2025/09/14 Sun アイドルタイム中のスーパーには、ぽつりぽつりと客がいるだけだった。 レジも一ヶ所しか稼働していない。午後の日差しを避けるため、店員が緩慢な動作でブラインドを下ろしている。 買い物カゴにはしょうがと豚のロース肉が入っていた。今夜の夕飯は豚の生姜焼きだ。 毎日の献立はふたりで決めているが、どちらかと言えば操が食べたいものを優先させることが多かった。甲洋には特に好き嫌いはないし、食に強いこだわりがあるわけでもないのでおのずとそうなる。 最近は操が帰る頃に合わせて、先に食事の支度を済ませておくことが少なくない。それは掃除や洗濯といった家事全般にもいえることだった。 操は「おれの出番がなくなっちゃうよ」と焦っているが、ただヒマを持て余すくらいなら、家のことは全て任せてくれた方がずっといい。働かざるもの食うべからずの精神である。 それに操はハッキリ言って家事センスが壊滅的だった。大雑把だし、不器用だし、かなりそそっかしい性格をしている。 つい先日も洗濯をしようとして液体洗剤を床にぶちまけ、足を滑らせて派手に転んだばかりだ。未だに気を抜くと包丁で指を切るし、なにやらメソメソと泣いていると思ったら、ペアで揃えたマグカップを割ってしまい、片付けようとしてまた指を切っていた。 これでよく今まで生きて来られたなと、最近は呆れを通り越していっそ感心している。 ただ、見ていて飽きない──目が離せない──のは確かだ。 表情筋が発達しすぎているのだろうか。笑ったり泣いたり怒ったり、彼はいつだって忙しい。その影響を受けてか、自分でもよく笑うようになったと思う。彼といると、自然とそうなってしまうのだ。 しかし、ここのところは非常に困ったことになっている。 重たい息を漏らしながら、甲洋は大玉のトマトをひとつ手にとった。 つるりとした表面と、張りのある弾力。これはこれで心地がいいが、操の頬はもっとふにふにとしていて柔らかい。 瞬時にそんなことを考える自分にげんなりしながら、トマトをひとつカゴに入れた。 (そろそろ限界かもしれない) 最近とみにそう思う。 操は可愛い。ふにゃりとした笑顔も、情けない泣き顔も、幼い仕草やその内面も。 ふとした瞬間その肩を抱き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られることが幾度となくある。そのまま自分のものにしてしまえたら、どんなにいいだろうかと。 必死で抑え込んでいるのに、しかし当の操は甲洋の気持ちなどお構いなしだ。困ったことに、彼はなんにも分かっちゃいない。 (どんな無菌室で育てれば、あんな鈍いやつができあがるんだ……?) 操の気持ちは伝わっている。イヌはヒトの心がハッキリと読み取れるわけではないが、感情の機微には敏感だ。そこに元来の勘の鋭さも加わって、甲洋には分かってしまう。 それは宿ったばかりの命のように未熟で、おぼつかないけれど。操から向けられる想いの形は、甲洋が彼に抱くものと同じだった。 一方通行の恋しか知らなかった甲洋は、その幸福に息ができなくなる。 だけどそこまで分かっていながら、自信をもって踏み込むことができないでいた。 思慕と恋慕。親愛と性愛。操にはその区別がついていない。まるで本当に子供のようだ。まだなにも知らない、知ろうとすらしていない子供と一緒だ。 なのに甲洋を見つめる瞳はどこか物欲しげで、蕩けきっている。だからたちが悪かった。 どれだけ人間に近かろうと、甲洋は獣だ。 あの白くて柔らかそうな肌に歯を立ててしまいたいという欲求が、確かにある。 彼が甘えたように身を寄せてくるたび、淡桃に色づく肌がまるで誘っているようだった。そんなとき、操からはなんとも言えない甘い香りがする。 