2025/08/13 Wed ――花京院くん。 花京院くん、花京院くん。 花京院くん、花京院くん、花京院くん。 花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん。 「かきょういんのりあきくん」 唇だけを動かして、何度も何度も名前を呼んだ。 そのたびに、心も身体も甘く蕩けてしまいそうだった。 「花京院くん……花京院、典明くん、の、のり……典明」 僕は一枚の写真を手にすると、それをテープで壁に貼り付けた。 小さなデスクライトだけに照らされた狭い部屋は、彼の写真で溢れかえっている。 天井も窓も、扉でさえも、その爽やかな笑顔に埋め尽くされていた。 この部屋にいると、まるで彼の優しい腕に包み込まれているようだ。 典明、典明、典明。かきょういんのりあき。 ああ、なんて麗しい響きだろう。 この世の綺麗なものを全て詰め込んだら、きっと彼のような人間ができあがる。 誰よりも美しくて、可愛くて、心優しい男の子。 彼は僕の全てで、僕の天使だ。神様が遣わしてくれた、僕だけの天使。 僕は彼を心から愛しているし、彼も、僕を深く愛してくれる。 「もうすぐの辛抱だからね。すぐに一緒になれるから」 僕はまだまだたくさんある写真の束から、一枚を取り出すと彼の笑顔に口づけた。 「愛してるよ、僕の典明」 * 花京院典明との出会いは、小林がこの高校に国語科の非常勤講師として勤務して、間もなくのことだった。 「うわ、なんか変な臭いすると思ったら、小林じゃん」 休み時間、次の授業で使う教材やプリントを抱えて廊下を歩いていると、擦れ違いざまに女子生徒の吐き捨てる声が聞こえた。 「ほんとだ、なにあの七三……今日もテッカテカじゃん。薄いし?」 「あのベージュのスーツ、いっつも着てない? よれよれだし、変な臭いするし」 「前の先生の方がよかったなー。なんでよりによって、あんな豚みたいなダサ男が来ちゃうのよ」 「しょーがないじゃん、産休だもん。だからってあんなのマジ勘弁だけどさぁ」 身を寄せ合い、こそこそと耳打ちし合っているようでいて、その声は全く潜められていない。小林はそれらを、背中を丸めるだけで聞こえないふりをした。 こんなことにいちいち反応するのはバカげているし、臭いだのなんだの、そんないわれなき中傷を受けることには慣れている。確かに自宅では給湯器がだいぶ前に壊れてしまったせいで、入浴は週に一度か二度、近場の銭湯で済ませる程度だった。だからわざわざ気を使って、休み時間の度にこれでもかというほど制汗剤を噴きかけているのだ。 (頭の悪い人間というのは、鼻の機能までおかしくなっているんだ。そうに決まってる。臭くて小汚い豚はお前らの方だ) 「ッ、と! あぶねーな! 前見て歩けよこのグズ!」 「!!」 そのとき、柄の悪い男子生徒が小林の肩にぶつかってきた。女子生徒たちの言葉に気を取られていた小林は、その衝撃で派手に転倒してしまう。身体を床に打ち付け、腕に抱えていたものを全て、散乱させてしまった。 「うぇ……ッ」 小林は呻きながらも慌てて身を起こし、膝立ちになると、散らばってしまったものへ手を伸ばす。けれど廊下を行き交う生徒たちが、プリントや教材を平然と踏みつけていくのを見て、硬直した。 次から次へと踏みつけられ、やがて白かったはずのプリントは、薄汚れた紙屑になる。 まるで今の自分を見ているような気分。けれど、それを認められるほど小林のプライドは低くない。 「見ろよあれ。