2025/08/13 Wed 赤ん坊を泣かせてしまったことがある。 あれはまだ小学校に上がる前だったから、花京院が五つかそこらの頃だ。親戚夫婦が生まれたばかりの乳児を抱いて、家に遊びにやってきた。 その子は母親の腕の中で、静かな寝息をたてていた。桜色の肌がお餅のように柔らかそうで、ふんわりとした甘いミルクの匂いがしたのを覚えている。 触ってもいいと言われ、花京院はドキドキと胸を跳ねさせながら、その小さな生き物に幼い指先を伸ばしてみた。恐る恐る、起こさないように、優しく、優しく。丸い頬に、そっと。けれど触れる寸前、目を覚ました赤ん坊が、急にぐずりはじめてしまった。 その顔はみるみるうちに真っ赤になった。鼻の頭に皺を寄せ、いよいよ甲高い声をあげて泣きだしてしまう。花京院はその光景にショックを受けて、石のように固まって動けなくなった。 赤ちゃんが泣いてしまったのは、ぼくがほっぺたに触ろうとしたからだ。せっかく気持ちよく眠っていたのに、邪魔をしようとしたから。きっと嫌われてしまったのだと、そう思うと怖くて悲しくて、とても悪いことをしてしまったのだと感じた。 以来、花京院は自分よりも小さな子供と触れ合うことに、どうしても不安を覚えるようになってしまった。決して忘れられない、心の傷が残ってしまったのだ。 * (ああ、またホリィさんがいらしてるのか) 十二月の初め頃。学校から帰宅すると、廊下の向こうから賑やかな笑い声が聞こえてきた。玄関には母のものとは異なる女性用の靴があり、その横には、小学生くらいの男児用スニーカーも置かれている。綺麗に揃えられた二足の靴を見て、花京院はひとつ、重たい溜息を漏らした。 ホリィとは半年ほど前、母が通い始めた料理教室で知り合ったという女性の名だ。今では頻繁に互いの家を行き来してお茶を飲むほど、親しい間柄になっている。アメリカ人だが流暢な日本語を話し、朗らかによく笑う可愛らしい人だった。 ホリィには承太郎という名の、小学二年生の息子がいた。目鼻立ちが息を飲むほど整った、エメラルドの大きな瞳を持つ美少年だ。物静かで行儀のいい承太郎のことを、母がえらく気に入っていて、よくホリィに連れられて家へ遊びにやってくるのだが。 (ホリィさんだけなら、大歓迎なんだけどな) 子供はどうしても苦手だ。幼い頃のトラウマは、高校生になった今でも薄れることなく、花京院の中に爪痕を残していた。 失礼だとは思うが、今は顔を出さずに部屋へあがることにして、帰宅するタイミングを見計らって軽く挨拶をしよう。そうと決めてしまうと、花京院は足音を立てないよう、静かに自室がある二階への階段をのぼった。 * 自室に入ると、机に置いた鞄の中から教科書やノートを取り出す。ホリィたちが帰るまではまだ時間もあるだろうし、軽く明日の予習でもしようと考えたからだ。すると一緒くたになって一冊の雑誌が飛び出し、絨毯張りの床に落下した。 「あ」 花京院は小さく声をあげ、それから辟易とした息を漏らした。表紙がよれよれになっているそれは、いわゆるエロ雑誌というものだ。もちろん、花京院の所有物ではない。クラスの男子たちが回し読みしたものを、たまたま近くの席にいたというだけで、強引に押し付けられてしまったのだ。 正直、花京院はこの手のものに、あまり興味がなかった。手に取ろうと思ったことすらない。ましてや複数の男子生徒が回し読みをしたものなんて、不潔に思えて触れることすら躊躇われる。 しかし放置しておくこともできず、花京院は溜息をつきながら雑誌を拾った。見たくもない表紙が、嫌でも目につく。そこには水着姿の女性が、尻を突きだすようにしながら座り込んでいる姿が写っていた。 「うわ」 思わず顔を赤らめ、慌てて目を逸らす。こんなものは目の毒だ。破廉恥すぎる。だいたい、まだ十七歳の高校生が見ていいものではない。男子って最低。よく女子が口にする言葉の中に、自分が含まれているかもしれないと思うだけで、嫌な気分だ。 (早く捨てよう。こんなもの) けれどその内心の声とは裏腹に、花京院は横目でチラリと、再びいかがわしい表紙を視界に入れる。なぜかさっきからずっと顔が熱かった。心臓もドキドキと高鳴っているし、落ち着かない気分だ。ダメだダメだと思いつつ、そのままパラパラと雑誌をめくってみる。が、すぐにいたたまれなくなって目を逸らし、机に放り投げた。やっぱり無理だ。こんなもの、自分にはまだ早すぎる。 けれど十七歳の身体は、肌色成分に対してあまりにも純粋で、あまりにも素直な構造になっていた。 「ッ……!?」 気がつくと、身体の中心に違和感を覚えていた。やけに熱くて、窮屈だ。花京院は自分の身体に起こった変化に青褪め、それから、茹蛸のように真っ赤になった。 (ど、どうしよう……なんてことだ……) 呆然とした顔で、ベッドの縁に腰を沈める。身体を丸めるようにしながら頭を抱えた。 自慰の経験は、ほとんどない。普段、あまりしたいとも思わなかった。なのに今はこの有様で、花京院は焦りを覚えながらも、怖々と自分の股間に指先を這わせた。 どうせこの部屋には、自分一人だ。こんな状態でいるよりは、事務的にでもさっさと鎮めてしまった方がいいに決まっている。自分に言い訳をしながら、ベルトを緩めて前を寛げた。必要最低限、触れる機会のない熱の塊を取り出して、そっと握り込んでみる。 「ッ、ぁ」 慣れない感覚が、そこからじわりと這い上がる。おかしな声が漏れてしまう唇を片手の甲で塞ぎ、顔を背けながら目を閉じた。ぎこちない手つきで、自身を慰める。 「んっく、ふ……ぁッ」 頭がぼうっとして、息があがる。これが快感であるかどうかの判断はまるでつかなかった。けれど、やけに熱くて甘い痺れがじんわりと這い上がって、溢れでてくる。 (ああ、ぼくはなんてはしたない真似を……) 意識の片隅で自分を責める。これはとても悪いことだと。性器からは先走りの密が滲みはじめ、鈍い水音まで響きだすと、いよいよ罪悪感から涙が滲んだ。 (下にはお客さんがいるっていうのに!) こんなのは自分じゃない。早く。早く、終わらせないと。 声がしたのは、そのときだった――。 「なにやってんの?」 「ッ?」 瞬間、花京院は竿を握りしめたまま、ピタリと凍り付いた。 (……へ?) 声。気のせいだろうか。いま、確かに誰かの声が……。 「なあってば、聞いてんの?」 ギ、ギ、ギ、と、錆びたネジを回すように首を動かし、声のした方へ視線を巡らせる。そこにはベッドの下から俯せた上半身を覗かせ、頬杖をついた子供が、こちらを見上げる姿があった――。 「う、うわあああああッ!?」 花京院は咄嗟に悲鳴をあげていた。頭から水を浴びたような感覚に、当然、熱は冷めて萎んでしまう。一瞬でベッドの端まで移動して、壁に身を寄せる花京院を、下から這い出した少年のつぶらな瞳が、不思議そうに見つめていた。 「な、なんっ、なんでッ、き、きみ、ここ、ここにッ!?」 あまりの出来事に、上手く言葉が出ない。なぜここに彼が――承太郎がいるのだろう。一体いつから、見ていたのだろうか。頭の中はすっかりパニックを起こしていた。彼は青いパーカーにジーンズ姿で、ベッドの縁を両手で掴み、シーツにちょこんと顎を乗せながら口を開いた。 「おばさんが、ヒマなら上の部屋で遊んでていいって」 「おばっ、お、おばさ、か、母さん、が?」 「うん。だから、かくれんぼして遊んでたんだぜ」 まだ少女のような高い声が、平然と言う。なら承太郎は、最初からこの部屋の、ベッドの下に潜んでいたということか。 