2025/09/06 Sat 第九話『携帯』 火曜日。 ファイは風邪を引いたと言って、その日のバイトを休んだ。 あながち嘘というわけではない。あの夜の出来事が関係しているかは分からないが、体調は最悪だった。 熱は怖くて測っていないが、身体全体がだるくて食欲が湧かない。それに加えて頭痛が酷かった。 ユゥイが心配して消化にいいものを作ってくれても、せいぜい薬を飲むためにほんの数口だけ口に運んで、あとは残してしまった。 すっかり気温が下がってからも、思いのほか自転車での移動が気に入ってしまったファイは、電車を利用していなかった。 考えられるとすれば、それが原因かもしれない。 *** 明けて水曜日、ファイは大学にすら行く気になれず、リビングに毛布を持参してそれにくるまると、ソファにごろ寝しながら昼間のバラエティ番組をぼんやりと見つめていた。 テレビの中でお笑い芸人が身振り手振りで面白おかしい話をし、共演者やスタジオ全体が笑いに包まれても、ファイはただその映像を瞳に映しているだけで、何の感情も湧くことはなかった。 一人でいると、口から吐き出されるのは熱を帯びた溜息ばかり。 幾度目になるか分からないそれを、ファイは翳した右の手の平に向けて放った。 あの夜から、ずっとここは熱を持ったままだった。誰かを衝動的に殴るなんて、生まれて初めての経験だった。 「黒たん……許してくれないだろうな……」 ポツリと呟くと、もういい加減枯れてもいいくらいに泣きはらしたはずの瞳に涙が滲む。 黒鋼の赤くなった頬と、あの鋭い眼光を同時に思い出し、ファイは毛布でごしごしと両目を拭った。 (なんであんなことしちゃったんだろう……黒たんは悪くないよ……。だって黒たんが言ったことは、本当のことだもん……) 言われても仕方のないことだった。自分でもそう思っている。 いくら気を紛らわすだめだったとはいえ、どんなに妄想で補おうとしたって無理がありすぎる状況だった。 「でもオレ……男の人を好きになんか、なったことないよ……」 それでも黒鋼には誤解されていた。 ファイがヘラヘラとお喋りに夢中になっていたときも、勉強を教えているときも、彼は本当はいつもそういう目でこちらを見ていたのかもしれない。 『そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ』 冷たい表情と、突き放した棘のある言葉。 思い出すだけで怖くて、恥ずかしくて、自分がしでかしたことに身体が震えた。 多分、もう駄目だろうと思った。 勝手にはしゃいで仲良くなれたと勘違いして、気を遣ってくれているだけの相手に図々しく接して。 あげく、頭に来たからといって手まで上げてしまった。 「やっぱりオレって最低だなぁ……」 ただちょっとだけ、黒鋼の父のことは素敵だと思った。 けれどそれは、きっと黒鋼もこんな風に大人になるのだと思ったからで。家族と黒鋼が、どんな風に会話をしたり、どんな風に一緒の時間を過ごすのかが、気になったからで。 ファイはだるい身体を起こすと、ソファの脇に放り投げられていた携帯電話を拾い上げた。 点滅する小さなランプが、新着メールの有無を知らせている。 ぼんやりとそれを開いて見ると、幾つかは同じ大学の友人からの見舞いのメールと、ユゥイからは食事をちゃんとするようにという内容のものだった。 そして最後の一つ、差出人の名前を見て、ファイはドキリと心臓を高鳴らせた。 「黒たんから……?」 彼とは以前、ファイが寝坊して遅刻したときに個人的な連絡先を交換していた。 何かあったときは家にではなく、直接知らせろと言われたからだ。 ファイからは幾度かどうでもいい内容のメールを送ったことはあったが、黒鋼からの返信があった試しはない。 今回の身体の不調による休みの連絡は自宅の方に入れた。こちらからはとてもではないが、黒鋼に直で連絡を入れるなんて真似は出来なかった。 それが、どうして今……。 「め、メールで……クビ宣告……?」 予想できる内容はそれしか思い浮かばない。 こんな俄か家庭教師ごときが、そのバイト先であるお金持ちの家のお坊ちゃんに手を上げて、無事で済むはずがなかった。 口の中がカラカラに乾く。指先も震えて、携帯電話を落としそうになるのを両手でしっかりと持った。 すぐにメールを開く勇気が持てなくて、幾度か深呼吸をする。 ごくりと喉を鳴らすと「えいっ」という掛け声と共にぎゅっと目を閉じ、ボタンを押した。 そっと目を開く。そして、内容に目を通した。 