2025/08/26 Tue 駅裏にある喫茶店には、うっすらと冬の西陽が差していた。 広い店内はほんの数人の客がいるだけで、閑散と並ぶ小島のようにぽつりぽつりとテーブルを埋めている。コーヒーの香りが立ち込める空間に、レコード盤のジャズが緩やかな時の経過と共に流れていた。 そんな中、甲洋と操はフロアの片隅で向かい合って座っていた。 他に空席はいくらでもあるはずなのに、ふたりがついているのは人気のないトイレ脇の席である。俺のせいなんだよなと、甲洋は胸の内で嘆息を漏らした。 なにせ相変わらずの格好だ。 店の中でも脱がずにいるモッズコートは酷くくたびれ、サイズの大きさが長身をモヤシのように貧弱に見せていた。伸ばしっぱなしの癖毛を白い頬に張りつかせ、あげく牛乳瓶の底のように曇った丸眼鏡をかけている。 野暮で貧相。そして胡乱。一種独特のオーラを放ちながらのっそりと入店した甲洋を、店員はホームレスが迷い込んできたかのような不信感と憐憫を滲ませながら、この席に案内した。 甲洋は曇った眼鏡越しに操の様子をうかがった。 彼は熱々のミルクティーにすっかり気を取られている。執拗に息を吹きかけて、火傷をしないようにチビチビと口をつけて飲んでいた。白いニットセーターの袖からちょこんと出ている指先が、カップの熱で赤く染まっている。 操は席のことなどまるで気にしていないらしい。そのことに密かな安堵を覚えながら、甲洋は持ち上げていたコーヒーカップを受け皿に戻した。 「仕事はどう? そろそろ慣れた?」 甲洋の問いかけに、操は「ん」と声をあげながら顔をあげ、にっこり笑って頷いた。 「まぁまぁうまくやれてるよ。失敗することも多いけど」 「まだ一週間じゃしょうがないよ」 「うん。でもね、店長が優しいからぜんぜん平気。ずっと付きっきりで教えてくれるしね」 「付きっきりで?」 「そう、付きっきりで」 操は一週間ほど前から新しくアルバイトを始めていた。ふたりが暮らすマンションから、地下鉄で数駅の場所にある小さなケーキ屋だ。 所属していたAV事務所を辞めたあと、しばらくはのんびりと過ごしていた彼だったが、そろそろゲームばかりしているのにも飽きたらしい。ある日突然、「暇だからバイトする」なんてことを言いだした。 ケーキ屋を選んだのは「余ったケーキを食べられるかもしれない」という、甘党の彼らしい単純な理由からである。 ちなみに今日は操がバイト終わりに買いたいものがあると言うので、今夜は仕事が入っていない甲洋も付き合うことにした。 この喫茶店は駅の裏手にあり、ケーキ屋からも徒歩で10分とかからない場所にある。だからここを待ち合わせ場所にしたのだが、先についていたのが操の方であったなら、今とはまったく別の席へ案内されていただろう。 けれどそんなことよりも、甲洋は操の言葉のほうに大きな引っ掛かりを覚えていた。 「……その店長って」 「ん?」 「男?」 操はカップを皿に戻しながら、きょとんとした顔で首を傾げる。 「そうだけど、なんで?」 「……いや、別に」 言いながら、瓶底眼鏡の奥で思わず目を逸してしまう。操はパチパチと瞬きを繰り返していたが、やがて何かに気づいてにま~っとした笑みを浮かべて見せた。 「ねぇねぇ、それってもしかしてヤキモチ?」 「そういうわけじゃ……」 「ぷっ」 ケラケラと笑いだす操に、甲洋はそうと分かりにくい程度に顔をしかめた。 悪いかよ、と心のなかで毒づきながら赤く染めた頬が、鬱陶しい前髪と曇った眼鏡に上手く隠されていることが救いだった。 「俺はただ心配してるだけだよ」 恋人ができてみて初めて、甲洋は自分が過剰なまでに心配性で独占欲の強い人間であることを知った。 それは操が元AV男優であったことも、大いに関係しているだろう。 男優といってもネコ専で、もっぱら男の娘として売り出されていたため、甲洋のようにヘテロであるにも関わらず懸想してしまった男は、決して少なくないはずだ。 だからその店長の男とやらも、いつどんな気を起こすか知れたもんじゃない。いやむしろ、とっくにそんな気を起こしている可能性が── 「大丈夫だって。お尻触られるくらい、別にどうってことないもん」 「そう、ならいいけ、ど……いや待って。いまなんて言った?」 「ん? だから、腰とかお尻とか」 「……触られたのか?」 「うん。でもおれ、そういうのは慣れてるし。ほら、痴漢バスとかあったでしょ。あの要領だよ」 そんな要領あってたまるか!! と、叫びたいのをどうにか堪えた。 つまり操はセクハラを受けているということだ。これでもかというほど深く刻まれた眉間のシワを、咄嗟に指先で強く押さえる。 ここがトイレの側だったのは、かえって好都合だった。周辺は席が埋まっておらず、他人に会話を聞かれる心配もない。 操が言っているのは『穢されたメガネっ子セーラー服・わいせつ集団バス痴漢』という作品のことである。部屋に戻ればミサオボックスにしっかり収納されている。過去に何度お世話になったか知れない作品のひとつだ。 内容はメガネにセーラー服姿の【来栖ミサオ】が、バスの車内で集団痴漢にあうというものだった。眼鏡にぶちまけられた白濁や、つり革に拘束されながら乱されていくセーラー服姿の彼に、どれほど興奮させられたことか──。 いや、今はそんな性の思い出に浸っている場合ではない。