブンちゃん。カミュちゃんを元気づけたいって、マヤちゃんが」 「ちょ、シルビアさん! 余計なこと言うなよな! おれはなんもカンケーねえから!」 「あらぁ? そうだったかしら?」 顔を真っ赤にしたマヤが、ゴホンと咳払いをした。シルビアはそんなマヤに、三日月のような形の瞳を向ける。 「あー、なんかおれハラ減ってきた! 飯でも食いに行くかな!」 プイッと顔を背け、マヤがベッドから立ち上がる。 「マヤちゃんのお洋服は、女将ちゃんが洗濯してくれたわよん。お着替えして、サボテンステーキでも食べに行きましょ!」 「おっ、イイね! もちろんシルビアさんのおごりだよな!」 「おかわり自由よ! まかせなさ~い!」 「いししっ! やりぃ~!」 優雅にスキップしながら部屋を出ていくシルビアの後ろを、マヤが雛鳥のようについていく。ふたりが行ってしまうと、まるで嵐が過ぎ去ったかのような静けさが残った。 「……ずいぶん仲良くなったみたいだな、あのふたり」 「そうみてえだな……」 残されたふたりは、自然と顔を見合わせた。 カミュはぎこちなく笑い、「よう、元気か相棒」と言った。 半年ぶりだ。彼の姿を見るのも、声を聞くのも。胸がカッと熱くなる。それでも努めて冷静に、イレブンは笑みを浮かべてうなずいた。 「ああ、ボクは元気だよ」 ベッドに近づき、カミュの方に身体を向けて縁に腰かけた。 額に触れると、記憶にあるよりもわずかに高い熱を感じた。頬もうっすら赤いままだし、なにより、また少し痩せた。 「一体なにがあったんだ?」 イレブンの問いにカミュはバツが悪そうに目を泳がせたが、やがて観念したように経緯を語った。 マヤの不調とその理由。取り乱した自分がとっさにシルビアを頼ったこと。安心して気が抜けたら、張りつめていたものがプツリと切れてしまったことを。 「まったく情けねえったらないぜ。アイツの保護者を気取っておいて、いざってときにこれじゃあな……」 カミュは自嘲気味に笑って肩をすくめた。寝巻きのサイズが少し大きいのか、襟がよれて肩からズリ落ちそうになっている。浮き出た鎖骨となだらかな胸の谷間から、イレブンはさりげなく目をそらした。 「その感じ、ボクにも少し覚えがあるよ」 「そうなのか?」 意外そうに目を丸くしたカミュに、うなずきながら苦笑する。 「子供の頃にね。似た体験をしたことがある。ボクはそういうこと、何も知らなかったから。ただ見てるしかできなくて、悔しかったよ」 ちょうど今のマヤくらいの年頃だった。 泣きそうな顔をしたエマが、今にも倒れそうな足取りで家を訪ねてきた。エマはペルラに小声でなにかを告げ、それだけでペルラはすべてを察したようだった。 ただならぬ雰囲気に、イレブンはエマがなにか恐ろしい病気にでもかかったのかと慌てふためいた。心配であれこれ世話を焼こうとしたら、「イレブンはあっち行ってて!」とエマに怒鳴られた。 その日の夜はエマにベッドを譲り、ヘソを曲げたイレブンは隣の倉庫でふて寝した。 蚊帳の外であることが面白くなかった。自分だけが共有できない何かがある。昨日まではなかったはずの透明な壁。得体の知れない不安と、形を成さない焦燥感があった。 後日、ペルラからエマに起こった身体の変化について教えられた。 男と女。まったく別の生き物として道が分かたれたようで、その生々しさが少し怖かったのを覚えている。ずっと一緒だったのに、置いていかれたようなショックもあった。 だけどきっとエマも同じくらい、あるいはそれ以上に不安だったに違いないと、大人になった今なら思いはかることができる。 そんな子供時代の青い記憶を手繰り寄せ、イレブンは苦笑した。 「だから、キミが取り乱すのもわかる気がする」 カミュはため息交じりに笑った。 「やっぱダメだな、男ってのは。こんなとき、もし女親がいてくれたら……」 珍しく弱音を吐く姿に、彼がどれだけ無力感に苛まれているかがわかる。 カミュはマヤにとって父であり、そして母でもあった。幼い頃からその役割を担い、彼女を守ってきた。それが生きる意味でもあった彼に、子供でいられた時期などない。 マヤを取り戻してからはさらに。二度と失いたくないと、いっそう気を張っていたに違いなかった。その糸が、今回の件でプツリと切れてしまったのだろう。 うなだれるカミュに、イレブンはゆるく首を振ると言った。 「カミュがいなければ、マヤちゃんはもっと大変な思いをしたはずだ。キミがいたから、彼女はああして笑っていられる。今も昔も、これからも。他の誰かじゃダメなんだ」 ぴくんと動いたカミュの肩を、ポンと叩いた。 「だからこそマヤちゃんも、同じくらいカミュのことを思ってる。ボクが今こうしてキミのそばにいることが、なによりの証拠だ」 マヤは必死で誤魔化そうとしていたが、話の流れは丸見えだった。 マヤがシルビアに頼み、シルビアがイレブンに使いを寄越した。会いに来い、と。我儘を言えない兄に代わって、ずっと我儘を通してきた妹が。 「……よしてくれよな。オレ今、結構キちまってんだからさ」 カミュが派手に鼻をすすった。弱っているせいにしたいらしいが、そもそも彼は感動屋で、涙もろいところがあった。目元をぬぐう左手の薬指で、銀の指輪が輝いている。 そのいじらしさに、イレブンはいよいよ堪らない気持ちになった。痩身を抱き寄せ、高めの体温を腕の中に閉じ込めた。 「無事でよかった。キミも、マヤちゃんも」 吐息と共に、しみじみこぼす。 「ぜんぜん顔を見せないし、手紙はいつもデクさん宛てだし。シルビアからの手紙を見て、ボクがどんな気持ちだったか分かるか?」 全身の血液が、一気に足元まで下がって抜け出ていくような心地だった。 知らぬ間に、手の届かない場所で、彼らの身になにかあったら。そんなこと、想像すらしたくない。