2025/08/07 Thu ゼロの地点 そこは入り口であり、出口であり、ゼロの地点。 二人はここから、もう一度、恋をやり直すためのロープを潜る。 今度こそ、大切なものを見失わないために。 「わ、やっぱり凄いねぇ」 先週の、一晩中降り続いた雨にも負けず、神木の桜は見事に咲き誇っていた。この木の花びらは随分と色が濃い。 「やっぱり神様の木だから、強いんだね」 両手を広げて桜を仰ぐファイの背で、一つに纏められた金色の髪が揺れていた。風が吹くたびに、それは散りゆく花びらと共にやわらかく踊る。 「遅咲きだったんだろ」 「じゃあやっぱり凄いよ。雨が降るのが分かってたってことでしょう?」 振り向いたファイは真新しい眼帯を左目につけていた。子供達やお客さんを驚かせてしまうからと言って、人前ではやはり隠したままでいるらしい。 ファイは神木の根元まで足を運ぶとしゃがみ込む。黒鋼もすぐ横に並んだ。 今、そこには二つの墓がある。あの雨の翌日、黒鋼が作ったもう一つの墓だった。 「チィのお墓を作ってくれて……本当にありがとう」 あの日。朝露の煌く庭で、あれほど探しても見つからなかった白い猫は見つかった。 花をつけるには当分先の、紫陽花の木の根元で彼女は眠るような表情で息を引き取っていた。 「チィはおばあちゃん猫だったから。静かな場所で眠りたかったんだね」 それは本当に、まるで勤めを終えたとでも言うかのような、安らかな顔だった。一人きりで巨大な屋敷に暮らす青年の傍らに、ずっと寄り添ってくれた優しい猫だった。 黒鋼は生きていた頃の彼女を一度も抱くことが出来なかった。けれど、心から感謝している。子猫の眠る墓の隣に、もう一つ墓を作ろうと言ったのは黒鋼だった。 「こっちの子も、もう寂しくないね」 「そうだな」 よいしょ、と言ってファイは立ち上がった。なんだか年寄りくさいと思ったが、余計なことは言わない。ファイがとんでもない癇癪持ちだということが分かったからだ。思わず笑ってしまう。 「なぁに? 思い出し笑い? いやらしいなぁ」 「うるせぇよ」 おまえのことを考えているんだと、黒鋼は口に出しては言わなかった。なぜなら、ここには今……。 「本当に変わらないよね、ここは」 しみじみと呟いたファイは、神木に手をついて額を寄せた。けれど、すぐに何かに気がついたようにハッとして、それから肩を揺らしながらクスクスと笑い出す。黒鋼も少しだけ微笑んだ。 「今言ったこと、なし。やっぱり変わっていくんだよ。色々なことがね」 ファイは気がついたのだ。静かに息を殺す、二つの幼い気配に。黒鋼は先に気がついていた。 「行こう。お昼休みが終わっちゃうから。ね?」 「ああ」 二人は並んで神木に背を向け、歩き出した。 黒鋼がすっかり背の高くなった彼に歩幅を合わせて歩く必要はもうなかった。苔の生えた、古びた石の鳥居をくぐる。ふと足を止めたファイが、一度だけ神木を振り返った。 「オレたちは、これからはただの侵入者なんだね」 懐かしそうに、愛おしそうに瞳を細める彼の横顔を、今更ながらに美しいと思った。手を伸ばし、頭の天辺にくっついている桜の花びらを指で摘みとってやる。ファイが肩を竦めて笑った。そして、再び歩き出した。 「それにしても、よく子供だけで来られたなぁ」 「てめぇがそれを言うのか?」 「それもそうか」 あのロープを潜るのには、えらく勇気が必要なのだ。今にして思えば、子供ながらによくそれを果たしたと思う。現在、自分がそう指導しているように、裏山には決して入るなと子供の頃には厳しく躾けられていた。 今やその躾を行う立場となった黒鋼であるが、どことなく気が引けてあまり偉そうに言えないのがやり辛いところだった。 「ったくあいつら……姿が見えねぇと思ったら、こんなとこにいやがったのか」 「あはは! 世代交代だねぇ、黒たん先生」 ファイがおちゃらけて笑いながら、黒鋼の背中をパンパンと叩く。黒鋼の胸は、ほんの少しだけ、チクリと痛んだ。 幼い頃を過ごした秘密の場所は、もう二人だけのものではなくなった。ファイが言ったように、大人になってしまった自分達は、もう彼らの秘密を脅かす外敵であり、聖なる領域を侵す侵入者に過ぎない。 哀愁を胸に、黙り込んだまま下り坂を進んでいた黒鋼の手に、そっと温かな手が触れた。