2025/08/07 Thu 棘 大好きだった勉強が、退屈なものに思えるようになったのはいつからだろう。 好きが高じて先へ先へと一人で進んでいくうちに、学校での授業がつまらなくなってしまったのは。 友達はいるし、皆のことは大好きだけれど、それでも時々どうしようもなく一人ぼっちのような気がする。 だから知世はふと、口を閉ざすことがあった。友達の話を聞いて、ただニコニコ笑って相槌を打っているのは退屈だけれど、とても楽だったから。 そんな知世の心の隙間を埋めてくれるのは、大きなお屋敷に暮らす、一人の孤独な青年だった。 「すっかり元気になりましたわね、チィちゃん」 玄関から入らず庭から直接縁側に顔を出すと、白い子猫が小さな赤いゴムボールを追いかけて、廊下を走り回っていた。知世がやってきたことにも気づかずに、一心不乱に追い掛け回してはボールと一緒にコロコロと転げ回っている。 「いらっしゃーい。おかえりー」 すぐに笑顔で室内から顔を出したファイが出迎えてくれると、知世もニッコリ笑って「こんにちは」と言った。 「ねー? 動くもの全部が楽しくて仕方ないみたいでね、結構ヤンチャだよー」 「うふふ、興奮してますわね」 見ればチィのすらっと伸びた尻尾が倍にまで膨れ上がっている。心なしか、鼻息も荒い。普段はおっとりしていて大人しいだけに、まるで何かに取り憑かれたかのようだった。 「スイッチ入っちゃうといつもこんな感じなんだー」 ファイは「しょうがないねぇ」と言って苦笑した。知世も笑う。 元気がいいことは何よりだと思った。最初にファイがチィを拾ってきたときは、痩せ細っていて見ていられないくらいに弱りきっていたのだ。たった二ヶ月あまりで身体もだいぶ大きくなり、こんなにも走り回れるようになったのだから、喜ばしいことだと思う。白いフリルと金の鈴がついた、ピンク色の首輪がよく似合っている。 「両手にすっぽり納まるくらい小さかったのに、大きくなるのはあっという間ですわね」 「まだもうちょっと大きくなると思うけどねー。あ、どうぞ座って」 それから、ちょっと待ってて、と言い残してファイは家の中に姿を消した。 知世は背負っていた赤いランドセルを下ろして縁側に置くと、ファイが用意してくれた小豆色の座布団にちょこんと座った。 季節は秋を迎えて、すっかり色づいた庭の草花達を眺めていると、ボールに飽きたチィがようやく知世の傍までやってくる。膝に乗せ、指先でじゃれつかせていると、ファイが盆を持ってやってきた。 「お茶とお菓子はいかがですかー? 知世姫ー」 「まぁ! もちろんいただきますわ!」 知世は思わずパチンと両手を合わせて、キラキラと目を輝かせた。 ファイの作る菓子は、お歳暮に送られてくる高価なゼリーだとか、山を下りた先の温泉街にある小さなケーキ屋さんで買うものよりも、ずっと美味しかった。 知世はここへ来る度にご馳走になったり、ときには一緒にキッチンに並んで作り方を習ったりしている。 彼の作るものは父や母も大好物で、よくお土産にと持たせてくれるものを二人も楽しみにしていた。 「ファイさんの作ったものを食べたら、もう他では食べられませんわ」 本心から言ったのだが、ファイはブンブンと両手を振って苦笑した。 「知世ちゃんてば言いすぎだよー。今日のは簡単だったし……まだまだ修行中の身なんだからー」 「いいえ! 私、ファイさんがお店を始めたら絶対に毎日通いますわ! お手伝いもさせてくださいね!」 ずずい、と身を乗り出して言うと、ファイは少し驚いたようだったが嬉しそうに微笑んだ。 「ほんとー? 嬉しいなぁ。じゃあ知世ちゃんとチィで看板娘だねー」 縁側に並んで腰掛けながら、二人は頷くと笑い合った。 * それから、知世はファイが作ってくれたチョコレートマフィンとミルクティを堪能しながらお喋りに夢中になった。 知世は、学校であまり話をしない代わりに、ファイにはどんなことでも楽しく話すことが出来た。好きな花や歌のことだとか、勉強のこと、クラスの男子に髪を引っ張られたこと。 ファイはニコニコしながら相槌を打ち、先を促し、楽しそうに耳を傾けてくれる。知世は、それが嬉しくて仕方がなかった。 けれどふと会話が途切れた瞬間、知世は温くなったミルクティのカップを手に取り、紅葉の茂る庭を眺めた。どうして、自分は学校で同じ歳の友人といるよりも、こうしてファイと一緒にいる方が楽しいのだろう。そんなことを、ぼんやりと考えた。 けれどよくよく思い返せば、こうやっていつもお喋りばかりしているのは自分だけのような気もする。どちらかと言えば、ファイはただ付き合ってくれているだけだ。 そう思ったら、なんだか少し悲しくなった。自分は学校の友達といると、時々とても退屈で寂しいような気持ちになる。ファイにもそう感じさせていたらと思うと、どうしようもなく気持ちが沈んだ。 知らず俯きがちになっていた知世の顔を、ファイは身を屈めて覗き込んできた。咄嗟に顔を上げると目が合って、彼はふんわりと優しく微笑んだ。 「ねぇ知世ちゃん」 「……?」 「学校、楽しい?」 「え……?」 ドキリとした。何も言っていないのに、まるで心の中身を見透かされたみたいな気がして、知世は咄嗟に笑うことも出来ずに目を見開いた。 「……なぜ、ファイさんはそれを聞こうと思ったのでしょうか?」 「んー、そうだなぁ。知世ちゃんは色々お話してくれるけど、友達とどんな風に過ごしたかって話は、一度も聞いたことないなって。それに、やっぱり似てるから、かなー?」 「似てる……?」 ファイは、知世の膝から自分の膝に移動してきたチィの喉を撫でながら、やっぱり笑っていた。 「似てるよー。君のお兄さんもね、嫌なこととか悩んでることがあると、ただ静かに俯いてることがあったから。眉間にぎゅうって皺を寄せてね、怒ったような顔して、何も言わなくなっちゃうの」 笑っていたはずの横顔が、なぜかとても寂しそうに感じられてしまったのはなぜだろう。時々、兄のことを話すときのファイは酷く悲しそうに見えることがある。 