2025/09/15 Mon 3・黄昏の路 「君、足を怪我したようだが……」 大丈夫かい、と問いかけてくるその言葉遣いが大人びていて、承太郎は丸い瞳を見開きながら幾度か瞬きをした。 階段からうっかり足を踏み外し、何段か転げ落ちてしまった承太郎の左足は、膝小僧が擦りむけて血を流している。 それを見て、赤い髪をした少年は硬い表情でハンカチを差し出してきた。 小さな白い手が差し出す清潔そうなハンカチを、承太郎は胸を大きく高鳴らせながら咄嗟に受けとる。 「あ、ありがとうよ」 立ち上がって礼を言うと、少年は強ばった表情のまま無言で背を向けようとする。それを咄嗟に引きとめた。 「待て」 「……なに?」 「ああ、いや……おまえ、花京院、だったな。転校してきたばっかの」 「そう、だけど」 花京院は緊張した様子で肩を強ばらせていた。それもそうだ。同じクラスというだけで、一度も関わったことのない人間に急に引きとめられたら、誰だって驚くだろう。 だけど承太郎はこの花京院のことが、密かにずっと気になっていた。理由は違えどいつも一人でいる同士、もしかしたら、通ずるものがあるかもしれないと。 「おまえ、いまヒマか?」 「うん、まあ……」 「ならよ、ちょっと話さねーか」 勇気を振り絞っての誘いに、花京院の瞳が揺れる。それが少し不安そうに見えて、彼もやはり学校の連中と同じなのかと落胆しかけた。 だが、それはすぐに花京院が見せた笑顔によって掻き消された。 彼はゆっくりと花が開くように表情を和らげると、頬を赤くして「いいよ」と言った。 笑えば、きっととても可愛いだろうと思っていた。予想通り、花京院の少し恥ずかしそうな笑顔はまるで天使のようで、承太郎は自分まで頬が赤らむのを感じながら急いで目を逸らした。 それから二人は階段の隅に並んで腰掛けて、ぽつりぽつりと不器用に会話を重ねた。 「花京院は、どっから来たんだ。都会の方か?」 「どうかな……ここよりはもう少し建物が多い程度、だったと思うよ」 「へえ。なら、けっこう都会だな」 「わかんないよ」 花京院は少し困ったように眉をさげ、肩を竦めながら指先で頬を掻いて見せた。はにかんだような笑顔を真っ直ぐ見ることができなくて、承太郎は膝小僧の傷が気になる素振りで視線を落とす。 思えば、同年代の子供とこうしてまともに会話をするのは初めてだ。親戚にも子供はいて、盆や正月には遊びに来たりもするけれど、血の繋がりのない他人とこんな風に過ごすことは今までなかった。 「君、さっきのハンカチ」 「え?」 「ぼくに貸して」 承太郎は受け取ったハンカチをずっと握りしめたままだったことに気づいて、慌てて指を開いた。皺ひとつなかったそれがくしゃくしゃになっているのを見て、しまったと思う。 花京院は特に気にした様子もなくそれを取ると、どこか遠慮がちにハンカチで承太郎の膝小僧をつついた。 「イテッ」 「ご、ごめん。でも、すごい血が出てるから」 思わず泣き言を漏らしてしまったのが恥ずかしい。しかも花京院の白いハンカチが赤黒い血で汚れていくことに、罪悪感が募った。 ぐっと唇を引き結んだ承太郎に、花京院も同じく唇を噛み締めながら慎重に血を拭っていく。そして最後に「ちょっと足を伸ばして」と言われて素直に応じる。 花京院はハンカチを裏返し、細長く折りたたむと承太郎の傷ついた膝に巻き付け、きゅっと縛りつけた。 「うちに帰ったら、ちゃんと洗って薬をつけないとダメだよ」 「お、おう。ありがとな」 「どういたしまして」 花京院がホッとしたように肩から力を抜き、笑顔を浮かべる。やっぱり可愛いと思った。承太郎はますます胸がドキドキするのを感じながらそっぽを向く。 一体なんだろうこの気持ちは。花京院のことはずっと気になっていたが、いざとなるとこんなにも緊張するものなのか。 そのまま会話が途切れてしまったところで、承太郎はちらりと隣を横目で見た。 花京院は自分の両膝を両腕で抱きしめながら俯いている。その頬が耳まで赤いのを見て、もしかしたら彼も自分と同じなのかもしれないと感じた。 そうなら嬉しいが、同時に不安もある。 「なあ」 「なんだい?」 「おまえ、怖くねえのか」 「なにが?」 「おれが」 少し唇を尖らせ気味に、ぶっきらぼうに問いかけた。花京院はこちらを見ながら小首を傾げ、すぐに赤い前髪を揺らして首を左右に振る。 