失いたくないのは、イレブンだって同じだ。 「悪かったよ」 イレブンの肩に目元をうずめて、カミュがまたひとつズビィと鼻をすすった。両腕が背中にまわり、ぎゅうとしがみついてくる。 「これからは、ちょくちょく帰るようにする」 「本当に?」 「うん。手紙も出すよ。お前宛てに」 「そっか。楽しみだな」 本音はすぐにでも連れて帰りたい。どこへも行かず、そばにいてくれと言いたかった。 けれど海鳥のように生きる自由な彼が、どれほど美しいかも知っていた。だから我儘を押し込めて、わずかに身体を離すと立てた小指をさしだした。 「約束」 とびきり優しく微笑んだイレブンに、カミュが照れくさそうに笑った。 そしてしっかりと、小指と小指を絡ませた。 * イレブンがカミュとマヤを連れてイシの村に帰ったのは、その二日後のことだった。 「へー、いいとこじゃん。なーんにもないド田舎ーって感じでさ」 頭の後ろで両手を組んで、マヤが村の全景を見渡している。 あまり褒められている気はしないが、悪気がないのも分かっているので、イレブンはのほほんと笑ってうなずいた。 「なあイレブン、本当にいいのか?」 カミュとマヤ、ふたりぶんの荷物を担ぐイレブンを、カミュが遠慮がちに見上げてくる。イレブンは「もちろん」と言ってグッと親指を立てた。 今日からしばらくのあいだ、カミュとマヤはこのイシの村に滞在することになった。 あのあと戻ってきたマヤが、 「勇者さまんとこで、しばらくのんびりするのもいいかもな」 なんてことを言いだしたからだ。 熱はすっかり下がったものの、カミュの体調を案じてのことだろう。彼女自身まだフラついていることもあり、のんびりしたいという気持ちも嘘ではなさそうだ。 当然、イレブンは二つ返事で了承した。むしろ願ってもないことだった。少しの期間とはいえ、連れて帰りたいという願いがこうもあっさり叶ってしまったのだから。 「母さんも喜ぶよ。カミュに会いたがっていたから」 「そうか? なら遠慮なく世話になるぜ。ありがとな、イレブン」 「おーい! 勇者さまんちってどこだよー? ちゃんと案内しろよなー!」 遠くでマヤが手を振っている。 イレブンとカミュは顔を見合わせて笑い、ペルラが待つ家に向かった。 「あらあらマヤさん、はじめまして。カミュさんとそっくりだね」 帰宅するとペルラが笑顔で迎えてくれた。 マヤは初対面の相手に緊張した様子で、「ハジメマシテ、です」と言って頭をさげた。 その後、ペルラがシチューを作ってくれた。 エマも焼き立てのケーキを持ってやってきて、みんなでテーブルを囲んだ。 マヤはシチューもケーキも大喜びで目を輝かせていた。その頃にはペルラやエマとも打ち解け、すっかり仲良くなっていた。 食後はエマが村を案内すると言って、マヤを連れだした。 あんたたちものんびりしておいで、と言うペルラの言葉に甘え、イレブンとカミュも散歩に行くことにした。 「カミュ、見てほしいものがあるんだ」 イレブンはカミュを隣の倉庫へ連れて行った。正しくは『倉庫だった場所』にだ。 中に入った途端、カミュは目を丸く見開いた。 「おいおい、どうしたんだこれ? すっかり様変わりしてるじゃねえか」 倉庫は棚や荷物が片付けられており、かまどやテーブル、ベッドまで置かれて立派な居住スペースになっていた。ちなみにベッドはちゃっかりダブルサイズだ。 「少し手狭だけど、倉庫を改造したんだ。キミとボクの家にしたくて」 「オレと、お前の?」 「うん。気に入ってもらえたら嬉しい」 ベッドなどの家具はイレブンが手ずから作ったものだ。いつ帰るとも知れないカミュを待ちながら、いつ帰ってきてもいいようにと準備していた。 こうしておけば、母もいちいち村長の家に泊まりに行かなくて済む。 「ここはボクらで使って、マヤちゃんには母さんと過ごしてもらえたら安心だと思う。もちろん、キミらを縛るつもりはないんだ。ただ時々、ここに帰ってきてもらえたら──」 言い終わらぬうちに、イレブンはぎょっとした。 立ち尽くすカミュの瞳から、ほろほろと涙がこぼれ落ちていたからだ。 「か、カミュ? ごめん、なんの相談もなしに……」 うつむくイレブンに、彼は首を横に振って「ちがう」と言った。 「そうじゃねえんだ。これはその……オレたちのこと、ずっと考えててくれてたんだと思ったら、つい泣けてきちまっただけなんだ。いつ帰ってくるかもわからねえってのに」 「そんなの当たり前だろ!」 イレブンはカミュを引き寄せ、思いきり抱きしめた。 「いつだってキミたちを思ってる。いつだって、ボクの頭はキミのことでいっぱいだ」 「イレブン……」 見つめ合い、涙で揺れる青い瞳に吸い寄せられた。互いに軽く首を傾けてキスをする。 短い口づけのあと、カミュは目線だけをうつむけて赤くなった鼻をすすった。 イレブンは思わず笑いながら額と額をくっつけた。 「キミさ、少し会わないうちに、前より泣き虫になったんじゃないか?」 「うるせえな……」 「ごめん。好きだよ」 「……オレも」 ふたたび唇が合わさろうとしたそのとき、 「ゴホンッ」 咳払いがした。 「「!?」」 ふたり同時にビクンと肩を跳ねさせた。見やった先にはガリガリと頭を掻くマヤが、なんとも複雑そうに顔をしかめてたたずんでいた。 「まま、マヤっ!? み、見てたのか……!?」 「見ちまったよ。見たくもねーもんを。イチャつくならドアくらい閉めとけよな」 カミュは面白いほど表情を青くした。 「ちっ、ちがっ……わないけど、このことは、いつかちゃんと話そうと……」 「バカ兄貴。隠せてるつもりでいたわけ? 勇者の話するたんびにニヤニヤしたり、切なそうな顔しちゃってさ。気色悪いったらなかったぜ」 「まっ、マジか……」 カミュの顔色が、今度は可哀想なほど真っ赤になった。