2025/08/26 Tue 盆が過ぎると、ときどき遠くから聞こえていたはずの子供の声が、パタリと止んだ。 昔よりもずっと子供の数が減ったのだろうなと、縁側で空を見上げながらぼんやり思う。 あの日から、特に変わったこともなく日々は過ぎていた。 昨日、仕事が休みだった甲洋は朝から裏庭の草むしりに精をだしていた。操も手伝おうとしたけれど、やっぱり許してはもらえなかった。 操は考えることをやめていた。 甲洋の嘘を知ってもなお、責める気にはなれない。問いただす気にもなれなかった。 そうしているうちに、夢でも見ていたのではないかと思うようになった。操はあの日、外になんか出ていないし、誰とも顔を合わせていない。美羽とエメリーのことだってそう。 操には甲洋しかいない。操にはそれしかない。甲洋の腕の中だけが、その言葉だけが全てだ。身体が弱くて、足も悪くて、外にも出られない。非力で、自分一人では生きていけない。それが真実。それでいいような気がしていた。 だけどそうやって逃避する操の意識を、現実に引き戻すように声がした。 「ああ、いたいた。どうだい、具合は」 「ぁ……」 ハッとして目をやれば、枯れた紫陽花の茂みの傍に、西尾行美が立っていた。 * 「あんたは偉いよ、操」 冷えた麦茶のグラスを両手に持って、縁側に腰をおろした行美はしゃがれた声で呟いた。 「親がいなくたって、いっつもニコニコ笑ってさ。あんな事故があったって、それでも片足引きずって立派に学校に通ったんだ」 風鈴が、風に吹かれて涼しげな音を立てる。今日は虫の声がしない。嵐の前の静けさのように、ただ湿った空気が凪いでいるだけだった。 「甲洋がいたからだよ。甲洋が、なんでもやってくれたから」 操はただ甘えていただけだ。甲洋がこの家に暮らすようになってからは特に。身の回りのことはすべて彼がやってくれたし、決して外を一人で歩かせようともしなかった。 行美は麦茶をすすり、「そうだね」と言って小さく笑った。 「あの子も偉い。立派なもんだよ。だけどね、ずっとこのままってわけにはいかないだろうさ」 「え?」 行美はいったんグラスを脇に置いた。代わりに、白い大きな用紙を手にすると操に差し出してくる。 「これはなに?」 「まぁ、見てみな」 それは写真を収めるための両開きの台紙だった。操は言われたとおり、膝に乗せたそれをゆっくりと開いてみた。 「……誰?」 写真には、長い黒髪の若い女性が映っていた。ここいらではちょっとお目にかかれないくらい、可憐で美しい女性だ。柔らかくて、少し儚い笑顔。透けるような白い肌が、写真からも見て取れる。 「古い知り合いの娘さんなんだけどね、身体が弱くてさ。だけどほら、別嬪さんだろ?」 「……この子が、どうかしたの?」 「甲洋は、どうなんだい?」 「え?」 行美は再びグラスに手をやって、残りの麦茶をゆっくりと飲み干すと息をついた。 「老婆心ってやつだよ。ここじゃあ恋のひとつもできやしない」 「恋……」 「ここいらはじじばばばっかりだろ?」 ああそうかと、操は思った。これはお見合い写真なのだ。 「甲洋がさ、なかなか首を縦に振らないんだよ。自分にはまだ早いなんて言って、まともに写真すら見やしない。見れば気持ちも変わると思うんだがね」 操は改めて写真の女性に目をやった。長くて綺麗な、黒い髪。少女のように大きな瞳と、白い肌。 甲洋の好みなんか分からない。今まで一度だって、女の子の話なんかしたことがなかった。だけど、好きだろうなと、操は思った。甲洋は、多分、この子のことを好きになる。 どうしてか、とても容易に想像することができてしまった。 「あんたからも言っといておくれ。まだ若いったってさ。あんたたちはもう立派な大人なんだ。