2025/09/06 Sat 第五話 『鬱屈』 ユゥイは怖い思いをしたのだろうと気遣ってくれたが、ファイとしては痴漢に遭ったということよりも、その後の出来事の方のダメージが大きかったので、それ自体は大した問題ではなかった。 だが、その微妙に的の外れたダメージの強大さがゆえに、ファイは電車というものが嫌いになった。 これからの季節や天候によっては、そのようなことも言っていられない場合が出てくるだろうが、なんとなく自分の中でほとぼりが冷めるまでは、当分の利用を控えたかった。 *** いざとなると、やはり緊張する。 ファイは先日と同じように、闇の中に聳える大きな日本家屋の門の前で立ち尽くしていた。 ただ、前回と異なるのはファイがここまでやって来た交通手段として、折りたためるタイプの自転車が同伴していることだった。 どんよりとしながらノロノロと徒歩で帰宅したときの、半分以下の時間でここまで到着することが出来たものの、少々時間が早すぎたようだ。 時計を見れば30分も早い。 「気合入れすぎちゃったかな……」 結局、あれからこの家の人間からの連絡は一切なかった。ユゥイは「良かったね」と言ってくれたが、ファイ的にはまだ安心しかねている。 直接顔を突き合わせてクビの宣告がなされる可能性だって、十分に残されているからだ。 結局、決めたことは最後までやり通そうという思いから、勢いで自転車を購入したものの、こればかりはこちらの意思だけではどうにもならない。 ファイはドキドキと高鳴る心臓を落ち着かせようと、幾度か深呼吸をした。 やっぱり黒鋼と顔を合わせるのは勇気がいる。ご機嫌取りというわけではないが、会話の糸口になればと、今日はユゥイの手製の菓子も持参してきた。 ひとまずどう転ぶにしたって黒鋼には礼を言わねば。 向こうが口を開こうとしないなら、ファイは持ち前の明るさで自ら冗談めかして話を切り出すつもりでいた。 重厚感溢れる空気など、いっそのこと思い切りぶち破ってしまえば、こちらのペースに運びやすい……かもしれない。 陽気なピエロにでもなったような気持ちで、当たって砕ける覚悟を決める。 ファイはその後も時間まで立ち尽くしていたが、意を決したように顔を上げるとコールボタンを押した。 *** 正直、この期におよんでまだ心の準備が整っていなかったことを、ファイは痛感させられていた。 ボタンを押せばスピーカーから聞こえるのはあの優しげな声で、出迎えてくれるのもその人だとばかり思っていたからだ。 (あの綺麗なお母さん……まさかいないなんて……) ファイを出迎えてくれたのは、なんと黒鋼本人だったのだ。 顔を突き合わせた途端、またしても言葉をなくしてしまったファイは、ガチガチに固まって挨拶もろくに交わせなかった。 何事も最初が肝心というが、こんな調子では前回の二の舞に終わる可能性が十分に考えられる。 どうもあの意思の強そうな鋭い眼光に見下ろされると、その威圧感に身体が竦んでしまうらしい。 彼の両親は知り合いに急な不幸があったとかで、本日は共に不在とのことだった。 今、ファイは黒鋼の部屋にて一人、緊張した面持ちで正座をしていた。 (ダメだダメだ! しっかりしないと! ちゃんとお礼言うって決めたんだから……!) 勢いよく息を吐き出し、心の中で気合いを入れる。 すると、背後で障子がするりと開かれた。 「!」 ピンと背筋を伸ばしたファイに、両手に茶の入った湯呑み茶碗を持った黒鋼が歩み寄ってくる。 そのまま無言で熱い茶を差し出され、ファイはどうにか声を振り絞って礼を言った。 「ぁりが、と……」 「おい」 ビクリと、身体が跳ねる。けれどなるべく平静を装って顔を向ける。 「な、なに、かな?」 「また足がバカにならねぇうちに、崩した方がいいんじゃねぇのか」 「あ、う、うん、そうだね……ごめん……」 「別に謝らなくていい」 「うっ……ごめん……」 縮こまっているファイに、黒鋼は呆れたような息を洩らした。 まずい。このままでは場の空気に呑まれたまま終わってしまう。どうにかせねば……。 ちょうど向かいに腰を下ろして、自分が淹れてきた茶を啜り出した黒鋼に向かって、ファイは思い出したように持参してきた菓子の箱を差し出した。 これは本日最大の秘密兵器である。 「あのね! こ、これ……」 「あ?」 (だから! いちいちガラ悪いんだってばー!) 内心ビビリつつ、ファイは顔の筋肉が引き攣るほどのわざとらしい笑顔を浮かべた。かつて、こんなにも笑うことを苦痛に感じたことはない。 黒鋼は眉間に皺を刻んだ表情で、目の前の白い箱を見ている。 