2025/09/14 Sun 桜がそこかしこで満開になっていた。 次の休みには、ちょうど散り際の美しい姿を見ることができるはずだと、弁当の中身をあれこれ考えながら過ごしていた日のこと。 バイト終わりのタイミングで、総士から連絡が入った。 駅前のロータリーで待っていると、時間ぴったりに紫の乗用車が滑り込んできた。 総士はこの車のことを『虚無の申し子』と呼んで大事にしている。ちょっとよく分からないセンスだ。たまに運転が荒っぽくなるところも、少し怖い。 「急にすまない」 「うぅん。ぜんぜん」 助手席に乗り込んだ操は、首を振ってふにゃりと笑った。オーバーサイズのパーカーの上から、斜めにかけていたショルダーバッグを膝に乗せると、シートベルトを締める。 「それよりどうかしたの? なにか急用?」 車が発進したのと同時に、まっすぐ前を見つめる総士の横顔に問いかけた。 「急、といえば急かもしれない。甲洋の新しい飼い主が見つかった」 「──え?」 「長らく待たせてすまなかった。苦労をかけたが、もう大丈夫だ」 総士の横顔がふっと綻ぶ。操はそれを愕然とした表情で見つめて、彼が言った言葉を脳内で反芻する。 ずっと探していた、甲洋の新しい飼い主が見つかった。それは本来とても喜ばしいことであるはずなのに、なぜか急速に心が冷えていくのを感じる。 そうだ。総士が急な連絡を寄越すとすれば、それは甲洋に関する何かであることは予想できたはずだった。なのに、全く頭が回らなかった。 操の頭は、甲洋と一緒に食べる弁当の中身でいっぱいになっていたのだ。帰ったら晩ご飯を作りながら、彼に相談しようと思っていたのに。 「来主?」 信号で一時停止したタイミングで、総士が不思議そうな目を向けてくる。 俯いて硬直していた操は慌てて顔を上げると、無理やり笑顔を作って見せた。 「な、なんでもない! そっか、見つかったんだ。よかった」 「あまり嬉しそうに見えないが。どうかしたのか?」 操は慌てて首を振る。 「なにも! ねぇ、どんな人? 優しい人ならいいんだけど……」 「それは問題ない。遠見の姉さんの家だ」 「真矢の?」 遠見真矢は総士の幼馴染で、クラスメイトでもあった人物だ。幼い頃は操もよく遊んでもらったし、小中高では一つ上の先輩でもあった。 そういえば彼女には姉がいた。何度かお菓子をもらったことがある。綺麗で明るくて、優しい人だった。 「しばらく前に結婚して、今は夫の日野道生氏の実家で暮らしている。四歳の女の子がいるんだ。その子が甲洋の写真を見て、ずいぶん気に入ったらしい」 「……そうなんだ」 車が再び発進した。操は見るともなく窓の外の景色を見やる。 「小さい子って、やっぱりわかるのかな。前に一騎も言ってたんだ。目を見れば、優しいかどうかわかるって」 (おれにはぜんぜん、わからなかった) 初めて甲洋を見たとき、まるで感情のないロボットのようで気味が悪いとすら思ってしまったのだ。 ただ怖がるばかりで、心を閉ざしていたのは操も同じだった。いや、むしろ操が作り出す壁の方が、よほど分厚かったかもしれない。そうやって彼を拒絶していた。 「……いつ?」 「あちらはいつでも受け入れる態勢が整っている。むしろ待ち遠しくて、ついさっきも催促の電話が来た。美羽が毎日イヌの絵を描いて待っているそうだ」 「美羽っていうんだ。その子」 「お前と甲洋さえよければ、今日にでもと思っているが……どうだ?」 「きょ、今日!?」 思わず声がひっくり返る。それはあまりにも急な話だ。 総士が驚いてちらりと横目で操を見る。彼にしてみれば、あれほど嫌がっていた操のこの反応は予想外だったに違いない。 「ぁ、っと……さすがに今日は急じゃない? それに、甲洋にちゃんと話をしてからじゃないと……」 「確かにそうだな。急かすようなことを言ってすまない」 「うぅん。