早いってことはないだろうよ」 空になったグラスを持ったまま、行美はふと、空を見上げる。湿り気の増した空気と、少し濁った空模様にシワの寄った目を細め、「こりゃひと雨きそうだね」と、呟いた。 * 瓦の屋根を叩く雨音。軒下に連なった置き石に落ちる雨だれ。 バタバタと音を立てながら降り注ぐそれが、夕時の薄暗い室内に響き渡る。 雨は嫌いだ。だって外に出られない。ここから見える小さな空さえも塗り潰して、狭い世界を烟らせてしまう。 操はその忌々しい音を聞きながら、仏壇の前にぺたりと座り込んでいた。 ──ずっとこのままってわけにはいかないだろうさ 頭のなかで、行美の言葉が何度も再生されていた。壊れたレコードが、ただ同じフレーズだけを繰り返すみたいに。 (このままでは、いられない) それは、このままではいけないということ。 外の人間から見たこの家は、羽化しそこねたまま腐り果てた繭のようなものだった。 どこかでは分かっていた。これがとても異常だということを。自分たちは、どうかしている。 「来主?」 背後で声がする。甲洋が帰ってきた。けれど操は振り返ることも、返事をすることもできなかった。 空気が震えた気がした。彼が、なにかに気づいたのが気配で伝わる。 「……誰?」 操は行美が来た痕跡を消さないままでいた。縁側には客用の座布団と、麦茶のグラスがふたつ、置き去りにされている。 なにも答えずにいると、甲洋がすぐ傍で膝をついた。少し乱暴に操の両肩を掴み、無理やり自分と向き合わせる。 「来主。さっきまで、ここに誰がいた?」 操はがっくりと項垂れたまま、なにも言わなかった。膝の上から白い台紙が滑り落ちる。行美が置いていったものだ。乾いた音を立てて畳の上に伏したそれを見て、甲洋は答えを得たようだった。 「……ああ、あのひとか」 甲洋が細長い息を漏らした。 「来るなって言っておいたのに」 彼の声は平坦で、焦った様子などはいっさい見られなかった。 ここに他人が訪れたということは、嘘がバレてしまったということだ。なのに、彼はなんの感情も見せはしない。不気味なほどに落ち着き払っていた。 「少し冷えるね。居間に行こう。すぐに食事の支度をするから」 「……いらない」 「来主」 「ねぇ、どうして嘘なんかついてたの?」 操はついにその問いを口にする。一度は目を背けたはずの疑問が膨れ上がり、いよいよ張り裂けそうになっていた。 「おれは病気なんかじゃないよ。話だってできるよ。身体だって、どこも弱くなんかない」 操は甲洋への不信感をハッキリと自覚していた。 彼は近所中の人を欺き、操をこの鳥籠のような家に閉じ込めていた。丁寧に、優しく、何度も何度も暗示をかけて、操を一人では生きていけない、脆弱な人間に仕立て上げていった。 そこまでする理由はなんだろう。愛していると、その甘い声で囁かれると、すべてがどうでもよくなった。頭が、心が、雨に烟るように霞んでいった。 だけど、彼が言う愛とはなんだろう。どうして愛せるというのだろう。 「おれのことひとりじゃ生きられないようにして……君は、どうするつもりでいたの?」 だってそうじゃないか。子供の頃だってそうだ。無神経な言葉で、きっと数えきれないくらい傷つけていた。彼は愛情を知らずに育っていた。靴もシャツも着古して、いつだってボロボロだった。 そんな彼の目に、操はどう映っていたのだろうか。操の言葉は、どれほど彼の心を抉っただろう。きっとすごく、嫌なやつだった。 本当はずっと、罪悪感に囚われていたのは操の方だった。 彼に嘘をついていた。後ろめたくて仕方がなかった。このちっぽけな嘘で、いつまで彼を繋ぎ止めておけるのか、不安でたまらなかった。それは暴力という形で発露していた。 可哀想な甲洋。償わなくてはいけない罪なんかないのに。