忙しい人だなあと、イレブンはつい笑ってしまった。両手で顔を覆い隠す兄に、妹がやれやれと溜息をついている。 この様子だと、直前まで交わしていた会話もちゃっかり聞かれているだろう。 「マヤちゃん、ごめん。いろいろ勝手に話を進めて」 「別にいーよ。おれも勝手に決めちまったことあるし」 片手をヒラヒラさせながらあしらうマヤに、カミュがようやく顔をあげた。 「決めたって、なにをだ?」 マヤは目を泳がせ、「あー」と小さくうなった。そして言った。 「おれ、メダ女ってとこ行ってもいいぜ」 「なんだって……!? マジかマヤ! お前それマジなのか!?」 カミュが前のめりでマヤに近づき、その両肩をガシッと掴んだ。 「あーもう、うるせえなぁ。マジのマジだよ」 「ついに、ついに制服を着てくれる気になったのか……っ」 感極まったカミュがまた涙ぐんでいる。妹より先に女子用の制服を着る羽目になった兄の感動はひとしおだろう。イレブンは「よかったね」とその背をポンポン叩いてやった。 「だけど、なんだって急に? 少し前まであんなに嫌がってたのに」 マヤはわずかな間のあと、つぶやくような声音で言った。 「おれさ、知らないことが多すぎるんだよな。知らなきゃいけないことっていうか。そりゃ、もっとお宝探しの旅はしてたいけど……たぶん、それだけじゃダメなんだよな」 いつになく真剣な表情に、カミュとイレブンは口を挟むことができなかった。 するとその空気が気恥ずかしくなったのか、マヤは誤魔化すようにニッと笑った。 「なにしろバカ兄貴は頼りになんねーしさ! おれがもっとしっかりしなきゃじゃん?」 「マヤ……っ」 照れ隠しの憎まれ口に、カミュはいよいよ涙を抑えきれなくなっていた。 イレブンは目を細めながら微笑んで、カミュの肩にそっと手を置いた。 「ま、そういうわけだから。おれの気が変わらないうちに頼んだぜ。手続き? とかなんとか、いろいろあるもんなんだろ?」 「よしきた! 兄ちゃんに任しとけ!」 鼻の下をこするカミュの表情に、ようやく強気な笑顔が戻った。 イレブンからも推薦するつもりでいるし、手続きといってもそう難しくはないだろう。 ここぞとばかりに勇者特権を駆使する気満々でいるイレブンを、マヤが探るような瞳でじっと見上げてきた。 「ん、どうかした?」 「あーっと、その……」 なにか言いにくいことでもあるのか、マヤは歯切れの悪い返答で目をそらす。 腰に手をやり、頭を掻く仕草がカミュとダブった。やっぱりこの兄妹はよく似ている。 根気よく待つイレブンに、やがて彼女は言った。 「兄貴だけじゃ心許ないからさ。あんたもおれの保護者2号ってことで」 「!」 次の瞬間、マヤはなにかを吹っ切ったかのように白い歯を見せ、いししっと笑った。 「ひとつよろしく頼むぜ、おにいちゃん!」 そしてイレブンの胸に小さな拳でドスンとパンチした。 「ッ!!」 その強気で無邪気な笑顔に、イレブンは胸を掴まれたような衝撃を覚えた。 マヤはずっとイレブンに対して線を引いていたように思う。けれどそれが今このとき、完全に取り払われたのを感じた。 おにいちゃん。 その響きに、胸がじわりと熱くなる。 言葉にならない感動に、だんだん視界が涙でぼやけてきた。カミュの泣き虫がうつってしまったのだろうか。 イレブンは答える代わりにカミュとマヤ、ふたりを思いっきり両腕に抱きしめた。 「おわっ!? ちょ、なに!?」 「お、おいイレブンお前、まさか泣いてんのか?」 「……うん。嬉しくて……ズビッ」 「マジで!? 恥ずかしすぎだろ! 兄貴こいつなんとかしろよ!」 マヤは顔を耳まで真っ赤にしてジタバタともがいている。 カミュはイレブンの背に腕をまわし、ポンポンとあやすように撫でて笑った。 イレブンはこの愛しい青髪の兄妹を、必ず世界一幸せにすると固く胸に誓うのだった。 よろしく頼むぜ、おにいちゃん・了 ←戻る ・ Wavebox👏
静寂のなかにはパチパチという、火の粉が弾ける音だけが響いていた。
「マヤ」
マヤは焚き火を挟んだ向かい側に腰かけている。カミュが声をかけても、彼女は器の中身をスプーンでかき混ぜるばかりで反応を示さない。
「マーヤ」
「……ぁ、なに? 兄貴、なんか言った?」
二度目の声がけで、マヤがようやく顔をあげた。カミュはヒョイと片眉を上げると小さな息をつく。
「飯、冷めちまったろ。あっためなおしてやるから、器よこしな」
するとマヤはどこか気まずそうに目を泳がせ、それから首を横に振った。
「あー、いいや。おれもうハラいっぱいだし」
「言うほど食ってねえだろ。どっか具合でも悪いのか?」
「そんなんじゃねーって。ほんっと心配性だよなあ兄貴は」
表情を曇らせるカミュに、マヤは呆れ顔でヒラヒラと片手を振った。
食べ盛りで食いしん坊な妹が、ろくに食事もとらずにぼうっとしているのだ。心配するなと言うほうがおかしい。
(ここんとこずっと様子が変だ。そろそろ長旅の疲れが出てるのかもな)
邪神討伐後、カミュとマヤは兄妹水入らずでお宝探しの旅に出ていた。のんびりと世界を巡り、そろそろ半年が過ぎようとしている。
しかしここ数日はマヤの不調が続いていた。顔色が優れず、この通り食欲も落ちている。気づくと上の空でいることが多かった。
目的地であるサマディー王国までは、あと少しというところだ。旅の最初の頃にも来ているが、マヤがもう一度ウマレースが見たいと言うので再びこの地を訪れた。
だが無理はせず、今日のところは早めにキャンプで休ませることにした。
そういえば先日ダーハルーネに立ち寄った際、シルビアがサマディーで長期公演を行っているという話を聞いた。マヤにもシルビアのショーを見せてやりたいし、久しぶりに会えると思うと楽しみだ。
「……兄貴さ」
膝を抱えて焚き火を眺めながらぼうっとしていたマヤが、おもむろに口を開いた。
