2025/08/26 Tue 翌朝、操は朝食までしっかり食べて帰っていった。 一緒にいたのはたった一晩だけなのに、空っぽになった部屋がやけに広くて、息がつまるような切なさが胸に刺さった。 それから一週間ほどは、どこかぼんやりとしたまま過ごした。 夜通し仕事をして、朝に戻って、夕方近くまで寝て起きる。相変わらずの格好でときどき買い物に行くだけで、甲洋の生活に変化はない。 操と偶然バッタリ会う、ということもなかった。すぐ隣に住んでいるはずなのに、驚くほど接点がない。外から戻るときは、また鍵でもなくしてあの子が座り込んでいるのではないかと、淡い期待をしては無人の廊下に落胆するばかりだった。 いっそ会いに行ってしまおうかと、幾度もそう考えた。 あれからどう? 住む場所は見つかりそう? また怖い目にあったりしてない? ──気になっているのは事実だし、その切り口ならたぶん自然に会話は成り立つ。 けれどどうしてもその勇気が持てなくて、日が経つほどに機会は失われていくばかりだった。壁一枚しか隔たりがないはずなのに、その距離がまるで異世界じみている。 来栖ミサオのビデオは、あれから一度も見ていない。どうしてかそんな気になれなかったのだ。 思いだすのは彼と過ごした一夜の出来事ばかりで、この記憶だけで一生オカズに困らないのではないかとすら思うほど。 だけど自慰にふけった後の虚無感は、以前と比べものにならないほど大きなものになっていた。記憶も想いも募るばかりで、恋しさだけが膨らんでいく。 このままでは自分がストーカーになりかねないのではないか。 あの子を追い込んだ男の気持ちが、まったく分からないでもないような気すらしてきて、甲洋は自己嫌悪に陥った。 もう忘れたほうがいい。あの夜のことは夢だったのだと、何度もそう思おうとして、けっきょく上手くいかなかった。 そうやって日々は過ぎ、操と過ごした夜から一ヶ月近くが経過した。 秋の空気が冬の気配へと移り変わってきた、ある冷えた朝のことである。 仕事を終えて帰宅したころ、時刻は午前9時を過ぎていた。 瓶底眼鏡を外し、軽くシャワーを浴びたあと、甲洋はキッチンでホットミルクを作っていた。以前よりも、これを作って飲む頻度が増している。 こんなことをしているからいつまで経っても過去にできないのだと、分かっているのにやめられない。健気というか、未練がましいというか。その女々しさが情けなかった。 煮立ってきたところで火を止めて、たっぷりの蜂蜜を入れる。スプーンでかき混ぜ、カップに注ぐとその場で少しずつ冷ましながら口をつけた。柔らかな甘さと熱が、冷え切った身体に染みていく。 ──ピンポーン そのときふいに、来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。 新聞か宗教の勧誘だろうか。相手をするのが面倒で、無視してしまおうかとも考えた。けれど何度も繰り返し鳴らされるので、甲洋は仕方なくカップを置くと、重い足を玄関に向けて引きずった。すると── 「こうよー! ねぇいないのぉ?」 という声がして、甲洋は息を呑みながら咄嗟に耳を疑った。 「いないのかな。そういえばおれ、甲洋がなにしてる人か知らないんだった」 ああ、この声。よく知っている。 会いに行く勇気がもてなくて、だけどずっと会いたかった、大好きなあの子の声だ。 「来主ッ!」 甲洋は弾かれたように扉を開き、勢いよく廊下に顔を出した。すると暖かそうなキャメルのショートダッフルに身を包んだ操が、「うわ!?」と叫んで目を見開いた。 「ビックリしたぁ……いるなら早く出てきてよぉ」 操は生意気そうに眉を釣り上げ、ぶぅっと子供っぽく頬を膨らませた。 