2025/09/11 Thu ひとりの気持ち 雨音に気がついて、明け方ふと目を覚ます。 カーテンの隙間からこぼれ差す光には、ほのかに青みがかっていた。アラームが鳴るのは、まだもう少し先のはずだ。ずいぶん早くに目覚めてしまった。 起き抜けの頭は芯が重く痺れたようになっていて、身体と意識がいまいちうまく繋がらない。ぼうっとしながら天井を見上げ、甲洋は幾度かまばたきを繰り返す。 ──夢を、見ていたような気がする。 長い長い夢を。怖いくらい幸せで、あたたかく満たされていた感覚が、胸の内側に残っている。だけど、肝心の内容はすっぽりと頭から抜け落ちていた。 明け方の夢なんて、だいたいそんなものだろう。曖昧な痕跡だけを残して、目覚めたときには消えている。 いっそ眠ったままでいればよかったと、ひどく落胆しながら身を起こす。 ベッドを抜けだし、すぐ隣のリビングへ足を運ぶと、甲洋は無意識に誰かを探すように視線を巡らせていた。L字のカウチソファと、テーブルと、テレビと、最低限の家具。見慣れた一人暮らしの一室が、なぜかやたらと広く感じる。 「……?」 響く雨音に言い知れぬ喪失感が込み上げて、訳も分からず顔をしかめた。 足りない。なにかが。抜け落ちてしまったみたいに。けれど、それがなにかは分からない。大切なことを忘れている気がするのに、思いだそうとしても欠片のひとつも浮かばなかった。あたたかな夢の名残りは消え失せ、心がぽっかりと空虚に染まる。 取り残されたような寂寥に、甲洋はただ立ち尽くすことしかできなかった。 * それからずっと、得体の知れない喪失感は甲洋の中で膨らみ続けた。 次の日も、またその次の日も。大学へ行き、バイトをして、誰もいない家に帰る。繰り返す日々は、まるでモノクロの無声映画を見ているように味気ない。 気がつけば視線は誰かを探してさまよっている。なにを求めているのかも、なにが欠けているのかすらも、分からないまま。 5月の初め。その日も天気は雨降りだった。 大型連休に突入しても、普段と変わらずバイトはある。一張羅のスーツに身を包み、甲洋はいつものように塾講師のアルバイトに専念していた。 パーテーションで仕切られた空間には、甲洋と受け持ちの女子生徒が一人いるだけだ。 切りのいいところで腕時計を確認すれば、残り時間はあと十分。なにか質問はないかと問いかけると、セーラー服を着た黒髪の女子生徒は身体をわずかにこちらに向ける。他のブースに迷惑がかからないよう、彼女は静かに口を開いた。 「ねぇ、先生」 「なに?」 「先生って、もうすぐ誕生日だよね?」 制服の赤いスカーフを指先でいじりながら、少女がソワソワと見上げてくる。勉強とは一切関係のない内容だったが、残り時間のちょっとした雑談は普段からよくあることだ。 「そうだけど。よく知ってるな」 「従兄弟が先生と同じ大学に通ってるの。それで、たまたま聞いて……」 その従兄弟とやらが甲洋の見知った人物かはさておき、たまたま聞いたという点には少し無理があるように思えた。証拠に彼女は落ち着かない様子で目を泳がせている。 思いがけないところまで自分の情報が知れ渡っていることは、甲洋にとってよくある話だ。とりわけ女性の間で、それらは共有されている。いちいち追及していたら切りがない。 「それでね……ちょっと早いけど、先生にプレゼントがあるの」 「プレゼント?」 「私、誕生日の日は塾がないから。渡すなら、今日しかないと思って」 少女は机の脇に手を伸ばし、鞄を手にすると膝の上に乗せた。いそいそと中から取り出したのは、透明なラッピング袋に綺麗に包まれたカップケーキだった。 二つ並んだケーキはチョコとプレーンで、それぞれナッツやドライフルーツがたっぷりトッピングされている。袋の口を固定するワイヤータイには、赤いサテンリボンがついていた。 「これ、作ってみたの。味はあんまり自信ないけど……」 「わざわざ俺のために?」 頷いた少女が、真っ赤な顔をしながら両手でカップケーキの包みを差しだしてきた。受け取ってくれるかどうか、不安に駆られているのだろう。キュッと身体を固くしている。 少し迷ったが、断る理由は特になかった。受け取る瞬間、細い指先と甲洋の手がかすかに触れる。彼女はいっそう頬を赤くして、恥ずかしそうにうつむきながら手を引っ込めた。 「ありがとう。大事に食べるよ」 微笑んだ甲洋に、顔を上げた少女は潤んだ瞳で眩しいほどの笑顔を浮かべた。 その綺麗な黒髪に、甲洋はふと目を細める。胸の奥底から、じわりと呼び覚まされる思い。今の今まで、どうして忘れていたんだろう。 ──甲洋には、ずっと思い描いていた夢があった。 それは黒髪の綺麗な女性と運命的な恋をして、結婚したら海が見える高台に一戸建てを購入し、そこで幸せな家庭を築くこと。子宝にも恵まれて、庭では黒柴の元気な子犬を飼いたいと夢見ていた。 