「そろそろ一回くらい、勇者さまんとこ帰らなくていいの?」
「なんだよ。どうしたんだ急に?」
「だって、もう半年近くなるだろ」
最初、この旅にはイレブンも同行する予定だった。
けれどそれを知ったマヤが、「勇者はずっと兄貴と一緒だったじゃん」と直前で駄々をこねた。するとイレブンは「それを言われると弱いな」と苦笑して身を引いた。
妹の独占欲を可愛いと思う反面、相棒に気を使わせてしまったことを申し訳なく思う。
しかしマヤの子供っぽさは奪われた時の代償だ。カミュにはそのツケを払う責任がある。彼女は本来、イレブンとそう歳の変わらぬ成人女性であるはずだった。
そのマヤの口から、このような打診が飛びだすとは驚いた。彼女なりに、本心ではずっと気にしていたのだろう。半年の旅をへて、多少落ち着いた部分もあるのかもしれない。
「手紙は定期的に出してるし、大丈夫だ。気にすんな」
「ふーん。ま、兄貴がいいってんなら別にいいけど」
口調はそっけないが、口元にじんわりと浮かぶ笑みが隠しきれていなかった。なんだかんだで、兄が相棒より自分を優先させたことに気をよくしたらしい。
「おれ水浴びしてくる!」
マヤはランタンを片手に、鼻歌まじりで少し離れた茂みのオアシスに消えていく。
カミュは焚き火を眺め、現金な妹に笑みをこぼした。まだまだあんな感じだが、他者を思いやれるくらいには、気持ちに余裕が生まれてきたということだ。
旅をするなかで様々な人と触れ合う機会もあり、マヤの世界は着実に広くなっている。
これからも多くの経験を積ませてやりたい。そして叶うならメダ女に入れて、同年代の友人を作ったりもしてほしいし、マナーや教養も身につけて欲しいと思う。
パチンッ
ふいに火の粉が大きく弾ける音がした。
カミュの思考がいったん途切れる。次に浮かんだのはイレブンのことだった。
サマディーで落ち着いたら、また手紙を送ろう。デク宛てに送るのは、イレブン相手だとどうも照れ臭く感じるからだ。
デクのことだから、こちらの近況は伝えてくれているはず。まさか手紙をそのまま読ませるとか、ましてや音読して聞かせるなんて真似はしていないだろう──多分。
(ごめんな相棒……待たせちまって……)
皮のグローブの上から、左手の薬指にそっと口づけた。小さく硬い感触がある。そこにはマヤと旅立つ前夜、イレブンから贈られた指輪があった。
レシピはなく、彼のオリジナルだった。何度も何度も打ち直し、デザインに頭を悩ませ、そして出来上がったのはなんの飾り気もないシルバーのリングだった。
地味でごめん、なんて言いながら眉を下げて笑っていたが、そこにどれだけ強い思いが込められているかくらい、言葉にしなくても伝わった。
「あ、ああぁ……ッ! 兄貴ッ、あにきぃ……!!」
そのとき、茂みの向こうから悲鳴と共に自分を呼ぶ声が聞こえた。
カミュは息をのみながら顔をあげる。
「マヤ!?」
腰に差した短剣に手をやりながら、慌てて茂みを分け入って行く。
水辺のランタンに照らされながら、裸のマヤが座り込んで震えていた。下半身だけを水につけ、駆けつけた兄に怯えきった視線を向ける。目にはいっぱいの涙が浮かんでいた。
「あ、あに……、おにい、ちゃ……」
「マヤ! どうした!? なにがあった!?」
「っ、ち……血が……」
透き通るオアシスの水に目をこらす。うっすらと赤黒い色をしたものが、マヤの身体の中心からジワジワと流れでているのが見えた。
「ッ……!?」
ぞわりと血の気が引くような怖気を感じ、とっさに声が出なかった。
マヤはひどく怯えた様子で、自身の身体を抱きしめると背中を丸めた。
「最近、なんかずっと変で、身体が重くて……腹も、すげえ痛くて……っ」
カミュは濡れるのも構わず膝をつき、真っ青になって震えるマヤを抱え込んだ。
死んだような顔色で、マヤはぐったりとカミュの胸にもたれかかった。
「まっ、マヤ!? しっかり、しっかりしろ……ッ!」
痩せっぽちの身体を抱き上げ、テントに走った。毛布でその身体をぐるぐる巻きにすると、道具袋を漁って舌打ちをする。こんなときに限ってキメラのつばさを切らしていた。
取るものもとりあえず、繋ぎ止めていた旅馬にまたがった。
「大丈夫、大丈夫だ、兄ちゃんがついてる! だからしっかりしろ!」
ともすれば震えそうになる声で、マヤと自分自身に言い聞かせた。
毛布越しからも伝わる冷えた身体を腕に抱き、サマディーへと馬を走らせた。
*
今日も今日とてシルビアのショーは大成功だった。
あふれる熱気と最高の笑顔で埋め尽くされた客席。その余韻にひたりながら、トレビアンなステージ衣装から着替えを済ます。
普段着であってもチェックは欠かさず、鏡台の前で腰に手をやりポーズを決めた。
するとそこに突然、マヤを抱えたカミュが
「シルビアはいるか!?」
と、物凄い剣幕で楽屋に駆け込んできた。
「ちょっ、どうしたのカミュちゃん!? それにマヤちゃん!?」
「マヤがっ、マヤが……ッ!」
久しぶりの再会を喜び合うヒマもない。カミュは凍りついたように青ざめて、見たこともないほど取り乱している。
しかしそれ以上に、毛布に包まれたマヤの表情は死人のようだった。
「カミュちゃん落ち着いて! マヤちゃんの具合が悪いなら、アタシのところよりまずはお医者さまが先でしょ!」
多少の怪我や消耗であればハッスルダンスで対応できる。しかしマヤの様子とカミュの動揺ぶりを見るに、これはただ事ではないと感じた。
雷に打たれたように肩を揺らし、カミュがハッと息をのむ。
「あ……、そう、か、そうだよな? あんたがここにいるって聞いたから、つい……」
とっさに知った顔を頼るしか頭に浮かばなかったのだろう。彼の境遇を知るだけに、まっさきに頼れる大人として自分を選んでくれたことは嬉しい。こんな非常事態でなければ、抱きしめて頬ずりの一つでもしてやりたいところだが。
