2025/09/11 Thu 「承太郎の……バカ野郎……」 夜の公園でベンチに腰掛け、花京院はひとり泣きだしそうになるのを堪えていた。 これが失恋の痛みというやつか。今までも好きなアイドルの熱愛報道や、メイド喫茶のメイドさんが男連れで歩いているプライベートを目撃する度に、地の底まで落ち込むことはあったが、これはそんな比ではなかった。 花京院はツンと痛む鼻を大きくすすると、片手をポケットの中に捻じ込んだ。中にある鍵を取り出し、掌に乗せて眺める。 (返すのを、忘れてしまった……) 赤々としたチェリーのキーホルダーが、街灯の頼りない光を弾いて輝いていた。このキーホルダーも、承太郎がくれたものだった。好きだろと言って、照れ臭そうに。 初めて店を訪れたとき、チェリーが好きだと言った花京院の言葉を、彼はずっと覚えていてくれたのだ。そんなこと、言った本人ですら忘れていたのに。 また涙が込み上げそうになるのを堪えて、花京院は鍵をポケットにしまい込む。暗闇にぼんやりと浮かび上がる公園の遊具たちが、とても無機質で寂しく感じた。 そういえば、承太郎と思いを通じあわせたのも公園だった。彼が通っていた高校の近くにあった、ここよりも少し規模の小さな、寂れた公園。じわりと浮かぶ涙を、星のない空を見上げてどうにか抑え込む。 なんて女々しいのだろう。けれど生まれて初めての失恋に、花京院の心はズタボロだった。 承太郎が恋人らしいことをしようとしなかったのも、夜は時間通りにキッチリ帰そうとしていたのも、全ては彼女の存在があったからなのか。 (一番の大バカ野郎は、ぼくだ……) すでに気持ちが冷めている相手に勢いだけで押しかけ、女装までして迫ってしまった。結局は拒まれて、失恋して、公園でひとり惨めに涙を堪えているなんて。まるでピエロではないか。 「やぁ~だ~も~、マジありえないからぁ~」 「なぁんだよぉ~、別にいいじゃん? なぁ~」 そのときである。傷心の花京院の耳に、何やら謎の男女がイチャつく声が聞こえてきた。 「ちょっとだけ、なぁ、マジ先っぽだけだし」 「ダメだってば~ここ公園なんだけど~?」 「そんなのマジどうでもいいって~」 声は、すぐ隣のベンチからしているようだった。チャラチャラした感じの男が、必死で頭の悪そうな女を口説いている。 「でもぉ、今日の下着あんまり可愛くないってゆうかぁ~」 「ぜ~んぜんいいし! マジそのまんまでいいし? マジ素材が生きてるって感じだし?」 「マジ必死なんだけど~マジウケるんだけど~」 一体この短時間のうち、何度マジと言えば気が済むのか。 「マジでぇ~、なぁマジマジ~」 「マジ~? 超マジなのぉ~?」 ついにはマジ語しか喋らなくなったところで、花京院は頭の中で血管が切れるような音を聞いた。人の初恋が玉砕したというときに、容赦なくイチャイチャしやがって……と、激しい憎しみに駆られた花京院は、次の瞬間。 「やかましいッ! ぼくはリア充が騒ぐとムカつくんだッ!!」 つい、誰かさんの台詞をアレンジしたような言い回しで、怒鳴りつけていた。 ふたりのリア充はビクンと肩を震わせて驚いていたが、男の方がすぐに花京院を指さして、声をあげた。 「あれ!? おまえ典明じゃん!」 「え?」 唐突に名前を呼ばれ、花京院はベンチで女と密着している男の顔をまじまじと見た。するとそこには。 「よ、ヨシオさん!?」 花京院がバイトをしていた男の娘喫茶『CHERRY BOYS』にいた先輩、ヨシ子ことヨシオの姿があった。 *** まさかマジ語を操っていたリア充の一人が、ヨシオだったとは。世間は狭いなと思いつつ、花京院はなぜかヨシオを挟む形で、彼らと同じベンチに三人で密着しながら腰かけていた。 「マジ久しぶりじゃん? 