本当か、と問いかけると、今度は大きく頷かれた。 「そうか……」 嬉しかった。 クラスメイトや他の学年の連中は、承太郎の目の色がおかしいだとか、デカいからって威張ってるだとか、くだらないことばかり言って難癖をつけてくる。 女子は女子で、いつもグループを作ってこちらをチラチラと見てくるだけだ。言いたいことがあるならハッキリ言えと睨み付ければ、すぐに悲鳴をあげて逃げ出してしまう。 学校は、本当につまらない連中ばかりだった。だけどずっと、この花京院は何か違うような気がしていた。そんなイメージを勝手に抱いていただけだが、この目に狂いがなかったことを知って、つい頬が緩むのを抑えきれなかった。 花京院はそんな承太郎を見て、視線だけ俯かせながら膝の上で両手をもじもじとさせる。 「ぼく、キラキラした緑色が好きなんだ」 「緑?」 「うん……だから君の目、とてもキレイだと思って」 ――本当はずっと、話をしてみたかった。 承太郎はその告白を聞いて、目と口を丸く見開いた。 お互いがお互いを意識していたなんて、こうして話をするまでちっとも分からなかった。 承太郎は今までずっと見て見ぬふりをしてきた孤独の存在を、このとき初めて認めることができたような気がした。本当はずっと寂しかったのだということを。 その心の隙間が、このたった短い間に埋まっていくのを感じる。 「おれ、承太郎だ」 花京院に向かって、手を差し出す。 「承太郎くん」 少し躊躇いがちではあったが、白い手がそっと重なり、同時に握り合った。花京院の手は小さくて、柔らかくて、そしてとても温かかった。どうしてか胸が締め付けられるような気がした。 「承太郎でいいぜ。花京院」 「じょうたろ?」 「そう、そんな感じだ」 「よろしく、承太郎」 「おう、よろしくな」 目と目を合わせて、二人はにっこりとほほ笑み合う。 この瞬間から、彼は承太郎にとって唯一無二の存在になった。 * それから、二人はいつも一緒にいるようになった。 学校の行き帰りはもちろん、一度家に帰るとあの神社の石段で待ち合わせをして、日が暮れるまで話をしたり、遊んだりした。 承太郎は花京院と過ごすようになって、初めて誰かに歩幅を合わせるということを覚えた。自分と並んで歩く花京院が、いつも小走りで息を弾ませていることに気がついたからだ。 言ってくれればいいのにと思ったが、一緒に過ごすうちに花京院は決して弱音を吐かない性格だということが分かってきた。 いい意味でとても頑固で、負けず嫌いだ。顔は女みたいに可愛いが、その意外なギャップが承太郎はとても気に入っている。 花京院は最初こそ緊張して態度も控えめだったが、打ち解けていくほどに年相応の素顔を見せるようになっていった。 そして、承太郎に様々な話を聞かせてくれた。 ここに引っ越してきたのは、両親の仕事の都合であること。 前の学校でもあまりクラスに馴染めていなかったこと。 本を読んだり、ゲームをして遊ぶのが好きで、チェリーが大好物。あまりにも好きすぎて、家で使っている専用のマグカップや、箸や茶碗までチェリー柄なのだと、恥ずかしそうに教えてくれた。 承太郎はそんな花京院の話を聞くのが好きだった。 自分も星のマークが好きで、なんでもかんでも星で揃えてしまうんだと教えたら、ぼくたち似てるね、なんて言ってノォホホとおかしな笑い声をあげていた。 二人で過ごす時間は承太郎にとって何よりも心地よく、かけがえのないものになっていた。温かくて、優しい気持ちになれる、特別なものだった。 何度か家にも招いたが、花京院は母ともすぐに仲良くなった。あまりにもなついてしまったものだから、少し面白くないと感じてしまうほどに。 それは、そんなある日の出来事だ。 帰宅後にいつものように神社で待ち合わせをした二人は、しばらく話し込んだあと、かくれんぼをして遊ぶことになった。 じゃんけんで負けて、鬼になったのは承太郎。 「やった! ぼくが隠れる役だ!」 「ちぇ、しょうがねえな。すぐ見つけてやるぜ」 「それはどうかなー?」 花京院のどこか挑発的な笑みに、闘争心が沸き上がる。承太郎も彼に劣らず負けず嫌いだった。 「うるせえ! ゆっっくり数えてやるから、とっとと隠れな!」 高らかに宣言して、鳥居の柱に身を寄せ数を数え始めると、花京院の慌てたような足音がどんどん離れて行く。 (花京院のヤロウ、3分で見つけてやるぜ) 宣言通り十までゆっくり時間をかけて数えると、勢いよく辺りを見渡す。石畳の先へ駆け出し、まずは社殿の賽銭箱まで近づくと裏側を覗く。いない。それからすぐ格子状の扉に張り付くようにして社殿内部を覗き込んだが、中は暗くてよく見えなかった。 それ以前に鍵がかかっていて扉は開かないようだ。 「くそ、どこに隠れていやがる」 3分なんて目標は流石に無理だが、絶対に見つけ出すと決めて、今度は建物の縁の下を探すことにした。暗くて見えないが、四つん這いになればどうにか潜り込んで行けそうだ。 この辺りは他に隠れられそうな場所はないし、この神社は拝殿と神殿が一つになっていて他に建物はない。さらに山の中であるため周辺には森が広がっていて、子供だけで立ち入ることは禁じられている。だから花京院はここに潜んでいるような気がした。 「おい花京院、そこに隠れてんだろ? 諦めて出てきな」 ずりずりと膝を引きずり、暗闇の中で声をかける。が、返事はない。それもそうだ。しっかり目視で確認して初めて成立するのだし、なにより負けず嫌いな花京院が素直に出てくるはずがない。 だがほんの僅かだが気配のようなものを感じて、予想は確信に変わった。 承太郎はニヤリと笑いながらさらに奥へと押し入ろうとした。そのとき。 闇の中で、影が動いた。 「!?」 それはまさに黒い塊で、物凄い早さで承太郎の横をすり抜ける。 「うわッ!!」 あまりの驚きに、思わずその場で尻餅をついてしまった。慌てて這うようにしながら抜け出すと、遠ざかる影を目で追いかける。森の茂みに向かって全力で駆けていくのは、一匹の黒い野良猫だった。 「なんだ、ビックリさせやがって」 承太郎は立ち上がり、服や手足についた土を払い落とした。感じていた気配は、あの黒猫のものだったらしい。 だとしたら、花京院はどこにいる? 承太郎は考えながら社殿の裏手に回ったり、黒猫が消えた茂みなど、周辺をくまなく探した。 だが、見つからない。 「おい花京院! どこだ!」 呼びかけても返事はない。ただ、冷たい風がざわざわと木々を揺らすだけだ。 そうしている間に、夕陽はどんどん沈んでいこうとしていた。 まずい。早く見つけてかくれんぼを終わらせなければ、自分も花京院も帰れない。 ふと、この敷地内にいないのならば、石段の下にならいるかもしれないと思った。長い階段の下には小さな公園もある。遊具は錆びていて、誰も遊ぶ人間はいないが、もしかしたらそこにいるのではないか。 承太郎は急いで階段を駆けおりて、打ち捨てられたような遊具が並ぶ公園内部を見回した。そこには古いシーソーとブランコ、鉄棒があるだけで、野良猫一匹いやしない。 「花京院……」 承太郎の胸に、徐々に不安が押し寄せる。このまま見つからなかったらどうしよう。誰かに連れ去られたのではないか。それとも、なかなか見つけてもらえないから、先に帰ってしまったのか? ならばいっそ、その方がよかった。無事に家に戻っているのなら、それが一番安心だ。 だが、花京院は絶対にそんな真似はしないだろう。承太郎を置いて先に帰るなんて、考えられない。 付き合いこそまだ短いが、承太郎は花京院がどんな人間か、よく分かっているつもりだ。だから絶対にどこかにいるはず。 承太郎は考えるよりも先に、再び神社へ向かって石段を駆けのぼっていた。 勘にしかすぎないが、やはり花京院はまだそこにいるような気がする。 息を切らしながら長い階段をのぼりきり、赤い鳥居をくぐると周辺を見渡す。吹き抜ける風に微かな夜の気配を感じながら、目を閉じて耳を澄ました。 すると、微かに何かを引っ掻いたり、叩くような音が聞こえた気がした。 「花京院ッ!」 承太郎が声を張り上げると、その音は止んだ。代わりに、小さな声が遠くから承太郎を呼んだ。 その声を頼りに走り出し、辿り着いたのは先刻も覗いたはずの、社殿の裏手だった。立ち並ぶスギノキが、黒い影のように狭い範囲を覆っている。そこには古びた祠が幾つか並んでいて、声はそこから聞こえているようだった。 「そこか! 花京院ッ!!」 「承太郎? 承太郎ッ!!」 はっきりと花京院の声を聞いた瞬間、安堵に膝から崩れ落ちそうになった。 よかった。彼はちゃんとここにいた。 承太郎の背丈ほどしかない小さな祠は、ちょうど小さな子供が一人くらいなら隠れられそうな大きさだ。どうしてさっき覗いたときに気がつかなかったんだと後悔しながら駆け寄り、手を伸ばす。