2025/09/11 Thu 03 「あはは! 変な動き! 早く逃げないと捕まえちゃうよ!」 暖かく穏やかな春空のした、いつもの公園で操はカエル飛びをしていた。 しゃがみこんだ姿勢で両手を地面につき、ピョンピョンと飛び跳ねるたびに、ポケットの中にある鈴つきの鍵が軽やかな音を奏でる。甲洋と暮らす部屋の合鍵だ。 追いかけているのは、黄緑色の小さくて可愛いアマガエルだった。今日の獲物はこいつに決めた。冬眠から覚めてまだ間もないのか、昨日のスズメよりは遥かに動きが鈍い。どこかぎこちなく飛び跳ねる姿が面白くて、つい目的を忘れて遊んでいる操のすぐ近くでは、ベンチに腰掛けた総士が優雅に足を組んで小難しそうな本を読んでいる。 「ねぇ総士。本ばっかり読んでないで、一緒にカエルと遊ぼうよ」 操はカエルの姿勢のままで動きを止めると、総士を見上げる。ヒラヒラとどこからか飛んできた一羽のモンシロチョウが、総士のクリーム色の耳の先で一瞬羽根を休めたが、ピクリと動かしたせいで飛び去ってしまった。 基本的に動き回っている操とは対象的に、総士はいつもこうして本を読んでいる。彼は本から視線を外すことなく、「断る」とだけそっけなく答えた。 「ふーん。つまんないの……アッ! こら待て!」 気をそらしていた隙に、カエルが草むらに姿を消した。操は慌ててその方向へ飛びかかったが、頭から草地に突っ込んだだけで成果はなかった。 「嘘ぉ!? 逃げられた!?」 完全にナメきっていた相手に敗北し、操はその場に座り込んで項垂れる。そこでようやく総士が呆れた顔を上げた。 「なにをしているんだお前は」 「総士ぃ……カエル逃げた……」 「目的もなく生き物を追い回すんじゃない」 「目的ならあるよ。捕まえて持って帰るんだ」 総士は鼻から小さく息を漏らし、本を脇に置くと腕を組んだ。 「この際だからハッキリ言うが、獲物を捕えて持ち帰ったところで甲洋は喜ばないぞ」 「え?」 「むしろ困惑させるだけだ」 「え!?」 寝耳に水だった。ぎょっとした操は口をポカンと開けたまま、丸い目を瞬かせる。 「獣型の野良であればまだしも、僕らはヒト型であり飼いネコだ。基本的には人間と同じものを好んで食べる。お前の飼い主は、一度でもカエルやスズメを食卓に並べたことがあるか? ネズミは? 虫は?」 「!!」 ……ない。それどころか、たまにくっついて行く甲洋の狩場──スーパーというらしい──でも、それらの肉にはお目にかかったことがなかった。もちろん虫もだ。 「で、でも! おれが獲物を持って帰ったら、きっと甲洋は食べてくれるよ!」 「なにを根拠に言っている? そもそも、お前はカエルを食べたいと思うのか?」 「思わないよ」 「極めて理不尽だ。断言しよう。お前の飼い主はそのうちハゲると」 なぜか総士は可哀想なものを見るような瞳をしていた。操にではない。ここにはいない飼い主へと、その憐れみは注がれている。 「とにかく、そこいらにいる生物を捕まえて持ち帰ろうなんて考えは捨てろ。重ねて言うが、甲洋がハゲる」 「なんでぇ!? じゃあおれはどうすればいいのぉ!?」 操は四つん這いで総士のもと這いずって行くと、イカのように耳を寝かせてその膝に縋りついた。 「どうするもなにもない。なにもしなければいいだけだ」 「それじゃダメだよ! だって甲洋は狩りが下手だし! おれが世話してあげないとでしょ!?」 「お前は一体どの立場からものを言っているんだ……?」 総士の戸惑いが伝わってくる。けれどそれは操にとっても同じことだった。 毎日せっせと獲物を捕まえ、家に持ち帰り、甲洋にお腹いっぱい食べさせる。それこそが操の思い描く理想の未来像であり、理想とする愛情表現だった──のだが、総士はそんなことをしても無駄だと言う。 一瞬にして目的を失ってしまった操は、どうしたらいいか分からず涙目になった。 「飼い主に養われている分際で、飼い主を養う気でいたとはな」 心底あきれた様子で息をつきながら、総士が操に向かって人差し指を立てて見せた。 「いいか、よく聞け。僕らはただ健やかに、彼らと共にあればいい。よく食べ、よく寝て、よく遊び、時には我儘を言えばいい。甘えたいときに甘え、気が向かなければそっけない態度をとったって構わない。彼らはそれすら愛しく思う」 「えー、そっけない態度なんかとったら、甲洋が泣いちゃうかもよ」 「一騎は喜ぶ」 「調教済みってこと?」 