その未来に想いを馳せているあいだは、孤独であることを忘れていられた。甲洋にとって、大きな拠り所であったはずなのに。まるで最初からなかったかのように、忘れ去っていた。 彼女の髪に気をとめなければ、ずっと忘れたままでいたかもしれない。けれど何よりも甲洋が衝撃を受けたのは、思いだしたところでまるで心が動かないことだった。 「先生、またね」 いまだ頬を赤らめたまま、笑顔の女子生徒が小さく手を振って帰っていく。 その背を見届けると、甲洋は手の中にあるカップケーキの包みに視線を落とした。ひたむきな彼女の想いが、手のひらを通して伝わってくる。 だけど、甲洋の胸には冷たい空洞があるだけだ。剥き出しの孤独が、雨ざらしになっている。虚しかった。今日もまた、あの誰もいない部屋に帰らなくてはいけないことが。 * 「……今日も雨か」 アラームが鳴るよりも先に目を覚まし、遠くから聞こえる雨音にうんざりとした息を漏らした。 手探りでスマホを引き寄せると、覗き込んだディスプレイには数件のメッセージを知らせる表示がある。それらはすべて、友人たちからの誕生日を祝うメッセージだった。 『誕生日おめでとう!』 思い思いに寄せられたあたたかなメッセージに、ふと頬が緩みかける。だけど上手く笑えずに、ただ口元が不格好に引き攣るだけで終わってしまった。 「誕生日、か」 友人らの気持ちは嬉しいと感じているし、ありがたいとも思っている。けれどこうして祝われても、甲洋には今日という日に大した思い入れがない。連休が明け、今日から普通に学校があるし、バイトもある。同じことの繰り返し。空っぽの一日が始まるだけだ。 胸の空洞は、いつまで経っても埋まりそうにない。 * 一日を無難にやり過ごし、夜になっても雨は降り続いていた。 帰り道でふと足を止めてスマホを見ると、また数件のメッセージが来ていることに気がついた。どれも友人からで、誕生日を祝うもの。当たり前のように、両親からの連絡は一切ない。毎年そうだ。 あえて無視をしているわけではない。きっと彼らは、今日がなんの日であるかすら意識せずにいるだろう。期待するだけ、虚しいだけだ。 ふと漏らした儚い吐息を、バタバタと傘を叩く雨音がかき消した。こんな夜は、あの黒柴の子犬のことを思いだす。子供の頃、ほんの短い間だけそばにあった小さなぬくもり。 あの子はどうしているだろう。今もまだ、あの海が見える立派な家に暮らしているだろうか。優しい飼い主の女性のそばで、我が子のように愛されているだろうか。 「……寂しいな」 針のように細く地面を刺す雨を見つめて、ぽつりとこぼす。寂しかった。虚しかった。どうしようもなく、独りで生きていることが。独りで死んでいくことが。 いつしか一歩も足を動かす気にならなくなっていた。帰っても、どうせ誰もいない部屋が待っているだけだ。おかえりと言ってくれるあたたかな声も、笑顔も、なにもない。 多分きっと、すべては失くしてしまった夢の話だ。がらんどうになった心では、涙のひとつも流せない。 ──みぃ そのときふと、遠くからなにかが聞こえた気がして顔をあげた。 ──みぃ……みぃ…… 降りしきる雨のなか、か細くて切ない、小さな鳴き声が確かに聞こえる。 甲洋はその声を頼りに視線をやった。すぐ先にはゴミ捨て場がある。弱々しい鳴き声は、そこから聞こえているようだった。 スマホをスーツのポケットにねじこんで、ゴミ捨て場へと足を向ける。街灯を頼りに探してみると、ネットを被された小さな段ボール箱が、ポツンと一つだけ置かれているのを発見した。声はそこから聞こえてくる。 傘を肩に引っ掛けて、鞄は脇に挟み込み、甲洋はしゃがみ込むとネットを外して、箱を足元まで引き寄せた。蓋を開けて、目を見開く。そこにはふわふわの体毛に覆われた、茶トラの子猫の姿があった。 「みぃー、みぃー」 子猫は必死で声を上げながら、段ボールの壁面を両手でカリカリと引っ掻いている。呆然と見下ろす甲洋に、なにかを訴えかけているようだった。 「……お前、捨て猫か?」 戸惑いながらも手を伸ばし、そっと胸に抱きあげる。片手に収まってしまうくらい小さな子猫は、よく見るとしっぽの先が少しだけ丸くなっていた。まだ開いたばかりであろう瞳で、まっすぐに甲洋を見つめている。 ほのかな街灯の下、そのビー玉のような輝きに目を奪われた。とても綺麗だ。まるで色づいた銀杏並木のような、金色の瞳。どこかで、同じものを見たような──。 「……っ」 その瞬間、胸を激しく揺さぶられたような感覚に息を呑む。泉のように懐かしさが込み上げて、手のひらに感じる命のぬくもりに泣きたくなった。ずっと欠けていたものに、それはとてもよく似ている気がして。 鼻の先がツンと痛んで、視界がどんどんぼやけていった。泣くことすらできないでいたはずなのに。ついにこぼれ落ちた透明な雫が、子猫の鼻先にぽたりと落ちる。 「みゃ!」 