2025/09/06 Sat 全てを思い出した黒鋼は、ただ力なく地面に膝をつき、ただひたすら百合の花を見つめていた。 心の中が空っぽだった。 全てを思い出しても、穴は塞がるどころか、何もかもが消えうせてしまった。 この世界に、もうファイはいない。 あの日、全て失くしてしまったから。 「あれから……どれだけ経った……?」 漠然と、呆然と、声にも生気が抜けたように力がなかった。 「今日で、ちょうど一年」 「そうか……」 地面についていた拳を握る。 爪の中に細かな土が入り込む。 百合の花が揺れた。 あの日。 ファイのいない時間を少しは満喫しようと、ゆっくりと朝食を摂った。 それから、何も持たずに出て行ってしまったファイのために、タオルを何枚か用意した。 あの子供より手のかかる男のことだから、きっと泳ぐまではせずとも、ろくなことはしないに違いなかったから。 そんなときだ。 慌てたホテルマンの若い男が、真っ青な顔をして駆け込んできたのは。 あの時の光景を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。 あまりにも鮮明すぎて、むしろスローモーションのようにのろのろとした速度で脳内に再生される。 セピア色の記憶。 「あいつは……一年前の今日……ここで……」 当時、あまりの衝撃に動転していたけれど、事件の大まかな話は覚えている。 溺れている子供を助けようとして、泳げもしないくせに、あの男はこの湖へと身を投じたのだ。 子供は無事に救出されたが、どれほど探してもファイの姿は見当たらなかった。 警察や青年団が必死の捜索に当たったが、彼の遺体は上がらないまま、やがて捜査は打ち切られた。 ファイの亡骸は、今もこの湖の底で……。 「あのお母さん、よほど驚いたんだろうね。この場所でボクを見て、ちょっとおかしくなった。お葬式の日に、一度会ってるのにね」 ユゥイは、少しだけ悲しそうに眉を寄せて、寂しげに笑った。 「君ともね。でも、君の目はそのとき、何も映してはいなかったから」 ずっと壊れていたのだと、ユゥイは言っていた。 そう、黒鋼は壊れていた。 信じられないという思いと、信じたくないという現実からの逃避と、そして後悔と。 それはどれだけ悔やんでも悔やみきれるものではなかった。 なぜあのとき、彼を一人で行かせてしまったのだろう。 なぜすぐにでも追わなかったのだろう。 なぜ、離してしまったのだろう。 ファイのいない世界はあまりにも静かで、あまりにも色褪せていた。 ふとした瞬間、あの浮かれた声が自分の名を呼ぶのが聞こえてくるようで、その度に悪夢は終わったのだろうかと彼の姿を探して回った。 どこかで迷子にでもなっているのか。 ファイは興味を引かれればそれに夢中になってしまうから。 自分が見ていてやらないと、ふらふらと何処へ行ってしまうか分からない。 だから離してはいけなかったのに。 あの白く、温かな細い手を、指先を、彼自身を。 そして黒鋼は自らを壊し、心を、世界を閉ざした。 見たくないものから目を逸らした。 ただ一人をその目で探し続けて、やがてあの雨の日、亡骸のない墓標の前で、『彼』を見つけた。 ここにいたのか。 ずっと探していた。 もう一度あの日を、俺とおまえで最初からやり直そう。 もう何処へも行くな。 おまえの行きたいところへは、何処へでも俺が連れて行くから。 俺がずっと、見ていてやるから。 ユゥイを抱きしめて、黒鋼は彼を失ってから初めて泣いたのだ。 ファイの名を呼びながら。 「あの日から、ボクはファイになった。君がそれを望んだから。本当は、君のことを憎んでいたよ。ボクからファイを奪っておいて……失くしてしまった」 ――でも、あまりにも哀れだったから。 