2025/09/11 Thu 06 子供の頃、親に内緒でこっそり犬を飼っていたことがある。 小さな黒柴の、メスの子犬だった。全身がふわふわとした毛に覆われていて、抱きしめると泣きたくなるくらいあたたかかったのを覚えている。 その子は神社の境内の下でうずくまっていた。ひどく腹を空かせて、つぶらな瞳を寂しそうに潤ませながら、か細く鼻を鳴らしていた。 まだ幼かった甲洋は、どうしてもその子を見捨てることができなかった。ひとりぼっちで寂しそうにしている子犬が、自分と重なって見えてしまったから。 甲洋は自宅の裏手に子犬を隠し、自分の分の食事をこっそり残して分け与えながら、その子の面倒を見た。 けれどある日の夜、それが父に見つかってしまった。 父は激高しながら「捨ててこい」と言った。ちゃんと面倒を見るからと、どんなに懇願しても聞き入れてはくれなかった。 雨降りの夜だった。甲洋は傘をさし、子犬を連れて歩きまわった。友人に頼み込もうかとも思ったが、訪ねるには時間も遅い。それに、急な申し出に首を縦に振ってもらえるとも思えなかった。 なにより、甲洋自身が子犬と離れたくなかった。ずっと一緒にいたかった。甲洋にとって、初めてできた『あたたかな家族』だったから。 やがて歩き疲れて、甲洋と子犬は公園の遊具の下に身を寄せた。 そこで懸命に考えた。これからどうするべきか。どうするのが正しいのか。この子を守るために、自分にできることはなんなのかを。 考えても考えても、答えはでなかった。自分の非力さを思い知らされるだけだった。 そのときだ。偶然、クラスメイトの少年がそこを通りがかった。一騎だ。買い物帰りだった彼は、自分が食べるために買ったはずのパンを子犬に分け与えてくれた。 甲洋は迷った末に、一騎に相談して子犬を託すことにした。彼しか頼れる人間がいなかった。 一騎に預けられた子犬は、後日貰い手が見つかった。 海が見える大きな一軒家に一人で暮らす、綺麗で優しそうな女性だった。お礼を言うために訪ねると、子犬は広い庭を元気に駆け回って遊んでいた。 食うにも寝るにも何不自由なく、女性からの愛情を一身に受けて幸せそうだった。 本当はこの手で幸せにしてやりたかったけれど。甲洋にそんな力はなかった。もしあのまま一緒にいれば、ただ不幸にしてしまうだけだった。 だからこれでよかったのだ。そう思った。 だって自分には、子犬一匹幸せにしてやれる力すらないのだから、と──。 * 朝起きて、キッチンに立つと二人分の朝食を作る。 玉子とハムを焼いて皿に盛り付け、ポテトサラダにトマトも添えた。白樺のパン籠にバターロールをありったけ積み上げていると、起きだした操が寝室から飛び出してくるのが音と気配で分かった。 「操、起きた? もう準備が終わるから、顔洗って歯を磨いておいで」 「甲洋!」 「なに、ちょ、うわっ」 キッチンに身体を向けたままだった甲洋の背中に、ドンッという衝撃が走る。操の両腕が腹に強く巻きついて、肩に顎が乗せられた。 「び、ビックリした。パンが落ちるだろ」 「おかえり! 甲洋!」 「寝ぼけてる? 朝はおはようだよ」 相変わらず慣れない距離感に動揺しながら、平静を装う。操は甲洋の指摘に「うぅん」と首を左右に振った。 「だって昨日おかえりって言ってないもん。待ってたけど寝ちゃった。ごめんね」 「い、いいよ別に。俺こそ遅くなってごめん。あ、そうだ」 甲洋は腹に回っている操の両手をそっと外すと、キッチンから出てリビングに向かった。操もあとからヒヨコのようにくっついてくる。 ソファの足元に置きっぱなしにしていたコンビニの袋を持ち上げると、「お土産」と言って操に渡した。 「え! なにこれ! うわー! お菓子がいっぱいだ! これ食べていいの!?」 「いいよ。でも、一度に全部はダメ。ご飯の前と、食べたあとすぐもダメだよ」 「うんわかった! こんなにいっぱいのお菓子、初めて見たよ!」 