瓶底眼鏡のせいで分かりにくいが、甲洋は今とんでもなく険しい顔つきになっている。 「どうして今までそれを黙って……」 「別にあそこまでのことはされてな」 「当たり前だ」 食い気味に声を発しながら、もはや手遅れであったことに歯噛みする。 そもそも甲洋は操がバイトをすること自体、最初から手放しで賛成していたわけではないのだ。本音を言えば、ずっと家で遊んでいてくれて構わないとすら思っている。むしろその方が安心だと。 なにせ彼は以前、ストーカーと化したファンに襲われたことがあるのだ。留守のあいだ部屋に侵入され、隠れ潜んでいた男にレイプされかけた。 犯人は逃走したまま、未だに捕まっていない。そいつが今も操を狙っていないとも限らず、その懸念がどうしても胸に引っかかっている。 せめて犯人が捕まるまではなるべく一人で外を歩かせたくないし、夜のあいだ留守を任せておくことだって不安で仕方がないほどだった。 かと言って操がやりたいと思うことを頭ごなしに反対するわけにもいかず、明るい昼間の数時間程度ならばと、無理やり自分を納得させたのだ。 知らない人にはついて行かないこと、人通りの少ない道は避けること、仕事が終わったら連絡すること、そして寄り道しないで帰ってくること。あと、鍵は絶対に失くさないこと──それらもきっちり約束させていた。 操には「心配しすぎ!」と煙たがられてしまったが、甲洋としてはまだまだ言い足りないくらいである。が、やっぱり反対しておけばよかった。 「来主」 「なにー?」 「もうその店には行かなくていい」 「へ?」 「行くな」 「なにそれ! おれにバイト辞めろってこと!?」 深く頷いた甲洋に、操は眉を吊り上げながらテーブルに身を乗り出した。 「そんなのやだよ! せっかく慣れてきたとこなのに! ケーキだって食べられなくなるじゃん! だいたいなんで君が勝手にそんなこと──」 「来主」 低い声で名前を呼んだ。訪れた沈黙のなか、かすかに聞こえるジャズがやけに寒々しい。 瓶底眼鏡の奥で、甲洋は完全に目が据わっていた。レンズが分厚すぎて操からは見えないはずだが、威圧感だけは十分に伝わっているようだった。 それでも気が強い彼は怯むことなく、けれどそれ以上は声を荒げず、ぶぅっと頬を膨らませながら腕を組んでそっぽを向いた。 「おれ、束縛されるのは好きじゃない」 「好きじゃなくて結構だ。こればっかりは譲れない」 そんなドスケベ店長がいる店に、これ以上大事な操を通わせるわけにはいかなかった。自分以外の男が彼にベタベタと触れ、鼻の下を伸ばしているのだと想像するだけで、切れてはいけない血管がブチブチと音を立てて千切れてしまいそうだ。 今すぐ店に殴り込んで行かないだけ、まだ理性的だと思ってほしい。 操は眉を吊り上げたまま甲洋を睨みつけてくる。甲洋もその視線から決して目を逸らさなかった。今まではあまり強気に出られず、なんやかんやと甘やかしていたけれど、負けられない戦いがそこにはあるのだ。 するとだんだん、操の肩が震えてきたことに気がついた。口元も微妙にニヤけはじめ、やがて「ぷふっ」と噴き出したかと思うと笑いだした。 「あははは! やっぱその眼鏡だと緊張感ないや!」 険悪だったムードが、一瞬でふわりとほどけてしまう。 操はうっすらと目尻に滲んだ涙を指先で拭った。 「あーぁ、君ってホント心配性だな。おれは平気だって言ってるのにさ」 「……俺は嫌だ」 低くこぼされた甲洋の本音に、操は瞳をいたずらっぽく細めながら両手で頬杖をつき、「彼氏っぽいね」と楽しげに言った。 「ぽいってなんだよ。ぽいって」 「怒った?」 「……別に。まぁ少し……いや、かなり」 「君って怒らないやつなんだと思ってた。あのね、笑っちゃったけど、本当はちょっとカッコよかったよ」 憎らしさを覚えながらも、そう言われると悪い気はしない。言った本人も嬉しそうに下げた目尻や頬を赤くしているものだから、怒るに怒れなくなってしまった。 そういうところなんだよなぁと、甲洋は思う。格好つけさせてなんかくれやしない。このちょっと生意気で掴みどころのない態度に、いつも振り回されている。 操はまるで手を伸ばすほどにヒラヒラと身をかわす蝶のようだった。 だから甲洋は躍起になる。もうただのファンじゃない。そんなプライドに少しずつ傲慢さを肥大させながら、絶えず惑わされている。それがたまらなく癖になっているから、これはきっと病気なのだ。悩ましくて、狂おしい。 「ねぇ見て、ヤバくね? アレ」 そのときふと、広めの通路を挟んだ向かい側からヒソヒソという話し声が聞こえた。つい今しがた席についたばかりの若いカップルが、こちらに視線を向けている。 「完全に不審者じゃん」 「あの眼鏡どこで売ってんだろうな? 昭和のコントかよ」 「でも向かいにいる子可愛くない? 男の子?」 「女だったら趣味ヤベェっしょ」 カップルは派手に噴き出し、肩を震わせて笑っている。 甲洋は操のことが気になった。自分はいい。不審者扱いされることも、嘲笑の的になることにも慣れている。だけど彼はどうだろう。自分といて、恥ずかしく思うことはないのだろうか。 こんなとき、どうしても気に病んでしまう。 甲洋が未だにこのスタイルを崩せないでいるのは、容姿に対するコンプレックスが拭いきれないでいるからだ。