いつもいつも傷だらけで。 今だって怖い。もしこの床で萎びたようになっている台紙を開けて、甲洋が彼女と『出会って』しまえば。どうなるだろう。示された明るい未来が、ぽっかりと大きく黒い口を開けている。 「復讐のつもりだったの……?」 操の言葉を聞いて、甲洋は目を丸くした。ひどく驚いた顔をして、それから、くつくつと肩を揺らして笑いだした。 「なんで笑うの?」 「ふふ、あはは……だってお前、復讐ってなにさ?」 甲洋はどかりとあぐらをかいて、指先で目尻を拭った。笑っている。喜劇でも目の当たりにしたみたいに、楽しそうだった。 まるで一人で踊らされているような気分だ。下手くそな踊りを、必死で。 「笑わないで! ……笑うな!!」 「だって、来主がおかしなこと言うからだろ」 ふっと息を吐き出して、甲洋は「ずるいな、お前は」と言った。 「ずるいって、なにが……?」 「自分だけ正気に戻っちゃうんだもんな」 「……え?」 「俺はもう、戻れそうにないのに」 甲洋の顔から、ロウソクの火が消えるみたいに笑顔が消えた。 ぬっと手が伸びてきて、操の二の腕を掴むと強引に引き寄せようとする。 「い、嫌だ! 触らないで!」 「いいから抱かせろよ。いつもみたいに、なにも分からなくしてやるから」 「っ、や……!!」 がむしゃらに暴れた。身を捩りながら、めちゃくちゃに腕を振り上げる。 「ッ!」 その拳が、意図せず甲洋の右頬に命中した。 「っ、ごめ──」 青ざめた操は、咄嗟に口をついた謝罪の言葉を最後まで述べることができなかった。 殴られて、顔を背けた甲洋が、ゆらりと視線をこちらに向ける。彼は笑っていた。どこか恍惚とした笑みを浮かべながら。やっと欲しいものを与えられた子供みたいに、切れた口の端から血を流し、うっとりと、熱い息を漏らした。 「……いいよ」 「こ、よ……?」 「ほら、もっとして」 もっと殴って。甲洋は言った。もっともっと、傷つけてほしいと。 ゾッとした。ずっと近くにいたはずの彼が、得体が知れない何かに見えた。 この人は、誰だろう。 「もっとちゃんと、縛っておけばよかったな。お前がどこにも行けないように」 今までずっと、誰と、いたんだろう? 「その唇も、縫いつけてしまえばよかった」 春日井甲洋とは、どんな人間だったろう? 「目も潰せばよかったのかな。耳も、鼻も」 なにを、支配したつもりでいたんだろう? 「手足もさ。いっそ切り落としてしまえばよかったよ。誰のものにもならないように」 ああ、この人は。 壊れている。 操はどうしたらいいか分からない。ただ恐ろしくて、ただ、悲しいと思った。 逃げなくては。本能がそう告げている。甲洋が怖い。怖くてたまらない。操にとって、彼は唯一安心できる止まり木だった。だけどその枝は、とっくに折れてしまっていた。 ずるずると床を這うようにして後退し、仏壇の横の手すりに掴まりながら立ち上がった。甲洋はわずかに首を傾げ、目を細めて微笑んでいる。 「いいよ。逃げたいなら逃げな」 「っ……」 「大丈夫。俺は知ってるよ。だから、あのときみたいに逃げてごらん」 ゆらりと、甲洋が立ち上がった。操はビクリと肩を震わせる。指の先まで冷え切っていた。 甲洋は知っていた。操の、嘘を。 「逃げ切れたら、自由をあげる」 知っていたのだ。最初から。 「愛してる。だから逃げて、来主」 操は弾かれたように走り出していた。 裸足のまま、杖も持たずに、それでも足を引きずることなく、雨の庭へ飛び出した。 甲洋は知っていた。操のちっぽけな『嘘』を、知っていた。 この足は、支えなんかなくてもちゃんと動くのだ。 本当はずっと、杖なんかいらなかった。病んでなんかいなかった。 ずっとずっと。彼の神様でいるために。 つまらない嘘を、ついていた。 ←戻る ・ 次へ→