それはフェロモンのようなものかもしれない。発情期のメスがオスを誘うように、彼の匂いは甲洋の情欲を煽りたてる。 しかし操はイヌへの恐怖を克服したわけではない。 だからこそ彼から寄せられる特別な信頼は心地がよくて、けれど同じくらい怖かった。 どこまで自分を制御できるか分からなくて、彼を傷つけてしまいそうで。この獣欲をさらけだすには、彼はあまりにも無垢すぎる。 臆病、むっつり、意気地なし。総合してヘタレなのだ。甲洋は。 情けなくて思わず溜息が漏れた。 しかしここで悶々としていたって埒が明かない。ひとまず買い物を終わらせてしまおうと、生姜焼きに添えるためのキャベツに手を伸ばした。 が、そこで同じようにキャベツに触れようとしていた誰かの白い指先とぶつかってしまう。 「「あ」」 互いに丸くした目をかち合わせ、同時に声をあげる。 白い耳と尻尾。そこにいたのは皆城総士の愛犬、チワワの一騎だった。 * 「アイスコーヒーでよかったか?」 スーパーの片隅にある小さなイートインスペースは無人だった。 先に席についていた甲洋の元に、カップ式自販機で買ったコーヒーを両手に持った一騎がやってくる。心の中で礼を述べてカップを受け取ると、一騎は「どういたしまして」と笑いながら向かいに座った。 一騎が自分の分のカップに口をつけるのを見て、甲洋もコーヒーに口をつける。 「今日は来主はどうしてるんだ? バイトか?」 甲洋が頷く。 「お前もすっかり主夫してるんだな」 心の中でまぁねと言って、また頷いた。 問いかけに短く返すだけの甲洋に、一騎は気を悪くしたふうもなく「そっか」と言うだけだった。 彼は読心能力を使おうとはしなかった。前に不用意に甲洋の記憶に触れてしまったことが原因かというと、そうではない。一騎は甲洋が皆城総士の元で世話になっていた頃も、必要以上に能力を使うことはしなかった。 けれど甲洋は、イヌ同士なら心の中で会話するのは当然のことだと認識している。わざわざ声に出して会話をする必要はないし、その意味もない。 だが一騎はそれをしないのだ。人間のようなイヌだなと思った。 「ずっと気になってた。お前のこと」 一騎はカップをテーブルに置くと言った。 「謝りたかったんだ。ごめんな」 それは甲洋も同じだった。一騎の気持ちはちゃんと理解していた。その優しさも。 一騎だけじゃない。最初に保護してくれた羽佐間容子も、真壁史彦も、皆城総士も。みんな優しい人たちだった。見ず知らずの捨て犬のために、心を砕いてくれた。 けれどあの頃の甲洋は疲弊しきっていた。生きる理由を見失っていた。人間に期待することを恐れ、同様に期待させるのが怖かった。 だけど甲洋は相手が一騎だったからこそ、とりわけ心を見せるが嫌だったのだ。 それは幼い頃に見た、“ある光景”が原因だった。 『どこまで視た?』 心の中で問いかけながら、甲洋はカップの中で揺れているコーヒーを見下ろす。水面には無表情な自分の顔が映り込んでいた。別に不機嫌だからとか、そういうわけではない。単純に気まずかったのだ。 「……ベランダに雪が降っていた。幾つかダンボールやガラクタが積み重なっていて、お前はそこに身を隠すようにしながら、裸足で膝を抱えて座っていた。それから……」 一騎はそこでいちど言葉を切る。そして何かを堪えるように、そっと睫毛を伏せた。 「いなくなったんだな……あの子」 あの子──。 「!」 コーヒーの水面に映る甲洋の瞳が、ハッとして見開かれる。 『……覚えてるのか?』 一騎を見ないまま問いかけた。静かに頷く気配に、甲洋は呆然と瞬きを繰り返す。 きっと忘れているだろうと思っていた。彼女のことなど、覚えてはいないだろうと。 だけど彼は覚えていた。忘れてなんかいなかった。