過去には無関係の女友達に怪我を負わせたことがある。もし操が同じ目にあえば、甲洋はいよいよ立ち直れなくなってしまうだろう。 自意識過剰かもしれないと、そう思わないこともない。だけどそれほどまでに、自分の容姿には嫌な思い出しかないのだった。 「はぁー! いっぱい笑ったらお腹すいた!」 気持ちを澱ませていたところに、操が大きく息をつきながら声をあげた。そして脇を通り過ぎようとしていた店員に手をあげ、 「店員さーん! タマゴサンドとピザトーストとプリンアラモードくださーい! あとホットケーキも!」 と、声をかけた。甲洋は思わず目を丸くする。 「そんなに?」 「うん。ダメ?」 「いいけど、この時間にそんなに食べたら、夕飯どうするのさ」 「へーきへーき! ちゃんと食べるし!」 腹をぐぅっと鳴らしながら、操がにっこりと満面の笑みを浮かべた。その呑気な笑顔に、甲洋の肩からふっと力が抜けていく。 気にしないのだ。彼は。甲洋がどんな格好をしていたって、案内された席がトイレのすぐ脇だって。可愛いこの子と釣り合わない自分を、甲洋が心の底では密かに気にしていることも。 その頓着のなさに甲洋が救われていることを、彼は知らない。 「はんぶんこして一緒に食べようよ!」 「俺まで晩飯が入らなくなるだろ」 ソワソワと落ち着きがなくなっている操が腹を空かせた子犬にしか見えなくなって、甲洋はついささやかな声をあげて笑ってしまった。 * 秋の終わりに操が甲洋の部屋に転がり込んできてから、年をまたいでそろそろ二ヶ月半になる。 長いようで短いこの間、甲洋の心労は尽きることなく今も続いていた。 操はAV男優を引退してはいるけれど、彼の作品が未だに世に残り続けていることに変わりはない。今もどこかで操をオカズにしている男がいると思うと腹が立つし、例のストーカーだってまだ捕まっていないのだ。 それなのに当の操はどこ吹く風で、甲洋だけが神経質になっている。 夜は外に出るなと口を酸っぱくして言っても、操は面倒くさそうにするだけで効果はなかった。欲しいものがあれば夜中だろうが構うことなく、コンビニでもどこへでも行ってしまう。その無防備さが、甲洋にはまるで理解できない。 そういった心配事を除けば、操との暮らしは良好だった。 大量に持ち込まれた服を収納するための引き出しやクローゼットも買って、テレビも買ったら部屋は多少手狭になったが、特に困るということはない。 操はベタベタとくっついて構い倒してくることもあれば、急に興味をなくしたようにゲームに熱中しはじめることもある。邪魔するとぶーぶー怒るが、一緒にゲームをして遊んでやると無邪気に喜ぶ。 小さな子供と気まぐれな猫を、同時に相手しているような気分だった。 もちろんお揃いのマグカップも買った。 ふたりで蜂蜜たっぷりのホットミルクを飲みながら、夏でもこれなのかと聞いたことがある。すると操は、夏は冷えたミルクに溶けやすい蜂蜜シロップをたっぷり入れて飲むのだと言った。 お腹を壊しそうだと苦笑しながら、だったら揃いのグラスも買わなくちゃなと、これから先のことに思いを馳せてまた幸せを感じるのだった。 * 喫茶店を出たあと、ふたりは本来の目的である操の買い物を済ませるべく、そこからほど近いショッピングモールへと足を向けた。 モカ色をしたタータンチェックのガウンコートを着た操は、「早く早く」と言いながら甲洋の手を掴んで引っ張ってくる。 甲洋は「急ぐと転ぶよ」と軽く咎めながらも、今とっても恋人って感じがする……と、密かに感無量な思いだった。なにせ恋人とのこんなイチャイチャを、ずっと夢見ていたのである。 建物の中に入ってからも、操はずっと甲洋の手を引っ張っていた。時々ブラブラと揺らす仕草に、胸がキュッと締めつけられる。 どこもそれなりに混み合ってはいるものの、人が多いと逆に目につきにくくなるのか、ふだん道を歩いているときほど他人の視線が気にならない。男同士で手を繋いでいたとしても、せいぜい甘ったれで活発な弟と、買い物に付き合わされる野暮ったい兄、くらいにしか見られていなさそうな気がする。(それはそれでちょっと複雑だが) 操は気になるものがあると、しょっちゅう足を止めて寄り道をした。服屋や雑貨屋を何店舗かひやかしたあと、エスカレーターに乗って上階へと移動していく。 操は必ず甲洋より一段高いステップに乗って、「ほら、甲洋がちっちゃく見える」と言って笑った。表面的には苦笑しながら、心の中ではちくしょう可愛いな、と悶絶させられるばかりだった。 「あ!」 途中、操はエスカレーターを降りて正面にあった眼鏡屋に目をとめると、甲洋の手を引いたままそこへ一直線に向かって行った。 「ねぇ甲洋、ちょっとこれ見て」 「眼鏡? 来主って視力悪かったっけ?」 「違うって。ほらこれ、君に似合いそう」 店舗内には大きなテーブル型のディスプレイ台が幾つか設置してある。その上にズラリと眼鏡が並んでおり、好きに試着できるようになっていた。 「ちょっとかけてみてよ」 操はその中から黒縁の四角いスクエア型を手にとると、甲洋に差し出してきた。 「いや、俺はいいよ」 「なんで? ねぇちょっとだけ。かけてるとこ見せてよ!」 一応は眼鏡を受け取りながらも、甲洋はすっかり弱ってしまった。 店内には他にも客がいて、仕切りもないため人通りの多い通路からも丸見えだ。