2025/09/14 Sun 02 「いいか来主。この一週間は、甲洋がお前の保護者だ。彼の言うことには素直に従うこと。絶対に迷惑だけはかけるな。わかるな?」 「お土産買ってくるから。いい子で待ってな」 最後にそう言い聞かせ、午後の船で一騎と総士は旅立った。 彼らの見送りは休憩から戻ってきた真矢と、図ったかのようなタイミングでやってきた西尾暉のふたりに任せた。操も一緒に行きたがったが、土壇場でまた駄々をこねるのが目に見えていたので、今日から彼が生活するスペースを案内したいからとかなんとか、適当なことを言って納得させた。 二階には風呂場とトイレと手狭ながらダイニングキッチンがあり、寝室は二部屋ある。ひとつは甲洋の部屋で、もうひとつは両親が使っていた部屋だ。 「この部屋を好きに使って。クローゼットは空だから、服でもなんでも突っ込んじゃっていいよ。食事は下で、まかないが主になるかな。アレルギーとか、嫌いな食べ物はある?」 一週間分の操の衣類などが入ったカバンを、ベッドに置きながら問いかける。彼には両親の寝室を使ってもらうしかないため、ベッドはダブルサイズだ。 操は扉の前に立ち尽くしたままそっぽを向いている。質問に答えないどころか、荷物を運んでもらってもこの態度だ。甲洋は胃がキリキリと痛みだすのを感じた。 「来主、気に入らないのは分かるけど、一週間だけだから。俺はなるべく干渉しないようにするし、なんでも好きにしたらいい。遠慮はいらないよ」 間違っても剣のある言い方にならないよう、穏やかな声音を心がけながら言った。 操は甲洋を見ようともしないまま、やっぱりなにも答えない。むっと口をへの字に曲げて、不機嫌そうに眉間に皺を刻んでいる様子に、息が詰まりそうだった。 最初からまともにコミュニケーションがとれるとは思っていなかったが、早々に諦めて切り上げようとしたとき、操がようやく甲洋にチラリと視線を向けて口を開いた。 「……ねぇ、なんで引き受けたの?」 どこか責めるような物言いだった。言葉を発したら発したで、彼との対話は甲洋にとって苦痛でしかない。こうして同じ空間にいることも。けれど貼りつけた笑みを崩さないまま、無難に返す。 「なんでって。総士から頼まれれば、嫌とは言えないだろ? 大事な友達なんだから」 「友達なら、どんなに嫌なことでも我慢するの?」 「え……?」 「おれ、好きじゃないって言ったんだよ。君のこと。なんでそんな平気そうな顔して笑ってられるの?」 その問いかけに、心臓が止まるかと思った。けれど甲洋が不随意運動のように染みついた笑顔を崩すことはなかった。 「嫌じゃないさ。都合が悪ければ断ってたし、俺は別に気にしてないから」 「……ふぅん」 操は興味なさげに目を逸らすと、ベッドまでズカズカとやってきて荷解きをはじめる。その様子を見下ろしながら、甲洋の背中には冷たい汗が伝っていた。操が目を逸らさないままでいたら、この空気に耐えきれず部屋を飛びだしていたかもしれない。 彼は甲洋が嫌々引き受けたことに気がついている。あるいはもっとその先。奥の奥まで見透かされているのではないか。そんな不安に足元が揺らぎそうになる。 半分は嘘。だけど半分は本当だ。操の言葉に深く傷つきながら、けれど友達を助けたいという気持ちも確かにある。だがその一方で、甲洋を動かしているものの大半は自分の心を守るためのものでしかない。 しかしそれは決して他人に知られてはいけない、自分自身ですらどうにもできない甲洋の暗部だった。 (大丈夫。大丈夫だ。知られてなんかない。俺は、うまくやれているはずだ) 何度も繰り返し、自分に言い聞かせる。そうしなければどうにかなってしまいそうだった。 操は鞄の中から日用品や勉強道具などをとりだしている。するとその中に混ざって、革製のブックカバーがかけられた厚みのある本が一冊、姿を現した。その本から、スルリと一枚の紙切れが滑り落ちる。 「あっ」 操が短く声をあげる。白い紙は甲洋の足元にふわりと舞い降りた。 「これ、写真?」 光沢のある紙質から、どうやらそれは裏返った状態の写真であることが見てとれた。甲洋が拾い上げようとするより先に、操が引ったくるようにして写真を掴み取る。 「触らないで!」 ちょうど表面を胸に押しつけ、操は焦った様子で甲洋を睨んだ。 「用がないなら、もう行ってよ!」 「ああ、うん。ごめん」 反射的に謝罪した甲洋に背を向け、操はこれ以上話しかけるなといわんばかりの刺々しい空気を放った。どこにもとりつく島がない。 甲洋はそっと溜息をもらし、静かに部屋を後にする。 (……俺だって、お前が嫌いだよ) 気が遠くなるほど長い一週間が、今この瞬間から始まろうとしていた。 * 「いらない」 暉特製のカレーとポテトサラダ、デザートにはイチゴのショートケーキ。 テーブルの上に並ぶそれらを見て、操はぶっすりとした表情のままそう言った。 「食べなきゃ明日の朝までもたないよ」 「いらないったらいらない。食べたくない」 一応は椅子に腰掛けていた操は、テーブルから視線を外すと席を立つ。 「来主」 咎めるように名を呼ぶと、彼は文句があるのかとでも言いたげに甲洋を見上げた。 「お前、カレー好きなんだろ? せっかく暉が」 「おれは一騎カレーが好きなの! カレーならなんでもいいってわけじゃない」 それに、と操は俯きながら続けた。 「食欲ないんだ。だから、いらない」 これがただの我儘だということはすぐに分かった。あるいは当てつけだろうか。 そんなことをしたって総士たちが不在である事実に変わりはない。あのふたりは今ごろ宿に到着して、一息ついている頃だろう。落ち着いたら電話をよこすと言っていたが、今のところその気配はない。 