2025/08/07 Thu 花散らしの雨 滅茶苦茶になってしまった水曜日の教室は、翌週に繰り越して再度仕切りなおすことになっていた。 子供達はどんよりとした曇り空の下の景色を、一日中落ち着きなく眺めていた。 けれど、彼らの待ち人は来なかった。 * 大きな屋敷は、ついに降り出した雨の中どこか暗く、そして重い雰囲気を醸し出していた。 燻るだけだった蕾がこの数日の間に一気に花開き、ようやく美しい花を咲かせたと思った途端にこれである。花散らしの雨だった。 黒鋼は、昔はただの廃墟でしかなかったはずの、改築された建物の脇に車を停めた。白いコンクリートの殻に覆われたそれは、茶屋というよりは小奇麗なケーキ屋か、あるいは喫茶店のようにも見える外観だった。 ガラス張りの入り口には『本日休業』という札がかかっており、中は薄暗くて人気がない。 店の前には、店の名前とロゴが入った白いワゴンが停められている。家人はいるということだろうか。 車を降り、黒い傘を差す。店の様子を窺いながら足早に坂道を登った。以前は砂利道だったが、そこも綺麗にコンクリートで舗装されていた。 門は半分だけ中途半端に開放されていた。温い風に吹かれてキイキイと甲高い音を立てながら揺れている。 雨が強くなったり弱くなったりを繰り返す中で、黒鋼は玄関先まで足を運ぶと、重々しく閉ざされた曇りガラスの引き戸を開けた。田舎の町では、ほとんどの家が昼も夜も玄関の鍵を解放している。無用心にも思われるが、しっかりと戸締りをすることで逆に町人同士のコミュニケーションが成り立たない場合もある。どこまでもつまらない習慣だと思う。 「おい、いるか」 薄暗い廊下へ向けて、挨拶代わりの一声を放った。大きな屋敷である。たったそれだけで返答が得られるとは思わない。 傘を閉じて適当に立てかけると中に入り込んだ。もう一度、今度は大きな声で全く同じ言葉を無人の廊下へ向けて放った。やはり、返答はない。 さすがに、家人がいるかどうかも分からない家の内部にまで上がり込むだけの図々しさは、持ち合わせていなかった。硬質で冷ややかな屋敷の空気が、どこか訪れた者を拒んでいるような気さえする。 仕方なく、黒鋼は再び傘を持つと表へ出た。庭から回り込むことにする。雨が強くなればなるほど、なぜか胸騒ぎが増していくようだった。 彼はいるのか、いないのか。そもそもこの屋敷には本当に人が住んでいるのだろうか。あまりにも静かで、重々しく、そして暗い。子供の頃には感じたことのない違和感が、微かな不安を煽る。 ファイの祖父が死んでからはここへ遊びに来ることがよくあったが、当時は玄関に入ればいつも笑顔のばあさんが出迎えてくれた。あの頃まだ子供だった黒鋼から見ても、とても小さな人だった。彼女がもういないのだと思うと、今更のように込み上げてくるものがある。 たった二人で暮らすにも大きすぎる屋敷。ここでファイは一人きりで生活をしているのだ。 ぼんやりと物思いに耽りつつ、ぐるりと回りこむようにして草木の茂る庭に足を踏み入れた。そこで黒鋼は息を飲む。 ファイを探しにわざわざ足を運んだくせに、いざ当人を目の当たりにして少し驚いた。いるはずだと分かってはいても、ここにはあまりにも人の気配がなさすぎるから。 「なにしてる」 彼は、雨の降りしきる庭の中央に茫然と立ち尽くしていた。傘も差さずに、裸足で濡れそぼっている。 黒鋼が声をかけても、ファイは振り向かない。ただ、ほんの少し肩を震わせた。 「おい」 近寄って、今更だとは思いつつ傘を彼の頭上へと翳した。そこで、ようやく青い瞳が黒鋼を見上げた。青白く透き通るような肌が、まるで死人のようだった。 背筋を嫌な寒気が駆け抜ける。彼は、一体なにをしていたのだろう。 「来れねぇなら連絡ぐれぇしたらどうだ。ガキ共が心配して」 「いないんだ」 「……あ?」 黒鋼の言葉を遮ったファイが、庭をキョロキョロと見渡している。差してやった傘の下からゆらりと抜け出して、ふらふらとどこかへ行こうとする。 「おい」 咄嗟に腕を掴んだ。氷のように冷え切った肌が、彼の纏う白いシャツ越しに手の平に伝わる。どれだけ長い間、彼は雨に打たれていたのだろうか。 「いないんだよ、どこにも」 「なにが」 「チィがいない」 「ちぃ?」 「朝からずっと探しているのに、見つからない……どうしよう……見つからないよ……」 ファイは独り言のように呟くと、スルリと黒鋼の腕を擦り抜けた。強く掴んでいたつもりだったその腕が、いとも簡単に遠のいてしまう。 「チィ、どこ? チィ、出ておいで」 彼の目には黒鋼など最初から映っていないようだった。その心はどこか別の場所にある。黒のタイトなパンツが泥で汚れるのも構わずに膝をついて軒下を覗き、草木の影を這いずっては「チィ」の名を呼んでいる。 ふと、知世から『猫の目』には白い猫がいるという話を聞いたことを思い出した。看板猫として人気があるのだと。 「チィってのは、おまえの猫か」 「いない……。家の中も外も、ずっと探してるんだ。今日はまだご飯だって食べてないんだよ。お腹を空かせて、どこかで動けなくなってるのかな……」 そう言って、ファイは黒鋼に背を向けたまま蹲ってしまった。泣いているのだろうか。けれど彼をこのままにしておくことはできない。黒鋼は苛立っていた。 「いい加減にしねぇか。ひとまず家ん中入るぞ」 再びその腕を掴んで強引に立ち上がらせる。軽い、空っぽの人形のような身体だった。 「やだよ」 腕の中で、人形が首を左右に振る。黒鋼は眉間に深い皺を刻んだ。今度は離れないようにと、強くその腕を掴む手に力を込める。 「帰って。君には関係ない」 「……なんだと?」 「離してよ」 間近で見た彼は、泣いてはいなかった。その表情には一切の感情の色がない。声にさえ、抑揚がない。身を捩って離れようとする腕に爪を立てた。 「痛い」 離して、と彼は再び言った。黒鋼の中の、言いようのない苛立ちがピークに達していた。半ば引き摺るようにして彼を縁側へと連れて行こうとすれば、そのはずみで傘が地に落ちた。でも今は、そんなものはどうでもいい。 それよりも、腕の中で暴れ出したファイを抑えつけることの方が厄介で、そして重要なことだった。 「離してってば! 関係ないって言ってるでしょう!?」 「うるせぇんだよ! バカみたいに濡れやがって、ちっとは冷静になれ!!」 そう言う黒鋼も、傘を手放したことによりみるみるうちに雨に晒され濡れてゆく。ファイがもがいて、その泥だらけの手がジャージを汚した。 簡単に捻じ伏せられると思っていたその身体は、驚くほど強くしつこかった。それこそ猫のように柔軟に逃げを打ち、抱え込もうにも苦労を要する。 雨の中、大の大人が取っ組み合っている様子など、他の誰かが見れば気が触れているとしか思えない光景だろう。 「離せっ! 離せって言ってんだよ……っ!!」 ファイの目付きも、口調も変わった。振り上げられた手が、黒鋼の頬に泥と共に引っ掻き傷を作る。それは思った以上に鋭く、強靭な刃となって焼けるような痛みをもたらした。 「っ……!」 滲む血液に、息を飲んだのはファイだった。