2025/09/15 Mon 1・まぼろし あの日、彼は確かに承太郎の傍にいた。 ころころと転がる鈴の音のような幼い声で、赤を乗せた丸い頬で、濡れた瞳で。 同じ歩幅で歩き、同じ寂しさを抱え、その隙間を埋めあいながら。 二人ならどこへだって行ける気がした。強くなれる気がした。 誰よりも大切で、かけがえのない存在だった。 笑った顔が眩しくて、泣いた顔が切なくて。 小さな強がりが危なっかしくて、だけどとても可愛くて。 あれは確かに恋だった。 いつまでもずっと一緒にいられるのだと信じて、共に歩む未来だけを思い描いて。二人は約束を交わした。小指を絡め合い、真っ直ぐにその目を見つめながら。 『おまえがどこに隠れてたって、必ずおれが見つけてやるよ』 幼き日。 沈みゆく夕陽の煌めきが、今は遠い。 * 真夏の焼けつくような空の下、黒の乗用車が深い渓谷を跨ぐ大橋にさしかかる。この橋を渡り切れば、じきに高校三年生までを過ごした田舎町に辿り着く。 まだどこか都会の雑多な空気の中にいるような感覚が、一気に過去へと引き戻されるような気がして、知らず大きな溜息が漏れた。 (去年の夏休みは、戻らなかったからな) 都会の大学へ進学して以来、承太郎が実家に戻る頻度は減っていた。 最後に帰ったのは去年の正月だ。本当は今年も帰らないつもりでいたが、寂しそうな母からの電話に思い直した。 承太郎の父は仕事の関係でほとんど家にいた試しがない。あの大きな家で一人暮らす母を思うと、帰らないわけにもいかない気がした。 承太郎は遠くの緑を白く染める、ギラギラとした太陽に目を眇めると、ハンドルを握り直した。そしてふと、橋の中腹に人だかりができていることに気がついた。 (なにかあったか) みな一様に橋の下を覗き込んでいたようだが、わざわざ車を停めてまで混ざる気にはなれなかった。 身投げした人間の遺体でも上がったか。昔からこの橋を死に場所に選ぶ人間は少なくなかった。どれほど高いフェンスで仕切っても、死の欲求に抗えない人間にとっては子供騙しにしかならないのだと思う。 命を手放す最期の瞬間。彼らは何を思うのだろう。 安息を求めて飛び込んだそこに、望む世界はあるのだろうか。 少しだけ、それを羨ましいと感じながら。 承太郎は母の待つ家へ向かって、ひたすら車を走らせた。 *** 大豪邸と言って差し支えないほどの立派な屋敷が、承太郎の生まれ育った家だった。 遥か彼方まで起伏をなす山々を背に、聳え立つ屋敷の周辺には広大な田園風景がどこまでも広がる。 ここ数年で移住者が増えたのか、申し訳程度にしかなかった民家の他に、真新しい家が何軒か増えていたが、相変わらず何もないど田舎に変わりはなかった。 久しぶりに帰った実家には、盆の時期ということもあり親戚連中が集まっていた。 当然のように父は不在だったが、子供の頃からよく知る叔父や叔母が昼間からわいわいと酒を飲んでは、それぞれの近況や昔話に花を咲かせている。 母は帰って来た承太郎にひとしきりハグをしてはしゃいだ後、次から次へと酒や料理を運ぶのに大忙しだった。 承太郎は酒盛りをする親戚連中を背に、縁側に胡坐をかいてぼんやりと庭を眺めていた。 夏の風に揺れる風鈴が涼やかな音色を奏で、昔に比べるといくらか元気のない蝉の合唱に耳を傾ける。ふわりと立ち上る蚊取り線香の匂いに、懐かしさが込み上げた。 広い庭では数人の子供たちが遊びまわっていた。親戚の子供だが、中には見知った顔もあれば、名前と顔が一致しない子供もいる。 暑いなか駆けまわる活気に満ちた姿へ目を細めると、承太郎はジーンズのポケットに手を忍ばせる。