どんくさ」 石のように動けないでいる小林に、幾つもの視線と囁き声が浴びせられた。この場にいる全員が、自分をバカにした目で見て、ケラケラと笑っている。 小林は込み上げる憎しみに、奥歯を強く噛み締めた。どっと汗が噴きだして、鼻息が荒くなっていくのを感じる。下膨れたような顔が赤く染まり、縁のない眼鏡が、どんどん曇った。 今すぐここにいる連中を殴り倒し、引きずりまわしてやれたらどんなに気が晴れるだろう。だけどそれをしないのは、自分が教師であり、大人だからだ。集団に向かっていくのが怖いわけでは決してない。自分が本気を出せば、こんな奴ら……。 けれどそんな小林の目の前に、『天使』は突然、舞い降りた。 「大丈夫ですか?」 澄んだ朝の空気のように、凛とした美しい声がかけられる。 床に固定されていた小林の視界に、白く繊細な手が滑り込んできて、靴跡だらけの教材やプリントを拾い上げた。やがて元通り一つにまとめられた束が、目の前に差し出される。 ゆらゆらと顔をあげた小林は、そのすみれ色に輝く宝石のような瞳に魅入られた。 (天使……?) そこには桃色がかった赤い髪をふわりと揺らし、少し困ったように眉を下げた天使が、優しく微笑んでいた。ゴミばかりが集まる吹き溜まりのような世界で、彼だけが色鮮やかに小林の視界を彩る。 「花京院くんって、優しいしイケメンだよね」 「うんうん、紳士的で、王子様って感じがする♡」 「あんな豚にまで親切だなんて、ほんと超ステキ~!」 周りの声など、もう小林には遥か遠くの雑音にしか聞こえない。目の前の天使にぼうっと見惚れたまま、のろのろと立ちあがって差し出されたものを受け取った。一瞬だけ触れ合った指先から、熱いものがじわじわと広がっていく。 「では、ぼくはこれで」 ありがとう、の言葉さえ、喉奥に何かが詰まったように音にならず、ただの低い呻きになってしまう。それでも天使はにこりと笑って、軽く頭を下げると教室へ消えて行った。 気がつくとチャイムが鳴り、小林は静まり返った廊下にぽつんと佇んでいた。すみれ色の瞳と間近で目を合わせた、あの瞬間のまま時が止まったようだった。 (天使が現れた……あれは、神様からの贈り物に違いない……僕だけの、天使だ) 小林は確信した。 きっと彼も自分と目を合わせた瞬間、恋に落ちただろう。なぜなら自分たちが出会い、惹かれることは、神がさだめた運命だから。絶対そうに違いないと。 * その日から、小林の人生はガラリと変わった。 なにせ36年間も生きてきて、初めての『恋人』を得たのだから。色褪せた毎日が、まるで薔薇色の輝きを帯びたように煌めいて見えた。花京院のことを思うだけで胸が甘く締め付けられて、空を飛んでいるようなふわふわとした気分になる。そして、愛し愛されているという充足感が、小林を包み込んだ。 けれど浮かれてばかりもいられないのが現実でもあった。自分たちの恋には、障害が多すぎる。花京院はまだ17歳で、子供の域をでないばかりか、小林にとっては教え子である。 学校で彼だけを特別扱いするわけにはいかないし、自分たちの関係を周りに知られるのは、ちょっと不味い。非常勤とはいえ、ようやくありつけた今の立場を失うわけにもいかないのだ。 彼もそれを理解しているのか、学校で顔を合わせても礼儀正しく挨拶をしてよこすだけで、不満を顔に出すことすらしなかった。 なんていじらしいのだろう。本当は片時も離れず、自分の傍にいたいだろうに。健気な天使を思うたび、小林の胸は熱く震えた。だからせめて、その寂しさを少しでも埋められるようにと、彼の自宅に花束や手紙を送った。