花京院はショックのあまり青褪めて、ただ身体を震わせるしかできなかった。よりにもよって、なんて姿を見られてしまったのだろう。穴があったら入りたい。いっそのこと消えてしまえたら、どんなにいいか。 承太郎がベッドの上によじ登ってきた。思わず横向きに身体を丸め、これでもかというほど壁に身を寄せる花京院の目の前に、ぺたりと座る。小学二年生というだけあって、小さな身体だと思った。驚くほど長い睫毛がくるんとカールして、宝石のような丸い瞳が、星のように瞬いている。 「今の、もしかしてすごくワルイこと?」 「ッ……!」 「ちんちんさわって、ヘンなこえ出してた」 「いいい、言わないでッ! 頼むから、いま見たことは誰にも言わないでくれッ!!」 思わず頭を抱え、叫んでいた。どっと汗を噴きだし、すっかり小さく丸まってしまった花京院を見て、承太郎は「ふぅん」と微かに唸る。そしてすぐに「いいよ」と言った。 「ほ、本当に!?」 承太郎は頷き、それからにんまりと意地の悪そうな笑顔を浮かべた。とてつもなく嫌な感じがする。花京院は目を見張り、緊張から喉を鳴らして承太郎を見た。彼は胡坐をかき、腕を組むと、まるで見下すように顎を突きだして踏ん反り返った。そして、こう言ったのだ。 「おれのいうことをなんでもきく、召使いになるって約束するならな」 * 悪夢の一件から、一ヶ月ほどが経過した。 その間、花京院は承太郎の召使いとしての生活を、余儀なくされていた。 馬になれと言われれば四つん這いになり、背中に乗られながらひたすら部屋中を這いつくばる。手綱代わりに髪を引っ張られることもあったし、お菓子やジュースを買いに行けと言われれば、大急ぎで近所のコンビニやスーパーに駆けこまなくてはならなかった。それはもちろん花京院のポケットマネーから出す決まりになっていて、回を重ねるごとに財布事情が圧迫される。おかげで、子供の頃からコツコツと貯めてきたお年玉などの貯金を、切り崩す羽目になっていた。 承太郎はホリィ抜きでも家に遊びに来るようになったし、花京院を自宅に呼びつけるようにもなった。平日も休日もお構いなしに駆り出され、時には宿題までやらされる。少しでも嫌な顔すると、すぐに「あのことバラすぜ」なんて冷やかな目で言われ、その度に花京院はゾッと青褪めた。 腹が立つのは、承太郎の二重人格ともいえる態度だ。花京院の母や、ホリィの前では絵に描いたように素直で従順なふるまいを見せるし、笑顔は天使そのものだった。それに比べて、花京院にはぶっきらぼうで偉そうな態度しか見せない。正直、憎たらしくて仕方がなかった。 一体いつまでこんな日々が続くのだろう。小学生に脅され、いいように顎で使われているなんて。ただでさえ子供は苦手で、関わり合いを持つのは嫌だというのに。 * その日も学校から帰宅すると、母から承太郎が遊びに来ていることを告げられた。げんなりする息子を他所に、母はウキウキとした様子で「裏庭で遊んでると思うわ」と言い、お茶とお菓子の準備をしていた。 花京院は嫌々ながらも、その足で裏庭へ向かった。すると寒空のしたで、承太郎が柿の木にしがみつきながら、頭上を見上げる姿があった。 「承太郎くん、こんにちは」 黒いダッフルコートに青いマフラーをして、すっかり着ぶくれしている承太郎は、花京院の声にハッとして振り向いた。 「おそいぞ、花京院」 ムッとした顔で睨み上げてくる少年に、花京院は「はいはい申し訳ありませんでした」と言いながら、溜息を漏らす。母親たちの前では「典明お兄ちゃん」なのに、ふたりきりになるとこれである。 「それよりどうしたんだい、熱心に柿の木なんて見上げて」 庭の片隅にある柿の木は、花京院の祖父が子供の頃に植えたというもので、それは大きくて立派なものだった。毎年、秋になるとたわわに果実を実らせるが、真冬の今となっては裸ん坊で、葉っぱひとつない寂しいものだった。承太郎が難しい顔をして、幹にしがみついたまま天辺を見上げるので、花京院もその視線を追いかける。するとそこには――。 「あれは……子猫?」 黒くて小さな塊が、そこから動けず枝にしがみついているのが見える。ミィミィという不安そうな鳴き声が聞こえた。 「あいつ、おりられなくてさっきから泣いてる。すぐに助けてやらないと……」 真冬の冷たい風が吹く度に、子猫は不安定に揺れる枝に小さな爪を立てて震えていた。 「ちょっと待ってて。いま物置から脚立を」 「あッ! おちるッ!!」 承太郎が真っ青な顔をして、大きな声を上げる。子猫が枝から後ろ足を滑らせ、宙づりの状態になっていた。これでは落下するのも時間の問題だ。 花京院の家の裏側は、ちょうど細長く続くコンクリート水路の堀に面している。子猫がぶら下がっている枝は、運悪く掘り側に張り出している部分に近かった。 「承太郎くん、危ないから下がってて」 「で、でも」 「いいから!」 危険だが、一刻を争う事態にのんびりとはしていられない。花京院は承太郎がおずおずと後退していくのを横目に、柿の木に手をかけ、大きく枝分かれしている部分に足をかけた。何度か強度を確かめて、素早く一気によじ登っていく。承太郎が両手を胸元で握りしめながら、不安そうに見守っていた。 「大丈夫だよ、ほら、いい子だね」 花京院はある程度の位置まで登ると、ぶら下がって甲高い声を上げる子猫に片手を伸ばした。暴れられたら終わりだと思ったが、子猫は大人しくその丸々とした腹を、花京院の掌に掴ませる。枝から剥がすようにして、胸に引き寄せた。しかしホッとしたのも束の間、次の瞬間。 「ッ……!」 「花京院ッ!!」 足を引っかけていた枝が、体重に耐えきれなくなって派手に折れてしまった。承太郎が悲鳴じみた声を張り上げて、花京院を呼ぶ。それを遠くに聞きながら、子猫を抱いたまま一気に飛び降りて、着地した。 「ふぅ、危なかった」 一瞬ヒヤリとしたが、子猫も自分も無事だった。青い顔をしたまま立ち尽くしている承太郎にふと笑いかけ、傍に歩み寄ると子猫を差し出す。 「ほら、もう平気だよ」 承太郎の腕に抱かれると、子猫は大きな金色の瞳で小首を傾げ「ミィ」と可愛らしい声でひと鳴きした。 「柿の木は、枝が脆くてとても折れやすいんだ。だからこういうときは、自分でなんとかしようとしないで、必ず誰か大人の人を呼ばなくちゃあいけないよ」 承太郎はおそらく、あのまま花京院が来なかったら、自分で木に登るつもりだった。運よく間に合ったからいいものの、あと少し遅ければ、子猫と一緒に堀に落ちていたかもしれない。そんな承太郎は柿の木の脆さを初めて知ったようで、青褪めていた顔を真っ白にしながら、小さく震えだした。 「ケガ、は」 「ん?」 「ケガは……?」 「ああ、大丈夫。ほら、子猫なら」 「ちがう。こねこじゃなくて」 「……え? ぼく?」 承太郎は両手で子猫を抱きしめながら、こくりと頷いた。その表情を見て、花京院は驚きに目を見開く。大きなエメラルドの瞳が、みるみるうちに透明な膜に覆われ、雫が目尻に溜まっていった。薄紅の下唇が噛み締められるのを見て、心臓がドキリと跳ねる。子猫が鳴いた。幼い頃に聞いた赤ん坊の泣き声が、その声と重なって焦りと不安が込み上げる。 「じょ、承太郎くん」 花京院は思わず承太郎の頬に手を伸ばした。指先があと少しで触れるというところで、戸惑う。あの赤ん坊は、自分が触れようとしたら泣いてしまった。だけどこの子は、いま自分が触れなければ、泣いてしまう。 (本当はこんなに、優しい子だったんだ) てっきり嫌われているものとばかり思っていた。猫かぶりで、生意気な子供だと。