子猫は驚いたようにぴくんっと身を震わせると、小さな身体をぐんと伸ばした。涙で濡れた自分の鼻を、甲洋の鼻にコツンとぶつける。何度かキスをするみたいにくっつけて、まるで泣かないでとでも言うかのように、甲高い声で鳴き続けた。 「みぃー、みぃー!」 ──……よう……こう……よう…… その声に重なるようにして、遠くから別の声が入り交じる。 「みぃー、みぃー!」 ──こう……よう……きて…… それはよく知る声だった。世界中の誰よりも、甲洋の胸を震わせる。柔らかくてあたたかな、大好きな『あの子』の声。 甲洋は子猫を抱きしめ、ふわふわの身体に頬ずりをしながら微笑んだ。雨が少しずつ弱まっていく。きっともうすぐ晴れるだろう。厚い雨雲の向こうには、綺麗な月が待っているから。 「わかってるよ。いま帰るから、そこにいて」 操──。 「もおー! 甲洋ぉ! 甲洋ってば! 起きてよぉ!」 急かす声に引っ張られ、甲洋はハッとしながら目を覚ました。頭はまだ半分ほどぬるい泥に浸かったようになっていて、すぐにはうまく機能しない。ぼんやりとした視線の先には、今年になって越してきたばかりの狭いワンルームの天井がある。 「やっと起きたぁ。甲洋ぜんぜん起きないんだもん! 息してないかと思ったじゃん!」 軽く混乱しながらさまよわせた視線の先では、操が困り顔で甲洋を見下ろしていた。 「……みさ、お?」 ベッドのそばに膝をつき、彼は長いことずっと呼びかけていたらしかった。ようやく甲洋が目を覚まし、心底安堵したように大きく息をついている。けれど、それは甲洋も同じだった。 「ッ、操……!」 「えっ、わ!?」 飛び起きた甲洋は、とっさに操を抱きしめた。突然のことに驚いて、先端がくるんと丸まったかぎしっぽを一回り大きく膨らませている。 「にゃ、にゃに!? どしたの急に!?」 「操……操……っ!」 「え、ちょっと? 甲洋、泣いてるの!?」 「操……みさ……っ」 「嘘、なんでぇ!? ど、どうしよう!? ねぇおれどうしたらいい!?」 操の耳はもはや髪と同化するくらい、下向きにペタリと落ちていた。やっと起きたと思ったら急に泣きだした甲洋に、パニックを起こしながら彼まで泣きそうになっている。 「やだよ甲洋、泣かないで……ねぇどうしちゃったの? 痛いよ、すごく……」 それは甲洋があまりにも強く掻き抱いているせいではない。甲洋が感じる痛みが、そのまま操の胸にも伝わっているからだ。ヒト型のイヌやネコには、人間の心を敏感に感じとる能力がある。 だからどうにか気持ちを静めようとするのだが、高ぶったまま一向に涙が止まらない。 「……ごめん、平気だから。少しだけ、このままでいさせて」 鼻をすすりながら小声で言うと、操はしぶしぶ「わかった」と言って頷いた。甲洋の背に両腕をまわし、彼なりに必死で泣き止ませようと優しく擦る。 その髪に鼻をうずめて、甲洋は震える息を吸い込んだ。陽だまりのような匂いがする。操の匂いだ。腕の中にすっぽりと収まってしまう身体は、あたたかくて柔らかい。胸の空洞が、ぴたりと埋まる。 (夢でよかった……) 生々しくて、思いだすだけで身がすくむ。あまりにも恐ろしい夢だった。 あれは操と出会うことのなかった、もう一人の自分の姿だ。このぬくもりを得ていなければ、今ごろ甲洋はまだあの小規模マンションに暮らしていただろう。いつしか夢さえ諦めて、からっぽの人生を孤独に歩むことになっていた。 (本当に……よかった……) 操がいない世界で生きるなんて、今の甲洋には考えられないことだった。他のなにを失くしても、この子だけは離したくない。 「こよ、もう平気になった……?」 少しずつ落ち着きを取り戻したのを感じ取ったのか、操がおずおずと声をあげた。甲洋は腕の力を少しだけ緩めると、わずかに隙間を作ってその顔を覗き込む。涙を浮かべた大きな瞳と、不安そうに噛み締められた下唇にふっと笑った。 「だいじょうぶ。もう平気だよ」 「怖い夢見たの?」 「うん。だから起こしてもらえて助かった。ありがとう、操」 操はホッとしながら笑うと、夢で見た子猫と同じ仕草でぐんと身体を伸ばし、まだほんのりと涙のあとが残る甲洋の頬に口づけた。 「よかった。また雨にならなくて」 「雨?」 意味が分からず小首を傾げた甲洋に、操は肩をすくめて「えへへ」と笑う。夢の中ではずっと雨が降っていたから、少しドキリとさせられた。けれど操が夢の内容を知っているはずがない。だから甲洋はゆるく微笑むだけで受け流す。彼が不思議なことを言うのは、今にはじまったことではないのだ。 「そういえば……」 ふと見やった窓からは、夕方の明かりが差していた。操は早い時間から公園に遊びに行っており、本当なら今ごろ甲洋が迎えに行っているはずだったのだが。しかし、彼はすでに帰宅している。 「操、お前まさか一人で家に帰ってきたのか?」 すると操は「違うよ」と言って首を左右に振った。 