指先で探り当てたものを掌に乗せると、僅かに揺らして転がした。 それはまるでさくらんぼのような、二つの赤いピアスだった。 承太郎はただ静かに瞳を揺らし、昔はもっと赤々として光り輝いていたはずのピアスを見下ろす。 時がたつにつれ、誰にも身に着けてもらえないまま色褪せていく石は、承太郎の心だけを鈍く反射しているような気がした。 「そういや、ついさっきすぐそこの橋の下で仏さんが上がったってなぁ」 そっとピアスを握り込んだ承太郎の耳が、背後で酒を飲む誰かの声を拾う。 ぴくりと、無意識に眉が動くのを感じた。 「あらまぁ嫌だねぇ。身投げかい?」 「詳しいことはようわからんがね、だいぶ古くて白骨化した遺体だって話だ」 先刻、橋の上で見た一団はやはり野次馬だったか。 そんなことだろうとは思っていたが、遺体が古いという話を聞いた途端に心臓がドクンと跳ねた。じわじわと黒い靄が広がるように、身体の内側で何かが騒ぐ。 「おい叔父さん」 黙って聞いていた承太郎だが、矢も楯もたまらず振り向くと叔父に向かって声をかける。一斉に視線が集まる中、押し殺したような低い声で問いかけた。 「その遺体ってのは……子供か?」 叔父は手にしていたビールジョッキをテーブルに戻すと、否定とも肯定ともつかない曖昧な息を漏らす。 「大人と子供、両方だって話だ。親子心中なんてな、痛ましい話だ」 「……心中」 糸が張り詰めるように緊張していた身体から、ほんの僅かに力が抜けた。 悟られぬ程度に震えた息を漏らし、承太郎は再び庭の方へと視線を戻す。 (花京院じゃない、か) 胸の中から溢れ出るのは安堵と、ほんの僅かな落胆だった。 後者の感情は承太郎にとって忌むべきもので、自責の念に拍車をかけるには十分すぎる。 それでも、ほんの少しだけ。 (もう10年だ。なぁ、花京院) 庭に敷き詰められた白玉石が、真夏の金色を弾いて光り輝いている。承太郎の目に、それは些か眩しすぎた。目を逸らすように閉じた瞳の内側にさえ、光の残像がいつまでもこびりついて離れない。赤く、まるで責めるように燃えている。 あれは10年前の夏のこと。 承太郎は、大切な友人を失くした。 祭の夜だった。太鼓や笛の音色と、美しい衣を纏った巫女が艶やかに舞う神楽。承太郎がその美しさに目を奪われている間に、彼は、消えた。 警察や消防が必死の捜索を行ったが、神社からさほど離れていない山道で、彼が履いていた下駄の片方が見つかるだけだった。 年寄り連中はしきりに神隠しだなんだと騒ぎ立てていたが、熊に食われたか、崖から落ちて川に流されたのだろうと、町の人間は勿論、いつしか彼の両親までもが我が子の無事を諦めた。 そんな中、承太郎だけは納得することができなかった。花京院はどこかに隠れているだけなのだと、そう信じて思いつく限りの場所を必死で探して回った。けれど髪の毛一本、見つけ出すことは叶わなかった。 約束したのに。どこにいたって必ず、見つけてやると。 (おまえは、どこにもいやがらねえ) 月日の流れと共に、取り戻したかったはずの温もりが陽炎のように揺らめき、薄れていくのを感じていた。 手を伸ばしても、そこにあるのはバラバラに砕けた思い出の残骸だけだ。 砂のように崩れていく記憶が、絆が、指の隙間を零れ落ちていく。 忘れたい。忘れたくない。果たしたい。だけど果たせない。交わした約束が、遥か遠くの岸へと流されていくようで。 いつしか償う方法だけを、探すようになっていた。 俯き、額を押さえる承太郎の頬を生ぬるい風が撫でていく。