近所を歩くだけでも決して素顔を晒さない甲洋にとって、この状況はかなり厳しいものがある。 しかし操は甲洋の事情を知らないのだ。期待に満ちた瞳がキラキラと輝いているのを見て、甲洋はやむを得ず一瞬だけならと妥協した。 ずしりと重たい瓶底眼鏡をそっと外すと、受け取った眼鏡をかけてみる。それを見た操は「ほら、やっぱり似合うじゃん」と言って得意げだった。 褒められると素直に嬉しくなってしまう。ついつい設置してある鏡に目をやり、自分でも確かめてしまった。 「どう?」 「どう、って言われても。軽い、かな」 「重さの話じゃなくて! 気に入った?」 「うん、まぁ。悪くはない、かな」 はにかんで笑ってしまった甲洋だったが、そのときふと視線を感じてギクリと肩を強張らせた。見れば店内の端にあるカウンターで、女性店員がぽーっと頬を染めながら甲洋を見つめている。 「ちょっと、あのひとイケメンじゃない?」 「え、ヤバ……めっちゃ好みなんだけど……!」 「芸能人かな? 隣の子も可愛い~!」 別のディスプレイ台でフレーム選びをしていたはずの女性客たちまで、こちらを見ながらヒソヒソと耳打ちしあっているのが丸聞こえだった。 取り出したスマホで勝手に写真を撮ろうとしているのを見て、甲洋は慌てて眼鏡を外すと台に戻し、瓶底眼鏡を素早くかけた。 途端に女性客は表情を曇らせ、カウンターにいた店員も残念そうに眉をひそめる。面白いほどの反応の違いにいたたまれず、甲洋は操の手を引いてその場を離れた。 「行くよ、来主」 甲洋に手を引かれながら、なぜか操は終止無言だった。 ふと気になって足を止め、振り返ってみると彼は面白くなさそうに唇を尖らせている。瓶底の奥で目を丸くした甲洋から、プイッと顔を背けてしまった。 「なに、どうかした?」 「べっつにぃ」 さっきまであんなに楽しそうにしていたはずなのに。操は甲洋の手を軽く振り払うと、両手を頭の後ろへやって指を組んでしまった。 すっかり不機嫌な操に困惑しつつも、この態度を見て察せないほど甲洋は鈍くない。 「来主」 「なに」 妬いてる? ──そう口に出しかけた言葉を飲み込んで、甲洋は操に手を差し出すと柔らかく笑いかけた。 「欲しいものがあるんだろ? 早く行こう」 本当は喫茶店での意趣返しも込めて、直接確かめてみたかった。だけどそれをしたら、気が強いこの子はきっともっと不機嫌な顔になってしまうだろう。 甲洋は操のこの態度だけで十分に嬉しさを感じていた。もちろん、少しくらいはからかってやりたい気持ちもあったけれど。 操は差し出された手を横目でチラリと見やってから、頭にやっていた両手をおろしておずおずと指先を伸ばしてきた。手の平にちょんと触れると、また唇を尖らせる。 甲洋はそれを優しく握りしめ、軽く引いて歩きだした。 「……あのさ」 「なに?」 「君さ、やっぱそっちの眼鏡の方がいいよ」 遠回しだけれどとても分かりやすい物言いに、思わず肩を揺らして笑ってしまった。すると操はムッとしながらそっぽを向いてしまう。 せっかく気を使ったのに。どうしても堪えきれなかったものだから、けっきょく操は不機嫌なままだ。 「わかったから。もうそんな顔しないで」 一方的に想いを寄せることに慣れていたせいで、いまいち実感を得られずにいたけれど、自分もまた特別に想われていることに喜びを噛みしめる。 早く帰って抱きしめたいなと、ニヤけそうになるのをぐっと堪えた。 「来主、そういえば欲しいものってなに?」 空気を変えるという意味もあったが、目的が分からなければどこへ行けばいいかも分からない。 操は「そうだった!」と言って思いだしたように表情を明るくすると、甲洋の手を引っ張ってエスカレーターの方へと戻っていった。 「こっちこっち! いっこ上のフロアだよ!」 確かこの上は書籍等の複合量販店だったと記憶している。 「欲しいものって本?」 今度も一段高いステップから見下ろしてくる操に問えば、彼は大きく首を左右に振って、「ゲームだよ」と言った。 「新しいソフト買うんだ」 「来主……ゲームばかりしてると、本当に眼鏡をかけなきゃいけなくなるよ。だいたい、ゲームは飽きたんじゃなかったっけ?」 呆れ顔で言った甲洋に、操は肩をすくめながら眉間にきゅっとシワを寄せた。 「いいじゃん別にぃ」 「よくない。夜ふかしばかりしてさ。あと、ついでに言うけどお菓子も食べすぎ。昨日も夜中にコンビニ行っただろ?」 「えっ、なんで分かるの? 甲洋仕事でいなかったじゃん」 上階についたところでステップを降り、甲洋は大きな溜息をついた。 「ゴミ箱が知らないお菓子の空袋で山になってれば、嫌でも気づくよ」 むしろバレていないと思っていたことが驚きである。 仕事を終えて朝に帰宅すると、前日の夜まではなかったはずの見知らぬゴミが大量に出ているのだ。床に食べカスが落ちていることだってある。操はその横でグースカとゲーム機のコントローラーを握りしめて眠っているのだから、流石に呆れる。 甲洋は書店の出入り口でいったん足を止めると、瓶底越しに険しい瞳を操に向けた。 「来主、何度も言ってるだろ。夜中に一人で出歩くのは危険だって」 「もー、分かったって。それもう聞き飽きたよ」 「分かってないから何度でも言うんだよ。お前を襲ったストーカーだって、まだ捕まってないんだぞ」 操は心底うんざりとした様子で息を漏らした。