「それが真のネコ飼いだ」 確かに総士の言う通りなのかもしれない。 前に甲洋も言っていた。操はそこにいるだけで人を幸せにできるのだと。その言葉通り、よく食べよく寝てよく遊ぶ操の姿を見ているだけで、甲洋の心はお日様が射したようにポカポカとあたたかくなる。そこに雨は降っていない。操はそれが嬉しくて、同じくらい、あたたかくて幸せな気持ちになることができた。 だけど操には、最近ずっと気になっていることがある。 それは甲洋の気持ちだ。彼の心は、時々どうしようもなくぐちゃぐちゃになる。 初めて会った頃からそうだった。様々な感情が入り混じって、まるで迷路のように複雑な甲洋の心。とても不思議で、だけど少しずつ触れながら、彼のことを知っていけるのが嬉しかった。 けれど最近の甲洋は、なんだか少し様子がおかしい。うまく言えないが、ふとした拍子にモヤモヤとした霧のようなものがかかって、その心をどんよりと濁らせているような──例えばそう、今朝みたいに。 (甲洋は、またなにか我慢してるような気がする。それがおれに理解できたらいいのに……) 実際、理解なんかされたら甲洋が死ぬ。精神的に。しかし操には年齢=恋人いない歴=童貞の複雑な男(スケベ)心など理解できない。 操の頭には、狩りを成功させて甲洋を喜ばせることしかなかったのだ。そうすれば今よりもっと上手に愛情を伝えられるはずで、あのおかしな心の霧だって吹き飛ぶはずだと。なんの根拠もなく、無邪気に信じ込んでいた。 だけどそれが無駄なことだと知り、ただ途方に暮れるしかなかった。 (おれにできることって、本当になにもないのかな……) ──アオーン 「!」 そのとき、またあの声がした。 総士の膝に縋ったまま項垂れていた操は、ドキリとしながら顔を上げる。声の方向に目をやれば、桜の木の根元に獣型の三毛猫がいることに気がついた。遠目から見ても、雌であることが『匂い』で分かる。 「アオーン! アオォーン!」 それはよく知る猫の鳴き声とは、少し違っていた。 咆哮、とでも言えばいいのだろうか。三毛猫はどこか落ち着きのない様子で木の幹に身体を擦り寄せ、なにかを必死で呼び込もうとしているようにも見える。 操は肩をすくめ、猫から視線を外さないままベンチに腰掛けると、総士の肩にぴったりと縋りついた。どうしてか、あの声を聞くと不安になる。 「春だからな」 総士がポツリと言った。操とは違い、ケロリとした顔で猫を見ている。 「総士、おれ、あれ嫌だ。怖い」 「怖い?」 不可解な面持ちで総士が操に顔を向けてくる。 「なにをそこまで不安になる必要がある?」 「総士は怖くないの? なんで怖くないの?」 総士からは不安も恐れも伝わってこない。逆に総士も操の漠然とした感情をキャッチしているが、それが何に起因するものなのかまでは、彼にも分からないようだった。 猫はずっと鳴いている。喉が枯れてもなお、鳴き続ける。ふわりふわりと、あの甘い香りが漂ってきた。心臓が激しく動悸を打つのを感じ、総士に縋る両手を握りしめる。息切れと共に、目眩がした。 「怖いもなにも、あれはただの──おい操? おい! どうした!?」 世界がまわり、力が抜けて、総士の声が遠のいていく。熱い。身体の内側に、小さな火がついたみたいに。じわじわと侵されていく。 猫が、ずっとずっと鳴いていた。 * 「おかえり」 帰宅すると、いつも迎えに出てくるはずの操の姿がなかった。 代わりにひょっこりと顔を出したのは一騎で、甲洋は思いがけず目を丸くする。 「一騎?」 「悪い。勝手に上がらせてもらってた」 「それは構わないけど──操?」 ネクタイを緩めながら部屋を覗き込んだ甲洋の目に、ベッドに横たわる操の姿が飛び込んできた。 ただごとではない様子に顔色を変えながら駆け寄り、うっすらと赤くなっている頬に触れる。少し熱い。呼びかけても目をさます気配がなかった。 「操! 操……っ、どうしたんだ? なにがあった?」 「公園で急に倒れたんだよ」 一騎がベッドの縁に腰掛け、心配そうに曇らせた瞳で操を見つめながら言った。 「倒れたって、どうして?」 「分からない。直前までカエルを追いかけ回して、元気にしてたみたいだけど」 「……総士は?」 「大丈夫。家だよ。こっちは心配しなくていい」 一騎の話はこうだった。 