彼女のことを──翔子のことを。 『忘れたことなんかない』 心の中で、一騎が言った。 そこには身を切るような深い悲しみがあって、懐かしい記憶がある。 甲洋は何も言葉を返すことができなかった。一騎もまた、口を噤んで静かに目を伏せる。 翔子を喪った痛みを、彼女を知っている誰かと共有するのは、甲洋にとってこれが初めてのことだった。 ゆるりと心がほどけていくのを感じて、甲洋はふっと息を吐き出した。それから視線を一騎に向けて、小さく笑う。 「昔、一度だけお前を見たことがあるよ。羽佐間さんの家に行ったことがあるだろ? 小さな頃に」 甲洋はまるで昔から知っている友人に語りかけるような、そんな穏やかな声で気安く言った。心の中ではなく、ちゃんと言葉にして。 実際、甲洋は一騎のことを知っていたのだ。皆城総士の元で会う前から、ずっと。 一騎は甲洋の心がほどけたことに少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。 「父さんと羽佐間先生は昔からの友達なんだ。ほら、陶器があっただろ? 真壁の家に」 甲洋が頷く。ほんの短い間だが、甲洋は真壁家で世話になっていたこともあった。棚いっぱいに、不思議な形の陶器が並んでいたのを覚えている。 「趣味なんだよ。でもけっこう酷いよな、どれもこれも」 「芸術的、ではあったかな」 「いいよ、気を使わなくて。それでも味があるってさ、たまに欲しがる人がいるんだよ。羽佐間先生みたいに。父さん顔には出さないけど大喜びで、わざわざ届けに行ったんだ。それに俺もついて行った……そっか。見てたんだな、お前」 ベランダから幼い子猫に恋をしていたあの頃。甲洋もまだほんの小さな子犬だった。 ある日、羽佐間家の前に見慣れない車が停まった。そこから降りてきたのが真壁史彦と、まだ子犬の一騎だったのだ。 よく晴れた、暖かな日だったのを覚えている。翔子の部屋のカーテンと窓は開かれていて、そこに一騎が通されたのを見た。翔子は一騎を見た瞬間、白い頬を桃の花びらのように染めあげた。 それは彼女が恋に落ちた瞬間だった。あのとき駆られた焦燥感は、今でも忘れられない。 泣きだしそうに潤んだ瞳ではにかむ翔子と、最初こそ戸惑った様子でポカンとしていた一騎だけれど、彼は翔子が必死で紡ぎだす声に真剣に耳を傾けているようだった。 そうやって、幼い二匹は大人たちが話を終えるあいだの、ほんの短い時間を共に過ごした。 彼らがどんな言葉を交わしたのかまでは分からない。だけど甲洋にとってはそのささやかなひと時が、まるで永遠のように感じられた。 それから一騎が翔子に会いに来ることはなかったが、彼女はたまに窓の外を眺めては頬を染め、溜息をつくことが多くなった。 届かぬ想いに身を焦がす翔子に、それでも甲洋は恋をし続けた。出会ってすらいない、どんなに見つめても視線すら交わらない、小さくて可憐な白猫に。 甲洋は目の前で静かにコーヒーを飲んでいる一騎を見た。 皆城総士の元で彼に引き会わされたとき、甲洋は彼に羨望と憎しみを同時に抱いた。たったいちど会っただけで翔子の心を掴んでしまった、一騎に対して。 だけどそんなものはただの八つ当たりだ。彼を恨んだって意味がないことは分かっていた。 もし仮にあのとき傍にいたのが甲洋だったとしても、彼女は一騎に恋をしただろう。彼の優しさを知れば知るほど、それが確信に変わっていくことが苦しかった。 甲洋が頑なに心を閉ざしていたのは、そんな自分のなかに巣食う負の感情を知られたくなかったからだ。 「……俺も悪かった。カッとなって、お前を傷つけたこと」 頭を下げた甲洋に、一騎は静かに笑って首を振る。 再びコーヒーへと落とした視線の先には、憑き物が落ちたように穏やかな目をした自分が映りこんでいる。 (──翔子) 思い出の箱の中で、初恋の少女が笑っていた。 その笑顔が自分に向けられることは終ぞなかったが、今の甲洋は知っている。 ひたむきに注がれる想いと、まっすぐに向けられる眩しい笑顔を。もう一度、誰かを愛しいと想える気持ちを。 それは決して独りよがりではないはずで、だけど未だ強く踏み込むことはできなくて。意気地なしの自分は、ただこうして迷子のように袋小路で怯えているだけなのだ。 甲洋はコーヒーを飲み干すと、深く長い息を漏らす。一騎が小首を傾げた。 「来主のことか?」 心を読まれたのかと思ったが、そうではないらしい。 なぜ分かるのかと目だけで問えば、彼は眉を下げて苦笑した。 「総士から口止めされたんだ。来主に何を聞かれても、絶対に答えるなって」 「口止め?」 「あいつ、俺と総士のことが知りたかったみたいだ」 「ああ、そういうこと……」 つまり、そういうことだ。 先日、操は総士に会うのだと言って意気揚々と出かけて行った。そこでどんな話をしたのか、おかげでなんとなく予想がついた。 一騎と総士の関係には気がついていた。短い期間とはいえ、甲洋は彼らの家にも厄介になっていたのだから。 総士はそんなことおくびにも出さない振る舞いを一貫していたが、ふたりの間に流れる空気は、飼い主とイヌという枠を飛び越えたものだった。 そもそも一騎に隠す気がなかったのだから、嫌でも気がつく。 要するにダダ漏れだったのだ。 「別に教えてやればいいのにな。その方が手っ取り早いだろ?」 同意を求められても、甲洋は何も答えられない。 自分の色恋をあれこれ暴露するというのは、なかなかできることではないような気がする。 しかし一騎は意外にもオープン気質だ。繊細そうに見えて、実は大雑把なところがあるのだろうか。 「お前が相手なら、俺も総士も安心だよ」 「どうしてそう言える?」 「だって、お前は来主を傷つけないだろ?」 果たしてそれはどうだろう。自信がないから、こうして踏み出せないでいる。 つい先日だって、失態を犯したばかりだった。あのとき暴走しなかったのは奇跡に近い。 だってあんなキスは反則だ。小さな唇が濡れた音を立てながら吸いついてくる感触。正直、思いだしてはあのあとも幾度か催した。その度に一人で処理するというのは、なかなかに虚しいものがある。 「大変だな、お前」 一騎が気の毒そうに、そして心配そうにしみじみと言った。 「……視るなよ」 「視たくて視たんじゃない。視せられたんだ。お前、気をつけないとダダ漏れだったぞ」 ああ、自分も一騎のことは言えないのか。 あまりにも強烈な出来事だったせいか、あるいは甲洋に余裕がなさすぎるせいなのか、一騎にはその気がなくても視えてしまったのだ。 下手に心を開いたことが裏目にでた。いらぬ恥をかいてしまった気がするし、誰であっても自分以外のオスに操のあんな姿は知られたくない。 が、今のは甲洋が完全に油断していた。彼を責めることはできなかった。 「なんだか緊張してきたな」 「なんでお前が緊張するのさ」 「だって、近いうち挨拶に来ることになるんだろ? 息子さんを俺にくださいって」 「は……?」 「総士はわざわざスーツを用意しておくつもりでいるみたいだけど……俺はあまり堅くならない方がいいような気がするんだよな。どう思う?」 どう、と聞かれても困る。 一騎は真剣だ。こんな調子で、家でも総士とあれこれ話をしているのだろうか。確かにほとんど親代わりなのだろうが、わざわざ挨拶に行くなんて考えたこともなかった。 操も大概だが、一騎も総士も天然である。あの親にしてこの子ありとは、彼らのためにある言葉かもしれない。 「……まだ当分は先かもね」 そう言って、甲洋は力なく息を漏らした。 ←戻る ・ 次へ→