「とにかく、すぐにお医者さまのところへ行きましょ。アタシも行くわ。それで、マヤちゃんは一体どんな具合なの?」
カミュの背に手を添えながら問いかける。すると彼は「股から血が」と震えた声を絞りだした。一歩を踏みだしかけていたシルビアの足がピタリと止まる。
「……あ~、なるほど。そういうことね」
あらかた察したシルビアは、ポンッと軽く両手を合わせる。
「おっさん、なにかわかるのか!?」
「カミュちゃん、マヤちゃんがこうなったのは初めて?」
「そうだけど……」
すがるような瞳が、年相応に頼りない。勇者の相棒としての勇敢な姿しか知らないはずのシルビアだが、この行き場のない子犬めいた瞳には不思議と既視感があった。
「わかる、というか……そうね。話はあとにして、ひとまずマヤちゃんを休ませてあげましょう。アナタまさか、この状態の彼女を馬に乗せてすっ飛ばしてきたんじゃないでしょうね?」
カミュの肩がまた跳ねた。答えはそれだけで十分だった。
シルビアは芝居がかった仕草で額を押さえ、深い溜息をついた。
*
宿屋で女性に対応してもらいたい旨を話すと、すぐに店主が女将を呼んできてくれた。
客室にマヤを運び入れたあと、シルビアとカミュはロビーで待っていた。
落ち着かない様子でいるカミュをなだめたりしているうちに、女将から声がかかった。
「お着替えもして、今はぐっすり眠っていますよ」
女将に礼を言い、ふたりはマヤがいる二階の一室に向かった。
マヤは宿の寝巻きを着せてもらい、ベッドで静かに寝息をたてていた。さっきよりはいくらか顔色がよく見える。その様子に、カミュがホッと息を漏らした。
「カミュちゃん、あのね」
シルビアはマヤが初潮を迎えたことをカミュに話した。すると彼は一瞬ポカンとしたあと、ようやく理解が及んだらしい。額に手をやりながら天井を仰ぎ見て、「ぅあぁ~」となんともいえない唸り声をあげた。
「そういうことか……」
「カミュちゃんったら混乱しすぎよ。アナタがそんなでどうするの?」
「悪い……世話かけちまった……」
いいのよと首を振りながら、存外やわらかいツンツン頭にぽんっと触れた。
無理もない。年頃の女の子を育てるには、彼自身まだ十分に未熟さを残す若者だ。
今日この日、サマディーにいたのが自分でよかったと心底思う。もしこれがグレイグだったら、今頃どうなっていたことか。一緒になって慌てふためく大男の姿が目に浮かぶ。
「そっか……あのマヤが、な……」
でも──と、カミュは妹を案じる優しい兄の顔をして言った。
「無事でよかった」
しみじみ呟いたカミュの身体が、ぐらっと傾いだ。
シルビアは慌てて彼の肩を抱き、そのまま一緒に膝をつく。頬から首筋にかけて手を這わせると、異様な熱が伝わってきた。
「カミュちゃん!? アナタ、すごい熱じゃない……!!」
*
マヤの意識が回復したのは、その翌日のことだった。
ぼうっとした意識で、ゆっくりとまばたきをする。重だるい感覚はあるが、肌に触れるサラサラとしたリネンの感触が心地よかった。
(あれ……おれ、どうしたんだっけ……?)
「お目覚めかしら。お姫さま」
柔らかな声のする方を見やると、見覚えのある姿があった。
彼──彼女と呼ぶべきかもしれない──はベッド脇の椅子に腰かけ、涼やかに微笑んでいる。確か勇者の仲間だ。黄金化の呪いから目覚めたとき、その場にいたのを覚えている。
「シルビアよ。アタシのこと覚えてる?」
「……覚えてる。けど、なんでアンタがここに? てか、ここどこ?」
そこで夜のオアシスでの出来事が脳裏によみがえってきた。
「そうだおれ、変なとこから血が出て……」
「それなんだけどね」
シルビアは昨夜のことを順を追って説明してくれた。
気を失ったマヤをカミュが抱えてやってきたこと、マヤの身に起きた変化について。アナタの身体が大人に大きく近づいた証よと、彼女は噛んで含めるように言い聞かせた。
「あとで女将ちゃんに、もう少し詳しく聞いてちょうだい。経血の処理だとかは、さすがのアタシでも教えてはあげられないから」
それらの話を、マヤはどこか他人事のように聞いていた。急に大人だなんて言われても、どうもいまいちピンと来ない。
「てっきりヤバい病気かと思ってビビったけど……そっか、そんなこと知らなかった。だって誰も教えてくれなかったし」
「まあ、しっかりしてるとはいえ、カミュちゃんは男の子だしね。昨日の取り乱しようといったら、邪神ちゃんと戦うときですら、あんなにあせったカミュちゃんは見たことないわ」
「そういや兄貴は?」
シルビアが目線で示した先を目で追うと、兄はすぐ隣のベッドで眠っていた。額にタオルを乗せ、浅く呼吸しているのが見える。
「あっ、兄貴!?」
とっさに勢いよく起き上がった。
「ちょっとマヤちゃん、急に起き上がって大丈夫!?」
「おれは平気だけど、兄貴が……」
シルビアは目を細め、安心させるようにマヤの頭を撫でた。
「カミュちゃんも大丈夫よ。安心したら気が抜けたみたい。ゆっくり休めばすぐによくなるわ」
兄のものより大きくてゴツゴツとした手に、不思議な安堵を覚えて力が抜けた。
誰にも縋ることなく生きてきたはずの兄が、どうしてこの人に助けを求めたのかが、なんとなく分かるような気がした。
マヤは再びカミュへと目を向けた。熱があるのだろう。頬が赤く、呼吸がはやい。あの風穴で暮らしていた頃でさえ、こんなふうに弱った兄の姿は見たことがなかった。
単に見せないようにしていただけかもしれない。このバカ兄貴はそういうヤツだ。
「……あのさ、シルビア、さん」
うつむき加減でおずおずと呼びかければ、彼女は「なあに?」と小首をかしげた。
「頼みがあるんだけど……いいかな……?」