彼は総士と操が公園で遊んでいるあいだ、家でカレー作りに没頭していた。できあがったら迎えに行くつもりでいたのだが、一騎が行くより先に総士が帰ってきた。しかも、ぐったりとして動かない操を背負って。 操は苦しそうに息を乱していた。のぼせたように顔を赤くしているのを見て、一騎はすぐに病院へ連れて行こうとした。が、気配を察したのか、目を覚ました操がビービーと泣きだした。 そこまで聞いて、甲洋は「あぁ」と小さく嘆息を漏らす。 「悪い……こいつ、病院はトラウマなんだ」 ここに引っ越してきてすぐ、甲洋は操を動物病院へ連れて行った。総士を一騎に託した、近藤剣司がいる病院だ。本気で面倒を見るつもりでいるのなら、一度は連れてこいという打診を受けてのものだった。 操はそこで生まれて初めて、健康診断を受けた。そして採血でわんわん泣いた。よほどショックだったらしく、帰り道でもずっと甲洋の手を握ってベソベソと泣き続けていたので、コンビニで好きなお菓子を買ってやった。するとその場はおさまったものの、以来すっかり病院嫌いになってしまったというわけだ。(ちなみに検査結果は健康そのものだった) 泣いている操と、どうにかご機嫌を取ろうとしている甲洋の姿を想像してしまったのか、一騎は堪えきれずに小さく噴きだしかけたが、すぐに気を取り直して先を続ける。 操は派手に泣きわめきながら、「家に帰る」と言ってきかなかった。そのときの彼には、一騎の顔が注射器にでも見えていたのかもしれない。這ってでも帰っていこうとするのを見て、総士は「これだけ元気があるなら問題ないだろう」と投げやりに言った。 どうにも収集がつかないので、一騎は操をマンションに連れ帰ることにした。鈴付きの合鍵を使って部屋に入り、操をベッドに横たえさせる頃にはもう日が暮れかけていて、一騎はそのまま甲洋の帰りを待つことにしたのだった。 「迷惑かけたな……ありがとう」 深く息を漏らしながら床にあぐらをかいた甲洋に、一騎は笑みを浮かべて首を振る。 「カレー持ってきたんだ。よかったら食べてくれ。冷蔵庫に入れてあるから」 「なにからなにまで悪い」 「いいって」 一騎は立ち上がると、操の寝顔を確かめるように覗き込む。 「総士は知恵熱じゃないかなんて言ってたけど」 「赤ん坊じゃないんだからさ」 「はは、だよな。……うん、呼吸も落ち着いてる。さっきよりだいぶ顔色もいいみたいだ。このまま落ち着くといいな」 険しく眉根を寄せながら操の寝顔を見つめる甲洋の肩を、一騎がポンと労うように軽く叩いた。 * 操は夕飯時を過ぎても眠り続けていた。 それどころか、深夜0時近くなっても目を覚ます気配がない。 枕元の電気スタンドだけを灯し、甲洋はベッドのすぐ脇の床にあぐらをかくとその頬に触れる。ときどき寝返りもうつし、呼吸もいたって穏やかだ。けれど手のひらに感じる体温は、いまだよく知るものより少し高めのままだった。 「明日は病院だよ、操」 可哀想だが、簀巻きにしてでも連れて行くしかない。 暑いからと言って脱いだりなんかするから、風邪を引いてしまったのだろうか。なんにせよ、原因をハッキリさせないことにはどうしようもなかった。 「んぅ」 操がむずがるような声をあげ、こちらに身体を向ける形で寝返りをうった。枕に這わされた小さな手にふと愛おしさが溢れだし、その手の甲に自分の手をそっとかぶせる。軽く握りしめると、指先をきゅっと握り返された。目を覚ましたのかと思ったが、彼はいまだに眠ったままだ。その無意識がまた愛しい。 ほんのりと淡桃に染まる指先に、どうしようもなくそそられてしまう庇護欲が、甲洋の胸を締めつける。 (──今夜だけ) 抱きしめて眠ろうか。そんな考えが頭をよぎる。ふとした瞬間にもたげてしまう劣情だとか、そんなものは今ひどく遠い場所にあった。ただ腕の中に閉じ込めて、そっと静かに守っていたい。 「操」 囁くように名前を呼んだ。すると、操の瞼がピクリと動いた。睫毛を小さく震わせながら、ゆらりとその目が開かれる。 「操? よかった、目が覚めて」 意識が戻ったことにひとまず安堵の息をつきながら笑いかける。しかし操はぼんやりとしたまま、なにも反応を示さなかった。 「どうかした?」 様子がおかしい。虚ろにも見える表情に違和感を覚え、すぐにその正体に気がついた。甲洋を見つめる瞳孔が、縦に細くなっているのだ。