レジも一ヶ所しか稼働していない。午後の日差しを避けるため、店員が緩慢な動作でブラインドを下ろしている。
買い物カゴにはしょうがと豚のロース肉が入っていた。今夜の夕飯は豚の生姜焼きだ。
毎日の献立はふたりで決めているが、どちらかと言えば操が食べたいものを優先させることが多かった。甲洋には特に好き嫌いはないし、食に強いこだわりがあるわけでもないのでおのずとそうなる。
最近は操が帰る頃に合わせて、先に食事の支度を済ませておくことが少なくない。それは掃除や洗濯といった家事全般にもいえることだった。
操は「おれの出番がなくなっちゃうよ」と焦っているが、ただヒマを持て余すくらいなら、家のことは全て任せてくれた方がずっといい。働かざるもの食うべからずの精神である。
それに操はハッキリ言って家事センスが壊滅的だった。大雑把だし、不器用だし、かなりそそっかしい性格をしている。
つい先日も洗濯をしようとして液体洗剤を床にぶちまけ、足を滑らせて派手に転んだばかりだ。未だに気を抜くと包丁で指を切るし、なにやらメソメソと泣いていると思ったら、ペアで揃えたマグカップを割ってしまい、片付けようとしてまた指を切っていた。
これでよく今まで生きて来られたなと、最近は呆れを通り越していっそ感心している。
ただ、見ていて飽きない──目が離せない──のは確かだ。
表情筋が発達しすぎているのだろうか。笑ったり泣いたり怒ったり、彼はいつだって忙しい。その影響を受けてか、自分でもよく笑うようになったと思う。彼といると、自然とそうなってしまうのだ。
しかし、ここのところは非常に困ったことになっている。
重たい息を漏らしながら、甲洋は大玉のトマトをひとつ手にとった。
つるりとした表面と、張りのある弾力。これはこれで心地がいいが、操の頬はもっとふにふにとしていて柔らかい。
瞬時にそんなことを考える自分にげんなりしながら、トマトをひとつカゴに入れた。
(そろそろ限界かもしれない)
最近とみにそう思う。
操は可愛い。ふにゃりとした笑顔も、情けない泣き顔も、幼い仕草やその内面も。
ふとした瞬間その肩を抱き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られることが幾度となくある。そのまま自分のものにしてしまえたら、どんなにいいだろうかと。
必死で抑え込んでいるのに、しかし当の操は甲洋の気持ちなどお構いなしだ。困ったことに、彼はなんにも分かっちゃいない。
(どんな無菌室で育てれば、あんな鈍いやつができあがるんだ……?)
操の気持ちは伝わっている。イヌはヒトの心がハッキリと読み取れるわけではないが、感情の機微には敏感だ。そこに元来の勘の鋭さも加わって、甲洋には分かってしまう。
それは宿ったばかりの命のように未熟で、おぼつかないけれど。操から向けられる想いの形は、甲洋が彼に抱くものと同じだった。
一方通行の恋しか知らなかった甲洋は、その幸福に息ができなくなる。
だけどそこまで分かっていながら、自信をもって踏み込むことができないでいた。
思慕と恋慕。親愛と性愛。操にはその区別がついていない。まるで本当に子供のようだ。まだなにも知らない、知ろうとすらしていない子供と一緒だ。
なのに甲洋を見つめる瞳はどこか物欲しげで、蕩けきっている。だからたちが悪かった。
どれだけ人間に近かろうと、甲洋は獣だ。
あの白くて柔らかそうな肌に歯を立ててしまいたいという欲求が、確かにある。
彼が甘えたように身を寄せてくるたび、淡桃に色づく肌がまるで誘っているようだった。そんなとき、操からはなんとも言えない甘い香りがする。
それはフェロモンのようなものかもしれない。発情期のメスがオスを誘うように、彼の匂いは甲洋の情欲を煽りたてる。