操がしようとしているのは、ハンガーストライキのようなものだ。食わずして不満を訴えている。正直どうでもいいというのが甲洋の本音だった。食べたくないなら食べなきゃいい。どうせ空腹に耐えかねれば、いずれは黙ってたって食うだろう。 しかし甲洋はそれをそのまま言葉にはせず、心配する素振りでそっと小さな息をもらす。 「わかった。なら無理に食べなくていいよ。お腹が空いたら言ってくれればいいから」 当たり障りのない言葉選びをしたつもりだった。けれど操はきつく甲洋を睨みつけ、それからまた俯いた。 「こういうとき、一騎ならすぐに果物を剥いてくれるのに。桃とか、リンゴとか」 「……は?」 「総士は遠見先生のところに行こうって言うよ。なにか病気だったりしたら大変だからって」 操の言葉に、甲洋はただ戸惑った。彼は総士たちと甲洋を比べて、その至らなさを批難しているのだ。 あのふたりが普段からこの少年にどう接しているのかなんて、そんなことは甲洋の知ったことではない。あまりの理不尽さに、怒りを通り越して閉口してしまう。 (少しどころの話じゃないぞ、総士……いくらなんでも、甘やかしすぎたんじゃないのか?) 彼がどれだけ大切にされているかは理解できたが、それが当たり前になってしまっている少年の振る舞いには、さすがの甲洋も本気で頭を抱えたくなった。 「来主、してほしいことがあるなら直接言って。俺はお前のこと、まだよく知らないんだ」 「……一騎と総士に会いたい。家に帰りたい」 「それは無理だよ。頼むから、少しのあいだ我慢して」 甲洋は宥めすかすようにそう言って、操の肩に手を置いた。けれどすぐにその手をぴしゃりと叩き落とされてしまう。 「ッ!」 「もういい! おれのことはほっといて!」 操は甲洋から逃げるようにその場から離れ、二階へ続く階段へと駆けていく。乱暴な足取りで駆け上がる音を、甲洋はただ呆然としながら聞いていた。 叩き落とされた手の甲が、やけに痛んで仕方ない。どろりとした何かが内側から溢れてきそうな感覚に息苦しさを覚えて、思わずその手で心臓を押さえた。 激しい拒絶に、もう何度目か分からないくらい打ちのめされている。 「しょうがないねぇ」 気づくと真矢が隣にいた。彼女は木製のトレイに手付かずの料理をひとつひとつ乗せ、困り眉で甲洋に笑いかけた。 「操くん、皆城くんと一騎くんにべったりだったから。置いて行かれるなんてこと、今までなかったんだよね」 「……あいつが来たのって二年も前なんだろ? 総士の出張って、これが初めて?」 「うぅん。そんなことないよ」 真矢がゆるゆると首を振る。甲洋もまた彼女に釣られて眉をハの字にしながら微笑んだ。 「ああ、一騎がくっついて行ったのが、初めてなんだな」 「そ。どっちかは必ず傍にいたの。でも、今回はふたりして行っちゃった。春日井くんが帰ってきたからかもね」 「どういう意味さ」 「甘えてるんだよ、春日井くんに。損な役回りだねぇ」 真矢は甘くくすぐるような声でいたずらっぽく笑った。 けれどすぐに「でも」と続けながら表情を曇らせると、階段の方へ目を向ける。 「いくらなんでも、ちょっと様子が変かも。操くん」 「変?」 「うん……なんか、わざと春日井くんが嫌がる言葉とか、態度を選んでるみたいな……」 それはそうだ。彼の振る舞いや言動は、あきらかに甲洋へのあてつけでしかない。 思わず肩をすくめ、力なく笑った。 「……俺はあまり好かれてないみたいだからね」 「そうかなぁ」 彼女はなぜか腑に落ちないといった様子で首を傾げた。 「小さい頃、ああいう子いなかった? 気になる子にわざと意地悪したり、嫌われるようなこと言ったりする男の子。私もされたことあるんだ。でも、あとから考えるとそうだったのかなって」 「……遠見には、あれがそう見えるの?」 甲洋はきょとんとしたあと、苦笑した。その仮説は流石にどうだろうか。話がまるで違う次元に飛躍しているとしか思えない。 「わかんないけど、なんか思いだしちゃったんだもん。そういう子いたっけなって」 彼女は非常に鋭い勘の持ち主である。真矢が直感的に察した物事は、ほとんどの場合実情とよく合致するのは知っていた。けれどこの件に関してだけは、彼女の希望的観測が多分に含まれているように思えてならない。 現に発言した本人も「そっか、違うかぁ」と呟いて自己完結している。 「そうだったら、ちょっと面白かったんだけどね」 甲洋は茶化すように言って、そんな彼女にフォローを入れた。 「あはは、だよねぇ。でも、やっぱり不思議。だって操くん、ちょっと前、私に春日井くんのこと──」 そのとき、カラン、というドアベルの音がして扉が開いた。 「よ! やってる?」 顔を出したのは両親の頃からよく店に来ていた常連客の男性だった。 「あ、はーい! やってまーす!」 真矢は慌ててトレイを持ち上げ、それから甲洋を見てにっこり笑うと 「これ、一応ラップして置いておくね。操くんてね、あんなに細いのにすっごい食いしん坊なんだよ。だから本当はお腹ペコペコだと思うんだ」 と言って、カウンターの方へと消えていった。 訪れた客を席に案内し、二三会話をしながら、甲洋は真矢が言いかけていた言葉の先が気になって仕方ない。 そういえば一騎も、あれと似たようなニュアンスのことを言いかけてはいなかったか。あのとき遮ったのは操の「好きじゃないからだよ」という、苛立った声だった。 思いだして、またやりきれない気持ちになる。 これでまだ一日目だ。総士たちの旅の日程は七泊八日である。先はあまりにも長かった。 * 真夜中、板張りの階段がかすかに軋む音がした。 ベッドの背もたれに背を預け、まんじりともせず本のページをめくっていた甲洋は、ふと顔をあげると廊下の方へ耳を澄ませる。 