そして同時に、兄はいつだって不遜な態度でむっつりとした顔をしていたけれど、ファイの前ではそうやって素直に表情を見せることがあったのかと、少し驚いた。 そういえば鋼丸が死んだ日、兄は何も言わずにフラリと家を飛び出してしまった。もしかしたら、ファイに会いに行ったのではないかと、ぼんやり思う。 「案外わかりやすいんだよー、知世ちゃんのお兄さんって」 顔を上げたファイの表情からは、寂しげなものは消えていた。やはり、気のせいだったのだろうか。 知世はなぜだか少し、泣きたいような気持ちになった。チクリと、胸に棘が刺さっているような気がする。そして、きっと彼には何か不思議な力もあるのだろうと思った。人の気持ちが、分かる力。 「兄に似てるなんて言われたの、初めてですわ」 「そう?」 「ええ」 知世は、そこでようやく笑うことが出来た。でも、あの偉そうで自分勝手な兄に似てると言われたことは、あまり嬉しくない。そう思っていると、やっぱりファイは見透かした。 「あ、嬉しくないかー。だって知世ちゃんの方が何倍も可愛いもんね。いっぱいお話聞かせてくれるし」 「え?」 また、心臓が驚いて大きく跳ねた。やっぱりファイには不思議な力があると思う。 「知世ちゃんとのお喋り、楽しくて大好きだよー」 目をパチクリさせていた知世だが、やがて込み上げてくる感情のままに声を上げて笑った。つまらないことを気にしていた自分が、なんだか可笑しかった。 「ファイさんが私の兄だったらよかったのに」 「オレ? オレが知世ちゃんのお兄さん?」 「ええ」 ファイは、ただ肩を竦めて笑っただけで何も答えなかった。そして、やっぱりその笑顔はどこか寂しげだった。なぜそう思うのか、知世にはどうしても分からない。 ふと、ファイは赤く色づく庭を眺めた。穏やかな横顔が、とても綺麗だと感じた。 「あのね」 ファイは腕を伸ばすと人さし指をゆっくりと立て、自分の目線と同じくらいの高さに掲げた。すぐに真っ赤なトンボがその辺りを探るようにして飛びまわり、やがて指先に止まった。知世は、ひたすらその横顔を見つめる。見惚れていたといってもいいかもしれない。 「色んなこと、話すといいよ。友達とか……大切な人に。自分の気持ち、上手に伝えられるかどうかって自信ないよね。でも、殺しちゃ駄目なんだ」 「いろんなこと……?」 「うん。後悔してからじゃ遅いから」 指先に向けられていた視線が、知世に真っ直ぐ向けられた。トンボが飛び立つ。片方しかない瞳は、澄んだ冬空のように美しかった。 トンボの止まり木としての役目を終えた指先が、そっと知世の頭に触れた。幾度か優しく撫でたあと、下ろされる。 その仕草をぼんやりと眺めながら、知世はなんとなく気がついた。 きっと彼にとって、自分はチィと同じなのだ。小さくて、可愛くて、思わず手を伸ばして撫でてやりたくなるような。 そう思ったとき、なぜか再び胸がチクリと痛んだ。 「オレね、知世ちゃんがたくさんお話してくれるの、凄く嬉しくて楽しいんだ。オレだけが独り占めしてるの、勿体無いと思わない?」 「!」 ああ、本当に、どうしてこの人には全て分かってしまうのだろう。不思議な人。綺麗で優しくて、そしてどこか寂しい人。知世はそっと目を閉じ、頷いた。 明日から、自分は少しずつ変われるような気がした。自分から心を閉ざしたままでは、きっと誰も分かってくれないし、分かってあげることもできない。 ファイの膝の上で眠っていた子猫が、起き上がって伸びをする。何もないはずの空間にじゃれついて、家の中に走って消えてしまった。彼女にだけ、見えている何かがあるのかもしれない。 そしてファイもまた、どこか遠くを見つめている。その視線の先には誰がいるのだろうか。彼がそこに思い描く人は、今どこにいるのだろう。 「ファイさんは……後悔したことがあるのですか?」 知世は少しだけ迷ってから、問いかけた。してはいけない質問のような気がしたけれど、なぜか聞かずにはいられなかった。ファイはニッコリと笑いながら、言った。 「したよ。いっぱい」 ふと、よく知るあのむっつりとした顔が浮かんだのは、なぜだったのだろう。 ――それは、幼い頃の懐かしい思い出。 暖かな風が、春の陽気を乗せて少女の柔らかな黒髪を揺らした。 晴れた空を縁側に腰を下ろして見上げながら、その季節の香りを思い切り吸い込む。あまりにも気持ちのいい陽気だったから、知世は日課である鋼丸の墓に手を合わせたあと、縁側で日向ぼっこをしていたのだ。 何がきっかけ、というわけではないけれど、ふと幼い頃のことを思い出していた。 高校入学を間近に控えた今も、知世はファイの家によく顔を出し、今では約束通り店の手伝いもさせてもらっている。 数年前から開店したファイの店は、今ではこんな片田舎にひっそり佇んでいるとは思えないほどに繁盛していた。 初めは受け取れないと言って断ったものの、ファイはただ手伝わせるのは申し訳ないと言って、アルバイト代を知世に手渡してくれるようになった。 なんとなく使うのが勿体無くて、貰った分は全て溜め込んでいるのだけれど。 知世は、空を見上げていた視線を再び鋼丸の墓へと向けた。ボロボロの板に、下手くそな字で「はがねまる」と書いてある。子供の頃に、兄が書いたものだった。思わず笑ってしまう。 今の知世には、あの頃ファイの笑顔に付き纏う微かな翳りの正体が、なんとなく理解できている。 彼にあんな顔をさせているのが誰なのか。どうしてあのとき、兄の顔が思い浮かんだのか。ファイが誰を見ていたのか。 そして何より。 「やっぱり血の繋がった兄妹ですわね。なんだか釈然としませんけれど」 彼への憧れは、知世にとっての淡い初恋の思い出だった。ほんのりと甘い氷菓子のように、触れれば溶けて消えてしまいそうな、切ない記憶。それは今も知世の中に大切に仕舞ってある。 やがて一陣の強い風が吹きぬけて、激しく踊る母譲りの黒髪をそっと押さえた。遠くから、車のエンジン音が近づいてくる。