しかし操はイヌへの恐怖を克服したわけではない。
だからこそ彼から寄せられる特別な信頼は心地がよくて、けれど同じくらい怖かった。
どこまで自分を制御できるか分からなくて、彼を傷つけてしまいそうで。この獣欲をさらけだすには、彼はあまりにも無垢すぎる。
臆病、むっつり、意気地なし。総合してヘタレなのだ。甲洋は。
情けなくて思わず溜息が漏れた。
しかしここで悶々としていたって埒が明かない。ひとまず買い物を終わらせてしまおうと、生姜焼きに添えるためのキャベツに手を伸ばした。
が、そこで同じようにキャベツに触れようとしていた誰かの白い指先とぶつかってしまう。
「「あ」」
互いに丸くした目をかち合わせ、同時に声をあげる。
白い耳と尻尾。そこにいたのは皆城総士の愛犬、チワワの一騎だった。
*
「アイスコーヒーでよかったか?」
スーパーの片隅にある小さなイートインスペースは無人だった。
先に席についていた甲洋の元に、カップ式自販機で買ったコーヒーを両手に持った一騎がやってくる。心の中で礼を述べてカップを受け取ると、一騎は「どういたしまして」と笑いながら向かいに座った。
一騎が自分の分のカップに口をつけるのを見て、甲洋もコーヒーに口をつける。
「今日は来主はどうしてるんだ? バイトか?」
甲洋が頷く。
「お前もすっかり主夫してるんだな」
心の中でまぁねと言って、また頷いた。
問いかけに短く返すだけの甲洋に、一騎は気を悪くしたふうもなく「そっか」と言うだけだった。
彼は読心能力を使おうとはしなかった。前に不用意に甲洋の記憶に触れてしまったことが原因かというと、そうではない。一騎は甲洋が皆城総士の元で世話になっていた頃も、必要以上に能力を使うことはしなかった。
けれど甲洋は、イヌ同士なら心の中で会話するのは当然のことだと認識している。わざわざ声に出して会話をする必要はないし、その意味もない。
だが一騎はそれをしないのだ。人間のようなイヌだなと思った。
「ずっと気になってた。お前のこと」
一騎はカップをテーブルに置くと言った。
「謝りたかったんだ。ごめんな」
それは甲洋も同じだった。一騎の気持ちはちゃんと理解していた。その優しさも。
一騎だけじゃない。最初に保護してくれた羽佐間容子も、真壁史彦も、皆城総士も。みんな優しい人たちだった。見ず知らずの捨て犬のために、心を砕いてくれた。
けれどあの頃の甲洋は疲弊しきっていた。生きる理由を見失っていた。人間に期待することを恐れ、同様に期待させるのが怖かった。
だけど甲洋は相手が一騎だったからこそ、とりわけ心を見せるが嫌だったのだ。
それは幼い頃に見た、“ある光景”が原因だった。
『どこまで視た?』
心の中で問いかけながら、甲洋はカップの中で揺れているコーヒーを見下ろす。水面には無表情な自分の顔が映り込んでいた。別に不機嫌だからとか、そういうわけではない。単純に気まずかったのだ。
「……ベランダに雪が降っていた。幾つかダンボールやガラクタが積み重なっていて、お前はそこに身を隠すようにしながら、裸足で膝を抱えて座っていた。それから……」
一騎はそこでいちど言葉を切る。そして何かを堪えるように、そっと睫毛を伏せた。
「いなくなったんだな……あの子」
あの子──。
「!」
コーヒーの水面に映る甲洋の瞳が、ハッとして見開かれる。
『……覚えてるのか?』
一騎を見ないまま問いかけた。静かに頷く気配に、甲洋は呆然と瞬きを繰り返す。
きっと忘れているだろうと思っていた。彼女のことなど、覚えてはいないだろうと。
だけど彼は覚えていた。忘れてなんかいなかった。彼女のことを──翔子のことを。
『忘れたことなんかない』
心の中で、一騎が言った。