黒鋼は再び力なく項垂れた。 まるで今まで忘れていたかのように、熱い涙が頬を伝う。 後から後から流れ出すそれは黒い土の上に落ちて、やがて溶けるようにして消えてゆく。 握り締めた拳で口元を押さえても、込み上げる嗚咽は止まらなかった。 ゆっくりとユゥイが近づく。目の前に、白い手が差し出される。 「さぁ行こう黒鋼。ファイは今でも、君を待っている」 『早く来てね? オレ、先に行って待ってるから』 その手を取ることを、黒鋼は迷わなかった。 * 霧は晴れていた。 今はただ悲しげな曇天が、やがて訪れる水の恵みを匂いと共に知らせている。 ユゥイに見守られて、黒鋼は冷えた水の中に足を踏み入れた。 何ものも拒まない透き通るそれは、黒鋼を誘うようにゆらゆらと美しい綾を描く。 一歩一歩、確かな歩みで、彼の待つ世界へ。 新しい世界へ。 「男は、ほんとはずっと女の正体を知っていたんだろうね」 死にゆこうとする者を目の前にしているとは思えない穏やかさで、ユゥイが語りかけてくる。 黒鋼の心もまた嘘のように穏やかなものだった。 「そうだな」 男は、本当は最初から知っていたのだ。 今なら分かる。 娘も同じ願いだったのだろう。 だから幸せだった。 誰もが望む、幸福な結末。 黒鋼は僅かに口元を綻ばせた。 水が迫ってくる。 あと少し。 もう少し。 心がそのときを待ちわびて、静かに凪いでいる。 「ねぇ、君が望んだファイは、どうだった?」 水底の藻が、まるで蛇のように足元に絡みつく。 深く深く、招き入れるような優しさで。 黒鋼はふわりと浮き上がる両腕で、愛しいそれらをそっと撫でた。 酷く待たせてしまった。 けれど、もう、すぐ。 「あいつは、小煩いくらいが丁度よかったのさ」 そこで、黒鋼の世界は完全に閉じた。 やっと、会えたね。 『聞いてよユゥイー! 明日からね、黒様と旅行に行くんだー』 『ふぅん? そうなんだ』 『湖がすっごくキレイでね、しかもコテージ借りて2人っきり!』 『はしゃぎすぎて危ないことしないでよ?』 『わかってるよぉ……もう、ユゥイって黒たんと同じようなこと言うよねー』 最後の会話で、受話器越しのファイは本当に楽しそうだった。 いつもそう。 黒鋼のことを話す彼は幸せそうで、今にも蕩けて消えてしまうのではないかと思うほど 「本当に、消えちゃったね」 ユゥイは笑うと、あの親子が手向けていった花束を手にした。 萎びた百合の花からは、それでも甘い香りが漂っていた。 黒鋼が消えていった湖を見つめる。 会えただろうか。 ファイは、もう退屈も寂しさも感じないで済むだろうか。 「戻ってくるときは、きっとファイを連れて帰ってきてね」 どんな姿に変わり果てていても、2人を抱きしめて、キスがしたいから。 「おかえり」と、「愛してる」を、言わせてほしい。 ユゥイは、百合の花束を水面に放った。 白い花びらが美しく散ってゆく。 そっと目を閉じると、一筋の涙が頬を伝った。 けれど、それは悲しくて流す涙ではなかった。 また会える日まで。 例え永久の別れでも、2人一緒ならそれでいい。 ユゥイは幸せだった。 「さようなら」 優しく微笑みながら、ゆらゆらと流れゆく純白の花束を、いつまでも見つめていた。 あなたは私の名前を呼んでくれました。 抱き寄せて、罪深い私に口付けをくれました。 私の姿は変わり果てていて、この声帯は人の言の葉を紡ぐようには出来ていません。 それでも伝わるでしょうか。 私は心からあなたを待っていたのです。 私は心からあなたを愛しているのです。 やがてあなたは瞳を閉じ、永遠に覚めない眠りに就きました。 この声が決して届かないことを、私は知っているのです。 私はあなたと。 幸せに、どこまでも深く、堕ちてゆくのです。 End ←戻る ・ Wavebox👏