けれどこの少年は今、一歩間違えれば怪我をしていたかもしれない花京院のために、こんなにもか細く身を震わせている。 雫が零れ落ちる寸前、花京院は人差し指の甲でその目尻を拭った。さらに膝をつき、向かい合うと真っ赤になった頬を両手で包み、親指で何度も何度も目尻を拭う。 (触れた) 承太郎は花京院の手を拒まなかった。すんと鼻を鳴らして、濡れた瞳で真っ直ぐに見つめてくる。あのときも、こんなふうに触れたかったのだ。自分よりも小さな存在に、ただ愛しさを覚えただけだった。泣かせたくなんか、なかった。 (……可愛い) 純粋に、そう思った。掌に感じる高い体温に、胸が締め付けられる。赤くなった頬がリンゴのようで、餅のようにすべすべとして、柔らかかった。 「ぼくも平気さ。どこもケガなんかしてない」 「……ほんとに?」 承太郎の涙が引いていくのと一緒に、花京院の中にあり続けた氷柱のようなトラウマが、少しずつ溶けていく。自然と綻ぶような笑顔が浮かんで、瞬きと一緒に頷いて見せた。 「ほんとに。嘘なんかつかないよ。だから泣かないで」 そう言うと、承太郎は赤かった頬をさらに赤くして、ムッとした表情を浮かべ「泣いてない」と強がった。それがまたどうしようもなく可愛らしく思えて、花京院はついクスリと笑ってしまう。承太郎が、いよいよ耳まで赤くなった。 「め、召使いのくせに、なまいきだぞ!」 「ノォホホ、ごめんよご主人様」 そのとき、ずっと承太郎の腕に抱かれていた子猫が、勢いよく飛び出して地面に着地した。あ、と揃って声をあげるふたりを振り向きもせずに、どこかへ走り去ってしまう。 「ねこ、迷子にならない?」 承太郎が、不安そうにその方向を見つめる。 「大丈夫。きっとお母さん猫のところへ帰ったんだよ」 花京院の言葉に、承太郎は「そっか」と呟きながら、ホッとしたように白い息を漏らした。 「さあ、ぼくらも家に戻ろう。風邪をひかないうちに」 そう言って立ちあがり、ごく自然に差し出した手に、承太郎の小さくて温かな手が触れた。そっと握りしめてやりながら、花京院は自分でも驚くほど優しい気持ちになっていることに気がついた。なんとなく、これからこの少年とはもっと仲良くなれるような、そんな予感に胸を弾ませながら。 * 二月ももうじき中旬というころ、花京院と承太郎の関係は大きく変化を遂げていた。 きっかけは、やはりあの柿の木と子猫の一件だった。あれ以来、承太郎は花京院に対して無邪気で明るい笑顔を見せるようになった。馬にされることはあっても髪は引っ張られないし、威張り散らしたような態度もなりを潜め、脅迫されることもなくなった。 一緒にゲームをして遊んだり、相撲中継を見たり、肩を並べて宿題をしたり。以前はパシリのような扱いを受けていたが、最近ではスーパーやコンビニに、手を繋いで一緒に買い物に行くようにもなった。 そんなふたりの姿を見て、あるときホリィは嬉しそうに、こんなことを言った。 『花京院くんが一緒に遊んでくれるようになって、承太郎ったら毎日とっても楽しそうなの。きっとお兄ちゃんができたみたいで、嬉しいのね』 それを聞いて、確かに兄弟がいたらこんな感じ、なのかもしれないと思った。少し歳の離れた、小さな弟。するとなんだかいっそう承太郎が可愛く思えてきて、前は嫌々だった時間が、日々の楽しみになっていった。全ての始まりである、あの悪夢のような出来事が、まるで夢だったかのように感じられるほど。 * そんなある日。事件はバレンタインデーに起こった。 「好きです! 付き合ってください!」 学校帰りの道の途中、花京院は顔も知らない女子生徒に呼び止められ、告白を受けていた。 「え?」 あまりにも突然のことに、思わず目を丸くする。差し出されている、赤い包装紙にピンク色のリボンがかけられた箱と、女子生徒の顔を交互に見た。 「ずっと好きだったんです、先輩のこと」 彼女は耳まで赤くして、俯きながら言った。先輩、というワードから、一年生であることが知れる。 困ったな、と、花京院は思った。女子から告白されるのは、本日これが三度目だ。もちろん嬉しいとは思うし、光栄だとも思う。けれどその気もないのに付き合うなんて、そんな無責任で軽率な真似ができるはずもなく、前の二人も当然、丁重にお断りした。元から色恋への関心が薄い、ということもあるのだが……。 (承太郎くん、今日も学校帰りに遊びに来るんだったな) 真っ先に浮かぶのは、承太郎の顔だった。きっと今ごろとっくに来て、花京院の帰りを待っているに違いない。今の花京院にとって、あの少年と過ごす時間は何よりも楽しくて、大切なものになっていた。仮に自分に恋人と呼べるような相手ができてしまったら、今みたいに承太郎と遊ぶ時間がなくなってしまうかもしれない。それは考えられないことだった。 「すまないが……気持ちだけ、受け取らせていただくよ」 そう言うと、彼女は少し泣きそうな顔をしながらも「じゃあ、せめてチョコだけでも」と言って、笑顔を見せた。 * 帰宅すると、やはり承太郎はすでに遊びに来ていた。母から二階にいることを聞くと、すぐに部屋へあがる。 「いらっしゃい、承太郎くん」 承太郎は花京院の部屋で、ベッドの縁に腰かけて本を読んでいた。床に投げ出された黒いランドセルと、黄色い通学帽にふっと笑って、花京院はその隣に歩み寄ると腰かけた。 「なにを読んでいるんだい?」 鞄と、さっき受け取ったチョコレートの箱を足元に置きながら、問いかける。おそらく学校の図書室から借りてきたと思しき児童書。よくこうして一緒に本を読むこともあるから、ごく自然な動作で覗き込む。けれど承太郎はなにも答えず、花京院から隠すように本を閉じて、脇に放り投げてしまった。 (あれ?) 背けられた顔に、きょとんとする。最近は顔を合わせれば笑顔を見せてくれるようになっていたはずが、なぜか承太郎は不機嫌そうに顔を顰めて、なにも言おうとしない。 「承太郎くん、どうかした?」 問いかけても、返答は得られなかった。花京院は首を傾げ、何か彼の気に障るようなことをしてしまっただろうかと、思案する。しかし、これといって思い当たるものはなかった。なんと声をかけるべきか迷っていると、沈黙を経てようやく承太郎が口を開いた。 「花京院、そこに座れ」 「え? あ、はい」 小さな手が床を指さすので、花京院は戸惑いながらもベッドから下り、正座をして正面から承太郎を見上げる。彼は眉間に皺を寄せ、ぽってりとした唇をへの字に曲げていた。 「だれだ、あのアマ」 「あま?」 不思議そうに瞬きをして見せる花京院に、承太郎は眉間の皺をいっそう深くしながら睨み付けてくる。もしや、と、花京院は思った。 「君が言うアマっていうのは、ひょっとしてさっきの子のことを言っているのか?」 つい先ほど、道端で花京院に告白をしてきた一年の女子生徒。もしかして、承太郎はどこかであの光景を見ていたのだろうか。すると案の定、彼は「そうだ」と言った。 「てめーがなかなか帰ってこねえから、わざわざむかえに行ってやったのに」 承太郎は忌々しげに、足元に置かれた赤い箱を横目で睨み付ける。花京院は指先で頬を掻きながら苦笑した。 「そうだったのか。あれは、ほら……バレンタインだからね、今日は」 それよりも、迎えに来てくれていたのなら、どうして声もかけずに先に戻ってしまったのだろう。しかも承太郎がこうして不機嫌でいる理由も、さっぱり分からなかった。彼はさらにムッとした表情で、ベッドの縁から立ちあがった。 「あのアマと、こいびとになるのか」 「はあ?」 思わず素っ頓狂な声をあげた。