そこには身を切るような深い悲しみがあって、懐かしい記憶がある。
甲洋は何も言葉を返すことができなかった。一騎もまた、口を噤んで静かに目を伏せる。
翔子を喪った痛みを、彼女を知っている誰かと共有するのは、甲洋にとってこれが初めてのことだった。
ゆるりと心がほどけていくのを感じて、甲洋はふっと息を吐き出した。それから視線を一騎に向けて、小さく笑う。
「昔、一度だけお前を見たことがあるよ。羽佐間さんの家に行ったことがあるだろ? 小さな頃に」
甲洋はまるで昔から知っている友人に語りかけるような、そんな穏やかな声で気安く言った。心の中ではなく、ちゃんと言葉にして。
実際、甲洋は一騎のことを知っていたのだ。皆城総士の元で会う前から、ずっと。
一騎は甲洋の心がほどけたことに少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「父さんと羽佐間先生は昔からの友達なんだ。ほら、陶器があっただろ? 真壁の家に」
甲洋が頷く。ほんの短い間だが、甲洋は真壁家で世話になっていたこともあった。棚いっぱいに、不思議な形の陶器が並んでいたのを覚えている。
「趣味なんだよ。でもけっこう酷いよな、どれもこれも」
「芸術的、ではあったかな」
「いいよ、気を使わなくて。それでも味があるってさ、たまに欲しがる人がいるんだよ。羽佐間先生みたいに。父さん顔には出さないけど大喜びで、わざわざ届けに行ったんだ。それに俺もついて行った……そっか。見てたんだな、お前」
ベランダから幼い子猫に恋をしていたあの頃。甲洋もまだほんの小さな子犬だった。
ある日、羽佐間家の前に見慣れない車が停まった。そこから降りてきたのが真壁史彦と、まだ子犬の一騎だったのだ。
よく晴れた、暖かな日だったのを覚えている。翔子の部屋のカーテンと窓は開かれていて、そこに一騎が通されたのを見た。翔子は一騎を見た瞬間、白い頬を桃の花びらのように染めあげた。
それは彼女が恋に落ちた瞬間だった。あのとき駆られた焦燥感は、今でも忘れられない。
泣きだしそうに潤んだ瞳ではにかむ翔子と、最初こそ戸惑った様子でポカンとしていた一騎だけれど、彼は翔子が必死で紡ぎだす声に真剣に耳を傾けているようだった。
そうやって、幼い二匹は大人たちが話を終えるあいだの、ほんの短い時間を共に過ごした。
彼らがどんな言葉を交わしたのかまでは分からない。だけど甲洋にとってはそのささやかなひと時が、まるで永遠のように感じられた。
それから一騎が翔子に会いに来ることはなかったが、彼女はたまに窓の外を眺めては頬を染め、溜息をつくことが多くなった。
届かぬ想いに身を焦がす翔子に、それでも甲洋は恋をし続けた。出会ってすらいない、どんなに見つめても視線すら交わらない、小さくて可憐な白猫に。
甲洋は目の前で静かにコーヒーを飲んでいる一騎を見た。
皆城総士の元で彼に引き会わされたとき、甲洋は彼に羨望と憎しみを同時に抱いた。たったいちど会っただけで翔子の心を掴んでしまった、一騎に対して。
だけどそんなものはただの八つ当たりだ。彼を恨んだって意味がないことは分かっていた。
もし仮にあのとき傍にいたのが甲洋だったとしても、彼女は一騎に恋をしただろう。彼の優しさを知れば知るほど、それが確信に変わっていくことが苦しかった。
甲洋が頑なに心を閉ざしていたのは、そんな自分のなかに巣食う負の感情を知られたくなかったからだ。
「……俺も悪かった。カッとなって、お前を傷つけたこと」
頭を下げた甲洋に、一騎は静かに笑って首を振る。
再びコーヒーへと落とした視線の先には、憑き物が落ちたように穏やかな目をした自分が映りこんでいる。
(──翔子)
思い出の箱の中で、初恋の少女が笑っていた。
