2025/08/26 Tue 「甲洋のせいだよ」 右足の膝から下が、見たこともないほどおびただしい量の血で染まっていた。 「ほら見て……いっぱい血がでてる。おれの足、こわれちゃったよ」 過ぎた痛みが、皮肉にも感覚を麻痺させていく。 意識が虚ろになっていくなか、降りしきる雨が幼い体温を奪っていった。 ああ、多分、このまま死ぬ。子供心に、そう思う。けれど操は笑っていた。涙を流しながら笑っていた。嬉しいと、そう感じていた。 「甲洋がいじわるだから、おれの足、こんなになっちゃったんだよ」 甲洋は可哀想なくらい震えていた。その姿を見て、操は彼もまだ自分とそう変わらない、ちっぽけな子供でしかないことに気がついた。 古い倒木の、突き出た枝に脛を貫かれ、膝の関節からぽっきりとおかしな方向に折れ曲がっている操の右足を見て、アケビのような青紫の顔色で、歯の根をカチカチと鳴らしている。 その表情を見ていると、操の心が風船を束ねたように浮き上がる。ついにはクスクスと声を上げて、笑いだしていた。 「これでおれたち、ずーっといっしょにいられるね」 それはたったひとつの呪いの言葉。 幸せになんかなれないことを、操はちゃんと知っていたのに。 * 空を覆い尽くすようにして、闇が迫っていた。 遠くの山々が織りなす黒い起伏に、なけなしの橙が今にも押し潰されそうになっている。 カラスの群れが声を交差させる中、藍色の浴衣を着た少年がひとり、縁側に腰を落ち着けて薄ぼんやりとした庭を眺めていた。 時間だけが丹念に塗り重ねられた、古色の家屋。ここには今、彼しかいない。 本当なら、彼はもう少年と呼べる年齢ではなかった。けれど青年というには、あまりにも幼い顔立ちをしている。身体つきもどこか未成熟なままで、白い手は男性特有の骨ばった筋がほとんどない。淡桃の指先が、色づきはじめた果実のようにいとけなかった。 少年だ。彼は。少年のまま、時を止めている。そんな彼のことを二十歳を迎えた大人の男性だなんて、きっと誰も思わない。 暗く沈んだ視線の先では、群生するオトギリソウが夏の生暖かい風に吹かれて揺れていた。幻想的ともいえるその光景に、けれど彼の心が動かされることはない。 魂を持たない人形のように、彼はただ虚ろな瞳でそこに存在しているだけだった。 「来主」 涼やかで優しい声が、少年の名を呼んだ。少年は──来主操はたったいま息を吹き返したようにピクリと肩を揺らし、のったりとした動作で顔を上げる。 そこには目鼻立ちが整った長身の青年が、ジャケットだけを脱いだスーツ姿で佇んでいた。緩やかに波を描く焦げ茶の髪が頬にかかり、白皙の表情に理知的な揺らめきを見せている。 操はそんな青年に向かって、琥珀の瞳をすっと細めた。薄かった辺りの闇が、ぐっと濃くなったような気がする。 「……遅かったね、甲洋」 操が平坦な声でそう言うと、甲洋は小さく「ごめん」と言った。 「仕事の後処理に、少しね。どこか他で道草を食っていたわけじゃないよ」 理由なんてどうでもよかった。操にとって一番の問題は、『甲洋が約束していた通りの時間に戻らなかったこと』、ただそれだけだ。 彼は言った。今朝、家を出るときに言ったのだ。操の頬にキスをしながら、陽が沈む前には帰るからと。 その言葉を信じて、操は甲洋の帰りを待っていた。誰もいない、誰も来ないこの家で、縁側に座って、ずっと空を見上げ、時の経過と共に色を変える草木と共に、待っていた。そうしているうちに、すっかり陽は沈んでいた。甲洋は帰ってこなかった。約束を守らないやつは、ただの嘘つきだ。 操はすぐ側に立てかけていた木製の杖を右手に持つと、それで身体を支えながら踏み石の上に立ち上がる。 「謝って。そこに膝をついて、もっとちゃんとごめんなさいしてよ」 真正面の地面を指さすと、甲洋はなんのためらいもなく地面に両手両膝をつく。そして深々と頭を下げ、「本当にごめん」と改めて謝罪した。 それでも操の溜飲が下がることはなかった。抗おうとする素振りすら見せない、その落ち着き払った従順さに、どうしてか追い立てられるような苛立ちが募る。 操は杖をつき、右足を庇うようにして引きずりながら石の段差から静かに降りた。 「……甲洋」 額を地面に押し付けたままでいる甲洋の名を呼び、唇を戦慄かせながら見下ろした。さっきまで人形のように干からびていたのが嘘のように、今は腹の中が煮えたぎっている。許せなかった。甲洋にこんなことをさせてまで、なぜ怒りを抑えることができないのだろう。自分でも、理解できない。 (やめて) 操の意思を突き破り、赤黒い感情が噴きだしてくる。 (ねぇやめて。甲洋は謝ったよ。ちゃんとごめんなさいしたよ。だからお願い、出てこないで) 必死で抑え込もうとするのに、それは止め処なく溢れて、操の理性を丸飲みにする。 やめてやめてと訴える声がやがて途切れて、消えてしまった。 「本当は帰って来たくなかったんでしょ」 「違う」 「どうしてそんな嘘つくの」 「嘘じゃない。本当だよ」 「そんなの信じられるわけない!」 甲洋の言葉を頭ごなしに否定して、喉がヒリつくほど声を張り上げた。それはまるで引き金のように自身の怒りへ油を注いだ。炎が凄まじい勢いで燃え盛るような衝動に、抗うことができない。 気がつけば杖を両手に構え、大きく振り上げると丸くなっている背に思い切り打ちつけていた。 「待ってたのに! ずっと待ってたのに! 嘘つき! 甲洋の嘘つき!!」 「ッ、ぅぐ……ッ!」 何度も何度も、痛みにその背が跳ねあがる度に声を荒げ、杖で打ち据える。目の前が赤く染まっていた。だただた憎しみばかりが身体の内側で膨れ上がり、今にも弾け飛んでバラバラになってしまいそうだった。 「ねぇ、本当のこと言ってよ! 甲洋は、おれのことが嫌なんだ! おれなんかどうでもいいんだ! だから帰って来たくなかったんだ!!」 