操は床に膝をつくと袋の中身を全部出して、嬉しそうにバンザイをした。よほど興奮しているのか、それとも寝起きだからか、耳の内側を真っ赤にしながら可愛い形のかぎしっぽをまっすぐ立てている。 思った通りの反応に満足しながら、甲洋は操の頭をくしゃりと撫でて笑顔を浮かべた。 「よかった、喜んでくれて」 「うん! ありがと甲洋! あとで一緒に食べようね!」 「俺はいいよ、全部お前のなんだから」 「だって一緒に食べたほうがおいしいよ!」 操はクッキーの箱を持ち上げると、嬉しそうにそれを胸に抱きしめた。 「おれ、ここに来てから毎日嬉しい。こういうのを、幸せっていうのかな?」 幸せ、という言葉にドキリとする。 「ねぇ甲洋、おれ、これからも毎日甲洋におかえりって言うね!」 「え……?」 「あのね、おれがおかえりって言うと、甲洋の心が嬉しいって気持ちでいっぱいになるんだ。だからおれも嬉しくなる。甲洋のこと嬉しくさせられるの、すごくすごく、嬉しいって思う」 甲洋は膝をつくと、もういちど操の頭を優しく撫でた。心がジンと痺れたようになっていて、少しだけ、指先が震えてしまう。 「お前は、もっともっと幸せになれるよ」 「もっと?」 目を丸くする操に、甲洋は微笑みながら頷いた。 「ここじゃないどこかでね。お前が幸せに暮らせるように、早く新しいご主人様を見つけるから」 「新しいご主人様……?」 「聞いて、操。ここはネコが飼えない家なんだ。お前が前にいた場所と同じ。だけど俺は、お前のことをどこかに置き去りになんて絶対にしないから。必ず見つけるから、だからなにも心配しないで」 操はぽかんとした表情で甲洋を見上げ、それから、ゆっくりと視線を下向けた。 「おれは、甲洋と一緒にはいられないの?」 「……ごめん」 甲洋もまた下向きに目を逸らした。操の手からクッキーの箱が転がり落ちる。 「……おれが役に立たないから? 使い物にならないから?」 「違う!」 慌てて否定の声を上げながら、甲洋は操の両肩を掴んだ。 「最初に来た日に言ったこと覚えてる? 役に立つとか立たないとか、そういうことじゃなくて……お前は、操は、いるだけで人を幸せにできるんだよ」 「だけど、甲洋のことは幸せにできないんだね」 「ッ、それは」 甲洋だって操と一緒にいたいと思っている。 だけどどうしても自信がないのだ。だから決断ができない。 操には他に幸せになれる場所があるはずだ。 可愛いから。懐いてくれているから。一緒にいると、寂しさを感じなくて済むから。そんな理由だけで、雨のなかを引きずり回したあの子犬のように。 甲洋が飼い殺している孤独を、この子で埋めようとしてはいけないのだ。 「ッ、ぁ、ぅ!」 「操?」 長く続いた沈黙を、操の小さな悲鳴が切り裂いた。 彼は両手で胸を押さえ、華奢な肩をすくめて苦しそうに顔を歪めている。 「どうした!? そこ、痛むのか!?」 激しく動揺する甲洋に、操はゆらりと視線をあげる。 「これは、甲洋の痛みだよ……」 「ッ!」 縋るような瞳が泣きそうに細められた。悲しげに伏せられた耳が小刻みに震えている。 「こんなに痛いのに、どうしてずっと我慢してるの……?」 その言葉に、なんと返したらいいか分からず息を呑んだ。 ただひとつわかるのは、甲洋にはどうしようもないということだった。彼にはすべて伝わってしまう。心は嘘をつけないから。甲洋の孤独は、こうして操に痛みを与える。 「おれのぶんと、甲洋のぶん。だけど、君のほうが壊れそう」 操は呼吸をするのも苦しそうに弱々しく喉を鳴らした。それから、明らかに無理をしているとわかる様子で、精一杯の笑顔を作る。 「わかった。いうこと聞いて待ってるね。だから、あとで一緒にお菓子食べようよ。ねぇ、甲洋」 * あの朝から、操は元気をなくしていた。 