承太郎は幼いながらに迫力のある凄んだ表情で、威圧感たっぷりに見下ろしてくる。 恋人もなにも、花京院はあの女子生徒からの告白を、きっぱりと断ったのだ。いま目の前にいる少年との時間を、何よりも優先させるために。しかしそれを言おうと口を開きかけるよりも先に、承太郎が言った。 「召使いのくせに、なまいきだぜ」 冷やかな視線と共に降ってきた台詞に、流石の花京院も少しばかり腹が立った。 「そ、そんな言い方ってないだろ? それに、いつまでも人を召使い呼ばわりするなんて」 「くちごたえすんな!」 承太郎は顔を赤らめ、肩を怒らせながら声を張り上げた。 「おれの言うことなんでもきくって、はじめに約束したはずだぜ。じゃなきゃ、おまえがここでしてたこと、ぜんぶバラす。母さんにも、おばさんにも!」 「ッ!」 思わずぐっと喉を詰まらせる。承太郎はおそらく、あのとき花京院がしていた行為の意味なんか知らないはずだ。けれどあれは、決して人の目に触れていい行いではなかった。今でも思いだすだけで死んでしまいたくなるから、なるべく考えないようにしていたのに。 みるみるうちに顔を青くする花京院に、気持ちが治まらない様子の承太郎は、なおも言った。 「おしおきだぜ、花京院」 「お、お仕置き、って……?」 無意識に声を震わせ、おずおずと視線をあげる。小さな身体で仁王立ちする少年は、大きなエメラルドの瞳を猫のように細めた。 「あのときしてたこと、今ここでやって見せな」 「……は?」 言っている意味が、わからなかった。 「ちんちんだして、やって見せろって言ってんだぜ」 「なッ……!?」 本気で言っているのだろうか。今ここで、承太郎がいる目の前で、自慰をして見せろなんて。花京院は大きく目を見開いたまま、身動きひとつすることができなかった。承太郎は蒼白な顔で肩を震わせる花京院に向かって「はやくしろ」と苛立った声で命じてくる。 (嘘だろ……そんなこと、できるわけ……) 自分よりもずっと小さな存在が、やけに恐ろしく感じられた。それは自分たちの関係が、どこまで行っても主と召使いでしかないことを知らしめているようで、ショックを受ける。 けれどここで言うことを聞かなければ、この少年は本当に誰かにあのことを言ってしまうかもしれない。母にも、ホリィにも。そんなことになったら、きっともう生きていけない。 有無を言わさぬ圧力をかけてくる承太郎に、花京院は下唇を噛み締めながら、震える指先をベルトにかける。 (ちゃんと、しないと……) 全部、バラされてしまう。だけど。 (……できない。できるわけ、ない) 花京院はそのまま、指先ひとつ動かすことができなかった。悲しいという気持ちが、胸いっぱいに溢れだす。 考えてもみてほしい。承太郎より十も長く生きているとはいえ、花京院だって、まだたったの一七歳の、未完成な少年でしかないのだ。 「ッ、ぅ」 気がついたときには、目尻から涙が溢れて頬を伝い落ちていた。何もかもが限界だ。あんな恥ずかしい場面を見られてしまったことも、それをネタに脅されることも。花京院にはもう、受け止められなくなってしまった。承太郎が、ハッと息を飲む音が聞こえる。 「お、おい……花京院?」 「どうして、こんな酷いことを……せっかく、せっかく」 仲良くなれたと思ったのに。少し我儘なところはあるけれど、優しくて可愛い、本当の弟のようだと思っていたのに。承太郎にとって花京院は、ただ自分のためだけに動く駒でしかなかったのだ。もしかしたら、それが何よりもショックで、辛いことだったかもしれない。 手の甲でしきりに涙を拭いながら、何度も肩を跳ねさせてしくしくと泣く花京院に、承太郎は驚きを隠せない様子だった。彼にしてみれば、花京院は自分よりもずっと大人で、そんな相手が子供のように泣いている姿は、あまりにも衝撃的なものだったに違いない。彼はわなわなと小刻みに震えだし、やがて見開いていた瞳を潤ませた。大粒の涙が溢れだし、花京院よりもずっと大きく、しゃくりを上げはじめる。 「うっ、うぅ……ふえ……」 「なん、で、なんで、承太郎くんが、泣くんだよぉ」 「だ、て、だって……泣くから、花京院が、泣くからぁ」 「承太郎くん、が、酷いことばっかり、言う、からッ」 ついに承太郎が声をあげて泣きだした。 「うわぁぁん! 花京院のバカ! バカやろおッ! なんで泣くんだよぉ、なんで、泣いちゃうんだよぉ!」 承太郎は口を大きく開けて、天井を見上げるようにして泣いている。よく見ると片方の八重歯が抜けて、小さな永久歯が顔を覗かせていた。花京院はそれを見て、なんて可愛いんだろうと思った。可愛くて、だけど悲しくて、なぜかもっともっと、涙がでてくる。花京院は混乱していた。承太郎も、混乱していた。 「う、うぅッ、ひ、ひっく、泣くなよ、泣くなってば、かきょ、花京院、泣いたら、ひっ、く、うえぇ」 「ぼくだって、うぅ、ヒック、承太郎くん、ぼくだって……泣かせたく、なんか、う、うう、ぅッ」 わっ、と、ふたりして声をあげて泣いた。なにがなんだか、もうさっぱり訳が分からないまま。 * 枕元を照らす暖色系のライトが、緩やかな波型の線を描く煙を、室内に浮き上がらせていた。 「君って、好きな子はイジメたいタイプだったんだなあ」 花京院は裸体を俯せに横たえ、シーツの海に溺れながら気だるげに前髪を掻き上げた。散々啼かされた後だけに、声が少しばかり掠れている。 「なんだよ急に」 ベッドの背もたれに背を預け、片足を立てている男もまた、一糸纏わぬ姿をしていた。なだらかに隆起する逞しい筋肉が、頼りない照明にくっきりと影を刻んで、嫌味なほど美しく浮きあがって見える。 「思いだしていたんだよ。君が小学生だった頃のことをさ」 ふっと笑った肉厚な唇から、煙草の煙が吐きだされた。その大人びた仕草に、思わずドキリとさせられる。 (あれから十年、か) その歳月は花京院を二十七歳という、いい歳をした大人の男に変えていた。大学を出て、それなりに名の知れた企業に勤め、仕事に追われながらも充実した日々を送っている。 花京院は怠い身を起こし、承太郎の肩にもたれながら、長い指に挟まれた吸いかけの煙草を取り上げた。 「あんなに小さかった君が、今では立派な高校生だ。来年の春には大学生になる。とはいえ、まだこんなものを吸っていい歳じゃあないがね」 腕を伸ばし、サイドテーブルの上に置かれた灰皿に、煙草を押し付ける。承太郎は少年らしい丸みを失った頬で小さく笑うと、低い声で「やれやれ」と言った。 「おれもいっぱいいっぱいだったんだぜ。大好きな典明お兄ちゃんを独り占めしたくてよ」 「ノォホホ! その大きななりと低い声で言われてもなあ」 つい可笑しくて肩を震わせながら笑うと、身体の奥のあらぬ場所に違和感を覚えた。さっきまで承太郎の熱を咥え込んでいたそこは、その味を忘れられずに熱を持ったままだった。 「ぼくらはすっかり爛れてしまったみたいだ」 「これでも純愛を貫き通してるつもりなんだぜ」 「素っ裸でよく言うよ」 最初は信じられなかった。承太郎が、高校生だった花京院にそんな感情を抱いていたなんて。 「初恋なんてよ、あの頃はそんな自覚なんかなかったぜ。ただてめーの気を引きたくて、必死だった」 今でもよく覚えている。バレンタインにヤキモチを妬いた承太郎と、ふたりでバカみたいに泣き喚いた、あの時のこと。 「ぼくは小学生の男の子に、まんまと振り回されていたというわけだ。まさか君が、ぼくに恋をしていたなんてなあ」 「第一印象から決めてたぜ」 「ぼくは弟のように思っていたよ」 「それが今では?」 