「なんで、お前……」 あれほど気持ちを募らせていたわりに、いざ目の前にすると胸がつまって言葉が出ない。なんの前触れもなく現れた操に、甲洋はただ狼狽えるだけだった。 彼の足元には、パンパンに膨らんだ巨大なスポーツバッグが4つも置かれている。どこか旅行にでも行っていたのだろうか。それにしたって荷物が多い。 操は「よいしょ!」と言ってそれらを両手で持ち上げると、元気よく部屋に押し入ってきた。 「お邪魔しまーす!」 「え、ちょっと?」 操はバッグの重さに身体をよろめかせながら、短い廊下をズンズンと進んで部屋に入って行ってしまう。甲洋も慌ててその背を追った。 すべての荷物を床にドサリと置いて、操が息をつきながら手の甲で額を拭う動作を見せる。 「ふぅ、重かった。これだけあると運ぶのが大変。ずいぶん処分したんだけどな」 「来主? これは一体……?」 まったく訳が分からず、困惑した瞳で操と荷物を交互に見やった。操は満面の笑みを浮かべて甲洋を見ると、 「おれ、今日からここに住むことにした」 と、当たり前のように言い放った。 「は!?」 「ねぇ、これぜんぶ服なんだけどさ、どこにしまえばいい? おれは別にこのままでもいいけど、君は散らかるの嫌でしょ? どうしよう?」 操はぺたんと座り込み、荷解きをしはじめながらそう言った。 彼のなかではすでに決定事項になっているらしい事柄も、甲洋にしてみれば寝耳に水だ。再会の喜びに浸る間すら与えられず、話が急展開を見せている。 「どうしようって……」 戸惑うばかりの甲洋を見上げ、操は丸い目をパチパチと踊らせながら首を傾げた。 「もしかしてダメだった? でもおれ他に行くとこないよ。事務所も辞めちゃったし」 「ダメではないよ。ダメではないけど」 「けど?」 甲洋にしてみれば、むしろ願ったり叶ったりの状況だ。しかし、この子は一体どういうつもりでいるのだろう。もし仮にただの友達感覚で同居を考えているのなら、あまりにも浅はかすぎやしないだろうか。 甲洋はヘタレだが、飢えた野獣でもある。彼がしようとしていることは、狼を閉じ込めた檻に素っ裸で転がり込んでいくのと同じだ。 甲洋は操の真意を問うために、彼の正面に正座した。膝にそれぞれ拳を置いて、少し険しい顔をしながら丸い瞳をじっと見つめる。 「来主は、それでいいの?」 「いいってなにが?」 「だから……ここにさ、本当に俺と住むつもり?」 操は「うん」と大きく頷いた。 甲洋はゆっくりと瞬きをしながら、すぅっと深呼吸をする。 「来主。この際だから開き直って言うけど、俺はお前と同じ部屋でなんか暮らしたら、きっといろいろ我慢できない」 「我慢?」 「手を出さない自信がない」 「そんなこと? いいよ、別に」 「……俺が言うのもなんだけど、来主はもっと自分を大切にしたほうがいい」 操は「してるよ」と言って呑気に笑った。 「だから仕事も辞めたんだ。君だってそうしろって言ったじゃん」 「それはそうだけど」 「それに、好きなら一緒にいたいって思うのは当然でしょ?」 「……ん?」 「だったらエッチするのだって普通じゃない?」 「ま、待って」 話が見えているようで見えてこない。なにかまたひとつ、操の口から甲洋が知らされていない事柄が飛び出したような気がした。 もう少し順を追って説明してほしい。甲洋の訴えるような眼差しに、操はなにを言っているんだとばかりに目をキョトンとさせた。 「だって言ったじゃん。おれも好きだよって」 「?」 なにを言われたのかやっぱり理解できない甲洋に、操の眉が困ったように八の字を描く。 「おかしいな。ちゃんと言ったのに」 「なんの話?」 「なんで分かんないの? 君が先に言ったんだよ。