そんな中ふと、辺りが異様なまでに静まり返っていることに気がついた。 親戚連中の話し声も、子供たちのはしゃぐ声も、痛々しい蝉の合唱も。 ただ、風鈴だけがチリンと音を立てた。 「ッ……!」 その違和感に顔を上げた。色を失くした世界は白黒で、微かにノイズがかかって見える。 恐ろしいまでの静寂の中、承太郎は目の前の光景から目が離せない。 それは、浴衣を着た小さな子供の姿をしていた。 白と黒の世界に、彼だけが色を失わず、目の前に佇んでいる。 緑色の浴衣に黄色みがかった献上柄の帯をして、焼下駄を履いているその姿は、あの祭の夜のまま何一つ変わらない。 赤い髪とビー玉のように丸い瞳が、縁側で硬直する承太郎を見つめている。 『おかえり』 懐かしい、幼い声でそう言って、少年は微笑んだ。 瞬きひとつできない承太郎は、震える指先を彼へと伸ばす。 「か、きょう、いん……?」 風鈴が、再び大きく音を奏でた。 「――ッ!!」 一瞬にして世界が色を取り戻す。真夏の陽光と庭の木々、駆けまわる子供たちの足音や、一斉に喚く蝉の声。 目の前に、花京院はいない。ただ、同じ年頃の少年が一人、目を丸くして小首を傾げていた。 「承太郎さん? どうしたんスか?」 「……仗助、か?」 「ういっす!」 青い浴衣を着た仗助は、親戚の子供たちの中でも特に承太郎に懐いている少年だった。 艶やかな黒髪をリーゼントで決めて、白い歯を見せながらニッと笑う姿は、記憶の中より一回り大きくなっている。 承太郎は内心の動揺を押し隠しながら表情を和らげた。 「でかくなったな。いま幾つだ?」 「10歳ッス! 小4になりました!」 「そうか」 「承太郎さん! 今夜はそこの神社でお祭りッスよ! 一緒に行きましょうよォ~!!」 「祭、か……」 縁側に腰を下ろす承太郎に駆け寄り、仗助が無邪気に目を輝かせて頷いた。 祭というワードに、心臓が針を刺したようにズキリと痛む。 承太郎はそのリーゼントを崩さない程度に大きな手の平でそっと撫で、苦笑しながら首を左右に振った。 「悪いな。おれは留守番だ。祭にはおまえらだけで行ってきな」 「そうっスかぁ……なら仕方ないっスね~……」 しょんぼりと俯きながらも聞き分けのいい仗助は、すぐに駆けだしてまた他の子供たちと遊び始めた。 その姿を眺めながら、承太郎はつい先ほど見た光景について思考を巡らせる。 (仗助を見間違えただけか……? あいつがいなくなったのも、ちょうど同じ年の頃だった) 白と黒の不思議な世界。あれは白昼夢のようなものだったのか。 久しぶりに長い時間車を走らせたせいで、少し疲れているのかもしれない。 仮に花京院が生きていたとして、あの頃の姿のままでいるはずがないのだから。 (……仮に、か) ふと、自嘲的な笑みが漏れる。 花京院は今も必ずどこかで生きていると、だから見つかるまで探し続けるのだと。幼い頃はそう信じていたはずなのに。 (わかっている。わかっているのさ) 大人になって、目に見える現実だけが全てだということを、承太郎は悟ってしまった。 花京院はもう、どこにもいない。 (頼む……許してくれ、花京院……) 彼の幻にまで縋ろうとしている自分が無様で、承太郎はそっと睫毛を揺らして瞳を閉じる。 どこからか漂う白檀を乗せた風に、風鈴が悲しげな音をたてた。 ――おかえり、承太郎。 *** 夜、誰もいない屋敷の内部はしんと静まり返っていた。 承太郎は自室に敷いた布団に寝そべり、ぼんやりと天井の木目を見つめる。 閉じられた障子の向こうから、夏の虫がどこか儚い声を響かせていた。それに混じって、微かに太鼓と笛の音が聞こえていた。 