承太郎の長い腕が、花京院の肩を抱いて引き寄せる。花京院は答えの代わりに、その頬に音を立ててキスをした。 高校二年生までは順調に伸びていたはずの身長がパタリと止まり、承太郎にすっかり越されてしまったのは、いつだったろう。その頃に気持ちを打ち明けられて、ずっと頑なに拒んでいたはずが、気づいたら絆されたように恋に落ちていた。 今はなんの疑問も抱くことなく、この腕に全てを委ねてしまっている。主と召使いの関係から、恋人同士に。 「花京院」 低い声に名前を呼ばれると、あの少女のように甲高かった幼い声が、記憶の中で輪郭を失くす。大きくてまん丸だった瞳も、リンゴのようだった赤い頬も。可愛くてどうしようもなかったはずなのに、今はその面影だけを残して、花京院の胸を熱く焦がすものへと、変わってしまった。 花京院が微笑みながらその首に腕を回すと、逞しい両腕が腰に回って抱き返される。あんなに小さな身体だったはずなのに、今ではこうしてしがみつくのがやっとだった。 (とても不思議な気分だ。だけど) あの頃となにひとつ変わらないものもまた、花京院の中には確かに存在している。それは。 「ずっと君が一番だよ、承太郎。今も、昔も」 深く唇を重ね合わせながら。冬空のした、柿の木の根元で生えかけの歯を覗かせた小さな王様が、笑顔で手を振る姿が見えたような気がした。 ←戻る ・ Wavebox👏
あれはまだ小学校に上がる前だったから、花京院が五つかそこらの頃だ。親戚夫婦が生まれたばかりの乳児を抱いて、家に遊びにやってきた。
その子は母親の腕の中で、静かな寝息をたてていた。桜色の肌がお餅のように柔らかそうで、ふんわりとした甘いミルクの匂いがしたのを覚えている。
触ってもいいと言われ、花京院はドキドキと胸を跳ねさせながら、その小さな生き物に幼い指先を伸ばしてみた。恐る恐る、起こさないように、優しく、優しく。丸い頬に、そっと。けれど触れる寸前、目を覚ました赤ん坊が、急にぐずりはじめてしまった。
その顔はみるみるうちに真っ赤になった。鼻の頭に皺を寄せ、いよいよ甲高い声をあげて泣きだしてしまう。花京院はその光景にショックを受けて、石のように固まって動けなくなった。
赤ちゃんが泣いてしまったのは、ぼくがほっぺたに触ろうとしたからだ。せっかく気持ちよく眠っていたのに、邪魔をしようとしたから。きっと嫌われてしまったのだと、そう思うと怖くて悲しくて、とても悪いことをしてしまったのだと感じた。
以来、花京院は自分よりも小さな子供と触れ合うことに、どうしても不安を覚えるようになってしまった。決して忘れられない、心の傷が残ってしまったのだ。
*
(ああ、またホリィさんがいらしてるのか)
十二月の初め頃。学校から帰宅すると、廊下の向こうから賑やかな笑い声が聞こえてきた。玄関には母のものとは異なる女性用の靴があり、その横には、小学生くらいの男児用スニーカーも置かれている。綺麗に揃えられた二足の靴を見て、花京院はひとつ、重たい溜息を漏らした。
ホリィとは半年ほど前、母が通い始めた料理教室で知り合ったという女性の名だ。今では頻繁に互いの家を行き来してお茶を飲むほど、親しい間柄になっている。アメリカ人だが流暢な日本語を話し、朗らかによく笑う可愛らしい人だった。
ホリィには承太郎という名の、小学二年生の息子がいた。目鼻立ちが息を飲むほど整った、エメラルドの大きな瞳を持つ美少年だ。物静かで行儀のいい承太郎のことを、母がえらく気に入っていて、よくホリィに連れられて家へ遊びにやってくるのだが。
(ホリィさんだけなら、大歓迎なんだけどな)
子供はどうしても苦手だ。幼い頃のトラウマは、高校生になった今でも薄れることなく、花京院の中に爪痕を残していた。
失礼だとは思うが、今は顔を出さずに部屋へあがることにして、帰宅するタイミングを見計らって軽く挨拶をしよう。そうと決めてしまうと、花京院は足音を立てないよう、静かに自室がある二階への階段をのぼった。
*
自室に入ると、机に置いた鞄の中から教科書やノートを取り出す。ホリィたちが帰るまではまだ時間もあるだろうし、軽く明日の予習でもしようと考えたからだ。すると一緒くたになって一冊の雑誌が飛び出し、絨毯張りの床に落下した。
「あ」
花京院は小さく声をあげ、それから辟易とした息を漏らした。表紙がよれよれになっているそれは、いわゆるエロ雑誌というものだ。もちろん、花京院の所有物ではない。クラスの男子たちが回し読みしたものを、たまたま近くの席にいたというだけで、強引に押し付けられてしまったのだ。
正直、花京院はこの手のものに、あまり興味がなかった。手に取ろうと思ったことすらない。ましてや複数の男子生徒が回し読みをしたものなんて、不潔に思えて触れることすら躊躇われる。
しかし放置しておくこともできず、花京院は溜息をつきながら雑誌を拾った。見たくもない表紙が、嫌でも目につく。そこには水着姿の女性が、尻を突きだすようにしながら座り込んでいる姿が写っていた。
「うわ」
思わず顔を赤らめ、慌てて目を逸らす。こんなものは目の毒だ。破廉恥すぎる。だいたい、まだ十七歳の高校生が見ていいものではない。男子って最低。よく女子が口にする言葉の中に、自分が含まれているかもしれないと思うだけで、嫌な気分だ。
(早く捨てよう。こんなもの)
けれどその内心の声とは裏腹に、花京院は横目でチラリと、再びいかがわしい表紙を視界に入れる。なぜかさっきからずっと顔が熱かった。心臓もドキドキと高鳴っているし、落ち着かない気分だ。ダメだダメだと思いつつ、そのままパラパラと雑誌をめくってみる。が、すぐにいたたまれなくなって目を逸らし、机に放り投げた。やっぱり無理だ。こんなもの、自分にはまだ早すぎる。
けれど十七歳の身体は、肌色成分に対してあまりにも純粋で、あまりにも素直な構造になっていた。
「ッ……!?」
気がつくと、身体の中心に違和感を覚えていた。やけに熱くて、窮屈だ。花京院は自分の身体に起こった変化に青褪め、それから、茹蛸のように真っ赤になった。
(ど、どうしよう……なんてことだ……)
呆然とした顔で、ベッドの縁に腰を沈める。身体を丸めるようにしながら頭を抱えた。
自慰の経験は、ほとんどない。普段、あまりしたいとも思わなかった。なのに今はこの有様で、花京院は焦りを覚えながらも、怖々と自分の股間に指先を這わせた。
どうせこの部屋には、自分一人だ。こんな状態でいるよりは、事務的にでもさっさと鎮めてしまった方がいいに決まっている。自分に言い訳をしながら、ベルトを緩めて前を寛げた。必要最低限、触れる機会のない熱の塊を取り出して、そっと握り込んでみる。
「ッ、ぁ」
慣れない感覚が、そこからじわりと這い上がる。おかしな声が漏れてしまう唇を片手の甲で塞ぎ、顔を背けながら目を閉じた。ぎこちない手つきで、自身を慰める。
「んっく、ふ……ぁッ」
頭がぼうっとして、息があがる。これが快感であるかどうかの判断はまるでつかなかった。けれど、やけに熱くて甘い痺れがじんわりと這い上がって、溢れでてくる。
(ああ、ぼくはなんてはしたない真似を……)
意識の片隅で自分を責める。これはとても悪いことだと。性器からは先走りの密が滲みはじめ、鈍い水音まで響きだすと、いよいよ罪悪感から涙が滲んだ。
(下にはお客さんがいるっていうのに!)
こんなのは自分じゃない。早く。早く、終わらせないと。
声がしたのは、そのときだった――。
「なにやってんの?」
「ッ?」
瞬間、花京院は竿を握りしめたまま、ピタリと凍り付いた。
(……へ?)