「話を……ッ」 聞いてくれ、と掠れた声を絞り出しながら顔を上げた甲洋の横っ面にさえ、杖を叩きつける。彼は低く呻きながら体勢を崩し、横倒しになってもなお、顔を上げた。 「来主、俺は」 「うるさい! 君のせいだ! 君のせいでおれはこんなふうになっちゃったんだ! おれの足がこんななのも、外に出られないのも、ぜんぶぜんぶ、君の……──ッ!!」 「来主!!」 一段と大きく杖を振り上げた瞬間、病んだ片足では体重を支えきれずに、操は体勢を崩した。地に伏していたはずの両腕が伸びて来て、力強く引き寄せられる。結果的に操は浴衣の裾を汚すことにはなってしまったが、衝撃はほとんどないに等しかった。 「大丈夫か?」 甲洋の胸に顔を埋め、きつく目を閉じていた操はピクリと肩を震わせる。恐る恐る顔を上げれば、濃い闇の中で気遣わしげに向けられる視線と目が合った。呆然とした表情で言葉を失う操を抱きしめ、甲洋が大きく安堵の息をつく。 「怪我なんかしたら、大変だ」 そう言って甲洋は操の肩を抱き、両の膝裏にも腕を差し込むと抱え上げる。縁側にそっと降ろされても、操は一言も声を発することが出来なかった。あまりにも急激に鎮火した炎が、白い煙だけをただ静かに立ち昇らせるように、操から思考を奪っていた。 甲洋が小さく笑うのが気配で伝わる。彼は地面に落ちた杖を拾い、操の側に立てかける。大きな手で亜麻色の髪を撫で、「お腹空いただろ」と諭すように言うと、革靴を脱いでそのまま縁側から家に上がり込んだ。 「……けが」 背後で灯された光を背負いながら、動けないままでいた操は呆然と呟いた。甲洋の足音が遠ざかり、沈黙だけが辺りを満たす。 ゆっくりと意識が浮上するにつれ、操は足元から這い上がるような悪寒に背筋を凍らせた。 たった今、怪我をしたのは甲洋だ。 何度も何度も杖で殴って、この手で痛めつけてしまった。 あの広い背中にも、綺麗な顔にも、きっと今ごろ酷い痣が──。 「ああ……なんで……おれ、また……」 やってしまった。 全身を震わせながら、操は這うようにして家の中へ入ると、壁に打ち付けられている手摺に縋って立ち上がる。掴まりながら廊下に出て移動した先は台所で、ネクタイを緩めて腕まくりをした甲洋が、土で汚れた手を洗っているところだった。 「甲洋……っ」 「来主? どうした?」 真っ青になりながらやって来た操に、水道の蛇口を閉めた甲洋が振り返る。その顔は案の定、左頬が赤黒く変色していた。薄く端正な唇の端にも、真っ赤な血がこびりついている。色素の薄い瞳を丸く見開き、首を傾げる甲洋に向かって、操は雪崩れ込むように両手を伸ばした。 「ッ、来主!?」 操が転倒するよりも先に、即座に甲洋が受け止める。 「危ない! 転んだらどうするんだ!」 「そんなの、いい」 「よくない。こんなに震えて……寒いのか?」 顔にこんな酷い痣を作っておきながら、それをやった張本人を優しく気遣う甲洋が、いっそ怖いとすら思えた。本当は怒っているんじゃないのか。さっきまでの自分のように、腸が煮えくり返るほど。 (嫌われちゃう……こんなことばっかしてたら、絶対に……) いつだって操の怒りは理不尽だ。暴力をふるったのも、暴言を叩きつけたのも、今日が初めてのことじゃない。ほんの些細なことで我を忘れて、今までだって何度も彼を傷つけてきた。 そのたびにこうして後悔するのに、やめられない。一度でも感情に火がつくと、人格が入れ替わるみたいに制御が不能になってしまう。 「ごめん……ごめん甲洋、ごめんなさい、ごめんなさい……おれ、どうしてこんなひどいこと……もうしないよ……絶対に、もうしないから……!」 もうしない。これまで、なんど同じことを繰り返し言っただろう。だけど本心だった。もう殴りたくない。酷いことは言いたくない。傷つけたくない。操には甲洋しかいない。彼だけが、世界の全てだ。 けれどきっと、傍にいる限りまた、同じことを繰り返すに違いなかった。 「甲洋……おれのこと、殴っていいよ」 「バカ言うな」 「やり返していいから、だからお願い、嫌わないで……」 「来主」 縋りつく操の頬に、湿った指先が触れた。労るように撫でられると、琥珀の瞳から涙が溢れる。 「お前はなにも悪くない。悪いのは、帰りが遅れた俺の方だよ」 「うぅん違う……わかってるんだ。甲洋は嘘なんかつかない。おれの足がこんなだから、だからおれのぶんまで、いつもがんばってお仕事してる。ちゃんとわかってる。信じてるんだ……」 ふっと小さく息を漏らしながら、甲洋が笑う。操の額に唇を押しつけ、「それで十分だよ」と言った。 「お前がまともに歩けなくなったのも、外に出られないのも、なにもかも俺のせいだ。俺が子供のころ、お前に大怪我を負わせたから。覚えてるだろ?」 「……うん」 「あの時のことは、きっと死ぬまで忘れられない。俺が……俺があんなことさえしなければ……」 整った眉根を寄せながら、甲洋が苦しそうに目を細めた。その自責に満ちた表情を見ていると、操の胸から不思議と罪悪感が薄れていく。霧がかかったように思考がぼやけ、押し潰されそうになっていた心がふわりと軽くなる。 そう、操の右足が病んで使い物にならなくなったのは、幼い頃に起こった不幸な出来事が原因だった。そしてその発端は甲洋にある。『あんなこと』さえなければ、今ごろ操はこんな不自由な生活を強いられることもなかった。ごく普通に学校に行ったり、バイトをしたりして、好きなときに好きな場所へ行き、何にも縛られることなく生活できていたはずだ。 けれど今の操は、日がな一日この家に閉じこもって甲洋の帰りを待つだけの、籠の鳥も同然の生活を送っている。外に出るとすれば、せいぜい塀と木々で囲われた小さな庭を歩きまわる程度だ。 「だからいいんだよ。