この家のすぐ側で停車したのが分かった。 前触れもなく訪れた、地面を踏み鳴らすその少し乱暴な足音が懐かしくて、知世はそっと目を閉じた。 「鋼丸、どうしようもない飼い主が、ようやく戻ってきたようですわね」 ガラリと、玄関の引き戸が乱暴に開かれる音がした。 * 「帰ってこないよ。彼は、きっとね」 それはいつのことだったか。 淡い金色の髪を持ち、その美しい瞳の青を半分だけ失ってしまったその人は、キッチンで作業を繰り返す手元から目を離すことなくそう言った。 なぜそう思うのかと訪ねれば、その人は少しだけ寂しそうに微笑んだだけだった。 「でも……兄は昔から家を継ぐつもりでいましたわ」 きっと遅かれ早かれ必ず戻ってくる。兄は両親を心から愛しているし、もう子供ではないのだから。 そう思いはしても、知世はすぐに自信なさげに俯いてしまった。香ばしい砂糖の香りに、泣きたいような気持ちになったのはなぜだろう。 飼い主の足元に行儀よく座って知世を観察していた白猫が、冷たくそっぽを向いた。 * 「まったく貴方って人は……いくらお父さんが好きにしていいと言ったからって、限度ってものがあるでしょう?」 知世が抹茶とお茶請けを盆に乗せて茶の間へ顔を出したとき、ちょうど母が呆れたような声を兄に浴びせかけていた。 「しかも帰ってくるんだったら連絡くらいしてくれなくちゃ……何も用意できてなかったじゃない」 「悪かったよ」 どこか面倒臭そうに頭を掻いている兄に、母の小言は止まるところを知らないようだった。知世は母の言うことはもっともだと思いつつも、とりあえずはテーブルの脇に膝をつくと盆を乗せ、助け舟を出してやった。 「まぁまぁお母さん。お兄さんがグレてどうしようもない男になって戻って来たわけではないのですから」 「おい、フォローするならもうちょっとマシな言い方をしろ」 ここ数年でさらに目付きの悪さが悪化した様子の兄が、人ひとりくらいなら平気で殺せそうな、鋭い眼差しを送ってきた。けれど知世はどこ吹く風で、お茶と和菓子を兄の前に置く。 「ああ、そうでしたわね。お兄さんは元々どうしようもない男でした。訂正しますわ」 「てめぇ……」 そいつはどういう意味だ、と食いついてくる兄と、それを軽くあしらう知世を、母がまた呆れ顔で咎めた。 「もう……久しぶりに会っても貴方達は口喧嘩ばかりなんだから……その辺りになさいな」 「ふふ、でもお母さん、お兄さんにはまだまだ言いたいこともおありでしょう?」 「それはそうよ。本当にいきなりなんだから……」 母は呆れ半分、嬉しさ半分といった複雑そうな眼差しで微笑んでいた。彼女の言う通り、本当に兄の帰省は唐突のことだった。 彼がここへ顔を出したのは、驚いたことに三年も前のことだった。 確かあの時、兄は酷く面倒臭がっていたが、成人式なのだからという理由から母が無理矢理に連れ戻したのだ。 けれど彼は式になど出ず、家の前で家族写真だけを撮影してさっさと帰ってしまった。成人を迎えたら一緒に酒が飲めると思っていた父は、かなりヘコんでいたようだった。 そんな兄ではあるが、こういった田舎町ではさほど珍しいことではなかった。 進学や就職で一度家を出たが最後、酷いものでは身内に何かあって、ようやく顔を出すものもいる。その多くは間に合わないことの方が圧倒的に多い。みな、失ってみなければ分からないのだ。 それにしても、と知世は久しぶりに再会した兄を改めて見る。 ネクタイをだらしなく緩めたスーツ姿の兄は、もともと体格はよかったが見違えるようだった。スーツ姿は成人式の日に見たけれど、あの頃よりも随分と様になって見えるのは気のせいだろうか。 ケンカばかりの兄と妹であったが、知世は初めて兄に『大人の男』を感じていた。 「おい、なんか他にねぇのかよ。俺が甘いもん苦手だって知ってんだろ」 と、思ったのは束の間のことであった。 兄はお茶請けにと出した和菓子をじっとりと睨みつけて、文句を垂れた。母がぱっと表情を明るくして、ポンと両手を合わせる。 「ああ、それね。今うちでお客様にお茶請けとして出してるお菓子なの。とっても美味しいのよ」 それは春らしく、菜の花畑を模した形の菜種きんとんだった。黄色い花のアクセントがきいたその菓子は、はっきり言って悪人顔の兄には似合わない。 「茶だけ貰っとく」 それを口にすることを頑なに拒み、湯飲みだけを手にぐいっと煽る兄に、知世は思わずカチンと来た。 「お兄さん」 「あ?」 「出されたものは文句を言わずにお食べくださいな。もういい歳をした大人でしょう?」 知世が厳しい表情を見せ、棘のある言葉を発すると、母は少しだけ困ったように笑った。むっとしている息子に向かってフォローを入れる。 「黒鋼の口にもきっと合うわ。甘いものが苦手なお客様も中にはいるけど、お帰りになるときには何処で売られているのか、聞いて行かれる方が大勢いるのよ」 兄は半信半疑といった様子だったが、母に強く勧められてはそれ以上文句は言えず、結局は丸ごと一気に口に放った。品のある和菓子が台無しだと、知世はやっぱりカチンときてしまう。 けれど、もさもさと租借していた兄が眉間にさらに皺を寄せることはなかった。僅かに驚いたような顔をするから、今度は少し気分がよかった。 「美味しいでしょう?」 そう訪ねると、兄は面白くなさそうに「まぁまぁだ」と吐き捨てた。本当に可愛げのない男だ。 この菓子が兄の口に合うのは当然だ。誰よりもこの男のことを思っている人間が、丹精込めて作っているものなのだから。 「そうそう、黒鋼。今日は泊まっていくでしょう? 就職のお祝いだってしなくちゃいけないし」 お父さんもすぐに帰ってくるわ、と母が伺うような眼差しで兄の顔を覗き込んでいる。知世も気になってその顔を見た。 だが兄は幾度か首を左右に振った。 「いや……報告しにちょっと顔出し」 「泊まっていくわよね?」 兄の言葉を遮るように、母がニッコリと笑みを深くした。なぜか少し肝の冷えるような微笑だった。こんな風に笑う母には、なるべく逆らわない方がいい。 