差出人を書かずとも、彼ならすぐに分かってくれるはず。 それでも小林の中で罪の意識が消えることはなかった。こんなものでは足りない。自分の心遣いが、むしろ花京院を切なくさせているに違いなかった。 だからこっそりと、授業のあいだ席につく彼のひと房だけ長い前髪を、通りすがりにスルリと撫でてやった。柔らかな癖毛が羽根のように掌を掠める瞬間、彼はビクリと肩を震わせ、何事もなかったかのように通り過ぎる小林に、物言いたげな視線を向けてくる。 そうやって彼があまりにも喜ぶものだから、授業中はいつも他の生徒の目を盗んで、ささやかなスキンシップをはかってやることにした。 花京院への思いは、日増しに強くなっていった。 いつでも自然体の彼を感じていたくて、小林は暇さえあれば学校中で花京院の姿を探し、こっそりと小型カメラにおさめた。休み時間の何気ない一コマや、体育の時間など。 彼は誰にでも分け隔てなく親切で、いつも柔らかく微笑みながら接していた。その度に、小林の胸は引き裂かれるように痛むのだ。 本当ならあの笑顔も、優しさも、全てこの自分にだけ向けられるべきもののはず。花京院もまた、それを望んでいるに違いないのに。早く時が過ぎればいいのにと思った。ふたりだけの世界で、互いだけを見つめて、たっぷりと愛し合いたい。 けれど今は耐えるときだ。花京院が高校を卒業して、教師と生徒という関係から解放されるまでは。 しかし小林には、ひとつだけ気がかりなことがあった。 それは花京院の交友関係についてだ。 誰に対しても温和に接する彼だが、クラスや同じ学年に特別親しい人間はいないようだった。だがそれはいい。小林がどうしても気になって仕方がないのは、花京院がよく休み時間や学校の登下校を共にしている、ひとつ上の学年に在籍する生徒の存在だった。 空条承太郎。 JOJOという渾名で呼ばれる彼は、教師ですら手に負えないほどの不良として、あまりにも有名だった。聞けば一時期はケンカ相手を病院送りにしたり、気に入らない店では平気で無銭飲食をするなどして、警察沙汰に発展するまでの騒ぎを起こしていたという。 花京院はこのJOJOという札付きの悪に、すっかり目をつけられている様子だった。 こいつはやたらと勘が冴えているようで、小林が遠目からカメラを構えると、必ず察知したように辺りを見回す。そしてさりげなく花京院を、その大きな身体の影に隠してしまうのだ。 おそらく、花京院はあの不良になにか弱みでも握られているに違いない。でなければ、あの品行方正な麗しの天使が、あんな人間のクズと行動を共にするはずがないのだから。きっと誰も見ていないところで金銭を要求されたり、最悪もっと酷い目に遭っている可能性だってある。 どうにかしなければと考えた小林は、比較的話しやすそうな男性教諭にさりげなく近づいて――こいつは生徒からの評判があまりよくない――承太郎と花京院について訊ねてみた。すると、返ってきたのは意外な答えだった。 「ああ、JOJOですか。あれはとんだ不良でしたよ。入学早々、上の学年と派手にやらかしましてね。それで箔がついたのか、めきめき頭角を現してあっという間に番長ですよ。だけどねえ、今じゃあ大人しいもんです。ありゃあ花京院の影響じゃないかってね、教師連中みんな言ってますよ。いつの間に仲良くなったか知りませんがね、花京院とつるむようになって、学校をサボることもほとんどなくなりましたからなぁ。このまま卒業してくれるなら、こっちとしては大助かりですよ」 悪さはしなくなったが、番長として未だに名を馳せているため、それが逆にいい意味で抑止力になっている。