お前は俺になにをしたって許される。お前のためだけに生きるって、俺はあのとき誓ったんだ」 それに、と甲洋は優しい声音でさらに続ける。 「お前は生まれつき身体が弱いだろ? 足のこともそうだけど、すぐに風邪を引くし、調子を崩して寝込んでしまう」 「……うん」 「だから俺は、来主には家にいて欲しいと思ってる。どうせこの家には俺たちしかいないし、お前ひとり食わせていくぐらい、どうってことないよ」 「そっか……そうだよね……ありがと、甲洋」 甲洋の腕の中で、操は安堵の息を漏らした。彼が言うように、操は身体が弱かった。皮膚は青白く、華奢で、太陽の光を長時間浴びるだけでも貧血を起こすし、少しのことですぐに熱を出して寝込んでしまう。あげく杖をついていてさえ、足元がおぼつかない。 こんな自分がまともに外で生活できるわけがないのだ。ましてや一人で生きていくなんて。 「甲洋がおれのこと面倒みるのは、当たり前のこと、なんだよね」 自分は何も悪くない。悪いのは甲洋だ。甲洋が、『あのとき』意地悪をしたから。 自らに言い聞かせるように呟いた操に、甲洋は嬉しそうに微笑みながら頷いた。 「一生かけて、償わせてほしい」 一生。 その言葉はどこまでも甘く、けれど操の胸を酷くざわつかせる。甲洋の優しさと従順さを見せつけられるたびに、本当は。 (嘘つきなのは、おれのほうなのに) どんなに満たされたふりをしても、決して消えない『嘘』を、操は心の奥底にしまい込んでいた。こうしていると得られる安堵の裏側には、いつだって冷たい影がぴったりと張りついて離れない。 (でも) この鳥籠から出るということは、同時に甲洋を手放すということだった。操にとって、それ以上に怖いことなどない。 胸の底にこの嘘を沈めておく限り、甲洋はずっと、操のものであり続けるのだ。 「甲洋、大好き。あいしてる」 両腕で縋りつき、その肩口に顔を埋める操を抱きしめて、甲洋は囁くような声で「俺もだよ」と言った。 * 操が生まれたときからずっと暮らしているこの家は、操を産み捨てた母親の両親の家だった。 父親はどこの誰だか分からない。母は最後までなにも語らずに操を産んで、祖父母の家に置き去りにしたあと、蒸発してしまった。 けれど操は優しい祖父母のもとで、なんの不便も寂しさも感じずに暮らすことができていた。欲しいものはなんでも買ってもらえたし、イタズラをしたって叱られない。祖父母はいつもニコニコとして、孫の操をとても可愛がってくれていた。 初めて春日井甲洋と会ったのは、操がまだ小学一年生──七つになったばかりの頃だった。 夏休みに両親が長期旅行へ行くため、そのあいだ甲洋だけが、遠縁である来主の家に預けられることになったのだ。 遠くの島から親戚の子が遊びに来ると聞いたときから、操は彼に会うのをとても楽しみにしていた。なにをして遊ぼうかなと、毎日のようにワクワクしながら甲洋の訪れを指折り数えていた。 けれどいざとなるとなんだか恥ずかしくて、操は祖母の後ろに隠れたまま、甲洋の顔を見ることすらできなかった。 「操ちゃん、ほら。甲洋くんだよ。ご挨拶して」 オトギリソウの咲く庭で、一人はるばる船と電車を乗り継いでやってきた甲洋は、なかなか顔を見せようとしない操にきょとんとしていた。 祖母はしがみついて離れない操にとても困った顔をしている。けれど何度も促され、ようやくおそるおそる顔をだした。 もじもじとしながら前に出ると、上目使いで甲洋を見る。すると甲洋はなぜか一瞬、驚いたように目を丸くして頬を染めた。それからふわりと微笑んで、「はじめまして」と言うと操に手を差し出してきた。 「今日からよろしく。なかよくしよう?」 その手と笑顔を交互に見て、操も頬を赤くする。 優しそうな甲洋の笑顔は、緊張していた心を包み込むように解きほぐしてくれた。 この子となら、きっとすぐに仲良くなれる。そう思わせるものが甲洋にはあって、操はそのたった一瞬で、彼のことが大好きになってしまった。 「うん、よろしく甲洋! いっぱいあそぼうね!」 操は生えてきたばかりの白い前歯を見せながら、小さな手で甲洋の手を握ると笑った。 花が咲いたように明るい操の笑顔を見て、甲洋は嬉しそうだった。 その日から、ふたりは毎日のように一緒に遊んだ。 田んぼでカエルを捕まえたり、川で魚を釣ったり、セミやカブトムシを採ったりもした。夜は同じ布団に入って、いつまでも飽きることなくお喋りをした。 甲洋はいつだって優しくて、採った虫はその日のうちにそっと逃してやっていた。宿題も手伝ってくれたし、夜中に一人でトイレに行けない操に付き添ったりもしてくれた。 操はそんな甲洋が大好きだった。友達と兄弟が一度にできたみたいで、とても嬉しかったのだ。 * 朝からセミの合唱がこだまする中、リンの音が尾を引くように鳴り響いた。 澄んだ音色が静かに途切れ、余韻を残す。細い煙になって立ち込める白檀の香は、何度かいでも優しくて、どこか懐かしい。 祖父母の仏壇に手を合わせ、目を閉じていた操は、襖が開く音に顔を上げるとにっこり笑った。 「あ、甲洋。もう行く時間?」 ワイシャツの袖を捲り、ネクタイをきゅっと締め直す甲洋は、操に笑い返すと「うん」と頷く。畳の上に腰を下ろしたままでいた操は四つん這いになると、仏壇の横の手摺に縋ろうと手を伸ばした。玄関まで見送りをしようと思ったからだ。が、その手を取られて顔を上げる。 「いい。今日は縁側から出るよ」 「……あ、そっか」 障子が開け放たれた向こう側を見やる。青い空と強い陽射し。オトギリソウの咲き乱れる小さな庭と、よく磨かれた縁側の床板。昨日、甲洋はここから靴を脱いで中に入ったのだった。 再び座布団にぺたりと腰を落ち着ける操の隣に、甲洋が正座する。たった今まで操がしていたように、仏壇に手を合わせるその横顔には大きな湿布が張り付いていた。 