その一瞬の隙をついて、黒鋼は冷え切った身体を強く抱きしめる。 茫然としていたファイだったが、すぐに火がついたように再び暴れ出す。けれどもう離さない。彼が力尽きるまで堪え続けるだけだ。冷たかった身体が、腕の中でみるみるうちに熱くなる。 固い拳が強く肩や背を叩いても、首や頬に傷を作っても、黒鋼は彼を決して離さなかった。ファイは興奮した獣のようにヒステリックに唸り、時折口汚い言葉を黒鋼に向けて放ちながら、ひたすら暴れた。 だが、それだけ激しく抵抗すれば力が弱まっていくのに時間はかからなかった。僅かに腕の力を抜いた瞬間、ファイは黒鋼の左肩にガックリと顔を埋めた。ひたすら打ち付けられていた拳が、ダラリと下がる。 激しく呼吸を繰り返す背をあやすように撫でると、最後の力とばかりに、再び握られた拳が黒鋼の左肩に打ち付けられた。それから、くぐもった声が悔しそうに「ちくしょう」と紡がれるのを聞いた。ファイの動きは、完全に止まった。 黒鋼は、少しだけ笑った。 「おまえ、実はとんでもねぇ癇癪持ちだったんだな」 知らなかった。彼のこれほどまでに激しく感情を曝け出す様や、荒々しく甲走った声を初めて聞いた。毛を逆立て、まるで別人のような口調で怒鳴りながら暴れる姿は、おっとりとした物腰と、目を離せば風船のようにふわふわと飛んで行きそうだった彼からは大きくかけ離れていた。 うるさい、という小さな声がして、まるで子供がむずがるような仕草でファイが黒鋼の肩に額を擦り付けた。 「なんで……なんでだよ……」 「…………」 「なんで、来たの……?」 あれほど激しかった雨が少しずつ弱まり、霧のような優しさで二人を包む。ファイが身体を震わせた。今度こそ、泣き出すのかもしれない。さらに強く抱きしめると、下げられていた彼の両腕が黒鋼の背に回り、爪を立てた。 「もう関係ないだろ……どうしてオレに関わるんだ……どうせ、どうせまた……」 置いて行くくせに。 ファイの言葉は、黒鋼の胸を的確に貫いた。振り上げられる爪や拳などより、よほど痛い。けれど、この痛みと向き合うために、黒鋼はここにいる。彼を抱いている。 「おまえなんかいらないんだ。オレはもう子供じゃないし、弱くも小さくもないんだ。一人で歩ける。だからもういらない……いらないのに……」 「俺には必要だ」 どんなに安っぽい言葉だって構わない。何も言わずに伝わらないままなら、どれほど無様でも声に出して言ってしまった方がましだ。もう感情を殺すことも、目を背けるつもりもなかった。 ファイが顔を上げる。信じられないものを見るかのように、大きく目を見開いている。 「おまえが俺を必要としなくても、俺には、必要だ」 青褪めていた表情が、くしゃりと歪んだ。泣き出しそうな顔にも、悔しそうな顔にも見える。あるいは、その両方だったのかもしれない。 「ふざけるなよ……今更、もう遅いんだ……」 「わかってる」 「嘘つき……大切な人がいるって言ってたじゃないか……だから解放してあげたのに……なんで今更、どうしてオレなの」 何もかもファイを忘れるためだった。蘇摩と破局して、それからも幾人かと肌を重ねたし、恋人まがいの付き合いもしてきた。けれど、その度に虚しくなるだけだった。分かっていたのに、止められなかった。 「いいか。よく聞けよ」 「嫌だ、何も聞きたくない! どうせ嘘ばっかりだ! 信じられるわけ……」 「いいから聞け」 雨と泥と、そして涙に濡れた頬を両の手の平で包み込んだ。真っ直ぐに目を合わせながら、黒鋼は告げる。長い時を超えて、ずっと伝えたかった大切な言葉を。 「お前が好きだ」 その瞬間、ファイがぐっと息を詰める。それから、ふい、と顔を背けようとする。けれど頬に添えた手でそれを許さなかった。 「知らない」 「俺を見ろ。知らねぇってんなら教えてやるよ」 「くろ……」 「好きなだけ抵抗すりゃあいい」 ――だから。 「俺におまえを口説かせろ」 * 「や、ぁ……ッ」 冷たい縁側の床の上で、黒鋼はファイに覆いかぶさると逃げようとする唇を幾度も捕らえては深く重ねて貪った。 嫌々と身を捩るファイの両腕を一纏めにして掴み上げ、床に縫い付けるようにして押さえつけ、その自由を奪う。 口内で逃げ惑う舌を容赦なく追い詰めては絡ませ、吸い上げた。 初めて味わう彼の味は、まるで砂糖のような甘さで黒鋼の脳内を犯していくようだった。その甘さが錯覚でも構わない。彼がその気になれば、すぐにでもこれは鉄の味に豹変してしまう。 本当に嫌ならば、歯を立ててこの舌を噛み千切ればいい。先刻のように激しく暴れて、この頬を殴りつければいい。彼はもうひ弱な子供ではない。体格に差があれども、その気になれば相手を張り倒してでも逃れるだけの力があるはずだった。 けれどファイは、それをしない。 強引に犯すようなやり方で押さえつけているその実、いつでも逃れられるようにと隙を与えている黒鋼に、彼は気づいているはずだった。 まだ十代だったあの夏の日に、二人は思いを打ち明けあっている。別れの言葉と共に、過ぎてしまった過去を振り切るようにして背を向けあった。 黒鋼は己がそうであるように、ファイもまた自分を思い続けてくれていたということに確信を持っていた。けれど、察するだけでは意味がない。自分はここへ、彼へ再び思いを告げると同時に、言葉を交わすためにやって来たのだから。 合間に、黒鋼は幾度も「好きだ」と告げた。その度に、ファイの口からは「嫌だ」という否定の言葉が漏れる。黒鋼は、どんなに時間をかけてでも彼の心を溶かすつもりだった。ファイの口から、気持ちを形にして聞かなければ意味がなかった。 「ずっとこうしたかった。これが、俺がおまえから逃げた理由だ。気づいてたんだろ?」 雨の香りがする首筋に顔を埋めて、下から囁くようにして告げた。濡れたシャツの裾から冷えた肌へ手を滑らせると、ファイは嫌々と首を振った。 「っ、……しら、ない……知らない、よ」 「こうやって、おまえを犯す夢ばかり見ていた。俺は俺が許せなかった」 「あっ! や、だ……ッ、し、らな……」 器用に泥に濡れたシャツのボタンを内側から外していきながら、露になった滑らかな白い肌に吸い付く。戒めていた両手を解放しても、ファイはビクビクと身体を震わせるだけで、黒鋼を遠ざけようとはしなかった。カリカリと、冷たい床を爪で掻いている。 細い身体はしっとりと濡れて、まるで若い女のような肌理の細かさで黒鋼を誘っていた。夢にまで見た身体。これまで抱いてきたどんな女よりも貧弱で青白く、当たり前のように平らな胸が黒鋼を恐ろしいまでに興奮させた。 いつの間にか解けていた金色の髪が、緩やかな弧を描いて冷たい板張りの床に散らばっていた。 「誰を抱いても、おまえのことを考えていた」 「く、ろ……ッ」 この身体は他の人間の熱を知っているのだろうか。黒鋼がそうしてきたように、誰かをこの腕に抱いたのだろうか。あるいは、抱かれたのだろうか。 それを思うと不思議と情欲が煽られる。愛しさと同時に憎しみさえも頭を擡げ、その紙一重の感情に気が狂ってしまいそうだった。 