笑顔は見せるし、普段通り食事もする。甲洋が帰宅すれば変わらず足音を聞きつけて待っていて、ちゃんと「おかえり」と言ってくれる。 けれど以前のように抱きついて鼻にキスをしたり、匂いをかぎながら擦り寄ってくることはなくなった。お喋りだった口数も減り、しっぽもしょげたようにダランと下げたままになっている。うまく言えないが、心に壁を作っているような。 甲洋を困らせていたあの近すぎる距離感は、もうそこにはなかった。 だが甲洋はあえてなにも言わず、気づかないふりをしてやり過ごしている。 どうせ一緒にいられなくなる日が来るのだから、その前にお互い一定の距離で接するのは、むしろ正しいことのように思えた。そうすればするほど、きっと別れのときが楽になる。 それは操にとっても同じことだ。 あの子は甲洋に依存しているけれど、それはなにも自分が特別だからじゃない。あの日、たまたま彼を助けたのが甲洋だったから。あの子に優しく接したのが甲洋だったから。 甲洋だってそうだ。あのとき弱っていたのが操じゃなくても、きっと手を差し伸べていた。それがイヌでもネコでも、人間でも。 だからなにも特別ではないのだ。お互いに深い縁なんかないし、新しい飼い主のもとで新しい暮らしが始まれば、操はすぐに甲洋のことなんか忘れてしまうだろう。 そうやって頭の中では割り切っているつもりだった。 けれど心の中は煮え切らない。操を見ていると、どうしようもない切なさに胸が苦しくなってしまう。 (俺がこんな気持ちでいることも、あいつには伝わってるんだろうな) ため息は寒さで白く煙っていた。 ここ数日は12月を迎えたとは思えないくらい暖かな日が続いていたが、寒冷前線の通過と共に大きく気温が下がりはじめている。 今日は一日どんよりとした曇り空で、いつ雪が降りはじめてもおかしくない空模様だった。 バイトがなかったその日、甲洋は暗くなるより前に早く帰宅することができた。 雪が降りだす前でよかったと、そんなことをぼんやりと思いながら鍵を開けようとして、すぐに違和感に気がついた。 なぜか最初から鍵が開いた状態になっていたのだ。締め忘れたなんてことは絶対にありえない。 甲洋は訝しげに眉を寄せ、そっと扉を開けると玄関を覗き込む。薄暗い空間はしんと静まり返っていた。 「操……?」 以前のようにわざと大きく足音を立てることはしないが、操は必ず玄関で待っている。けれど、今日はその姿がない。それどころか、家の中から一切の気配を感じなかった。 嫌な予感がする。甲洋は急いで部屋に上がりこむとリビングへ向かった。いない。寝室にも、トイレにも、風呂場にも。ただ冷えた空気が立ち込めるだけで、どこを探しても操の姿は見当たらない。 足元からヒヤリとした悪寒が這い上がってきて、口元に震えが走った。 操がいなくなった。なにも告げずに、甲洋がいない間に──。 心臓を掻きむしられるような焦燥感を覚え、甲洋はカバンの中から財布だけを取り出してコートのポケットに突っ込むと、慌てて玄関を飛び出した。 (嘘だろ? あいつ、一体どこに行ったんだよ!?) 操に行くあてがないように、甲洋にも探すあてがない。けれどただじっとしていることはできなかった。酷い焦りと不安が、甲洋の胸を駆り立てている。 近所の公園だとか、空き地だとか、あるいはコンビニやスーパーのようなあたたかな場所にいるかもしれないと考え、くまなく探しまわった。けれどどこにも操はいない。 やがて日が沈み、辺りが暗くなると同時に雪が降りだした。初雪だ。冷たい風が皮膚を貫き、痺れるような痛みが走る。 全力で走り続けていた甲洋の肺は悲鳴を上げて、ついに足を止めると膝に両手をついて息を荒げた。 「どこにいるんだ……操……」 思いつく限りの場所は全て探し尽くした。彼はどこに消えたのだろう。 