心の中が空っぽだった。
全てを思い出しても、穴は塞がるどころか、何もかもが消えうせてしまった。
この世界に、もうファイはいない。
あの日、全て失くしてしまったから。
「あれから……どれだけ経った……?」
漠然と、呆然と、声にも生気が抜けたように力がなかった。
「今日で、ちょうど一年」
「そうか……」
地面についていた拳を握る。
爪の中に細かな土が入り込む。
百合の花が揺れた。
あの日。
ファイのいない時間を少しは満喫しようと、ゆっくりと朝食を摂った。
それから、何も持たずに出て行ってしまったファイのために、タオルを何枚か用意した。
あの子供より手のかかる男のことだから、きっと泳ぐまではせずとも、ろくなことはしないに違いなかったから。
そんなときだ。
慌てたホテルマンの若い男が、真っ青な顔をして駆け込んできたのは。
あの時の光景を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
あまりにも鮮明すぎて、むしろスローモーションのようにのろのろとした速度で脳内に再生される。
セピア色の記憶。
「あいつは……一年前の今日……ここで……」
当時、あまりの衝撃に動転していたけれど、事件の大まかな話は覚えている。
溺れている子供を助けようとして、泳げもしないくせに、あの男はこの湖へと身を投じたのだ。
子供は無事に救出されたが、どれほど探してもファイの姿は見当たらなかった。
警察や青年団が必死の捜索に当たったが、彼の遺体は上がらないまま、やがて捜査は打ち切られた。
ファイの亡骸は、今もこの湖の底で……。
「あのお母さん、よほど驚いたんだろうね。この場所でボクを見て、ちょっとおかしくなった。お葬式の日に、一度会ってるのにね」
ユゥイは、少しだけ悲しそうに眉を寄せて、寂しげに笑った。
「君ともね。でも、君の目はそのとき、何も映してはいなかったから」
ずっと壊れていたのだと、ユゥイは言っていた。
そう、黒鋼は壊れていた。
信じられないという思いと、信じたくないという現実からの逃避と、そして後悔と。
それはどれだけ悔やんでも悔やみきれるものではなかった。
なぜあのとき、彼を一人で行かせてしまったのだろう。
なぜすぐにでも追わなかったのだろう。
なぜ、離してしまったのだろう。
ファイのいない世界はあまりにも静かで、あまりにも色褪せていた。
ふとした瞬間、あの浮かれた声が自分の名を呼ぶのが聞こえてくるようで、その度に悪夢は終わったのだろうかと彼の姿を探して回った。
どこかで迷子にでもなっているのか。
ファイは興味を引かれればそれに夢中になってしまうから。
自分が見ていてやらないと、ふらふらと何処へ行ってしまうか分からない。
だから離してはいけなかったのに。
あの白く、温かな細い手を、指先を、彼自身を。
そして黒鋼は自らを壊し、心を、世界を閉ざした。
見たくないものから目を逸らした。
ただ一人をその目で探し続けて、やがてあの雨の日、亡骸のない墓標の前で、『彼』を見つけた。
ここにいたのか。
ずっと探していた。
もう一度あの日を、俺とおまえで最初からやり直そう。
もう何処へも行くな。
おまえの行きたいところへは、何処へでも俺が連れて行くから。
俺がずっと、見ていてやるから。
ユゥイを抱きしめて、黒鋼は彼を失ってから初めて泣いたのだ。
ファイの名を呼びながら。
「あの日から、ボクはファイになった。君がそれを望んだから。本当は、君のことを憎んでいたよ。ボクからファイを奪っておいて……失くしてしまった」
――でも、あまりにも哀れだったから。
黒鋼は再び力なく項垂れた。
まるで今まで忘れていたかのように、熱い涙が頬を伝う。