黒鋼は自らも濡れて皮膚に張り付いている、泥だらけのジャージを中のシャツごと乱雑に脱ぎ捨てた。辺りがゆっくりと闇に溶ける中、ファイがビクリと身を震わせる。無垢な生娘のような反応だった。 「ぁ、や……もう、触らないで……」 再び身体を合わせると、ようやく彼からの虚しい抵抗が始まった。床を掻いていた手が黒鋼の痣の出来た肩をぐいと押す。弱々しかった。 「嫌なら殺してでも逃げりゃあいい。好きなだけ抵抗しろって言ったろうが」 細い腰を片腕で抱きこんで、浮いた鎖骨に口付ける。そうしながら、もう片方の手はファイの下半身を包む邪魔なものを解きにかかっていた。ファイは腰を躍らせながら膝を立てた。閉じたくとも、黒鋼はすでに身体を割り込ませている。 それでも、容赦なく蹴り飛ばすことは可能なはずだった。 「ずるいよ……そんなこと出来ないって、知ってるくせに……」 「言えよ。てめぇはどうだったんだ。俺を殴ってでも遠ざけないのはなぜだ」 「そんなの、そんなの分かんないよ……なんで、こんな」 ファイはその美しい瞳に涙を浮き上がらせていた。黒鋼が身を乗り上げながらその目元に舌を這わせる。堪え続けていたのであろう雫が、いとも簡単に零れ落ちた。 ふと、濡れている眼帯に触れかけて、止めた。身体の中心部に手を潜り込ませると、細い身体が一段と激しく震えた。 「やっ、いやだ……!」 指先に当たるのは濡れた感触と、張り詰めた性器の熱さだった。彼は感じていた。さんざん嫌だと口走りながら、快感を得ている。 鬱陶しいものを下着ごと下ろしてしまうと、白い太腿が露になった。黒鋼はその内側にも吸い付いた。手の中で、ファイ自身が大きく震える。堪らなかった。ゆるく握り込んで扱いてやれば、甲高い悲鳴が静かな雨音を掻き消した。 「ヒッ、だ、め、だめ、やだ……、はなし……っ」 黒鋼は、否定の言葉を吐き出しながらも感じ入っているファイの表情をひたすら眺めた。それは泣き顔に似ていて、実際彼は泣いているのだけれど、決して手を止めない。 やがて、あっけないほどすぐに彼はその精を放った。打ち上げられた魚のように、白い腹がビクビクと蠢く。強張っていた全身から力が抜けて、黒鋼の肩を掴んでいた両手ががっくりと床に投げ出された。 黒鋼はどこか恍惚とした表情で震える息を吐き出す。絶頂を迎える瞬間の、ファイの痛々しい表情は酷く可愛らしいものだった。細い呼吸を忙しなく繰り返しては、ヒクヒクと痙攣する身体が愛しい。抱きたい。中に入りたい。一つになりたい。濡れた指を、奥まった二つの丘の中心に潜り込ませた。 「――っ!?」 ファイは全身を引き攣らせて片目を大きく見開いた。硬く窄まったそこは黒鋼の指を強く拒む。けれど、彼自身が放った体液がそれを助ける。関節ごとに引っかかりながらもゆっくりと潜り込ませていけば、ファイが悲鳴を上げた。 「い、や、ぁ……! ダメ、だっ! 入れないで…ッ、オレの中、入ってこないで……!」 腰をくねらせ、ずるずると上へ上へと逃げようとするファイの足首を掴んで、ズルリと引き戻す。その瞬間、内部に潜り込んでいた指がある一点に触れた。細い身体が哀れなほどに大きく跳ね上がる。 「ッ!?」 「ここか……?」 「ひっ、ぃ……ッ! そこ、何、それ、やだ……!」 クリクリとその部分を刺激すれば、抵抗がぴったりと止んだ。見つけた。ここが、ファイの感じる場所だ。 彼は未知なる快感に激しく身悶えている。少なくとも、この身体は男を知らない。そのことに異常なまでに安堵している自分がいる。 甘い声の上がるその場所を執拗に刺激し、彼の中で荒れ狂う快感に乗じて指を増やした。中を広げるように、幾度も出し入れを繰り返す。 「くろ、おねが……っ、も、やめ、て……っ」 黒鋼はゆっくりと刺激していた内部から指を引き抜いた。そして、ぐったりと床に沈んでいるファイの、力の抜けた両足を割り開く。すでに限界まで張り詰めて先走りを零す自身を取り出し、そっと宛がう。 「ダメだ……入ってこないで……そんなことしたら、戻れなくなる……」 「俺はおまえが欲しい……ずっと、ガキの頃から思ってた」 「怖いんだ黒鋼……もう何も、失くしたくないのに……」 「てめぇはもう何も失くしやしねぇよ」 彼が欲しがれば、幼い頃よりもっと多くのものを与えてやれる。だからこそ、黒鋼が求めるものは彼にしかもたらすことが出来ない。こんなにも互いを欲してるではないか。どこに逃げ道があるというのか。逃げる必要など、最初からなかったというのに。 黒鋼が身を進める中、ファイはひたすら「こわい」という言葉を繰り返しながら泣いていた。強く抱きしめて、幾度も呼吸を整える。遠のきつつあった雨が、再び激しく降り出していた。いつしか、ファイの腕が黒鋼の背を掻き抱いていた。 「はっ、ぅ……ぁ……!」 全てを納めるのにどれだけの時間がかかったのか知れない。あっという間だったのかもしれないし、気の遠くなるほどの時間を要したのかもしれない。 二人は抱き合って繋がりながら、ひたすら忙しない呼吸を繰り返していた。性器が食いちぎられそうなほどの締め付けに晒されている。痛いのか、感じているのかさえ分からない。ただ、熱い。 黒鋼は苦しげに呼吸を繰り返すファイの額に手の平を這わせた。濡れた目元にキスをする。閉じられたままだった瞳がゆっくりと開いた。暗闇の中でも、それが分かった。 「辛いか……?」 「嫌だって、言ったのに……」 「憎むか? 俺を」 「……憎んでも、愛しても……君はオレのものにはならないじゃないか……」 「まだ分からねぇのか。おまえの中には今……誰がいる?」 「そんなの……ッ」 答えを待たずして、黒鋼は腰を動かした。ファイが泣く。啼きながら、黒鋼の背に爪を立てる。白い両足が腰に絡みつく。唇を合わせれば、その舌はもう逃げない。負けじと絡み付いてくる。まるで競っているかのように、互いが舌を絡め、腰を振った。 夢にまで見た愛しい身体。その内側。叫び出したいほどに、黒鋼の心は歓喜に慄いていた。幼くあどけない、天使のようだった幼馴染の身体を、無骨なこの手が割り開き、そしてその薄い肉を犯している。恐ろしいまでの倒錯的な快楽に、気を抜けば意識が遠のきそうなほどに酔い痴れる。 重なり合う二つの荒々しい呼吸は、まるで獣にでもなり下がったかのようだった。痛みは快楽へと変わり、快楽がもたらす痛みは二人の身体を完全に支配していた。 「たす、けて……もう、ねぇ、黒鋼……ッ!」 切れ切れに声を紡ぐファイを、力任せに抱きしめた。どんなに力を込めても、簡単には折れないことを知っている。きっと昔からそうだった。まるで壊れ物を扱うように大切にしていたつもりでいたけれど、彼はちょっとやそっとで壊れたりなどしなかったのだ。 「離せなく、なる……ッ! も、あっ、嫌、なのにッ、……やァ、ぅ、うぅっ、くろ……っ!」 「離さねぇよ……っ、てめぇが信じようが信じまいが、俺は」 ここにいるのだから。この場所へ帰ってきたのだから。回り道をして、ようやく。 「おまえを、愛してる」 そのたった一言を、告げることが出来たのだから。 * しとしとと降り続ける雨の音。その音に紛れて、猫が、鳴いた。 