指を絡めるようにして、ぎゅうと強く握られる。 「ガキか、てめぇは」 「いいじゃない。誰もいないんだから。キスだって出来るよ? しちゃおっか?」 「馬鹿野郎」 思い切り嫌そうな顔を作って見せながらも、黒鋼はその細い手を同じだけの強さで握った。それはもう幼く高めの体温でもなければ、柔らかくもない。骨ばった大人の男の手だった。 この手を握って、幾度この道を行き来しただろう。初めて手を引かれた日のことを思い出す。小さなファイは、転びそうになりながら息を弾ませ、黒鋼の手を強く引っ張っていた。 今はどちらが引くでもなく手と手を取り、並んで歩いている。あれほど足を縺れさせた山道も、今は全くたいしたことがなかった。 色々なものが変わってしまった。そしてこれからも変わっていくのだと思う。巡る季節の中を、こうして手を繋ぎ、共に歩いていく。変わらないものは、この胸の中にだけあればいい。 やがて前方に中途半端に張り巡らされたロープが見えると、二人の手は自然と離れた。 例えばここが切り取られた空間だったとすれば、あの仕切りはゴールでもあり、またスタート地点でもある。 「黒様」 「なんだ」 足を止めたファイが、振り向いた黒鋼ににんまりと笑って見せた。何かイタズラを仕掛けようとしている顔だった。 「目を閉じて」 「あ?」 「いいから、早く」 舌打ちをしながら、仕方なく目を閉じた。ファイが「ふふふ」と笑う。その瞬間、温かく柔らかなものが唇に触れた。 「っ!」 咄嗟に目を見開けば、今度はすかさず口の中に固いものが押し込まれた。一瞬にして鼻から抜ける、独特の香り。懐かしくて、切なくて、少しだけ泣きたくなるような、優しい味。 「てめぇ」 「あはは! あげるよ、オレの宝物」 口の中で、コロリとそれを転がした。ここにも一つ、変わらないものがあった。黒鋼は口の端を上げて笑った。 「知ってるか?」 ファイも笑っている。大人びた、穏やかな微笑みだった。 「こいつはな、俺の大好物だ」 そうして二人、薄荷の味の、キスをした。 End ←戻る ・ Wavebox👏
そこは入り口であり、出口であり、ゼロの地点。
二人はここから、もう一度、恋をやり直すためのロープを潜る。
今度こそ、大切なものを見失わないために。
「わ、やっぱり凄いねぇ」
先週の、一晩中降り続いた雨にも負けず、神木の桜は見事に咲き誇っていた。この木の花びらは随分と色が濃い。
「やっぱり神様の木だから、強いんだね」
両手を広げて桜を仰ぐファイの背で、一つに纏められた金色の髪が揺れていた。風が吹くたびに、それは散りゆく花びらと共にやわらかく踊る。
「遅咲きだったんだろ」
「じゃあやっぱり凄いよ。雨が降るのが分かってたってことでしょう?」
振り向いたファイは真新しい眼帯を左目につけていた。子供達やお客さんを驚かせてしまうからと言って、人前ではやはり隠したままでいるらしい。
ファイは神木の根元まで足を運ぶとしゃがみ込む。黒鋼もすぐ横に並んだ。
今、そこには二つの墓がある。あの雨の翌日、黒鋼が作ったもう一つの墓だった。
「チィのお墓を作ってくれて……本当にありがとう」
あの日。朝露の煌く庭で、あれほど探しても見つからなかった白い猫は見つかった。
花をつけるには当分先の、紫陽花の木の根元で彼女は眠るような表情で息を引き取っていた。
「チィはおばあちゃん猫だったから。静かな場所で眠りたかったんだね」
それは本当に、まるで勤めを終えたとでも言うかのような、安らかな顔だった。一人きりで巨大な屋敷に暮らす青年の傍らに、ずっと寄り添ってくれた優しい猫だった。
黒鋼は生きていた頃の彼女を一度も抱くことが出来なかった。けれど、心から感謝している。子猫の眠る墓の隣に、もう一つ墓を作ろうと言ったのは黒鋼だった。
「こっちの子も、もう寂しくないね」
「そうだな」
よいしょ、と言ってファイは立ち上がった。なんだか年寄りくさいと思ったが、余計なことは言わない。ファイがとんでもない癇癪持ちだということが分かったからだ。思わず笑ってしまう。
「なぁに? 思い出し笑い? いやらしいなぁ」
「うるせぇよ」
おまえのことを考えているんだと、黒鋼は口に出しては言わなかった。なぜなら、ここには今……。