総士は、おれのために急いでくれたんだよね。ありがとう」 美羽という少女のためでもあるのだろうが、イヌ嫌いであるはずの操に甲洋を預けたままでいることは、総士にとって大きな気がかりだったのだろう。 確かに少し前の操だったら、すぐにでも開放されたくて二つ返事で了承していたかもしれない。だけど今は素直に喜べない自分がいた。甲洋が幸せに暮らせることを、ずっと願っていたはずなのに。 (甲洋が、いなくなる) 想像しただけで、胸に空いた風穴に冷たいものが吹き抜ける。 操は総士に悟られぬよう、こっそりと震える息を吐き出した。 * 「ただいまー」 総士に送り届けてもらい、操は自宅アパートへ帰宅した。 すぐに甲洋が来て、垂れた尻尾を穏やかに左右に振りながら「おかえり」と出迎えてくれる。その柔らかな笑顔に、胸が引き絞られるような思いがした。 「どうかした?」 「え?」 「何か、嫌なことでもあった?」 しまったと思う。彼はヒトの気持ちに敏感な生き物なのだ。操は慌てて首を振ると笑顔を取り繕う。 「別になにも。お腹空いたから、すぐにご飯作るね!」 「手伝うよ」 「うん、ありがとう」 最近、甲洋は食事の支度や片付けも手伝ってくれるようになった。 彼は手先が器用で、一度も指を切ることなく包丁の扱いにもすぐ慣れた。火を使っての調理もこなすし、オーブンレンジの出番が徐々に減りつつある。このままだと自分の出番までなくなってしまうかもしれない。 だけどそんなことを考えるのも、今夜で最後になってしまった。 * 焼鮭、ピーマンとニンジンの胡麻和え、ジャガイモがたっぷり入った味噌汁など、夕飯のメニューが一通りひとつのテーブルにずらりと並んでいる。 ふたりは向かい合って手を合わせると、一緒に「いただきます」をした。 操は箸を手にとるだけで、向かいに姿勢良く座って食事をはじめる甲洋を見た。 明日の今頃には、彼はもういない。台所で並んで支度をしている間も、ふとそんなことを考えては泣いてしまいそうだった。 「来主」 「ぁ、な、なに?」 いつしか俯いていた操に、甲洋は箸と茶碗を置くと気遣わしげな視線を寄越す。 「様子がおかしい。帰ってきてからずっと」 やっぱり分かってしまうのだ。彼には不安定に揺れて、崩れそうになっている操の心が伝わっている。 本当はいつも通りに振る舞って、食事が終わってからゆっくり話をするつもりでいたのだが。 操は手にとるだけだった箸を置き、覚悟を決めたようにふっと息を吐き出した。 「今日、総士に会った」 「……うん」 「新しい飼い主になってくれる人が、見つかったって」 甲洋は何も言わなかった。けれど操の様子から、彼も薄々は気づいていたのかもしれない。特に驚いた様子もなく、ただ淡々と受け止めているように見えた。 「おれと総士の友達の、お姉さんのところ。優しくて、明るい人だよ」 なにかに急かされるように、操は努めて明るく話をする。 「あのね、四歳の女の子がいるんだ。美羽っていう子。君が来るのが待ち遠しくて、毎日君の絵を描いてるって」 操は総士から聞いた日野家の情報を、一つ一つ言葉にしながらなぞっていった。 大きな庭がある立派な家で、真矢の姉である弓子は料理がとても上手だということ。夫の道生はつい先日、甲洋のために空き部屋の大掃除をして、寝具を一式買い揃えた。 美羽は毎日のように絵を描きながら「わんわんまだ来ないの?」と言って、弓子を困らせているのだと。 日野家の人々がどれだけ甲洋を待ち望んでいるかが、よく分かる。 「それでさ、甲洋は」 ──どう思う? そう続けようとして口を噤んだ。 そんなことを聞いてどうするつもりだろう。もしかしたら、甲洋はずっとここにいたいと思ってくれているかもしれない。問えばそう答えてくれるかもしれない。そんなことを期待している自分がいた。だけどそれは操の願望でしかない。 