この母は怒らせれば父などよりも、よっぽど怖いのだ。 「……わかった」 見事に折れてしまった兄に、知世は口元を押さえて笑い声を噛み殺した。 * 兄はこの春から、市内のとある小学校へ体育教師としての赴任が決まった。 知世は兄が教師になるなんて夢を抱いていることなど微塵も知らず、大学を出ればこの町に戻ってくるものだとばかり思っていた。 いや、そうあって欲しいと願っていたに過ぎない。 それは知世が兄に傍にいて欲しいからだとか、そんな可愛らしい思いからではなかった。 父と母は、本来なら跡継ぎになるはずの息子が他所へ仕事を決めてしまったというのに、それをとても喜んだ。 兄も知世も、幼い頃からずっと家のことなど気にせずに、自分の好きな道を行くようにと言われて育ってきたし、知世とて無論、そうするつもりでいる。けれど兄は。 「知世か」 兄は――。 「本当にすぐ分かってしまうんですから。つまりませんわ」 何処に隠れていようと、すぐに知世を見つけてしまうのだ。幼い頃からずっと。 驚かせてやろうとそっと足音を立てずに近づいたのに、やっぱり兄には分かってしまった。 「何時だと思ってる。とっとと寝ろ」 「なんだか学校の先生みたいですわね」 肩を竦めながらも部屋の中へ入ってきた知世に、兄は呆れたように溜息を零した。月明かりの注ぐ室内で、兄はベッドの上に胡坐をかいていた。父から譲り受けた紺の着流しが、やけに様になっている。 足音を立てずに近づいて、知世はベッドのすぐ脇の床に腰を下ろした。 暫くの間、兄と妹は何も言わずに窓の外の月を眺めた。やがて意外にも、先に沈黙を破ったのは兄の方だった。 「あいつは」 彼は月から目線を外さない。小さな声だった。 「夢を……叶えたんだな」 知世は、そっと目を閉じた。 「ええ」 再び目を開ければ、月明かりに背を向けた兄がこちらを見下ろしている。知世は微笑んだ。 「お兄さんと同じように」 教師になった兄。幼い頃からの夢を叶えた、その幼馴染。兄は、少し複雑そうな顔をした。 「嬉しくありませんか?」 「……いや」 兄は昼間、あの美しい菓子を口に入れたときにはもう気がついていたのだろう。あの味の優しさと、切なさに。 「猫の目、という名前のお店です。あの方がつけたんですよ」 知世は、そこへよく遊びに行くがてら手伝いをさせてもらっていることや、真っ白の綺麗な猫が看板猫として人気があること、店主は和菓子に留まらず、気紛れでパイを焼く日もあればケーキを焼いたりもするなど、おそらくは兄が聞きたくとも聞けないでいるのであろうことを、全て話して聞かせた。 今から二年ほど前に開店した猫の目は、諏倭荘でお茶請けとして菓子を仕入れるようになったのを切欠に、徐々に口コミが広がった。その威力は微々たるものであったが、つい最近、なんと地元のローカルテレビ局が取材に訪れたのだ。それがまた切欠となり、評判はさらにあっという間に広がりつつある。 そして実は店の店主もまた、主に女性客に人気であるのだが、そこはなんとなく伏せた。 「そうか……」 一通りの話を聞き終えた後、懐かしげに目を細める兄に、知世はほんの少しだけ、胸に刺すような痛みを感じた。少々大袈裟にはしゃぎすぎたかとも思う。 知世はファイの傍にいる機会が多いから。だから嫌でも分かってしまう。帰ってこないと言いながら、彼は今も心のどこかで、この兄を待っているような気がしていた。 決して口に出して告げられたわけではないけれど。いつからか、知世には分かっていた。 「あの方は……」 貴方を待っているのだと、言いかけて口を噤んだ。自分が口出ししたところで、兄はもう自分の進む道を確かなものにしてしまった。 それを今さら捻じ曲げてでも戻って来て欲しいなどと、言える立場ではなかった。 例えばその我侭を兄が聞き入れるかどうかは別として、それを口に出来るのはファイでなければならない気もした。 言いかけた言葉を残したまま俯いた知世から、兄は視線を逸らして再び窓の外を見やった。今、兄は何を考えているのだろうか。淡く金色に輝く月の光を見つめながら、何を。 切なさと、もどかしさと、ほんの少しの苛立ちと。知世はそれらを持て余しながら微かに笑った。 「本当に、どうしようもない男ですわ。私の兄は」 自分のことなど見つけてくれなくていい。たった一人を見失ったままのくせに。 今だって痛いくらい分かってしまう。兄に妹のことが分かるように、妹にだって、本当は兄のことなどお見通しなのだから。 兄は生意気な口を利く妹に向かって、昼間のように食いついては来なかった。ただ一言、「承知の上だ」とだけ言って、口元を歪めるだけだった。 * 黒鋼は、朝早く家族全員で朝食を摂った後、帰って行った。 知世は道路脇まで見送りに出た父と母と並んで、兄の運転する車を見送った。両親が先に戻ってからも、ただそこに立ち尽くしてその方向をいつまでも眺めていた。 結局、最後までファイの店へ一緒に行かないかと、誘うことが出来なかった。 何気なさを装うには知世は察しすぎていたし、兄にもそれが伝わってしまったのだろう。何も言うなとその瞳が静かに語っていた。 彼らに何があったのかまでは分からない。だからこそのもどかしさだった。 知世はふと、思うことがある。 もし自分が兄の立場であったなら。あの柔らかくて優しい、月の光のように美しいあの人を、決して一人になどしない。 今にもポキリと折れて、地に伏してしまうのではないかとすら思えるような、儚いあの人を。彼はそんなものを微塵も感じさせないようにいつでも笑っているから、だからこそこんなにも知世の胸は軋むのだ。 それを置き去りにしてまで背を向け続ける兄の気持ちなど、知りたくもないと思った。 彼の孤独を。寂しさを。埋めることが出来るのはたった一人しかいないのに。 「私にも誰にも……それは出来ないのです。お兄さん」 一人残された知世は、今はいない兄へ向けてポツリと呟いた。 ←戻る ・ 次へ→