「よ、よければなんだけど……」 手を伸ばしにくいかと察して、ファイは足を崩しがてら膝立ちになると箱を開けた。 中からは、この季節にぴったりなカボチャとナッツを使ったパウンドケーキが可愛らしくラッピングされて納まっている。 「オレの弟、ユゥイっていうんだけど、お菓子とかお料理作るの上手でね、これすっごく美味しいんだよー! ほら、勉強してると甘いもの欲しくなるでしょー?」 とりあえず一生懸命に喋った。 ファイにすればまだまだ口数は足りないほうなのだが、それでもよくやったと思う。 これで少しは打ち解ける切欠が作れたろうか……。 そう思い、上目使いで黒鋼を見やると、彼はなぜか渋い顔を作っていた。 「あれ……?」 「……せっかくだが……俺は甘いもんは好かねぇ」 「え」 「俺はいいから、おまえが食え」 ほんの数秒フリーズしたファイだが、すぐにブルブルと高速で首を振った。 「い、いいよー! それだと意味ないし……!」 自分が食べるために持ってきたものではない。 だがよくよく考えれば、彼は見るからに甘い物など好んで食べそうなイメージはなかった。 (オレのバカー!!) ドーンと影を纏いながら肩を落とした。 心なしか、場が白けたムードに包まれているような気がするのは気のせいだといいが……。 「ご……ごめんね……」 「いい。お袋が喜ぶ。気にするな」 「うん……」 本当に、これではどちらが年上か分からない。 ファイの心境などお構いなしに、黒鋼はあっさり箱の蓋を閉めると脇に避けてしまった。 「それより、今日もとっとと始めるぞ」 そして本日も黒鋼の仕切りにより、授業が始まるようだ。目の前で教材を広げ始める様を唇を噛み締めながら見守ったファイだが、彼の様子からどうやらクビは免れたらしいということが知れた。 それなのに、なぜだかとても複雑な思いに囚われているのはなぜだろう……。 *** いけない。これでは本当に前回とまるで同じになってしまう。 ファイは時計をチラチラと確認しつつ、刻々と過ぎてゆく時の流れに焦っていた。 結局は黒鋼の威圧感と、秘密兵器の不発に引きずられて、必要最低限のこと以外を切り出せないでいる。 このまま暫く待てば、きりのいいところで休憩を挟むという手がある。そこできっと多少の隙は出来るはずだ。 が、なんだかどんどん自信がなくなってくる。 いっそのこと全て無かったことにして、今後もバイトを続けることが可能かもしれないが、それではやっぱり気が収まらない。 (ちゃんと謝りたい……お礼が言いたい……けど……やっぱり蒸し返したくない……でもお礼は言いたいし……) 今、黒鋼はファイが課した課題に取り組んでいる。 キリッとした真面目な顔を正面から盗み見て、ファイはグルグルとしていた余計な思考を一瞬だけ停止させた。 彼はとても頭がいいと思う。率直に見て、そう感じる。 わざわざこうして誰かが見ずとも自力でどうにでも苦手教科など克服できそうだし、会話をすることを恐れてついつい問題集にばかり逃げてしまう自分など、果たして家庭教師としての責務を果たすことは出来ているのだろうか。 せいぜい答え合わせをして、間違った場所をさらりと説明する程度だ。 それだって声が上ずって、時々何を言っているのか分からないときがある。舌を噛んで咳き込むこともある。その度に、相手の視線が痛いわけだが……。 そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の伏せられた目蓋に茂る漆黒の睫毛に目を留めた。意外に長いことに気がついて、思わずドキリとする。 あの睫毛に覆われた鋭い眼光に射抜かれると、どうしてもしどろもどろになってしまう。 本当に、彼は見れば見るほど端正な顔つきをしている。 年齢にしてはだいぶ完成されている様子だが、その辺りは女の子だって同じだ。メイクがそうさせるのだろうが、はっきり言って十代にはとても見えない面構えの女性が、平然と制服を着て街中を闊歩している。 これで愛想がよければ、きっと女の子だって選り取りみどりに違いない。 (いやいや待てよ……もしかしたらクールだからこそ、よりカッコいいのかも……) 考えてみれば、黒鋼はファイとは対照的だ。 見るからに硬そうな黒髪に、よく陽に焼けた健康的な肌。身体だってただ背が高いだけでなく、がっしりと肩幅があってよく鍛えられている。 (ヘラヘラしてなくて、痴漢からだって助けてくれるし……) 完璧。 そんな言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。 きっと自分が女性なら、助けられたあの瞬間には恋に落ちていたに違いない。 