仗助を含む子供たちは、大人連中に連れられて今ごろ出店をひやかして回っていることだろう。母ホリィもまた、彼らの保護者として共に行ってしまった。 留守番をすると言った息子に、母は何も言わなかった。彼女は承太郎のことをよく分かってくれている。あるいは母もまた、責任を感じて今も胸を痛めているのかもしれない。 花京院はホリィによく懐いていた。ともすれば自分の母親以上に慕っていたのを覚えている。母もまた、彼を息子同然に可愛がっていた。 毎年のように行われる夏祭りでは、この町に暮らす女性が一人、神楽巫女として選ばれる。 10年前の今日、巫女を務めたのは母だった。 母はこの家に嫁入りしたに過ぎない他所者で、しかも日本人ではない。嫁いだ当初は周りの風当たりも相当厳しかったと聞いた。 だが彼女は持前の明るさと優しさで、少しずつこの町に溶け込んだ。今では『聖子』と日本人女性の名で呼ばれるほど、近所付き合いも良好だ。 だからあの年、母が巫女に選ばれたとき承太郎は心の底から誇らしかった。それは花京院も同じで、早くホリィさんの舞う神楽が見たいと頬を染めてはしゃいでいた。 花京院が姿を消したあと、母はやはり巫女の役を引き受けるべきではなかったと、涙を零していた。 あなたたちの傍についていれば、こんなことにはならなかったのにと。 どんな時でも笑顔を絶やさぬ母の泣き顔を思い出して、承太郎は心の中の澱みを逃がすように震える息を吐き出した。そしてふと、枕元に投げ出していた携帯電話で時刻を確認する。 ちょうど19時。そろそろ、今年の巫女が神楽を舞う頃か。 承太郎は仰向けから横向きへと姿勢を変え、背中を丸めると目を閉じた。 ――承太郎、起きて。待ちくたびれてしまったよ。 ←戻る ・ 次へ→
あの日、彼は確かに承太郎の傍にいた。
ころころと転がる鈴の音のような幼い声で、赤を乗せた丸い頬で、濡れた瞳で。
同じ歩幅で歩き、同じ寂しさを抱え、その隙間を埋めあいながら。
二人ならどこへだって行ける気がした。強くなれる気がした。
誰よりも大切で、かけがえのない存在だった。
笑った顔が眩しくて、泣いた顔が切なくて。
小さな強がりが危なっかしくて、だけどとても可愛くて。
あれは確かに恋だった。
いつまでもずっと一緒にいられるのだと信じて、共に歩む未来だけを思い描いて。二人は約束を交わした。小指を絡め合い、真っ直ぐにその目を見つめながら。
『おまえがどこに隠れてたって、必ずおれが見つけてやるよ』
幼き日。
沈みゆく夕陽の煌めきが、今は遠い。
*
真夏の焼けつくような空の下、黒の乗用車が深い渓谷を跨ぐ大橋にさしかかる。この橋を渡り切れば、じきに高校三年生までを過ごした田舎町に辿り着く。
まだどこか都会の雑多な空気の中にいるような感覚が、一気に過去へと引き戻されるような気がして、知らず大きな溜息が漏れた。
(去年の夏休みは、戻らなかったからな)
都会の大学へ進学して以来、承太郎が実家に戻る頻度は減っていた。
最後に帰ったのは去年の正月だ。本当は今年も帰らないつもりでいたが、寂しそうな母からの電話に思い直した。
承太郎の父は仕事の関係でほとんど家にいた試しがない。あの大きな家で一人暮らす母を思うと、帰らないわけにもいかない気がした。
承太郎は遠くの緑を白く染める、ギラギラとした太陽に目を眇めると、ハンドルを握り直した。そしてふと、橋の中腹に人だかりができていることに気がついた。
(なにかあったか)
みな一様に橋の下を覗き込んでいたようだが、わざわざ車を停めてまで混ざる気にはなれなかった。