それから面倒くさそうに甲洋を睨みつける。 「君ってさ、彼氏っていうよりお父さんって感じだよね」 「お、お父さん?」 「おれは嫁入り前の娘じゃないんだからさぁ」 自分としては遺憾なく彼氏面を発揮しているつもりでいたのに、お父さんとはこれいかに。さすがの甲洋もショックを拭えない。 操は甲洋に口うるさく注意されるたび、父親に反発する娘のような気分を味わっていたということだ。そこは『心配性な彼氏♡』と思っていてほしかった。 「そ、そういうんじゃないだろ。俺はお前の彼……」 「もういいよ! お父さんはここで待ってて! おれサクッと行って買ってくるから!」 男心をザクザクと踏み荒らしながら、操は甲洋の手を離すと足早に本屋の中へと消えていく。 要するに「お父さんウザい!」と言われたも同然で、甲洋はその背を追いかけることもできずにただ深く項垂れた。 ←戻る ・ 次へ→
広い店内はほんの数人の客がいるだけで、閑散と並ぶ小島のようにぽつりぽつりとテーブルを埋めている。コーヒーの香りが立ち込める空間に、レコード盤のジャズが緩やかな時の経過と共に流れていた。
そんな中、甲洋と操はフロアの片隅で向かい合って座っていた。
他に空席はいくらでもあるはずなのに、ふたりがついているのは人気のないトイレ脇の席である。俺のせいなんだよなと、甲洋は胸の内で嘆息を漏らした。
なにせ相変わらずの格好だ。
店の中でも脱がずにいるモッズコートは酷くくたびれ、サイズの大きさが長身をモヤシのように貧弱に見せていた。伸ばしっぱなしの癖毛を白い頬に張りつかせ、あげく牛乳瓶の底のように曇った丸眼鏡をかけている。
野暮で貧相。そして胡乱。一種独特のオーラを放ちながらのっそりと入店した甲洋を、店員はホームレスが迷い込んできたかのような不信感と憐憫を滲ませながら、この席に案内した。
甲洋は曇った眼鏡越しに操の様子をうかがった。
彼は熱々のミルクティーにすっかり気を取られている。執拗に息を吹きかけて、火傷をしないようにチビチビと口をつけて飲んでいた。白いニットセーターの袖からちょこんと出ている指先が、カップの熱で赤く染まっている。
操は席のことなどまるで気にしていないらしい。そのことに密かな安堵を覚えながら、甲洋は持ち上げていたコーヒーカップを受け皿に戻した。
「仕事はどう? そろそろ慣れた?」
甲洋の問いかけに、操は「ん」と声をあげながら顔をあげ、にっこり笑って頷いた。
「まぁまぁうまくやれてるよ。失敗することも多いけど」
「まだ一週間じゃしょうがないよ」
「うん。でもね、店長が優しいからぜんぜん平気。ずっと付きっきりで教えてくれるしね」
「付きっきりで?」
「そう、付きっきりで」
操は一週間ほど前から新しくアルバイトを始めていた。ふたりが暮らすマンションから、地下鉄で数駅の場所にある小さなケーキ屋だ。
所属していたAV事務所を辞めたあと、しばらくはのんびりと過ごしていた彼だったが、そろそろゲームばかりしているのにも飽きたらしい。ある日突然、「暇だからバイトする」なんてことを言いだした。
ケーキ屋を選んだのは「余ったケーキを食べられるかもしれない」という、甘党の彼らしい単純な理由からである。
ちなみに今日は操がバイト終わりに買いたいものがあると言うので、今夜は仕事が入っていない甲洋も付き合うことにした。
この喫茶店は駅の裏手にあり、ケーキ屋からも徒歩で10分とかからない場所にある。だからここを待ち合わせ場所にしたのだが、先についていたのが操の方であったなら、今とはまったく別の席へ案内されていただろう。
けれどそんなことよりも、甲洋は操の言葉のほうに大きな引っ掛かりを覚えていた。
「……その店長って」
「ん?」
「男?」
操はカップを皿に戻しながら、きょとんとした顔で首を傾げる。
「そうだけど、なんで?」
「……いや、別に」
言いながら、瓶底眼鏡の奥で思わず目を逸してしまう。操はパチパチと瞬きを繰り返していたが、やがて何かに気づいてにま~っとした笑みを浮かべて見せた。
「ねぇねぇ、それってもしかしてヤキモチ?」
「そういうわけじゃ……」
「ぷっ」
ケラケラと笑いだす操に、甲洋はそうと分かりにくい程度に顔をしかめた。
悪いかよ、と心のなかで毒づきながら赤く染めた頬が、鬱陶しい前髪と曇った眼鏡に上手く隠されていることが救いだった。
「俺はただ心配してるだけだよ」
恋人ができてみて初めて、甲洋は自分が過剰なまでに心配性で独占欲の強い人間であることを知った。
それは操が元AV男優であったことも、大いに関係しているだろう。
男優といってもネコ専で、もっぱら男の娘として売り出されていたため、甲洋のようにヘテロであるにも関わらず懸想してしまった男は、決して少なくないはずだ。
だからその店長の男とやらも、いつどんな気を起こすか知れたもんじゃない。いやむしろ、とっくにそんな気を起こしている可能性が──
「大丈夫だって。お尻触られるくらい、別にどうってことないもん」
「そう、ならいいけ、ど……いや待って。いまなんて言った?」
「ん? だから、腰とかお尻とか」
「……触られたのか?」
「うん。でもおれ、そういうのは慣れてるし。ほら、痴漢バスとかあったでしょ。あの要領だよ」
そんな要領あってたまるか!!