顔を上げた甲洋は、そのまま仏壇に飾られている写真に向かって目を細める。 「あれから2年、か」 仏壇の写真には操の祖父母が笑顔で写り込んでいる。祖父は操が中学に上がってすぐの頃、そして祖母は高校卒業と同時に他界した。 甲洋がこの家に暮らすようになったのは7年も前のことだが、当時まだ祖母は存命だった。だからふたりきりになってからは2年弱、ということになる。操は二十歳に、甲洋は22歳になっていた。 「君が島を出て、こっちの学校に来るって聞いたときはびっくりしたよ。ずっとそうなればいいなって思ってたから、すごく嬉しかった」 「お前のおばあちゃんのおかげ。よく許してくれたと思うよ。血の繋がりなんかないのにさ」 「おれとふたりぼっちになっちゃったからね。寂しかったんだよ、きっと」 「そうだね……あっと、いけない。遅刻する」 腕時計に視線を落とした甲洋が立ち上がり、縁側に向かう背中を操は四つん這いで追いかける。靴を履く後ろ姿を、板の間にペタリと座り込んで眺めた。この薄いワイシャツの下には、昨日操が杖で叩きつけた痣がある。いや、彼の身体中には似たような傷跡が、幾つも残っているのだ。癒える前に次から次へと、操が感情を制御できなくなるたびに、彼に暴力をふるうから。 昨日のように杖を使うこともあるし、食器や瓶や、とにかくその場にあるもの全てを使って、彼を痛めつけてしまう。 「今日は絶対に定時で上がるよ。帰りに少し買い物をするけど、6時までには必ず帰るから」 「……わかった」 「昼飯、ちゃんと食うように」 「大丈夫だよ。おれだってそうめんくらい茹でられるもん」 「火の始末はしっかりね。長い時間庭に出ないように。暑いから、水分もマメに補給すること」 それと──甲洋は見上げてくる操の髪に手を伸ばし、名残を惜しむようにそっと撫でた。 「いい? 庭までだよ。門の外には出ないで。俺がいない間に何かあったら」 「もー! 大丈夫だってば。わかってる。ねぇ、早くしないと本当に遅刻するよ!」 操が少しうんざりしたように言うと、再び時計を見やった甲洋は珍しく舌打ちをした。すぐに駆けだすのかと思いきや、彼は身を屈めて操の顎に指を添えると、小さく唇を重ねて笑顔を見せる。 「いってきます」 「ん、いってらっしゃい」 大きな歩幅で去っていく背を見送りながら、操は溜息を漏らした。 「心配性だな、甲洋は」 もうずっとこんな調子だ。一緒に暮らしはじめておよそ7年。 甲洋がこの家に暮らすようになったのは、彼が中学を卒業してすぐのことだった。驚いたことに、彼は島からわざわざこの遠く離れた山奥の高校を受験し、入学を果たしたのだ。 彼と両親が──といっても実の親子ではないが──良好な親子関係を築けていなかったとはいえ、よくもあっさりと許したものだ。 甲洋は高校を卒業後、ここから車で20分ほどの町役場に就職して、事務員として働いていた。 彼の頭脳なら、高校にせよ大学にせよ、ましてや就職先ですら一流を目指すことなど容易かったろうに。こんなへんぴな田舎の小さな役場で、せっせと事務作業に追われる日々を送っているのだ。 けれどそれが甲洋の選んだ道だった。彼の世界は『あの日』からずっと、操を中心に廻り続けている。 そのとき、居間の方から鳩時計が9時を告げる音が聞こえてきた。ぼんやりしているうちに、だいぶ時間が過ぎていたことを知る。甲洋は遅刻せずについただろうか。職場のひとたちに、あの顔の痣はなんと説明するつもりだろう。 いつもは上手い具合に顔は避ける甲洋だが、昨日は暗かったこともあり、綺麗に命中してしまった。 今日、もし万が一また彼の帰りが遅くなるようなことがあったら。昨日の今日で、きっと同じことを繰り返してしまう。 帰宅時間だけではなく、その日の体調や精神状態によっては、何気ない会話のなかで少しでも気に食わないと、見境なく腹を立ててしまうこともある。何度も何度も、繰り返し。甲洋が生涯をかけて償うというのなら、この手は生涯、彼を傷つけ続けるのだろうか。 (どうしてこんなふうになっちゃったんだろ……) 操はおっとりした性格で、誰かに理不尽に怒りをぶつけるような真似ができる子供ではなかった。それがいつからか、自分でも信じられないほど不安定で、沸点の低い人間になっていた。 しかしこんな籠の鳥のような生活を強いられていれば、鬱憤が溜まるのは無理もない話だ。だからその原因を作った甲洋が操の面倒をみて、その怒りを受け止めるのは当然のこと。なにも不安に思うことなどないはずなのに。 「……甲洋」 その名を呼びながら、思考することを放棄した意識を沈ませる。けれどその耳に、遠くから風に乗り、小さな子供の笑い声が聞こえた気がして、ふと顔を上げた。 「そっか、もうそんな時期なんだ」 この家は小さな田舎町でも、特に山側の外れの方に位置した場所にある。辺りは鬱蒼とした木々が生い茂り、田畑と民家が密集している通りからは、少しばかり距離があった。しかし騒音とは遠い場所にあるため、子供が甲高い声を出せば、微かではあるが耳に届くこともある。 今はちょうどお盆の時期。子供を連れて里帰りする人がいたとしてもおかしくない。 うっすらと聞こえた無邪気な声に、嫌でも自分たちの幼い頃を思いだした。 昔は甲洋も遠い島暮らしで、ここに遊びに来るのは年に二度、夏休みと冬休みの期間だけだった。 今でもこうして、ふと思いだすことがある。 ひっそりとした家の中、一人孤独に甲洋の帰りを待つ、長い時間。 幼い頃の、幼い記憶。ただ無邪気に笑っていられた、あの頃のことを。 何もかも、まるで世界が引っくり返ったかのように変わってしまった、あの日のことを。 操はそっと目を閉じると、しばしの間、記憶の羅列に意識を這わせる作業に没頭しはじめた。 ←戻る ・ 次へ→