日野家には甲洋が幸せになるための条件が揃っている。そこに暮らす人々も、環境も、全てが申し分なかった。どちらがいいかなんて、考えるまでもないはずだ。 (今さらワガママなんか、言えないよなぁ……) 彼をひと目で気に入ったという少女が、今この瞬間も甲洋を待っている。 操が嫌いなものを黙って処理してくれたように、雷の日に気が済むまで手を握らせてくれたように。冷たく荒れた海を見つめながら自らを責めていた彼が、外を歩くときはさりげなく操を歩道側に置いていたことを知っている。 そんなふうに、甲洋は幼い美羽を守っていくだろう。 「……君はさ、そこに行きなよ。ここは狭いし、それにおれ、やっぱりイヌは好きじゃない。怖いんだ」 操は甲洋の顔を見て話すことができなかった。 突き放すような、嫌な言い方をしてしまったと思う。半ば自分に言い聞かせているも同然だった。 イヌが怖いのは嘘じゃない。だけど甲洋は特別だ。最初はあんなに嫌だったのに。別れが訪れることも分かっていたのに。それが今は、こんなに辛い。 甲洋は何も言わずに操の話に耳を傾けていたが、やがてすっかり冷めてしまった食卓を見つめながら口を開いた。 「また台所にアイツが出てきても、平気?」 声は穏やかで、いつもと何も変わらない。 操は一度だけ強く下唇を噛み締めて、顔をあげると無理やり笑顔を作った。 「あれきり出てないもん。大丈夫。多分」 「俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?」 「それはわかんないけど……でも、気をつけるよ」 「これから夏になっていくと、雷が増えるけど」 「そ、そういうこと言わないでよぉ! 平気だってば!」 ビクンと肩を震わせながら、操はむっと眉間に皺を寄せた。甲洋は思わずといった様子で笑い、優しく目を細める。 「いいよ」 彼はそう言って、再び箸を手に取った。 「お前がそう言うなら、そうする」 ←戻る ・ 次へ→
次の休みには、ちょうど散り際の美しい姿を見ることができるはずだと、弁当の中身をあれこれ考えながら過ごしていた日のこと。
バイト終わりのタイミングで、総士から連絡が入った。
駅前のロータリーで待っていると、時間ぴったりに紫の乗用車が滑り込んできた。
総士はこの車のことを『虚無の申し子』と呼んで大事にしている。ちょっとよく分からないセンスだ。たまに運転が荒っぽくなるところも、少し怖い。
「急にすまない」
「うぅん。ぜんぜん」
助手席に乗り込んだ操は、首を振ってふにゃりと笑った。オーバーサイズのパーカーの上から、斜めにかけていたショルダーバッグを膝に乗せると、シートベルトを締める。
「それよりどうかしたの? なにか急用?」
車が発進したのと同時に、まっすぐ前を見つめる総士の横顔に問いかけた。
「急、といえば急かもしれない。甲洋の新しい飼い主が見つかった」
「──え?」
「長らく待たせてすまなかった。苦労をかけたが、もう大丈夫だ」
総士の横顔がふっと綻ぶ。操はそれを愕然とした表情で見つめて、彼が言った言葉を脳内で反芻する。
ずっと探していた、甲洋の新しい飼い主が見つかった。それは本来とても喜ばしいことであるはずなのに、なぜか急速に心が冷えていくのを感じる。
そうだ。総士が急な連絡を寄越すとすれば、それは甲洋に関する何かであることは予想できたはずだった。なのに、全く頭が回らなかった。
操の頭は、甲洋と一緒に食べる弁当の中身でいっぱいになっていたのだ。帰ったら晩ご飯を作りながら、彼に相談しようと思っていたのに。
「来主?」
信号で一時停止したタイミングで、総士が不思議そうな目を向けてくる。
俯いて硬直していた操は慌てて顔を上げると、無理やり笑顔を作って見せた。
「な、なんでもない! そっか、見つかったんだ。よかった」