両開きの扉は固く閉じられていて、片方に足をかけて全力で引っ張ることで、ようやくバキバキと音を立てながら開いた。 「ッ!!」 「承太郎ッ!!」 その瞬間、飛び出して来た花京院が両腕で抱き付いて来て、受け止めきれずに揃って地面に崩れ落ちる。 「遅いよ、承太郎……ッ」 「か、きょういん……」 承太郎の首に抱き付いたまま、花京院は小さく身を震わせていた。よほど不安だったのだろう。鼻をすすり、しゃくりを上げている様に、承太郎も一緒に泣きたくなったが、ぐっと堪えて思い切り抱き返した。 「このバカ! なんてとこに隠れてんだッ!!」 「だって、だってしょうがないだろ! ここなら絶対に見つからないと思ったし、それに、扉が開かなくなっちゃったんだッ!!」 どうやら花京院は、この小さな祠に入ったはいいものの出て来られない状況に陥っていたらしい。 少し呆れて言葉を失っていると、彼は承太郎の肩に埋めていた顔をあげた。鼻まで赤くして、不貞腐れたように唇を引き結んでいる。涙をいっぱいに溜めた瞳に、堪らない気持ちになって震える息を吐き出した。 「見つからなかったら、どうしようかと思ったじゃねーか……」 泣き濡れた丸い頬の片方に触れながら、労わるように撫でてやる。花京院は大きく鼻をすすって、ごめんと零すと項垂れた。 本当は何度でもバカと言ってやりたかった。だけど、彼が無事に見つかったことの方がずっと大きくて、言葉がでない。 一瞬でも考えた。もしこのまま、花京院を見つけ出すことができなかったら、と。 こうして無事を確認できた今、安堵と一緒に言い知れぬ不安が押し寄せる。 腕の中で泣いている、この小さくて大切な友達を。 永遠に失うことになったら、自分は生きていけるだろうかと。 (そんなの無理に決まってる) 承太郎にとって花京院は、なくてはならない存在だ。 初めて見たときからずっと近づきたいと思っていた。なにか不思議な力に引き寄せられるみたいに、惹かれていた。 多分きっと、これから先もずっとそうだ。ずっとずっと、大人になっても一緒にいたい。 「泣くな、花京院」 「泣いてなんか、ないよ」 「ぼろぼろ泣いてんじゃねーか。怖かったんだろ。遅くなって悪かった」 無造作に頭を撫でてやると、彼は嫌々とむずがるように首を左右に振ると「違う」と言った。 「そりゃ、ちょっとは怖かったさ。それは認める。だけど、信じてたから。承太郎のこと」 ――きっとぼくを見つけてくれるって。 そう言って、花京院は笑った。 瞳にいっぱい涙を浮かべているくせに、承太郎の服を掴んだまま離さないくせに。 熱いものが胸に溢れそうなほど込み上げた。湧き水のように止まらない思いに少しだけ苦しくなりながら、承太郎も笑って頷いた。 「約束だ」 握った拳の、小指だけを立ててそっと差し出す。 「おまえがどこに隠れてたって、必ずおれが見つけてやるよ」 花京院はつぶらな瞳を見開いて、目の前の小指を見つめている。それからすぐに視線を承太郎の顔に向けて、嬉しそうにいちど唇を噛み締めると、同じように立てた小指を差し出して来た。 絡み合う指と指が熱い。なんだか照れ臭くなってきて、気づけば二人は真っ赤な顔で俯いていた。 離すタイミングが分からない小指を握り合ったまま、ぶらぶらと動かしたりして言葉を探した。その戯れが、なおのこと恥ずかしいような気がしてきた頃、先に沈黙を破ったのはおどけたような花京院の声だった。 「じゃあ、じゃあさ。次はもっと難しいところに、隠れなくちゃあいけないな」 思わず、小さく噴き出してしまった。 「このバカ野郎」 「だって悔しいじゃないか。かくれんぼは承太郎の勝ちだもん」 「だったらずっとおれの勝ちだぜ。残念だったな」 勝ち誇ったように言うと、花京院はあのノォホホというおかしな声で笑った。 「オラ、もう日が暮れちまう。帰ろうぜ」 「うん」 承太郎が立ち上がるのと一緒に、花京院も立ち上がる。小指は離れたが、代わりに手を繋いで、二人は同じ歩幅で歩き始めた。 このときの花京院を、承太郎は死ぬまでずっと覚えていようと思った。 色濃い夕陽に焼かれた、燃えるように赤い髪を、濡れたままキラキラと輝く瞳を、握った手の、汗ばむほどの熱さを。 沈みゆく夕陽の煌めきの中で。 カラスの鳴き声を聞きながら、彼と歩む、未来を想った。 ←戻る ・ 次へ→
「君、足を怪我したようだが……」
