2025/08/26 Tue 数日後。 その夜はバイトが入っておらず、いつものように朝に帰宅した甲洋は夕方近くまで眠って起きると、外が暗くなってきた頃を見計らって近所のスーパーへ足を運んだ。 およそ一週間分の食料や不足している日用品をカゴに放り込んでいく。すると時おりチラチラと嫌な視線を感じて、甲洋はそっと溜息を漏らした。 人が多い場所へ行くと大体こうだ。誰かしらの視線がついてまわる。しかしそれは無理もないことで、甲洋の出で立ちを一言で表すならば『異様』としか言いようがないからだ。 ルーズストレートのダメージジーンズに、サイズオーバーのくたびれきったモッズコート。髪は伸びっぱなしのボサボサ頭で、顔に覆いかぶさる癖毛を整えることすらしていない。なかでも特に目を引くのは、今どきアニメや漫画でもお目にかかれないような、大きくて丸い黒縁の瓶底眼鏡だった。 そんないかにも野暮で不審そうな男が猫背でのそのそと歩いていれば、奇異の目で見られたって仕方のない話だ。 道を歩けば女性や子供連れの親子から警戒されるし、なにもしていなくても「あー、君、ちょっと怪しいね」と警官に声をかけられ、職務質問を受けたことも一度や二度ではない。 剣司に「もったいない」と言わしめたこのスタイルを、けれど甲洋はあえて貫いているのだ。こうでもしなければ、安心して外を出歩くことができない。 本来の甲洋は、モデル並みの高身長とスタイルのよさで、黙っていたって異性が飛びついてくるほどに見目がよかった。けれどそれが原因で、今まで多くの災難に見舞われてきた。 過去には自分が預かり知らぬところで女性同士が取り合いのケンカをし、警察沙汰にまで発展したことがある。目の前で自殺未遂をされたことだってあるし、間男扱いされて相手の男性に殴られたこともあれば、女友達が嫌がらせを受けて大怪我を負ったこともある。 そんなことが重なるうちに、甲洋は災いしか招かない自分の容姿にコンプレックスを抱くようになった。 だから可能な限り身体のラインを隠し、顔を隠し、他者を寄せつけない空気を出す。なるべく人と密に関わりを持たないよう、仕事も深夜帯のネットカフェを選んで勤めている。訳ありの人間が多く隠れ蓑にしていることもあり、互いにほとんど顔を見合わせる必要がないからだ。 (おかしな話だよな) 普通にしている方が、よほど悪目立ちしてしまうなんて。 なんとも言えない気持ちになりながら、買い物袋を手にさげてスーパーを出た。片手はポケットに突っ込んで、背中を丸めてノロノロ歩く。 すると前方から、一組のカップルが腕を組みながら向かってくる姿が見えた。甲洋はいっそう背中を丸め、道の端ギリギリまで身を寄せると顔を背ける。 カップルはキャッキャウフフと楽しそうにイチャついて、甲洋の存在に気づくことなくすれ違っていった。冷たい秋の夜風が身に染みる。 (いいな、ああいうの) ふと虚しくなるのは、こういう瞬間だ。 愛し愛される関係には誰よりも深い憧憬を抱いている。だけど甲洋は、まだ一度も女性と付き合ったことがない。この先だってきっと縁がないのだと、どこかで諦めきっていた。 (いいさ、俺にはミサオがいればそれで) 来栖ミサオはそんな甲洋にとってオアシスのような存在だった。 ジェンダーの境目にいるようなその曖昧さと、虚像であるがゆえにおぼろげな彼という個体は、甲洋をひたすら安堵へ導く。恋と呼べるかすら分からない感情に、ただ胸を焦がしていられるだけで満足だった。 隠れ潜むように生きる生活だって、今の自分には合っているのだ。 例えばそう、ああして夜道の片隅で寂しそうに丸まっているパンツのように── 「……パンツ?」 自宅マンションのすぐそば。街灯の下に目と足を同時にとめて、甲洋はふと首を傾げる。 こんな暗い夜道で、視界の隅にかすっただけであるにも関わらず、なぜか一瞬にして強く確信することができた。あのくしゃくしゃの布切れは、紛うことなきパンツであると。これは野生の──いや、スケベの勘だろうか。 なんだかなぁと自分に嫌気が差しつつも、甲洋は街灯の下へと足を向ける。