もしかしたら、帰りたくても帰れない状況に陥っているのではないか? (誰かに連れて行かれた? それとも、歩き回ってるうちに迷子になった?) そのどちらも考えられる。彼はネコだが、おそらく方向音痴だ。家を出て闇雲に歩き続けているうちに、自分がどこから来たのかさえ分からなくなってしまったのかもしれない。 だがそれ以上に怖いのは、誰かに連れ去られたという可能性だ。それが善人ならばいい。親切な人に拾われて、今頃あたたかな場所で保護されているだろうと、そう都合よく解釈してしまうのは簡単だった。 だけどもしそうじゃなかったら? もし酷い目にあっていたら? 元の飼い主がそうしていたように、あるいはもっと、それ以上に、恐ろしいことになっているのだとしたら……。 (俺のせいだ……!) 身体がひどく震えて、甲洋はその場にしゃがみこんだ。伸びっぱなしの髪を両手でぐしゃりと乱して、きつく奥歯を噛みしめる。 操はきっと耐えられなくなったのだ。甲洋と一緒にいることで伝わる痛みだとか、孤独だとか、虚しさだとか。彼にはなにひとつ関係ないはずなのに、背負わせてしまった。 ずっと一緒にいようと、そのたった一言が言えたなら、あの子にあんな苦痛を与えずに済んだのに。 (なにがあったかい家庭を作るだよ……こんなんじゃ……) ネコ一匹、幸せにすることができないくせに。こんな自分が理想の家庭だなんて笑わせる。 だってそうじゃないか。きっといくらでもそのチャンスはあったのに。好意を寄せてくれた女の子たちのなかに、共に未来を作れる人がいたかもしれないのに。 甲洋はその全てから目を背け、誰の手も取らずに生きてきた。運命の出会いなんて、そんなロマンチックなものにかこつけて。思い描いた未来に執着しながら、本当はどこかで恐れ、逃げ続けていただけなのだ。 愛する自信がなかったんじゃない。愛される自信がなかった。甲洋が愛せなかったのは他の誰でもない、自分自身だったから。 ──おれ、甲洋のこと好き ──ねぇ甲洋、おれ、これからも毎日甲洋におかえりって言うね! ──甲洋のこと嬉しくさせられるの、すごくすごく、嬉しいって思う ああ、どうして。 あんなにも優しく、ひたむきな気持ちを向けられていたのに。 まっすぐな言葉で。仕草で。眠りのなかで、操は甲洋の名前を呼んでいた。甲洋のシャツを抱きしめて、腹を空かせながら、それでもずっとずっと待っていた。甲洋に、おかえりを言うために。 けれど甲洋はそれを拒んでしまった。操の気持ちに応えもせずに、突き放すような真似をしてしまったのだ。 「ッ……!」 鼻の先がツンと痛んだ。視界がどんどんぼやけてくる。 失ってしまったかもしれない。もう二度と会えないかもしれない。ただ痛い思いだけをさせて、謝ることもできないまま。 (……嫌だ) 乾いた唇を噛みしめる。強く強く、拳を握りしめながら。 (このまま終わりになんか、したくない) 取り戻したいと思った。 あの子が笑った顔が好きだ。柔らかな声が好きだ。甘えたで食いしん坊で、おしゃべりなあの子のことが。彼が嬉しいと、甲洋も嬉しい。 ──こういうのを、幸せっていうのかな? (探さなきゃ) 雪の中、甲洋は立ち上がった。これ以上どこを探せばいいのかなんて分からない。だけどここでこうしていたって始まらないのだ。 強く一歩を踏み出そうとしたとき、コートのポケットから鳴り響いた電子音に甲洋は動きを止めた。 取り出した端末のディスプレイには、一騎の名前が表示されている。かじかむ指先で、通話ボタンをスライドさせた。 『あ、甲洋、俺だけど』 「ごめん一騎、今ちょっと急いでて」 『……お前、今どこにいる? ひょっとして外じゃないか?』 「そうだけど」 焦りを堪えてそう答えると、一騎は『やっぱり』と言って微かに笑った。そしてどこかホッとしたようにこう続けたのだ。 『あのさ、お前が保護した捨てネコって、確か操って名前じゃなかったか?』 と──。 ←戻る ・ 次へ→