昔よりもずっと子供の数が減ったのだろうなと、縁側で空を見上げながらぼんやり思う。
あの日から、特に変わったこともなく日々は過ぎていた。
昨日、仕事が休みだった甲洋は朝から裏庭の草むしりに精をだしていた。操も手伝おうとしたけれど、やっぱり許してはもらえなかった。
操は考えることをやめていた。
甲洋の嘘を知ってもなお、責める気にはなれない。問いただす気にもなれなかった。
そうしているうちに、夢でも見ていたのではないかと思うようになった。操はあの日、外になんか出ていないし、誰とも顔を合わせていない。美羽とエメリーのことだってそう。
操には甲洋しかいない。操にはそれしかない。甲洋の腕の中だけが、その言葉だけが全てだ。身体が弱くて、足も悪くて、外にも出られない。非力で、自分一人では生きていけない。それが真実。それでいいような気がしていた。
だけどそうやって逃避する操の意識を、現実に引き戻すように声がした。
「ああ、いたいた。どうだい、具合は」
「ぁ……」
ハッとして目をやれば、枯れた紫陽花の茂みの傍に、西尾行美が立っていた。
*
「あんたは偉いよ、操」
冷えた麦茶のグラスを両手に持って、縁側に腰をおろした行美はしゃがれた声で呟いた。
「親がいなくたって、いっつもニコニコ笑ってさ。あんな事故があったって、それでも片足引きずって立派に学校に通ったんだ」
風鈴が、風に吹かれて涼しげな音を立てる。今日は虫の声がしない。嵐の前の静けさのように、ただ湿った空気が凪いでいるだけだった。
「甲洋がいたからだよ。甲洋が、なんでもやってくれたから」
操はただ甘えていただけだ。甲洋がこの家に暮らすようになってからは特に。身の回りのことはすべて彼がやってくれたし、決して外を一人で歩かせようともしなかった。
行美は麦茶をすすり、「そうだね」と言って小さく笑った。
「あの子も偉い。立派なもんだよ。だけどね、ずっとこのままってわけにはいかないだろうさ」
「え?」
行美はいったんグラスを脇に置いた。代わりに、白い大きな用紙を手にすると操に差し出してくる。
「これはなに?」
「まぁ、見てみな」
それは写真を収めるための両開きの台紙だった。操は言われたとおり、膝に乗せたそれをゆっくりと開いてみた。
「……誰?」
写真には、長い黒髪の若い女性が映っていた。ここいらではちょっとお目にかかれないくらい、可憐で美しい女性だ。柔らかくて、少し儚い笑顔。透けるような白い肌が、写真からも見て取れる。
「古い知り合いの娘さんなんだけどね、身体が弱くてさ。だけどほら、別嬪さんだろ?」
「……この子が、どうかしたの?」
「甲洋は、どうなんだい?」
「え?」
行美は再びグラスに手をやって、残りの麦茶をゆっくりと飲み干すと息をついた。
「老婆心ってやつだよ。ここじゃあ恋のひとつもできやしない」
「恋……」
「ここいらはじじばばばっかりだろ?」
ああそうかと、操は思った。これはお見合い写真なのだ。
「甲洋がさ、なかなか首を縦に振らないんだよ。自分にはまだ早いなんて言って、まともに写真すら見やしない。見れば気持ちも変わると思うんだがね」
操は改めて写真の女性に目をやった。長くて綺麗な、黒い髪。少女のように大きな瞳と、白い肌。
甲洋の好みなんか分からない。今まで一度だって、女の子の話なんかしたことがなかった。だけど、好きだろうなと、操は思った。甲洋は、多分、この子のことを好きになる。
どうしてか、とても容易に想像することができてしまった。
「あんたからも言っといておくれ。まだ若いったってさ。あんたたちはもう立派な大人なんだ。早いってことはないだろうよ」
空になったグラスを持ったまま、行美はふと、空を見上げる。湿り気の増した空気と、少し濁った空模様にシワの寄った目を細め、「こりゃひと雨きそうだね」と、呟いた。