拾い上げたそれは目が覚めるようなピンクの生地に、可愛らしい黄色のヒヨコが無数に描かれた、ローライズ型のボクサーパンツだった。 甲洋は先日ベランダで見た白昼夢を思いだした。 来栖ミサオの幻は、買ったばかりのお気に入りのパンツを失くして泣いていた。まだ日も高い時間に、しかも三階の部屋まで下着泥棒が入るとは思えないため、おそらく風に飛ばされでもしたのだろう。 そして奇しくも、ここは甲洋の自宅マンションのほぼ真下。手の中には穿き古された形跡のないパンツ。こんな偶然があるのだろうか? (もしかして、あれは夢じゃなかった……? いや、でも……まさかそんな、ありえない……よな?) だって、もしそうだとしたら、これは来栖ミサオのパンツということになってしまう。下着はちゃんと男の子なんだなとか、ピンクにヒヨコ柄なんて可愛いが過ぎるだろとか、肌が粟立つほどの感動を覚えつつも必死で否定することに忙しい。 (……ないない。下手なラブコメでもあるまいし) 実際、隣に新しい入居者がいることは事実である。だけどそれが来栖ミサオだなんて夢のような話があるはずがない。 あれは焦がれるあまりまったくの別人を見間違えただけの、勘違いだったのではないか。つまり半分は幻だったと言ってもいい。とにかく絶対に違うのだと、そう結論づけることにした。 なんにせよ、拾ったものは届けるのが道理である。これが女性物であったならえらいことだが、男性物なら別に気兼ねする必要もない。 いつまでも夜道でパンツを手に立ち尽くしているなんて、ただでさえ不審者に思われがちなのだから、早々にこの場を去るべきだ。 甲洋はパンツをポケットにねじ込むと、足早にマンションのエントランスへ向かった。 * 三階の自室へ向かう廊下で、甲洋は誰かが扉を背に座り込んでいることに気がついた。 それは甲洋の部屋のすぐ隣で、おそらく例の入居者であることはすぐに分かった。体育座りをして抱えた膝に、すっかり顔を埋めているカフェオレのような淡い髪色は、やはりあの来栖ミサオを彷彿とさせた。胸がざわつき、緊張が走る。 彼はパーカーの上から赤いツイルチェックのロングダウンを着て、カーキ色のアンクルパンツを穿いていた。わずかに覗く足首がうっすら青白くなっていて、すっかり身体が冷え切っていることが窺い知れた。 「……どうかした?」 立ち止まって数秒迷ったが、思い切って声をかける。パンツを返すという用事もあることだし、訪ねていく手間が省けた。 重ね着をしていても華奢と分かる肩を震わせ、隣人がゆっくりと顔をあげる。甲洋は思わず喉を鳴らし、瞬きもせずその光景を見つめた。頼むから別人であってくれと、祈るような気持ちで。けれどその祈りが天に届くことはなかった。 「ッ!」 咄嗟に買い物袋をドサリと落とす。呼吸と一緒に時が止まったような気がした。 ベランダで遭遇したときと同じように、彼は涙目で弱りきった表情をしている。泣いているせいで先のほうが赤く染まった鼻をグスンと鳴らし、小動物のような瞳で甲洋を見上げた。 (来栖、ミサオだ……) 正真正銘、本物の。 画面越しでしか見たことのない、甲洋の想い人が目の前にいる。 今日だってこのあと一晩中、彼が出演するAVを見続けようと思っていた。昨日だって見たし、一昨日だって見た。甲洋の生活に、もはや欠かすことができない存在。あの来栖ミサオが。 「……お隣さん?」 ミサオは濡れたようなか細い声をあげ、小首を傾げた。おそらく甲洋の瓶底眼鏡に戸惑っているのだ。ベランダではこんなものはかけていなかった。たった一度、しかもほんの数秒だけ顔を合わせただけの甲洋を、うまく判別できないようだった。 甲洋はかろうじて頷くだけで精一杯だった。ミサオはきょとんとした顔で瞬きを繰り返している。 数秒、言葉もなくただ見つめ合い、はたと気がつく。そうだ。先に声をかけたのはこちらの方で、彼は明らかになにか困っている様子なのだ。 「ッ、ぁ……あの、なにか、あった?」 カラカラに乾いた喉から、引き攣って震える声を絞り出す。