差出人:黒わんこ 件名:non title 本文: 話がある。 来れそうだったら次は来い。 「はなし……」 ずしりと、さらに胸に重いものが圧し掛かったような感覚を覚える。 あんなことさえなければ、黒鋼から初めてメールをもらえたことを飛び跳ねて喜んでいたのかもしれない。 ファイは、これまでで一番大きくて深い溜息を零しながらテーブルに突っ伏した。 *** 「おはようファイ。調子はどう?」 自室からリビングへ出ると、ユゥイがテーブルに広げていた新聞から顔を上げて、優しく微笑んだ。 「うん……もう平気ー」 「すぐ紅茶を淹れるね。ご飯は食べられそう?」 「……ごめん。ご飯はまだいいや……」 寝癖もそのままに力なく椅子に腰掛けると、ユゥイがキッチンへ向かうがてらファイの額に触れる。 ひんやりとした柔らかな感触が心地いい。 「熱はないんだけど……まだ顔色が悪いね……」 果物でもいいから食べてと、そう言いながらユゥイが側から離れると、ファイは手にしていた携帯を開き、再び黒鋼からのメールを見つめた。 今日は金曜日。来いと言われた以上、流石にサボるわけにもいかない。学校だっていつまでも休んではいられない。 「あ、そうだ。あのね、さっき新聞で見たんだけど」 こちらに背を向けたまま果物の皮を剥いているらしいユゥイが、手元からは目を離さずに話題を切り出した。 ファイは携帯をパチンと閉じて、キッチンの方に目を向ける。 「男の子ばかり狙って痴漢をしてた犯人がね、この近くの駅で捕まったんだって。もしかしたら、ファイに痴漢した人と一緒かもしれないね」 「……へぇ。そうなんだー」 男を相手に痴漢を働く人間が、そうそういては困りものだ。 それは女性が相手であっても同じだが、確率的にいえばあの時の男が捕まったと考えるのは、自然なことかもしれない。 「もう寒いし、そろそろ電車を使った方がいいんじゃないかな? ねぇ、ファイ」 「うん……そうだね……」 どうせあの路線に乗るのは今日で最後になる。 気分も身体も重たいが、逃げてばかりもいられない。いい加減、腹を括ろう。 ファイはぎゅっと拳を握って思い切り深呼吸すると、ユゥイが剥いてきたリンゴと紅茶を残さず腹に収めた。 ←戻る ・ 次へ→
火曜日。
ファイは風邪を引いたと言って、その日のバイトを休んだ。
あながち嘘というわけではない。あの夜の出来事が関係しているかは分からないが、体調は最悪だった。
熱は怖くて測っていないが、身体全体がだるくて食欲が湧かない。それに加えて頭痛が酷かった。
ユゥイが心配して消化にいいものを作ってくれても、せいぜい薬を飲むためにほんの数口だけ口に運んで、あとは残してしまった。
すっかり気温が下がってからも、思いのほか自転車での移動が気に入ってしまったファイは、電車を利用していなかった。
考えられるとすれば、それが原因かもしれない。
***
明けて水曜日、ファイは大学にすら行く気になれず、リビングに毛布を持参してそれにくるまると、ソファにごろ寝しながら昼間のバラエティ番組をぼんやりと見つめていた。
テレビの中でお笑い芸人が身振り手振りで面白おかしい話をし、共演者やスタジオ全体が笑いに包まれても、ファイはただその映像を瞳に映しているだけで、何の感情も湧くことはなかった。
一人でいると、口から吐き出されるのは熱を帯びた溜息ばかり。
幾度目になるか分からないそれを、ファイは翳した右の手の平に向けて放った。
あの夜から、ずっとここは熱を持ったままだった。誰かを衝動的に殴るなんて、生まれて初めての経験だった。
「黒たん……許してくれないだろうな……」
ポツリと呟くと、もういい加減枯れてもいいくらいに泣きはらしたはずの瞳に涙が滲む。
黒鋼の赤くなった頬と、あの鋭い眼光を同時に思い出し、ファイは毛布でごしごしと両目を拭った。
(なんであんなことしちゃったんだろう……黒たんは悪くないよ……。だって黒たんが言ったことは、本当のことだもん……)
言われても仕方のないことだった。自分でもそう思っている。
いくら気を紛らわすだめだったとはいえ、どんなに妄想で補おうとしたって無理がありすぎる状況だった。
「でもオレ……男の人を好きになんか、なったことないよ……」
それでも黒鋼には誤解されていた。
ファイがヘラヘラとお喋りに夢中になっていたときも、勉強を教えているときも、彼は本当はいつもそういう目でこちらを見ていたのかもしれない。
『そっちの気がなけりゃ、男の痴漢相手にあんなことにはならねぇだろ』