「一騎と総士が一緒に送ってくれたもん」 「そうか……悪いことしたな。俺が行くはずだったのに」 連休中は、ずっとバイトが入っていた。明けてようやく一日だけ休みをとったが、思っていた以上に疲れていたのかもしれない。操が遊んでいるあいだ、ほんの少し横になるだけのつもりが、いつの間にか深く眠り込んでいた。 「気にしないで! それより甲洋、いいものがあるよ!」 操は待ってましたとばかりにパッと目を輝かせ、甲洋の腕をグイグイ引くとベッドから引きずり下ろした。見ればテーブルの上に、真っ白の箱が置かれている。 「これは?」 あぐらをかきながらしげしげと見つめていると、操が箱に両手を添えて「じゃーん!」と言いながら上蓋を取り払った。 「!」 現れたのは、チョコレートのホールケーキだった。真っ赤なイチゴとチョコクリームが美しく円を描き、中央のプレートにはミミズのような文字で「おたんじょうびおめでとう」と書かれている。 「甲洋、誕生日おめでとう!」 操が満面の笑顔でパチパチと拍手をしながら言った。 「凄いでしょ! これ手作りなんだよ!」 とっさに言葉が出てこない。甲洋は目をまんまるにして、操とケーキを交互に見やる。 「一騎がね、こっそり教えてくれたんだ。もうすぐ甲洋の誕生日だぞって。でもおれ、誕生日ってしたことないからよく分かんなくて……そしたら総士が、ケーキを食べてお祝いする日だって教えてくれたんだ」 操は胸を突き出して、得意げに鼻の下をこすって見せる。 「だから今日は一騎のうちに行って、みんなで甲洋の誕生日ケーキを作ったんだよ!」 「操……」 ジン、と熱いものが込み上げて、甲洋はまた泣きたくなった。てっきりいつものように、総士と公園で遊んでいるものとばかり思っていたのに。 操の口ぶりからは、だいぶ前から計画していたことが伺い知れる。お喋りな彼が、よく今日まで黙っていられたものだ。きっと言いたくてウズウズしていたことだろう。だけど甲洋を驚かせたくて、ずっと我慢していたに違いない。 「うわっ、甲洋また泣いちゃった!」 「ッ、だって、こんな……こんなの、泣くだろ普通……」 さっきのアレで、涙腺はまだ緩んだままだった。うまく言葉が出ない代わりに、涙が溢れてしょうがない。手の甲で涙を拭う甲洋を、膝立ちの操が横からぎゅっと抱きしめる。よしよしと頭を撫でられ、小さな子供にでもされた気分だ。 たまらない気持ちになって、甲洋は操の腰に腕を回すと、あぐらをかいている足のあいだに横抱きにして座らせた。思いっきり閉じ込めるみたいにして抱きしめると、眉をハの字にした操が肩を揺らしてクスクス笑う。 「今日の甲洋、泣き虫だ」 涙で濡れた片頬にぴたりと手を添え、操は目を細めて微笑みながら、もう一度「おめでとう」と言った。 「操……」 「おれ、すごく嬉しいよ。甲洋が生まれてきたこと」 「ッ、うん……」 「すごくすごく、嬉しいんだ」 操が言う通り、今日の自分は泣き虫だ。呼吸が震えて、まともに返事が返せない。甲洋だって同じ気持ちだ。ずっと無意味だと思っていた誕生日が、初めて意味のある日だと思えた。この世界に生まれてきたことが、とても嬉しい。操と一緒に生きていることが、こんなにも。 足の間からスルリと伸びた長いしっぽが、ゆらりゆらりと大きな動作で揺れている。幸せを引っかけてくると言われるかぎしっぽ。操は甲洋にとって、幸福の形そのものだった。 「ありがとう、操」 操が蕩けそうな笑顔を浮かべる。ほんのり赤に染まった頬の丸みに、甲洋は思わずキスをした。すると今度は操が甲洋の首に両腕を回し、唇に思い切りキスされる。 子供みたいな拙いキスに、胸が甘く疼きだす。できればこのまま押し倒してしまいたかったが、操の 「ねぇ、ケーキ食べようよ!」 という無邪気な声に、残念ながらお預けを食らった。 だけど操と親友とその愛ネコが、気持ちを込めて作ってくれたケーキの味もとても気になる。どうせなら一緒にテーブルを囲めたらよかったけれど、きっと総士が気を利かせたのだろう。一緒に食べないのか? なんて言いながら目を丸くする一騎を引っ張り、帰っていく姿が目に浮かぶ。 「俺たちだけじゃ食べ切れないから。明日、一緒に二人の分を届けに行こう」 大きな耳ごと髪をくしゃりと撫でながら言うと、操が「うん!」と元気に返事した。その笑顔を見て、甲洋はふと思い立つ。 今年の冬には、操にも誕生日ケーキを贈ろうと。彼が生まれた日は分からない。けれど、出会った日のことは忘れない。11月の下旬。日付もちゃんと覚えている。 そうしたら、この子はどんな顔をするだろう。ケーキよりも甘く、クリームよりも蕩けた笑顔で、嬉しいと言って泣いてくれるだろうか。 そうなればいいと願いながら、まだずっと先にある遠い冬の日に、想いを馳せた。 ひとりの気持ち / 了 2021.05.07***HAPPY BIRTHDAY! ←戻る ・ Wavebox👏