マヤの頼み事──その内容を聞いたシルビアは幾度か目をしばたたかせたあと、「お安い御用よ」と言って自分の胸をドンと叩いた。
*
「カミュ……!!」
サマディーの宿屋。その二階にある一室に、はやる気持ちで飛び込んだ。
三人分の瞳がいっせいにイレブンへと注がれる。
椅子に掛けていたシルビアが真っ先に立ち上がり、パチンと手を合わせて満面の笑顔を浮かべた。
「きゃ~! 王子さまのお出ましよ! イレブンちゃん、いらっしゃ~い! カミュちゃんも、今ちょうど起きられるようになったところよん」
「い、イレブン……? お前、なんでここに?」
二つあるベッドのうちのひとつで、半身を起こしたカミュが目を丸くしていた。彼は宿屋の寝巻きを着用している。
イレブンの来訪に驚いている様子だが、イレブンとてまだ状況が掴めずにいた。
「マジで一瞬で来るんだな……」
同じく寝巻き姿のマヤが、自分のベッドであぐらをかきながら感心したように呟いた。
「うふふっ、だから言ったでしょ?」
シルビアがマヤにウインクをした。
「シルビア、これは一体……?」
やっとのことでイレブンが口を開いた。
シルビアの使いがキメラのつばさでイシの村にやってきたのは、早朝のことだった。受け取った手紙には『カミュちゃんが大変!』という一文と、現在地だけが書かれていた。
それだけではカミュの身になにが起こったのか分からなかった。マヤも一緒のはずだが、彼女の安否も不明だ。使いの人間も、詳しい事情は聞かされていないようだった。
生きた心地がしないまま、イレブンは即座にルーラを使ってここまで来たのだ。
しかし見たところ、カミュは少し顔が赤いようだが目立った外傷は見られない。シルビアやマヤの様子からも、危機的な問題はなんら見受けられなかった。
一泡吹かされたような気分で、ひとまずイレブンはホッと大きな息を漏らした。
「ごめんなさいねイレブンちゃん。カミュちゃんを元気づけたいって、マヤちゃんが」
「ちょ、シルビアさん! 余計なこと言うなよな! おれはなんもカンケーねえから!」
「あらぁ? そうだったかしら?」
顔を真っ赤にしたマヤが、ゴホンと咳払いをした。シルビアはそんなマヤに、三日月のような形の瞳を向ける。
「あー、なんかおれハラ減ってきた! 飯でも食いに行くかな!」
プイッと顔を背け、マヤがベッドから立ち上がる。
「マヤちゃんのお洋服は、女将ちゃんが洗濯してくれたわよん。お着替えして、サボテンステーキでも食べに行きましょ!」
「おっ、イイね! もちろんシルビアさんのおごりだよな!」
「おかわり自由よ! まかせなさ~い!」
「いししっ! やりぃ~!」
優雅にスキップしながら部屋を出ていくシルビアの後ろを、マヤが雛鳥のようについていく。ふたりが行ってしまうと、まるで嵐が過ぎ去ったかのような静けさが残った。
「……ずいぶん仲良くなったみたいだな、あのふたり」
「そうみてえだな……」
残されたふたりは、自然と顔を見合わせた。
カミュはぎこちなく笑い、「よう、元気か相棒」と言った。
半年ぶりだ。彼の姿を見るのも、声を聞くのも。胸がカッと熱くなる。それでも努めて冷静に、イレブンは笑みを浮かべてうなずいた。
「ああ、ボクは元気だよ」
ベッドに近づき、カミュの方に身体を向けて縁に腰かけた。
額に触れると、記憶にあるよりもわずかに高い熱を感じた。頬もうっすら赤いままだし、なにより、また少し痩せた。
「一体なにがあったんだ?」
イレブンの問いにカミュはバツが悪そうに目を泳がせたが、やがて観念したように経緯を語った。
マヤの不調とその理由。取り乱した自分がとっさにシルビアを頼ったこと。安心して気が抜けたら、張りつめていたものがプツリと切れてしまったことを。
「まったく情けねえったらないぜ。アイツの保護者を気取っておいて、いざってときにこれじゃあな……」
カミュは自嘲気味に笑って肩をすくめた。寝巻きのサイズが少し大きいのか、襟がよれて肩からズリ落ちそうになっている。浮き出た鎖骨となだらかな胸の谷間から、イレブンはさりげなく目をそらした。
「その感じ、ボクにも少し覚えがあるよ」
「そうなのか?」
意外そうに目を丸くしたカミュに、うなずきながら苦笑する。
「子供の頃にね。似た体験をしたことがある。ボクはそういうこと、何も知らなかったから。ただ見てるしかできなくて、悔しかったよ」
ちょうど今のマヤくらいの年頃だった。
泣きそうな顔をしたエマが、今にも倒れそうな足取りで家を訪ねてきた。エマはペルラに小声でなにかを告げ、それだけでペルラはすべてを察したようだった。
ただならぬ雰囲気に、イレブンはエマがなにか恐ろしい病気にでもかかったのかと慌てふためいた。心配であれこれ世話を焼こうとしたら、「イレブンはあっち行ってて!」とエマに怒鳴られた。
その日の夜はエマにベッドを譲り、ヘソを曲げたイレブンは隣の倉庫でふて寝した。
蚊帳の外であることが面白くなかった。自分だけが共有できない何かがある。昨日まではなかったはずの透明な壁。得体の知れない不安と、形を成さない焦燥感があった。
後日、ペルラからエマに起こった身体の変化について教えられた。
男と女。まったく別の生き物として道が分かたれたようで、その生々しさが少し怖かったのを覚えている。ずっと一緒だったのに、置いていかれたようなショックもあった。
だけどきっとエマも同じくらい、あるいはそれ以上に不安だったに違いないと、大人になった今なら思いはかることができる。
そんな子供時代の青い記憶を手繰り寄せ、イレブンは苦笑した。
「だから、キミが取り乱すのもわかる気がする」
カミュはため息交じりに笑った。
「やっぱダメだな、男ってのは。こんなとき、もし女親がいてくれたら……」
珍しく弱音を吐く姿に、彼がどれだけ無力感に苛まれているかがわかる。