「あまり嬉しそうに見えないが。どうかしたのか?」
操は慌てて首を振る。
「なにも! ねぇ、どんな人? 優しい人ならいいんだけど……」
「それは問題ない。遠見の姉さんの家だ」
「真矢の?」
遠見真矢は総士の幼馴染で、クラスメイトでもあった人物だ。幼い頃は操もよく遊んでもらったし、小中高では一つ上の先輩でもあった。
そういえば彼女には姉がいた。何度かお菓子をもらったことがある。綺麗で明るくて、優しい人だった。
「しばらく前に結婚して、今は夫の日野道生氏の実家で暮らしている。四歳の女の子がいるんだ。その子が甲洋の写真を見て、ずいぶん気に入ったらしい」
「……そうなんだ」
車が再び発進した。操は見るともなく窓の外の景色を見やる。
「小さい子って、やっぱりわかるのかな。前に一騎も言ってたんだ。目を見れば、優しいかどうかわかるって」
(おれにはぜんぜん、わからなかった)
初めて甲洋を見たとき、まるで感情のないロボットのようで気味が悪いとすら思ってしまったのだ。
ただ怖がるばかりで、心を閉ざしていたのは操も同じだった。いや、むしろ操が作り出す壁の方が、よほど分厚かったかもしれない。そうやって彼を拒絶していた。
「……いつ?」
「あちらはいつでも受け入れる態勢が整っている。むしろ待ち遠しくて、ついさっきも催促の電話が来た。美羽が毎日イヌの絵を描いて待っているそうだ」
「美羽っていうんだ。その子」
「お前と甲洋さえよければ、今日にでもと思っているが……どうだ?」
「きょ、今日!?」
思わず声がひっくり返る。それはあまりにも急な話だ。
総士が驚いてちらりと横目で操を見る。彼にしてみれば、あれほど嫌がっていた操のこの反応は予想外だったに違いない。
「ぁ、っと……さすがに今日は急じゃない? それに、甲洋にちゃんと話をしてからじゃないと……」
「確かにそうだな。急かすようなことを言ってすまない」
「うぅん。総士は、おれのために急いでくれたんだよね。ありがとう」
美羽という少女のためでもあるのだろうが、イヌ嫌いであるはずの操に甲洋を預けたままでいることは、総士にとって大きな気がかりだったのだろう。
確かに少し前の操だったら、すぐにでも開放されたくて二つ返事で了承していたかもしれない。だけど今は素直に喜べない自分がいた。甲洋が幸せに暮らせることを、ずっと願っていたはずなのに。
(甲洋が、いなくなる)
想像しただけで、胸に空いた風穴に冷たいものが吹き抜ける。
操は総士に悟られぬよう、こっそりと震える息を吐き出した。
*
「ただいまー」
総士に送り届けてもらい、操は自宅アパートへ帰宅した。
すぐに甲洋が来て、垂れた尻尾を穏やかに左右に振りながら「おかえり」と出迎えてくれる。その柔らかな笑顔に、胸が引き絞られるような思いがした。
「どうかした?」
「え?」
「何か、嫌なことでもあった?」
しまったと思う。彼はヒトの気持ちに敏感な生き物なのだ。操は慌てて首を振ると笑顔を取り繕う。
「別になにも。お腹空いたから、すぐにご飯作るね!」
「手伝うよ」
「うん、ありがとう」
最近、甲洋は食事の支度や片付けも手伝ってくれるようになった。
彼は手先が器用で、一度も指を切ることなく包丁の扱いにもすぐ慣れた。火を使っての調理もこなすし、オーブンレンジの出番が徐々に減りつつある。このままだと自分の出番までなくなってしまうかもしれない。
だけどそんなことを考えるのも、今夜で最後になってしまった。
*
焼鮭、ピーマンとニンジンの胡麻和え、ジャガイモがたっぷり入った味噌汁など、夕飯のメニューが一通りひとつのテーブルにずらりと並んでいる。
ふたりは向かい合って手を合わせると、一緒に「いただきます」をした。
操は箸を手にとるだけで、向かいに姿勢良く座って食事をはじめる甲洋を見た。