心臓が今にも口から飛び出してきそうだった。 ミサオはこくんと頷き、またひとつ鼻をすする。 「コンビニに行って帰ってきたら、鍵がなくなってたんだ。探したけど見つからなくて、それで、部屋に入れなくて」 座り込んでいるミサオの横には、白いビニール袋が置いてある。彼はコンビニへお菓子を買いに行き、その途中どこかで鍵を失くしたというのだ。 エントランスは暗証番号で開く仕様だからいいものの、部屋の鍵がないことに気づいた彼は、すぐにマンションの管理人に知らせようとした。けれど運悪く連絡がつかなかった。困った末にマネージャーにも電話を入れたが、そちらも連絡がつかなかったらしい。 「だからここで待ってるとこ。多分そのうちかかってくると思うし」 パンツは落とすし鍵は失くすし、そそっかしいというかなんというか。つい庇護欲を刺激されて狂おしい気持ちになってしまう甲洋だったが、本人にとっては一大事である。 マネージャーというのは、おそらく彼が所属しているAV事務所で、彼に付いてマネジメントを行っている人間のことだろう。着歴は残っているだろうから、待っていればいずれ連絡はつくはずだ。しかし──。 分厚い眼鏡のレンズ越しに、ミサオがしょんぼりとうつむいている。彼は立てた両膝の上に両手をちょこんと置いていて、その指先が寒さで赤くなっていた。放っておけば、きっと風邪をひいてしまう。 そしてすぐ隣は甲洋の部屋なのだ。このまま「ああそうですか」と、自分だけ引っ込んでいくなんてことができるはずはない。甲洋は腹をくくるしかなかった。 「……もしよければ」 いったんそこで言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。 ミサオはどこか不安そうな眼差しで甲洋を見上げる。深みのある瞳の色は、よく見れば琥珀のように黄色みを帯びていて、それが今にも零れ落ちそうなほど揺れていた。 夢を見ているように、ふわふわとした気持ちになってくる。だけどこれは現実だ。本当はこの世界のどこにもいないのではないかと、そんなふうにすら思っていた来栖ミサオという現実が、確かにここに存在している。 「うち来る?」 動揺や感慨を悟られないよう、押し殺した声で問いかけた。 ミサオは目を丸くして、「いいの?」と可愛らしく小首を傾げる。甲洋はただ頷いた。 「ありがとう!」 パッと花が開いたような笑みを浮かべて、ミサオが立ち上がった。画面越しにしか見たことがなかった可愛い笑顔が、矢のようにドスンと心臓に突き刺さる。 (うわ可愛い……これが現実……これが……) 眼鏡と前髪でほとんど顔が隠れているにも関わらず、甲洋は真っ赤な頬を隠すために顔を逸した。自室の前に行き、ポケットをまさぐって鍵を探す。しかし、手が震えてうまくいかない。 (落ち着け、落ち着け……!) 心の中で必死に念じ、どうにか目当てのものを掴みとるとポケットから手を引き抜いた。すると同時に、なにかがパサリと床に落ちる。 「……あ」 甲洋は足元に丸まっているそれを見て呆然とした。頭の中が真っ白になっている。これはなんだったろうか。鮮やかなピンクと、無数の可愛いヒヨコちゃん。そうだ、これは──パンツだ。 「あー! これおれのパンツだー!」 ミサオが目を丸くしながら問題のパンツを指差す。 「なんで!? なんで君が持ってるのぉ!? 探してもぜんぜん見つからなかったのに!」 あ、終わった……と、甲洋の心はバラバラバラに砕け飛び散った。 ←戻る ・ 次へ→
その夜はバイトが入っておらず、いつものように朝に帰宅した甲洋は夕方近くまで眠って起きると、外が暗くなってきた頃を見計らって近所のスーパーへ足を運んだ。
およそ一週間分の食料や不足している日用品をカゴに放り込んでいく。すると時おりチラチラと嫌な視線を感じて、甲洋はそっと溜息を漏らした。
人が多い場所へ行くと大体こうだ。誰かしらの視線がついてまわる。しかしそれは無理もないことで、甲洋の出で立ちを一言で表すならば『異様』としか言いようがないからだ。