店辞めてからぜんぜん顔出さねーから、マジ死んだと思ってたっつーの」 「生きてますよ……一応は……」 瀕死だが。 「なになに、元気ないじゃん。彼女にでもフラれたん?」 「ウッ!!」 グサァッと胸に突き刺さる地雷を踏んでくるヨシオ。退屈そうに長い金髪の毛先をいじくりまわしていた彼女まで、チラリとこちらに目を向ける。痛い。リア充の視線が痛すぎる。 生まれてこのかた彼女なんていた試しはないし、破局相手は男性である。そして、ついさっき初めての恋が終わったばかりだ。幾重にも刺し貫く言葉の刃に、青褪めた表情で痛む胸を押さえた。 「うわマジかー。ごめん典明」 「いえ、大丈夫です……では、ぼくはこれで……」 HPが0に近い状態で、花京院は膝の上に重ねて置いていた、ふたつの鞄を抱えて立ちあがる。そのままおぼつかない足取りで立ち去ろうとしたとき、ヨシオが「ちょい待ち」と言って引き止めた。 「なんでしょう……」 「おまえさ、次の休み暇? 久しぶりに店来いよ。ちょっとは気分転換になっかもしんねーよ」 「気分転換、ですか」 「そ。メイド服持参で」 「お客さんとしてではなく、ということですか?」 なぜかドキリとして、花京院は腕に抱えているメイド服が入った鞄を、強く抱きしめる。 「そそ。一日くらいならいいっしょ? 店長も喜ぶぞ~」 「久しぶりに、か」 トートバッグを見下ろしながら、花京院はそれもいいかもしれない、と思った。このままでは最後に着たメイド服の思い出が、失恋の記憶で終わってしまうし、確かに気分転換でもしないことには、立ち直れそうにない。 承太郎と出会ったのもあの店だった。結局また思いだしてしまうかもしれないが、接客に追われれば、そんなことを考えている余裕も、きっとなくなるだろう。 「そうですよね。ありがとうございます、ヨシオさん」 花京院が少しだけホッとしたように笑顔を浮かべると、ヨシオもうんうんと頷きながら、ニカッと笑った。 *** 日曜日。 花京院は典香として、『CHERRY BOYS』で接客に励んでいた。 店を辞めたのは春休みのことで、ごく最近のことではあるのだが、ずいぶん長く離れていたような気がする。店内は相変わらず込み合っていて、中には辞めたはずの典香を覚えていてくれる常連客もいたのが、嬉しかった。 (やっぱり楽しいな) 注文品をせっせとテーブルへ運びながら、花京院は改めて思った。オムライスやクリームソーダを頼まれると、ほんの少しだけチクリと胸が痛んだが、幼い頃から憧れていたメイド姿で堂々としていられるひと時は、胸に開いた大穴を優しく埋めてくれるような気がする。 たぶん、気休めでしかないのは分かっているけれど。それでもクオリティの高いメイド仲間たちは目に優しいし、こんな格好でもしない限り、普段は話すこともできない女性客と会話をするのも、楽しかった。 「典香ちゃん辞めたって聞いて、あたしたちすごく寂しかったのよ」 そんな中、ふたりの女性客がついているテーブルで、花京院がオムライスにケチャップでイラストを描いていると、それを嬉しそうに眺めていた客の一人が言った。 「本当ですか。ありがとうございます」 「ねえ、なんで辞めちゃったの? あ、もしかして彼女ができたから、そんな暇なくなったとか?」 「ッ、ゲホッ」 「やだぁ、典香ちゃんなんだから、彼女じゃなくて彼氏って言ってあげなくちゃダメでしょ」 もう一人がからかうように言ったその瞬間、逆さにしていたボトルから嫌な音がして、オムライスの上にケチャップが血飛沫のように降り注いだ。 「うわぁっ、す、すみませんッ! すぐ新しいものをお持ちしますので……ッ」 青褪めた花京院がすぐに皿に手をかけたが、ふたりは「いいよいいよ」と言って笑った。それよりも、花京院が分かりやすい反応を示したことの方に、彼女たちは喜んでいるようだった。 「ねえねえどんな子!? 可愛い系!? 