それが彼の幼い顔立ちの印象を、いささか尖ったものへと変えている。電気スタンドの僅かな光を反射して、琥珀の瞳がどこか妖しい輝きを放っていた。 手の中から、操の手がするりと逃げた。白い手はそのまま甲洋に向かってぬぅっと伸ばされ、指先が頬へと這わされる。じわじわと耳の方へ向かってなぞられる感覚にゾワリとしながら、甲洋は声をつまらせた。 そして指先は、やがて後ろ首へと辿りつき── 「ッ!」 長い癖毛を巻き込むようにして項を掴まれ、ぐっと強く引き寄せられた。 「みっ、みさ……ッ」 目を剥く甲洋の唇が、ベッドから不自然な体勢で身を乗りだした操の唇によって塞がれていた。一瞬だけ頭の中が白く染まって、けれどすぐにその両肩を掴んで引き剥がそうとするが、操は両腕を甲洋の首に強く絡めて口づけをより深いものにした。 咄嗟に身を引いたのと同時に、操の身体がベッドから引きずりだされ、覆いかぶさってくる。狼狽するあまり反応が鈍り、支えきれずに背中から崩れ落ちた甲洋に、彼は何度も何度も角度を変えながら口づけを繰り返した。なにが起こっているのかまるで処理しきれないまま、鼓動が乱れた早鐘を打ち鳴らす。 「み、みさ、ぉッ、ちょっ!」 ぴちゃりと音を立てながら、唇に舌を這わされた。操は熱い息を漏らし、しきりに身をくねらせはじめる。甲洋の唇に吸いつきながら、何度も何度もまるで身体の中心を擦りつけるようにして、腰を揺らしていた。その痴態に、雷を受けたような衝撃が走る。 「おまっ、え、なにして……んぅッ!」 下唇に歯を立てられて、頭の芯に焼けるような痺れが走る。ずっと遠い場所でおとなしく眠っていたはずの劣情が、手掴みで引きずり出される感覚を覚えた。 (まずい……!) 甲洋はどうにか顔を背けると、操の両肩を強く掴む。そのまま引き剥がすことくらい簡単にできたはずだった。けれどそれができなかったのは、操が吐息まじりの小さな声で甲洋の名を呼んだからだった。 「ッ!」 こうよう、と。耳元に押しつけられたその声は、舌足らずなくせにひどく艶を帯びていて、泣き濡れたように切なくかすれていた。なんて声。朗らかではつらつとした幼い子ネコからは想像もつかなくて、そのみだりな声音に思考が蒸発しそうになる。 恐る恐る見上げた操の表情は、どこか朦朧としているようにも見えた。 「みさ、お?」 「こう、よ……はぁッ、こうよ……」 心臓に爪を立てられたように、息ができなかった。頭のなかにまで鼓動がドクドクと鳴り響いている。 「おれ、甲洋の──」 金色に輝く操の瞳孔が、また一段と細く狭まるのが分かった。獣の瞳だと、甲洋は思う。彼はなにかに餓えていて、そしてなにかを、欲しがっている。 (ダメだ) この先を言わせてはいけない。それはきっとトリガーになる。予感、という曖昧な殻をかぶせた確信が、甲洋の背を駆り立てる。なのに、指先ひとつ動かすことができなかった。ただごくりと、大きく喉を鳴らす。 操が次の言葉を紡ぐため、小さく息を吸い込んだ。そのとき。 ──きゅううぅ~ 「…………は?」 響き渡った緊張感のない音に、甲洋は息を呑んだまま唖然とした。操はいつも通りの丸い瞳で、キョトンとした表情を浮かべている。さっきまでの艶も、取り憑かれたような虚ろさも、そこには影すら見当たらなかった。 ──きゅるるぅ~ん 沈黙のなか、またあの怪音が鳴り響く。操の耳と眉が、どんどんハの字に下がっていった。 「こうよ」 「……なに?」 「おなかすいた」 謎の音。それは操の腹の虫だった。 (なんだったんだよ、一体……!) まさか寝ぼけていたとでもいうのだろうか。甲洋は地の底から響くような溜息を漏らし、両手を床に投げ出した。安堵している。とてつもなく。だけど、なぜか腑に落ちない。いっそ落胆すらしている自分への言い訳を必死で探しながら、少しばかりヤバいことになりかけていた甲洋Jrも、完全に萎れきっていた。 操は甲洋の上にまたがったまま、不思議そうに小首を傾げている。今の今までなにをしていたのか、きっとこの子は分かっていない。完全に意識の外であったことが、その表情からも読み取れる。 「……夜遅いから、なにか軽めのものでいい?」 全く整理がつかないまま、甲洋は操のために小さな塩むすびを二つ、作ってやることにした。 ←戻る ・ 次へ→