明日の今頃には、彼はもういない。台所で並んで支度をしている間も、ふとそんなことを考えては泣いてしまいそうだった。
「来主」
「ぁ、な、なに?」
いつしか俯いていた操に、甲洋は箸と茶碗を置くと気遣わしげな視線を寄越す。
「様子がおかしい。帰ってきてからずっと」
やっぱり分かってしまうのだ。彼には不安定に揺れて、崩れそうになっている操の心が伝わっている。
本当はいつも通りに振る舞って、食事が終わってからゆっくり話をするつもりでいたのだが。
操は手にとるだけだった箸を置き、覚悟を決めたようにふっと息を吐き出した。
「今日、総士に会った」
「……うん」
「新しい飼い主になってくれる人が、見つかったって」
甲洋は何も言わなかった。けれど操の様子から、彼も薄々は気づいていたのかもしれない。特に驚いた様子もなく、ただ淡々と受け止めているように見えた。
「おれと総士の友達の、お姉さんのところ。優しくて、明るい人だよ」
なにかに急かされるように、操は努めて明るく話をする。
「あのね、四歳の女の子がいるんだ。美羽っていう子。君が来るのが待ち遠しくて、毎日君の絵を描いてるって」
操は総士から聞いた日野家の情報を、一つ一つ言葉にしながらなぞっていった。
大きな庭がある立派な家で、真矢の姉である弓子は料理がとても上手だということ。夫の道生はつい先日、甲洋のために空き部屋の大掃除をして、寝具を一式買い揃えた。
美羽は毎日のように絵を描きながら「わんわんまだ来ないの?」と言って、弓子を困らせているのだと。
日野家の人々がどれだけ甲洋を待ち望んでいるかが、よく分かる。
「それでさ、甲洋は」
──どう思う?
そう続けようとして口を噤んだ。
そんなことを聞いてどうするつもりだろう。もしかしたら、甲洋はずっとここにいたいと思ってくれているかもしれない。問えばそう答えてくれるかもしれない。そんなことを期待している自分がいた。だけどそれは操の願望でしかない。
日野家には甲洋が幸せになるための条件が揃っている。そこに暮らす人々も、環境も、全てが申し分なかった。どちらがいいかなんて、考えるまでもないはずだ。
(今さらワガママなんか、言えないよなぁ……)
彼をひと目で気に入ったという少女が、今この瞬間も甲洋を待っている。
操が嫌いなものを黙って処理してくれたように、雷の日に気が済むまで手を握らせてくれたように。冷たく荒れた海を見つめながら自らを責めていた彼が、外を歩くときはさりげなく操を歩道側に置いていたことを知っている。
そんなふうに、甲洋は幼い美羽を守っていくだろう。
「……君はさ、そこに行きなよ。ここは狭いし、それにおれ、やっぱりイヌは好きじゃない。怖いんだ」
操は甲洋の顔を見て話すことができなかった。
突き放すような、嫌な言い方をしてしまったと思う。半ば自分に言い聞かせているも同然だった。
イヌが怖いのは嘘じゃない。だけど甲洋は特別だ。最初はあんなに嫌だったのに。別れが訪れることも分かっていたのに。それが今は、こんなに辛い。
甲洋は何も言わずに操の話に耳を傾けていたが、やがてすっかり冷めてしまった食卓を見つめながら口を開いた。
「また台所にアイツが出てきても、平気?」
声は穏やかで、いつもと何も変わらない。
操は一度だけ強く下唇を噛み締めて、顔をあげると無理やり笑顔を作った。
「あれきり出てないもん。大丈夫。多分」
「俺がいなくなっても、適当なものばかり食べたりしない?」
「それはわかんないけど……でも、気をつけるよ」
「これから夏になっていくと、雷が増えるけど」
「そ、そういうこと言わないでよぉ! 平気だってば!」
ビクンと肩を震わせながら、操はむっと眉間に皺を寄せた。甲洋は思わずといった様子で笑い、優しく目を細める。
「いいよ」
彼はそう言って、再び箸を手に取った。
「お前がそう言うなら、そうする」
←戻る ・ 次へ→