大丈夫かい、と問いかけてくるその言葉遣いが大人びていて、承太郎は丸い瞳を見開きながら幾度か瞬きをした。
階段からうっかり足を踏み外し、何段か転げ落ちてしまった承太郎の左足は、膝小僧が擦りむけて血を流している。
それを見て、赤い髪をした少年は硬い表情でハンカチを差し出してきた。
小さな白い手が差し出す清潔そうなハンカチを、承太郎は胸を大きく高鳴らせながら咄嗟に受けとる。
「あ、ありがとうよ」
立ち上がって礼を言うと、少年は強ばった表情のまま無言で背を向けようとする。それを咄嗟に引きとめた。
「待て」
「……なに?」
「ああ、いや……おまえ、花京院、だったな。転校してきたばっかの」
「そう、だけど」
花京院は緊張した様子で肩を強ばらせていた。それもそうだ。同じクラスというだけで、一度も関わったことのない人間に急に引きとめられたら、誰だって驚くだろう。
だけど承太郎はこの花京院のことが、密かにずっと気になっていた。理由は違えどいつも一人でいる同士、もしかしたら、通ずるものがあるかもしれないと。
「おまえ、いまヒマか?」
「うん、まあ……」
「ならよ、ちょっと話さねーか」
勇気を振り絞っての誘いに、花京院の瞳が揺れる。それが少し不安そうに見えて、彼もやはり学校の連中と同じなのかと落胆しかけた。
だが、それはすぐに花京院が見せた笑顔によって掻き消された。
彼はゆっくりと花が開くように表情を和らげると、頬を赤くして「いいよ」と言った。
笑えば、きっととても可愛いだろうと思っていた。予想通り、花京院の少し恥ずかしそうな笑顔はまるで天使のようで、承太郎は自分まで頬が赤らむのを感じながら急いで目を逸らした。
それから二人は階段の隅に並んで腰掛けて、ぽつりぽつりと不器用に会話を重ねた。
「花京院は、どっから来たんだ。都会の方か?」
「どうかな……ここよりはもう少し建物が多い程度、だったと思うよ」
「へえ。なら、けっこう都会だな」
「わかんないよ」
花京院は少し困ったように眉をさげ、肩を竦めながら指先で頬を掻いて見せた。はにかんだような笑顔を真っ直ぐ見ることができなくて、承太郎は膝小僧の傷が気になる素振りで視線を落とす。
思えば、同年代の子供とこうしてまともに会話をするのは初めてだ。親戚にも子供はいて、盆や正月には遊びに来たりもするけれど、血の繋がりのない他人とこんな風に過ごすことは今までなかった。
「君、さっきのハンカチ」
「え?」
「ぼくに貸して」
承太郎は受け取ったハンカチをずっと握りしめたままだったことに気づいて、慌てて指を開いた。皺ひとつなかったそれがくしゃくしゃになっているのを見て、しまったと思う。
花京院は特に気にした様子もなくそれを取ると、どこか遠慮がちにハンカチで承太郎の膝小僧をつついた。
「イテッ」
「ご、ごめん。でも、すごい血が出てるから」
思わず泣き言を漏らしてしまったのが恥ずかしい。しかも花京院の白いハンカチが赤黒い血で汚れていくことに、罪悪感が募った。
ぐっと唇を引き結んだ承太郎に、花京院も同じく唇を噛み締めながら慎重に血を拭っていく。そして最後に「ちょっと足を伸ばして」と言われて素直に応じる。
花京院はハンカチを裏返し、細長く折りたたむと承太郎の傷ついた膝に巻き付け、きゅっと縛りつけた。
「うちに帰ったら、ちゃんと洗って薬をつけないとダメだよ」
「お、おう。ありがとな」
「どういたしまして」
花京院がホッとしたように肩から力を抜き、笑顔を浮かべる。やっぱり可愛いと思った。承太郎はますます胸がドキドキするのを感じながらそっぽを向く。
一体なんだろうこの気持ちは。花京院のことはずっと気になっていたが、いざとなるとこんなにも緊張するものなのか。
そのまま会話が途切れてしまったところで、承太郎はちらりと隣を横目で見た。
花京院は自分の両膝を両腕で抱きしめながら俯いている。その頬が耳まで赤いのを見て、もしかしたら彼も自分と同じなのかもしれないと感じた。
そうなら嬉しいが、同時に不安もある。
「なあ」
「なんだい?」
「おまえ、怖くねえのか」
「なにが?」
「おれが」
少し唇を尖らせ気味に、ぶっきらぼうに問いかけた。花京院はこちらを見ながら小首を傾げ、すぐに赤い前髪を揺らして首を左右に振る。
本当か、と問いかけると、今度は大きく頷かれた。
「そうか……」
嬉しかった。