ルーズストレートのダメージジーンズに、サイズオーバーのくたびれきったモッズコート。髪は伸びっぱなしのボサボサ頭で、顔に覆いかぶさる癖毛を整えることすらしていない。なかでも特に目を引くのは、今どきアニメや漫画でもお目にかかれないような、大きくて丸い黒縁の瓶底眼鏡だった。
そんないかにも野暮で不審そうな男が猫背でのそのそと歩いていれば、奇異の目で見られたって仕方のない話だ。
道を歩けば女性や子供連れの親子から警戒されるし、なにもしていなくても「あー、君、ちょっと怪しいね」と警官に声をかけられ、職務質問を受けたことも一度や二度ではない。
剣司に「もったいない」と言わしめたこのスタイルを、けれど甲洋はあえて貫いているのだ。こうでもしなければ、安心して外を出歩くことができない。
本来の甲洋は、モデル並みの高身長とスタイルのよさで、黙っていたって異性が飛びついてくるほどに見目がよかった。けれどそれが原因で、今まで多くの災難に見舞われてきた。
過去には自分が預かり知らぬところで女性同士が取り合いのケンカをし、警察沙汰にまで発展したことがある。目の前で自殺未遂をされたことだってあるし、間男扱いされて相手の男性に殴られたこともあれば、女友達が嫌がらせを受けて大怪我を負ったこともある。
そんなことが重なるうちに、甲洋は災いしか招かない自分の容姿にコンプレックスを抱くようになった。
だから可能な限り身体のラインを隠し、顔を隠し、他者を寄せつけない空気を出す。なるべく人と密に関わりを持たないよう、仕事も深夜帯のネットカフェを選んで勤めている。訳ありの人間が多く隠れ蓑にしていることもあり、互いにほとんど顔を見合わせる必要がないからだ。
(おかしな話だよな)
普通にしている方が、よほど悪目立ちしてしまうなんて。
なんとも言えない気持ちになりながら、買い物袋を手にさげてスーパーを出た。片手はポケットに突っ込んで、背中を丸めてノロノロ歩く。
すると前方から、一組のカップルが腕を組みながら向かってくる姿が見えた。甲洋はいっそう背中を丸め、道の端ギリギリまで身を寄せると顔を背ける。
カップルはキャッキャウフフと楽しそうにイチャついて、甲洋の存在に気づくことなくすれ違っていった。冷たい秋の夜風が身に染みる。
(いいな、ああいうの)
ふと虚しくなるのは、こういう瞬間だ。
愛し愛される関係には誰よりも深い憧憬を抱いている。だけど甲洋は、まだ一度も女性と付き合ったことがない。この先だってきっと縁がないのだと、どこかで諦めきっていた。
(いいさ、俺にはミサオがいればそれで)
来栖ミサオはそんな甲洋にとってオアシスのような存在だった。
ジェンダーの境目にいるようなその曖昧さと、虚像であるがゆえにおぼろげな彼という個体は、甲洋をひたすら安堵へ導く。恋と呼べるかすら分からない感情に、ただ胸を焦がしていられるだけで満足だった。
隠れ潜むように生きる生活だって、今の自分には合っているのだ。
例えばそう、ああして夜道の片隅で寂しそうに丸まっているパンツのように──
「……パンツ?」
自宅マンションのすぐそば。街灯の下に目と足を同時にとめて、甲洋はふと首を傾げる。
こんな暗い夜道で、視界の隅にかすっただけであるにも関わらず、なぜか一瞬にして強く確信することができた。あのくしゃくしゃの布切れは、紛うことなきパンツであると。これは野生の──いや、スケベの勘だろうか。
なんだかなぁと自分に嫌気が差しつつも、甲洋は街灯の下へと足を向ける。拾い上げたそれは目が覚めるようなピンクの生地に、可愛らしい黄色のヒヨコが無数に描かれた、ローライズ型のボクサーパンツだった。
甲洋は先日ベランダで見た白昼夢を思いだした。
来栖ミサオの幻は、買ったばかりのお気に入りのパンツを失くして泣いていた。まだ日も高い時間に、しかも三階の部屋まで下着泥棒が入るとは思えないため、おそらく風に飛ばされでもしたのだろう。
そして奇しくも、ここは甲洋の自宅マンションのほぼ真下。手の中には穿き古された形跡のないパンツ。こんな偶然があるのだろうか?