だから下手に騒ぎを起こす不良もおらず、そして他校の生徒も手を出してこない。花京院様様です、などと言って笑う教師に、小林は媚びた愛想笑いを浮かべながら、腸が煮えくり返っていた。 それではまるで生贄ではないか。脅されて、仕方なく傍にいるに違いないのに、なぜ誰も気がつかないのだろう。 絶対に許せないと思った。そして、彼を守れるのはこの自分だけだとも。 気持ちだけは、今すぐあの不良に掴みかかり、花京院を救いだしてやりたかった。しかし、あの二メートル近い大男とやり合って、万が一自分に何かあれば、花京院を悲しませることになってしまう。それだけは絶対に避けて通りたかった。 別にあの不良が怖いわけではない。図体ばかりが無駄にデカいというだけで、どうせ見掛け倒しに決まっている。しかし今は体罰がどうとか、何かと面倒な世の中でもあるし……。 とにかく、何かできることはあるはずだ。小林は考えた。そして決断した。この自分になら、その辛さを少しでも和らげてやることができるはずだと。 以来、小林は放課後、何かにつけて花京院を準備室へ呼び出し、翌日の授業の準備に加え、本や書類の整理を手伝わせる機会を設けた。花京院は嫌な顔ひとつせず、むしろ待ちわびていたかのように小林の目には映った。 自分の立場を十分に理解している花京院は、必要以上に口をきいたり、傍に近寄ることはしなかった。言われた通りの作業を迅速にこなし、全てが済むと足早に帰っていく。 彼もいっぱいいっぱいなのだ。愛する男とふたりきりで、いともたやすく触れ合える距離にいるのに、我慢を強いられているのだから。けれどその時間だけは、あの厄介な不良のことも忘れられるはず。 今の小林にできるのは、少しでも彼の不安を取り除き、安らげるひと時を与えることだった。その時間が、小林にとっても至福のときだった。 花京院からは、いつも清潔そうな石鹸の香りがした。さりげなく近づくと微かに身を強張らせるところも、彼の身の清らかさを表しているようだった。 花京院が帰っていくと、小林は彼が触れたもの全てに触れ、時には舌を這わせた。堪らず自慰に耽ることもあった。花京院が座っていた椅子、机、本、紙屑ですら。彼への愛を囁きながら、自身を慰める行為に没頭した。穢れなき天使を、密かに冒涜するような行為。それがむしろ堪らなく興奮して、まだ誰も触れてないあの身体をこの手で愛する日に、思いを馳せるのだった。 ←戻る ・ 次へ→
花京院くん、花京院くん。
花京院くん、花京院くん、花京院くん。
花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん、花京院くん。
「かきょういんのりあきくん」
唇だけを動かして、何度も何度も名前を呼んだ。
そのたびに、心も身体も甘く蕩けてしまいそうだった。
「花京院くん……花京院、典明くん、の、のり……典明」
僕は一枚の写真を手にすると、それをテープで壁に貼り付けた。
小さなデスクライトだけに照らされた狭い部屋は、彼の写真で溢れかえっている。
天井も窓も、扉でさえも、その爽やかな笑顔に埋め尽くされていた。
この部屋にいると、まるで彼の優しい腕に包み込まれているようだ。
典明、典明、典明。かきょういんのりあき。
ああ、なんて麗しい響きだろう。
この世の綺麗なものを全て詰め込んだら、きっと彼のような人間ができあがる。
誰よりも美しくて、可愛くて、心優しい男の子。