そばにいたいって。好きだよ来主って」 「……え!?」 一瞬、頭が真っ白になる。 確かに言った。甲洋は眠っている操の背中に向かって、自分の気持ちを吐き出した。ファンとしてではなくて、一人の男としての感情を。 だけどあれは彼に意識がないと思っていたからで、決して伝えるために漏らした言葉ではなかったのだ。 「お、お前……あれを聞いて……?」 「うん」 ボンッ、と音がしそうなほど、全身の血液が顔中に集まっていく。甲洋はあまりの羞恥に右手を顔に押し当ててうつむいた。 「だからおれも答えたのに」 操が唇を尖らせる。しかし甲洋には、そんな記憶は全くなかった。 「……聞いてないよ。だってお前、寝てたんじゃないの」 「寝オチてたけど、半分くらいは起きてたよ」 「俺は聞いてない」 「そっか、じゃあ夢のなかで言ったんだ」 本人はちゃんと声に出して言ったつもりでいたらしいが、それじゃ聞こえるわけがない。 甲洋は指の隙間から視線だけを持ち上げて、恨めしい眼差しを操に送る。 この一ヶ月、どんな気持ちでいたと思っているのだろう。爆発しそうなほど想いを募らせながら、それでもきっともう関わることはないのだと悲観に暮れていた。 操はセックスをしたことはおろか、下手をすれば甲洋の存在すらとっくに忘れているのだろうと。 「じゃあ今度はちゃんと言うね。おれも君のこと好きだよ」 「ッ……!」 「だから一緒に暮らしたい。いいでしょ?」 あ、これ夢だ──と、甲洋は思った。 今度こそ、いよいよ都合がよすぎる夢を見ているに違いない。現実の自分は、今頃ホットミルクを飲み干して泥のように眠っているのではないか。 だって甲洋はもともとただのファンで、雲の上にいる彼を見上げていられればそれでよかった。 そんな遠い存在が隣に越してきて、ひょんなことから一夜を共にして、童貞を捧げて──同居ではなく、同棲することになるなんて。これが夢じゃないなら、一体なんだというのだろう。 確かめたくて、甲洋は操を取り囲む荷物を脇によけると、両手をついて正座のままスイッと正面に移動した。女の子のようにぺたんと座っている膝と、甲洋の膝がかすかに触れ合う。 ドキドキと胸を高鳴らせながら遠慮がちに右手を伸ばすと、同じく伸ばされた操の左手が甲洋の指先をきゅうっと握る。温かかった。細くてやわい指先の感触に、じわりと熱いものがこみ上げてくる。夢じゃない。確かに感じるぬくもりに、甲洋は震える息を吐き出した。 おずおずと視線だけを持ち上げてみると、操の頬が赤くなっていた。少し恥ずかしそうに顔をうつむけて、繋がっている手と手をじっと見つめている。どこか少女めいた初々しさを感じとり、甲洋の胸がいっそう大きく高鳴った。 お互い頬を染め合いながら、なにを言うでもなく沈黙に身を置く。時が過ぎるほど照れくささに歯がゆくなって、甲洋は絞り出すように口を開いた。 「なんで」 「ん」 「なんで、俺なんかを」 好きになってくれたの。 いくら間がもたないからって、我ながらこっ恥ずかしいことを聞いてしまったと思う。だけど今さら取り消せない。茶化されて終わるかと思いきや、操は意外にも真面目な様子でそれに答えた。 「顔、かな」 「顔」 「うん。ベランダで会ったとき、かっこいい顔した人だなって」 どうしてか嫌じゃない。むしろ嬉しいとすら思ってしまった。操に眼鏡を奪われたときも、綺麗な顔をしていると言われて正直悪い気はしなかったのだ。 この顔のせいで、今までさんざん嫌な思いをしてきた。人前で顔を晒せなくなるくらいには、コンプレックスになっていたはずなのに。 けっきょく好きだからなんだろうなと、甲洋は思う。好きな子が気に入ってくれたなら、なんだって嬉しいしなんだって許せる。