冷たい表情と、突き放した棘のある言葉。
思い出すだけで怖くて、恥ずかしくて、自分がしでかしたことに身体が震えた。
多分、もう駄目だろうと思った。
勝手にはしゃいで仲良くなれたと勘違いして、気を遣ってくれているだけの相手に図々しく接して。
あげく、頭に来たからといって手まで上げてしまった。
「やっぱりオレって最低だなぁ……」
ただちょっとだけ、黒鋼の父のことは素敵だと思った。
けれどそれは、きっと黒鋼もこんな風に大人になるのだと思ったからで。家族と黒鋼が、どんな風に会話をしたり、どんな風に一緒の時間を過ごすのかが、気になったからで。
ファイはだるい身体を起こすと、ソファの脇に放り投げられていた携帯電話を拾い上げた。
点滅する小さなランプが、新着メールの有無を知らせている。
ぼんやりとそれを開いて見ると、幾つかは同じ大学の友人からの見舞いのメールと、ユゥイからは食事をちゃんとするようにという内容のものだった。
そして最後の一つ、差出人の名前を見て、ファイはドキリと心臓を高鳴らせた。
「黒たんから……?」
彼とは以前、ファイが寝坊して遅刻したときに個人的な連絡先を交換していた。
何かあったときは家にではなく、直接知らせろと言われたからだ。
ファイからは幾度かどうでもいい内容のメールを送ったことはあったが、黒鋼からの返信があった試しはない。
今回の身体の不調による休みの連絡は自宅の方に入れた。こちらからはとてもではないが、黒鋼に直で連絡を入れるなんて真似は出来なかった。
それが、どうして今……。
「め、メールで……クビ宣告……?」
予想できる内容はそれしか思い浮かばない。
こんな俄か家庭教師ごときが、そのバイト先であるお金持ちの家のお坊ちゃんに手を上げて、無事で済むはずがなかった。
口の中がカラカラに乾く。指先も震えて、携帯電話を落としそうになるのを両手でしっかりと持った。
すぐにメールを開く勇気が持てなくて、幾度か深呼吸をする。
ごくりと喉を鳴らすと「えいっ」という掛け声と共にぎゅっと目を閉じ、ボタンを押した。
そっと目を開く。そして、内容に目を通した。
差出人:黒わんこ
件名:non title
本文:
話がある。
来れそうだったら次は来い。
「はなし……」
ずしりと、さらに胸に重いものが圧し掛かったような感覚を覚える。
あんなことさえなければ、黒鋼から初めてメールをもらえたことを飛び跳ねて喜んでいたのかもしれない。
ファイは、これまでで一番大きくて深い溜息を零しながらテーブルに突っ伏した。
***
「おはようファイ。調子はどう?」
自室からリビングへ出ると、ユゥイがテーブルに広げていた新聞から顔を上げて、優しく微笑んだ。
「うん……もう平気ー」
「すぐ紅茶を淹れるね。ご飯は食べられそう?」
「……ごめん。ご飯はまだいいや……」
寝癖もそのままに力なく椅子に腰掛けると、ユゥイがキッチンへ向かうがてらファイの額に触れる。
ひんやりとした柔らかな感触が心地いい。
「熱はないんだけど……まだ顔色が悪いね……」
果物でもいいから食べてと、そう言いながらユゥイが側から離れると、ファイは手にしていた携帯を開き、再び黒鋼からのメールを見つめた。
今日は金曜日。来いと言われた以上、流石にサボるわけにもいかない。学校だっていつまでも休んではいられない。
「あ、そうだ。あのね、さっき新聞で見たんだけど」
こちらに背を向けたまま果物の皮を剥いているらしいユゥイが、手元からは目を離さずに話題を切り出した。
ファイは携帯をパチンと閉じて、キッチンの方に目を向ける。
「男の子ばかり狙って痴漢をしてた犯人がね、この近くの駅で捕まったんだって。もしかしたら、ファイに痴漢した人と一緒かもしれないね」
「……へぇ。そうなんだー」
男を相手に痴漢を働く人間が、そうそういては困りものだ。
それは女性が相手であっても同じだが、確率的にいえばあの時の男が捕まったと考えるのは、自然なことかもしれない。
「もう寒いし、そろそろ電車を使った方がいいんじゃないかな? ねぇ、ファイ」
「うん……そうだね……」
どうせあの路線に乗るのは今日で最後になる。
気分も身体も重たいが、逃げてばかりもいられない。いい加減、腹を括ろう。
ファイはぎゅっと拳を握って思い切り深呼吸すると、ユゥイが剥いてきたリンゴと紅茶を残さず腹に収めた。
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