声。気のせいだろうか。いま、確かに誰かの声が……。
「なあってば、聞いてんの?」
ギ、ギ、ギ、と、錆びたネジを回すように首を動かし、声のした方へ視線を巡らせる。そこにはベッドの下から俯せた上半身を覗かせ、頬杖をついた子供が、こちらを見上げる姿があった――。
「う、うわあああああッ!?」
花京院は咄嗟に悲鳴をあげていた。頭から水を浴びたような感覚に、当然、熱は冷めて萎んでしまう。一瞬でベッドの端まで移動して、壁に身を寄せる花京院を、下から這い出した少年のつぶらな瞳が、不思議そうに見つめていた。
「な、なんっ、なんでッ、き、きみ、ここ、ここにッ!?」
あまりの出来事に、上手く言葉が出ない。なぜここに彼が――承太郎がいるのだろう。一体いつから、見ていたのだろうか。頭の中はすっかりパニックを起こしていた。彼は青いパーカーにジーンズ姿で、ベッドの縁を両手で掴み、シーツにちょこんと顎を乗せながら口を開いた。
「おばさんが、ヒマなら上の部屋で遊んでていいって」
「おばっ、お、おばさ、か、母さん、が?」
「うん。だから、かくれんぼして遊んでたんだぜ」
まだ少女のような高い声が、平然と言う。なら承太郎は、最初からこの部屋の、ベッドの下に潜んでいたということか。
花京院はショックのあまり青褪めて、ただ身体を震わせるしかできなかった。よりにもよって、なんて姿を見られてしまったのだろう。穴があったら入りたい。いっそのこと消えてしまえたら、どんなにいいか。
承太郎がベッドの上によじ登ってきた。思わず横向きに身体を丸め、これでもかというほど壁に身を寄せる花京院の目の前に、ぺたりと座る。小学二年生というだけあって、小さな身体だと思った。驚くほど長い睫毛がくるんとカールして、宝石のような丸い瞳が、星のように瞬いている。
「今の、もしかしてすごくワルイこと?」
「ッ……!」
「ちんちんさわって、ヘンなこえ出してた」
「いいい、言わないでッ! 頼むから、いま見たことは誰にも言わないでくれッ!!」
思わず頭を抱え、叫んでいた。どっと汗を噴きだし、すっかり小さく丸まってしまった花京院を見て、承太郎は「ふぅん」と微かに唸る。そしてすぐに「いいよ」と言った。
「ほ、本当に!?」
承太郎は頷き、それからにんまりと意地の悪そうな笑顔を浮かべた。とてつもなく嫌な感じがする。花京院は目を見張り、緊張から喉を鳴らして承太郎を見た。彼は胡坐をかき、腕を組むと、まるで見下すように顎を突きだして踏ん反り返った。そして、こう言ったのだ。
「おれのいうことをなんでもきく、召使いになるって約束するならな」
*
悪夢の一件から、一ヶ月ほどが経過した。
その間、花京院は承太郎の召使いとしての生活を、余儀なくされていた。
馬になれと言われれば四つん這いになり、背中に乗られながらひたすら部屋中を這いつくばる。手綱代わりに髪を引っ張られることもあったし、お菓子やジュースを買いに行けと言われれば、大急ぎで近所のコンビニやスーパーに駆けこまなくてはならなかった。それはもちろん花京院のポケットマネーから出す決まりになっていて、回を重ねるごとに財布事情が圧迫される。おかげで、子供の頃からコツコツと貯めてきたお年玉などの貯金を、切り崩す羽目になっていた。
承太郎はホリィ抜きでも家に遊びに来るようになったし、花京院を自宅に呼びつけるようにもなった。平日も休日もお構いなしに駆り出され、時には宿題までやらされる。少しでも嫌な顔すると、すぐに「あのことバラすぜ」なんて冷やかな目で言われ、その度に花京院はゾッと青褪めた。
腹が立つのは、承太郎の二重人格ともいえる態度だ。花京院の母や、ホリィの前では絵に描いたように素直で従順なふるまいを見せるし、笑顔は天使そのものだった。それに比べて、花京院にはぶっきらぼうで偉そうな態度しか見せない。正直、憎たらしくて仕方がなかった。
一体いつまでこんな日々が続くのだろう。小学生に脅され、いいように顎で使われているなんて。ただでさえ子供は苦手で、関わり合いを持つのは嫌だというのに。
*
その日も学校から帰宅すると、母から承太郎が遊びに来ていることを告げられた。げんなりする息子を他所に、母はウキウキとした様子で「裏庭で遊んでると思うわ」と言い、お茶とお菓子の準備をしていた。
花京院は嫌々ながらも、その足で裏庭へ向かった。すると寒空のしたで、承太郎が柿の木にしがみつきながら、頭上を見上げる姿があった。
「承太郎くん、こんにちは」
黒いダッフルコートに青いマフラーをして、すっかり着ぶくれしている承太郎は、花京院の声にハッとして振り向いた。
「おそいぞ、花京院」
ムッとした顔で睨み上げてくる少年に、花京院は「はいはい申し訳ありませんでした」と言いながら、溜息を漏らす。母親たちの前では「典明お兄ちゃん」なのに、ふたりきりになるとこれである。
「それよりどうしたんだい、熱心に柿の木なんて見上げて」
庭の片隅にある柿の木は、花京院の祖父が子供の頃に植えたというもので、それは大きくて立派なものだった。毎年、秋になるとたわわに果実を実らせるが、真冬の今となっては裸ん坊で、葉っぱひとつない寂しいものだった。承太郎が難しい顔をして、幹にしがみついたまま天辺を見上げるので、花京院もその視線を追いかける。するとそこには――。
「あれは……子猫?」
黒くて小さな塊が、そこから動けず枝にしがみついているのが見える。ミィミィという不安そうな鳴き声が聞こえた。
「あいつ、おりられなくてさっきから泣いてる。すぐに助けてやらないと……」
真冬の冷たい風が吹く度に、子猫は不安定に揺れる枝に小さな爪を立てて震えていた。
「ちょっと待ってて。いま物置から脚立を」
「あッ! おちるッ!!」
承太郎が真っ青な顔をして、大きな声を上げる。子猫が枝から後ろ足を滑らせ、宙づりの状態になっていた。これでは落下するのも時間の問題だ。
花京院の家の裏側は、ちょうど細長く続くコンクリート水路の堀に面している。子猫がぶら下がっている枝は、運悪く掘り側に張り出している部分に近かった。
「承太郎くん、危ないから下がってて」
「で、でも」
「いいから!」
危険だが、一刻を争う事態にのんびりとはしていられない。花京院は承太郎がおずおずと後退していくのを横目に、柿の木に手をかけ、大きく枝分かれしている部分に足をかけた。何度か強度を確かめて、素早く一気によじ登っていく。承太郎が両手を胸元で握りしめながら、不安そうに見守っていた。
「大丈夫だよ、ほら、いい子だね」
花京院はある程度の位置まで登ると、ぶら下がって甲高い声を上げる子猫に片手を伸ばした。暴れられたら終わりだと思ったが、子猫は大人しくその丸々とした腹を、花京院の掌に掴ませる。枝から剥がすようにして、胸に引き寄せた。しかしホッとしたのも束の間、次の瞬間。
「ッ……!」
「花京院ッ!!」
足を引っかけていた枝が、体重に耐えきれなくなって派手に折れてしまった。承太郎が悲鳴じみた声を張り上げて、花京院を呼ぶ。それを遠くに聞きながら、子猫を抱いたまま一気に飛び降りて、着地した。
「ふぅ、危なかった」
一瞬ヒヤリとしたが、子猫も自分も無事だった。青い顔をしたまま立ち尽くしている承太郎にふと笑いかけ、傍に歩み寄ると子猫を差し出す。
「ほら、もう平気だよ」
承太郎の腕に抱かれると、子猫は大きな金色の瞳で小首を傾げ「ミィ」と可愛らしい声でひと鳴きした。
「柿の木は、枝が脆くてとても折れやすいんだ。だからこういうときは、自分でなんとかしようとしないで、必ず誰か大人の人を呼ばなくちゃあいけないよ」
承太郎はおそらく、あのまま花京院が来なかったら、自分で木に登るつもりだった。運よく間に合ったからいいものの、あと少し遅ければ、子猫と一緒に堀に落ちていたかもしれない。そんな承太郎は柿の木の脆さを初めて知ったようで、青褪めていた顔を真っ白にしながら、小さく震えだした。
「ケガ、は」
「ん?」
「ケガは……?」
「ああ、大丈夫。ほら、子猫なら」
「ちがう。こねこじゃなくて」
「……え? ぼく?」
承太郎は両手で子猫を抱きしめながら、こくりと頷いた。その表情を見て、花京院は驚きに目を見開く。大きなエメラルドの瞳が、みるみるうちに透明な膜に覆われ、雫が目尻に溜まっていった。薄紅の下唇が噛み締められるのを見て、心臓がドキリと跳ねる。子猫が鳴いた。幼い頃に聞いた赤ん坊の泣き声が、その声と重なって焦りと不安が込み上げる。
「じょ、承太郎くん」