単純すぎて、自分でも少し呆れるくらい。 「あとね」 「ま、まだあるの」 操が頷く。 「困ってたら助けてくれたし、ご飯おいしかったし。おれが好きなものを知っててくれたのも嬉しかった。それとね──」 そこでいったん言葉を切り、操は甲洋の指先を握る手の力を強めた。どこか熱っぽく瞳を蕩けさせ、耳まで赤くしながら下唇を噛み締めて、合わせた両膝をもじもじと擦り合わせている。 「来主?」 「……内緒」 赤い顔をしたまま、操は恥ずかしそうにふにゃりと笑った。 なんだか一瞬おかしな空気になりかけたような気がしたが、甲洋はあえて追求しなかった。もちろん気にはなっている。だけど、おいおい聞けたらそれでいい。機会なら、これからいくらでもあるだろう。だって今日からは、ずっと一緒にいられるのだ。 自分は世界一幸せな男なんじゃないかと、わりと本気でそう思う。 はにかむ操につられて、甲洋もふわりと表情を綻ばせた。 そのままなんとなく見つめ合って、繋がっていた指先同士を絡め合う。お互いゆっくりと身体を倒し、顔を近づけていくとキスをした。 「甘いね」 唇が離れた瞬間、操がふわりと目を細めながら呟いた。 そりゃそうだろうと、甲洋は思う。虚無感に苛まれながらチビチビとホットミルクを飲んでいた、ほんの十数分前の自分におかしさを覚えた。 「まだあるよ。飲む?」 「うん、飲む。飲みたい」 「いいよ。いま温めなおすから」 その前にもう一度。唇と唇を軽く触れ合わせ、優しくて甘いキスをした。 さっきより少し長めのキスをしながら、操の服をしまうための家具を見に行かなければと考える。ついでにお揃いのマグカップを買うのもいいかもしれない。 操が大好きな蜂蜜入りのホットミルクを、ふたりで一緒に飲むために。 ハニーポットクライシス / 了 ←戻る ・ 続編へ→
一緒にいたのはたった一晩だけなのに、空っぽになった部屋がやけに広くて、息がつまるような切なさが胸に刺さった。
それから一週間ほどは、どこかぼんやりとしたまま過ごした。
夜通し仕事をして、朝に戻って、夕方近くまで寝て起きる。相変わらずの格好でときどき買い物に行くだけで、甲洋の生活に変化はない。
操と偶然バッタリ会う、ということもなかった。すぐ隣に住んでいるはずなのに、驚くほど接点がない。外から戻るときは、また鍵でもなくしてあの子が座り込んでいるのではないかと、淡い期待をしては無人の廊下に落胆するばかりだった。
いっそ会いに行ってしまおうかと、幾度もそう考えた。
あれからどう? 住む場所は見つかりそう? また怖い目にあったりしてない? ──気になっているのは事実だし、その切り口ならたぶん自然に会話は成り立つ。
けれどどうしてもその勇気が持てなくて、日が経つほどに機会は失われていくばかりだった。壁一枚しか隔たりがないはずなのに、その距離がまるで異世界じみている。
来栖ミサオのビデオは、あれから一度も見ていない。どうしてかそんな気になれなかったのだ。
思いだすのは彼と過ごした一夜の出来事ばかりで、この記憶だけで一生オカズに困らないのではないかとすら思うほど。
だけど自慰にふけった後の虚無感は、以前と比べものにならないほど大きなものになっていた。記憶も想いも募るばかりで、恋しさだけが膨らんでいく。
このままでは自分がストーカーになりかねないのではないか。
あの子を追い込んだ男の気持ちが、まったく分からないでもないような気すらしてきて、甲洋は自己嫌悪に陥った。
もう忘れたほうがいい。あの夜のことは夢だったのだと、何度もそう思おうとして、けっきょく上手くいかなかった。
そうやって日々は過ぎ、操と過ごした夜から一ヶ月近くが経過した。