大好きだった勉強が、退屈なものに思えるようになったのはいつからだろう。
好きが高じて先へ先へと一人で進んでいくうちに、学校での授業がつまらなくなってしまったのは。
友達はいるし、皆のことは大好きだけれど、それでも時々どうしようもなく一人ぼっちのような気がする。
だから知世はふと、口を閉ざすことがあった。友達の話を聞いて、ただニコニコ笑って相槌を打っているのは退屈だけれど、とても楽だったから。
そんな知世の心の隙間を埋めてくれるのは、大きなお屋敷に暮らす、一人の孤独な青年だった。
「すっかり元気になりましたわね、チィちゃん」
玄関から入らず庭から直接縁側に顔を出すと、白い子猫が小さな赤いゴムボールを追いかけて、廊下を走り回っていた。知世がやってきたことにも気づかずに、一心不乱に追い掛け回してはボールと一緒にコロコロと転げ回っている。
「いらっしゃーい。おかえりー」
すぐに笑顔で室内から顔を出したファイが出迎えてくれると、知世もニッコリ笑って「こんにちは」と言った。
「ねー? 動くもの全部が楽しくて仕方ないみたいでね、結構ヤンチャだよー」
「うふふ、興奮してますわね」
見ればチィのすらっと伸びた尻尾が倍にまで膨れ上がっている。心なしか、鼻息も荒い。普段はおっとりしていて大人しいだけに、まるで何かに取り憑かれたかのようだった。
「スイッチ入っちゃうといつもこんな感じなんだー」
ファイは「しょうがないねぇ」と言って苦笑した。知世も笑う。
元気がいいことは何よりだと思った。最初にファイがチィを拾ってきたときは、痩せ細っていて見ていられないくらいに弱りきっていたのだ。たった二ヶ月あまりで身体もだいぶ大きくなり、こんなにも走り回れるようになったのだから、喜ばしいことだと思う。白いフリルと金の鈴がついた、ピンク色の首輪がよく似合っている。
「両手にすっぽり納まるくらい小さかったのに、大きくなるのはあっという間ですわね」
「まだもうちょっと大きくなると思うけどねー。あ、どうぞ座って」
それから、ちょっと待ってて、と言い残してファイは家の中に姿を消した。
知世は背負っていた赤いランドセルを下ろして縁側に置くと、ファイが用意してくれた小豆色の座布団にちょこんと座った。
季節は秋を迎えて、すっかり色づいた庭の草花達を眺めていると、ボールに飽きたチィがようやく知世の傍までやってくる。膝に乗せ、指先でじゃれつかせていると、ファイが盆を持ってやってきた。
「お茶とお菓子はいかがですかー? 知世姫ー」
「まぁ! もちろんいただきますわ!」
知世は思わずパチンと両手を合わせて、キラキラと目を輝かせた。
ファイの作る菓子は、お歳暮に送られてくる高価なゼリーだとか、山を下りた先の温泉街にある小さなケーキ屋さんで買うものよりも、ずっと美味しかった。
知世はここへ来る度にご馳走になったり、ときには一緒にキッチンに並んで作り方を習ったりしている。
彼の作るものは父や母も大好物で、よくお土産にと持たせてくれるものを二人も楽しみにしていた。
「ファイさんの作ったものを食べたら、もう他では食べられませんわ」
本心から言ったのだが、ファイはブンブンと両手を振って苦笑した。
「知世ちゃんてば言いすぎだよー。今日のは簡単だったし……まだまだ修行中の身なんだからー」
「いいえ! 私、ファイさんがお店を始めたら絶対に毎日通いますわ! お手伝いもさせてくださいね!」
ずずい、と身を乗り出して言うと、ファイは少し驚いたようだったが嬉しそうに微笑んだ。
「ほんとー? 嬉しいなぁ。じゃあ知世ちゃんとチィで看板娘だねー」
縁側に並んで腰掛けながら、二人は頷くと笑い合った。
*
それから、知世はファイが作ってくれたチョコレートマフィンとミルクティを堪能しながらお喋りに夢中になった。
知世は、学校であまり話をしない代わりに、ファイにはどんなことでも楽しく話すことが出来た。好きな花や歌のことだとか、勉強のこと、クラスの男子に髪を引っ張られたこと。
ファイはニコニコしながら相槌を打ち、先を促し、楽しそうに耳を傾けてくれる。知世は、それが嬉しくて仕方がなかった。
けれどふと会話が途切れた瞬間、知世は温くなったミルクティのカップを手に取り、紅葉の茂る庭を眺めた。どうして、自分は学校で同じ歳の友人といるよりも、こうしてファイと一緒にいる方が楽しいのだろう。そんなことを、ぼんやりと考えた。
けれどよくよく思い返せば、こうやっていつもお喋りばかりしているのは自分だけのような気もする。どちらかと言えば、ファイはただ付き合ってくれているだけだ。
そう思ったら、なんだか少し悲しくなった。自分は学校の友達といると、時々とても退屈で寂しいような気持ちになる。ファイにもそう感じさせていたらと思うと、どうしようもなく気持ちが沈んだ。
知らず俯きがちになっていた知世の顔を、ファイは身を屈めて覗き込んできた。咄嗟に顔を上げると目が合って、彼はふんわりと優しく微笑んだ。
「ねぇ知世ちゃん」
「……?」
「学校、楽しい?」
「え……?」
ドキリとした。何も言っていないのに、まるで心の中身を見透かされたみたいな気がして、知世は咄嗟に笑うことも出来ずに目を見開いた。
「……なぜ、ファイさんはそれを聞こうと思ったのでしょうか?」
「んー、そうだなぁ。知世ちゃんは色々お話してくれるけど、友達とどんな風に過ごしたかって話は、一度も聞いたことないなって。それに、やっぱり似てるから、かなー?」
「似てる……?」
ファイは、知世の膝から自分の膝に移動してきたチィの喉を撫でながら、やっぱり笑っていた。
「似てるよー。君のお兄さんもね、嫌なこととか悩んでることがあると、ただ静かに俯いてることがあったから。眉間にぎゅうって皺を寄せてね、怒ったような顔して、何も言わなくなっちゃうの」
笑っていたはずの横顔が、なぜかとても寂しそうに感じられてしまったのはなぜだろう。時々、兄のことを話すときのファイは酷く悲しそうに見えることがある。