その音は下へと向かって遠ざかり、やがて何事もなかったように静寂が訪れた。 「来主……?」 まさかとは思うが、こっそり家に帰るつもりでいるのではないか。彼ならやりかねないような気がして、甲洋は本を閉じるとベッドから抜けだし、静かに扉をあけて階段をおりた。 とっくに営業時間を過ぎている店内は薄暗く、当然人の姿はない。カウンターの方から溢れる照明に、テーブルに伏せられた椅子がぼんやりと浮かび上がっているだけだった。 甲洋は足音を立てないように下までおりると、カタカタと音のするほうを覗き込んだ。そこには冷蔵庫の扉を全開にして、中身を物色している操の背中がある。 (……まったく、だから言わんこっちゃない) 空腹に耐えかねて眠れなくなってしまったのだろう。結局、ハンストなど長くはもたないのだ。ましてや食べ盛りの十六歳男子では、一日三食だって物足りないくらいなのだから。 それにしたって一晩も続かないあたり、少し情けない気はするが。 「駄目だよ、来主」 「わっ!?」 ほっと息をつきながら声をかけると、操が悲鳴をあげながらビクリと肩を震わせた。慌ててこちらを振り向き、背中で冷蔵庫の扉を閉める。 甲洋は条件反射のように緩く口角を持ちあげた。 「それは店の冷蔵庫だから、開けるなら二階のにして」 イタズラの現場を押さえられた子供の顔で、操は肩をすくめていた。けれどすぐに開き直ったのか、つまらなそうに曇らせた表情を向けてくる。 「ビックリさせないでよ。別にいいでしょ。なんでも好きにしていいって言ったくせに」 「言ったけど、そこにはお客さんに出すものしか入ってないよ。お前の飯は二階の冷蔵庫。あっためてやるから、おいで」 「……いらない。君のせいで食べたくなくなった」 操は悪びれもせずぷいと顔を背けると、脇をすり抜けてキッチンから出ていこうとする。すれ違いざま、甲洋は咄嗟にその手首を掴んで引き止めていた。 「な、なに?」 操はやけに驚いて、目を丸くしたあとキッと睨みつけてくる。 自分でもなぜわざわざ引き止めてしまったのか分からない。彼は甲洋がなにを言ったって、どうせ聞きやしないのだから。 だけどふと、釣り上がった瞳を見下ろしながら甲洋は思う。 ここにいるのが総士だったなら、あるいは一騎だったなら、彼の瞳は全く違う色を放つのだろう。よく笑うやつだと聞いていたのに、甲洋は操が笑った顔をまだ一度も見たことがない。 (どうして俺だけ?) 疑問はずっと渦を巻いていた。どうしてこいつは俺だけをこうも嫌うのかと。 相性の問題。水と油。そういう人間もいるのだと割り切れたら、甲洋は今までだってずっと楽に生きてこられたはずだった。 だけどそれができなくて、どうしてもできなくて、恐ろしくて。人当たりのいい笑顔と態度で他人からの印象を操作しなければ、ここまでやってくることはできなかった。 唯一、どうにもできなかったのは両親だけだ。どれだけいい成績をとっても、家の手伝いをしても、欲しいものを我慢しても、彼らは甲洋を一度だって見ようとはしなかった。一欠片の情もかけてはくれなかった。無関心だった。 彼らはただ店の後継者が欲しかっただけで、甲洋を我が子としては見ていなかったのだと思う。都合のいい人形と同じだ。きっと人として見られてすらいなかった。 他の誰でもない。最も愛してほしかった人たちの中に、甲洋はどこにもいなかった。 そしていつしか甲洋はその存在価値すら失って、形ばかりの家族は離散した。 「ねぇ、用がないなら離してよ」 なにも言おうとしない甲洋に、操はますます不機嫌そうな顔をした。 彼の手首を掴んでいるのは、さっき叩き落とされた方と同じ手だ。痛い。痛い。どろどろとした汚泥のような何かが、甲洋の内側を浸食していく。痛い。苦しい。目眩がした。 (なんで俺だけ!) ──どこにも居場所がないのだろう? 「……お前さ、なにか俺に言うことないの」 ぷつりと、なにかが切れてしまったような感覚を覚えていた。 脆い心の膜を突き破って溢れ出したのは、暗く冷たい怒りの念だった。それが甲洋をどこか投げやりな気持ちにさせてしまう。 どうでもいい。最初からそうだった。こいつのことなど、どうでもいいと思っていた。 だったらどう扱おうが、もう勝手じゃないか。だって彼は、絶対に甲洋の思い通りにはならない。こいつも、あのふたりと同じなんだと。 不穏な空気を肌で感じとった操が、肩を強張らせている。訝しげに見上げてくるその瞳に映る自分が、面をかぶったように感情を失っているのが分かった。すると、ずっと強気だった眼差しに少しずつ不安の色が滲んでくる。いいなと思った。その目は、凄くいい。 「ッ、ぁ!」 次の瞬間、甲洋は掴んでいた手を強く引っぱると、階段下の壁に向かってその身体を叩きつけていた。背中を強か打ちつけた少年が、くぐもった悲鳴をあげる。 ぎゅうと目を閉じていた操が瞳を見開くのと同時に、壁に右の手のひらを打ちつけた。操の顔のすぐ斜め上だ。バン、という暴力的な音が空気を震わせ、一瞬で辺りを凍りつかせる。 驚愕して息をつめ、操は甲洋を凝視した。顔面は蒼白で、なにが起きているのか理解できていない様子だった。胸に押しつけるようにして、両手を握りしめている。 「──ごめんなさいだろ?」 「ッ、ぇ……?」 「生意気な態度をとってごめんなさい。ご飯を食べなくてごめんなさい。こそ泥みたいに冷蔵庫を漁ってごめんなさい。そのくらい、幼稚園児だって分かるぜ」 存分に侮蔑を込めた瞳で見下ろす。それは甲洋を軽視していた少年のプライドを傷つけるには、十分すぎるほどの嘲罵だった。豹変した甲洋に操は唖然としていたが、すぐに表情を一変させて、吊り上げた眉できつく睨みつけてくる。 