彼ならば、好きになった相手から理不尽な捨て台詞をお見舞いされて、派手に振られることもないのだろう。 ユゥイにしたってそうだ。彼から浮いた話というのは滅多に聞かないが、あの弟はファイにはない落ち着きというものが備わっている。 容姿は同じだが、纏う空気はまるで違う。 「…………」 なんだか猛烈に悲しくなった。 こんな完璧な男前に恥ずかしい有様の一部始終を知られてしまったのだと思うと、改めて絶望的な気持ちになる。 彼といると自分がどこまでも情けなくて、不完全な人間に感じられて仕方ない。 黒鋼は自分の理想とする男性像に、悔しいほどぴたりと一致しすぎている。 ただ恥ずかしい気持ちになるだけでなく、年下の高校生を相手にこんなにも屈辱的な気持ちになるなんて。 彼には一切の非がないぶん、余計に自分の未熟さが身に染みるようだった。 この授業が終わったら謝るだけ謝って、やっぱりこの仕事は断ろうと思った。 こんな鬱屈した感情を抱いたままでは、きっとこの先もずっと彼との良好な関係は望めそうもない。 「おい、終わったぞ……って、おい?」 「……?」 「おまえ、何泣いてんだ……?」 「!」 指摘されて、慌てて指先で頬に触れた。しっとりと濡れている。 信じられないことに、ファイは自分でも知らない間にボロボロと涙を零していたのだった。 ←戻る ・ 次へ→
ユゥイは怖い思いをしたのだろうと気遣ってくれたが、ファイとしては痴漢に遭ったということよりも、その後の出来事の方のダメージが大きかったので、それ自体は大した問題ではなかった。
だが、その微妙に的の外れたダメージの強大さがゆえに、ファイは電車というものが嫌いになった。
これからの季節や天候によっては、そのようなことも言っていられない場合が出てくるだろうが、なんとなく自分の中でほとぼりが冷めるまでは、当分の利用を控えたかった。
***
いざとなると、やはり緊張する。
ファイは先日と同じように、闇の中に聳える大きな日本家屋の門の前で立ち尽くしていた。
ただ、前回と異なるのはファイがここまでやって来た交通手段として、折りたためるタイプの自転車が同伴していることだった。
どんよりとしながらノロノロと徒歩で帰宅したときの、半分以下の時間でここまで到着することが出来たものの、少々時間が早すぎたようだ。
時計を見れば30分も早い。
「気合入れすぎちゃったかな……」
結局、あれからこの家の人間からの連絡は一切なかった。ユゥイは「良かったね」と言ってくれたが、ファイ的にはまだ安心しかねている。
直接顔を突き合わせてクビの宣告がなされる可能性だって、十分に残されているからだ。
結局、決めたことは最後までやり通そうという思いから、勢いで自転車を購入したものの、こればかりはこちらの意思だけではどうにもならない。
ファイはドキドキと高鳴る心臓を落ち着かせようと、幾度か深呼吸をした。
やっぱり黒鋼と顔を合わせるのは勇気がいる。ご機嫌取りというわけではないが、会話の糸口になればと、今日はユゥイの手製の菓子も持参してきた。
ひとまずどう転ぶにしたって黒鋼には礼を言わねば。
向こうが口を開こうとしないなら、ファイは持ち前の明るさで自ら冗談めかして話を切り出すつもりでいた。
重厚感溢れる空気など、いっそのこと思い切りぶち破ってしまえば、こちらのペースに運びやすい……かもしれない。
陽気なピエロにでもなったような気持ちで、当たって砕ける覚悟を決める。
ファイはその後も時間まで立ち尽くしていたが、意を決したように顔を上げるとコールボタンを押した。
***
正直、この期におよんでまだ心の準備が整っていなかったことを、ファイは痛感させられていた。
ボタンを押せばスピーカーから聞こえるのはあの優しげな声で、出迎えてくれるのもその人だとばかり思っていたからだ。
(あの綺麗なお母さん……まさかいないなんて……)
ファイを出迎えてくれたのは、なんと黒鋼本人だったのだ。
顔を突き合わせた途端、またしても言葉をなくしてしまったファイは、ガチガチに固まって挨拶もろくに交わせなかった。
何事も最初が肝心というが、こんな調子では前回の二の舞に終わる可能性が十分に考えられる。
どうもあの意思の強そうな鋭い眼光に見下ろされると、その威圧感に身体が竦んでしまうらしい。
彼の両親は知り合いに急な不幸があったとかで、本日は共に不在とのことだった。
今、ファイは黒鋼の部屋にて一人、緊張した面持ちで正座をしていた。
(ダメだダメだ! しっかりしないと! ちゃんとお礼言うって決めたんだから……!)