(もしかして、あれは夢じゃなかった……? いや、でも……まさかそんな、ありえない……よな?)
だって、もしそうだとしたら、これは来栖ミサオのパンツということになってしまう。下着はちゃんと男の子なんだなとか、ピンクにヒヨコ柄なんて可愛いが過ぎるだろとか、肌が粟立つほどの感動を覚えつつも必死で否定することに忙しい。
(……ないない。下手なラブコメでもあるまいし)
実際、隣に新しい入居者がいることは事実である。だけどそれが来栖ミサオだなんて夢のような話があるはずがない。
あれは焦がれるあまりまったくの別人を見間違えただけの、勘違いだったのではないか。つまり半分は幻だったと言ってもいい。とにかく絶対に違うのだと、そう結論づけることにした。
なんにせよ、拾ったものは届けるのが道理である。これが女性物であったならえらいことだが、男性物なら別に気兼ねする必要もない。
いつまでも夜道でパンツを手に立ち尽くしているなんて、ただでさえ不審者に思われがちなのだから、早々にこの場を去るべきだ。
甲洋はパンツをポケットにねじ込むと、足早にマンションのエントランスへ向かった。
*
三階の自室へ向かう廊下で、甲洋は誰かが扉を背に座り込んでいることに気がついた。
それは甲洋の部屋のすぐ隣で、おそらく例の入居者であることはすぐに分かった。体育座りをして抱えた膝に、すっかり顔を埋めているカフェオレのような淡い髪色は、やはりあの来栖ミサオを彷彿とさせた。胸がざわつき、緊張が走る。
彼はパーカーの上から赤いツイルチェックのロングダウンを着て、カーキ色のアンクルパンツを穿いていた。わずかに覗く足首がうっすら青白くなっていて、すっかり身体が冷え切っていることが窺い知れた。
「……どうかした?」
立ち止まって数秒迷ったが、思い切って声をかける。パンツを返すという用事もあることだし、訪ねていく手間が省けた。
重ね着をしていても華奢と分かる肩を震わせ、隣人がゆっくりと顔をあげる。甲洋は思わず喉を鳴らし、瞬きもせずその光景を見つめた。頼むから別人であってくれと、祈るような気持ちで。けれどその祈りが天に届くことはなかった。
「ッ!」
咄嗟に買い物袋をドサリと落とす。呼吸と一緒に時が止まったような気がした。
ベランダで遭遇したときと同じように、彼は涙目で弱りきった表情をしている。泣いているせいで先のほうが赤く染まった鼻をグスンと鳴らし、小動物のような瞳で甲洋を見上げた。
(来栖、ミサオだ……)
正真正銘、本物の。
画面越しでしか見たことのない、甲洋の想い人が目の前にいる。
今日だってこのあと一晩中、彼が出演するAVを見続けようと思っていた。昨日だって見たし、一昨日だって見た。甲洋の生活に、もはや欠かすことができない存在。あの来栖ミサオが。
「……お隣さん?」
ミサオは濡れたようなか細い声をあげ、小首を傾げた。おそらく甲洋の瓶底眼鏡に戸惑っているのだ。ベランダではこんなものはかけていなかった。たった一度、しかもほんの数秒だけ顔を合わせただけの甲洋を、うまく判別できないようだった。
甲洋はかろうじて頷くだけで精一杯だった。ミサオはきょとんとした顔で瞬きを繰り返している。
数秒、言葉もなくただ見つめ合い、はたと気がつく。そうだ。先に声をかけたのはこちらの方で、彼は明らかになにか困っている様子なのだ。
「ッ、ぁ……あの、なにか、あった?」
カラカラに乾いた喉から、引き攣って震える声を絞り出す。心臓が今にも口から飛び出してきそうだった。