そして同時に、兄はいつだって不遜な態度でむっつりとした顔をしていたけれど、ファイの前ではそうやって素直に表情を見せることがあったのかと、少し驚いた。
そういえば鋼丸が死んだ日、兄は何も言わずにフラリと家を飛び出してしまった。もしかしたら、ファイに会いに行ったのではないかと、ぼんやり思う。
「案外わかりやすいんだよー、知世ちゃんのお兄さんって」
顔を上げたファイの表情からは、寂しげなものは消えていた。やはり、気のせいだったのだろうか。
知世はなぜだか少し、泣きたいような気持ちになった。チクリと、胸に棘が刺さっているような気がする。そして、きっと彼には何か不思議な力もあるのだろうと思った。人の気持ちが、分かる力。
「兄に似てるなんて言われたの、初めてですわ」
「そう?」
「ええ」
知世は、そこでようやく笑うことが出来た。でも、あの偉そうで自分勝手な兄に似てると言われたことは、あまり嬉しくない。そう思っていると、やっぱりファイは見透かした。
「あ、嬉しくないかー。だって知世ちゃんの方が何倍も可愛いもんね。いっぱいお話聞かせてくれるし」
「え?」
また、心臓が驚いて大きく跳ねた。やっぱりファイには不思議な力があると思う。
「知世ちゃんとのお喋り、楽しくて大好きだよー」
目をパチクリさせていた知世だが、やがて込み上げてくる感情のままに声を上げて笑った。つまらないことを気にしていた自分が、なんだか可笑しかった。
「ファイさんが私の兄だったらよかったのに」
「オレ? オレが知世ちゃんのお兄さん?」
「ええ」
ファイは、ただ肩を竦めて笑っただけで何も答えなかった。そして、やっぱりその笑顔はどこか寂しげだった。なぜそう思うのか、知世にはどうしても分からない。
ふと、ファイは赤く色づく庭を眺めた。穏やかな横顔が、とても綺麗だと感じた。
「あのね」
ファイは腕を伸ばすと人さし指をゆっくりと立て、自分の目線と同じくらいの高さに掲げた。すぐに真っ赤なトンボがその辺りを探るようにして飛びまわり、やがて指先に止まった。知世は、ひたすらその横顔を見つめる。見惚れていたといってもいいかもしれない。
「色んなこと、話すといいよ。友達とか……大切な人に。自分の気持ち、上手に伝えられるかどうかって自信ないよね。でも、殺しちゃ駄目なんだ」
「いろんなこと……?」
「うん。後悔してからじゃ遅いから」
指先に向けられていた視線が、知世に真っ直ぐ向けられた。トンボが飛び立つ。片方しかない瞳は、澄んだ冬空のように美しかった。
トンボの止まり木としての役目を終えた指先が、そっと知世の頭に触れた。幾度か優しく撫でたあと、下ろされる。
その仕草をぼんやりと眺めながら、知世はなんとなく気がついた。
きっと彼にとって、自分はチィと同じなのだ。小さくて、可愛くて、思わず手を伸ばして撫でてやりたくなるような。
そう思ったとき、なぜか再び胸がチクリと痛んだ。
「オレね、知世ちゃんがたくさんお話してくれるの、凄く嬉しくて楽しいんだ。オレだけが独り占めしてるの、勿体無いと思わない?」
「!」
ああ、本当に、どうしてこの人には全て分かってしまうのだろう。不思議な人。綺麗で優しくて、そしてどこか寂しい人。知世はそっと目を閉じ、頷いた。
明日から、自分は少しずつ変われるような気がした。自分から心を閉ざしたままでは、きっと誰も分かってくれないし、分かってあげることもできない。
ファイの膝の上で眠っていた子猫が、起き上がって伸びをする。何もないはずの空間にじゃれついて、家の中に走って消えてしまった。彼女にだけ、見えている何かがあるのかもしれない。
そしてファイもまた、どこか遠くを見つめている。その視線の先には誰がいるのだろうか。彼がそこに思い描く人は、今どこにいるのだろう。
「ファイさんは……後悔したことがあるのですか?」
知世は少しだけ迷ってから、問いかけた。してはいけない質問のような気がしたけれど、なぜか聞かずにはいられなかった。ファイはニッコリと笑いながら、言った。
「したよ。いっぱい」
ふと、よく知るあのむっつりとした顔が浮かんだのは、なぜだったのだろう。
――それは、幼い頃の懐かしい思い出。
暖かな風が、春の陽気を乗せて少女の柔らかな黒髪を揺らした。
晴れた空を縁側に腰を下ろして見上げながら、その季節の香りを思い切り吸い込む。あまりにも気持ちのいい陽気だったから、知世は日課である鋼丸の墓に手を合わせたあと、縁側で日向ぼっこをしていたのだ。
何がきっかけ、というわけではないけれど、ふと幼い頃のことを思い出していた。
高校入学を間近に控えた今も、知世はファイの家によく顔を出し、今では約束通り店の手伝いもさせてもらっている。
数年前から開店したファイの店は、今ではこんな片田舎にひっそり佇んでいるとは思えないほどに繁盛していた。
初めは受け取れないと言って断ったものの、ファイはただ手伝わせるのは申し訳ないと言って、アルバイト代を知世に手渡してくれるようになった。
なんとなく使うのが勿体無くて、貰った分は全て溜め込んでいるのだけれど。
知世は、空を見上げていた視線を再び鋼丸の墓へと向けた。ボロボロの板に、下手くそな字で「はがねまる」と書いてある。子供の頃に、兄が書いたものだった。思わず笑ってしまう。
今の知世には、あの頃ファイの笑顔に付き纏う微かな翳りの正体が、なんとなく理解できている。
彼にあんな顔をさせているのが誰なのか。どうしてあのとき、兄の顔が思い浮かんだのか。ファイが誰を見ていたのか。
そして何より。
「やっぱり血の繋がった兄妹ですわね。なんだか釈然としませんけれど」
彼への憧れは、知世にとっての淡い初恋の思い出だった。ほんのりと甘い氷菓子のように、触れれば溶けて消えてしまいそうな、切ない記憶。それは今も知世の中に大切に仕舞ってある。
やがて一陣の強い風が吹きぬけて、激しく踊る母譲りの黒髪をそっと押さえた。遠くから、車のエンジン音が近づいてくる。この家のすぐ側で停車したのが分かった。
