2025/09/06 Sat 第三話『混乱』 昔のコントなどでよく見かける、頭上からタライが落ちてくるような衝撃を、ファイはまさに味わっていた。 目も口も大きく開いたまま、震える指先で相手を指差す。 「な、なん……どう……」 なぜ、どうして君がここに……と言いたいが、上手く言葉にならない。 ファイの姿を見た黒鋼はというと、一瞬だけ目を見開いたがすぐに無表情に戻っていた。 冷ややかな視線で、立ち尽くしたまま震えているファイをじっと見つめている。 「あらあら、どうぞ先生。お座りくださいな」 廊下に突っ立ったままのファイを、遠慮しているとでも思ったのか、木の盆に茶と菓子を乗せてやってきた和服美女が、上品に「おほほ」と笑った。 *** カコンッと、庭でししおどしが鳴った。 「…………」 木製のテーブルの上に置かれた茶がすっかり冷めても、室内は沈黙で満たされていた。 ファイは石のように固まって苦手な正座に耐え忍んでいる。 (どうしよう……どうなってんのこれ……なんで、なんでこんな……) 先刻のショックからまだ完全に立ち直っていない状況でこれ、である。 痴漢になど二度と遭いたくはないが、この青年とも出来れば二度と顔を合わせたくはなかった。 (なんて切り出せばいいの……さっきのお母さんが紹介してくれたけど、改めて名乗った方が……?) けれど相手の顔など、今はとてもではないが見れない。 テーブルを挟んだ向かい側にいる彼は、俯くファイからは腕を組んでいるということしか分からなかった。 トイレに押し込まれはしたものの、すっかり萎えきっていたので手を汚すことはせずに済んだ。それを言えばいいのか。 ああいった状況になってしまったのは、決して痴漢行為自体を快感として受け入れてしまったのではなく、逞しい妄想で不測の事態を補った結果、さらに事態を悪化させただけであって……。 なんて、それを言ったからといってなんだというのか。 ファイが男でありながら男の痴漢に遭い、思いっきり反応してしまった事実は覆らない。彼がそれを全て知っているという状況も変わらない。 (無理……もう無理……こんなカッコいい子に恥ずかしい秘密を知られて、今絶対オレのこと軽蔑してる……とんだ変態野郎が来ちゃったよとか思われてる……) 「おい」 (明日あたり学校の友達みんなに言いふらして笑いものにするに違いないよ……あの綺麗なお母さんにも言われちゃうかも……!) 「おい!」 真っ青になってじわりと涙を浮かべていたファイの耳に、苛立った声がようやく届いた。 「は、はい!?」 思わず勢いよく肩を震わせ顔を上げた途端、無理な正座が祟って両足に凄まじい痺れが走った。思わず態勢が斜めに崩れ落ちる。 「あいたー!!」 「……なにしてんだ」 胡坐をかいて腕を組んでいた黒鋼が、心底呆れた様子で溜息を洩らしている。 なんて情けない有様だろうと、痛みとショックも相まって、いよいよ声を上げて泣き出したい一歩手前だった。 一気に巡り出した血液が、ビリビリという不快な痺れを両足にもたらして、ファイは畳に爪を立てながらぎゅうと目を閉じた。 「そんなに正座が苦手だったら、とっとと足を崩せ」 「うぅ……ごめんなさい……」 蚊の鳴くような弱々しい声で謝罪すると、黒鋼は面倒臭そうに体勢を崩してファイの側まで身を寄せた。 思わずギクリとして、だがすぐに駆け抜ける激痛に悲鳴を上げる。 「ひぃぃぃ痛いーっ!!」 「うるせぇ。ちっとは我慢しろ」 ぬっと伸びて来た二本の手がファイの両足を掴み上げ、そのまま膝から足首にかけてを強く擦り出した。 痺れに伴いその凄まじい圧力と摩擦力に、もういよいよ訳が分からなくなって、涙と一緒に汗まで滲む。 が、痛みを伴う感覚はあっという間に緩やかなものへと変わっていった。 「あ……れ……? い、痛くない……?」 なんだかポカポカと温かくて、むしろ心地がいい。 きょとん、とした表情で両足を投げ出していたファイに、黒鋼が小さく鼻で笑う。 「こんぐれぇで泣くか? 普通」 「ぅ……」 一連の出来事につい頭からすっぽりと抜け落ちていたが、その冷静な言葉によって再びショックがタライとなって頭上に落ちた。 「な、泣いてないよっ! 泣く一歩手前だっただけだよ!」 かろうじて零れ落ちなかっただけで、すっかり目を赤くしながら言ったのでは説得力など欠片もない。 つれなく目を逸らした黒鋼に、「ガキか」と吐き捨てられたファイは、小さく唸りながら押し黙った。 (なんだよこの落ち着き……オレがどんな思いで……!) 「それより、てめぇはここに勉強教えに来たんじゃねぇのか」 (だいたい可愛くないんだよー! お金持ちのお坊ちゃんって言うから、もっと礼儀正しいのかと思ったらすっごい口悪いしー!) 「おい? 聞いてんのか?」 (ちょっとかっこいいからって、これじゃあヤクザだよ! ヤクザ高校生だよ!) 「だから聞け!!」 「ひゃ……!?」 野犬にでも吼えられたようなリアクションで、ファイは両手で頭を庇うようにして身を屈めた。恐る恐る上目使いで見上げると、黒鋼の額には見事に怒りのマークが刻まれている。 「グダグダしてねぇでとっとと始めるぞ!」 そして、なぜか教え子である黒鋼に仕切られる形で、30分近くも遅れて授業は始まった……。 *** 帰り道。 ファイは電車に乗る気になれずに、徒歩で帰路についていた。 秋風が身に染みて、こんなことならもっと厚着をしてくればよかったと後悔する。 右手に引っ提げている紙袋の中身からは、時折ガサリという小さなビニールの音がしていた。 どこぞの有名な煎餅だかなんだか知らないが、それはあの和服美人の母親が、帰り際にユゥイの分もあるからと寄こしたものだった。 またお待ちしてます、という美しい微笑みに、ファイは死刑を宣告されたような気さえした。 正直、これから先もこのバイトを続けていける自信が一切ない。 あれから、ほぼ全てを仕切られる形でどうにか授業は終了した。 まるで立場が逆のような気もしたが、ファイがグズグズしている様に、彼は随分と苛立っていたように感じた。 勉強の仕方や進め方など、相手に促される形でおずおずと説明し、そして無造作に目の前に突き出されたテストの答案を見ながら、苦手な部分についてをボソボソと話し合った。 生きた心地がしない中、気がつけば案外すんなりと時間は経過していた。残りの時間は問題集から幾つかの問題を選んで、小テストまがいなことをさせながらどうにか切り抜けた。 黒鋼は必要最低限の会話もしなければ、怒ったような表情を一切崩すことがなかった。 勉強を教えに来ているのだから、静かに事を進めるのは当たり前なのだが、なぜか沈黙が痛くて仕方がなかった。 あんなことがあったから無駄に構えてしまっている自覚はあったが、きっと何もなかったとしても、波長の合わない相手だったに違いない。 どうにもコミュニケーションが取りづらく、これまでファイの周りには決していないタイプだということだけは、ハッキリとしていた。 「辞めたいって言ったら……ユゥイ困るかな……」 今夜は月も星も見えない。街の明りにぼんやりとした中途半端な闇が広がる空に、ファイはポツリと呟く。 右手に持つ煎餅の袋が、やけに重いものに感じた。 ←戻る ・ 次へ→
昔のコントなどでよく見かける、頭上からタライが落ちてくるような衝撃を、ファイはまさに味わっていた。
目も口も大きく開いたまま、震える指先で相手を指差す。
「な、なん……どう……」
なぜ、どうして君がここに……と言いたいが、上手く言葉にならない。
ファイの姿を見た黒鋼はというと、一瞬だけ目を見開いたがすぐに無表情に戻っていた。
冷ややかな視線で、立ち尽くしたまま震えているファイをじっと見つめている。
「あらあら、どうぞ先生。お座りくださいな」
廊下に突っ立ったままのファイを、遠慮しているとでも思ったのか、木の盆に茶と菓子を乗せてやってきた和服美女が、上品に「おほほ」と笑った。
***
カコンッと、庭でししおどしが鳴った。
「…………」
木製のテーブルの上に置かれた茶がすっかり冷めても、室内は沈黙で満たされていた。
ファイは石のように固まって苦手な正座に耐え忍んでいる。
(どうしよう……どうなってんのこれ……なんで、なんでこんな……)
先刻のショックからまだ完全に立ち直っていない状況でこれ、である。
痴漢になど二度と遭いたくはないが、この青年とも出来れば二度と顔を合わせたくはなかった。
(なんて切り出せばいいの……さっきのお母さんが紹介してくれたけど、改めて名乗った方が……?)
けれど相手の顔など、今はとてもではないが見れない。
テーブルを挟んだ向かい側にいる彼は、俯くファイからは腕を組んでいるということしか分からなかった。
トイレに押し込まれはしたものの、すっかり萎えきっていたので手を汚すことはせずに済んだ。それを言えばいいのか。
ああいった状況になってしまったのは、決して痴漢行為自体を快感として受け入れてしまったのではなく、逞しい妄想で不測の事態を補った結果、さらに事態を悪化させただけであって……。
なんて、それを言ったからといってなんだというのか。
ファイが男でありながら男の痴漢に遭い、思いっきり反応してしまった事実は覆らない。彼がそれを全て知っているという状況も変わらない。
(無理……もう無理……こんなカッコいい子に恥ずかしい秘密を知られて、今絶対オレのこと軽蔑してる……とんだ変態野郎が来ちゃったよとか思われてる……)
「おい」
(明日あたり学校の友達みんなに言いふらして笑いものにするに違いないよ……あの綺麗なお母さんにも言われちゃうかも……!)