雨音に気がついて、明け方ふと目を覚ます。
カーテンの隙間からこぼれ差す光には、ほのかに青みがかっていた。アラームが鳴るのは、まだもう少し先のはずだ。ずいぶん早くに目覚めてしまった。
起き抜けの頭は芯が重く痺れたようになっていて、身体と意識がいまいちうまく繋がらない。ぼうっとしながら天井を見上げ、甲洋は幾度かまばたきを繰り返す。
──夢を、見ていたような気がする。
長い長い夢を。怖いくらい幸せで、あたたかく満たされていた感覚が、胸の内側に残っている。だけど、肝心の内容はすっぽりと頭から抜け落ちていた。
明け方の夢なんて、だいたいそんなものだろう。曖昧な痕跡だけを残して、目覚めたときには消えている。
いっそ眠ったままでいればよかったと、ひどく落胆しながら身を起こす。
ベッドを抜けだし、すぐ隣のリビングへ足を運ぶと、甲洋は無意識に誰かを探すように視線を巡らせていた。L字のカウチソファと、テーブルと、テレビと、最低限の家具。見慣れた一人暮らしの一室が、なぜかやたらと広く感じる。
「……?」
響く雨音に言い知れぬ喪失感が込み上げて、訳も分からず顔をしかめた。
足りない。なにかが。抜け落ちてしまったみたいに。けれど、それがなにかは分からない。大切なことを忘れている気がするのに、思いだそうとしても欠片のひとつも浮かばなかった。あたたかな夢の名残りは消え失せ、心がぽっかりと空虚に染まる。
取り残されたような寂寥に、甲洋はただ立ち尽くすことしかできなかった。
*
それからずっと、得体の知れない喪失感は甲洋の中で膨らみ続けた。
次の日も、またその次の日も。大学へ行き、バイトをして、誰もいない家に帰る。繰り返す日々は、まるでモノクロの無声映画を見ているように味気ない。
気がつけば視線は誰かを探してさまよっている。なにを求めているのかも、なにが欠けているのかすらも、分からないまま。
5月の初め。その日も天気は雨降りだった。
大型連休に突入しても、普段と変わらずバイトはある。一張羅のスーツに身を包み、甲洋はいつものように塾講師のアルバイトに専念していた。
パーテーションで仕切られた空間には、甲洋と受け持ちの女子生徒が一人いるだけだ。
切りのいいところで腕時計を確認すれば、残り時間はあと十分。なにか質問はないかと問いかけると、セーラー服を着た黒髪の女子生徒は身体をわずかにこちらに向ける。他のブースに迷惑がかからないよう、彼女は静かに口を開いた。
「ねぇ、先生」
「なに?」
「先生って、もうすぐ誕生日だよね?」
制服の赤いスカーフを指先でいじりながら、少女がソワソワと見上げてくる。勉強とは一切関係のない内容だったが、残り時間のちょっとした雑談は普段からよくあることだ。
「そうだけど。よく知ってるな」
「従兄弟が先生と同じ大学に通ってるの。それで、たまたま聞いて……」
その従兄弟とやらが甲洋の見知った人物かはさておき、たまたま聞いたという点には少し無理があるように思えた。証拠に彼女は落ち着かない様子で目を泳がせている。
思いがけないところまで自分の情報が知れ渡っていることは、甲洋にとってよくある話だ。とりわけ女性の間で、それらは共有されている。いちいち追及していたら切りがない。
「それでね……ちょっと早いけど、先生にプレゼントがあるの」
「プレゼント?」
「私、誕生日の日は塾がないから。渡すなら、今日しかないと思って」
少女は机の脇に手を伸ばし、鞄を手にすると膝の上に乗せた。いそいそと中から取り出したのは、透明なラッピング袋に綺麗に包まれたカップケーキだった。
二つ並んだケーキはチョコとプレーンで、それぞれナッツやドライフルーツがたっぷりトッピングされている。袋の口を固定するワイヤータイには、赤いサテンリボンがついていた。
「これ、作ってみたの。味はあんまり自信ないけど……」
「わざわざ俺のために?」
頷いた少女が、真っ赤な顔をしながら両手でカップケーキの包みを差しだしてきた。受け取ってくれるかどうか、不安に駆られているのだろう。キュッと身体を固くしている。
少し迷ったが、断る理由は特になかった。受け取る瞬間、細い指先と甲洋の手がかすかに触れる。彼女はいっそう頬を赤くして、恥ずかしそうにうつむきながら手を引っ込めた。
「ありがとう。大事に食べるよ」
微笑んだ甲洋に、顔を上げた少女は潤んだ瞳で眩しいほどの笑顔を浮かべた。
その綺麗な黒髪に、甲洋はふと目を細める。胸の奥底から、じわりと呼び覚まされる思い。今の今まで、どうして忘れていたんだろう。
──甲洋には、ずっと思い描いていた夢があった。
それは黒髪の綺麗な女性と運命的な恋をして、結婚したら海が見える高台に一戸建てを購入し、そこで幸せな家庭を築くこと。子宝にも恵まれて、庭では黒柴の元気な子犬を飼いたいと夢見ていた。
その未来に想いを馳せているあいだは、孤独であることを忘れていられた。甲洋にとって、大きな拠り所であったはずなのに。まるで最初からなかったかのように、忘れ去っていた。