「本当に変わらないよね、ここは」
しみじみと呟いたファイは、神木に手をついて額を寄せた。けれど、すぐに何かに気がついたようにハッとして、それから肩を揺らしながらクスクスと笑い出す。黒鋼も少しだけ微笑んだ。
「今言ったこと、なし。やっぱり変わっていくんだよ。色々なことがね」
ファイは気がついたのだ。静かに息を殺す、二つの幼い気配に。黒鋼は先に気がついていた。
「行こう。お昼休みが終わっちゃうから。ね?」
「ああ」
二人は並んで神木に背を向け、歩き出した。
黒鋼がすっかり背の高くなった彼に歩幅を合わせて歩く必要はもうなかった。苔の生えた、古びた石の鳥居をくぐる。ふと足を止めたファイが、一度だけ神木を振り返った。
「オレたちは、これからはただの侵入者なんだね」
懐かしそうに、愛おしそうに瞳を細める彼の横顔を、今更ながらに美しいと思った。手を伸ばし、頭の天辺にくっついている桜の花びらを指で摘みとってやる。ファイが肩を竦めて笑った。そして、再び歩き出した。
「それにしても、よく子供だけで来られたなぁ」
「てめぇがそれを言うのか?」
「それもそうか」
あのロープを潜るのには、えらく勇気が必要なのだ。今にして思えば、子供ながらによくそれを果たしたと思う。現在、自分がそう指導しているように、裏山には決して入るなと子供の頃には厳しく躾けられていた。
今やその躾を行う立場となった黒鋼であるが、どことなく気が引けてあまり偉そうに言えないのがやり辛いところだった。
「ったくあいつら……姿が見えねぇと思ったら、こんなとこにいやがったのか」
「あはは! 世代交代だねぇ、黒たん先生」
ファイがおちゃらけて笑いながら、黒鋼の背中をパンパンと叩く。黒鋼の胸は、ほんの少しだけ、チクリと痛んだ。
幼い頃を過ごした秘密の場所は、もう二人だけのものではなくなった。ファイが言ったように、大人になってしまった自分達は、もう彼らの秘密を脅かす外敵であり、聖なる領域を侵す侵入者に過ぎない。
哀愁を胸に、黙り込んだまま下り坂を進んでいた黒鋼の手に、そっと温かな手が触れた。指を絡めるようにして、ぎゅうと強く握られる。
「ガキか、てめぇは」
「いいじゃない。誰もいないんだから。キスだって出来るよ? しちゃおっか?」
「馬鹿野郎」
思い切り嫌そうな顔を作って見せながらも、黒鋼はその細い手を同じだけの強さで握った。それはもう幼く高めの体温でもなければ、柔らかくもない。骨ばった大人の男の手だった。
この手を握って、幾度この道を行き来しただろう。初めて手を引かれた日のことを思い出す。小さなファイは、転びそうになりながら息を弾ませ、黒鋼の手を強く引っ張っていた。
今はどちらが引くでもなく手と手を取り、並んで歩いている。あれほど足を縺れさせた山道も、今は全くたいしたことがなかった。
色々なものが変わってしまった。そしてこれからも変わっていくのだと思う。巡る季節の中を、こうして手を繋ぎ、共に歩いていく。変わらないものは、この胸の中にだけあればいい。
やがて前方に中途半端に張り巡らされたロープが見えると、二人の手は自然と離れた。
例えばここが切り取られた空間だったとすれば、あの仕切りはゴールでもあり、またスタート地点でもある。
「黒様」
「なんだ」
足を止めたファイが、振り向いた黒鋼ににんまりと笑って見せた。何かイタズラを仕掛けようとしている顔だった。
「目を閉じて」
「あ?」
「いいから、早く」
舌打ちをしながら、仕方なく目を閉じた。ファイが「ふふふ」と笑う。その瞬間、温かく柔らかなものが唇に触れた。
「っ!」
咄嗟に目を見開けば、今度はすかさず口の中に固いものが押し込まれた。一瞬にして鼻から抜ける、独特の香り。懐かしくて、切なくて、少しだけ泣きたくなるような、優しい味。
「てめぇ」
「あはは! あげるよ、オレの宝物」
口の中で、コロリとそれを転がした。ここにも一つ、変わらないものがあった。黒鋼は口の端を上げて笑った。
「知ってるか?」
ファイも笑っている。大人びた、穏やかな微笑みだった。
「こいつはな、俺の大好物だ」
そうして二人、薄荷の味の、キスをした。
End
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