前触れもなく訪れた、地面を踏み鳴らすその少し乱暴な足音が懐かしくて、知世はそっと目を閉じた。
「鋼丸、どうしようもない飼い主が、ようやく戻ってきたようですわね」
ガラリと、玄関の引き戸が乱暴に開かれる音がした。
*
「帰ってこないよ。彼は、きっとね」
それはいつのことだったか。
淡い金色の髪を持ち、その美しい瞳の青を半分だけ失ってしまったその人は、キッチンで作業を繰り返す手元から目を離すことなくそう言った。
なぜそう思うのかと訪ねれば、その人は少しだけ寂しそうに微笑んだだけだった。
「でも……兄は昔から家を継ぐつもりでいましたわ」
きっと遅かれ早かれ必ず戻ってくる。兄は両親を心から愛しているし、もう子供ではないのだから。
そう思いはしても、知世はすぐに自信なさげに俯いてしまった。香ばしい砂糖の香りに、泣きたいような気持ちになったのはなぜだろう。
飼い主の足元に行儀よく座って知世を観察していた白猫が、冷たくそっぽを向いた。
*
「まったく貴方って人は……いくらお父さんが好きにしていいと言ったからって、限度ってものがあるでしょう?」
知世が抹茶とお茶請けを盆に乗せて茶の間へ顔を出したとき、ちょうど母が呆れたような声を兄に浴びせかけていた。
「しかも帰ってくるんだったら連絡くらいしてくれなくちゃ……何も用意できてなかったじゃない」
「悪かったよ」
どこか面倒臭そうに頭を掻いている兄に、母の小言は止まるところを知らないようだった。知世は母の言うことはもっともだと思いつつも、とりあえずはテーブルの脇に膝をつくと盆を乗せ、助け舟を出してやった。
「まぁまぁお母さん。お兄さんがグレてどうしようもない男になって戻って来たわけではないのですから」
「おい、フォローするならもうちょっとマシな言い方をしろ」
ここ数年でさらに目付きの悪さが悪化した様子の兄が、人ひとりくらいなら平気で殺せそうな、鋭い眼差しを送ってきた。けれど知世はどこ吹く風で、お茶と和菓子を兄の前に置く。
「ああ、そうでしたわね。お兄さんは元々どうしようもない男でした。訂正しますわ」
「てめぇ……」
そいつはどういう意味だ、と食いついてくる兄と、それを軽くあしらう知世を、母がまた呆れ顔で咎めた。
「もう……久しぶりに会っても貴方達は口喧嘩ばかりなんだから……その辺りになさいな」
「ふふ、でもお母さん、お兄さんにはまだまだ言いたいこともおありでしょう?」
「それはそうよ。本当にいきなりなんだから……」
母は呆れ半分、嬉しさ半分といった複雑そうな眼差しで微笑んでいた。彼女の言う通り、本当に兄の帰省は唐突のことだった。
彼がここへ顔を出したのは、驚いたことに三年も前のことだった。
確かあの時、兄は酷く面倒臭がっていたが、成人式なのだからという理由から母が無理矢理に連れ戻したのだ。
けれど彼は式になど出ず、家の前で家族写真だけを撮影してさっさと帰ってしまった。成人を迎えたら一緒に酒が飲めると思っていた父は、かなりヘコんでいたようだった。
そんな兄ではあるが、こういった田舎町ではさほど珍しいことではなかった。
進学や就職で一度家を出たが最後、酷いものでは身内に何かあって、ようやく顔を出すものもいる。その多くは間に合わないことの方が圧倒的に多い。みな、失ってみなければ分からないのだ。
それにしても、と知世は久しぶりに再会した兄を改めて見る。
ネクタイをだらしなく緩めたスーツ姿の兄は、もともと体格はよかったが見違えるようだった。スーツ姿は成人式の日に見たけれど、あの頃よりも随分と様になって見えるのは気のせいだろうか。
ケンカばかりの兄と妹であったが、知世は初めて兄に『大人の男』を感じていた。
「おい、なんか他にねぇのかよ。俺が甘いもん苦手だって知ってんだろ」
と、思ったのは束の間のことであった。
兄はお茶請けにと出した和菓子をじっとりと睨みつけて、文句を垂れた。母がぱっと表情を明るくして、ポンと両手を合わせる。
「ああ、それね。今うちでお客様にお茶請けとして出してるお菓子なの。とっても美味しいのよ」
それは春らしく、菜の花畑を模した形の菜種きんとんだった。黄色い花のアクセントがきいたその菓子は、はっきり言って悪人顔の兄には似合わない。
「茶だけ貰っとく」
それを口にすることを頑なに拒み、湯飲みだけを手にぐいっと煽る兄に、知世は思わずカチンと来た。
「お兄さん」
「あ?」
「出されたものは文句を言わずにお食べくださいな。もういい歳をした大人でしょう?」
知世が厳しい表情を見せ、棘のある言葉を発すると、母は少しだけ困ったように笑った。むっとしている息子に向かってフォローを入れる。
「黒鋼の口にもきっと合うわ。甘いものが苦手なお客様も中にはいるけど、お帰りになるときには何処で売られているのか、聞いて行かれる方が大勢いるのよ」
兄は半信半疑といった様子だったが、母に強く勧められてはそれ以上文句は言えず、結局は丸ごと一気に口に放った。品のある和菓子が台無しだと、知世はやっぱりカチンときてしまう。
けれど、もさもさと租借していた兄が眉間にさらに皺を寄せることはなかった。僅かに驚いたような顔をするから、今度は少し気分がよかった。
「美味しいでしょう?」
そう訪ねると、兄は面白くなさそうに「まぁまぁだ」と吐き捨てた。本当に可愛げのない男だ。
この菓子が兄の口に合うのは当然だ。誰よりもこの男のことを思っている人間が、丹精込めて作っているものなのだから。
「そうそう、黒鋼。今日は泊まっていくでしょう? 就職のお祝いだってしなくちゃいけないし」
お父さんもすぐに帰ってくるわ、と母が伺うような眼差しで兄の顔を覗き込んでいる。知世も気になってその顔を見た。
だが兄は幾度か首を左右に振った。
「いや……報告しにちょっと顔出し」
「泊まっていくわよね?」
兄の言葉を遮るように、母がニッコリと笑みを深くした。なぜか少し肝の冷えるような微笑だった。こんな風に笑う母には、なるべく逆らわない方がいい。
この母は怒らせれば父などよりも、よっぽど怖いのだ。