右足の膝から下が、見たこともないほどおびただしい量の血で染まっていた。
「ほら見て……いっぱい血がでてる。おれの足、こわれちゃったよ」
過ぎた痛みが、皮肉にも感覚を麻痺させていく。
意識が虚ろになっていくなか、降りしきる雨が幼い体温を奪っていった。
ああ、多分、このまま死ぬ。子供心に、そう思う。けれど操は笑っていた。涙を流しながら笑っていた。嬉しいと、そう感じていた。
「甲洋がいじわるだから、おれの足、こんなになっちゃったんだよ」
甲洋は可哀想なくらい震えていた。その姿を見て、操は彼もまだ自分とそう変わらない、ちっぽけな子供でしかないことに気がついた。
古い倒木の、突き出た枝に脛を貫かれ、膝の関節からぽっきりとおかしな方向に折れ曲がっている操の右足を見て、アケビのような青紫の顔色で、歯の根をカチカチと鳴らしている。
その表情を見ていると、操の心が風船を束ねたように浮き上がる。ついにはクスクスと声を上げて、笑いだしていた。
「これでおれたち、ずーっといっしょにいられるね」
それはたったひとつの呪いの言葉。
幸せになんかなれないことを、操はちゃんと知っていたのに。
*
空を覆い尽くすようにして、闇が迫っていた。
遠くの山々が織りなす黒い起伏に、なけなしの橙が今にも押し潰されそうになっている。
カラスの群れが声を交差させる中、藍色の浴衣を着た少年がひとり、縁側に腰を落ち着けて薄ぼんやりとした庭を眺めていた。
時間だけが丹念に塗り重ねられた、古色の家屋。ここには今、彼しかいない。
本当なら、彼はもう少年と呼べる年齢ではなかった。けれど青年というには、あまりにも幼い顔立ちをしている。身体つきもどこか未成熟なままで、白い手は男性特有の骨ばった筋がほとんどない。淡桃の指先が、色づきはじめた果実のようにいとけなかった。
少年だ。彼は。少年のまま、時を止めている。そんな彼のことを二十歳を迎えた大人の男性だなんて、きっと誰も思わない。
暗く沈んだ視線の先では、群生するオトギリソウが夏の生暖かい風に吹かれて揺れていた。幻想的ともいえるその光景に、けれど彼の心が動かされることはない。
魂を持たない人形のように、彼はただ虚ろな瞳でそこに存在しているだけだった。
「来主」
涼やかで優しい声が、少年の名を呼んだ。少年は──来主操はたったいま息を吹き返したようにピクリと肩を揺らし、のったりとした動作で顔を上げる。
そこには目鼻立ちが整った長身の青年が、ジャケットだけを脱いだスーツ姿で佇んでいた。緩やかに波を描く焦げ茶の髪が頬にかかり、白皙の表情に理知的な揺らめきを見せている。
操はそんな青年に向かって、琥珀の瞳をすっと細めた。薄かった辺りの闇が、ぐっと濃くなったような気がする。
「……遅かったね、甲洋」
操が平坦な声でそう言うと、甲洋は小さく「ごめん」と言った。
「仕事の後処理に、少しね。どこか他で道草を食っていたわけじゃないよ」
理由なんてどうでもよかった。操にとって一番の問題は、『甲洋が約束していた通りの時間に戻らなかったこと』、ただそれだけだ。
彼は言った。今朝、家を出るときに言ったのだ。操の頬にキスをしながら、陽が沈む前には帰るからと。
その言葉を信じて、操は甲洋の帰りを待っていた。誰もいない、誰も来ないこの家で、縁側に座って、ずっと空を見上げ、時の経過と共に色を変える草木と共に、待っていた。そうしているうちに、すっかり陽は沈んでいた。甲洋は帰ってこなかった。約束を守らないやつは、ただの嘘つきだ。
操はすぐ側に立てかけていた木製の杖を右手に持つと、それで身体を支えながら踏み石の上に立ち上がる。
「謝って。そこに膝をついて、もっとちゃんとごめんなさいしてよ」
真正面の地面を指さすと、甲洋はなんのためらいもなく地面に両手両膝をつく。そして深々と頭を下げ、「本当にごめん」と改めて謝罪した。
それでも操の溜飲が下がることはなかった。抗おうとする素振りすら見せない、その落ち着き払った従順さに、どうしてか追い立てられるような苛立ちが募る。
操は杖をつき、右足を庇うようにして引きずりながら石の段差から静かに降りた。
「……甲洋」
額を地面に押し付けたままでいる甲洋の名を呼び、唇を戦慄かせながら見下ろした。さっきまで人形のように干からびていたのが嘘のように、今は腹の中が煮えたぎっている。許せなかった。甲洋にこんなことをさせてまで、なぜ怒りを抑えることができないのだろう。自分でも、理解できない。
(やめて)
操の意思を突き破り、赤黒い感情が噴きだしてくる。
(ねぇやめて。甲洋は謝ったよ。ちゃんとごめんなさいしたよ。だからお願い、出てこないで)
必死で抑え込もうとするのに、それは止め処なく溢れて、操の理性を丸飲みにする。
やめてやめてと訴える声がやがて途切れて、消えてしまった。
「本当は帰って来たくなかったんでしょ」
「違う」
「どうしてそんな嘘つくの」
「嘘じゃない。本当だよ」
「そんなの信じられるわけない!」
甲洋の言葉を頭ごなしに否定して、喉がヒリつくほど声を張り上げた。それはまるで引き金のように自身の怒りへ油を注いだ。炎が凄まじい勢いで燃え盛るような衝動に、抗うことができない。
気がつけば杖を両手に構え、大きく振り上げると丸くなっている背に思い切り打ちつけていた。
「待ってたのに! ずっと待ってたのに! 嘘つき! 甲洋の嘘つき!!」
「ッ、ぅぐ……ッ!」
何度も何度も、痛みにその背が跳ねあがる度に声を荒げ、杖で打ち据える。目の前が赤く染まっていた。だただた憎しみばかりが身体の内側で膨れ上がり、今にも弾け飛んでバラバラになってしまいそうだった。
「ねぇ、本当のこと言ってよ! 甲洋は、おれのことが嫌なんだ! おれなんかどうでもいいんだ! だから帰って来たくなかったんだ!!」
「話を……ッ」