彼は僕の全てで、僕の天使だ。神様が遣わしてくれた、僕だけの天使。
僕は彼を心から愛しているし、彼も、僕を深く愛してくれる。
「もうすぐの辛抱だからね。すぐに一緒になれるから」
僕はまだまだたくさんある写真の束から、一枚を取り出すと彼の笑顔に口づけた。
「愛してるよ、僕の典明」
*
花京院典明との出会いは、小林がこの高校に国語科の非常勤講師として勤務して、間もなくのことだった。
「うわ、なんか変な臭いすると思ったら、小林じゃん」
休み時間、次の授業で使う教材やプリントを抱えて廊下を歩いていると、擦れ違いざまに女子生徒の吐き捨てる声が聞こえた。
「ほんとだ、なにあの七三……今日もテッカテカじゃん。薄いし?」
「あのベージュのスーツ、いっつも着てない? よれよれだし、変な臭いするし」
「前の先生の方がよかったなー。なんでよりによって、あんな豚みたいなダサ男が来ちゃうのよ」
「しょーがないじゃん、産休だもん。だからってあんなのマジ勘弁だけどさぁ」
身を寄せ合い、こそこそと耳打ちし合っているようでいて、その声は全く潜められていない。小林はそれらを、背中を丸めるだけで聞こえないふりをした。
こんなことにいちいち反応するのはバカげているし、臭いだのなんだの、そんないわれなき中傷を受けることには慣れている。確かに自宅では給湯器がだいぶ前に壊れてしまったせいで、入浴は週に一度か二度、近場の銭湯で済ませる程度だった。だからわざわざ気を使って、休み時間の度にこれでもかというほど制汗剤を噴きかけているのだ。
(頭の悪い人間というのは、鼻の機能までおかしくなっているんだ。そうに決まってる。臭くて小汚い豚はお前らの方だ)
「ッ、と! あぶねーな! 前見て歩けよこのグズ!」
「!!」
そのとき、柄の悪い男子生徒が小林の肩にぶつかってきた。女子生徒たちの言葉に気を取られていた小林は、その衝撃で派手に転倒してしまう。身体を床に打ち付け、腕に抱えていたものを全て、散乱させてしまった。
「うぇ……ッ」
小林は呻きながらも慌てて身を起こし、膝立ちになると、散らばってしまったものへ手を伸ばす。けれど廊下を行き交う生徒たちが、プリントや教材を平然と踏みつけていくのを見て、硬直した。
次から次へと踏みつけられ、やがて白かったはずのプリントは、薄汚れた紙屑になる。
まるで今の自分を見ているような気分。けれど、それを認められるほど小林のプライドは低くない。
「見ろよあれ。どんくさ」
石のように動けないでいる小林に、幾つもの視線と囁き声が浴びせられた。この場にいる全員が、自分をバカにした目で見て、ケラケラと笑っている。
小林は込み上げる憎しみに、奥歯を強く噛み締めた。どっと汗が噴きだして、鼻息が荒くなっていくのを感じる。下膨れたような顔が赤く染まり、縁のない眼鏡が、どんどん曇った。
今すぐここにいる連中を殴り倒し、引きずりまわしてやれたらどんなに気が晴れるだろう。だけどそれをしないのは、自分が教師であり、大人だからだ。集団に向かっていくのが怖いわけでは決してない。自分が本気を出せば、こんな奴ら……。
けれどそんな小林の目の前に、『天使』は突然、舞い降りた。
「大丈夫ですか?」
澄んだ朝の空気のように、凛とした美しい声がかけられる。
床に固定されていた小林の視界に、白く繊細な手が滑り込んできて、靴跡だらけの教材やプリントを拾い上げた。やがて元通り一つにまとめられた束が、目の前に差し出される。
ゆらゆらと顔をあげた小林は、そのすみれ色に輝く宝石のような瞳に魅入られた。
(天使……?)