綺麗系!?」 「あ、あの、いや、えーと」 「年上でしょ!? 絶対そう!」 (うわああああもうやめてくれーッ) 好奇心に目をギラギラとさせる彼女たちに、花京院は今にも卒倒しそうだった。このまま悪意なき精神攻撃を食らい続ければ、確実に立ち直れなくなる。失恋の傷を癒すために来たはずが、さらに悪化させては元も子もなかった。 「すみません、わたしはこれでッ」 花京院は慌ててふたりに頭を下げると、その場を逃げるように後にした。 (女性って本当、こういう話が好きだな……) そんなことがあってから、花京院はふと嫌な事実に気がついてしまった。 和やかなムードの店内は、ほんの一握りのカップルを除いては、女性客だけで席が埋まっている。彼女たちはそのほとんどが、いわゆる『恋バナ』に花を咲かせているのだ。 恋人がどうのとか、バイト先のイケメンがどうのとか、友達が彼氏と別れたとか。今はその手の話をいっさい耳に入れたくない花京院としては、一歩進むごとにダメージを受ける毒沼を、延々と歩かされている気分だった。 気づけば気分転換ではなく、ただの精神修行と化している状況に、そろそろ悟りのひとつでも開く頃かという、そのとき。 「ねえちょっとアレ見て! あのカップル素敵じゃない!?」 一人の女性客が、いやによく通る声で店の外を指さしながら言った。それを合図に、客が一斉にガラス張りの向こう側に視線を向ける。つい釣られた花京院も、注文品のクリームソーダが乗ったトレイを持ったまま、店の外を見た。 そして、息を飲んだ。 「ッ!?」 そこには承太郎と、あのお団子頭の彼シャツ彼女がいた。 ふたりは店のすぐ前の通りを歩いている。赤やピンクの薔薇の花束を持った承太郎の腕に、彼女がしがみつくような形で腕を組んで、ガラス張りの向こう側を横切っていく。 「すごい美男美女……もしかしてモデルさんかしら?」 「いいなぁ~、彼氏の方、超イケメンじゃなかった?」 たかだか店の前を通りがかったというだけで、女性というのはよく見ているものだ。そんなことをぼんやりと思う一方で、花京院はどんどん気が遠くなっていくのを感じていた。急速に冷えて固まった心臓に、小さなひびが入って一気に砕けるような、そんな感覚。 ズクン、という鋭い痛みが走ったとき、花京院は手に持っていたトレイを、床に落としてしまった。 「ッ……!!」 「典香ちゃん!? なにしてんの!?」 不快な音を立てて割れるグラス。床に飛び散る緑色の液体とクリーム、透明な氷。そして、真っ赤なチェリー。 驚いた客が小さな悲鳴をあげ、どよめきが起こるなかヨシ子が駆け寄ってくる。 「典香ちゃんってば、大丈夫!? ちょ、顔が真っ青!!」 「あ、あの……ぼく」 突如として襲ってきた震えに、花京院は瞬きも忘れて床の惨状を見下ろした。 「ここは私がやっておくから、典香ちゃんは裏で休んでて」 「すみません……すみません、ヨシ子さん」 「いいから、ね」 花京院は後ずさり、どうにか頭だけ下げると、よろけながらも店の裏側に引っ込んだ。 *** 夕方。帰宅した花京院は、完全に虚脱状態に陥っていた。 「あら典明、おかえりなさい」 夕飯の支度をしている途中だったのか、エプロンの裾で両手を拭きながら、母が廊下に顔を出す。花京院はただいまも言わず、のろのろと自室へ続く階段をのぼった。 「典明? お母さんメールを送ったのだけれど、もしかして見てない?」 背中にかかる母の声に、かろうじて「見てないよ」と返し、自室の扉を開ける。やだわ、お醤油を買って来てほしかったのに、という母の声は、部屋に閉じこもってしまった花京院の耳に届くことはなかった。 花京院はベッドに鞄を放り投げると、縁に腰を下ろした。 夕闇に青く染まる室内は、空気が重く淀んでいる。ぼんやりと見つめた先で、壁に貼り付けられたアイドルの笑顔を見ても、花京院の心が動くことはなかった。 