秋の空気が冬の気配へと移り変わってきた、ある冷えた朝のことである。
仕事を終えて帰宅したころ、時刻は午前9時を過ぎていた。
瓶底眼鏡を外し、軽くシャワーを浴びたあと、甲洋はキッチンでホットミルクを作っていた。以前よりも、これを作って飲む頻度が増している。
こんなことをしているからいつまで経っても過去にできないのだと、分かっているのにやめられない。健気というか、未練がましいというか。その女々しさが情けなかった。
煮立ってきたところで火を止めて、たっぷりの蜂蜜を入れる。スプーンでかき混ぜ、カップに注ぐとその場で少しずつ冷ましながら口をつけた。柔らかな甘さと熱が、冷え切った身体に染みていく。
──ピンポーン
そのときふいに、来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。
新聞か宗教の勧誘だろうか。相手をするのが面倒で、無視してしまおうかとも考えた。けれど何度も繰り返し鳴らされるので、甲洋は仕方なくカップを置くと、重い足を玄関に向けて引きずった。すると──
「こうよー! ねぇいないのぉ?」
という声がして、甲洋は息を呑みながら咄嗟に耳を疑った。
「いないのかな。そういえばおれ、甲洋がなにしてる人か知らないんだった」
ああ、この声。よく知っている。
会いに行く勇気がもてなくて、だけどずっと会いたかった、大好きなあの子の声だ。
「来主ッ!」
甲洋は弾かれたように扉を開き、勢いよく廊下に顔を出した。すると暖かそうなキャメルのショートダッフルに身を包んだ操が、「うわ!?」と叫んで目を見開いた。
「ビックリしたぁ……いるなら早く出てきてよぉ」
操は生意気そうに眉を釣り上げ、ぶぅっと子供っぽく頬を膨らませた。
「なんで、お前……」
あれほど気持ちを募らせていたわりに、いざ目の前にすると胸がつまって言葉が出ない。なんの前触れもなく現れた操に、甲洋はただ狼狽えるだけだった。
彼の足元には、パンパンに膨らんだ巨大なスポーツバッグが4つも置かれている。どこか旅行にでも行っていたのだろうか。それにしたって荷物が多い。
操は「よいしょ!」と言ってそれらを両手で持ち上げると、元気よく部屋に押し入ってきた。
「お邪魔しまーす!」
「え、ちょっと?」
操はバッグの重さに身体をよろめかせながら、短い廊下をズンズンと進んで部屋に入って行ってしまう。甲洋も慌ててその背を追った。
すべての荷物を床にドサリと置いて、操が息をつきながら手の甲で額を拭う動作を見せる。
「ふぅ、重かった。これだけあると運ぶのが大変。ずいぶん処分したんだけどな」
「来主? これは一体……?」
まったく訳が分からず、困惑した瞳で操と荷物を交互に見やった。操は満面の笑みを浮かべて甲洋を見ると、
「おれ、今日からここに住むことにした」
と、当たり前のように言い放った。
「は!?」
「ねぇ、これぜんぶ服なんだけどさ、どこにしまえばいい? おれは別にこのままでもいいけど、君は散らかるの嫌でしょ? どうしよう?」
操はぺたんと座り込み、荷解きをしはじめながらそう言った。
彼のなかではすでに決定事項になっているらしい事柄も、甲洋にしてみれば寝耳に水だ。再会の喜びに浸る間すら与えられず、話が急展開を見せている。
「どうしようって……」
戸惑うばかりの甲洋を見上げ、操は丸い目をパチパチと踊らせながら首を傾げた。
「もしかしてダメだった? でもおれ他に行くとこないよ。事務所も辞めちゃったし」
「ダメではないよ。ダメではないけど」
「けど?」
甲洋にしてみれば、むしろ願ったり叶ったりの状況だ。しかし、この子は一体どういうつもりでいるのだろう。もし仮にただの友達感覚で同居を考えているのなら、あまりにも浅はかすぎやしないだろうか。