そこには桃色がかった赤い髪をふわりと揺らし、少し困ったように眉を下げた天使が、優しく微笑んでいた。ゴミばかりが集まる吹き溜まりのような世界で、彼だけが色鮮やかに小林の視界を彩る。
「花京院くんって、優しいしイケメンだよね」
「うんうん、紳士的で、王子様って感じがする♡」
「あんな豚にまで親切だなんて、ほんと超ステキ~!」
周りの声など、もう小林には遥か遠くの雑音にしか聞こえない。目の前の天使にぼうっと見惚れたまま、のろのろと立ちあがって差し出されたものを受け取った。一瞬だけ触れ合った指先から、熱いものがじわじわと広がっていく。
「では、ぼくはこれで」
ありがとう、の言葉さえ、喉奥に何かが詰まったように音にならず、ただの低い呻きになってしまう。それでも天使はにこりと笑って、軽く頭を下げると教室へ消えて行った。
気がつくとチャイムが鳴り、小林は静まり返った廊下にぽつんと佇んでいた。すみれ色の瞳と間近で目を合わせた、あの瞬間のまま時が止まったようだった。
(天使が現れた……あれは、神様からの贈り物に違いない……僕だけの、天使だ)
小林は確信した。
きっと彼も自分と目を合わせた瞬間、恋に落ちただろう。なぜなら自分たちが出会い、惹かれることは、神がさだめた運命だから。絶対そうに違いないと。
*
その日から、小林の人生はガラリと変わった。
なにせ36年間も生きてきて、初めての『恋人』を得たのだから。色褪せた毎日が、まるで薔薇色の輝きを帯びたように煌めいて見えた。花京院のことを思うだけで胸が甘く締め付けられて、空を飛んでいるようなふわふわとした気分になる。そして、愛し愛されているという充足感が、小林を包み込んだ。
けれど浮かれてばかりもいられないのが現実でもあった。自分たちの恋には、障害が多すぎる。花京院はまだ17歳で、子供の域をでないばかりか、小林にとっては教え子である。
学校で彼だけを特別扱いするわけにはいかないし、自分たちの関係を周りに知られるのは、ちょっと不味い。非常勤とはいえ、ようやくありつけた今の立場を失うわけにもいかないのだ。
彼もそれを理解しているのか、学校で顔を合わせても礼儀正しく挨拶をしてよこすだけで、不満を顔に出すことすらしなかった。
なんていじらしいのだろう。本当は片時も離れず、自分の傍にいたいだろうに。健気な天使を思うたび、小林の胸は熱く震えた。だからせめて、その寂しさを少しでも埋められるようにと、彼の自宅に花束や手紙を送った。差出人を書かずとも、彼ならすぐに分かってくれるはず。
それでも小林の中で罪の意識が消えることはなかった。こんなものでは足りない。自分の心遣いが、むしろ花京院を切なくさせているに違いなかった。
だからこっそりと、授業のあいだ席につく彼のひと房だけ長い前髪を、通りすがりにスルリと撫でてやった。柔らかな癖毛が羽根のように掌を掠める瞬間、彼はビクリと肩を震わせ、何事もなかったかのように通り過ぎる小林に、物言いたげな視線を向けてくる。
そうやって彼があまりにも喜ぶものだから、授業中はいつも他の生徒の目を盗んで、ささやかなスキンシップをはかってやることにした。
花京院への思いは、日増しに強くなっていった。
いつでも自然体の彼を感じていたくて、小林は暇さえあれば学校中で花京院の姿を探し、こっそりと小型カメラにおさめた。休み時間の何気ない一コマや、体育の時間など。
彼は誰にでも分け隔てなく親切で、いつも柔らかく微笑みながら接していた。その度に、小林の胸は引き裂かれるように痛むのだ。
本当ならあの笑顔も、優しさも、全てこの自分にだけ向けられるべきもののはず。花京院もまた、それを望んでいるに違いないのに。早く時が過ぎればいいのにと思った。ふたりだけの世界で、互いだけを見つめて、たっぷりと愛し合いたい。
けれど今は耐えるときだ。花京院が高校を卒業して、教師と生徒という関係から解放されるまでは。
しかし小林には、ひとつだけ気がかりなことがあった。
それは花京院の交友関係についてだ。
誰に対しても温和に接する彼だが、クラスや同じ学年に特別親しい人間はいないようだった。だがそれはいい。小林がどうしても気になって仕方がないのは、花京院がよく休み時間や学校の登下校を共にしている、ひとつ上の学年に在籍する生徒の存在だった。