子供の頃、親に内緒でこっそり犬を飼っていたことがある。
小さな黒柴の、メスの子犬だった。全身がふわふわとした毛に覆われていて、抱きしめると泣きたくなるくらいあたたかかったのを覚えている。
その子は神社の境内の下でうずくまっていた。ひどく腹を空かせて、つぶらな瞳を寂しそうに潤ませながら、か細く鼻を鳴らしていた。
まだ幼かった甲洋は、どうしてもその子を見捨てることができなかった。ひとりぼっちで寂しそうにしている子犬が、自分と重なって見えてしまったから。
甲洋は自宅の裏手に子犬を隠し、自分の分の食事をこっそり残して分け与えながら、その子の面倒を見た。
けれどある日の夜、それが父に見つかってしまった。
父は激高しながら「捨ててこい」と言った。ちゃんと面倒を見るからと、どんなに懇願しても聞き入れてはくれなかった。
雨降りの夜だった。甲洋は傘をさし、子犬を連れて歩きまわった。友人に頼み込もうかとも思ったが、訪ねるには時間も遅い。それに、急な申し出に首を縦に振ってもらえるとも思えなかった。
なにより、甲洋自身が子犬と離れたくなかった。ずっと一緒にいたかった。甲洋にとって、初めてできた『あたたかな家族』だったから。
やがて歩き疲れて、甲洋と子犬は公園の遊具の下に身を寄せた。
そこで懸命に考えた。これからどうするべきか。どうするのが正しいのか。この子を守るために、自分にできることはなんなのかを。
考えても考えても、答えはでなかった。自分の非力さを思い知らされるだけだった。
そのときだ。偶然、クラスメイトの少年がそこを通りがかった。一騎だ。買い物帰りだった彼は、自分が食べるために買ったはずのパンを子犬に分け与えてくれた。
甲洋は迷った末に、一騎に相談して子犬を託すことにした。彼しか頼れる人間がいなかった。
一騎に預けられた子犬は、後日貰い手が見つかった。
海が見える大きな一軒家に一人で暮らす、綺麗で優しそうな女性だった。お礼を言うために訪ねると、子犬は広い庭を元気に駆け回って遊んでいた。
食うにも寝るにも何不自由なく、女性からの愛情を一身に受けて幸せそうだった。
本当はこの手で幸せにしてやりたかったけれど。甲洋にそんな力はなかった。もしあのまま一緒にいれば、ただ不幸にしてしまうだけだった。
だからこれでよかったのだ。そう思った。
だって自分には、子犬一匹幸せにしてやれる力すらないのだから、と──。
*
朝起きて、キッチンに立つと二人分の朝食を作る。
玉子とハムを焼いて皿に盛り付け、ポテトサラダにトマトも添えた。白樺のパン籠にバターロールをありったけ積み上げていると、起きだした操が寝室から飛び出してくるのが音と気配で分かった。
「操、起きた? もう準備が終わるから、顔洗って歯を磨いておいで」
「甲洋!」
「なに、ちょ、うわっ」
キッチンに身体を向けたままだった甲洋の背中に、ドンッという衝撃が走る。操の両腕が腹に強く巻きついて、肩に顎が乗せられた。
「び、ビックリした。パンが落ちるだろ」
「おかえり! 甲洋!」
「寝ぼけてる? 朝はおはようだよ」
相変わらず慣れない距離感に動揺しながら、平静を装う。操は甲洋の指摘に「うぅん」と首を左右に振った。
「だって昨日おかえりって言ってないもん。待ってたけど寝ちゃった。ごめんね」
「い、いいよ別に。俺こそ遅くなってごめん。あ、そうだ」
甲洋は腹に回っている操の両手をそっと外すと、キッチンから出てリビングに向かった。操もあとからヒヨコのようにくっついてくる。
ソファの足元に置きっぱなしにしていたコンビニの袋を持ち上げると、「お土産」と言って操に渡した。
「え! なにこれ! うわー! お菓子がいっぱいだ! これ食べていいの!?」
「いいよ。でも、一度に全部はダメ。ご飯の前と、食べたあとすぐもダメだよ」