花京院は視線だけ壁に向けたまま、手探りで投げ出していた鞄を引き寄せて、中を探った。携帯電話を取り出して、ここ数日はずっと切ったままだった電源を入れる。画面には着信ありの文字が表示され、メールも数件、受信した。 それを見た途端、ギクリと身体が強張る。 着信は全て承太郎からのもので、メールは母からのものが一件に、つい先ほど送られたらしいヨシオからのものが一件。そして、残りは承太郎からのものだった。 花京院は咄嗟に画面から目を逸らし、着信に折り返すことも、メールを開くこともなく、携帯を閉じた。 あれから花京院は再びフロアに立つことができないまま、家に帰されてしまった。よほど酷い顔色をしていたようで、ヨシオには逆に悪かったと頭を下げられてしまう始末だった。 情けなくて、嫌になる。 だけどガラス越しに見たあの光景が、今も脳裏にこびりついて離れなかった。大きな薔薇の花束を持つ承太郎。彼の横顔はとても穏やかで、並んで歩く彼女の笑顔はとても幸せそうなものだった。 承太郎は、あの花束を彼女の母親にでも渡したのだろうか。あれほどスペックの高い男前がきて、娘はやらんなどと言える父親がいるはずはない。 終わったんだなぁと、改めて感じた。 承太郎と過ごしたこの三ヶ月あまりが、今では夢の中の出来事のように、遠く思える。あの幸福な日々がいつまでも続くと、どうして疑いもせず信じていたのだろう。 (短いリア充生活だったな……) 夜の公園では、あれほど必死で堪えていたのに。今は涙すら浮かばなかった。ただ、久しぶりにバイトをしたことで埋まったかに思えた心の穴が、より大きくぽっかりと広がってしまったような気がする。とても虚しい気分だった。 (一生呪うぞ、承太郎。君と、あの彼女に) いつまでも末永く、幸せになってくれという呪いを。 ←戻る ・ 次へ→
夜の公園でベンチに腰掛け、花京院はひとり泣きだしそうになるのを堪えていた。
これが失恋の痛みというやつか。今までも好きなアイドルの熱愛報道や、メイド喫茶のメイドさんが男連れで歩いているプライベートを目撃する度に、地の底まで落ち込むことはあったが、これはそんな比ではなかった。
花京院はツンと痛む鼻を大きくすすると、片手をポケットの中に捻じ込んだ。中にある鍵を取り出し、掌に乗せて眺める。
(返すのを、忘れてしまった……)
赤々としたチェリーのキーホルダーが、街灯の頼りない光を弾いて輝いていた。このキーホルダーも、承太郎がくれたものだった。好きだろと言って、照れ臭そうに。
初めて店を訪れたとき、チェリーが好きだと言った花京院の言葉を、彼はずっと覚えていてくれたのだ。そんなこと、言った本人ですら忘れていたのに。
また涙が込み上げそうになるのを堪えて、花京院は鍵をポケットにしまい込む。暗闇にぼんやりと浮かび上がる公園の遊具たちが、とても無機質で寂しく感じた。
そういえば、承太郎と思いを通じあわせたのも公園だった。彼が通っていた高校の近くにあった、ここよりも少し規模の小さな、寂れた公園。じわりと浮かぶ涙を、星のない空を見上げてどうにか抑え込む。
なんて女々しいのだろう。けれど生まれて初めての失恋に、花京院の心はズタボロだった。
承太郎が恋人らしいことをしようとしなかったのも、夜は時間通りにキッチリ帰そうとしていたのも、全ては彼女の存在があったからなのか。
(一番の大バカ野郎は、ぼくだ……)
すでに気持ちが冷めている相手に勢いだけで押しかけ、女装までして迫ってしまった。結局は拒まれて、失恋して、公園でひとり惨めに涙を堪えているなんて。まるでピエロではないか。
「やぁ~だ~も~、マジありえないからぁ~」
「なぁんだよぉ~、別にいいじゃん? なぁ~」
そのときである。傷心の花京院の耳に、何やら謎の男女がイチャつく声が聞こえてきた。