身投げした人間の遺体でも上がったか。昔からこの橋を死に場所に選ぶ人間は少なくなかった。どれほど高いフェンスで仕切っても、死の欲求に抗えない人間にとっては子供騙しにしかならないのだと思う。
命を手放す最期の瞬間。彼らは何を思うのだろう。
安息を求めて飛び込んだそこに、望む世界はあるのだろうか。
少しだけ、それを羨ましいと感じながら。
承太郎は母の待つ家へ向かって、ひたすら車を走らせた。
***
大豪邸と言って差し支えないほどの立派な屋敷が、承太郎の生まれ育った家だった。
遥か彼方まで起伏をなす山々を背に、聳え立つ屋敷の周辺には広大な田園風景がどこまでも広がる。
ここ数年で移住者が増えたのか、申し訳程度にしかなかった民家の他に、真新しい家が何軒か増えていたが、相変わらず何もないど田舎に変わりはなかった。
久しぶりに帰った実家には、盆の時期ということもあり親戚連中が集まっていた。
当然のように父は不在だったが、子供の頃からよく知る叔父や叔母が昼間からわいわいと酒を飲んでは、それぞれの近況や昔話に花を咲かせている。
母は帰って来た承太郎にひとしきりハグをしてはしゃいだ後、次から次へと酒や料理を運ぶのに大忙しだった。
承太郎は酒盛りをする親戚連中を背に、縁側に胡坐をかいてぼんやりと庭を眺めていた。
夏の風に揺れる風鈴が涼やかな音色を奏で、昔に比べるといくらか元気のない蝉の合唱に耳を傾ける。ふわりと立ち上る蚊取り線香の匂いに、懐かしさが込み上げた。
広い庭では数人の子供たちが遊びまわっていた。親戚の子供だが、中には見知った顔もあれば、名前と顔が一致しない子供もいる。
暑いなか駆けまわる活気に満ちた姿へ目を細めると、承太郎はジーンズのポケットに手を忍ばせる。指先で探り当てたものを掌に乗せると、僅かに揺らして転がした。
それはまるでさくらんぼのような、二つの赤いピアスだった。
承太郎はただ静かに瞳を揺らし、昔はもっと赤々として光り輝いていたはずのピアスを見下ろす。
時がたつにつれ、誰にも身に着けてもらえないまま色褪せていく石は、承太郎の心だけを鈍く反射しているような気がした。
「そういや、ついさっきすぐそこの橋の下で仏さんが上がったってなぁ」
そっとピアスを握り込んだ承太郎の耳が、背後で酒を飲む誰かの声を拾う。
ぴくりと、無意識に眉が動くのを感じた。
「あらまぁ嫌だねぇ。身投げかい?」
「詳しいことはようわからんがね、だいぶ古くて白骨化した遺体だって話だ」
先刻、橋の上で見た一団はやはり野次馬だったか。
そんなことだろうとは思っていたが、遺体が古いという話を聞いた途端に心臓がドクンと跳ねた。じわじわと黒い靄が広がるように、身体の内側で何かが騒ぐ。
「おい叔父さん」
黙って聞いていた承太郎だが、矢も楯もたまらず振り向くと叔父に向かって声をかける。一斉に視線が集まる中、押し殺したような低い声で問いかけた。
「その遺体ってのは……子供か?」
叔父は手にしていたビールジョッキをテーブルに戻すと、否定とも肯定ともつかない曖昧な息を漏らす。
「大人と子供、両方だって話だ。親子心中なんてな、痛ましい話だ」
「……心中」
糸が張り詰めるように緊張していた身体から、ほんの僅かに力が抜けた。
悟られぬ程度に震えた息を漏らし、承太郎は再び庭の方へと視線を戻す。
(花京院じゃない、か)
胸の中から溢れ出るのは安堵と、ほんの僅かな落胆だった。
後者の感情は承太郎にとって忌むべきもので、自責の念に拍車をかけるには十分すぎる。
それでも、ほんの少しだけ。
(もう10年だ。なぁ、花京院)