「うんわかった! こんなにいっぱいのお菓子、初めて見たよ!」
操は床に膝をつくと袋の中身を全部出して、嬉しそうにバンザイをした。よほど興奮しているのか、それとも寝起きだからか、耳の内側を真っ赤にしながら可愛い形のかぎしっぽをまっすぐ立てている。
思った通りの反応に満足しながら、甲洋は操の頭をくしゃりと撫でて笑顔を浮かべた。
「よかった、喜んでくれて」
「うん! ありがと甲洋! あとで一緒に食べようね!」
「俺はいいよ、全部お前のなんだから」
「だって一緒に食べたほうがおいしいよ!」
操はクッキーの箱を持ち上げると、嬉しそうにそれを胸に抱きしめた。
「おれ、ここに来てから毎日嬉しい。こういうのを、幸せっていうのかな?」
幸せ、という言葉にドキリとする。
「ねぇ甲洋、おれ、これからも毎日甲洋におかえりって言うね!」
「え……?」
「あのね、おれがおかえりって言うと、甲洋の心が嬉しいって気持ちでいっぱいになるんだ。だからおれも嬉しくなる。甲洋のこと嬉しくさせられるの、すごくすごく、嬉しいって思う」
甲洋は膝をつくと、もういちど操の頭を優しく撫でた。心がジンと痺れたようになっていて、少しだけ、指先が震えてしまう。
「お前は、もっともっと幸せになれるよ」
「もっと?」
目を丸くする操に、甲洋は微笑みながら頷いた。
「ここじゃないどこかでね。お前が幸せに暮らせるように、早く新しいご主人様を見つけるから」
「新しいご主人様……?」
「聞いて、操。ここはネコが飼えない家なんだ。お前が前にいた場所と同じ。だけど俺は、お前のことをどこかに置き去りになんて絶対にしないから。必ず見つけるから、だからなにも心配しないで」
操はぽかんとした表情で甲洋を見上げ、それから、ゆっくりと視線を下向けた。
「おれは、甲洋と一緒にはいられないの?」
「……ごめん」
甲洋もまた下向きに目を逸らした。操の手からクッキーの箱が転がり落ちる。
「……おれが役に立たないから? 使い物にならないから?」
「違う!」
慌てて否定の声を上げながら、甲洋は操の両肩を掴んだ。
「最初に来た日に言ったこと覚えてる? 役に立つとか立たないとか、そういうことじゃなくて……お前は、操は、いるだけで人を幸せにできるんだよ」
「だけど、甲洋のことは幸せにできないんだね」
「ッ、それは」
甲洋だって操と一緒にいたいと思っている。
だけどどうしても自信がないのだ。だから決断ができない。
操には他に幸せになれる場所があるはずだ。
可愛いから。懐いてくれているから。一緒にいると、寂しさを感じなくて済むから。そんな理由だけで、雨のなかを引きずり回したあの子犬のように。
甲洋が飼い殺している孤独を、この子で埋めようとしてはいけないのだ。
「ッ、ぁ、ぅ!」
「操?」
長く続いた沈黙を、操の小さな悲鳴が切り裂いた。
彼は両手で胸を押さえ、華奢な肩をすくめて苦しそうに顔を歪めている。
「どうした!? そこ、痛むのか!?」
激しく動揺する甲洋に、操はゆらりと視線をあげる。
「これは、甲洋の痛みだよ……」
「ッ!」
縋るような瞳が泣きそうに細められた。悲しげに伏せられた耳が小刻みに震えている。
「こんなに痛いのに、どうしてずっと我慢してるの……?」
その言葉に、なんと返したらいいか分からず息を呑んだ。
ただひとつわかるのは、甲洋にはどうしようもないということだった。彼にはすべて伝わってしまう。心は嘘をつけないから。甲洋の孤独は、こうして操に痛みを与える。
「おれのぶんと、甲洋のぶん。だけど、君のほうが壊れそう」
操は呼吸をするのも苦しそうに弱々しく喉を鳴らした。それから、明らかに無理をしているとわかる様子で、精一杯の笑顔を作る。
「わかった。いうこと聞いて待ってるね。だから、あとで一緒にお菓子食べようよ。ねぇ、甲洋」
*
あの朝から、操は元気をなくしていた。