「あはは! 変な動き! 早く逃げないと捕まえちゃうよ!」
暖かく穏やかな春空のした、いつもの公園で操はカエル飛びをしていた。
しゃがみこんだ姿勢で両手を地面につき、ピョンピョンと飛び跳ねるたびに、ポケットの中にある鈴つきの鍵が軽やかな音を奏でる。甲洋と暮らす部屋の合鍵だ。
追いかけているのは、黄緑色の小さくて可愛いアマガエルだった。今日の獲物はこいつに決めた。冬眠から覚めてまだ間もないのか、昨日のスズメよりは遥かに動きが鈍い。どこかぎこちなく飛び跳ねる姿が面白くて、つい目的を忘れて遊んでいる操のすぐ近くでは、ベンチに腰掛けた総士が優雅に足を組んで小難しそうな本を読んでいる。
「ねぇ総士。本ばっかり読んでないで、一緒にカエルと遊ぼうよ」
操はカエルの姿勢のままで動きを止めると、総士を見上げる。ヒラヒラとどこからか飛んできた一羽のモンシロチョウが、総士のクリーム色の耳の先で一瞬羽根を休めたが、ピクリと動かしたせいで飛び去ってしまった。
基本的に動き回っている操とは対象的に、総士はいつもこうして本を読んでいる。彼は本から視線を外すことなく、「断る」とだけそっけなく答えた。
「ふーん。つまんないの……アッ! こら待て!」
気をそらしていた隙に、カエルが草むらに姿を消した。操は慌ててその方向へ飛びかかったが、頭から草地に突っ込んだだけで成果はなかった。
「嘘ぉ!? 逃げられた!?」
完全にナメきっていた相手に敗北し、操はその場に座り込んで項垂れる。そこでようやく総士が呆れた顔を上げた。
「なにをしているんだお前は」
「総士ぃ……カエル逃げた……」
「目的もなく生き物を追い回すんじゃない」
「目的ならあるよ。捕まえて持って帰るんだ」
総士は鼻から小さく息を漏らし、本を脇に置くと腕を組んだ。
「この際だからハッキリ言うが、獲物を捕えて持ち帰ったところで甲洋は喜ばないぞ」
「え?」
「むしろ困惑させるだけだ」
「え!?」
寝耳に水だった。ぎょっとした操は口をポカンと開けたまま、丸い目を瞬かせる。
「獣型の野良であればまだしも、僕らはヒト型であり飼いネコだ。基本的には人間と同じものを好んで食べる。お前の飼い主は、一度でもカエルやスズメを食卓に並べたことがあるか? ネズミは? 虫は?」
「!!」
……ない。それどころか、たまにくっついて行く甲洋の狩場──スーパーというらしい──でも、それらの肉にはお目にかかったことがなかった。もちろん虫もだ。
「で、でも! おれが獲物を持って帰ったら、きっと甲洋は食べてくれるよ!」
「なにを根拠に言っている? そもそも、お前はカエルを食べたいと思うのか?」
「思わないよ」
「極めて理不尽だ。断言しよう。お前の飼い主はそのうちハゲると」
なぜか総士は可哀想なものを見るような瞳をしていた。操にではない。ここにはいない飼い主へと、その憐れみは注がれている。
「とにかく、そこいらにいる生物を捕まえて持ち帰ろうなんて考えは捨てろ。重ねて言うが、甲洋がハゲる」
「なんでぇ!? じゃあおれはどうすればいいのぉ!?」
操は四つん這いで総士のもと這いずって行くと、イカのように耳を寝かせてその膝に縋りついた。
「どうするもなにもない。なにもしなければいいだけだ」
「それじゃダメだよ! だって甲洋は狩りが下手だし! おれが世話してあげないとでしょ!?」
「お前は一体どの立場からものを言っているんだ……?」
総士の戸惑いが伝わってくる。けれどそれは操にとっても同じことだった。
毎日せっせと獲物を捕まえ、家に持ち帰り、甲洋にお腹いっぱい食べさせる。それこそが操の思い描く理想の未来像であり、理想とする愛情表現だった──のだが、総士はそんなことをしても無駄だと言う。
一瞬にして目的を失ってしまった操は、どうしたらいいか分からず涙目になった。
「飼い主に養われている分際で、飼い主を養う気でいたとはな」
心底あきれた様子で息をつきながら、総士が操に向かって人差し指を立てて見せた。
「いいか、よく聞け。僕らはただ健やかに、彼らと共にあればいい。よく食べ、よく寝て、よく遊び、時には我儘を言えばいい。甘えたいときに甘え、気が向かなければそっけない態度をとったって構わない。彼らはそれすら愛しく思う」
「えー、そっけない態度なんかとったら、甲洋が泣いちゃうかもよ」
「一騎は喜ぶ」
「調教済みってこと?」