クラスメイトや他の学年の連中は、承太郎の目の色がおかしいだとか、デカいからって威張ってるだとか、くだらないことばかり言って難癖をつけてくる。
女子は女子で、いつもグループを作ってこちらをチラチラと見てくるだけだ。言いたいことがあるならハッキリ言えと睨み付ければ、すぐに悲鳴をあげて逃げ出してしまう。
学校は、本当につまらない連中ばかりだった。だけどずっと、この花京院は何か違うような気がしていた。そんなイメージを勝手に抱いていただけだが、この目に狂いがなかったことを知って、つい頬が緩むのを抑えきれなかった。
花京院はそんな承太郎を見て、視線だけ俯かせながら膝の上で両手をもじもじとさせる。
「ぼく、キラキラした緑色が好きなんだ」
「緑?」
「うん……だから君の目、とてもキレイだと思って」
――本当はずっと、話をしてみたかった。
承太郎はその告白を聞いて、目と口を丸く見開いた。
お互いがお互いを意識していたなんて、こうして話をするまでちっとも分からなかった。
承太郎は今までずっと見て見ぬふりをしてきた孤独の存在を、このとき初めて認めることができたような気がした。本当はずっと寂しかったのだということを。
その心の隙間が、このたった短い間に埋まっていくのを感じる。
「おれ、承太郎だ」
花京院に向かって、手を差し出す。
「承太郎くん」
少し躊躇いがちではあったが、白い手がそっと重なり、同時に握り合った。花京院の手は小さくて、柔らかくて、そしてとても温かかった。どうしてか胸が締め付けられるような気がした。
「承太郎でいいぜ。花京院」
「じょうたろ?」
「そう、そんな感じだ」
「よろしく、承太郎」
「おう、よろしくな」
目と目を合わせて、二人はにっこりとほほ笑み合う。
この瞬間から、彼は承太郎にとって唯一無二の存在になった。
*
それから、二人はいつも一緒にいるようになった。
学校の行き帰りはもちろん、一度家に帰るとあの神社の石段で待ち合わせをして、日が暮れるまで話をしたり、遊んだりした。
承太郎は花京院と過ごすようになって、初めて誰かに歩幅を合わせるということを覚えた。自分と並んで歩く花京院が、いつも小走りで息を弾ませていることに気がついたからだ。
言ってくれればいいのにと思ったが、一緒に過ごすうちに花京院は決して弱音を吐かない性格だということが分かってきた。
いい意味でとても頑固で、負けず嫌いだ。顔は女みたいに可愛いが、その意外なギャップが承太郎はとても気に入っている。
花京院は最初こそ緊張して態度も控えめだったが、打ち解けていくほどに年相応の素顔を見せるようになっていった。
そして、承太郎に様々な話を聞かせてくれた。
ここに引っ越してきたのは、両親の仕事の都合であること。
前の学校でもあまりクラスに馴染めていなかったこと。
本を読んだり、ゲームをして遊ぶのが好きで、チェリーが大好物。あまりにも好きすぎて、家で使っている専用のマグカップや、箸や茶碗までチェリー柄なのだと、恥ずかしそうに教えてくれた。
承太郎はそんな花京院の話を聞くのが好きだった。
自分も星のマークが好きで、なんでもかんでも星で揃えてしまうんだと教えたら、ぼくたち似てるね、なんて言ってノォホホとおかしな笑い声をあげていた。
二人で過ごす時間は承太郎にとって何よりも心地よく、かけがえのないものになっていた。温かくて、優しい気持ちになれる、特別なものだった。
何度か家にも招いたが、花京院は母ともすぐに仲良くなった。あまりにもなついてしまったものだから、少し面白くないと感じてしまうほどに。
それは、そんなある日の出来事だ。
帰宅後にいつものように神社で待ち合わせをした二人は、しばらく話し込んだあと、かくれんぼをして遊ぶことになった。
じゃんけんで負けて、鬼になったのは承太郎。
「やった! ぼくが隠れる役だ!」
「ちぇ、しょうがねえな。すぐ見つけてやるぜ」
「それはどうかなー?」
花京院のどこか挑発的な笑みに、闘争心が沸き上がる。承太郎も彼に劣らず負けず嫌いだった。
「うるせえ! ゆっっくり数えてやるから、とっとと隠れな!」
高らかに宣言して、鳥居の柱に身を寄せ数を数え始めると、花京院の慌てたような足音がどんどん離れて行く。
(花京院のヤロウ、3分で見つけてやるぜ)