その笑顔が自分に向けられることは終ぞなかったが、今の甲洋は知っている。
ひたむきに注がれる想いと、まっすぐに向けられる眩しい笑顔を。もう一度、誰かを愛しいと想える気持ちを。
それは決して独りよがりではないはずで、だけど未だ強く踏み込むことはできなくて。意気地なしの自分は、ただこうして迷子のように袋小路で怯えているだけなのだ。
甲洋はコーヒーを飲み干すと、深く長い息を漏らす。一騎が小首を傾げた。
「来主のことか?」
心を読まれたのかと思ったが、そうではないらしい。
なぜ分かるのかと目だけで問えば、彼は眉を下げて苦笑した。
「総士から口止めされたんだ。来主に何を聞かれても、絶対に答えるなって」
「口止め?」
「あいつ、俺と総士のことが知りたかったみたいだ」
「ああ、そういうこと……」
つまり、そういうことだ。
先日、操は総士に会うのだと言って意気揚々と出かけて行った。そこでどんな話をしたのか、おかげでなんとなく予想がついた。
一騎と総士の関係には気がついていた。短い期間とはいえ、甲洋は彼らの家にも厄介になっていたのだから。
総士はそんなことおくびにも出さない振る舞いを一貫していたが、ふたりの間に流れる空気は、飼い主とイヌという枠を飛び越えたものだった。
そもそも一騎に隠す気がなかったのだから、嫌でも気がつく。
要するにダダ漏れだったのだ。
「別に教えてやればいいのにな。その方が手っ取り早いだろ?」
同意を求められても、甲洋は何も答えられない。
自分の色恋をあれこれ暴露するというのは、なかなかできることではないような気がする。
しかし一騎は意外にもオープン気質だ。繊細そうに見えて、実は大雑把なところがあるのだろうか。
「お前が相手なら、俺も総士も安心だよ」
「どうしてそう言える?」
「だって、お前は来主を傷つけないだろ?」
果たしてそれはどうだろう。自信がないから、こうして踏み出せないでいる。
つい先日だって、失態を犯したばかりだった。あのとき暴走しなかったのは奇跡に近い。
だってあんなキスは反則だ。小さな唇が濡れた音を立てながら吸いついてくる感触。正直、思いだしてはあのあとも幾度か催した。その度に一人で処理するというのは、なかなかに虚しいものがある。
「大変だな、お前」
一騎が気の毒そうに、そして心配そうにしみじみと言った。
「……視るなよ」
「視たくて視たんじゃない。視せられたんだ。お前、気をつけないとダダ漏れだったぞ」
ああ、自分も一騎のことは言えないのか。
あまりにも強烈な出来事だったせいか、あるいは甲洋に余裕がなさすぎるせいなのか、一騎にはその気がなくても視えてしまったのだ。
下手に心を開いたことが裏目にでた。いらぬ恥をかいてしまった気がするし、誰であっても自分以外のオスに操のあんな姿は知られたくない。
が、今のは甲洋が完全に油断していた。彼を責めることはできなかった。
「なんだか緊張してきたな」
「なんでお前が緊張するのさ」
「だって、近いうち挨拶に来ることになるんだろ? 息子さんを俺にくださいって」
「は……?」
「総士はわざわざスーツを用意しておくつもりでいるみたいだけど……俺はあまり堅くならない方がいいような気がするんだよな。どう思う?」
どう、と聞かれても困る。
一騎は真剣だ。こんな調子で、家でも総士とあれこれ話をしているのだろうか。確かにほとんど親代わりなのだろうが、わざわざ挨拶に行くなんて考えたこともなかった。
操も大概だが、一騎も総士も天然である。あの親にしてこの子ありとは、彼らのためにある言葉かもしれない。
「……まだ当分は先かもね」
そう言って、甲洋は力なく息を漏らした。
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