笑顔は見せるし、普段通り食事もする。甲洋が帰宅すれば変わらず足音を聞きつけて待っていて、ちゃんと「おかえり」と言ってくれる。
けれど以前のように抱きついて鼻にキスをしたり、匂いをかぎながら擦り寄ってくることはなくなった。お喋りだった口数も減り、しっぽもしょげたようにダランと下げたままになっている。うまく言えないが、心に壁を作っているような。
甲洋を困らせていたあの近すぎる距離感は、もうそこにはなかった。
だが甲洋はあえてなにも言わず、気づかないふりをしてやり過ごしている。
どうせ一緒にいられなくなる日が来るのだから、その前にお互い一定の距離で接するのは、むしろ正しいことのように思えた。そうすればするほど、きっと別れのときが楽になる。
それは操にとっても同じことだ。
あの子は甲洋に依存しているけれど、それはなにも自分が特別だからじゃない。あの日、たまたま彼を助けたのが甲洋だったから。あの子に優しく接したのが甲洋だったから。
甲洋だってそうだ。あのとき弱っていたのが操じゃなくても、きっと手を差し伸べていた。それがイヌでもネコでも、人間でも。
だからなにも特別ではないのだ。お互いに深い縁なんかないし、新しい飼い主のもとで新しい暮らしが始まれば、操はすぐに甲洋のことなんか忘れてしまうだろう。
そうやって頭の中では割り切っているつもりだった。
けれど心の中は煮え切らない。操を見ていると、どうしようもない切なさに胸が苦しくなってしまう。
(俺がこんな気持ちでいることも、あいつには伝わってるんだろうな)
ため息は寒さで白く煙っていた。
ここ数日は12月を迎えたとは思えないくらい暖かな日が続いていたが、寒冷前線の通過と共に大きく気温が下がりはじめている。
今日は一日どんよりとした曇り空で、いつ雪が降りはじめてもおかしくない空模様だった。
バイトがなかったその日、甲洋は暗くなるより前に早く帰宅することができた。
雪が降りだす前でよかったと、そんなことをぼんやりと思いながら鍵を開けようとして、すぐに違和感に気がついた。
なぜか最初から鍵が開いた状態になっていたのだ。締め忘れたなんてことは絶対にありえない。
甲洋は訝しげに眉を寄せ、そっと扉を開けると玄関を覗き込む。薄暗い空間はしんと静まり返っていた。
「操……?」
以前のようにわざと大きく足音を立てることはしないが、操は必ず玄関で待っている。けれど、今日はその姿がない。それどころか、家の中から一切の気配を感じなかった。
嫌な予感がする。甲洋は急いで部屋に上がりこむとリビングへ向かった。いない。寝室にも、トイレにも、風呂場にも。ただ冷えた空気が立ち込めるだけで、どこを探しても操の姿は見当たらない。
足元からヒヤリとした悪寒が這い上がってきて、口元に震えが走った。
操がいなくなった。なにも告げずに、甲洋がいない間に──。
心臓を掻きむしられるような焦燥感を覚え、甲洋はカバンの中から財布だけを取り出してコートのポケットに突っ込むと、慌てて玄関を飛び出した。
(嘘だろ? あいつ、一体どこに行ったんだよ!?)
操に行くあてがないように、甲洋にも探すあてがない。けれどただじっとしていることはできなかった。酷い焦りと不安が、甲洋の胸を駆り立てている。
近所の公園だとか、空き地だとか、あるいはコンビニやスーパーのようなあたたかな場所にいるかもしれないと考え、くまなく探しまわった。けれどどこにも操はいない。
やがて日が沈み、辺りが暗くなると同時に雪が降りだした。初雪だ。冷たい風が皮膚を貫き、痺れるような痛みが走る。
全力で走り続けていた甲洋の肺は悲鳴を上げて、ついに足を止めると膝に両手をついて息を荒げた。
「どこにいるんだ……操……」
思いつく限りの場所は全て探し尽くした。彼はどこに消えたのだろう。
もしかしたら、帰りたくても帰れない状況に陥っているのではないか?