勢いよく息を吐き出し、心の中で気合いを入れる。
すると、背後で障子がするりと開かれた。
「!」
ピンと背筋を伸ばしたファイに、両手に茶の入った湯呑み茶碗を持った黒鋼が歩み寄ってくる。
そのまま無言で熱い茶を差し出され、ファイはどうにか声を振り絞って礼を言った。
「ぁりが、と……」
「おい」
ビクリと、身体が跳ねる。けれどなるべく平静を装って顔を向ける。
「な、なに、かな?」
「また足がバカにならねぇうちに、崩した方がいいんじゃねぇのか」
「あ、う、うん、そうだね……ごめん……」
「別に謝らなくていい」
「うっ……ごめん……」
縮こまっているファイに、黒鋼は呆れたような息を洩らした。
まずい。このままでは場の空気に呑まれたまま終わってしまう。どうにかせねば……。
ちょうど向かいに腰を下ろして、自分が淹れてきた茶を啜り出した黒鋼に向かって、ファイは思い出したように持参してきた菓子の箱を差し出した。
これは本日最大の秘密兵器である。
「あのね! こ、これ……」
「あ?」
(だから! いちいちガラ悪いんだってばー!)
内心ビビリつつ、ファイは顔の筋肉が引き攣るほどのわざとらしい笑顔を浮かべた。かつて、こんなにも笑うことを苦痛に感じたことはない。
黒鋼は眉間に皺を刻んだ表情で、目の前の白い箱を見ている。
「よ、よければなんだけど……」
手を伸ばしにくいかと察して、ファイは足を崩しがてら膝立ちになると箱を開けた。
中からは、この季節にぴったりなカボチャとナッツを使ったパウンドケーキが可愛らしくラッピングされて納まっている。
「オレの弟、ユゥイっていうんだけど、お菓子とかお料理作るの上手でね、これすっごく美味しいんだよー! ほら、勉強してると甘いもの欲しくなるでしょー?」
とりあえず一生懸命に喋った。
ファイにすればまだまだ口数は足りないほうなのだが、それでもよくやったと思う。
これで少しは打ち解ける切欠が作れたろうか……。
そう思い、上目使いで黒鋼を見やると、彼はなぜか渋い顔を作っていた。
「あれ……?」
「……せっかくだが……俺は甘いもんは好かねぇ」
「え」
「俺はいいから、おまえが食え」
ほんの数秒フリーズしたファイだが、すぐにブルブルと高速で首を振った。
「い、いいよー! それだと意味ないし……!」
自分が食べるために持ってきたものではない。
だがよくよく考えれば、彼は見るからに甘い物など好んで食べそうなイメージはなかった。
(オレのバカー!!)