「ちょっとだけ、なぁ、マジ先っぽだけだし」
「ダメだってば~ここ公園なんだけど~?」
「そんなのマジどうでもいいって~」
声は、すぐ隣のベンチからしているようだった。チャラチャラした感じの男が、必死で頭の悪そうな女を口説いている。
「でもぉ、今日の下着あんまり可愛くないってゆうかぁ~」
「ぜ~んぜんいいし! マジそのまんまでいいし? マジ素材が生きてるって感じだし?」
「マジ必死なんだけど~マジウケるんだけど~」
一体この短時間のうち、何度マジと言えば気が済むのか。
「マジでぇ~、なぁマジマジ~」
「マジ~? 超マジなのぉ~?」
ついにはマジ語しか喋らなくなったところで、花京院は頭の中で血管が切れるような音を聞いた。人の初恋が玉砕したというときに、容赦なくイチャイチャしやがって……と、激しい憎しみに駆られた花京院は、次の瞬間。
「やかましいッ! ぼくはリア充が騒ぐとムカつくんだッ!!」
つい、誰かさんの台詞をアレンジしたような言い回しで、怒鳴りつけていた。
ふたりのリア充はビクンと肩を震わせて驚いていたが、男の方がすぐに花京院を指さして、声をあげた。
「あれ!? おまえ典明じゃん!」
「え?」
唐突に名前を呼ばれ、花京院はベンチで女と密着している男の顔をまじまじと見た。するとそこには。
「よ、ヨシオさん!?」
花京院がバイトをしていた男の娘喫茶『CHERRY BOYS』にいた先輩、ヨシ子ことヨシオの姿があった。
***
まさかマジ語を操っていたリア充の一人が、ヨシオだったとは。世間は狭いなと思いつつ、花京院はなぜかヨシオを挟む形で、彼らと同じベンチに三人で密着しながら腰かけていた。
「マジ久しぶりじゃん? 店辞めてからぜんぜん顔出さねーから、マジ死んだと思ってたっつーの」
「生きてますよ……一応は……」
瀕死だが。
「なになに、元気ないじゃん。彼女にでもフラれたん?」
「ウッ!!」
グサァッと胸に突き刺さる地雷を踏んでくるヨシオ。退屈そうに長い金髪の毛先をいじくりまわしていた彼女まで、チラリとこちらに目を向ける。痛い。リア充の視線が痛すぎる。
生まれてこのかた彼女なんていた試しはないし、破局相手は男性である。そして、ついさっき初めての恋が終わったばかりだ。幾重にも刺し貫く言葉の刃に、青褪めた表情で痛む胸を押さえた。
「うわマジかー。ごめん典明」
「いえ、大丈夫です……では、ぼくはこれで……」
HPが0に近い状態で、花京院は膝の上に重ねて置いていた、ふたつの鞄を抱えて立ちあがる。そのままおぼつかない足取りで立ち去ろうとしたとき、ヨシオが「ちょい待ち」と言って引き止めた。
「なんでしょう……」
「おまえさ、次の休み暇? 久しぶりに店来いよ。ちょっとは気分転換になっかもしんねーよ」
「気分転換、ですか」
「そ。メイド服持参で」
「お客さんとしてではなく、ということですか?」
なぜかドキリとして、花京院は腕に抱えているメイド服が入った鞄を、強く抱きしめる。
「そそ。一日くらいならいいっしょ? 店長も喜ぶぞ~」
「久しぶりに、か」
トートバッグを見下ろしながら、花京院はそれもいいかもしれない、と思った。このままでは最後に着たメイド服の思い出が、失恋の記憶で終わってしまうし、確かに気分転換でもしないことには、立ち直れそうにない。
承太郎と出会ったのもあの店だった。結局また思いだしてしまうかもしれないが、接客に追われれば、そんなことを考えている余裕も、きっとなくなるだろう。
「そうですよね。ありがとうございます、ヨシオさん」
花京院が少しだけホッとしたように笑顔を浮かべると、ヨシオもうんうんと頷きながら、ニカッと笑った。
***
日曜日。
花京院は典香として、『CHERRY BOYS』で接客に励んでいた。