(誰かに連れて行かれた? それとも、歩き回ってるうちに迷子になった?)
そのどちらも考えられる。彼はネコだが、おそらく方向音痴だ。家を出て闇雲に歩き続けているうちに、自分がどこから来たのかさえ分からなくなってしまったのかもしれない。
だがそれ以上に怖いのは、誰かに連れ去られたという可能性だ。それが善人ならばいい。親切な人に拾われて、今頃あたたかな場所で保護されているだろうと、そう都合よく解釈してしまうのは簡単だった。
だけどもしそうじゃなかったら? もし酷い目にあっていたら? 元の飼い主がそうしていたように、あるいはもっと、それ以上に、恐ろしいことになっているのだとしたら……。
(俺のせいだ……!)
身体がひどく震えて、甲洋はその場にしゃがみこんだ。伸びっぱなしの髪を両手でぐしゃりと乱して、きつく奥歯を噛みしめる。
操はきっと耐えられなくなったのだ。甲洋と一緒にいることで伝わる痛みだとか、孤独だとか、虚しさだとか。彼にはなにひとつ関係ないはずなのに、背負わせてしまった。
ずっと一緒にいようと、そのたった一言が言えたなら、あの子にあんな苦痛を与えずに済んだのに。
(なにがあったかい家庭を作るだよ……こんなんじゃ……)
ネコ一匹、幸せにすることができないくせに。こんな自分が理想の家庭だなんて笑わせる。
だってそうじゃないか。きっといくらでもそのチャンスはあったのに。好意を寄せてくれた女の子たちのなかに、共に未来を作れる人がいたかもしれないのに。
甲洋はその全てから目を背け、誰の手も取らずに生きてきた。運命の出会いなんて、そんなロマンチックなものにかこつけて。思い描いた未来に執着しながら、本当はどこかで恐れ、逃げ続けていただけなのだ。
愛する自信がなかったんじゃない。愛される自信がなかった。甲洋が愛せなかったのは他の誰でもない、自分自身だったから。
──おれ、甲洋のこと好き
──ねぇ甲洋、おれ、これからも毎日甲洋におかえりって言うね!
──甲洋のこと嬉しくさせられるの、すごくすごく、嬉しいって思う
ああ、どうして。
あんなにも優しく、ひたむきな気持ちを向けられていたのに。
まっすぐな言葉で。仕草で。眠りのなかで、操は甲洋の名前を呼んでいた。甲洋のシャツを抱きしめて、腹を空かせながら、それでもずっとずっと待っていた。甲洋に、おかえりを言うために。
けれど甲洋はそれを拒んでしまった。操の気持ちに応えもせずに、突き放すような真似をしてしまったのだ。
「ッ……!」
鼻の先がツンと痛んだ。視界がどんどんぼやけてくる。
失ってしまったかもしれない。もう二度と会えないかもしれない。ただ痛い思いだけをさせて、謝ることもできないまま。
(……嫌だ)
乾いた唇を噛みしめる。強く強く、拳を握りしめながら。
(このまま終わりになんか、したくない)
取り戻したいと思った。
あの子が笑った顔が好きだ。柔らかな声が好きだ。甘えたで食いしん坊で、おしゃべりなあの子のことが。彼が嬉しいと、甲洋も嬉しい。
──こういうのを、幸せっていうのかな?
(探さなきゃ)
雪の中、甲洋は立ち上がった。これ以上どこを探せばいいのかなんて分からない。だけどここでこうしていたって始まらないのだ。
強く一歩を踏み出そうとしたとき、コートのポケットから鳴り響いた電子音に甲洋は動きを止めた。
取り出した端末のディスプレイには、一騎の名前が表示されている。かじかむ指先で、通話ボタンをスライドさせた。
『あ、甲洋、俺だけど』
「ごめん一騎、今ちょっと急いでて」
『……お前、今どこにいる? ひょっとして外じゃないか?』
「そうだけど」
焦りを堪えてそう答えると、一騎は『やっぱり』と言って微かに笑った。そしてどこかホッとしたようにこう続けたのだ。
『あのさ、お前が保護した捨てネコって、確か操って名前じゃなかったか?』
と──。
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