雨は、全ての花を散らしてしまっただろうか。 遠のいてはまた近づくのを繰り返しながら、それは降り続いていた。 障子の向こうで草木の揺れるどす黒いシルエットが見える。それを眺めながら、今年は帰郷して初めての花見を楽しむつもりだったのにと、少し残念に思った。 ビルばかりが建ち並ぶ場所に暮らしていたときには、ゆっくりと花を眺めようなどとは露ほども思わなかったくせに、なんだかおかしかった。 暗い部屋の中では和紙で覆われた間接照明が時折ゆらりと揺らめいていた。電球が切れかかっているのか、ひどく頼りない明りだった。 傍らで、ファイがゆっくりと起き上がる。 「平気か」 「……うん」 激しく身体を繋げながら、限界に達したときにはファイの意識は深く眠りについていた。 汗と泥と涙と、そして互いの精液で汚れていた二人分の身体を適当に沸かした湯で清めて、これまた適当に引っ張り出した、おそらくは客用の布団に彼を移し、自分もその隣で少しだけ眠った。 すでに身を起こしていた黒鋼は、不安定な明りに幾分やつれて見えるファイの横顔を見つめた。会わない間にすっかり伸びた髪が頬に張り付いて、尚のことそう見せるのかもしれない。 互いに何を話すでもなく、あるいは何を言えばいいのか分からずに、ただ長い沈黙が流れるだけだった。 けれど。 「オレには……」 雨音と草木がざわめく音が酷く遠くに聞こえる中、沈黙を破ったのはファイだった。 「君の優しさは、とても残酷だったよ」 それはまるで一人ごとのような、小さな呟きだった。 黒鋼は頼りない照明に翳りを帯びたその横顔を、ただ静かに見つめながらファイの声に耳を傾ける。 「オレは頭がおかしいわけでも、可哀想なわけでもないし、弱くもなかった」 「……ああ。わかってる」 出会った頃、黒鋼はファイのことを頭の足りない子だとばかり思いこんでいた。しかし、ファイがそんな黒鋼の思い込みを見抜いていたことにまでは、気がつかなかった。 「そのはずなのにね」 むき出しの尖った肩を震わせて、彼は吐息のような声で小さく笑う。 「君といたら、オレはどんどん我侭になって、どんどん……欲張りになってしまった」 ファイは畳の上に落ちている、汚れた眼帯に指を伸ばした。彼の身体を清めているときに偶然落ちてしまったものを、黒鋼はあえてそのままにしていた。彼が一番に隠したがっている傷だったことは、知っていたけれど。 「気持ち悪いでしょ。この傷」 その傷はファイの目蓋の上に、縦に薄い割れ目を作っていた。彼の左目に、眼球は存在しない。 「昔はもっと濃かったんだ。濃くて、ぐちゃぐちゃしてて、醜かった……」 幼い頃、このような傷を負う以前から大人たちはみなファイを指差しては『醜い子』だと罵った。大好きだった小学校の向かいの商店のばあさんは、足を悪くして杖をついているが、それ以外は今もしぶとく健在だった。 「あのとき」 ファイは眼帯を拾い上げようとする手を止めた。痛々しい傷の残る目蓋に、指先を這わせる。 「最後に花火をした夏の夜のこと、覚えてる?」 「ああ」 忘れられるはずがない。自分で自分を心底恐ろしいと感じた、決定的な瞬間だった。 「あのときのこと、本当はずっと謝りたかった」 「必要ねぇだろ。あれはむしろ俺が」 「違うよ」 ファイは黒鋼を見ない。ずっと畳の上で泥に塗れた眼帯へ視線を落としたままだった。 「あのときね、これを見られるんじゃないかって、それが怖かったんだ。君に怯えたわけじゃ、なかったんだよ」 滾る衝動のままに奪おうとした、あの瞬間のことを思い出す。夢の中の獰猛な自分と、理性で己を押さえつけようとしていた現実の自分との間に、見境を失ってしまったあのとき。 間近で見たファイは酷く怯えて、震えていた。結果的に彼の身体を無理矢理こじ開けてしまった今の黒鋼にとって、あのときの自分を責めることは出来ない。ただ、おそらく結果は違っていたのだろうと思う。 なぜなら、今の自分は一切の後悔をしていないからだった。 あの頃はこの感情を汚らわしいものだと思い込んでいた。ファイが傷を負ったのは左目だけではなく、心にもまだ大きな亀裂が残ったままだったことなど、本当の意味で知りもしないで。自分ばかりが追い詰められたような気になっていた。 だがこれだけははっきりしている。たとえその傷がどんなに惨いものだったとしても、彼への気持ちは変わらなかっただろう。今も、そして昔も。 黒鋼はそっと手を伸ばし、ファイの左頬に手を添えた。その肩が、また少し震える。上向かせて、真正面から傷と向き合った。閉じられた目蓋。眼球のない、虚ろな皮膚。それさえも愛しいのだと、そっと傷口に口付ける。 「君がこんなことで変わってしまうような人間じゃないってことくらい、今ならちゃんとわかるのに。傷ついた君をあの公園に置き去りにして、最初に逃げ出したのはオレの方だった」 信じ合えていたのは二人がまだ幼すぎたからだった。 あの頃は感情だけが全てで、手を繋いでさえいれば心は通じ合うものだとばかり思い込んでいた。強く、そして多くを望めばそれだけでは足りないのに。 そして逆に、言葉だけでは分かり合えないものも、確かに存在している。距離が近ければ近いほど、埋め尽くせないものはどんどん増えていくばかりだった。 「ごめんね、黒鋼」 黒鋼は、もともとある眉間の皺をさらに深いものにした。 「そうじゃねぇだろ」 「?」 顰めっ面の黒鋼を、暫しきょとんとした表情で見つめていたファイは、次の瞬間にはゆっくりと笑みを浮かべた。 「……黒たん」 「おう」 ファイの笑顔が少しずつ歪んでゆく。 「黒わんこ」 「ああ」 残された右目に、みるみる涙が溜まっていく。黒鋼は笑った。 「黒様」 「なんだよ」 彼の瞳から大粒の涙が零れるのと、二人がしっかりと抱き合うのは同時だった。黒鋼の胸に顔を埋めて、ファイは小さな子供のように泣きじゃくった。 「どこにも行かないで……傍にいてよ……オレを、一人にしないで……」 「俺はここにいる。おまえの傍にいる。だからおまえも傍にいてくれ……俺の傍に」 ファイはファイが言えなかったことを。黒鋼は、黒鋼が言えなかったことを。 ずっと言いたくても言えなかったことを、抱き合いながら口にした。 それはもう、幼く儚い約束ではなかった。ファイを守らねばならないという、無責任で自分勝手な義務感からでもない。自分自身が心からそうしたいから。彼でなければ駄目なのだということが、痛いくらい分かっているから。 欲しいものを欲しいと、心から言えるようになったから。 「ばか」 「ああ」 「黒たんのばか」 「悪かった」 「離れたいなんて思っても、もう離してやらないから」 鼻を啜りながら、ファイは幾度も黒鋼に向かって「ばか」と繰り返した。言われる度、黒鋼はただ苦笑しながら、そのいじらしい責めを受け止め続ける。 一回一回律儀に返事を返しつつ、震える背中を擦ってやった。やがて。 「大好きだよ」 黒鋼の胸から顔を上げたファイは、鼻を真っ赤にしながらも、ようやくその言葉を口にして、鮮やかに微笑んだのだった。 ←戻る ・ 次へ→