彼女の髪に気をとめなければ、ずっと忘れたままでいたかもしれない。けれど何よりも甲洋が衝撃を受けたのは、思いだしたところでまるで心が動かないことだった。
「先生、またね」
いまだ頬を赤らめたまま、笑顔の女子生徒が小さく手を振って帰っていく。
その背を見届けると、甲洋は手の中にあるカップケーキの包みに視線を落とした。ひたむきな彼女の想いが、手のひらを通して伝わってくる。
だけど、甲洋の胸には冷たい空洞があるだけだ。剥き出しの孤独が、雨ざらしになっている。虚しかった。今日もまた、あの誰もいない部屋に帰らなくてはいけないことが。
*
「……今日も雨か」
アラームが鳴るよりも先に目を覚まし、遠くから聞こえる雨音にうんざりとした息を漏らした。
手探りでスマホを引き寄せると、覗き込んだディスプレイには数件のメッセージを知らせる表示がある。それらはすべて、友人たちからの誕生日を祝うメッセージだった。
『誕生日おめでとう!』
思い思いに寄せられたあたたかなメッセージに、ふと頬が緩みかける。だけど上手く笑えずに、ただ口元が不格好に引き攣るだけで終わってしまった。
「誕生日、か」
友人らの気持ちは嬉しいと感じているし、ありがたいとも思っている。けれどこうして祝われても、甲洋には今日という日に大した思い入れがない。連休が明け、今日から普通に学校があるし、バイトもある。同じことの繰り返し。空っぽの一日が始まるだけだ。
胸の空洞は、いつまで経っても埋まりそうにない。
*
一日を無難にやり過ごし、夜になっても雨は降り続いていた。
帰り道でふと足を止めてスマホを見ると、また数件のメッセージが来ていることに気がついた。どれも友人からで、誕生日を祝うもの。当たり前のように、両親からの連絡は一切ない。毎年そうだ。
あえて無視をしているわけではない。きっと彼らは、今日がなんの日であるかすら意識せずにいるだろう。期待するだけ、虚しいだけだ。
ふと漏らした儚い吐息を、バタバタと傘を叩く雨音がかき消した。こんな夜は、あの黒柴の子犬のことを思いだす。子供の頃、ほんの短い間だけそばにあった小さなぬくもり。
あの子はどうしているだろう。今もまだ、あの海が見える立派な家に暮らしているだろうか。優しい飼い主の女性のそばで、我が子のように愛されているだろうか。
「……寂しいな」
針のように細く地面を刺す雨を見つめて、ぽつりとこぼす。寂しかった。虚しかった。どうしようもなく、独りで生きていることが。独りで死んでいくことが。
いつしか一歩も足を動かす気にならなくなっていた。帰っても、どうせ誰もいない部屋が待っているだけだ。おかえりと言ってくれるあたたかな声も、笑顔も、なにもない。
多分きっと、すべては失くしてしまった夢の話だ。がらんどうになった心では、涙のひとつも流せない。
──みぃ
そのときふと、遠くからなにかが聞こえた気がして顔をあげた。
──みぃ……みぃ……
降りしきる雨のなか、か細くて切ない、小さな鳴き声が確かに聞こえる。
甲洋はその声を頼りに視線をやった。すぐ先にはゴミ捨て場がある。弱々しい鳴き声は、そこから聞こえているようだった。
スマホをスーツのポケットにねじこんで、ゴミ捨て場へと足を向ける。街灯を頼りに探してみると、ネットを被された小さな段ボール箱が、ポツンと一つだけ置かれているのを発見した。声はそこから聞こえてくる。
傘を肩に引っ掛けて、鞄は脇に挟み込み、甲洋はしゃがみ込むとネットを外して、箱を足元まで引き寄せた。蓋を開けて、目を見開く。そこにはふわふわの体毛に覆われた、茶トラの子猫の姿があった。
「みぃー、みぃー」
子猫は必死で声を上げながら、段ボールの壁面を両手でカリカリと引っ掻いている。呆然と見下ろす甲洋に、なにかを訴えかけているようだった。
「……お前、捨て猫か?」
戸惑いながらも手を伸ばし、そっと胸に抱きあげる。片手に収まってしまうくらい小さな子猫は、よく見るとしっぽの先が少しだけ丸くなっていた。まだ開いたばかりであろう瞳で、まっすぐに甲洋を見つめている。
ほのかな街灯の下、そのビー玉のような輝きに目を奪われた。とても綺麗だ。まるで色づいた銀杏並木のような、金色の瞳。どこかで、同じものを見たような──。
「……っ」
その瞬間、胸を激しく揺さぶられたような感覚に息を呑む。泉のように懐かしさが込み上げて、手のひらに感じる命のぬくもりに泣きたくなった。ずっと欠けていたものに、それはとてもよく似ている気がして。
鼻の先がツンと痛んで、視界がどんどんぼやけていった。泣くことすらできないでいたはずなのに。ついにこぼれ落ちた透明な雫が、子猫の鼻先にぽたりと落ちる。
「みゃ!」