*
瓦の屋根を叩く雨音。軒下に連なった置き石に落ちる雨だれ。
バタバタと音を立てながら降り注ぐそれが、夕時の薄暗い室内に響き渡る。
雨は嫌いだ。だって外に出られない。ここから見える小さな空さえも塗り潰して、狭い世界を烟らせてしまう。
操はその忌々しい音を聞きながら、仏壇の前にぺたりと座り込んでいた。
──ずっとこのままってわけにはいかないだろうさ
頭のなかで、行美の言葉が何度も再生されていた。壊れたレコードが、ただ同じフレーズだけを繰り返すみたいに。
(このままでは、いられない)
それは、このままではいけないということ。
外の人間から見たこの家は、羽化しそこねたまま腐り果てた繭のようなものだった。
どこかでは分かっていた。これがとても異常だということを。自分たちは、どうかしている。
「来主?」
背後で声がする。甲洋が帰ってきた。けれど操は振り返ることも、返事をすることもできなかった。
空気が震えた気がした。彼が、なにかに気づいたのが気配で伝わる。
「……誰?」
操は行美が来た痕跡を消さないままでいた。縁側には客用の座布団と、麦茶のグラスがふたつ、置き去りにされている。
なにも答えずにいると、甲洋がすぐ傍で膝をついた。少し乱暴に操の両肩を掴み、無理やり自分と向き合わせる。
「来主。さっきまで、ここに誰がいた?」
操はがっくりと項垂れたまま、なにも言わなかった。膝の上から白い台紙が滑り落ちる。行美が置いていったものだ。乾いた音を立てて畳の上に伏したそれを見て、甲洋は答えを得たようだった。
「……ああ、あのひとか」
甲洋が細長い息を漏らした。
「来るなって言っておいたのに」
彼の声は平坦で、焦った様子などはいっさい見られなかった。
ここに他人が訪れたということは、嘘がバレてしまったということだ。なのに、彼はなんの感情も見せはしない。不気味なほどに落ち着き払っていた。
「少し冷えるね。居間に行こう。すぐに食事の支度をするから」
「……いらない」
「来主」
「ねぇ、どうして嘘なんかついてたの?」
操はついにその問いを口にする。一度は目を背けたはずの疑問が膨れ上がり、いよいよ張り裂けそうになっていた。
「おれは病気なんかじゃないよ。話だってできるよ。身体だって、どこも弱くなんかない」
操は甲洋への不信感をハッキリと自覚していた。
彼は近所中の人を欺き、操をこの鳥籠のような家に閉じ込めていた。丁寧に、優しく、何度も何度も暗示をかけて、操を一人では生きていけない、脆弱な人間に仕立て上げていった。
そこまでする理由はなんだろう。愛していると、その甘い声で囁かれると、すべてがどうでもよくなった。頭が、心が、雨に烟るように霞んでいった。
だけど、彼が言う愛とはなんだろう。どうして愛せるというのだろう。
「おれのことひとりじゃ生きられないようにして……君は、どうするつもりでいたの?」
だってそうじゃないか。子供の頃だってそうだ。無神経な言葉で、きっと数えきれないくらい傷つけていた。彼は愛情を知らずに育っていた。靴もシャツも着古して、いつだってボロボロだった。
そんな彼の目に、操はどう映っていたのだろうか。操の言葉は、どれほど彼の心を抉っただろう。きっとすごく、嫌なやつだった。
本当はずっと、罪悪感に囚われていたのは操の方だった。
彼に嘘をついていた。後ろめたくて仕方がなかった。このちっぽけな嘘で、いつまで彼を繋ぎ止めておけるのか、不安でたまらなかった。それは暴力という形で発露していた。
可哀想な甲洋。償わなくてはいけない罪なんかないのに。いつもいつも傷だらけで。