滅茶苦茶になってしまった水曜日の教室は、翌週に繰り越して再度仕切りなおすことになっていた。
子供達はどんよりとした曇り空の下の景色を、一日中落ち着きなく眺めていた。
けれど、彼らの待ち人は来なかった。
*
大きな屋敷は、ついに降り出した雨の中どこか暗く、そして重い雰囲気を醸し出していた。
燻るだけだった蕾がこの数日の間に一気に花開き、ようやく美しい花を咲かせたと思った途端にこれである。花散らしの雨だった。
黒鋼は、昔はただの廃墟でしかなかったはずの、改築された建物の脇に車を停めた。白いコンクリートの殻に覆われたそれは、茶屋というよりは小奇麗なケーキ屋か、あるいは喫茶店のようにも見える外観だった。
ガラス張りの入り口には『本日休業』という札がかかっており、中は薄暗くて人気がない。
店の前には、店の名前とロゴが入った白いワゴンが停められている。家人はいるということだろうか。
車を降り、黒い傘を差す。店の様子を窺いながら足早に坂道を登った。以前は砂利道だったが、そこも綺麗にコンクリートで舗装されていた。
門は半分だけ中途半端に開放されていた。温い風に吹かれてキイキイと甲高い音を立てながら揺れている。
雨が強くなったり弱くなったりを繰り返す中で、黒鋼は玄関先まで足を運ぶと、重々しく閉ざされた曇りガラスの引き戸を開けた。田舎の町では、ほとんどの家が昼も夜も玄関の鍵を解放している。無用心にも思われるが、しっかりと戸締りをすることで逆に町人同士のコミュニケーションが成り立たない場合もある。どこまでもつまらない習慣だと思う。
「おい、いるか」
薄暗い廊下へ向けて、挨拶代わりの一声を放った。大きな屋敷である。たったそれだけで返答が得られるとは思わない。
傘を閉じて適当に立てかけると中に入り込んだ。もう一度、今度は大きな声で全く同じ言葉を無人の廊下へ向けて放った。やはり、返答はない。
さすがに、家人がいるかどうかも分からない家の内部にまで上がり込むだけの図々しさは、持ち合わせていなかった。硬質で冷ややかな屋敷の空気が、どこか訪れた者を拒んでいるような気さえする。
仕方なく、黒鋼は再び傘を持つと表へ出た。庭から回り込むことにする。雨が強くなればなるほど、なぜか胸騒ぎが増していくようだった。
彼はいるのか、いないのか。そもそもこの屋敷には本当に人が住んでいるのだろうか。あまりにも静かで、重々しく、そして暗い。子供の頃には感じたことのない違和感が、微かな不安を煽る。
ファイの祖父が死んでからはここへ遊びに来ることがよくあったが、当時は玄関に入ればいつも笑顔のばあさんが出迎えてくれた。あの頃まだ子供だった黒鋼から見ても、とても小さな人だった。彼女がもういないのだと思うと、今更のように込み上げてくるものがある。
たった二人で暮らすにも大きすぎる屋敷。ここでファイは一人きりで生活をしているのだ。
ぼんやりと物思いに耽りつつ、ぐるりと回りこむようにして草木の茂る庭に足を踏み入れた。そこで黒鋼は息を飲む。
ファイを探しにわざわざ足を運んだくせに、いざ当人を目の当たりにして少し驚いた。いるはずだと分かってはいても、ここにはあまりにも人の気配がなさすぎるから。
「なにしてる」
彼は、雨の降りしきる庭の中央に茫然と立ち尽くしていた。傘も差さずに、裸足で濡れそぼっている。
黒鋼が声をかけても、ファイは振り向かない。ただ、ほんの少し肩を震わせた。
「おい」
近寄って、今更だとは思いつつ傘を彼の頭上へと翳した。そこで、ようやく青い瞳が黒鋼を見上げた。青白く透き通るような肌が、まるで死人のようだった。
背筋を嫌な寒気が駆け抜ける。彼は、一体なにをしていたのだろう。
「来れねぇなら連絡ぐれぇしたらどうだ。ガキ共が心配して」
「いないんだ」
「……あ?」
黒鋼の言葉を遮ったファイが、庭をキョロキョロと見渡している。差してやった傘の下からゆらりと抜け出して、ふらふらとどこかへ行こうとする。
「おい」
咄嗟に腕を掴んだ。氷のように冷え切った肌が、彼の纏う白いシャツ越しに手の平に伝わる。どれだけ長い間、彼は雨に打たれていたのだろうか。
「いないんだよ、どこにも」
「なにが」
「チィがいない」
「ちぃ?」
「朝からずっと探しているのに、見つからない……どうしよう……見つからないよ……」
ファイは独り言のように呟くと、スルリと黒鋼の腕を擦り抜けた。強く掴んでいたつもりだったその腕が、いとも簡単に遠のいてしまう。
「チィ、どこ? チィ、出ておいで」
彼の目には黒鋼など最初から映っていないようだった。その心はどこか別の場所にある。黒のタイトなパンツが泥で汚れるのも構わずに膝をついて軒下を覗き、草木の影を這いずっては「チィ」の名を呼んでいる。
ふと、知世から『猫の目』には白い猫がいるという話を聞いたことを思い出した。看板猫として人気があるのだと。
「チィってのは、おまえの猫か」
「いない……。家の中も外も、ずっと探してるんだ。今日はまだご飯だって食べてないんだよ。お腹を空かせて、どこかで動けなくなってるのかな……」
そう言って、ファイは黒鋼に背を向けたまま蹲ってしまった。泣いているのだろうか。けれど彼をこのままにしておくことはできない。黒鋼は苛立っていた。
「いい加減にしねぇか。ひとまず家ん中入るぞ」
再びその腕を掴んで強引に立ち上がらせる。軽い、空っぽの人形のような身体だった。
「やだよ」
腕の中で、人形が首を左右に振る。黒鋼は眉間に深い皺を刻んだ。今度は離れないようにと、強くその腕を掴む手に力を込める。
「帰って。君には関係ない」
「……なんだと?」
「離してよ」
間近で見た彼は、泣いてはいなかった。その表情には一切の感情の色がない。声にさえ、抑揚がない。身を捩って離れようとする腕に爪を立てた。
「痛い」
離して、と彼は再び言った。黒鋼の中の、言いようのない苛立ちがピークに達していた。半ば引き摺るようにして彼を縁側へと連れて行こうとすれば、そのはずみで傘が地に落ちた。でも今は、そんなものはどうでもいい。
それよりも、腕の中で暴れ出したファイを抑えつけることの方が厄介で、そして重要なことだった。
「離してってば! 関係ないって言ってるでしょう!?」
「うるせぇんだよ! バカみたいに濡れやがって、ちっとは冷静になれ!!」
そう言う黒鋼も、傘を手放したことによりみるみるうちに雨に晒され濡れてゆく。ファイがもがいて、その泥だらけの手がジャージを汚した。
簡単に捻じ伏せられると思っていたその身体は、驚くほど強くしつこかった。それこそ猫のように柔軟に逃げを打ち、抱え込もうにも苦労を要する。
雨の中、大の大人が取っ組み合っている様子など、他の誰かが見れば気が触れているとしか思えない光景だろう。
「離せっ! 離せって言ってんだよ……っ!!」
ファイの目付きも、口調も変わった。振り上げられた手が、黒鋼の頬に泥と共に引っ掻き傷を作る。それは思った以上に鋭く、強靭な刃となって焼けるような痛みをもたらした。
「っ……!」
滲む血液に、息を飲んだのはファイだった。その一瞬の隙をついて、黒鋼は冷え切った身体を強く抱きしめる。