宣言通り十までゆっくり時間をかけて数えると、勢いよく辺りを見渡す。石畳の先へ駆け出し、まずは社殿の賽銭箱まで近づくと裏側を覗く。いない。それからすぐ格子状の扉に張り付くようにして社殿内部を覗き込んだが、中は暗くてよく見えなかった。
それ以前に鍵がかかっていて扉は開かないようだ。
「くそ、どこに隠れていやがる」
3分なんて目標は流石に無理だが、絶対に見つけ出すと決めて、今度は建物の縁の下を探すことにした。暗くて見えないが、四つん這いになればどうにか潜り込んで行けそうだ。
この辺りは他に隠れられそうな場所はないし、この神社は拝殿と神殿が一つになっていて他に建物はない。さらに山の中であるため周辺には森が広がっていて、子供だけで立ち入ることは禁じられている。だから花京院はここに潜んでいるような気がした。
「おい花京院、そこに隠れてんだろ? 諦めて出てきな」
ずりずりと膝を引きずり、暗闇の中で声をかける。が、返事はない。それもそうだ。しっかり目視で確認して初めて成立するのだし、なにより負けず嫌いな花京院が素直に出てくるはずがない。
だがほんの僅かだが気配のようなものを感じて、予想は確信に変わった。
承太郎はニヤリと笑いながらさらに奥へと押し入ろうとした。そのとき。
闇の中で、影が動いた。
「!?」
それはまさに黒い塊で、物凄い早さで承太郎の横をすり抜ける。
「うわッ!!」
あまりの驚きに、思わずその場で尻餅をついてしまった。慌てて這うようにしながら抜け出すと、遠ざかる影を目で追いかける。森の茂みに向かって全力で駆けていくのは、一匹の黒い野良猫だった。
「なんだ、ビックリさせやがって」
承太郎は立ち上がり、服や手足についた土を払い落とした。感じていた気配は、あの黒猫のものだったらしい。
だとしたら、花京院はどこにいる?
承太郎は考えながら社殿の裏手に回ったり、黒猫が消えた茂みなど、周辺をくまなく探した。
だが、見つからない。
「おい花京院! どこだ!」
呼びかけても返事はない。ただ、冷たい風がざわざわと木々を揺らすだけだ。
そうしている間に、夕陽はどんどん沈んでいこうとしていた。
まずい。早く見つけてかくれんぼを終わらせなければ、自分も花京院も帰れない。
ふと、この敷地内にいないのならば、石段の下にならいるかもしれないと思った。長い階段の下には小さな公園もある。遊具は錆びていて、誰も遊ぶ人間はいないが、もしかしたらそこにいるのではないか。
承太郎は急いで階段を駆けおりて、打ち捨てられたような遊具が並ぶ公園内部を見回した。そこには古いシーソーとブランコ、鉄棒があるだけで、野良猫一匹いやしない。
「花京院……」
承太郎の胸に、徐々に不安が押し寄せる。このまま見つからなかったらどうしよう。誰かに連れ去られたのではないか。それとも、なかなか見つけてもらえないから、先に帰ってしまったのか?
ならばいっそ、その方がよかった。無事に家に戻っているのなら、それが一番安心だ。
だが、花京院は絶対にそんな真似はしないだろう。承太郎を置いて先に帰るなんて、考えられない。
付き合いこそまだ短いが、承太郎は花京院がどんな人間か、よく分かっているつもりだ。だから絶対にどこかにいるはず。
承太郎は考えるよりも先に、再び神社へ向かって石段を駆けのぼっていた。
勘にしかすぎないが、やはり花京院はまだそこにいるような気がする。
息を切らしながら長い階段をのぼりきり、赤い鳥居をくぐると周辺を見渡す。吹き抜ける風に微かな夜の気配を感じながら、目を閉じて耳を澄ました。
すると、微かに何かを引っ掻いたり、叩くような音が聞こえた気がした。
「花京院ッ!」
承太郎が声を張り上げると、その音は止んだ。代わりに、小さな声が遠くから承太郎を呼んだ。
その声を頼りに走り出し、辿り着いたのは先刻も覗いたはずの、社殿の裏手だった。立ち並ぶスギノキが、黒い影のように狭い範囲を覆っている。そこには古びた祠が幾つか並んでいて、声はそこから聞こえているようだった。
「そこか! 花京院ッ!!」
「承太郎? 承太郎ッ!!」
はっきりと花京院の声を聞いた瞬間、安堵に膝から崩れ落ちそうになった。
よかった。彼はちゃんとここにいた。
承太郎の背丈ほどしかない小さな祠は、ちょうど小さな子供が一人くらいなら隠れられそうな大きさだ。どうしてさっき覗いたときに気がつかなかったんだと後悔しながら駆け寄り、手を伸ばす。両開きの扉は固く閉じられていて、片方に足をかけて全力で引っ張ることで、ようやくバキバキと音を立てながら開いた。