カミュはマヤにとって父であり、そして母でもあった。幼い頃からその役割を担い、彼女を守ってきた。それが生きる意味でもあった彼に、子供でいられた時期などない。
マヤを取り戻してからはさらに。二度と失いたくないと、いっそう気を張っていたに違いなかった。その糸が、今回の件でプツリと切れてしまったのだろう。
うなだれるカミュに、イレブンはゆるく首を振ると言った。
「カミュがいなければ、マヤちゃんはもっと大変な思いをしたはずだ。キミがいたから、彼女はああして笑っていられる。今も昔も、これからも。他の誰かじゃダメなんだ」
ぴくんと動いたカミュの肩を、ポンと叩いた。
「だからこそマヤちゃんも、同じくらいカミュのことを思ってる。ボクが今こうしてキミのそばにいることが、なによりの証拠だ」
マヤは必死で誤魔化そうとしていたが、話の流れは丸見えだった。
マヤがシルビアに頼み、シルビアがイレブンに使いを寄越した。会いに来い、と。我儘を言えない兄に代わって、ずっと我儘を通してきた妹が。
「……よしてくれよな。オレ今、結構キちまってんだからさ」
カミュが派手に鼻をすすった。弱っているせいにしたいらしいが、そもそも彼は感動屋で、涙もろいところがあった。目元をぬぐう左手の薬指で、銀の指輪が輝いている。
そのいじらしさに、イレブンはいよいよ堪らない気持ちになった。痩身を抱き寄せ、高めの体温を腕の中に閉じ込めた。
「無事でよかった。キミも、マヤちゃんも」
吐息と共に、しみじみこぼす。
「ぜんぜん顔を見せないし、手紙はいつもデクさん宛てだし。シルビアからの手紙を見て、ボクがどんな気持ちだったか分かるか?」
全身の血液が、一気に足元まで下がって抜け出ていくような心地だった。
知らぬ間に、手の届かない場所で、彼らの身になにかあったら。そんなこと、想像すらしたくない。失いたくないのは、イレブンだって同じだ。
「悪かったよ」
イレブンの肩に目元をうずめて、カミュがまたひとつズビィと鼻をすすった。両腕が背中にまわり、ぎゅうとしがみついてくる。
「これからは、ちょくちょく帰るようにする」
「本当に?」
「うん。手紙も出すよ。お前宛てに」
「そっか。楽しみだな」
本音はすぐにでも連れて帰りたい。どこへも行かず、そばにいてくれと言いたかった。
けれど海鳥のように生きる自由な彼が、どれほど美しいかも知っていた。だから我儘を押し込めて、わずかに身体を離すと立てた小指をさしだした。
「約束」
とびきり優しく微笑んだイレブンに、カミュが照れくさそうに笑った。
そしてしっかりと、小指と小指を絡ませた。
*
イレブンがカミュとマヤを連れてイシの村に帰ったのは、その二日後のことだった。
「へー、いいとこじゃん。なーんにもないド田舎ーって感じでさ」
頭の後ろで両手を組んで、マヤが村の全景を見渡している。
あまり褒められている気はしないが、悪気がないのも分かっているので、イレブンはのほほんと笑ってうなずいた。
「なあイレブン、本当にいいのか?」
カミュとマヤ、ふたりぶんの荷物を担ぐイレブンを、カミュが遠慮がちに見上げてくる。イレブンは「もちろん」と言ってグッと親指を立てた。
今日からしばらくのあいだ、カミュとマヤはこのイシの村に滞在することになった。
あのあと戻ってきたマヤが、
「勇者さまんとこで、しばらくのんびりするのもいいかもな」
なんてことを言いだしたからだ。
熱はすっかり下がったものの、カミュの体調を案じてのことだろう。彼女自身まだフラついていることもあり、のんびりしたいという気持ちも嘘ではなさそうだ。
当然、イレブンは二つ返事で了承した。むしろ願ってもないことだった。少しの期間とはいえ、連れて帰りたいという願いがこうもあっさり叶ってしまったのだから。
「母さんも喜ぶよ。カミュに会いたがっていたから」
「そうか? なら遠慮なく世話になるぜ。ありがとな、イレブン」
「おーい! 勇者さまんちってどこだよー? ちゃんと案内しろよなー!」
遠くでマヤが手を振っている。
イレブンとカミュは顔を見合わせて笑い、ペルラが待つ家に向かった。
「あらあらマヤさん、はじめまして。カミュさんとそっくりだね」
帰宅するとペルラが笑顔で迎えてくれた。
マヤは初対面の相手に緊張した様子で、「ハジメマシテ、です」と言って頭をさげた。
その後、ペルラがシチューを作ってくれた。
エマも焼き立てのケーキを持ってやってきて、みんなでテーブルを囲んだ。
マヤはシチューもケーキも大喜びで目を輝かせていた。その頃にはペルラやエマとも打ち解け、すっかり仲良くなっていた。
食後はエマが村を案内すると言って、マヤを連れだした。
あんたたちものんびりしておいで、と言うペルラの言葉に甘え、イレブンとカミュも散歩に行くことにした。
「カミュ、見てほしいものがあるんだ」
イレブンはカミュを隣の倉庫へ連れて行った。正しくは『倉庫だった場所』にだ。
中に入った途端、カミュは目を丸く見開いた。
「おいおい、どうしたんだこれ? すっかり様変わりしてるじゃねえか」
倉庫は棚や荷物が片付けられており、かまどやテーブル、ベッドまで置かれて立派な居住スペースになっていた。ちなみにベッドはちゃっかりダブルサイズだ。
「少し手狭だけど、倉庫を改造したんだ。キミとボクの家にしたくて」
「オレと、お前の?」
「うん。気に入ってもらえたら嬉しい」
ベッドなどの家具はイレブンが手ずから作ったものだ。いつ帰るとも知れないカミュを待ちながら、いつ帰ってきてもいいようにと準備していた。
こうしておけば、母もいちいち村長の家に泊まりに行かなくて済む。
「ここはボクらで使って、マヤちゃんには母さんと過ごしてもらえたら安心だと思う。もちろん、キミらを縛るつもりはないんだ。ただ時々、ここに帰ってきてもらえたら──」