「……こんなことして、いいの?」 操は声を震わせながら言った。 「総士に言いつけてやるから。こんな乱暴なこと、総士と一騎が知ったら絶対に許さないよ。だってこれって虐待でしょ?」 不自然に強ばる声から、彼が虚勢をはっているにすぎないことはすぐに分かった。 甲洋は鼻で笑うと、左手で操の顎を鷲掴む。皮膚に爪が食い込むほどの強さで固定して、無理やり上向かせた。 「痛っ、ぁ……!」 操の両手が咄嗟に甲洋の左手首にかかる。彼もまた皮膚に爪を立てながら、それを引き剥がそうとしてもがいた。そうすればするほど、甲洋は指先にギリギリと力を込めた。 「──言いたいなら言えばいい」 カウンターから漏れだす光を背に、甲洋の表情はひどく翳っていた。底なし沼のように虚ろな瞳に、絡めとられた操がぶるりと戦慄いたのが分かる。 甲洋を形作っていた装甲は、その全てがバラバラに砕け散っていた。最初にひびを入れたのはこの少年だ。液体にさらされた氷が鋭い音を立てるみたいに、その中心部には冷然とした素顔だけが隠されていた。 「自分勝手で我儘な悪ガキが、普段は温厚で優しい大人を怒らせた。それだけの話だよ。もちろん、お前をここまで甘やかした総士たちにも責任はある。お前のために、俺なんかに何度も頭を下げるだろうさ」 「っ、ぅ……」 小さく呻きながら、操の表情がくしゃりと歪む。 分が悪いことくらいは理解できているのか、彼はすっかり気圧されていた。大きな瞳にはみるみるうちに透明な膜がはり、今にも零れ落ちそうになっているのを見て、甲洋は激しい喜悦に胸が沸きたつのを感じていた。 「俺がこんなことするなんて誰が信じられる? お前を乱暴に扱って、こんなふうに痛みを与えて? 散々好き勝手に振る舞っておいて、悪びれもしないお前がなにを言ったところで」 甲洋は操の耳元にそっと唇を寄せた。 「誰がそれを信じると思う?」 吐息まじりに紡いだ声を、耳の穴にねっとりと吹き込んでやる。 甲洋には実績があるのだ。好い顔をして誰にでも優しく振るまって、善人の皮をかぶり続けてきた揺るぎない実績が。 操はビクンと身を震わせて首を左右に振ろうとしたが、顎を固定されているせいでままならない。ただ絞り出すように、か細く喉を震わせるだけだった。 「一騎と総士は、信じてくれるよ……おれの話、ちゃんと。だって、優しいもん。おれの言うこと、なんでも聞いてくれるし……いい子だって、いつも、褒めてくれるもん……!」 「いい子? お前が?」 甲洋は「ふぅん」と言うと皮肉を込めてせせら笑った。 「俺の言うことには素直に従うこと。絶対に迷惑はかけないこと。いい子で待ってること。お前の大好きな一騎と総士が言ってたことだよ。──ひとつも守れなかったな、お前」 操はギクリとした表情で青褪めるだけだった。 甲洋はわずかに手の力を緩めると、噛み締められた唇を親指でそっとなぞってやる。 楽しいと感じていた。人を追いつめ、じわじわと逃げ場を失っていくのを眺めるのは、とても楽しい。もっとその反応を見てみたいと思った。 「総士に言いつけてやろうか?」 わざとらしく、そして明確な悪意をもって、さっき彼がしたのと同じ脅し文句をかけてやる。 「愛想を尽かして、帰ってこなくなるかもね。ふたりとも」 「ぇ……?」 「捨てられたってしょうがないよな。だって来主は悪い子だから」 「う、嘘……? やだ、そんなのやだ! 総士がっ……一騎が、帰って来ないなんて……いやだ! ねぇお願い! 謝るから……だから、言わないで……」 想像してしまったのか、操は引きつった声をあげながら涙を零した。甲洋の手首にかかっていた両手が、いつしか引き剥がすためではなく、縋るためのものになっている。 完全に空気に飲まれてしまった未熟な心は、面白いほど簡単に甲洋が吐きだす言葉の毒に縛られる。気持ちがよかった。あの生意気だった来主操が泣いている。ひくひくと震えながら、大粒の涙を流しているのだ。 (なんだ、こんなに簡単に折れるんだ) そのあっけなさに満足しながら、そんな彼が今度はひどく哀れに思えてきた。優しくしてやりたいという対極の気持ちが込み上げ、甲洋はふわりと微笑みながらその涙を拭ってやった。 「そんなに泣いたら目が腫れるよ。ああそうだ、来主は腹が減ってるんだったね」 顎を開放し、爪痕が残る頬をゆるゆると撫でさする。可哀想に。赤い痕がくっきりと残ってしまっている。 「泣くのは終わり。さあおいで、ケーキもちゃんととってあるから」 ←戻る ・ 次へ→
「いいか来主。この一週間は、甲洋がお前の保護者だ。彼の言うことには素直に従うこと。絶対に迷惑だけはかけるな。わかるな?」
「お土産買ってくるから。いい子で待ってな」
最後にそう言い聞かせ、午後の船で一騎と総士は旅立った。
彼らの見送りは休憩から戻ってきた真矢と、図ったかのようなタイミングでやってきた西尾暉のふたりに任せた。操も一緒に行きたがったが、土壇場でまた駄々をこねるのが目に見えていたので、今日から彼が生活するスペースを案内したいからとかなんとか、適当なことを言って納得させた。
二階には風呂場とトイレと手狭ながらダイニングキッチンがあり、寝室は二部屋ある。ひとつは甲洋の部屋で、もうひとつは両親が使っていた部屋だ。
「この部屋を好きに使って。クローゼットは空だから、服でもなんでも突っ込んじゃっていいよ。食事は下で、まかないが主になるかな。アレルギーとか、嫌いな食べ物はある?」
一週間分の操の衣類などが入ったカバンを、ベッドに置きながら問いかける。彼には両親の寝室を使ってもらうしかないため、ベッドはダブルサイズだ。