甲洋はヘタレだが、飢えた野獣でもある。彼がしようとしていることは、狼を閉じ込めた檻に素っ裸で転がり込んでいくのと同じだ。
甲洋は操の真意を問うために、彼の正面に正座した。膝にそれぞれ拳を置いて、少し険しい顔をしながら丸い瞳をじっと見つめる。
「来主は、それでいいの?」
「いいってなにが?」
「だから……ここにさ、本当に俺と住むつもり?」
操は「うん」と大きく頷いた。
甲洋はゆっくりと瞬きをしながら、すぅっと深呼吸をする。
「来主。この際だから開き直って言うけど、俺はお前と同じ部屋でなんか暮らしたら、きっといろいろ我慢できない」
「我慢?」
「手を出さない自信がない」
「そんなこと? いいよ、別に」
「……俺が言うのもなんだけど、来主はもっと自分を大切にしたほうがいい」
操は「してるよ」と言って呑気に笑った。
「だから仕事も辞めたんだ。君だってそうしろって言ったじゃん」
「それはそうだけど」
「それに、好きなら一緒にいたいって思うのは当然でしょ?」
「……ん?」
「だったらエッチするのだって普通じゃない?」
「ま、待って」
話が見えているようで見えてこない。なにかまたひとつ、操の口から甲洋が知らされていない事柄が飛び出したような気がした。
もう少し順を追って説明してほしい。甲洋の訴えるような眼差しに、操はなにを言っているんだとばかりに目をキョトンとさせた。
「だって言ったじゃん。おれも好きだよって」
「?」
なにを言われたのかやっぱり理解できない甲洋に、操の眉が困ったように八の字を描く。
「おかしいな。ちゃんと言ったのに」
「なんの話?」
「なんで分かんないの? 君が先に言ったんだよ。そばにいたいって。好きだよ来主って」
「……え!?」
一瞬、頭が真っ白になる。
確かに言った。甲洋は眠っている操の背中に向かって、自分の気持ちを吐き出した。ファンとしてではなくて、一人の男としての感情を。
だけどあれは彼に意識がないと思っていたからで、決して伝えるために漏らした言葉ではなかったのだ。
「お、お前……あれを聞いて……?」
「うん」
ボンッ、と音がしそうなほど、全身の血液が顔中に集まっていく。甲洋はあまりの羞恥に右手を顔に押し当ててうつむいた。
「だからおれも答えたのに」
操が唇を尖らせる。しかし甲洋には、そんな記憶は全くなかった。
「……聞いてないよ。だってお前、寝てたんじゃないの」
「寝オチてたけど、半分くらいは起きてたよ」
「俺は聞いてない」
「そっか、じゃあ夢のなかで言ったんだ」
本人はちゃんと声に出して言ったつもりでいたらしいが、それじゃ聞こえるわけがない。
甲洋は指の隙間から視線だけを持ち上げて、恨めしい眼差しを操に送る。
この一ヶ月、どんな気持ちでいたと思っているのだろう。爆発しそうなほど想いを募らせながら、それでもきっともう関わることはないのだと悲観に暮れていた。
操はセックスをしたことはおろか、下手をすれば甲洋の存在すらとっくに忘れているのだろうと。
「じゃあ今度はちゃんと言うね。おれも君のこと好きだよ」
「ッ……!」
「だから一緒に暮らしたい。いいでしょ?」
あ、これ夢だ──と、甲洋は思った。
今度こそ、いよいよ都合がよすぎる夢を見ているに違いない。現実の自分は、今頃ホットミルクを飲み干して泥のように眠っているのではないか。
だって甲洋はもともとただのファンで、雲の上にいる彼を見上げていられればそれでよかった。
そんな遠い存在が隣に越してきて、ひょんなことから一夜を共にして、童貞を捧げて──同居ではなく、同棲することになるなんて。これが夢じゃないなら、一体なんだというのだろう。