ミサオはこくんと頷き、またひとつ鼻をすする。
「コンビニに行って帰ってきたら、鍵がなくなってたんだ。探したけど見つからなくて、それで、部屋に入れなくて」
座り込んでいるミサオの横には、白いビニール袋が置いてある。彼はコンビニへお菓子を買いに行き、その途中どこかで鍵を失くしたというのだ。
エントランスは暗証番号で開く仕様だからいいものの、部屋の鍵がないことに気づいた彼は、すぐにマンションの管理人に知らせようとした。けれど運悪く連絡がつかなかった。困った末にマネージャーにも電話を入れたが、そちらも連絡がつかなかったらしい。
「だからここで待ってるとこ。多分そのうちかかってくると思うし」
パンツは落とすし鍵は失くすし、そそっかしいというかなんというか。つい庇護欲を刺激されて狂おしい気持ちになってしまう甲洋だったが、本人にとっては一大事である。
マネージャーというのは、おそらく彼が所属しているAV事務所で、彼に付いてマネジメントを行っている人間のことだろう。着歴は残っているだろうから、待っていればいずれ連絡はつくはずだ。しかし──。
分厚い眼鏡のレンズ越しに、ミサオがしょんぼりとうつむいている。彼は立てた両膝の上に両手をちょこんと置いていて、その指先が寒さで赤くなっていた。放っておけば、きっと風邪をひいてしまう。
そしてすぐ隣は甲洋の部屋なのだ。このまま「ああそうですか」と、自分だけ引っ込んでいくなんてことができるはずはない。甲洋は腹をくくるしかなかった。
「……もしよければ」
いったんそこで言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。
ミサオはどこか不安そうな眼差しで甲洋を見上げる。深みのある瞳の色は、よく見れば琥珀のように黄色みを帯びていて、それが今にも零れ落ちそうなほど揺れていた。
夢を見ているように、ふわふわとした気持ちになってくる。だけどこれは現実だ。本当はこの世界のどこにもいないのではないかと、そんなふうにすら思っていた来栖ミサオという現実が、確かにここに存在している。
「うち来る?」
動揺や感慨を悟られないよう、押し殺した声で問いかけた。
ミサオは目を丸くして、「いいの?」と可愛らしく小首を傾げる。甲洋はただ頷いた。
「ありがとう!」
パッと花が開いたような笑みを浮かべて、ミサオが立ち上がった。画面越しにしか見たことがなかった可愛い笑顔が、矢のようにドスンと心臓に突き刺さる。
(うわ可愛い……これが現実……これが……)
眼鏡と前髪でほとんど顔が隠れているにも関わらず、甲洋は真っ赤な頬を隠すために顔を逸した。自室の前に行き、ポケットをまさぐって鍵を探す。しかし、手が震えてうまくいかない。
(落ち着け、落ち着け……!)
心の中で必死に念じ、どうにか目当てのものを掴みとるとポケットから手を引き抜いた。すると同時に、なにかがパサリと床に落ちる。
「……あ」
甲洋は足元に丸まっているそれを見て呆然とした。頭の中が真っ白になっている。これはなんだったろうか。鮮やかなピンクと、無数の可愛いヒヨコちゃん。そうだ、これは──パンツだ。
「あー! これおれのパンツだー!」
ミサオが目を丸くしながら問題のパンツを指差す。
「なんで!? なんで君が持ってるのぉ!? 探してもぜんぜん見つからなかったのに!」
あ、終わった……と、甲洋の心はバラバラバラに砕け飛び散った。
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