「それが真のネコ飼いだ」
確かに総士の言う通りなのかもしれない。
前に甲洋も言っていた。操はそこにいるだけで人を幸せにできるのだと。その言葉通り、よく食べよく寝てよく遊ぶ操の姿を見ているだけで、甲洋の心はお日様が射したようにポカポカとあたたかくなる。そこに雨は降っていない。操はそれが嬉しくて、同じくらい、あたたかくて幸せな気持ちになることができた。
だけど操には、最近ずっと気になっていることがある。
それは甲洋の気持ちだ。彼の心は、時々どうしようもなくぐちゃぐちゃになる。
初めて会った頃からそうだった。様々な感情が入り混じって、まるで迷路のように複雑な甲洋の心。とても不思議で、だけど少しずつ触れながら、彼のことを知っていけるのが嬉しかった。
けれど最近の甲洋は、なんだか少し様子がおかしい。うまく言えないが、ふとした拍子にモヤモヤとした霧のようなものがかかって、その心をどんよりと濁らせているような──例えばそう、今朝みたいに。
(甲洋は、またなにか我慢してるような気がする。それがおれに理解できたらいいのに……)
実際、理解なんかされたら甲洋が死ぬ。精神的に。しかし操には年齢=恋人いない歴=童貞の複雑な男(スケベ)心など理解できない。
操の頭には、狩りを成功させて甲洋を喜ばせることしかなかったのだ。そうすれば今よりもっと上手に愛情を伝えられるはずで、あのおかしな心の霧だって吹き飛ぶはずだと。なんの根拠もなく、無邪気に信じ込んでいた。
だけどそれが無駄なことだと知り、ただ途方に暮れるしかなかった。
(おれにできることって、本当になにもないのかな……)
──アオーン
「!」
そのとき、またあの声がした。
総士の膝に縋ったまま項垂れていた操は、ドキリとしながら顔を上げる。声の方向に目をやれば、桜の木の根元に獣型の三毛猫がいることに気がついた。遠目から見ても、雌であることが『匂い』で分かる。
「アオーン! アオォーン!」
それはよく知る猫の鳴き声とは、少し違っていた。
咆哮、とでも言えばいいのだろうか。三毛猫はどこか落ち着きのない様子で木の幹に身体を擦り寄せ、なにかを必死で呼び込もうとしているようにも見える。
操は肩をすくめ、猫から視線を外さないままベンチに腰掛けると、総士の肩にぴったりと縋りついた。どうしてか、あの声を聞くと不安になる。
「春だからな」
総士がポツリと言った。操とは違い、ケロリとした顔で猫を見ている。
「総士、おれ、あれ嫌だ。怖い」
「怖い?」
不可解な面持ちで総士が操に顔を向けてくる。
「なにをそこまで不安になる必要がある?」
「総士は怖くないの? なんで怖くないの?」
総士からは不安も恐れも伝わってこない。逆に総士も操の漠然とした感情をキャッチしているが、それが何に起因するものなのかまでは、彼にも分からないようだった。
猫はずっと鳴いている。喉が枯れてもなお、鳴き続ける。ふわりふわりと、あの甘い香りが漂ってきた。心臓が激しく動悸を打つのを感じ、総士に縋る両手を握りしめる。息切れと共に、目眩がした。
「怖いもなにも、あれはただの──おい操? おい! どうした!?」
世界がまわり、力が抜けて、総士の声が遠のいていく。熱い。身体の内側に、小さな火がついたみたいに。じわじわと侵されていく。
猫が、ずっとずっと鳴いていた。
*
「おかえり」
帰宅すると、いつも迎えに出てくるはずの操の姿がなかった。
代わりにひょっこりと顔を出したのは一騎で、甲洋は思いがけず目を丸くする。
「一騎?」
「悪い。勝手に上がらせてもらってた」
「それは構わないけど──操?」
ネクタイを緩めながら部屋を覗き込んだ甲洋の目に、ベッドに横たわる操の姿が飛び込んできた。
ただごとではない様子に顔色を変えながら駆け寄り、うっすらと赤くなっている頬に触れる。少し熱い。呼びかけても目をさます気配がなかった。
「操! 操……っ、どうしたんだ? なにがあった?」
「公園で急に倒れたんだよ」
一騎がベッドの縁に腰掛け、心配そうに曇らせた瞳で操を見つめながら言った。
「倒れたって、どうして?」
「分からない。直前までカエルを追いかけ回して、元気にしてたみたいだけど」
「……総士は?」
「大丈夫。家だよ。こっちは心配しなくていい」
一騎の話はこうだった。