空条承太郎。
JOJOという渾名で呼ばれる彼は、教師ですら手に負えないほどの不良として、あまりにも有名だった。聞けば一時期はケンカ相手を病院送りにしたり、気に入らない店では平気で無銭飲食をするなどして、警察沙汰に発展するまでの騒ぎを起こしていたという。
花京院はこのJOJOという札付きの悪に、すっかり目をつけられている様子だった。
こいつはやたらと勘が冴えているようで、小林が遠目からカメラを構えると、必ず察知したように辺りを見回す。そしてさりげなく花京院を、その大きな身体の影に隠してしまうのだ。
おそらく、花京院はあの不良になにか弱みでも握られているに違いない。でなければ、あの品行方正な麗しの天使が、あんな人間のクズと行動を共にするはずがないのだから。きっと誰も見ていないところで金銭を要求されたり、最悪もっと酷い目に遭っている可能性だってある。
どうにかしなければと考えた小林は、比較的話しやすそうな男性教諭にさりげなく近づいて――こいつは生徒からの評判があまりよくない――承太郎と花京院について訊ねてみた。すると、返ってきたのは意外な答えだった。
「ああ、JOJOですか。あれはとんだ不良でしたよ。入学早々、上の学年と派手にやらかしましてね。それで箔がついたのか、めきめき頭角を現してあっという間に番長ですよ。だけどねえ、今じゃあ大人しいもんです。ありゃあ花京院の影響じゃないかってね、教師連中みんな言ってますよ。いつの間に仲良くなったか知りませんがね、花京院とつるむようになって、学校をサボることもほとんどなくなりましたからなぁ。このまま卒業してくれるなら、こっちとしては大助かりですよ」
悪さはしなくなったが、番長として未だに名を馳せているため、それが逆にいい意味で抑止力になっている。だから下手に騒ぎを起こす不良もおらず、そして他校の生徒も手を出してこない。花京院様様です、などと言って笑う教師に、小林は媚びた愛想笑いを浮かべながら、腸が煮えくり返っていた。
それではまるで生贄ではないか。脅されて、仕方なく傍にいるに違いないのに、なぜ誰も気がつかないのだろう。
絶対に許せないと思った。そして、彼を守れるのはこの自分だけだとも。
気持ちだけは、今すぐあの不良に掴みかかり、花京院を救いだしてやりたかった。しかし、あの二メートル近い大男とやり合って、万が一自分に何かあれば、花京院を悲しませることになってしまう。それだけは絶対に避けて通りたかった。
別にあの不良が怖いわけではない。図体ばかりが無駄にデカいというだけで、どうせ見掛け倒しに決まっている。しかし今は体罰がどうとか、何かと面倒な世の中でもあるし……。
とにかく、何かできることはあるはずだ。小林は考えた。そして決断した。この自分になら、その辛さを少しでも和らげてやることができるはずだと。
以来、小林は放課後、何かにつけて花京院を準備室へ呼び出し、翌日の授業の準備に加え、本や書類の整理を手伝わせる機会を設けた。花京院は嫌な顔ひとつせず、むしろ待ちわびていたかのように小林の目には映った。
自分の立場を十分に理解している花京院は、必要以上に口をきいたり、傍に近寄ることはしなかった。言われた通りの作業を迅速にこなし、全てが済むと足早に帰っていく。
彼もいっぱいいっぱいなのだ。愛する男とふたりきりで、いともたやすく触れ合える距離にいるのに、我慢を強いられているのだから。けれどその時間だけは、あの厄介な不良のことも忘れられるはず。
今の小林にできるのは、少しでも彼の不安を取り除き、安らげるひと時を与えることだった。その時間が、小林にとっても至福のときだった。
花京院からは、いつも清潔そうな石鹸の香りがした。さりげなく近づくと微かに身を強張らせるところも、彼の身の清らかさを表しているようだった。
花京院が帰っていくと、小林は彼が触れたもの全てに触れ、時には舌を這わせた。堪らず自慰に耽ることもあった。花京院が座っていた椅子、机、本、紙屑ですら。彼への愛を囁きながら、自身を慰める行為に没頭した。穢れなき天使を、密かに冒涜するような行為。それがむしろ堪らなく興奮して、まだ誰も触れてないあの身体をこの手で愛する日に、思いを馳せるのだった。
←戻る ・ 次へ→