聞いてくれ、と掠れた声を絞り出しながら顔を上げた甲洋の横っ面にさえ、杖を叩きつける。彼は低く呻きながら体勢を崩し、横倒しになってもなお、顔を上げた。
「来主、俺は」
「うるさい! 君のせいだ! 君のせいでおれはこんなふうになっちゃったんだ! おれの足がこんななのも、外に出られないのも、ぜんぶぜんぶ、君の……──ッ!!」
「来主!!」
一段と大きく杖を振り上げた瞬間、病んだ片足では体重を支えきれずに、操は体勢を崩した。地に伏していたはずの両腕が伸びて来て、力強く引き寄せられる。結果的に操は浴衣の裾を汚すことにはなってしまったが、衝撃はほとんどないに等しかった。
「大丈夫か?」
甲洋の胸に顔を埋め、きつく目を閉じていた操はピクリと肩を震わせる。恐る恐る顔を上げれば、濃い闇の中で気遣わしげに向けられる視線と目が合った。呆然とした表情で言葉を失う操を抱きしめ、甲洋が大きく安堵の息をつく。
「怪我なんかしたら、大変だ」
そう言って甲洋は操の肩を抱き、両の膝裏にも腕を差し込むと抱え上げる。縁側にそっと降ろされても、操は一言も声を発することが出来なかった。あまりにも急激に鎮火した炎が、白い煙だけをただ静かに立ち昇らせるように、操から思考を奪っていた。
甲洋が小さく笑うのが気配で伝わる。彼は地面に落ちた杖を拾い、操の側に立てかける。大きな手で亜麻色の髪を撫で、「お腹空いただろ」と諭すように言うと、革靴を脱いでそのまま縁側から家に上がり込んだ。
「……けが」
背後で灯された光を背負いながら、動けないままでいた操は呆然と呟いた。甲洋の足音が遠ざかり、沈黙だけが辺りを満たす。
ゆっくりと意識が浮上するにつれ、操は足元から這い上がるような悪寒に背筋を凍らせた。
たった今、怪我をしたのは甲洋だ。
何度も何度も杖で殴って、この手で痛めつけてしまった。
あの広い背中にも、綺麗な顔にも、きっと今ごろ酷い痣が──。
「ああ……なんで……おれ、また……」
やってしまった。
全身を震わせながら、操は這うようにして家の中へ入ると、壁に打ち付けられている手摺に縋って立ち上がる。掴まりながら廊下に出て移動した先は台所で、ネクタイを緩めて腕まくりをした甲洋が、土で汚れた手を洗っているところだった。
「甲洋……っ」
「来主? どうした?」
真っ青になりながらやって来た操に、水道の蛇口を閉めた甲洋が振り返る。その顔は案の定、左頬が赤黒く変色していた。薄く端正な唇の端にも、真っ赤な血がこびりついている。色素の薄い瞳を丸く見開き、首を傾げる甲洋に向かって、操は雪崩れ込むように両手を伸ばした。
「ッ、来主!?」
操が転倒するよりも先に、即座に甲洋が受け止める。
「危ない! 転んだらどうするんだ!」
「そんなの、いい」
「よくない。こんなに震えて……寒いのか?」
顔にこんな酷い痣を作っておきながら、それをやった張本人を優しく気遣う甲洋が、いっそ怖いとすら思えた。本当は怒っているんじゃないのか。さっきまでの自分のように、腸が煮えくり返るほど。
(嫌われちゃう……こんなことばっかしてたら、絶対に……)
いつだって操の怒りは理不尽だ。暴力をふるったのも、暴言を叩きつけたのも、今日が初めてのことじゃない。ほんの些細なことで我を忘れて、今までだって何度も彼を傷つけてきた。
そのたびにこうして後悔するのに、やめられない。一度でも感情に火がつくと、人格が入れ替わるみたいに制御が不能になってしまう。
「ごめん……ごめん甲洋、ごめんなさい、ごめんなさい……おれ、どうしてこんなひどいこと……もうしないよ……絶対に、もうしないから……!」
もうしない。これまで、なんど同じことを繰り返し言っただろう。だけど本心だった。もう殴りたくない。酷いことは言いたくない。傷つけたくない。操には甲洋しかいない。彼だけが、世界の全てだ。
けれどきっと、傍にいる限りまた、同じことを繰り返すに違いなかった。
「甲洋……おれのこと、殴っていいよ」
「バカ言うな」
「やり返していいから、だからお願い、嫌わないで……」
「来主」
縋りつく操の頬に、湿った指先が触れた。労るように撫でられると、琥珀の瞳から涙が溢れる。
「お前はなにも悪くない。悪いのは、帰りが遅れた俺の方だよ」
「うぅん違う……わかってるんだ。甲洋は嘘なんかつかない。おれの足がこんなだから、だからおれのぶんまで、いつもがんばってお仕事してる。ちゃんとわかってる。信じてるんだ……」
ふっと小さく息を漏らしながら、甲洋が笑う。操の額に唇を押しつけ、「それで十分だよ」と言った。
「お前がまともに歩けなくなったのも、外に出られないのも、なにもかも俺のせいだ。俺が子供のころ、お前に大怪我を負わせたから。覚えてるだろ?」
「……うん」
「あの時のことは、きっと死ぬまで忘れられない。俺が……俺があんなことさえしなければ……」
整った眉根を寄せながら、甲洋が苦しそうに目を細めた。その自責に満ちた表情を見ていると、操の胸から不思議と罪悪感が薄れていく。霧がかかったように思考がぼやけ、押し潰されそうになっていた心がふわりと軽くなる。
そう、操の右足が病んで使い物にならなくなったのは、幼い頃に起こった不幸な出来事が原因だった。そしてその発端は甲洋にある。『あんなこと』さえなければ、今ごろ操はこんな不自由な生活を強いられることもなかった。ごく普通に学校に行ったり、バイトをしたりして、好きなときに好きな場所へ行き、何にも縛られることなく生活できていたはずだ。
けれど今の操は、日がな一日この家に閉じこもって甲洋の帰りを待つだけの、籠の鳥も同然の生活を送っている。外に出るとすれば、せいぜい塀と木々で囲われた小さな庭を歩きまわる程度だ。
「だからいいんだよ。お前は俺になにをしたって許される。お前のためだけに生きるって、俺はあのとき誓ったんだ」