と、叫びたいのをどうにか堪えた。
つまり操はセクハラを受けているということだ。これでもかというほど深く刻まれた眉間のシワを、咄嗟に指先で強く押さえる。
ここがトイレの側だったのは、かえって好都合だった。周辺は席が埋まっておらず、他人に会話を聞かれる心配もない。
操が言っているのは『穢されたメガネっ子セーラー服・わいせつ集団バス痴漢』という作品のことである。部屋に戻ればミサオボックスにしっかり収納されている。過去に何度お世話になったか知れない作品のひとつだ。
内容はメガネにセーラー服姿の【来栖ミサオ】が、バスの車内で集団痴漢にあうというものだった。眼鏡にぶちまけられた白濁や、つり革に拘束されながら乱されていくセーラー服姿の彼に、どれほど興奮させられたことか──。
いや、今はそんな性の思い出に浸っている場合ではない。瓶底眼鏡のせいで分かりにくいが、甲洋は今とんでもなく険しい顔つきになっている。
「どうして今までそれを黙って……」
「別にあそこまでのことはされてな」
「当たり前だ」
食い気味に声を発しながら、もはや手遅れであったことに歯噛みする。
そもそも甲洋は操がバイトをすること自体、最初から手放しで賛成していたわけではないのだ。本音を言えば、ずっと家で遊んでいてくれて構わないとすら思っている。むしろその方が安心だと。
なにせ彼は以前、ストーカーと化したファンに襲われたことがあるのだ。留守のあいだ部屋に侵入され、隠れ潜んでいた男にレイプされかけた。
犯人は逃走したまま、未だに捕まっていない。そいつが今も操を狙っていないとも限らず、その懸念がどうしても胸に引っかかっている。
せめて犯人が捕まるまではなるべく一人で外を歩かせたくないし、夜のあいだ留守を任せておくことだって不安で仕方がないほどだった。
かと言って操がやりたいと思うことを頭ごなしに反対するわけにもいかず、明るい昼間の数時間程度ならばと、無理やり自分を納得させたのだ。
知らない人にはついて行かないこと、人通りの少ない道は避けること、仕事が終わったら連絡すること、そして寄り道しないで帰ってくること。あと、鍵は絶対に失くさないこと──それらもきっちり約束させていた。
操には「心配しすぎ!」と煙たがられてしまったが、甲洋としてはまだまだ言い足りないくらいである。が、やっぱり反対しておけばよかった。
「来主」
「なにー?」
「もうその店には行かなくていい」
「へ?」
「行くな」
「なにそれ! おれにバイト辞めろってこと!?」
深く頷いた甲洋に、操は眉を吊り上げながらテーブルに身を乗り出した。
「そんなのやだよ! せっかく慣れてきたとこなのに! ケーキだって食べられなくなるじゃん! だいたいなんで君が勝手にそんなこと──」
「来主」
低い声で名前を呼んだ。訪れた沈黙のなか、かすかに聞こえるジャズがやけに寒々しい。
瓶底眼鏡の奥で、甲洋は完全に目が据わっていた。レンズが分厚すぎて操からは見えないはずだが、威圧感だけは十分に伝わっているようだった。
それでも気が強い彼は怯むことなく、けれどそれ以上は声を荒げず、ぶぅっと頬を膨らませながら腕を組んでそっぽを向いた。
「おれ、束縛されるのは好きじゃない」
「好きじゃなくて結構だ。こればっかりは譲れない」
そんなドスケベ店長がいる店に、これ以上大事な操を通わせるわけにはいかなかった。自分以外の男が彼にベタベタと触れ、鼻の下を伸ばしているのだと想像するだけで、切れてはいけない血管がブチブチと音を立てて千切れてしまいそうだ。
今すぐ店に殴り込んで行かないだけ、まだ理性的だと思ってほしい。
操は眉を吊り上げたまま甲洋を睨みつけてくる。甲洋もその視線から決して目を逸らさなかった。今まではあまり強気に出られず、なんやかんやと甘やかしていたけれど、負けられない戦いがそこにはあるのだ。
するとだんだん、操の肩が震えてきたことに気がついた。口元も微妙にニヤけはじめ、やがて「ぷふっ」と噴き出したかと思うと笑いだした。
「あははは! やっぱその眼鏡だと緊張感ないや!」
険悪だったムードが、一瞬でふわりとほどけてしまう。
操はうっすらと目尻に滲んだ涙を指先で拭った。
「あーぁ、君ってホント心配性だな。おれは平気だって言ってるのにさ」
「……俺は嫌だ」
低くこぼされた甲洋の本音に、操は瞳をいたずらっぽく細めながら両手で頬杖をつき、「彼氏っぽいね」と楽しげに言った。
「ぽいってなんだよ。ぽいって」
「怒った?」
「……別に。まぁ少し……いや、かなり」
「君って怒らないやつなんだと思ってた。あのね、笑っちゃったけど、本当はちょっとカッコよかったよ」
憎らしさを覚えながらも、そう言われると悪い気はしない。言った本人も嬉しそうに下げた目尻や頬を赤くしているものだから、怒るに怒れなくなってしまった。
そういうところなんだよなぁと、甲洋は思う。格好つけさせてなんかくれやしない。このちょっと生意気で掴みどころのない態度に、いつも振り回されている。
操はまるで手を伸ばすほどにヒラヒラと身をかわす蝶のようだった。
だから甲洋は躍起になる。もうただのファンじゃない。そんなプライドに少しずつ傲慢さを肥大させながら、絶えず惑わされている。それがたまらなく癖になっているから、これはきっと病気なのだ。悩ましくて、狂おしい。
「ねぇ見て、ヤバくね? アレ」
そのときふと、広めの通路を挟んだ向かい側からヒソヒソという話し声が聞こえた。つい今しがた席についたばかりの若いカップルが、こちらに視線を向けている。
「完全に不審者じゃん」
「あの眼鏡どこで売ってんだろうな? 昭和のコントかよ」
「でも向かいにいる子可愛くない? 男の子?」
「女だったら趣味ヤベェっしょ」
カップルは派手に噴き出し、肩を震わせて笑っている。
甲洋は操のことが気になった。自分はいい。不審者扱いされることも、嘲笑の的になることにも慣れている。だけど彼はどうだろう。自分といて、恥ずかしく思うことはないのだろうか。