今だって怖い。もしこの床で萎びたようになっている台紙を開けて、甲洋が彼女と『出会って』しまえば。どうなるだろう。示された明るい未来が、ぽっかりと大きく黒い口を開けている。
「復讐のつもりだったの……?」
操の言葉を聞いて、甲洋は目を丸くした。ひどく驚いた顔をして、それから、くつくつと肩を揺らして笑いだした。
「なんで笑うの?」
「ふふ、あはは……だってお前、復讐ってなにさ?」
甲洋はどかりとあぐらをかいて、指先で目尻を拭った。笑っている。喜劇でも目の当たりにしたみたいに、楽しそうだった。
まるで一人で踊らされているような気分だ。下手くそな踊りを、必死で。
「笑わないで! ……笑うな!!」
「だって、来主がおかしなこと言うからだろ」
ふっと息を吐き出して、甲洋は「ずるいな、お前は」と言った。
「ずるいって、なにが……?」
「自分だけ正気に戻っちゃうんだもんな」
「……え?」
「俺はもう、戻れそうにないのに」
甲洋の顔から、ロウソクの火が消えるみたいに笑顔が消えた。
ぬっと手が伸びてきて、操の二の腕を掴むと強引に引き寄せようとする。
「い、嫌だ! 触らないで!」
「いいから抱かせろよ。いつもみたいに、なにも分からなくしてやるから」
「っ、や……!!」
がむしゃらに暴れた。身を捩りながら、めちゃくちゃに腕を振り上げる。
「ッ!」
その拳が、意図せず甲洋の右頬に命中した。
「っ、ごめ──」
青ざめた操は、咄嗟に口をついた謝罪の言葉を最後まで述べることができなかった。
殴られて、顔を背けた甲洋が、ゆらりと視線をこちらに向ける。彼は笑っていた。どこか恍惚とした笑みを浮かべながら。やっと欲しいものを与えられた子供みたいに、切れた口の端から血を流し、うっとりと、熱い息を漏らした。
「……いいよ」
「こ、よ……?」
「ほら、もっとして」
もっと殴って。甲洋は言った。もっともっと、傷つけてほしいと。
ゾッとした。ずっと近くにいたはずの彼が、得体が知れない何かに見えた。
この人は、誰だろう。
「もっとちゃんと、縛っておけばよかったな。お前がどこにも行けないように」
今までずっと、誰と、いたんだろう?
「その唇も、縫いつけてしまえばよかった」
春日井甲洋とは、どんな人間だったろう?
「目も潰せばよかったのかな。耳も、鼻も」
なにを、支配したつもりでいたんだろう?
「手足もさ。いっそ切り落としてしまえばよかったよ。誰のものにもならないように」
ああ、この人は。
壊れている。
操はどうしたらいいか分からない。ただ恐ろしくて、ただ、悲しいと思った。
逃げなくては。本能がそう告げている。甲洋が怖い。怖くてたまらない。操にとって、彼は唯一安心できる止まり木だった。だけどその枝は、とっくに折れてしまっていた。
ずるずると床を這うようにして後退し、仏壇の横の手すりに掴まりながら立ち上がった。甲洋はわずかに首を傾げ、目を細めて微笑んでいる。
「いいよ。逃げたいなら逃げな」
「っ……」
「大丈夫。俺は知ってるよ。だから、あのときみたいに逃げてごらん」
ゆらりと、甲洋が立ち上がった。操はビクリと肩を震わせる。指の先まで冷え切っていた。
甲洋は知っていた。操の、嘘を。
「逃げ切れたら、自由をあげる」
知っていたのだ。最初から。
「愛してる。だから逃げて、来主」
操は弾かれたように走り出していた。
裸足のまま、杖も持たずに、それでも足を引きずることなく、雨の庭へ飛び出した。
甲洋は知っていた。操のちっぽけな『嘘』を、知っていた。
この足は、支えなんかなくてもちゃんと動くのだ。
本当はずっと、杖なんかいらなかった。病んでなんかいなかった。
ずっとずっと。彼の神様でいるために。
つまらない嘘を、ついていた。
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