子猫は驚いたようにぴくんっと身を震わせると、小さな身体をぐんと伸ばした。涙で濡れた自分の鼻を、甲洋の鼻にコツンとぶつける。何度かキスをするみたいにくっつけて、まるで泣かないでとでも言うかのように、甲高い声で鳴き続けた。
「みぃー、みぃー!」
──……よう……こう……よう……
その声に重なるようにして、遠くから別の声が入り交じる。
「みぃー、みぃー!」
──こう……よう……きて……
それはよく知る声だった。世界中の誰よりも、甲洋の胸を震わせる。柔らかくてあたたかな、大好きな『あの子』の声。
甲洋は子猫を抱きしめ、ふわふわの身体に頬ずりをしながら微笑んだ。雨が少しずつ弱まっていく。きっともうすぐ晴れるだろう。厚い雨雲の向こうには、綺麗な月が待っているから。
「わかってるよ。いま帰るから、そこにいて」
操──。
「もおー! 甲洋ぉ! 甲洋ってば! 起きてよぉ!」
急かす声に引っ張られ、甲洋はハッとしながら目を覚ました。頭はまだ半分ほどぬるい泥に浸かったようになっていて、すぐにはうまく機能しない。ぼんやりとした視線の先には、今年になって越してきたばかりの狭いワンルームの天井がある。
「やっと起きたぁ。甲洋ぜんぜん起きないんだもん! 息してないかと思ったじゃん!」
軽く混乱しながらさまよわせた視線の先では、操が困り顔で甲洋を見下ろしていた。
「……みさ、お?」
ベッドのそばに膝をつき、彼は長いことずっと呼びかけていたらしかった。ようやく甲洋が目を覚まし、心底安堵したように大きく息をついている。けれど、それは甲洋も同じだった。
「ッ、操……!」
「えっ、わ!?」
飛び起きた甲洋は、とっさに操を抱きしめた。突然のことに驚いて、先端がくるんと丸まったかぎしっぽを一回り大きく膨らませている。
「にゃ、にゃに!? どしたの急に!?」
「操……操……っ!」
「え、ちょっと? 甲洋、泣いてるの!?」
「操……みさ……っ」
「嘘、なんでぇ!? ど、どうしよう!? ねぇおれどうしたらいい!?」
操の耳はもはや髪と同化するくらい、下向きにペタリと落ちていた。やっと起きたと思ったら急に泣きだした甲洋に、パニックを起こしながら彼まで泣きそうになっている。
「やだよ甲洋、泣かないで……ねぇどうしちゃったの? 痛いよ、すごく……」
それは甲洋があまりにも強く掻き抱いているせいではない。甲洋が感じる痛みが、そのまま操の胸にも伝わっているからだ。ヒト型のイヌやネコには、人間の心を敏感に感じとる能力がある。
だからどうにか気持ちを静めようとするのだが、高ぶったまま一向に涙が止まらない。
「……ごめん、平気だから。少しだけ、このままでいさせて」
鼻をすすりながら小声で言うと、操はしぶしぶ「わかった」と言って頷いた。甲洋の背に両腕をまわし、彼なりに必死で泣き止ませようと優しく擦る。
その髪に鼻をうずめて、甲洋は震える息を吸い込んだ。陽だまりのような匂いがする。操の匂いだ。腕の中にすっぽりと収まってしまう身体は、あたたかくて柔らかい。胸の空洞が、ぴたりと埋まる。
(夢でよかった……)
生々しくて、思いだすだけで身がすくむ。あまりにも恐ろしい夢だった。
あれは操と出会うことのなかった、もう一人の自分の姿だ。このぬくもりを得ていなければ、今ごろ甲洋はまだあの小規模マンションに暮らしていただろう。いつしか夢さえ諦めて、からっぽの人生を孤独に歩むことになっていた。
(本当に……よかった……)
操がいない世界で生きるなんて、今の甲洋には考えられないことだった。他のなにを失くしても、この子だけは離したくない。
「こよ、もう平気になった……?」
少しずつ落ち着きを取り戻したのを感じ取ったのか、操がおずおずと声をあげた。甲洋は腕の力を少しだけ緩めると、わずかに隙間を作ってその顔を覗き込む。涙を浮かべた大きな瞳と、不安そうに噛み締められた下唇にふっと笑った。
「だいじょうぶ。もう平気だよ」
「怖い夢見たの?」
「うん。だから起こしてもらえて助かった。ありがとう、操」
操はホッとしながら笑うと、夢で見た子猫と同じ仕草でぐんと身体を伸ばし、まだほんのりと涙のあとが残る甲洋の頬に口づけた。
「よかった。また雨にならなくて」
「雨?」
意味が分からず小首を傾げた甲洋に、操は肩をすくめて「えへへ」と笑う。夢の中ではずっと雨が降っていたから、少しドキリとさせられた。けれど操が夢の内容を知っているはずがない。だから甲洋はゆるく微笑むだけで受け流す。彼が不思議なことを言うのは、今にはじまったことではないのだ。
「そういえば……」
ふと見やった窓からは、夕方の明かりが差していた。操は早い時間から公園に遊びに行っており、本当なら今ごろ甲洋が迎えに行っているはずだったのだが。しかし、彼はすでに帰宅している。
「操、お前まさか一人で家に帰ってきたのか?」
すると操は「違うよ」と言って首を左右に振った。
「一騎と総士が一緒に送ってくれたもん」
「そうか……悪いことしたな。俺が行くはずだったのに」