操は扉の前に立ち尽くしたままそっぽを向いている。質問に答えないどころか、荷物を運んでもらってもこの態度だ。甲洋は胃がキリキリと痛みだすのを感じた。
「来主、気に入らないのは分かるけど、一週間だけだから。俺はなるべく干渉しないようにするし、なんでも好きにしたらいい。遠慮はいらないよ」
間違っても剣のある言い方にならないよう、穏やかな声音を心がけながら言った。
操は甲洋を見ようともしないまま、やっぱりなにも答えない。むっと口をへの字に曲げて、不機嫌そうに眉間に皺を刻んでいる様子に、息が詰まりそうだった。
最初からまともにコミュニケーションがとれるとは思っていなかったが、早々に諦めて切り上げようとしたとき、操がようやく甲洋にチラリと視線を向けて口を開いた。
「……ねぇ、なんで引き受けたの?」
どこか責めるような物言いだった。言葉を発したら発したで、彼との対話は甲洋にとって苦痛でしかない。こうして同じ空間にいることも。けれど貼りつけた笑みを崩さないまま、無難に返す。
「なんでって。総士から頼まれれば、嫌とは言えないだろ? 大事な友達なんだから」
「友達なら、どんなに嫌なことでも我慢するの?」
「え……?」
「おれ、好きじゃないって言ったんだよ。君のこと。なんでそんな平気そうな顔して笑ってられるの?」
その問いかけに、心臓が止まるかと思った。けれど甲洋が不随意運動のように染みついた笑顔を崩すことはなかった。
「嫌じゃないさ。都合が悪ければ断ってたし、俺は別に気にしてないから」
「……ふぅん」
操は興味なさげに目を逸らすと、ベッドまでズカズカとやってきて荷解きをはじめる。その様子を見下ろしながら、甲洋の背中には冷たい汗が伝っていた。操が目を逸らさないままでいたら、この空気に耐えきれず部屋を飛びだしていたかもしれない。
彼は甲洋が嫌々引き受けたことに気がついている。あるいはもっとその先。奥の奥まで見透かされているのではないか。そんな不安に足元が揺らぎそうになる。
半分は嘘。だけど半分は本当だ。操の言葉に深く傷つきながら、けれど友達を助けたいという気持ちも確かにある。だがその一方で、甲洋を動かしているものの大半は自分の心を守るためのものでしかない。
しかしそれは決して他人に知られてはいけない、自分自身ですらどうにもできない甲洋の暗部だった。
(大丈夫。大丈夫だ。知られてなんかない。俺は、うまくやれているはずだ)
何度も繰り返し、自分に言い聞かせる。そうしなければどうにかなってしまいそうだった。
操は鞄の中から日用品や勉強道具などをとりだしている。するとその中に混ざって、革製のブックカバーがかけられた厚みのある本が一冊、姿を現した。その本から、スルリと一枚の紙切れが滑り落ちる。
「あっ」
操が短く声をあげる。白い紙は甲洋の足元にふわりと舞い降りた。
「これ、写真?」
光沢のある紙質から、どうやらそれは裏返った状態の写真であることが見てとれた。甲洋が拾い上げようとするより先に、操が引ったくるようにして写真を掴み取る。
「触らないで!」
ちょうど表面を胸に押しつけ、操は焦った様子で甲洋を睨んだ。
「用がないなら、もう行ってよ!」
「ああ、うん。ごめん」
反射的に謝罪した甲洋に背を向け、操はこれ以上話しかけるなといわんばかりの刺々しい空気を放った。どこにもとりつく島がない。
甲洋はそっと溜息をもらし、静かに部屋を後にする。
(……俺だって、お前が嫌いだよ)
気が遠くなるほど長い一週間が、今この瞬間から始まろうとしていた。
*
「いらない」
暉特製のカレーとポテトサラダ、デザートにはイチゴのショートケーキ。
テーブルの上に並ぶそれらを見て、操はぶっすりとした表情のままそう言った。
「食べなきゃ明日の朝までもたないよ」
「いらないったらいらない。食べたくない」
一応は椅子に腰掛けていた操は、テーブルから視線を外すと席を立つ。
「来主」
咎めるように名を呼ぶと、彼は文句があるのかとでも言いたげに甲洋を見上げた。
「お前、カレー好きなんだろ? せっかく暉が」
「おれは一騎カレーが好きなの! カレーならなんでもいいってわけじゃない」
それに、と操は俯きながら続けた。
「食欲ないんだ。だから、いらない」
これがただの我儘だということはすぐに分かった。あるいは当てつけだろうか。
そんなことをしたって総士たちが不在である事実に変わりはない。あのふたりは今ごろ宿に到着して、一息ついている頃だろう。落ち着いたら電話をよこすと言っていたが、今のところその気配はない。
操がしようとしているのは、ハンガーストライキのようなものだ。食わずして不満を訴えている。正直どうでもいいというのが甲洋の本音だった。食べたくないなら食べなきゃいい。どうせ空腹に耐えかねれば、いずれは黙ってたって食うだろう。
しかし甲洋はそれをそのまま言葉にはせず、心配する素振りでそっと小さな息をもらす。
「わかった。なら無理に食べなくていいよ。お腹が空いたら言ってくれればいいから」
当たり障りのない言葉選びをしたつもりだった。けれど操はきつく甲洋を睨みつけ、それからまた俯いた。
「こういうとき、一騎ならすぐに果物を剥いてくれるのに。桃とか、リンゴとか」
「……は?」
「総士は遠見先生のところに行こうって言うよ。なにか病気だったりしたら大変だからって」
操の言葉に、甲洋はただ戸惑った。彼は総士たちと甲洋を比べて、その至らなさを批難しているのだ。
あのふたりが普段からこの少年にどう接しているのかなんて、そんなことは甲洋の知ったことではない。あまりの理不尽さに、怒りを通り越して閉口してしまう。
(少しどころの話じゃないぞ、総士……いくらなんでも、甘やかしすぎたんじゃないのか?)