彼は総士と操が公園で遊んでいるあいだ、家でカレー作りに没頭していた。できあがったら迎えに行くつもりでいたのだが、一騎が行くより先に総士が帰ってきた。しかも、ぐったりとして動かない操を背負って。
操は苦しそうに息を乱していた。のぼせたように顔を赤くしているのを見て、一騎はすぐに病院へ連れて行こうとした。が、気配を察したのか、目を覚ました操がビービーと泣きだした。
そこまで聞いて、甲洋は「あぁ」と小さく嘆息を漏らす。
「悪い……こいつ、病院はトラウマなんだ」
ここに引っ越してきてすぐ、甲洋は操を動物病院へ連れて行った。総士を一騎に託した、近藤剣司がいる病院だ。本気で面倒を見るつもりでいるのなら、一度は連れてこいという打診を受けてのものだった。
操はそこで生まれて初めて、健康診断を受けた。そして採血でわんわん泣いた。よほどショックだったらしく、帰り道でもずっと甲洋の手を握ってベソベソと泣き続けていたので、コンビニで好きなお菓子を買ってやった。するとその場はおさまったものの、以来すっかり病院嫌いになってしまったというわけだ。(ちなみに検査結果は健康そのものだった)
泣いている操と、どうにかご機嫌を取ろうとしている甲洋の姿を想像してしまったのか、一騎は堪えきれずに小さく噴きだしかけたが、すぐに気を取り直して先を続ける。
操は派手に泣きわめきながら、「家に帰る」と言ってきかなかった。そのときの彼には、一騎の顔が注射器にでも見えていたのかもしれない。這ってでも帰っていこうとするのを見て、総士は「これだけ元気があるなら問題ないだろう」と投げやりに言った。
どうにも収集がつかないので、一騎は操をマンションに連れ帰ることにした。鈴付きの合鍵を使って部屋に入り、操をベッドに横たえさせる頃にはもう日が暮れかけていて、一騎はそのまま甲洋の帰りを待つことにしたのだった。
「迷惑かけたな……ありがとう」
深く息を漏らしながら床にあぐらをかいた甲洋に、一騎は笑みを浮かべて首を振る。
「カレー持ってきたんだ。よかったら食べてくれ。冷蔵庫に入れてあるから」
「なにからなにまで悪い」
「いいって」
一騎は立ち上がると、操の寝顔を確かめるように覗き込む。
「総士は知恵熱じゃないかなんて言ってたけど」
「赤ん坊じゃないんだからさ」
「はは、だよな。……うん、呼吸も落ち着いてる。さっきよりだいぶ顔色もいいみたいだ。このまま落ち着くといいな」
険しく眉根を寄せながら操の寝顔を見つめる甲洋の肩を、一騎がポンと労うように軽く叩いた。
*
操は夕飯時を過ぎても眠り続けていた。
それどころか、深夜0時近くなっても目を覚ます気配がない。
枕元の電気スタンドだけを灯し、甲洋はベッドのすぐ脇の床にあぐらをかくとその頬に触れる。ときどき寝返りもうつし、呼吸もいたって穏やかだ。けれど手のひらに感じる体温は、いまだよく知るものより少し高めのままだった。
「明日は病院だよ、操」
可哀想だが、簀巻きにしてでも連れて行くしかない。
暑いからと言って脱いだりなんかするから、風邪を引いてしまったのだろうか。なんにせよ、原因をハッキリさせないことにはどうしようもなかった。
「んぅ」
操がむずがるような声をあげ、こちらに身体を向ける形で寝返りをうった。枕に這わされた小さな手にふと愛おしさが溢れだし、その手の甲に自分の手をそっとかぶせる。軽く握りしめると、指先をきゅっと握り返された。目を覚ましたのかと思ったが、彼はいまだに眠ったままだ。その無意識がまた愛しい。
ほんのりと淡桃に染まる指先に、どうしようもなくそそられてしまう庇護欲が、甲洋の胸を締めつける。
(──今夜だけ)
抱きしめて眠ろうか。そんな考えが頭をよぎる。ふとした瞬間にもたげてしまう劣情だとか、そんなものは今ひどく遠い場所にあった。ただ腕の中に閉じ込めて、そっと静かに守っていたい。
「操」
囁くように名前を呼んだ。すると、操の瞼がピクリと動いた。睫毛を小さく震わせながら、ゆらりとその目が開かれる。
「操? よかった、目が覚めて」
意識が戻ったことにひとまず安堵の息をつきながら笑いかける。しかし操はぼんやりとしたまま、なにも反応を示さなかった。
「どうかした?」
様子がおかしい。虚ろにも見える表情に違和感を覚え、すぐにその正体に気がついた。甲洋を見つめる瞳孔が、縦に細くなっているのだ。それが彼の幼い顔立ちの印象を、いささか尖ったものへと変えている。電気スタンドの僅かな光を反射して、琥珀の瞳がどこか妖しい輝きを放っていた。