店を辞めたのは春休みのことで、ごく最近のことではあるのだが、ずいぶん長く離れていたような気がする。店内は相変わらず込み合っていて、中には辞めたはずの典香を覚えていてくれる常連客もいたのが、嬉しかった。
(やっぱり楽しいな)
注文品をせっせとテーブルへ運びながら、花京院は改めて思った。オムライスやクリームソーダを頼まれると、ほんの少しだけチクリと胸が痛んだが、幼い頃から憧れていたメイド姿で堂々としていられるひと時は、胸に開いた大穴を優しく埋めてくれるような気がする。
たぶん、気休めでしかないのは分かっているけれど。それでもクオリティの高いメイド仲間たちは目に優しいし、こんな格好でもしない限り、普段は話すこともできない女性客と会話をするのも、楽しかった。
「典香ちゃん辞めたって聞いて、あたしたちすごく寂しかったのよ」
そんな中、ふたりの女性客がついているテーブルで、花京院がオムライスにケチャップでイラストを描いていると、それを嬉しそうに眺めていた客の一人が言った。
「本当ですか。ありがとうございます」
「ねえ、なんで辞めちゃったの? あ、もしかして彼女ができたから、そんな暇なくなったとか?」
「ッ、ゲホッ」
「やだぁ、典香ちゃんなんだから、彼女じゃなくて彼氏って言ってあげなくちゃダメでしょ」
もう一人がからかうように言ったその瞬間、逆さにしていたボトルから嫌な音がして、オムライスの上にケチャップが血飛沫のように降り注いだ。
「うわぁっ、す、すみませんッ! すぐ新しいものをお持ちしますので……ッ」
青褪めた花京院がすぐに皿に手をかけたが、ふたりは「いいよいいよ」と言って笑った。それよりも、花京院が分かりやすい反応を示したことの方に、彼女たちは喜んでいるようだった。
「ねえねえどんな子!? 可愛い系!? 綺麗系!?」
「あ、あの、いや、えーと」
「年上でしょ!? 絶対そう!」
(うわああああもうやめてくれーッ)
好奇心に目をギラギラとさせる彼女たちに、花京院は今にも卒倒しそうだった。このまま悪意なき精神攻撃を食らい続ければ、確実に立ち直れなくなる。失恋の傷を癒すために来たはずが、さらに悪化させては元も子もなかった。
「すみません、わたしはこれでッ」
花京院は慌ててふたりに頭を下げると、その場を逃げるように後にした。
(女性って本当、こういう話が好きだな……)
そんなことがあってから、花京院はふと嫌な事実に気がついてしまった。
和やかなムードの店内は、ほんの一握りのカップルを除いては、女性客だけで席が埋まっている。彼女たちはそのほとんどが、いわゆる『恋バナ』に花を咲かせているのだ。
恋人がどうのとか、バイト先のイケメンがどうのとか、友達が彼氏と別れたとか。今はその手の話をいっさい耳に入れたくない花京院としては、一歩進むごとにダメージを受ける毒沼を、延々と歩かされている気分だった。
気づけば気分転換ではなく、ただの精神修行と化している状況に、そろそろ悟りのひとつでも開く頃かという、そのとき。
「ねえちょっとアレ見て! あのカップル素敵じゃない!?」
一人の女性客が、いやによく通る声で店の外を指さしながら言った。それを合図に、客が一斉にガラス張りの向こう側に視線を向ける。つい釣られた花京院も、注文品のクリームソーダが乗ったトレイを持ったまま、店の外を見た。
そして、息を飲んだ。
「ッ!?」
そこには承太郎と、あのお団子頭の彼シャツ彼女がいた。
ふたりは店のすぐ前の通りを歩いている。赤やピンクの薔薇の花束を持った承太郎の腕に、彼女がしがみつくような形で腕を組んで、ガラス張りの向こう側を横切っていく。
「すごい美男美女……もしかしてモデルさんかしら?」
「いいなぁ~、彼氏の方、超イケメンじゃなかった?」