茫然としていたファイだったが、すぐに火がついたように再び暴れ出す。けれどもう離さない。彼が力尽きるまで堪え続けるだけだ。冷たかった身体が、腕の中でみるみるうちに熱くなる。
固い拳が強く肩や背を叩いても、首や頬に傷を作っても、黒鋼は彼を決して離さなかった。ファイは興奮した獣のようにヒステリックに唸り、時折口汚い言葉を黒鋼に向けて放ちながら、ひたすら暴れた。
だが、それだけ激しく抵抗すれば力が弱まっていくのに時間はかからなかった。僅かに腕の力を抜いた瞬間、ファイは黒鋼の左肩にガックリと顔を埋めた。ひたすら打ち付けられていた拳が、ダラリと下がる。
激しく呼吸を繰り返す背をあやすように撫でると、最後の力とばかりに、再び握られた拳が黒鋼の左肩に打ち付けられた。それから、くぐもった声が悔しそうに「ちくしょう」と紡がれるのを聞いた。ファイの動きは、完全に止まった。
黒鋼は、少しだけ笑った。
「おまえ、実はとんでもねぇ癇癪持ちだったんだな」
知らなかった。彼のこれほどまでに激しく感情を曝け出す様や、荒々しく甲走った声を初めて聞いた。毛を逆立て、まるで別人のような口調で怒鳴りながら暴れる姿は、おっとりとした物腰と、目を離せば風船のようにふわふわと飛んで行きそうだった彼からは大きくかけ離れていた。
うるさい、という小さな声がして、まるで子供がむずがるような仕草でファイが黒鋼の肩に額を擦り付けた。
「なんで……なんでだよ……」
「…………」
「なんで、来たの……?」
あれほど激しかった雨が少しずつ弱まり、霧のような優しさで二人を包む。ファイが身体を震わせた。今度こそ、泣き出すのかもしれない。さらに強く抱きしめると、下げられていた彼の両腕が黒鋼の背に回り、爪を立てた。
「もう関係ないだろ……どうしてオレに関わるんだ……どうせ、どうせまた……」
置いて行くくせに。
ファイの言葉は、黒鋼の胸を的確に貫いた。振り上げられる爪や拳などより、よほど痛い。けれど、この痛みと向き合うために、黒鋼はここにいる。彼を抱いている。
「おまえなんかいらないんだ。オレはもう子供じゃないし、弱くも小さくもないんだ。一人で歩ける。だからもういらない……いらないのに……」
「俺には必要だ」
どんなに安っぽい言葉だって構わない。何も言わずに伝わらないままなら、どれほど無様でも声に出して言ってしまった方がましだ。もう感情を殺すことも、目を背けるつもりもなかった。
ファイが顔を上げる。信じられないものを見るかのように、大きく目を見開いている。
「おまえが俺を必要としなくても、俺には、必要だ」
青褪めていた表情が、くしゃりと歪んだ。泣き出しそうな顔にも、悔しそうな顔にも見える。あるいは、その両方だったのかもしれない。
「ふざけるなよ……今更、もう遅いんだ……」
「わかってる」
「嘘つき……大切な人がいるって言ってたじゃないか……だから解放してあげたのに……なんで今更、どうしてオレなの」
何もかもファイを忘れるためだった。蘇摩と破局して、それからも幾人かと肌を重ねたし、恋人まがいの付き合いもしてきた。けれど、その度に虚しくなるだけだった。分かっていたのに、止められなかった。
「いいか。よく聞けよ」
「嫌だ、何も聞きたくない! どうせ嘘ばっかりだ! 信じられるわけ……」
「いいから聞け」
雨と泥と、そして涙に濡れた頬を両の手の平で包み込んだ。真っ直ぐに目を合わせながら、黒鋼は告げる。長い時を超えて、ずっと伝えたかった大切な言葉を。
「お前が好きだ」
その瞬間、ファイがぐっと息を詰める。それから、ふい、と顔を背けようとする。けれど頬に添えた手でそれを許さなかった。
「知らない」
「俺を見ろ。知らねぇってんなら教えてやるよ」
「くろ……」
「好きなだけ抵抗すりゃあいい」
――だから。
「俺におまえを口説かせろ」
*
「や、ぁ……ッ」
冷たい縁側の床の上で、黒鋼はファイに覆いかぶさると逃げようとする唇を幾度も捕らえては深く重ねて貪った。
嫌々と身を捩るファイの両腕を一纏めにして掴み上げ、床に縫い付けるようにして押さえつけ、その自由を奪う。
口内で逃げ惑う舌を容赦なく追い詰めては絡ませ、吸い上げた。
初めて味わう彼の味は、まるで砂糖のような甘さで黒鋼の脳内を犯していくようだった。その甘さが錯覚でも構わない。彼がその気になれば、すぐにでもこれは鉄の味に豹変してしまう。
本当に嫌ならば、歯を立ててこの舌を噛み千切ればいい。先刻のように激しく暴れて、この頬を殴りつければいい。彼はもうひ弱な子供ではない。体格に差があれども、その気になれば相手を張り倒してでも逃れるだけの力があるはずだった。
けれどファイは、それをしない。
強引に犯すようなやり方で押さえつけているその実、いつでも逃れられるようにと隙を与えている黒鋼に、彼は気づいているはずだった。
まだ十代だったあの夏の日に、二人は思いを打ち明けあっている。別れの言葉と共に、過ぎてしまった過去を振り切るようにして背を向けあった。
黒鋼は己がそうであるように、ファイもまた自分を思い続けてくれていたということに確信を持っていた。けれど、察するだけでは意味がない。自分はここへ、彼へ再び思いを告げると同時に、言葉を交わすためにやって来たのだから。
合間に、黒鋼は幾度も「好きだ」と告げた。その度に、ファイの口からは「嫌だ」という否定の言葉が漏れる。黒鋼は、どんなに時間をかけてでも彼の心を溶かすつもりだった。ファイの口から、気持ちを形にして聞かなければ意味がなかった。
「ずっとこうしたかった。これが、俺がおまえから逃げた理由だ。気づいてたんだろ?」
雨の香りがする首筋に顔を埋めて、下から囁くようにして告げた。濡れたシャツの裾から冷えた肌へ手を滑らせると、ファイは嫌々と首を振った。
「っ、……しら、ない……知らない、よ」
「こうやって、おまえを犯す夢ばかり見ていた。俺は俺が許せなかった」
「あっ! や、だ……ッ、し、らな……」
器用に泥に濡れたシャツのボタンを内側から外していきながら、露になった滑らかな白い肌に吸い付く。戒めていた両手を解放しても、ファイはビクビクと身体を震わせるだけで、黒鋼を遠ざけようとはしなかった。カリカリと、冷たい床を爪で掻いている。
細い身体はしっとりと濡れて、まるで若い女のような肌理の細かさで黒鋼を誘っていた。夢にまで見た身体。これまで抱いてきたどんな女よりも貧弱で青白く、当たり前のように平らな胸が黒鋼を恐ろしいまでに興奮させた。
いつの間にか解けていた金色の髪が、緩やかな弧を描いて冷たい板張りの床に散らばっていた。
「誰を抱いても、おまえのことを考えていた」
「く、ろ……ッ」
この身体は他の人間の熱を知っているのだろうか。黒鋼がそうしてきたように、誰かをこの腕に抱いたのだろうか。あるいは、抱かれたのだろうか。
それを思うと不思議と情欲が煽られる。愛しさと同時に憎しみさえも頭を擡げ、その紙一重の感情に気が狂ってしまいそうだった。