彼がどれだけ大切にされているかは理解できたが、それが当たり前になってしまっている少年の振る舞いには、さすがの甲洋も本気で頭を抱えたくなった。
「来主、してほしいことがあるなら直接言って。俺はお前のこと、まだよく知らないんだ」
「……一騎と総士に会いたい。家に帰りたい」
「それは無理だよ。頼むから、少しのあいだ我慢して」
甲洋は宥めすかすようにそう言って、操の肩に手を置いた。けれどすぐにその手をぴしゃりと叩き落とされてしまう。
「ッ!」
「もういい! おれのことはほっといて!」
操は甲洋から逃げるようにその場から離れ、二階へ続く階段へと駆けていく。乱暴な足取りで駆け上がる音を、甲洋はただ呆然としながら聞いていた。
叩き落とされた手の甲が、やけに痛んで仕方ない。どろりとした何かが内側から溢れてきそうな感覚に息苦しさを覚えて、思わずその手で心臓を押さえた。
激しい拒絶に、もう何度目か分からないくらい打ちのめされている。
「しょうがないねぇ」
気づくと真矢が隣にいた。彼女は木製のトレイに手付かずの料理をひとつひとつ乗せ、困り眉で甲洋に笑いかけた。
「操くん、皆城くんと一騎くんにべったりだったから。置いて行かれるなんてこと、今までなかったんだよね」
「……あいつが来たのって二年も前なんだろ? 総士の出張って、これが初めて?」
「うぅん。そんなことないよ」
真矢がゆるゆると首を振る。甲洋もまた彼女に釣られて眉をハの字にしながら微笑んだ。
「ああ、一騎がくっついて行ったのが、初めてなんだな」
「そ。どっちかは必ず傍にいたの。でも、今回はふたりして行っちゃった。春日井くんが帰ってきたからかもね」
「どういう意味さ」
「甘えてるんだよ、春日井くんに。損な役回りだねぇ」
真矢は甘くくすぐるような声でいたずらっぽく笑った。
けれどすぐに「でも」と続けながら表情を曇らせると、階段の方へ目を向ける。
「いくらなんでも、ちょっと様子が変かも。操くん」
「変?」
「うん……なんか、わざと春日井くんが嫌がる言葉とか、態度を選んでるみたいな……」
それはそうだ。彼の振る舞いや言動は、あきらかに甲洋へのあてつけでしかない。
思わず肩をすくめ、力なく笑った。
「……俺はあまり好かれてないみたいだからね」
「そうかなぁ」
彼女はなぜか腑に落ちないといった様子で首を傾げた。
「小さい頃、ああいう子いなかった? 気になる子にわざと意地悪したり、嫌われるようなこと言ったりする男の子。私もされたことあるんだ。でも、あとから考えるとそうだったのかなって」
「……遠見には、あれがそう見えるの?」
甲洋はきょとんとしたあと、苦笑した。その仮説は流石にどうだろうか。話がまるで違う次元に飛躍しているとしか思えない。
「わかんないけど、なんか思いだしちゃったんだもん。そういう子いたっけなって」
彼女は非常に鋭い勘の持ち主である。真矢が直感的に察した物事は、ほとんどの場合実情とよく合致するのは知っていた。けれどこの件に関してだけは、彼女の希望的観測が多分に含まれているように思えてならない。
現に発言した本人も「そっか、違うかぁ」と呟いて自己完結している。
「そうだったら、ちょっと面白かったんだけどね」
甲洋は茶化すように言って、そんな彼女にフォローを入れた。
「あはは、だよねぇ。でも、やっぱり不思議。だって操くん、ちょっと前、私に春日井くんのこと──」
そのとき、カラン、というドアベルの音がして扉が開いた。
「よ! やってる?」
顔を出したのは両親の頃からよく店に来ていた常連客の男性だった。
「あ、はーい! やってまーす!」
真矢は慌ててトレイを持ち上げ、それから甲洋を見てにっこり笑うと
「これ、一応ラップして置いておくね。操くんてね、あんなに細いのにすっごい食いしん坊なんだよ。だから本当はお腹ペコペコだと思うんだ」
と言って、カウンターの方へと消えていった。
訪れた客を席に案内し、二三会話をしながら、甲洋は真矢が言いかけていた言葉の先が気になって仕方ない。
そういえば一騎も、あれと似たようなニュアンスのことを言いかけてはいなかったか。あのとき遮ったのは操の「好きじゃないからだよ」という、苛立った声だった。