こんなとき、どうしても気に病んでしまう。
甲洋が未だにこのスタイルを崩せないでいるのは、容姿に対するコンプレックスが拭いきれないでいるからだ。過去には無関係の女友達に怪我を負わせたことがある。もし操が同じ目にあえば、甲洋はいよいよ立ち直れなくなってしまうだろう。
自意識過剰かもしれないと、そう思わないこともない。だけどそれほどまでに、自分の容姿には嫌な思い出しかないのだった。
「はぁー! いっぱい笑ったらお腹すいた!」
気持ちを澱ませていたところに、操が大きく息をつきながら声をあげた。そして脇を通り過ぎようとしていた店員に手をあげ、
「店員さーん! タマゴサンドとピザトーストとプリンアラモードくださーい! あとホットケーキも!」
と、声をかけた。甲洋は思わず目を丸くする。
「そんなに?」
「うん。ダメ?」
「いいけど、この時間にそんなに食べたら、夕飯どうするのさ」
「へーきへーき! ちゃんと食べるし!」
腹をぐぅっと鳴らしながら、操がにっこりと満面の笑みを浮かべた。その呑気な笑顔に、甲洋の肩からふっと力が抜けていく。
気にしないのだ。彼は。甲洋がどんな格好をしていたって、案内された席がトイレのすぐ脇だって。可愛いこの子と釣り合わない自分を、甲洋が心の底では密かに気にしていることも。
その頓着のなさに甲洋が救われていることを、彼は知らない。
「はんぶんこして一緒に食べようよ!」
「俺まで晩飯が入らなくなるだろ」
ソワソワと落ち着きがなくなっている操が腹を空かせた子犬にしか見えなくなって、甲洋はついささやかな声をあげて笑ってしまった。
*
秋の終わりに操が甲洋の部屋に転がり込んできてから、年をまたいでそろそろ二ヶ月半になる。
長いようで短いこの間、甲洋の心労は尽きることなく今も続いていた。
操はAV男優を引退してはいるけれど、彼の作品が未だに世に残り続けていることに変わりはない。今もどこかで操をオカズにしている男がいると思うと腹が立つし、例のストーカーだってまだ捕まっていないのだ。
それなのに当の操はどこ吹く風で、甲洋だけが神経質になっている。
夜は外に出るなと口を酸っぱくして言っても、操は面倒くさそうにするだけで効果はなかった。欲しいものがあれば夜中だろうが構うことなく、コンビニでもどこへでも行ってしまう。その無防備さが、甲洋にはまるで理解できない。
そういった心配事を除けば、操との暮らしは良好だった。
大量に持ち込まれた服を収納するための引き出しやクローゼットも買って、テレビも買ったら部屋は多少手狭になったが、特に困るということはない。
操はベタベタとくっついて構い倒してくることもあれば、急に興味をなくしたようにゲームに熱中しはじめることもある。邪魔するとぶーぶー怒るが、一緒にゲームをして遊んでやると無邪気に喜ぶ。
小さな子供と気まぐれな猫を、同時に相手しているような気分だった。
もちろんお揃いのマグカップも買った。
ふたりで蜂蜜たっぷりのホットミルクを飲みながら、夏でもこれなのかと聞いたことがある。すると操は、夏は冷えたミルクに溶けやすい蜂蜜シロップをたっぷり入れて飲むのだと言った。
お腹を壊しそうだと苦笑しながら、だったら揃いのグラスも買わなくちゃなと、これから先のことに思いを馳せてまた幸せを感じるのだった。
*
喫茶店を出たあと、ふたりは本来の目的である操の買い物を済ませるべく、そこからほど近いショッピングモールへと足を向けた。
モカ色をしたタータンチェックのガウンコートを着た操は、「早く早く」と言いながら甲洋の手を掴んで引っ張ってくる。
甲洋は「急ぐと転ぶよ」と軽く咎めながらも、今とっても恋人って感じがする……と、密かに感無量な思いだった。なにせ恋人とのこんなイチャイチャを、ずっと夢見ていたのである。
建物の中に入ってからも、操はずっと甲洋の手を引っ張っていた。時々ブラブラと揺らす仕草に、胸がキュッと締めつけられる。
どこもそれなりに混み合ってはいるものの、人が多いと逆に目につきにくくなるのか、ふだん道を歩いているときほど他人の視線が気にならない。男同士で手を繋いでいたとしても、せいぜい甘ったれで活発な弟と、買い物に付き合わされる野暮ったい兄、くらいにしか見られていなさそうな気がする。(それはそれでちょっと複雑だが)
操は気になるものがあると、しょっちゅう足を止めて寄り道をした。服屋や雑貨屋を何店舗かひやかしたあと、エスカレーターに乗って上階へと移動していく。
操は必ず甲洋より一段高いステップに乗って、「ほら、甲洋がちっちゃく見える」と言って笑った。表面的には苦笑しながら、心の中ではちくしょう可愛いな、と悶絶させられるばかりだった。
「あ!」
途中、操はエスカレーターを降りて正面にあった眼鏡屋に目をとめると、甲洋の手を引いたままそこへ一直線に向かって行った。
「ねぇ甲洋、ちょっとこれ見て」
「眼鏡? 来主って視力悪かったっけ?」
「違うって。ほらこれ、君に似合いそう」
店舗内には大きなテーブル型のディスプレイ台が幾つか設置してある。その上にズラリと眼鏡が並んでおり、好きに試着できるようになっていた。
「ちょっとかけてみてよ」
操はその中から黒縁の四角いスクエア型を手にとると、甲洋に差し出してきた。
「いや、俺はいいよ」
「なんで? ねぇちょっとだけ。かけてるとこ見せてよ!」
一応は眼鏡を受け取りながらも、甲洋はすっかり弱ってしまった。
店内には他にも客がいて、仕切りもないため人通りの多い通路からも丸見えだ。近所を歩くだけでも決して素顔を晒さない甲洋にとって、この状況はかなり厳しいものがある。
しかし操は甲洋の事情を知らないのだ。期待に満ちた瞳がキラキラと輝いているのを見て、甲洋はやむを得ず一瞬だけならと妥協した。
ずしりと重たい瓶底眼鏡をそっと外すと、受け取った眼鏡をかけてみる。それを見た操は「ほら、やっぱり似合うじゃん」と言って得意げだった。