黒鋼は自らも濡れて皮膚に張り付いている、泥だらけのジャージを中のシャツごと乱雑に脱ぎ捨てた。辺りがゆっくりと闇に溶ける中、ファイがビクリと身を震わせる。無垢な生娘のような反応だった。
「ぁ、や……もう、触らないで……」
再び身体を合わせると、ようやく彼からの虚しい抵抗が始まった。床を掻いていた手が黒鋼の痣の出来た肩をぐいと押す。弱々しかった。
「嫌なら殺してでも逃げりゃあいい。好きなだけ抵抗しろって言ったろうが」
細い腰を片腕で抱きこんで、浮いた鎖骨に口付ける。そうしながら、もう片方の手はファイの下半身を包む邪魔なものを解きにかかっていた。ファイは腰を躍らせながら膝を立てた。閉じたくとも、黒鋼はすでに身体を割り込ませている。
それでも、容赦なく蹴り飛ばすことは可能なはずだった。
「ずるいよ……そんなこと出来ないって、知ってるくせに……」
「言えよ。てめぇはどうだったんだ。俺を殴ってでも遠ざけないのはなぜだ」
「そんなの、そんなの分かんないよ……なんで、こんな」
ファイはその美しい瞳に涙を浮き上がらせていた。黒鋼が身を乗り上げながらその目元に舌を這わせる。堪え続けていたのであろう雫が、いとも簡単に零れ落ちた。
ふと、濡れている眼帯に触れかけて、止めた。身体の中心部に手を潜り込ませると、細い身体が一段と激しく震えた。
「やっ、いやだ……!」
指先に当たるのは濡れた感触と、張り詰めた性器の熱さだった。彼は感じていた。さんざん嫌だと口走りながら、快感を得ている。
鬱陶しいものを下着ごと下ろしてしまうと、白い太腿が露になった。黒鋼はその内側にも吸い付いた。手の中で、ファイ自身が大きく震える。堪らなかった。ゆるく握り込んで扱いてやれば、甲高い悲鳴が静かな雨音を掻き消した。
「ヒッ、だ、め、だめ、やだ……、はなし……っ」
黒鋼は、否定の言葉を吐き出しながらも感じ入っているファイの表情をひたすら眺めた。それは泣き顔に似ていて、実際彼は泣いているのだけれど、決して手を止めない。
やがて、あっけないほどすぐに彼はその精を放った。打ち上げられた魚のように、白い腹がビクビクと蠢く。強張っていた全身から力が抜けて、黒鋼の肩を掴んでいた両手ががっくりと床に投げ出された。
黒鋼はどこか恍惚とした表情で震える息を吐き出す。絶頂を迎える瞬間の、ファイの痛々しい表情は酷く可愛らしいものだった。細い呼吸を忙しなく繰り返しては、ヒクヒクと痙攣する身体が愛しい。抱きたい。中に入りたい。一つになりたい。濡れた指を、奥まった二つの丘の中心に潜り込ませた。
「――っ!?」
ファイは全身を引き攣らせて片目を大きく見開いた。硬く窄まったそこは黒鋼の指を強く拒む。けれど、彼自身が放った体液がそれを助ける。関節ごとに引っかかりながらもゆっくりと潜り込ませていけば、ファイが悲鳴を上げた。
「い、や、ぁ……! ダメ、だっ! 入れないで…ッ、オレの中、入ってこないで……!」
腰をくねらせ、ずるずると上へ上へと逃げようとするファイの足首を掴んで、ズルリと引き戻す。その瞬間、内部に潜り込んでいた指がある一点に触れた。細い身体が哀れなほどに大きく跳ね上がる。
「ッ!?」
「ここか……?」
「ひっ、ぃ……ッ! そこ、何、それ、やだ……!」
クリクリとその部分を刺激すれば、抵抗がぴったりと止んだ。見つけた。ここが、ファイの感じる場所だ。
彼は未知なる快感に激しく身悶えている。少なくとも、この身体は男を知らない。そのことに異常なまでに安堵している自分がいる。
甘い声の上がるその場所を執拗に刺激し、彼の中で荒れ狂う快感に乗じて指を増やした。中を広げるように、幾度も出し入れを繰り返す。
「くろ、おねが……っ、も、やめ、て……っ」
黒鋼はゆっくりと刺激していた内部から指を引き抜いた。そして、ぐったりと床に沈んでいるファイの、力の抜けた両足を割り開く。すでに限界まで張り詰めて先走りを零す自身を取り出し、そっと宛がう。
「ダメだ……入ってこないで……そんなことしたら、戻れなくなる……」
「俺はおまえが欲しい……ずっと、ガキの頃から思ってた」
「怖いんだ黒鋼……もう何も、失くしたくないのに……」
「てめぇはもう何も失くしやしねぇよ」
彼が欲しがれば、幼い頃よりもっと多くのものを与えてやれる。だからこそ、黒鋼が求めるものは彼にしかもたらすことが出来ない。こんなにも互いを欲してるではないか。どこに逃げ道があるというのか。逃げる必要など、最初からなかったというのに。
黒鋼が身を進める中、ファイはひたすら「こわい」という言葉を繰り返しながら泣いていた。強く抱きしめて、幾度も呼吸を整える。遠のきつつあった雨が、再び激しく降り出していた。いつしか、ファイの腕が黒鋼の背を掻き抱いていた。
「はっ、ぅ……ぁ……!」
全てを納めるのにどれだけの時間がかかったのか知れない。あっという間だったのかもしれないし、気の遠くなるほどの時間を要したのかもしれない。
二人は抱き合って繋がりながら、ひたすら忙しない呼吸を繰り返していた。性器が食いちぎられそうなほどの締め付けに晒されている。痛いのか、感じているのかさえ分からない。ただ、熱い。
黒鋼は苦しげに呼吸を繰り返すファイの額に手の平を這わせた。濡れた目元にキスをする。閉じられたままだった瞳がゆっくりと開いた。暗闇の中でも、それが分かった。
「辛いか……?」
「嫌だって、言ったのに……」
「憎むか? 俺を」
「……憎んでも、愛しても……君はオレのものにはならないじゃないか……」
「まだ分からねぇのか。おまえの中には今……誰がいる?」
「そんなの……ッ」
答えを待たずして、黒鋼は腰を動かした。ファイが泣く。啼きながら、黒鋼の背に爪を立てる。白い両足が腰に絡みつく。唇を合わせれば、その舌はもう逃げない。負けじと絡み付いてくる。まるで競っているかのように、互いが舌を絡め、腰を振った。
夢にまで見た愛しい身体。その内側。叫び出したいほどに、黒鋼の心は歓喜に慄いていた。幼くあどけない、天使のようだった幼馴染の身体を、無骨なこの手が割り開き、そしてその薄い肉を犯している。恐ろしいまでの倒錯的な快楽に、気を抜けば意識が遠のきそうなほどに酔い痴れる。
重なり合う二つの荒々しい呼吸は、まるで獣にでもなり下がったかのようだった。痛みは快楽へと変わり、快楽がもたらす痛みは二人の身体を完全に支配していた。
「たす、けて……もう、ねぇ、黒鋼……ッ!」
切れ切れに声を紡ぐファイを、力任せに抱きしめた。どんなに力を込めても、簡単には折れないことを知っている。きっと昔からそうだった。まるで壊れ物を扱うように大切にしていたつもりでいたけれど、彼はちょっとやそっとで壊れたりなどしなかったのだ。
「離せなく、なる……ッ! も、あっ、嫌、なのにッ、……やァ、ぅ、うぅっ、くろ……っ!」
「離さねぇよ……っ、てめぇが信じようが信じまいが、俺は」
ここにいるのだから。この場所へ帰ってきたのだから。回り道をして、ようやく。
「おまえを、愛してる」
そのたった一言を、告げることが出来たのだから。
*
しとしとと降り続ける雨の音。その音に紛れて、猫が、鳴いた。
雨は、全ての花を散らしてしまっただろうか。