「……わかった」
見事に折れてしまった兄に、知世は口元を押さえて笑い声を噛み殺した。
*
兄はこの春から、市内のとある小学校へ体育教師としての赴任が決まった。
知世は兄が教師になるなんて夢を抱いていることなど微塵も知らず、大学を出ればこの町に戻ってくるものだとばかり思っていた。
いや、そうあって欲しいと願っていたに過ぎない。
それは知世が兄に傍にいて欲しいからだとか、そんな可愛らしい思いからではなかった。
父と母は、本来なら跡継ぎになるはずの息子が他所へ仕事を決めてしまったというのに、それをとても喜んだ。
兄も知世も、幼い頃からずっと家のことなど気にせずに、自分の好きな道を行くようにと言われて育ってきたし、知世とて無論、そうするつもりでいる。けれど兄は。
「知世か」
兄は――。
「本当にすぐ分かってしまうんですから。つまりませんわ」
何処に隠れていようと、すぐに知世を見つけてしまうのだ。幼い頃からずっと。
驚かせてやろうとそっと足音を立てずに近づいたのに、やっぱり兄には分かってしまった。
「何時だと思ってる。とっとと寝ろ」
「なんだか学校の先生みたいですわね」
肩を竦めながらも部屋の中へ入ってきた知世に、兄は呆れたように溜息を零した。月明かりの注ぐ室内で、兄はベッドの上に胡坐をかいていた。父から譲り受けた紺の着流しが、やけに様になっている。
足音を立てずに近づいて、知世はベッドのすぐ脇の床に腰を下ろした。
暫くの間、兄と妹は何も言わずに窓の外の月を眺めた。やがて意外にも、先に沈黙を破ったのは兄の方だった。
「あいつは」
彼は月から目線を外さない。小さな声だった。
「夢を……叶えたんだな」
知世は、そっと目を閉じた。
「ええ」
再び目を開ければ、月明かりに背を向けた兄がこちらを見下ろしている。知世は微笑んだ。
「お兄さんと同じように」
教師になった兄。幼い頃からの夢を叶えた、その幼馴染。兄は、少し複雑そうな顔をした。
「嬉しくありませんか?」
「……いや」
兄は昼間、あの美しい菓子を口に入れたときにはもう気がついていたのだろう。あの味の優しさと、切なさに。
「猫の目、という名前のお店です。あの方がつけたんですよ」
知世は、そこへよく遊びに行くがてら手伝いをさせてもらっていることや、真っ白の綺麗な猫が看板猫として人気があること、店主は和菓子に留まらず、気紛れでパイを焼く日もあればケーキを焼いたりもするなど、おそらくは兄が聞きたくとも聞けないでいるのであろうことを、全て話して聞かせた。
今から二年ほど前に開店した猫の目は、諏倭荘でお茶請けとして菓子を仕入れるようになったのを切欠に、徐々に口コミが広がった。その威力は微々たるものであったが、つい最近、なんと地元のローカルテレビ局が取材に訪れたのだ。それがまた切欠となり、評判はさらにあっという間に広がりつつある。
そして実は店の店主もまた、主に女性客に人気であるのだが、そこはなんとなく伏せた。
「そうか……」
一通りの話を聞き終えた後、懐かしげに目を細める兄に、知世はほんの少しだけ、胸に刺すような痛みを感じた。少々大袈裟にはしゃぎすぎたかとも思う。
知世はファイの傍にいる機会が多いから。だから嫌でも分かってしまう。帰ってこないと言いながら、彼は今も心のどこかで、この兄を待っているような気がしていた。
決して口に出して告げられたわけではないけれど。いつからか、知世には分かっていた。
「あの方は……」
貴方を待っているのだと、言いかけて口を噤んだ。自分が口出ししたところで、兄はもう自分の進む道を確かなものにしてしまった。
それを今さら捻じ曲げてでも戻って来て欲しいなどと、言える立場ではなかった。
例えばその我侭を兄が聞き入れるかどうかは別として、それを口に出来るのはファイでなければならない気もした。
言いかけた言葉を残したまま俯いた知世から、兄は視線を逸らして再び窓の外を見やった。今、兄は何を考えているのだろうか。淡く金色に輝く月の光を見つめながら、何を。
切なさと、もどかしさと、ほんの少しの苛立ちと。知世はそれらを持て余しながら微かに笑った。
「本当に、どうしようもない男ですわ。私の兄は」
自分のことなど見つけてくれなくていい。たった一人を見失ったままのくせに。
今だって痛いくらい分かってしまう。兄に妹のことが分かるように、妹にだって、本当は兄のことなどお見通しなのだから。
兄は生意気な口を利く妹に向かって、昼間のように食いついては来なかった。ただ一言、「承知の上だ」とだけ言って、口元を歪めるだけだった。
*
黒鋼は、朝早く家族全員で朝食を摂った後、帰って行った。
知世は道路脇まで見送りに出た父と母と並んで、兄の運転する車を見送った。両親が先に戻ってからも、ただそこに立ち尽くしてその方向をいつまでも眺めていた。
結局、最後までファイの店へ一緒に行かないかと、誘うことが出来なかった。
何気なさを装うには知世は察しすぎていたし、兄にもそれが伝わってしまったのだろう。何も言うなとその瞳が静かに語っていた。
彼らに何があったのかまでは分からない。だからこそのもどかしさだった。
知世はふと、思うことがある。
もし自分が兄の立場であったなら。あの柔らかくて優しい、月の光のように美しいあの人を、決して一人になどしない。
今にもポキリと折れて、地に伏してしまうのではないかとすら思えるような、儚いあの人を。彼はそんなものを微塵も感じさせないようにいつでも笑っているから、だからこそこんなにも知世の胸は軋むのだ。
それを置き去りにしてまで背を向け続ける兄の気持ちなど、知りたくもないと思った。
彼の孤独を。寂しさを。埋めることが出来るのはたった一人しかいないのに。
「私にも誰にも……それは出来ないのです。お兄さん」
一人残された知世は、今はいない兄へ向けてポツリと呟いた。
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