ドーンと影を纏いながら肩を落とした。
心なしか、場が白けたムードに包まれているような気がするのは気のせいだといいが……。
「ご……ごめんね……」
「いい。お袋が喜ぶ。気にするな」
「うん……」
本当に、これではどちらが年上か分からない。
ファイの心境などお構いなしに、黒鋼はあっさり箱の蓋を閉めると脇に避けてしまった。
「それより、今日もとっとと始めるぞ」
そして本日も黒鋼の仕切りにより、授業が始まるようだ。目の前で教材を広げ始める様を唇を噛み締めながら見守ったファイだが、彼の様子からどうやらクビは免れたらしいということが知れた。
それなのに、なぜだかとても複雑な思いに囚われているのはなぜだろう……。
***
いけない。これでは本当に前回とまるで同じになってしまう。
ファイは時計をチラチラと確認しつつ、刻々と過ぎてゆく時の流れに焦っていた。
結局は黒鋼の威圧感と、秘密兵器の不発に引きずられて、必要最低限のこと以外を切り出せないでいる。
このまま暫く待てば、きりのいいところで休憩を挟むという手がある。そこできっと多少の隙は出来るはずだ。
が、なんだかどんどん自信がなくなってくる。
いっそのこと全て無かったことにして、今後もバイトを続けることが可能かもしれないが、それではやっぱり気が収まらない。
(ちゃんと謝りたい……お礼が言いたい……けど……やっぱり蒸し返したくない……でもお礼は言いたいし……)
今、黒鋼はファイが課した課題に取り組んでいる。
キリッとした真面目な顔を正面から盗み見て、ファイはグルグルとしていた余計な思考を一瞬だけ停止させた。
彼はとても頭がいいと思う。率直に見て、そう感じる。
わざわざこうして誰かが見ずとも自力でどうにでも苦手教科など克服できそうだし、会話をすることを恐れてついつい問題集にばかり逃げてしまう自分など、果たして家庭教師としての責務を果たすことは出来ているのだろうか。
せいぜい答え合わせをして、間違った場所をさらりと説明する程度だ。
それだって声が上ずって、時々何を言っているのか分からないときがある。舌を噛んで咳き込むこともある。その度に、相手の視線が痛いわけだが……。
そんなことを考えながら、ファイは黒鋼の伏せられた目蓋に茂る漆黒の睫毛に目を留めた。意外に長いことに気がついて、思わずドキリとする。
あの睫毛に覆われた鋭い眼光に射抜かれると、どうしてもしどろもどろになってしまう。
本当に、彼は見れば見るほど端正な顔つきをしている。
年齢にしてはだいぶ完成されている様子だが、その辺りは女の子だって同じだ。メイクがそうさせるのだろうが、はっきり言って十代にはとても見えない面構えの女性が、平然と制服を着て街中を闊歩している。
これで愛想がよければ、きっと女の子だって選り取りみどりに違いない。
(いやいや待てよ……もしかしたらクールだからこそ、よりカッコいいのかも……)
考えてみれば、黒鋼はファイとは対照的だ。
見るからに硬そうな黒髪に、よく陽に焼けた健康的な肌。身体だってただ背が高いだけでなく、がっしりと肩幅があってよく鍛えられている。
(ヘラヘラしてなくて、痴漢からだって助けてくれるし……)
完璧。
そんな言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。
きっと自分が女性なら、助けられたあの瞬間には恋に落ちていたに違いない。
彼ならば、好きになった相手から理不尽な捨て台詞をお見舞いされて、派手に振られることもないのだろう。
ユゥイにしたってそうだ。彼から浮いた話というのは滅多に聞かないが、あの弟はファイにはない落ち着きというものが備わっている。
容姿は同じだが、纏う空気はまるで違う。
「…………」
なんだか猛烈に悲しくなった。
こんな完璧な男前に恥ずかしい有様の一部始終を知られてしまったのだと思うと、改めて絶望的な気持ちになる。
彼といると自分がどこまでも情けなくて、不完全な人間に感じられて仕方ない。
黒鋼は自分の理想とする男性像に、悔しいほどぴたりと一致しすぎている。
ただ恥ずかしい気持ちになるだけでなく、年下の高校生を相手にこんなにも屈辱的な気持ちになるなんて。
彼には一切の非がないぶん、余計に自分の未熟さが身に染みるようだった。
この授業が終わったら謝るだけ謝って、やっぱりこの仕事は断ろうと思った。
こんな鬱屈した感情を抱いたままでは、きっとこの先もずっと彼との良好な関係は望めそうもない。
「おい、終わったぞ……って、おい?」
「……?」
「おまえ、何泣いてんだ……?」
「!」
指摘されて、慌てて指先で頬に触れた。しっとりと濡れている。
信じられないことに、ファイは自分でも知らない間にボロボロと涙を零していたのだった。
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