思いだして、またやりきれない気持ちになる。
これでまだ一日目だ。総士たちの旅の日程は七泊八日である。先はあまりにも長かった。
*
真夜中、板張りの階段がかすかに軋む音がした。
ベッドの背もたれに背を預け、まんじりともせず本のページをめくっていた甲洋は、ふと顔をあげると廊下の方へ耳を澄ませる。
その音は下へと向かって遠ざかり、やがて何事もなかったように静寂が訪れた。
「来主……?」
まさかとは思うが、こっそり家に帰るつもりでいるのではないか。彼ならやりかねないような気がして、甲洋は本を閉じるとベッドから抜けだし、静かに扉をあけて階段をおりた。
とっくに営業時間を過ぎている店内は薄暗く、当然人の姿はない。カウンターの方から溢れる照明に、テーブルに伏せられた椅子がぼんやりと浮かび上がっているだけだった。
甲洋は足音を立てないように下までおりると、カタカタと音のするほうを覗き込んだ。そこには冷蔵庫の扉を全開にして、中身を物色している操の背中がある。
(……まったく、だから言わんこっちゃない)
空腹に耐えかねて眠れなくなってしまったのだろう。結局、ハンストなど長くはもたないのだ。ましてや食べ盛りの十六歳男子では、一日三食だって物足りないくらいなのだから。
それにしたって一晩も続かないあたり、少し情けない気はするが。
「駄目だよ、来主」
「わっ!?」
ほっと息をつきながら声をかけると、操が悲鳴をあげながらビクリと肩を震わせた。慌ててこちらを振り向き、背中で冷蔵庫の扉を閉める。
甲洋は条件反射のように緩く口角を持ちあげた。
「それは店の冷蔵庫だから、開けるなら二階のにして」
イタズラの現場を押さえられた子供の顔で、操は肩をすくめていた。けれどすぐに開き直ったのか、つまらなそうに曇らせた表情を向けてくる。
「ビックリさせないでよ。別にいいでしょ。なんでも好きにしていいって言ったくせに」
「言ったけど、そこにはお客さんに出すものしか入ってないよ。お前の飯は二階の冷蔵庫。あっためてやるから、おいで」
「……いらない。君のせいで食べたくなくなった」
操は悪びれもせずぷいと顔を背けると、脇をすり抜けてキッチンから出ていこうとする。すれ違いざま、甲洋は咄嗟にその手首を掴んで引き止めていた。
「な、なに?」
操はやけに驚いて、目を丸くしたあとキッと睨みつけてくる。
自分でもなぜわざわざ引き止めてしまったのか分からない。彼は甲洋がなにを言ったって、どうせ聞きやしないのだから。
だけどふと、釣り上がった瞳を見下ろしながら甲洋は思う。
ここにいるのが総士だったなら、あるいは一騎だったなら、彼の瞳は全く違う色を放つのだろう。よく笑うやつだと聞いていたのに、甲洋は操が笑った顔をまだ一度も見たことがない。
(どうして俺だけ?)
疑問はずっと渦を巻いていた。どうしてこいつは俺だけをこうも嫌うのかと。
相性の問題。水と油。そういう人間もいるのだと割り切れたら、甲洋は今までだってずっと楽に生きてこられたはずだった。
だけどそれができなくて、どうしてもできなくて、恐ろしくて。人当たりのいい笑顔と態度で他人からの印象を操作しなければ、ここまでやってくることはできなかった。
唯一、どうにもできなかったのは両親だけだ。どれだけいい成績をとっても、家の手伝いをしても、欲しいものを我慢しても、彼らは甲洋を一度だって見ようとはしなかった。一欠片の情もかけてはくれなかった。無関心だった。
彼らはただ店の後継者が欲しかっただけで、甲洋を我が子としては見ていなかったのだと思う。都合のいい人形と同じだ。きっと人として見られてすらいなかった。
他の誰でもない。最も愛してほしかった人たちの中に、甲洋はどこにもいなかった。
そしていつしか甲洋はその存在価値すら失って、形ばかりの家族は離散した。
「ねぇ、用がないなら離してよ」
なにも言おうとしない甲洋に、操はますます不機嫌そうな顔をした。
彼の手首を掴んでいるのは、さっき叩き落とされた方と同じ手だ。痛い。痛い。どろどろとした汚泥のような何かが、甲洋の内側を浸食していく。痛い。苦しい。目眩がした。
(なんで俺だけ!)
──どこにも居場所がないのだろう?