花京院は思わず承太郎の頬に手を伸ばした。指先があと少しで触れるというところで、戸惑う。あの赤ん坊は、自分が触れようとしたら泣いてしまった。だけどこの子は、いま自分が触れなければ、泣いてしまう。
(本当はこんなに、優しい子だったんだ)
てっきり嫌われているものとばかり思っていた。猫かぶりで、生意気な子供だと。けれどこの少年は今、一歩間違えれば怪我をしていたかもしれない花京院のために、こんなにもか細く身を震わせている。
雫が零れ落ちる寸前、花京院は人差し指の甲でその目尻を拭った。さらに膝をつき、向かい合うと真っ赤になった頬を両手で包み、親指で何度も何度も目尻を拭う。
(触れた)
承太郎は花京院の手を拒まなかった。すんと鼻を鳴らして、濡れた瞳で真っ直ぐに見つめてくる。あのときも、こんなふうに触れたかったのだ。自分よりも小さな存在に、ただ愛しさを覚えただけだった。泣かせたくなんか、なかった。
(……可愛い)
純粋に、そう思った。掌に感じる高い体温に、胸が締め付けられる。赤くなった頬がリンゴのようで、餅のようにすべすべとして、柔らかかった。
「ぼくも平気さ。どこもケガなんかしてない」
「……ほんとに?」
承太郎の涙が引いていくのと一緒に、花京院の中にあり続けた氷柱のようなトラウマが、少しずつ溶けていく。自然と綻ぶような笑顔が浮かんで、瞬きと一緒に頷いて見せた。
「ほんとに。嘘なんかつかないよ。だから泣かないで」
そう言うと、承太郎は赤かった頬をさらに赤くして、ムッとした表情を浮かべ「泣いてない」と強がった。それがまたどうしようもなく可愛らしく思えて、花京院はついクスリと笑ってしまう。承太郎が、いよいよ耳まで赤くなった。
「め、召使いのくせに、なまいきだぞ!」
「ノォホホ、ごめんよご主人様」
そのとき、ずっと承太郎の腕に抱かれていた子猫が、勢いよく飛び出して地面に着地した。あ、と揃って声をあげるふたりを振り向きもせずに、どこかへ走り去ってしまう。
「ねこ、迷子にならない?」
承太郎が、不安そうにその方向を見つめる。
「大丈夫。きっとお母さん猫のところへ帰ったんだよ」
花京院の言葉に、承太郎は「そっか」と呟きながら、ホッとしたように白い息を漏らした。
「さあ、ぼくらも家に戻ろう。風邪をひかないうちに」
そう言って立ちあがり、ごく自然に差し出した手に、承太郎の小さくて温かな手が触れた。そっと握りしめてやりながら、花京院は自分でも驚くほど優しい気持ちになっていることに気がついた。なんとなく、これからこの少年とはもっと仲良くなれるような、そんな予感に胸を弾ませながら。
*
二月ももうじき中旬というころ、花京院と承太郎の関係は大きく変化を遂げていた。
きっかけは、やはりあの柿の木と子猫の一件だった。あれ以来、承太郎は花京院に対して無邪気で明るい笑顔を見せるようになった。馬にされることはあっても髪は引っ張られないし、威張り散らしたような態度もなりを潜め、脅迫されることもなくなった。
一緒にゲームをして遊んだり、相撲中継を見たり、肩を並べて宿題をしたり。以前はパシリのような扱いを受けていたが、最近ではスーパーやコンビニに、手を繋いで一緒に買い物に行くようにもなった。
そんなふたりの姿を見て、あるときホリィは嬉しそうに、こんなことを言った。
『花京院くんが一緒に遊んでくれるようになって、承太郎ったら毎日とっても楽しそうなの。きっとお兄ちゃんができたみたいで、嬉しいのね』
それを聞いて、確かに兄弟がいたらこんな感じ、なのかもしれないと思った。少し歳の離れた、小さな弟。するとなんだかいっそう承太郎が可愛く思えてきて、前は嫌々だった時間が、日々の楽しみになっていった。全ての始まりである、あの悪夢のような出来事が、まるで夢だったかのように感じられるほど。
*
そんなある日。事件はバレンタインデーに起こった。
「好きです! 付き合ってください!」
学校帰りの道の途中、花京院は顔も知らない女子生徒に呼び止められ、告白を受けていた。
「え?」
あまりにも突然のことに、思わず目を丸くする。差し出されている、赤い包装紙にピンク色のリボンがかけられた箱と、女子生徒の顔を交互に見た。
「ずっと好きだったんです、先輩のこと」
彼女は耳まで赤くして、俯きながら言った。先輩、というワードから、一年生であることが知れる。
困ったな、と、花京院は思った。女子から告白されるのは、本日これが三度目だ。もちろん嬉しいとは思うし、光栄だとも思う。けれどその気もないのに付き合うなんて、そんな無責任で軽率な真似ができるはずもなく、前の二人も当然、丁重にお断りした。元から色恋への関心が薄い、ということもあるのだが……。
(承太郎くん、今日も学校帰りに遊びに来るんだったな)
真っ先に浮かぶのは、承太郎の顔だった。きっと今ごろとっくに来て、花京院の帰りを待っているに違いない。今の花京院にとって、あの少年と過ごす時間は何よりも楽しくて、大切なものになっていた。仮に自分に恋人と呼べるような相手ができてしまったら、今みたいに承太郎と遊ぶ時間がなくなってしまうかもしれない。それは考えられないことだった。
「すまないが……気持ちだけ、受け取らせていただくよ」
そう言うと、彼女は少し泣きそうな顔をしながらも「じゃあ、せめてチョコだけでも」と言って、笑顔を見せた。
*
帰宅すると、やはり承太郎はすでに遊びに来ていた。母から二階にいることを聞くと、すぐに部屋へあがる。
「いらっしゃい、承太郎くん」
承太郎は花京院の部屋で、ベッドの縁に腰かけて本を読んでいた。床に投げ出された黒いランドセルと、黄色い通学帽にふっと笑って、花京院はその隣に歩み寄ると腰かけた。
「なにを読んでいるんだい?」
鞄と、さっき受け取ったチョコレートの箱を足元に置きながら、問いかける。おそらく学校の図書室から借りてきたと思しき児童書。よくこうして一緒に本を読むこともあるから、ごく自然な動作で覗き込む。けれど承太郎はなにも答えず、花京院から隠すように本を閉じて、脇に放り投げてしまった。
(あれ?)
背けられた顔に、きょとんとする。最近は顔を合わせれば笑顔を見せてくれるようになっていたはずが、なぜか承太郎は不機嫌そうに顔を顰めて、なにも言おうとしない。
「承太郎くん、どうかした?」
問いかけても、返答は得られなかった。花京院は首を傾げ、何か彼の気に障るようなことをしてしまっただろうかと、思案する。しかし、これといって思い当たるものはなかった。なんと声をかけるべきか迷っていると、沈黙を経てようやく承太郎が口を開いた。
「花京院、そこに座れ」
「え? あ、はい」
小さな手が床を指さすので、花京院は戸惑いながらもベッドから下り、正座をして正面から承太郎を見上げる。彼は眉間に皺を寄せ、ぽってりとした唇をへの字に曲げていた。
「だれだ、あのアマ」
「あま?」
不思議そうに瞬きをして見せる花京院に、承太郎は眉間の皺をいっそう深くしながら睨み付けてくる。もしや、と、花京院は思った。
「君が言うアマっていうのは、ひょっとしてさっきの子のことを言っているのか?」
つい先ほど、道端で花京院に告白をしてきた一年の女子生徒。もしかして、承太郎はどこかであの光景を見ていたのだろうか。すると案の定、彼は「そうだ」と言った。
「てめーがなかなか帰ってこねえから、わざわざむかえに行ってやったのに」
承太郎は忌々しげに、足元に置かれた赤い箱を横目で睨み付ける。花京院は指先で頬を掻きながら苦笑した。
「そうだったのか。あれは、ほら……バレンタインだからね、今日は」
それよりも、迎えに来てくれていたのなら、どうして声もかけずに先に戻ってしまったのだろう。しかも承太郎がこうして不機嫌でいる理由も、さっぱり分からなかった。彼はさらにムッとした表情で、ベッドの縁から立ちあがった。
「あのアマと、こいびとになるのか」
「はあ?」
思わず素っ頓狂な声をあげた。承太郎は幼いながらに迫力のある凄んだ表情で、威圧感たっぷりに見下ろしてくる。
恋人もなにも、花京院はあの女子生徒からの告白を、きっぱりと断ったのだ。いま目の前にいる少年との時間を、何よりも優先させるために。しかしそれを言おうと口を開きかけるよりも先に、承太郎が言った。
「召使いのくせに、なまいきだぜ」
冷やかな視線と共に降ってきた台詞に、流石の花京院も少しばかり腹が立った。
「そ、そんな言い方ってないだろ? それに、いつまでも人を召使い呼ばわりするなんて」