確かめたくて、甲洋は操を取り囲む荷物を脇によけると、両手をついて正座のままスイッと正面に移動した。女の子のようにぺたんと座っている膝と、甲洋の膝がかすかに触れ合う。
ドキドキと胸を高鳴らせながら遠慮がちに右手を伸ばすと、同じく伸ばされた操の左手が甲洋の指先をきゅうっと握る。温かかった。細くてやわい指先の感触に、じわりと熱いものがこみ上げてくる。夢じゃない。確かに感じるぬくもりに、甲洋は震える息を吐き出した。
おずおずと視線だけを持ち上げてみると、操の頬が赤くなっていた。少し恥ずかしそうに顔をうつむけて、繋がっている手と手をじっと見つめている。どこか少女めいた初々しさを感じとり、甲洋の胸がいっそう大きく高鳴った。
お互い頬を染め合いながら、なにを言うでもなく沈黙に身を置く。時が過ぎるほど照れくささに歯がゆくなって、甲洋は絞り出すように口を開いた。
「なんで」
「ん」
「なんで、俺なんかを」
好きになってくれたの。
いくら間がもたないからって、我ながらこっ恥ずかしいことを聞いてしまったと思う。だけど今さら取り消せない。茶化されて終わるかと思いきや、操は意外にも真面目な様子でそれに答えた。
「顔、かな」
「顔」
「うん。ベランダで会ったとき、かっこいい顔した人だなって」
どうしてか嫌じゃない。むしろ嬉しいとすら思ってしまった。操に眼鏡を奪われたときも、綺麗な顔をしていると言われて正直悪い気はしなかったのだ。
この顔のせいで、今までさんざん嫌な思いをしてきた。人前で顔を晒せなくなるくらいには、コンプレックスになっていたはずなのに。
けっきょく好きだからなんだろうなと、甲洋は思う。好きな子が気に入ってくれたなら、なんだって嬉しいしなんだって許せる。単純すぎて、自分でも少し呆れるくらい。
「あとね」
「ま、まだあるの」
操が頷く。
「困ってたら助けてくれたし、ご飯おいしかったし。おれが好きなものを知っててくれたのも嬉しかった。それとね──」
そこでいったん言葉を切り、操は甲洋の指先を握る手の力を強めた。どこか熱っぽく瞳を蕩けさせ、耳まで赤くしながら下唇を噛み締めて、合わせた両膝をもじもじと擦り合わせている。
「来主?」
「……内緒」
赤い顔をしたまま、操は恥ずかしそうにふにゃりと笑った。
なんだか一瞬おかしな空気になりかけたような気がしたが、甲洋はあえて追求しなかった。もちろん気にはなっている。だけど、おいおい聞けたらそれでいい。機会なら、これからいくらでもあるだろう。だって今日からは、ずっと一緒にいられるのだ。
自分は世界一幸せな男なんじゃないかと、わりと本気でそう思う。
はにかむ操につられて、甲洋もふわりと表情を綻ばせた。
そのままなんとなく見つめ合って、繋がっていた指先同士を絡め合う。お互いゆっくりと身体を倒し、顔を近づけていくとキスをした。
「甘いね」
唇が離れた瞬間、操がふわりと目を細めながら呟いた。
そりゃそうだろうと、甲洋は思う。虚無感に苛まれながらチビチビとホットミルクを飲んでいた、ほんの十数分前の自分におかしさを覚えた。
「まだあるよ。飲む?」
「うん、飲む。飲みたい」
「いいよ。いま温めなおすから」
その前にもう一度。唇と唇を軽く触れ合わせ、優しくて甘いキスをした。
さっきより少し長めのキスをしながら、操の服をしまうための家具を見に行かなければと考える。ついでにお揃いのマグカップを買うのもいいかもしれない。
操が大好きな蜂蜜入りのホットミルクを、ふたりで一緒に飲むために。
ハニーポットクライシス / 了
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