たかだか店の前を通りがかったというだけで、女性というのはよく見ているものだ。そんなことをぼんやりと思う一方で、花京院はどんどん気が遠くなっていくのを感じていた。急速に冷えて固まった心臓に、小さなひびが入って一気に砕けるような、そんな感覚。
ズクン、という鋭い痛みが走ったとき、花京院は手に持っていたトレイを、床に落としてしまった。
「ッ……!!」
「典香ちゃん!? なにしてんの!?」
不快な音を立てて割れるグラス。床に飛び散る緑色の液体とクリーム、透明な氷。そして、真っ赤なチェリー。
驚いた客が小さな悲鳴をあげ、どよめきが起こるなかヨシ子が駆け寄ってくる。
「典香ちゃんってば、大丈夫!? ちょ、顔が真っ青!!」
「あ、あの……ぼく」
突如として襲ってきた震えに、花京院は瞬きも忘れて床の惨状を見下ろした。
「ここは私がやっておくから、典香ちゃんは裏で休んでて」
「すみません……すみません、ヨシ子さん」
「いいから、ね」
花京院は後ずさり、どうにか頭だけ下げると、よろけながらも店の裏側に引っ込んだ。
***
夕方。帰宅した花京院は、完全に虚脱状態に陥っていた。
「あら典明、おかえりなさい」
夕飯の支度をしている途中だったのか、エプロンの裾で両手を拭きながら、母が廊下に顔を出す。花京院はただいまも言わず、のろのろと自室へ続く階段をのぼった。
「典明? お母さんメールを送ったのだけれど、もしかして見てない?」
背中にかかる母の声に、かろうじて「見てないよ」と返し、自室の扉を開ける。やだわ、お醤油を買って来てほしかったのに、という母の声は、部屋に閉じこもってしまった花京院の耳に届くことはなかった。
花京院はベッドに鞄を放り投げると、縁に腰を下ろした。
夕闇に青く染まる室内は、空気が重く淀んでいる。ぼんやりと見つめた先で、壁に貼り付けられたアイドルの笑顔を見ても、花京院の心が動くことはなかった。
花京院は視線だけ壁に向けたまま、手探りで投げ出していた鞄を引き寄せて、中を探った。携帯電話を取り出して、ここ数日はずっと切ったままだった電源を入れる。画面には着信ありの文字が表示され、メールも数件、受信した。
それを見た途端、ギクリと身体が強張る。
着信は全て承太郎からのもので、メールは母からのものが一件に、つい先ほど送られたらしいヨシオからのものが一件。そして、残りは承太郎からのものだった。
花京院は咄嗟に画面から目を逸らし、着信に折り返すことも、メールを開くこともなく、携帯を閉じた。
あれから花京院は再びフロアに立つことができないまま、家に帰されてしまった。よほど酷い顔色をしていたようで、ヨシオには逆に悪かったと頭を下げられてしまう始末だった。
情けなくて、嫌になる。
だけどガラス越しに見たあの光景が、今も脳裏にこびりついて離れなかった。大きな薔薇の花束を持つ承太郎。彼の横顔はとても穏やかで、並んで歩く彼女の笑顔はとても幸せそうなものだった。
承太郎は、あの花束を彼女の母親にでも渡したのだろうか。あれほどスペックの高い男前がきて、娘はやらんなどと言える父親がいるはずはない。
終わったんだなぁと、改めて感じた。
承太郎と過ごしたこの三ヶ月あまりが、今では夢の中の出来事のように、遠く思える。あの幸福な日々がいつまでも続くと、どうして疑いもせず信じていたのだろう。
(短いリア充生活だったな……)
夜の公園では、あれほど必死で堪えていたのに。今は涙すら浮かばなかった。ただ、久しぶりにバイトをしたことで埋まったかに思えた心の穴が、より大きくぽっかりと広がってしまったような気がする。とても虚しい気分だった。
(一生呪うぞ、承太郎。君と、あの彼女に)
いつまでも末永く、幸せになってくれという呪いを。
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