言い終わらぬうちに、イレブンはぎょっとした。
立ち尽くすカミュの瞳から、ほろほろと涙がこぼれ落ちていたからだ。
「か、カミュ? ごめん、なんの相談もなしに……」
うつむくイレブンに、彼は首を横に振って「ちがう」と言った。
「そうじゃねえんだ。これはその……オレたちのこと、ずっと考えててくれてたんだと思ったら、つい泣けてきちまっただけなんだ。いつ帰ってくるかもわからねえってのに」
「そんなの当たり前だろ!」
イレブンはカミュを引き寄せ、思いきり抱きしめた。
「いつだってキミたちを思ってる。いつだって、ボクの頭はキミのことでいっぱいだ」
「イレブン……」
見つめ合い、涙で揺れる青い瞳に吸い寄せられた。互いに軽く首を傾けてキスをする。
短い口づけのあと、カミュは目線だけをうつむけて赤くなった鼻をすすった。
イレブンは思わず笑いながら額と額をくっつけた。
「キミさ、少し会わないうちに、前より泣き虫になったんじゃないか?」
「うるせえな……」
「ごめん。好きだよ」
「……オレも」
ふたたび唇が合わさろうとしたそのとき、
「ゴホンッ」
咳払いがした。
「「!?」」
ふたり同時にビクンと肩を跳ねさせた。見やった先にはガリガリと頭を掻くマヤが、なんとも複雑そうに顔をしかめてたたずんでいた。
「まま、マヤっ!? み、見てたのか……!?」
「見ちまったよ。見たくもねーもんを。イチャつくならドアくらい閉めとけよな」
カミュは面白いほど表情を青くした。
「ちっ、ちがっ……わないけど、このことは、いつかちゃんと話そうと……」
「バカ兄貴。隠せてるつもりでいたわけ? 勇者の話するたんびにニヤニヤしたり、切なそうな顔しちゃってさ。気色悪いったらなかったぜ」
「まっ、マジか……」
カミュの顔色が、今度は可哀想なほど真っ赤になった。忙しい人だなあと、イレブンはつい笑ってしまった。両手で顔を覆い隠す兄に、妹がやれやれと溜息をついている。
この様子だと、直前まで交わしていた会話もちゃっかり聞かれているだろう。
「マヤちゃん、ごめん。いろいろ勝手に話を進めて」
「別にいーよ。おれも勝手に決めちまったことあるし」
片手をヒラヒラさせながらあしらうマヤに、カミュがようやく顔をあげた。
「決めたって、なにをだ?」
マヤは目を泳がせ、「あー」と小さくうなった。そして言った。
「おれ、メダ女ってとこ行ってもいいぜ」
「なんだって……!? マジかマヤ! お前それマジなのか!?」
カミュが前のめりでマヤに近づき、その両肩をガシッと掴んだ。
「あーもう、うるせえなぁ。マジのマジだよ」
「ついに、ついに制服を着てくれる気になったのか……っ」
感極まったカミュがまた涙ぐんでいる。妹より先に女子用の制服を着る羽目になった兄の感動はひとしおだろう。イレブンは「よかったね」とその背をポンポン叩いてやった。
「だけど、なんだって急に? 少し前まであんなに嫌がってたのに」
マヤはわずかな間のあと、つぶやくような声音で言った。
「おれさ、知らないことが多すぎるんだよな。知らなきゃいけないことっていうか。そりゃ、もっとお宝探しの旅はしてたいけど……たぶん、それだけじゃダメなんだよな」
いつになく真剣な表情に、カミュとイレブンは口を挟むことができなかった。
するとその空気が気恥ずかしくなったのか、マヤは誤魔化すようにニッと笑った。
「なにしろバカ兄貴は頼りになんねーしさ! おれがもっとしっかりしなきゃじゃん?」
「マヤ……っ」
照れ隠しの憎まれ口に、カミュはいよいよ涙を抑えきれなくなっていた。
イレブンは目を細めながら微笑んで、カミュの肩にそっと手を置いた。
「ま、そういうわけだから。おれの気が変わらないうちに頼んだぜ。手続き? とかなんとか、いろいろあるもんなんだろ?」
「よしきた! 兄ちゃんに任しとけ!」
鼻の下をこするカミュの表情に、ようやく強気な笑顔が戻った。
イレブンからも推薦するつもりでいるし、手続きといってもそう難しくはないだろう。
ここぞとばかりに勇者特権を駆使する気満々でいるイレブンを、マヤが探るような瞳でじっと見上げてきた。
「ん、どうかした?」
「あーっと、その……」
なにか言いにくいことでもあるのか、マヤは歯切れの悪い返答で目をそらす。
腰に手をやり、頭を掻く仕草がカミュとダブった。やっぱりこの兄妹はよく似ている。
根気よく待つイレブンに、やがて彼女は言った。
「兄貴だけじゃ心許ないからさ。あんたもおれの保護者2号ってことで」
「!」
次の瞬間、マヤはなにかを吹っ切ったかのように白い歯を見せ、いししっと笑った。
「ひとつよろしく頼むぜ、おにいちゃん!」
そしてイレブンの胸に小さな拳でドスンとパンチした。
「ッ!!」
その強気で無邪気な笑顔に、イレブンは胸を掴まれたような衝撃を覚えた。
マヤはずっとイレブンに対して線を引いていたように思う。けれどそれが今このとき、完全に取り払われたのを感じた。
おにいちゃん。
その響きに、胸がじわりと熱くなる。
言葉にならない感動に、だんだん視界が涙でぼやけてきた。カミュの泣き虫がうつってしまったのだろうか。
イレブンは答える代わりにカミュとマヤ、ふたりを思いっきり両腕に抱きしめた。
「おわっ!? ちょ、なに!?」
「お、おいイレブンお前、まさか泣いてんのか?」
「……うん。嬉しくて……ズビッ」
「マジで!? 恥ずかしすぎだろ! 兄貴こいつなんとかしろよ!」
マヤは顔を耳まで真っ赤にしてジタバタともがいている。
カミュはイレブンの背に腕をまわし、ポンポンとあやすように撫でて笑った。
イレブンはこの愛しい青髪の兄妹を、必ず世界一幸せにすると固く胸に誓うのだった。
よろしく頼むぜ、おにいちゃん・了
←戻る ・ Wavebox👏