「おい!」
真っ青になってじわりと涙を浮かべていたファイの耳に、苛立った声がようやく届いた。
「は、はい!?」
思わず勢いよく肩を震わせ顔を上げた途端、無理な正座が祟って両足に凄まじい痺れが走った。思わず態勢が斜めに崩れ落ちる。
「あいたー!!」
「……なにしてんだ」
胡坐をかいて腕を組んでいた黒鋼が、心底呆れた様子で溜息を洩らしている。
なんて情けない有様だろうと、痛みとショックも相まって、いよいよ声を上げて泣き出したい一歩手前だった。
一気に巡り出した血液が、ビリビリという不快な痺れを両足にもたらして、ファイは畳に爪を立てながらぎゅうと目を閉じた。
「そんなに正座が苦手だったら、とっとと足を崩せ」
「うぅ……ごめんなさい……」
蚊の鳴くような弱々しい声で謝罪すると、黒鋼は面倒臭そうに体勢を崩してファイの側まで身を寄せた。
思わずギクリとして、だがすぐに駆け抜ける激痛に悲鳴を上げる。
「ひぃぃぃ痛いーっ!!」
「うるせぇ。ちっとは我慢しろ」
ぬっと伸びて来た二本の手がファイの両足を掴み上げ、そのまま膝から足首にかけてを強く擦り出した。
痺れに伴いその凄まじい圧力と摩擦力に、もういよいよ訳が分からなくなって、涙と一緒に汗まで滲む。
が、痛みを伴う感覚はあっという間に緩やかなものへと変わっていった。
「あ……れ……? い、痛くない……?」
なんだかポカポカと温かくて、むしろ心地がいい。
きょとん、とした表情で両足を投げ出していたファイに、黒鋼が小さく鼻で笑う。
「こんぐれぇで泣くか? 普通」
「ぅ……」
一連の出来事につい頭からすっぽりと抜け落ちていたが、その冷静な言葉によって再びショックがタライとなって頭上に落ちた。
「な、泣いてないよっ! 泣く一歩手前だっただけだよ!」
かろうじて零れ落ちなかっただけで、すっかり目を赤くしながら言ったのでは説得力など欠片もない。
つれなく目を逸らした黒鋼に、「ガキか」と吐き捨てられたファイは、小さく唸りながら押し黙った。
(なんだよこの落ち着き……オレがどんな思いで……!)
「それより、てめぇはここに勉強教えに来たんじゃねぇのか」
(だいたい可愛くないんだよー! お金持ちのお坊ちゃんって言うから、もっと礼儀正しいのかと思ったらすっごい口悪いしー!)
「おい? 聞いてんのか?」
(ちょっとかっこいいからって、これじゃあヤクザだよ! ヤクザ高校生だよ!)
「だから聞け!!」
「ひゃ……!?」
野犬にでも吼えられたようなリアクションで、ファイは両手で頭を庇うようにして身を屈めた。恐る恐る上目使いで見上げると、黒鋼の額には見事に怒りのマークが刻まれている。
「グダグダしてねぇでとっとと始めるぞ!」
そして、なぜか教え子である黒鋼に仕切られる形で、30分近くも遅れて授業は始まった……。
***
帰り道。
ファイは電車に乗る気になれずに、徒歩で帰路についていた。
秋風が身に染みて、こんなことならもっと厚着をしてくればよかったと後悔する。
右手に引っ提げている紙袋の中身からは、時折ガサリという小さなビニールの音がしていた。
どこぞの有名な煎餅だかなんだか知らないが、それはあの和服美人の母親が、帰り際にユゥイの分もあるからと寄こしたものだった。
またお待ちしてます、という美しい微笑みに、ファイは死刑を宣告されたような気さえした。
正直、これから先もこのバイトを続けていける自信が一切ない。
あれから、ほぼ全てを仕切られる形でどうにか授業は終了した。
まるで立場が逆のような気もしたが、ファイがグズグズしている様に、彼は随分と苛立っていたように感じた。
勉強の仕方や進め方など、相手に促される形でおずおずと説明し、そして無造作に目の前に突き出されたテストの答案を見ながら、苦手な部分についてをボソボソと話し合った。
生きた心地がしない中、気がつけば案外すんなりと時間は経過していた。残りの時間は問題集から幾つかの問題を選んで、小テストまがいなことをさせながらどうにか切り抜けた。
黒鋼は必要最低限の会話もしなければ、怒ったような表情を一切崩すことがなかった。
勉強を教えに来ているのだから、静かに事を進めるのは当たり前なのだが、なぜか沈黙が痛くて仕方がなかった。
あんなことがあったから無駄に構えてしまっている自覚はあったが、きっと何もなかったとしても、波長の合わない相手だったに違いない。
どうにもコミュニケーションが取りづらく、これまでファイの周りには決していないタイプだということだけは、ハッキリとしていた。
「辞めたいって言ったら……ユゥイ困るかな……」
今夜は月も星も見えない。街の明りにぼんやりとした中途半端な闇が広がる空に、ファイはポツリと呟く。
右手に持つ煎餅の袋が、やけに重いものに感じた。
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