褒められると素直に嬉しくなってしまう。ついつい設置してある鏡に目をやり、自分でも確かめてしまった。
「どう?」
「どう、って言われても。軽い、かな」
「重さの話じゃなくて! 気に入った?」
「うん、まぁ。悪くはない、かな」
はにかんで笑ってしまった甲洋だったが、そのときふと視線を感じてギクリと肩を強張らせた。見れば店内の端にあるカウンターで、女性店員がぽーっと頬を染めながら甲洋を見つめている。
「ちょっと、あのひとイケメンじゃない?」
「え、ヤバ……めっちゃ好みなんだけど……!」
「芸能人かな? 隣の子も可愛い~!」
別のディスプレイ台でフレーム選びをしていたはずの女性客たちまで、こちらを見ながらヒソヒソと耳打ちしあっているのが丸聞こえだった。
取り出したスマホで勝手に写真を撮ろうとしているのを見て、甲洋は慌てて眼鏡を外すと台に戻し、瓶底眼鏡を素早くかけた。
途端に女性客は表情を曇らせ、カウンターにいた店員も残念そうに眉をひそめる。面白いほどの反応の違いにいたたまれず、甲洋は操の手を引いてその場を離れた。
「行くよ、来主」
甲洋に手を引かれながら、なぜか操は終止無言だった。
ふと気になって足を止め、振り返ってみると彼は面白くなさそうに唇を尖らせている。瓶底の奥で目を丸くした甲洋から、プイッと顔を背けてしまった。
「なに、どうかした?」
「べっつにぃ」
さっきまであんなに楽しそうにしていたはずなのに。操は甲洋の手を軽く振り払うと、両手を頭の後ろへやって指を組んでしまった。
すっかり不機嫌な操に困惑しつつも、この態度を見て察せないほど甲洋は鈍くない。
「来主」
「なに」
妬いてる? ──そう口に出しかけた言葉を飲み込んで、甲洋は操に手を差し出すと柔らかく笑いかけた。
「欲しいものがあるんだろ? 早く行こう」
本当は喫茶店での意趣返しも込めて、直接確かめてみたかった。だけどそれをしたら、気が強いこの子はきっともっと不機嫌な顔になってしまうだろう。
甲洋は操のこの態度だけで十分に嬉しさを感じていた。もちろん、少しくらいはからかってやりたい気持ちもあったけれど。
操は差し出された手を横目でチラリと見やってから、頭にやっていた両手をおろしておずおずと指先を伸ばしてきた。手の平にちょんと触れると、また唇を尖らせる。
甲洋はそれを優しく握りしめ、軽く引いて歩きだした。
「……あのさ」
「なに?」
「君さ、やっぱそっちの眼鏡の方がいいよ」
遠回しだけれどとても分かりやすい物言いに、思わず肩を揺らして笑ってしまった。すると操はムッとしながらそっぽを向いてしまう。
せっかく気を使ったのに。どうしても堪えきれなかったものだから、けっきょく操は不機嫌なままだ。
「わかったから。もうそんな顔しないで」
一方的に想いを寄せることに慣れていたせいで、いまいち実感を得られずにいたけれど、自分もまた特別に想われていることに喜びを噛みしめる。
早く帰って抱きしめたいなと、ニヤけそうになるのをぐっと堪えた。
「来主、そういえば欲しいものってなに?」
空気を変えるという意味もあったが、目的が分からなければどこへ行けばいいかも分からない。
操は「そうだった!」と言って思いだしたように表情を明るくすると、甲洋の手を引っ張ってエスカレーターの方へと戻っていった。
「こっちこっち! いっこ上のフロアだよ!」
確かこの上は書籍等の複合量販店だったと記憶している。
「欲しいものって本?」
今度も一段高いステップから見下ろしてくる操に問えば、彼は大きく首を左右に振って、「ゲームだよ」と言った。
「新しいソフト買うんだ」
「来主……ゲームばかりしてると、本当に眼鏡をかけなきゃいけなくなるよ。だいたい、ゲームは飽きたんじゃなかったっけ?」
呆れ顔で言った甲洋に、操は肩をすくめながら眉間にきゅっとシワを寄せた。
「いいじゃん別にぃ」
「よくない。夜ふかしばかりしてさ。あと、ついでに言うけどお菓子も食べすぎ。昨日も夜中にコンビニ行っただろ?」
「えっ、なんで分かるの? 甲洋仕事でいなかったじゃん」
上階についたところでステップを降り、甲洋は大きな溜息をついた。
「ゴミ箱が知らないお菓子の空袋で山になってれば、嫌でも気づくよ」
むしろバレていないと思っていたことが驚きである。
仕事を終えて朝に帰宅すると、前日の夜まではなかったはずの見知らぬゴミが大量に出ているのだ。床に食べカスが落ちていることだってある。操はその横でグースカとゲーム機のコントローラーを握りしめて眠っているのだから、流石に呆れる。
甲洋は書店の出入り口でいったん足を止めると、瓶底越しに険しい瞳を操に向けた。
「来主、何度も言ってるだろ。夜中に一人で出歩くのは危険だって」
「もー、分かったって。それもう聞き飽きたよ」
「分かってないから何度でも言うんだよ。お前を襲ったストーカーだって、まだ捕まってないんだぞ」
操は心底うんざりとした様子で息を漏らした。それから面倒くさそうに甲洋を睨みつける。
「君ってさ、彼氏っていうよりお父さんって感じだよね」
「お、お父さん?」
「おれは嫁入り前の娘じゃないんだからさぁ」
自分としては遺憾なく彼氏面を発揮しているつもりでいたのに、お父さんとはこれいかに。さすがの甲洋もショックを拭えない。
操は甲洋に口うるさく注意されるたび、父親に反発する娘のような気分を味わっていたということだ。そこは『心配性な彼氏♡』と思っていてほしかった。
「そ、そういうんじゃないだろ。俺はお前の彼……」
「もういいよ! お父さんはここで待ってて! おれサクッと行って買ってくるから!」
男心をザクザクと踏み荒らしながら、操は甲洋の手を離すと足早に本屋の中へと消えていく。
要するに「お父さんウザい!」と言われたも同然で、甲洋はその背を追いかけることもできずにただ深く項垂れた。
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