庭に敷き詰められた白玉石が、真夏の金色を弾いて光り輝いている。承太郎の目に、それは些か眩しすぎた。目を逸らすように閉じた瞳の内側にさえ、光の残像がいつまでもこびりついて離れない。赤く、まるで責めるように燃えている。
あれは10年前の夏のこと。
承太郎は、大切な友人を失くした。
祭の夜だった。太鼓や笛の音色と、美しい衣を纏った巫女が艶やかに舞う神楽。承太郎がその美しさに目を奪われている間に、彼は、消えた。
警察や消防が必死の捜索を行ったが、神社からさほど離れていない山道で、彼が履いていた下駄の片方が見つかるだけだった。
年寄り連中はしきりに神隠しだなんだと騒ぎ立てていたが、熊に食われたか、崖から落ちて川に流されたのだろうと、町の人間は勿論、いつしか彼の両親までもが我が子の無事を諦めた。
そんな中、承太郎だけは納得することができなかった。花京院はどこかに隠れているだけなのだと、そう信じて思いつく限りの場所を必死で探して回った。けれど髪の毛一本、見つけ出すことは叶わなかった。
約束したのに。どこにいたって必ず、見つけてやると。
(おまえは、どこにもいやがらねえ)
月日の流れと共に、取り戻したかったはずの温もりが陽炎のように揺らめき、薄れていくのを感じていた。
手を伸ばしても、そこにあるのはバラバラに砕けた思い出の残骸だけだ。
砂のように崩れていく記憶が、絆が、指の隙間を零れ落ちていく。
忘れたい。忘れたくない。果たしたい。だけど果たせない。交わした約束が、遥か遠くの岸へと流されていくようで。
いつしか償う方法だけを、探すようになっていた。
俯き、額を押さえる承太郎の頬を生ぬるい風が撫でていく。そんな中ふと、辺りが異様なまでに静まり返っていることに気がついた。
親戚連中の話し声も、子供たちのはしゃぐ声も、痛々しい蝉の合唱も。
ただ、風鈴だけがチリンと音を立てた。
「ッ……!」
その違和感に顔を上げた。色を失くした世界は白黒で、微かにノイズがかかって見える。
恐ろしいまでの静寂の中、承太郎は目の前の光景から目が離せない。
それは、浴衣を着た小さな子供の姿をしていた。
白と黒の世界に、彼だけが色を失わず、目の前に佇んでいる。
緑色の浴衣に黄色みがかった献上柄の帯をして、焼下駄を履いているその姿は、あの祭の夜のまま何一つ変わらない。
赤い髪とビー玉のように丸い瞳が、縁側で硬直する承太郎を見つめている。
『おかえり』
懐かしい、幼い声でそう言って、少年は微笑んだ。
瞬きひとつできない承太郎は、震える指先を彼へと伸ばす。
「か、きょう、いん……?」
風鈴が、再び大きく音を奏でた。
「――ッ!!」
一瞬にして世界が色を取り戻す。真夏の陽光と庭の木々、駆けまわる子供たちの足音や、一斉に喚く蝉の声。
目の前に、花京院はいない。ただ、同じ年頃の少年が一人、目を丸くして小首を傾げていた。
「承太郎さん? どうしたんスか?」
「……仗助、か?」
「ういっす!」
青い浴衣を着た仗助は、親戚の子供たちの中でも特に承太郎に懐いている少年だった。
艶やかな黒髪をリーゼントで決めて、白い歯を見せながらニッと笑う姿は、記憶の中より一回り大きくなっている。
承太郎は内心の動揺を押し隠しながら表情を和らげた。
「でかくなったな。いま幾つだ?」
「10歳ッス! 小4になりました!」
「そうか」
「承太郎さん! 今夜はそこの神社でお祭りッスよ! 一緒に行きましょうよォ~!!」
「祭、か……」
縁側に腰を下ろす承太郎に駆け寄り、仗助が無邪気に目を輝かせて頷いた。
祭というワードに、心臓が針を刺したようにズキリと痛む。