それに、と甲洋は優しい声音でさらに続ける。
「お前は生まれつき身体が弱いだろ? 足のこともそうだけど、すぐに風邪を引くし、調子を崩して寝込んでしまう」
「……うん」
「だから俺は、来主には家にいて欲しいと思ってる。どうせこの家には俺たちしかいないし、お前ひとり食わせていくぐらい、どうってことないよ」
「そっか……そうだよね……ありがと、甲洋」
甲洋の腕の中で、操は安堵の息を漏らした。彼が言うように、操は身体が弱かった。皮膚は青白く、華奢で、太陽の光を長時間浴びるだけでも貧血を起こすし、少しのことですぐに熱を出して寝込んでしまう。あげく杖をついていてさえ、足元がおぼつかない。
こんな自分がまともに外で生活できるわけがないのだ。ましてや一人で生きていくなんて。
「甲洋がおれのこと面倒みるのは、当たり前のこと、なんだよね」
自分は何も悪くない。悪いのは甲洋だ。甲洋が、『あのとき』意地悪をしたから。
自らに言い聞かせるように呟いた操に、甲洋は嬉しそうに微笑みながら頷いた。
「一生かけて、償わせてほしい」
一生。
その言葉はどこまでも甘く、けれど操の胸を酷くざわつかせる。甲洋の優しさと従順さを見せつけられるたびに、本当は。
(嘘つきなのは、おれのほうなのに)
どんなに満たされたふりをしても、決して消えない『嘘』を、操は心の奥底にしまい込んでいた。こうしていると得られる安堵の裏側には、いつだって冷たい影がぴったりと張りついて離れない。
(でも)
この鳥籠から出るということは、同時に甲洋を手放すということだった。操にとって、それ以上に怖いことなどない。
胸の底にこの嘘を沈めておく限り、甲洋はずっと、操のものであり続けるのだ。
「甲洋、大好き。あいしてる」
両腕で縋りつき、その肩口に顔を埋める操を抱きしめて、甲洋は囁くような声で「俺もだよ」と言った。
*
操が生まれたときからずっと暮らしているこの家は、操を産み捨てた母親の両親の家だった。
父親はどこの誰だか分からない。母は最後までなにも語らずに操を産んで、祖父母の家に置き去りにしたあと、蒸発してしまった。
けれど操は優しい祖父母のもとで、なんの不便も寂しさも感じずに暮らすことができていた。欲しいものはなんでも買ってもらえたし、イタズラをしたって叱られない。祖父母はいつもニコニコとして、孫の操をとても可愛がってくれていた。
初めて春日井甲洋と会ったのは、操がまだ小学一年生──七つになったばかりの頃だった。
夏休みに両親が長期旅行へ行くため、そのあいだ甲洋だけが、遠縁である来主の家に預けられることになったのだ。
遠くの島から親戚の子が遊びに来ると聞いたときから、操は彼に会うのをとても楽しみにしていた。なにをして遊ぼうかなと、毎日のようにワクワクしながら甲洋の訪れを指折り数えていた。
けれどいざとなるとなんだか恥ずかしくて、操は祖母の後ろに隠れたまま、甲洋の顔を見ることすらできなかった。
「操ちゃん、ほら。甲洋くんだよ。ご挨拶して」
オトギリソウの咲く庭で、一人はるばる船と電車を乗り継いでやってきた甲洋は、なかなか顔を見せようとしない操にきょとんとしていた。
祖母はしがみついて離れない操にとても困った顔をしている。けれど何度も促され、ようやくおそるおそる顔をだした。
もじもじとしながら前に出ると、上目使いで甲洋を見る。すると甲洋はなぜか一瞬、驚いたように目を丸くして頬を染めた。それからふわりと微笑んで、「はじめまして」と言うと操に手を差し出してきた。
「今日からよろしく。なかよくしよう?」
その手と笑顔を交互に見て、操も頬を赤くする。
優しそうな甲洋の笑顔は、緊張していた心を包み込むように解きほぐしてくれた。
この子となら、きっとすぐに仲良くなれる。そう思わせるものが甲洋にはあって、操はそのたった一瞬で、彼のことが大好きになってしまった。
「うん、よろしく甲洋! いっぱいあそぼうね!」
操は生えてきたばかりの白い前歯を見せながら、小さな手で甲洋の手を握ると笑った。
花が咲いたように明るい操の笑顔を見て、甲洋は嬉しそうだった。
その日から、ふたりは毎日のように一緒に遊んだ。
田んぼでカエルを捕まえたり、川で魚を釣ったり、セミやカブトムシを採ったりもした。夜は同じ布団に入って、いつまでも飽きることなくお喋りをした。
甲洋はいつだって優しくて、採った虫はその日のうちにそっと逃してやっていた。宿題も手伝ってくれたし、夜中に一人でトイレに行けない操に付き添ったりもしてくれた。
操はそんな甲洋が大好きだった。友達と兄弟が一度にできたみたいで、とても嬉しかったのだ。
*
朝からセミの合唱がこだまする中、リンの音が尾を引くように鳴り響いた。
澄んだ音色が静かに途切れ、余韻を残す。細い煙になって立ち込める白檀の香は、何度かいでも優しくて、どこか懐かしい。
祖父母の仏壇に手を合わせ、目を閉じていた操は、襖が開く音に顔を上げるとにっこり笑った。
「あ、甲洋。もう行く時間?」
ワイシャツの袖を捲り、ネクタイをきゅっと締め直す甲洋は、操に笑い返すと「うん」と頷く。畳の上に腰を下ろしたままでいた操は四つん這いになると、仏壇の横の手摺に縋ろうと手を伸ばした。玄関まで見送りをしようと思ったからだ。が、その手を取られて顔を上げる。
「いい。今日は縁側から出るよ」
「……あ、そっか」
障子が開け放たれた向こう側を見やる。青い空と強い陽射し。オトギリソウの咲き乱れる小さな庭と、よく磨かれた縁側の床板。昨日、甲洋はここから靴を脱いで中に入ったのだった。
再び座布団にぺたりと腰を落ち着ける操の隣に、甲洋が正座する。たった今まで操がしていたように、仏壇に手を合わせるその横顔には大きな湿布が張り付いていた。
顔を上げた甲洋は、そのまま仏壇に飾られている写真に向かって目を細める。