「くちごたえすんな!」
承太郎は顔を赤らめ、肩を怒らせながら声を張り上げた。
「おれの言うことなんでもきくって、はじめに約束したはずだぜ。じゃなきゃ、おまえがここでしてたこと、ぜんぶバラす。母さんにも、おばさんにも!」
「ッ!」
思わずぐっと喉を詰まらせる。承太郎はおそらく、あのとき花京院がしていた行為の意味なんか知らないはずだ。けれどあれは、決して人の目に触れていい行いではなかった。今でも思いだすだけで死んでしまいたくなるから、なるべく考えないようにしていたのに。
みるみるうちに顔を青くする花京院に、気持ちが治まらない様子の承太郎は、なおも言った。
「おしおきだぜ、花京院」
「お、お仕置き、って……?」
無意識に声を震わせ、おずおずと視線をあげる。小さな身体で仁王立ちする少年は、大きなエメラルドの瞳を猫のように細めた。
「あのときしてたこと、今ここでやって見せな」
「……は?」
言っている意味が、わからなかった。
「ちんちんだして、やって見せろって言ってんだぜ」
「なッ……!?」
本気で言っているのだろうか。今ここで、承太郎がいる目の前で、自慰をして見せろなんて。花京院は大きく目を見開いたまま、身動きひとつすることができなかった。承太郎は蒼白な顔で肩を震わせる花京院に向かって「はやくしろ」と苛立った声で命じてくる。
(嘘だろ……そんなこと、できるわけ……)
自分よりもずっと小さな存在が、やけに恐ろしく感じられた。それは自分たちの関係が、どこまで行っても主と召使いでしかないことを知らしめているようで、ショックを受ける。
けれどここで言うことを聞かなければ、この少年は本当に誰かにあのことを言ってしまうかもしれない。母にも、ホリィにも。そんなことになったら、きっともう生きていけない。
有無を言わさぬ圧力をかけてくる承太郎に、花京院は下唇を噛み締めながら、震える指先をベルトにかける。
(ちゃんと、しないと……)
全部、バラされてしまう。だけど。
(……できない。できるわけ、ない)
花京院はそのまま、指先ひとつ動かすことができなかった。悲しいという気持ちが、胸いっぱいに溢れだす。
考えてもみてほしい。承太郎より十も長く生きているとはいえ、花京院だって、まだたったの一七歳の、未完成な少年でしかないのだ。
「ッ、ぅ」
気がついたときには、目尻から涙が溢れて頬を伝い落ちていた。何もかもが限界だ。あんな恥ずかしい場面を見られてしまったことも、それをネタに脅されることも。花京院にはもう、受け止められなくなってしまった。承太郎が、ハッと息を飲む音が聞こえる。
「お、おい……花京院?」
「どうして、こんな酷いことを……せっかく、せっかく」
仲良くなれたと思ったのに。少し我儘なところはあるけれど、優しくて可愛い、本当の弟のようだと思っていたのに。承太郎にとって花京院は、ただ自分のためだけに動く駒でしかなかったのだ。もしかしたら、それが何よりもショックで、辛いことだったかもしれない。
手の甲でしきりに涙を拭いながら、何度も肩を跳ねさせてしくしくと泣く花京院に、承太郎は驚きを隠せない様子だった。彼にしてみれば、花京院は自分よりもずっと大人で、そんな相手が子供のように泣いている姿は、あまりにも衝撃的なものだったに違いない。彼はわなわなと小刻みに震えだし、やがて見開いていた瞳を潤ませた。大粒の涙が溢れだし、花京院よりもずっと大きく、しゃくりを上げはじめる。
「うっ、うぅ……ふえ……」
「なん、で、なんで、承太郎くんが、泣くんだよぉ」
「だ、て、だって……泣くから、花京院が、泣くからぁ」
「承太郎くん、が、酷いことばっかり、言う、からッ」
ついに承太郎が声をあげて泣きだした。
「うわぁぁん! 花京院のバカ! バカやろおッ! なんで泣くんだよぉ、なんで、泣いちゃうんだよぉ!」
承太郎は口を大きく開けて、天井を見上げるようにして泣いている。よく見ると片方の八重歯が抜けて、小さな永久歯が顔を覗かせていた。花京院はそれを見て、なんて可愛いんだろうと思った。可愛くて、だけど悲しくて、なぜかもっともっと、涙がでてくる。花京院は混乱していた。承太郎も、混乱していた。
「う、うぅッ、ひ、ひっく、泣くなよ、泣くなってば、かきょ、花京院、泣いたら、ひっ、く、うえぇ」
「ぼくだって、うぅ、ヒック、承太郎くん、ぼくだって……泣かせたく、なんか、う、うう、ぅッ」
わっ、と、ふたりして声をあげて泣いた。なにがなんだか、もうさっぱり訳が分からないまま。
*
枕元を照らす暖色系のライトが、緩やかな波型の線を描く煙を、室内に浮き上がらせていた。
「君って、好きな子はイジメたいタイプだったんだなあ」
花京院は裸体を俯せに横たえ、シーツの海に溺れながら気だるげに前髪を掻き上げた。散々啼かされた後だけに、声が少しばかり掠れている。
「なんだよ急に」
ベッドの背もたれに背を預け、片足を立てている男もまた、一糸纏わぬ姿をしていた。なだらかに隆起する逞しい筋肉が、頼りない照明にくっきりと影を刻んで、嫌味なほど美しく浮きあがって見える。
「思いだしていたんだよ。君が小学生だった頃のことをさ」
ふっと笑った肉厚な唇から、煙草の煙が吐きだされた。その大人びた仕草に、思わずドキリとさせられる。
(あれから十年、か)
その歳月は花京院を二十七歳という、いい歳をした大人の男に変えていた。大学を出て、それなりに名の知れた企業に勤め、仕事に追われながらも充実した日々を送っている。
花京院は怠い身を起こし、承太郎の肩にもたれながら、長い指に挟まれた吸いかけの煙草を取り上げた。
「あんなに小さかった君が、今では立派な高校生だ。来年の春には大学生になる。とはいえ、まだこんなものを吸っていい歳じゃあないがね」
腕を伸ばし、サイドテーブルの上に置かれた灰皿に、煙草を押し付ける。承太郎は少年らしい丸みを失った頬で小さく笑うと、低い声で「やれやれ」と言った。
「おれもいっぱいいっぱいだったんだぜ。大好きな典明お兄ちゃんを独り占めしたくてよ」
「ノォホホ! その大きななりと低い声で言われてもなあ」
つい可笑しくて肩を震わせながら笑うと、身体の奥のあらぬ場所に違和感を覚えた。さっきまで承太郎の熱を咥え込んでいたそこは、その味を忘れられずに熱を持ったままだった。
「ぼくらはすっかり爛れてしまったみたいだ」
「これでも純愛を貫き通してるつもりなんだぜ」
「素っ裸でよく言うよ」
最初は信じられなかった。承太郎が、高校生だった花京院にそんな感情を抱いていたなんて。
「初恋なんてよ、あの頃はそんな自覚なんかなかったぜ。ただてめーの気を引きたくて、必死だった」
今でもよく覚えている。バレンタインにヤキモチを妬いた承太郎と、ふたりでバカみたいに泣き喚いた、あの時のこと。
「ぼくは小学生の男の子に、まんまと振り回されていたというわけだ。まさか君が、ぼくに恋をしていたなんてなあ」
「第一印象から決めてたぜ」
「ぼくは弟のように思っていたよ」
「それが今では?」
承太郎の長い腕が、花京院の肩を抱いて引き寄せる。花京院は答えの代わりに、その頬に音を立ててキスをした。
高校二年生までは順調に伸びていたはずの身長がパタリと止まり、承太郎にすっかり越されてしまったのは、いつだったろう。その頃に気持ちを打ち明けられて、ずっと頑なに拒んでいたはずが、気づいたら絆されたように恋に落ちていた。
今はなんの疑問も抱くことなく、この腕に全てを委ねてしまっている。主と召使いの関係から、恋人同士に。
「花京院」
低い声に名前を呼ばれると、あの少女のように甲高かった幼い声が、記憶の中で輪郭を失くす。大きくてまん丸だった瞳も、リンゴのようだった赤い頬も。可愛くてどうしようもなかったはずなのに、今はその面影だけを残して、花京院の胸を熱く焦がすものへと、変わってしまった。
花京院が微笑みながらその首に腕を回すと、逞しい両腕が腰に回って抱き返される。あんなに小さな身体だったはずなのに、今ではこうしてしがみつくのがやっとだった。
(とても不思議な気分だ。だけど)
あの頃となにひとつ変わらないものもまた、花京院の中には確かに存在している。それは。
「ずっと君が一番だよ、承太郎。今も、昔も」
深く唇を重ね合わせながら。冬空のした、柿の木の根元で生えかけの歯を覗かせた小さな王様が、笑顔で手を振る姿が見えたような気がした。
←戻る ・ Wavebox👏