承太郎はそのリーゼントを崩さない程度に大きな手の平でそっと撫で、苦笑しながら首を左右に振った。
「悪いな。おれは留守番だ。祭にはおまえらだけで行ってきな」
「そうっスかぁ……なら仕方ないっスね~……」
しょんぼりと俯きながらも聞き分けのいい仗助は、すぐに駆けだしてまた他の子供たちと遊び始めた。
その姿を眺めながら、承太郎はつい先ほど見た光景について思考を巡らせる。
(仗助を見間違えただけか……? あいつがいなくなったのも、ちょうど同じ年の頃だった)
白と黒の不思議な世界。あれは白昼夢のようなものだったのか。
久しぶりに長い時間車を走らせたせいで、少し疲れているのかもしれない。
仮に花京院が生きていたとして、あの頃の姿のままでいるはずがないのだから。
(……仮に、か)
ふと、自嘲的な笑みが漏れる。
花京院は今も必ずどこかで生きていると、だから見つかるまで探し続けるのだと。幼い頃はそう信じていたはずなのに。
(わかっている。わかっているのさ)
大人になって、目に見える現実だけが全てだということを、承太郎は悟ってしまった。
花京院はもう、どこにもいない。
(頼む……許してくれ、花京院……)
彼の幻にまで縋ろうとしている自分が無様で、承太郎はそっと睫毛を揺らして瞳を閉じる。
どこからか漂う白檀を乗せた風に、風鈴が悲しげな音をたてた。
――おかえり、承太郎。
***
夜、誰もいない屋敷の内部はしんと静まり返っていた。
承太郎は自室に敷いた布団に寝そべり、ぼんやりと天井の木目を見つめる。
閉じられた障子の向こうから、夏の虫がどこか儚い声を響かせていた。それに混じって、微かに太鼓と笛の音が聞こえていた。
仗助を含む子供たちは、大人連中に連れられて今ごろ出店をひやかして回っていることだろう。母ホリィもまた、彼らの保護者として共に行ってしまった。
留守番をすると言った息子に、母は何も言わなかった。彼女は承太郎のことをよく分かってくれている。あるいは母もまた、責任を感じて今も胸を痛めているのかもしれない。
花京院はホリィによく懐いていた。ともすれば自分の母親以上に慕っていたのを覚えている。母もまた、彼を息子同然に可愛がっていた。
毎年のように行われる夏祭りでは、この町に暮らす女性が一人、神楽巫女として選ばれる。
10年前の今日、巫女を務めたのは母だった。
母はこの家に嫁入りしたに過ぎない他所者で、しかも日本人ではない。嫁いだ当初は周りの風当たりも相当厳しかったと聞いた。
だが彼女は持前の明るさと優しさで、少しずつこの町に溶け込んだ。今では『聖子』と日本人女性の名で呼ばれるほど、近所付き合いも良好だ。
だからあの年、母が巫女に選ばれたとき承太郎は心の底から誇らしかった。それは花京院も同じで、早くホリィさんの舞う神楽が見たいと頬を染めてはしゃいでいた。
花京院が姿を消したあと、母はやはり巫女の役を引き受けるべきではなかったと、涙を零していた。
あなたたちの傍についていれば、こんなことにはならなかったのにと。
どんな時でも笑顔を絶やさぬ母の泣き顔を思い出して、承太郎は心の中の澱みを逃がすように震える息を吐き出した。そしてふと、枕元に投げ出していた携帯電話で時刻を確認する。
ちょうど19時。そろそろ、今年の巫女が神楽を舞う頃か。
承太郎は仰向けから横向きへと姿勢を変え、背中を丸めると目を閉じた。
――承太郎、起きて。待ちくたびれてしまったよ。
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