「あれから2年、か」
仏壇の写真には操の祖父母が笑顔で写り込んでいる。祖父は操が中学に上がってすぐの頃、そして祖母は高校卒業と同時に他界した。
甲洋がこの家に暮らすようになったのは7年も前のことだが、当時まだ祖母は存命だった。だからふたりきりになってからは2年弱、ということになる。操は二十歳に、甲洋は22歳になっていた。
「君が島を出て、こっちの学校に来るって聞いたときはびっくりしたよ。ずっとそうなればいいなって思ってたから、すごく嬉しかった」
「お前のおばあちゃんのおかげ。よく許してくれたと思うよ。血の繋がりなんかないのにさ」
「おれとふたりぼっちになっちゃったからね。寂しかったんだよ、きっと」
「そうだね……あっと、いけない。遅刻する」
腕時計に視線を落とした甲洋が立ち上がり、縁側に向かう背中を操は四つん這いで追いかける。靴を履く後ろ姿を、板の間にペタリと座り込んで眺めた。この薄いワイシャツの下には、昨日操が杖で叩きつけた痣がある。いや、彼の身体中には似たような傷跡が、幾つも残っているのだ。癒える前に次から次へと、操が感情を制御できなくなるたびに、彼に暴力をふるうから。
昨日のように杖を使うこともあるし、食器や瓶や、とにかくその場にあるもの全てを使って、彼を痛めつけてしまう。
「今日は絶対に定時で上がるよ。帰りに少し買い物をするけど、6時までには必ず帰るから」
「……わかった」
「昼飯、ちゃんと食うように」
「大丈夫だよ。おれだってそうめんくらい茹でられるもん」
「火の始末はしっかりね。長い時間庭に出ないように。暑いから、水分もマメに補給すること」
それと──甲洋は見上げてくる操の髪に手を伸ばし、名残を惜しむようにそっと撫でた。
「いい? 庭までだよ。門の外には出ないで。俺がいない間に何かあったら」
「もー! 大丈夫だってば。わかってる。ねぇ、早くしないと本当に遅刻するよ!」
操が少しうんざりしたように言うと、再び時計を見やった甲洋は珍しく舌打ちをした。すぐに駆けだすのかと思いきや、彼は身を屈めて操の顎に指を添えると、小さく唇を重ねて笑顔を見せる。
「いってきます」
「ん、いってらっしゃい」
大きな歩幅で去っていく背を見送りながら、操は溜息を漏らした。
「心配性だな、甲洋は」
もうずっとこんな調子だ。一緒に暮らしはじめておよそ7年。
甲洋がこの家に暮らすようになったのは、彼が中学を卒業してすぐのことだった。驚いたことに、彼は島からわざわざこの遠く離れた山奥の高校を受験し、入学を果たしたのだ。
彼と両親が──といっても実の親子ではないが──良好な親子関係を築けていなかったとはいえ、よくもあっさりと許したものだ。
甲洋は高校を卒業後、ここから車で20分ほどの町役場に就職して、事務員として働いていた。
彼の頭脳なら、高校にせよ大学にせよ、ましてや就職先ですら一流を目指すことなど容易かったろうに。こんなへんぴな田舎の小さな役場で、せっせと事務作業に追われる日々を送っているのだ。
けれどそれが甲洋の選んだ道だった。彼の世界は『あの日』からずっと、操を中心に廻り続けている。
そのとき、居間の方から鳩時計が9時を告げる音が聞こえてきた。ぼんやりしているうちに、だいぶ時間が過ぎていたことを知る。甲洋は遅刻せずについただろうか。職場のひとたちに、あの顔の痣はなんと説明するつもりだろう。
いつもは上手い具合に顔は避ける甲洋だが、昨日は暗かったこともあり、綺麗に命中してしまった。
今日、もし万が一また彼の帰りが遅くなるようなことがあったら。昨日の今日で、きっと同じことを繰り返してしまう。
帰宅時間だけではなく、その日の体調や精神状態によっては、何気ない会話のなかで少しでも気に食わないと、見境なく腹を立ててしまうこともある。何度も何度も、繰り返し。甲洋が生涯をかけて償うというのなら、この手は生涯、彼を傷つけ続けるのだろうか。
(どうしてこんなふうになっちゃったんだろ……)
操はおっとりした性格で、誰かに理不尽に怒りをぶつけるような真似ができる子供ではなかった。それがいつからか、自分でも信じられないほど不安定で、沸点の低い人間になっていた。
しかしこんな籠の鳥のような生活を強いられていれば、鬱憤が溜まるのは無理もない話だ。だからその原因を作った甲洋が操の面倒をみて、その怒りを受け止めるのは当然のこと。なにも不安に思うことなどないはずなのに。
「……甲洋」
その名を呼びながら、思考することを放棄した意識を沈ませる。けれどその耳に、遠くから風に乗り、小さな子供の笑い声が聞こえた気がして、ふと顔を上げた。
「そっか、もうそんな時期なんだ」
この家は小さな田舎町でも、特に山側の外れの方に位置した場所にある。辺りは鬱蒼とした木々が生い茂り、田畑と民家が密集している通りからは、少しばかり距離があった。しかし騒音とは遠い場所にあるため、子供が甲高い声を出せば、微かではあるが耳に届くこともある。
今はちょうどお盆の時期。子供を連れて里帰りする人がいたとしてもおかしくない。
うっすらと聞こえた無邪気な声に、嫌でも自分たちの幼い頃を思いだした。
昔は甲洋も遠い島暮らしで、ここに遊びに来るのは年に二度、夏休みと冬休みの期間だけだった。
今でもこうして、ふと思いだすことがある。
ひっそりとした家の中、一人孤独に甲洋の帰りを待つ、長い時間。
幼い頃の、幼い記憶。ただ無邪気に笑っていられた、あの頃のことを。
何もかも、まるで世界が引っくり返ったかのように変わってしまった、あの日のことを。
操はそっと目を閉じると、しばしの間、記憶の羅列に意識を這わせる作業に没頭しはじめた。
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