遠のいてはまた近づくのを繰り返しながら、それは降り続いていた。
障子の向こうで草木の揺れるどす黒いシルエットが見える。それを眺めながら、今年は帰郷して初めての花見を楽しむつもりだったのにと、少し残念に思った。
ビルばかりが建ち並ぶ場所に暮らしていたときには、ゆっくりと花を眺めようなどとは露ほども思わなかったくせに、なんだかおかしかった。
暗い部屋の中では和紙で覆われた間接照明が時折ゆらりと揺らめいていた。電球が切れかかっているのか、ひどく頼りない明りだった。
傍らで、ファイがゆっくりと起き上がる。
「平気か」
「……うん」
激しく身体を繋げながら、限界に達したときにはファイの意識は深く眠りについていた。
汗と泥と涙と、そして互いの精液で汚れていた二人分の身体を適当に沸かした湯で清めて、これまた適当に引っ張り出した、おそらくは客用の布団に彼を移し、自分もその隣で少しだけ眠った。
すでに身を起こしていた黒鋼は、不安定な明りに幾分やつれて見えるファイの横顔を見つめた。会わない間にすっかり伸びた髪が頬に張り付いて、尚のことそう見せるのかもしれない。
互いに何を話すでもなく、あるいは何を言えばいいのか分からずに、ただ長い沈黙が流れるだけだった。
けれど。
「オレには……」
雨音と草木がざわめく音が酷く遠くに聞こえる中、沈黙を破ったのはファイだった。
「君の優しさは、とても残酷だったよ」
それはまるで一人ごとのような、小さな呟きだった。
黒鋼は頼りない照明に翳りを帯びたその横顔を、ただ静かに見つめながらファイの声に耳を傾ける。
「オレは頭がおかしいわけでも、可哀想なわけでもないし、弱くもなかった」
「……ああ。わかってる」
出会った頃、黒鋼はファイのことを頭の足りない子だとばかり思いこんでいた。しかし、ファイがそんな黒鋼の思い込みを見抜いていたことにまでは、気がつかなかった。
「そのはずなのにね」
むき出しの尖った肩を震わせて、彼は吐息のような声で小さく笑う。
「君といたら、オレはどんどん我侭になって、どんどん……欲張りになってしまった」
ファイは畳の上に落ちている、汚れた眼帯に指を伸ばした。彼の身体を清めているときに偶然落ちてしまったものを、黒鋼はあえてそのままにしていた。彼が一番に隠したがっている傷だったことは、知っていたけれど。
「気持ち悪いでしょ。この傷」
その傷はファイの目蓋の上に、縦に薄い割れ目を作っていた。彼の左目に、眼球は存在しない。
「昔はもっと濃かったんだ。濃くて、ぐちゃぐちゃしてて、醜かった……」
幼い頃、このような傷を負う以前から大人たちはみなファイを指差しては『醜い子』だと罵った。大好きだった小学校の向かいの商店のばあさんは、足を悪くして杖をついているが、それ以外は今もしぶとく健在だった。
「あのとき」
ファイは眼帯を拾い上げようとする手を止めた。痛々しい傷の残る目蓋に、指先を這わせる。
「最後に花火をした夏の夜のこと、覚えてる?」
「ああ」
忘れられるはずがない。自分で自分を心底恐ろしいと感じた、決定的な瞬間だった。
「あのときのこと、本当はずっと謝りたかった」
「必要ねぇだろ。あれはむしろ俺が」
「違うよ」
ファイは黒鋼を見ない。ずっと畳の上で泥に塗れた眼帯へ視線を落としたままだった。
「あのときね、これを見られるんじゃないかって、それが怖かったんだ。君に怯えたわけじゃ、なかったんだよ」
滾る衝動のままに奪おうとした、あの瞬間のことを思い出す。夢の中の獰猛な自分と、理性で己を押さえつけようとしていた現実の自分との間に、見境を失ってしまったあのとき。
間近で見たファイは酷く怯えて、震えていた。結果的に彼の身体を無理矢理こじ開けてしまった今の黒鋼にとって、あのときの自分を責めることは出来ない。ただ、おそらく結果は違っていたのだろうと思う。
なぜなら、今の自分は一切の後悔をしていないからだった。
あの頃はこの感情を汚らわしいものだと思い込んでいた。ファイが傷を負ったのは左目だけではなく、心にもまだ大きな亀裂が残ったままだったことなど、本当の意味で知りもしないで。自分ばかりが追い詰められたような気になっていた。
だがこれだけははっきりしている。たとえその傷がどんなに惨いものだったとしても、彼への気持ちは変わらなかっただろう。今も、そして昔も。
黒鋼はそっと手を伸ばし、ファイの左頬に手を添えた。その肩が、また少し震える。上向かせて、真正面から傷と向き合った。閉じられた目蓋。眼球のない、虚ろな皮膚。それさえも愛しいのだと、そっと傷口に口付ける。
「君がこんなことで変わってしまうような人間じゃないってことくらい、今ならちゃんとわかるのに。傷ついた君をあの公園に置き去りにして、最初に逃げ出したのはオレの方だった」
信じ合えていたのは二人がまだ幼すぎたからだった。
あの頃は感情だけが全てで、手を繋いでさえいれば心は通じ合うものだとばかり思い込んでいた。強く、そして多くを望めばそれだけでは足りないのに。
そして逆に、言葉だけでは分かり合えないものも、確かに存在している。距離が近ければ近いほど、埋め尽くせないものはどんどん増えていくばかりだった。
「ごめんね、黒鋼」
黒鋼は、もともとある眉間の皺をさらに深いものにした。
「そうじゃねぇだろ」
「?」
顰めっ面の黒鋼を、暫しきょとんとした表情で見つめていたファイは、次の瞬間にはゆっくりと笑みを浮かべた。
「……黒たん」
「おう」
ファイの笑顔が少しずつ歪んでゆく。
「黒わんこ」
「ああ」
残された右目に、みるみる涙が溜まっていく。黒鋼は笑った。
「黒様」
「なんだよ」
彼の瞳から大粒の涙が零れるのと、二人がしっかりと抱き合うのは同時だった。黒鋼の胸に顔を埋めて、ファイは小さな子供のように泣きじゃくった。
「どこにも行かないで……傍にいてよ……オレを、一人にしないで……」
「俺はここにいる。おまえの傍にいる。だからおまえも傍にいてくれ……俺の傍に」
ファイはファイが言えなかったことを。黒鋼は、黒鋼が言えなかったことを。
ずっと言いたくても言えなかったことを、抱き合いながら口にした。
それはもう、幼く儚い約束ではなかった。ファイを守らねばならないという、無責任で自分勝手な義務感からでもない。自分自身が心からそうしたいから。彼でなければ駄目なのだということが、痛いくらい分かっているから。
欲しいものを欲しいと、心から言えるようになったから。
「ばか」
「ああ」
「黒たんのばか」
「悪かった」
「離れたいなんて思っても、もう離してやらないから」
鼻を啜りながら、ファイは幾度も黒鋼に向かって「ばか」と繰り返した。言われる度、黒鋼はただ苦笑しながら、そのいじらしい責めを受け止め続ける。
一回一回律儀に返事を返しつつ、震える背中を擦ってやった。やがて。
「大好きだよ」
黒鋼の胸から顔を上げたファイは、鼻を真っ赤にしながらも、ようやくその言葉を口にして、鮮やかに微笑んだのだった。
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