「……お前さ、なにか俺に言うことないの」
ぷつりと、なにかが切れてしまったような感覚を覚えていた。
脆い心の膜を突き破って溢れ出したのは、暗く冷たい怒りの念だった。それが甲洋をどこか投げやりな気持ちにさせてしまう。
どうでもいい。最初からそうだった。こいつのことなど、どうでもいいと思っていた。
だったらどう扱おうが、もう勝手じゃないか。だって彼は、絶対に甲洋の思い通りにはならない。こいつも、あのふたりと同じなんだと。
不穏な空気を肌で感じとった操が、肩を強張らせている。訝しげに見上げてくるその瞳に映る自分が、面をかぶったように感情を失っているのが分かった。すると、ずっと強気だった眼差しに少しずつ不安の色が滲んでくる。いいなと思った。その目は、凄くいい。
「ッ、ぁ!」
次の瞬間、甲洋は掴んでいた手を強く引っぱると、階段下の壁に向かってその身体を叩きつけていた。背中を強か打ちつけた少年が、くぐもった悲鳴をあげる。
ぎゅうと目を閉じていた操が瞳を見開くのと同時に、壁に右の手のひらを打ちつけた。操の顔のすぐ斜め上だ。バン、という暴力的な音が空気を震わせ、一瞬で辺りを凍りつかせる。
驚愕して息をつめ、操は甲洋を凝視した。顔面は蒼白で、なにが起きているのか理解できていない様子だった。胸に押しつけるようにして、両手を握りしめている。
「──ごめんなさいだろ?」
「ッ、ぇ……?」
「生意気な態度をとってごめんなさい。ご飯を食べなくてごめんなさい。こそ泥みたいに冷蔵庫を漁ってごめんなさい。そのくらい、幼稚園児だって分かるぜ」
存分に侮蔑を込めた瞳で見下ろす。それは甲洋を軽視していた少年のプライドを傷つけるには、十分すぎるほどの嘲罵だった。豹変した甲洋に操は唖然としていたが、すぐに表情を一変させて、吊り上げた眉できつく睨みつけてくる。
「……こんなことして、いいの?」
操は声を震わせながら言った。
「総士に言いつけてやるから。こんな乱暴なこと、総士と一騎が知ったら絶対に許さないよ。だってこれって虐待でしょ?」
不自然に強ばる声から、彼が虚勢をはっているにすぎないことはすぐに分かった。
甲洋は鼻で笑うと、左手で操の顎を鷲掴む。皮膚に爪が食い込むほどの強さで固定して、無理やり上向かせた。
「痛っ、ぁ……!」
操の両手が咄嗟に甲洋の左手首にかかる。彼もまた皮膚に爪を立てながら、それを引き剥がそうとしてもがいた。そうすればするほど、甲洋は指先にギリギリと力を込めた。
「──言いたいなら言えばいい」
カウンターから漏れだす光を背に、甲洋の表情はひどく翳っていた。底なし沼のように虚ろな瞳に、絡めとられた操がぶるりと戦慄いたのが分かる。
甲洋を形作っていた装甲は、その全てがバラバラに砕け散っていた。最初にひびを入れたのはこの少年だ。液体にさらされた氷が鋭い音を立てるみたいに、その中心部には冷然とした素顔だけが隠されていた。
「自分勝手で我儘な悪ガキが、普段は温厚で優しい大人を怒らせた。それだけの話だよ。もちろん、お前をここまで甘やかした総士たちにも責任はある。お前のために、俺なんかに何度も頭を下げるだろうさ」
「っ、ぅ……」
小さく呻きながら、操の表情がくしゃりと歪む。
分が悪いことくらいは理解できているのか、彼はすっかり気圧されていた。大きな瞳にはみるみるうちに透明な膜がはり、今にも零れ落ちそうになっているのを見て、甲洋は激しい喜悦に胸が沸きたつのを感じていた。
「俺がこんなことするなんて誰が信じられる? お前を乱暴に扱って、こんなふうに痛みを与えて? 散々好き勝手に振る舞っておいて、悪びれもしないお前がなにを言ったところで」
甲洋は操の耳元にそっと唇を寄せた。
「誰がそれを信じると思う?」
吐息まじりに紡いだ声を、耳の穴にねっとりと吹き込んでやる。
甲洋には実績があるのだ。好い顔をして誰にでも優しく振るまって、善人の皮をかぶり続けてきた揺るぎない実績が。
操はビクンと身を震わせて首を左右に振ろうとしたが、顎を固定されているせいでままならない。ただ絞り出すように、か細く喉を震わせるだけだった。
「一騎と総士は、信じてくれるよ……おれの話、ちゃんと。だって、優しいもん。おれの言うこと、なんでも聞いてくれるし……いい子だって、いつも、褒めてくれるもん……!」
「いい子? お前が?」
甲洋は「ふぅん」と言うと皮肉を込めてせせら笑った。
「俺の言うことには素直に従うこと。絶対に迷惑はかけないこと。いい子で待ってること。お前の大好きな一騎と総士が言ってたことだよ。──ひとつも守れなかったな、お前」
操はギクリとした表情で青褪めるだけだった。
甲洋はわずかに手の力を緩めると、噛み締められた唇を親指でそっとなぞってやる。
楽しいと感じていた。人を追いつめ、じわじわと逃げ場を失っていくのを眺めるのは、とても楽しい。もっとその反応を見てみたいと思った。
「総士に言いつけてやろうか?」
わざとらしく、そして明確な悪意をもって、さっき彼がしたのと同じ脅し文句をかけてやる。
「愛想を尽かして、帰ってこなくなるかもね。ふたりとも」
「ぇ……?」
「捨てられたってしょうがないよな。だって来主は悪い子だから」
「う、嘘……? やだ、そんなのやだ! 総士がっ……一騎が、帰って来ないなんて……いやだ! ねぇお願い! 謝るから……だから、言わないで……」
想像してしまったのか、操は引きつった声をあげながら涙を零した。甲洋の手首にかかっていた両手が、いつしか引き剥がすためではなく、縋るためのものになっている。
完全に空気に飲まれてしまった未熟な心は、面白いほど簡単に甲洋が吐きだす言葉の毒に縛られる。気持ちがよかった。あの生意気だった来主操が泣いている。ひくひくと震えながら、大粒の涙を流しているのだ。
(なんだ、こんなに簡単に折れるんだ)
そのあっけなさに満足しながら、そんな彼が今度はひどく哀れに思えてきた。優しくしてやりたいという対極の気持ちが込み上げ、甲洋はふわりと微笑みながらその涙を拭ってやった。
「そんなに泣いたら目が腫れるよ。ああそうだ、来主は腹が減ってるんだったね」
顎を開放し、爪痕が残る頬をゆるゆると撫でさする。可哀想に。赤い痕がくっきりと残ってしまっている。
「泣くのは終わり。さあおいで、ケーキもちゃんととってあるから」
←戻る ・ 次へ→