連休中は、ずっとバイトが入っていた。明けてようやく一日だけ休みをとったが、思っていた以上に疲れていたのかもしれない。操が遊んでいるあいだ、ほんの少し横になるだけのつもりが、いつの間にか深く眠り込んでいた。
「気にしないで! それより甲洋、いいものがあるよ!」
操は待ってましたとばかりにパッと目を輝かせ、甲洋の腕をグイグイ引くとベッドから引きずり下ろした。見ればテーブルの上に、真っ白の箱が置かれている。
「これは?」
あぐらをかきながらしげしげと見つめていると、操が箱に両手を添えて「じゃーん!」と言いながら上蓋を取り払った。
「!」
現れたのは、チョコレートのホールケーキだった。真っ赤なイチゴとチョコクリームが美しく円を描き、中央のプレートにはミミズのような文字で「おたんじょうびおめでとう」と書かれている。
「甲洋、誕生日おめでとう!」
操が満面の笑顔でパチパチと拍手をしながら言った。
「凄いでしょ! これ手作りなんだよ!」
とっさに言葉が出てこない。甲洋は目をまんまるにして、操とケーキを交互に見やる。
「一騎がね、こっそり教えてくれたんだ。もうすぐ甲洋の誕生日だぞって。でもおれ、誕生日ってしたことないからよく分かんなくて……そしたら総士が、ケーキを食べてお祝いする日だって教えてくれたんだ」
操は胸を突き出して、得意げに鼻の下をこすって見せる。
「だから今日は一騎のうちに行って、みんなで甲洋の誕生日ケーキを作ったんだよ!」
「操……」
ジン、と熱いものが込み上げて、甲洋はまた泣きたくなった。てっきりいつものように、総士と公園で遊んでいるものとばかり思っていたのに。
操の口ぶりからは、だいぶ前から計画していたことが伺い知れる。お喋りな彼が、よく今日まで黙っていられたものだ。きっと言いたくてウズウズしていたことだろう。だけど甲洋を驚かせたくて、ずっと我慢していたに違いない。
「うわっ、甲洋また泣いちゃった!」
「ッ、だって、こんな……こんなの、泣くだろ普通……」
さっきのアレで、涙腺はまだ緩んだままだった。うまく言葉が出ない代わりに、涙が溢れてしょうがない。手の甲で涙を拭う甲洋を、膝立ちの操が横からぎゅっと抱きしめる。よしよしと頭を撫でられ、小さな子供にでもされた気分だ。
たまらない気持ちになって、甲洋は操の腰に腕を回すと、あぐらをかいている足のあいだに横抱きにして座らせた。思いっきり閉じ込めるみたいにして抱きしめると、眉をハの字にした操が肩を揺らしてクスクス笑う。
「今日の甲洋、泣き虫だ」
涙で濡れた片頬にぴたりと手を添え、操は目を細めて微笑みながら、もう一度「おめでとう」と言った。
「操……」
「おれ、すごく嬉しいよ。甲洋が生まれてきたこと」
「ッ、うん……」
「すごくすごく、嬉しいんだ」
操が言う通り、今日の自分は泣き虫だ。呼吸が震えて、まともに返事が返せない。甲洋だって同じ気持ちだ。ずっと無意味だと思っていた誕生日が、初めて意味のある日だと思えた。この世界に生まれてきたことが、とても嬉しい。操と一緒に生きていることが、こんなにも。
足の間からスルリと伸びた長いしっぽが、ゆらりゆらりと大きな動作で揺れている。幸せを引っかけてくると言われるかぎしっぽ。操は甲洋にとって、幸福の形そのものだった。
「ありがとう、操」
操が蕩けそうな笑顔を浮かべる。ほんのり赤に染まった頬の丸みに、甲洋は思わずキスをした。すると今度は操が甲洋の首に両腕を回し、唇に思い切りキスされる。
子供みたいな拙いキスに、胸が甘く疼きだす。できればこのまま押し倒してしまいたかったが、操の
「ねぇ、ケーキ食べようよ!」
という無邪気な声に、残念ながらお預けを食らった。
だけど操と親友とその愛ネコが、気持ちを込めて作ってくれたケーキの味もとても気になる。どうせなら一緒にテーブルを囲めたらよかったけれど、きっと総士が気を利かせたのだろう。一緒に食べないのか? なんて言いながら目を丸くする一騎を引っ張り、帰っていく姿が目に浮かぶ。
「俺たちだけじゃ食べ切れないから。明日、一緒に二人の分を届けに行こう」
大きな耳ごと髪をくしゃりと撫でながら言うと、操が「うん!」と元気に返事した。その笑顔を見て、甲洋はふと思い立つ。
今年の冬には、操にも誕生日ケーキを贈ろうと。彼が生まれた日は分からない。けれど、出会った日のことは忘れない。11月の下旬。日付もちゃんと覚えている。
そうしたら、この子はどんな顔をするだろう。ケーキよりも甘く、クリームよりも蕩けた笑顔で、嬉しいと言って泣いてくれるだろうか。
そうなればいいと願いながら、まだずっと先にある遠い冬の日に、想いを馳せた。
ひとりの気持ち / 了
2021.05.07***HAPPY BIRTHDAY!
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