後から後から流れ出すそれは黒い土の上に落ちて、やがて溶けるようにして消えてゆく。
握り締めた拳で口元を押さえても、込み上げる嗚咽は止まらなかった。
ゆっくりとユゥイが近づく。目の前に、白い手が差し出される。
「さぁ行こう黒鋼。ファイは今でも、君を待っている」
『早く来てね? オレ、先に行って待ってるから』
その手を取ることを、黒鋼は迷わなかった。
*
霧は晴れていた。
今はただ悲しげな曇天が、やがて訪れる水の恵みを匂いと共に知らせている。
ユゥイに見守られて、黒鋼は冷えた水の中に足を踏み入れた。
何ものも拒まない透き通るそれは、黒鋼を誘うようにゆらゆらと美しい綾を描く。
一歩一歩、確かな歩みで、彼の待つ世界へ。
新しい世界へ。
「男は、ほんとはずっと女の正体を知っていたんだろうね」
死にゆこうとする者を目の前にしているとは思えない穏やかさで、ユゥイが語りかけてくる。
黒鋼の心もまた嘘のように穏やかなものだった。
「そうだな」
男は、本当は最初から知っていたのだ。
今なら分かる。
娘も同じ願いだったのだろう。
だから幸せだった。
誰もが望む、幸福な結末。
黒鋼は僅かに口元を綻ばせた。
水が迫ってくる。
あと少し。
もう少し。
心がそのときを待ちわびて、静かに凪いでいる。
「ねぇ、君が望んだファイは、どうだった?」
水底の藻が、まるで蛇のように足元に絡みつく。
深く深く、招き入れるような優しさで。
黒鋼はふわりと浮き上がる両腕で、愛しいそれらをそっと撫でた。
酷く待たせてしまった。
けれど、もう、すぐ。
「あいつは、小煩いくらいが丁度よかったのさ」
そこで、黒鋼の世界は完全に閉じた。
やっと、会えたね。
『聞いてよユゥイー! 明日からね、黒様と旅行に行くんだー』
『ふぅん? そうなんだ』
『湖がすっごくキレイでね、しかもコテージ借りて2人っきり!』
『はしゃぎすぎて危ないことしないでよ?』
『わかってるよぉ……もう、ユゥイって黒たんと同じようなこと言うよねー』
最後の会話で、受話器越しのファイは本当に楽しそうだった。
いつもそう。
黒鋼のことを話す彼は幸せそうで、今にも蕩けて消えてしまうのではないかと思うほど
「本当に、消えちゃったね」
ユゥイは笑うと、あの親子が手向けていった花束を手にした。
萎びた百合の花からは、それでも甘い香りが漂っていた。
黒鋼が消えていった湖を見つめる。
会えただろうか。
ファイは、もう退屈も寂しさも感じないで済むだろうか。
「戻ってくるときは、きっとファイを連れて帰ってきてね」
どんな姿に変わり果てていても、2人を抱きしめて、キスがしたいから。
「おかえり」と、「愛してる」を、言わせてほしい。
ユゥイは、百合の花束を水面に放った。
白い花びらが美しく散ってゆく。
そっと目を閉じると、一筋の涙が頬を伝った。
けれど、それは悲しくて流す涙ではなかった。
また会える日まで。
例え永久の別れでも、2人一緒ならそれでいい。
ユゥイは幸せだった。
「さようなら」
優しく微笑みながら、ゆらゆらと流れゆく純白の花束を、いつまでも見つめていた。
あなたは私の名前を呼んでくれました。
抱き寄せて、罪深い私に口付けをくれました。
私の姿は変わり果てていて、この声帯は人の言の葉を紡ぐようには出来ていません。
それでも伝わるでしょうか。
私は心からあなたを待っていたのです。
私は心からあなたを愛しているのです。
やがてあなたは瞳を閉じ、永遠に覚めない眠りに就きました。
この声が決して届かないことを、私は知っているのです。
私はあなたと。
幸せに、どこまでも深く、堕ちてゆくのです。
End
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