手の中から、操の手がするりと逃げた。白い手はそのまま甲洋に向かってぬぅっと伸ばされ、指先が頬へと這わされる。じわじわと耳の方へ向かってなぞられる感覚にゾワリとしながら、甲洋は声をつまらせた。
そして指先は、やがて後ろ首へと辿りつき──
「ッ!」
長い癖毛を巻き込むようにして項を掴まれ、ぐっと強く引き寄せられた。
「みっ、みさ……ッ」
目を剥く甲洋の唇が、ベッドから不自然な体勢で身を乗りだした操の唇によって塞がれていた。一瞬だけ頭の中が白く染まって、けれどすぐにその両肩を掴んで引き剥がそうとするが、操は両腕を甲洋の首に強く絡めて口づけをより深いものにした。
咄嗟に身を引いたのと同時に、操の身体がベッドから引きずりだされ、覆いかぶさってくる。狼狽するあまり反応が鈍り、支えきれずに背中から崩れ落ちた甲洋に、彼は何度も何度も角度を変えながら口づけを繰り返した。なにが起こっているのかまるで処理しきれないまま、鼓動が乱れた早鐘を打ち鳴らす。
「み、みさ、ぉッ、ちょっ!」
ぴちゃりと音を立てながら、唇に舌を這わされた。操は熱い息を漏らし、しきりに身をくねらせはじめる。甲洋の唇に吸いつきながら、何度も何度もまるで身体の中心を擦りつけるようにして、腰を揺らしていた。その痴態に、雷を受けたような衝撃が走る。
「おまっ、え、なにして……んぅッ!」
下唇に歯を立てられて、頭の芯に焼けるような痺れが走る。ずっと遠い場所でおとなしく眠っていたはずの劣情が、手掴みで引きずり出される感覚を覚えた。
(まずい……!)
甲洋はどうにか顔を背けると、操の両肩を強く掴む。そのまま引き剥がすことくらい簡単にできたはずだった。けれどそれができなかったのは、操が吐息まじりの小さな声で甲洋の名を呼んだからだった。
「ッ!」
こうよう、と。耳元に押しつけられたその声は、舌足らずなくせにひどく艶を帯びていて、泣き濡れたように切なくかすれていた。なんて声。朗らかではつらつとした幼い子ネコからは想像もつかなくて、そのみだりな声音に思考が蒸発しそうになる。
恐る恐る見上げた操の表情は、どこか朦朧としているようにも見えた。
「みさ、お?」
「こう、よ……はぁッ、こうよ……」
心臓に爪を立てられたように、息ができなかった。頭のなかにまで鼓動がドクドクと鳴り響いている。
「おれ、甲洋の──」
金色に輝く操の瞳孔が、また一段と細く狭まるのが分かった。獣の瞳だと、甲洋は思う。彼はなにかに餓えていて、そしてなにかを、欲しがっている。
(ダメだ)
この先を言わせてはいけない。それはきっとトリガーになる。予感、という曖昧な殻をかぶせた確信が、甲洋の背を駆り立てる。なのに、指先ひとつ動かすことができなかった。ただごくりと、大きく喉を鳴らす。
操が次の言葉を紡ぐため、小さく息を吸い込んだ。そのとき。
──きゅううぅ~
「…………は?」
響き渡った緊張感のない音に、甲洋は息を呑んだまま唖然とした。操はいつも通りの丸い瞳で、キョトンとした表情を浮かべている。さっきまでの艶も、取り憑かれたような虚ろさも、そこには影すら見当たらなかった。
──きゅるるぅ~ん
沈黙のなか、またあの怪音が鳴り響く。操の耳と眉が、どんどんハの字に下がっていった。
「こうよ」
「……なに?」
「おなかすいた」
謎の音。それは操の腹の虫だった。
(なんだったんだよ、一体……!)
まさか寝ぼけていたとでもいうのだろうか。甲洋は地の底から響くような溜息を漏らし、両手を床に投げ出した。安堵している。とてつもなく。だけど、なぜか腑に落ちない。いっそ落胆すらしている自分への言い訳を必死で探しながら、少しばかりヤバいことになりかけていた甲洋Jrも、完全に萎れきっていた。
操は甲洋の上にまたがったまま、不思議そうに小首を傾げている。今の今までなにをしていたのか、きっとこの子は分かっていない。完全に意識の外であったことが、その表情からも読み取れる。
「……夜遅いから、なにか軽めのものでいい?」
全く整理がつかないまま、甲洋は操のために小さな塩むすびを二つ、作ってやることにした。
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