「ッ!!」
「承太郎ッ!!」
その瞬間、飛び出して来た花京院が両腕で抱き付いて来て、受け止めきれずに揃って地面に崩れ落ちる。
「遅いよ、承太郎……ッ」
「か、きょういん……」
承太郎の首に抱き付いたまま、花京院は小さく身を震わせていた。よほど不安だったのだろう。鼻をすすり、しゃくりを上げている様に、承太郎も一緒に泣きたくなったが、ぐっと堪えて思い切り抱き返した。
「このバカ! なんてとこに隠れてんだッ!!」
「だって、だってしょうがないだろ! ここなら絶対に見つからないと思ったし、それに、扉が開かなくなっちゃったんだッ!!」
どうやら花京院は、この小さな祠に入ったはいいものの出て来られない状況に陥っていたらしい。
少し呆れて言葉を失っていると、彼は承太郎の肩に埋めていた顔をあげた。鼻まで赤くして、不貞腐れたように唇を引き結んでいる。涙をいっぱいに溜めた瞳に、堪らない気持ちになって震える息を吐き出した。
「見つからなかったら、どうしようかと思ったじゃねーか……」
泣き濡れた丸い頬の片方に触れながら、労わるように撫でてやる。花京院は大きく鼻をすすって、ごめんと零すと項垂れた。
本当は何度でもバカと言ってやりたかった。だけど、彼が無事に見つかったことの方がずっと大きくて、言葉がでない。
一瞬でも考えた。もしこのまま、花京院を見つけ出すことができなかったら、と。
こうして無事を確認できた今、安堵と一緒に言い知れぬ不安が押し寄せる。
腕の中で泣いている、この小さくて大切な友達を。
永遠に失うことになったら、自分は生きていけるだろうかと。
(そんなの無理に決まってる)
承太郎にとって花京院は、なくてはならない存在だ。
初めて見たときからずっと近づきたいと思っていた。なにか不思議な力に引き寄せられるみたいに、惹かれていた。
多分きっと、これから先もずっとそうだ。ずっとずっと、大人になっても一緒にいたい。
「泣くな、花京院」
「泣いてなんか、ないよ」
「ぼろぼろ泣いてんじゃねーか。怖かったんだろ。遅くなって悪かった」
無造作に頭を撫でてやると、彼は嫌々とむずがるように首を左右に振ると「違う」と言った。
「そりゃ、ちょっとは怖かったさ。それは認める。だけど、信じてたから。承太郎のこと」
――きっとぼくを見つけてくれるって。
そう言って、花京院は笑った。
瞳にいっぱい涙を浮かべているくせに、承太郎の服を掴んだまま離さないくせに。
熱いものが胸に溢れそうなほど込み上げた。湧き水のように止まらない思いに少しだけ苦しくなりながら、承太郎も笑って頷いた。
「約束だ」
握った拳の、小指だけを立ててそっと差し出す。
「おまえがどこに隠れてたって、必ずおれが見つけてやるよ」
花京院はつぶらな瞳を見開いて、目の前の小指を見つめている。それからすぐに視線を承太郎の顔に向けて、嬉しそうにいちど唇を噛み締めると、同じように立てた小指を差し出して来た。
絡み合う指と指が熱い。なんだか照れ臭くなってきて、気づけば二人は真っ赤な顔で俯いていた。
離すタイミングが分からない小指を握り合ったまま、ぶらぶらと動かしたりして言葉を探した。その戯れが、なおのこと恥ずかしいような気がしてきた頃、先に沈黙を破ったのはおどけたような花京院の声だった。
「じゃあ、じゃあさ。次はもっと難しいところに、隠れなくちゃあいけないな」
思わず、小さく噴き出してしまった。
「このバカ野郎」
「だって悔しいじゃないか。かくれんぼは承太郎の勝ちだもん」
「だったらずっとおれの勝ちだぜ。残念だったな」
勝ち誇ったように言うと、花京院はあのノォホホというおかしな声で笑った。
「オラ、もう日が暮れちまう。帰ろうぜ」
「うん」
承太郎が立ち上がるのと一緒に、花京院も立ち上がる。小指は離れたが、代わりに手を繋いで、二人は同じ歩幅で歩き始めた。
このときの花京院を、承太郎は死ぬまでずっと覚えていようと思った。
色濃い夕陽に焼かれた、燃えるように赤い髪を、濡れたままキラキラと輝く瞳を、握った手の、汗ばむほどの熱さを。
沈みゆく夕陽の煌めきの中で。
カラスの鳴き声を聞きながら、彼と歩む、未来を想った。
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