2025/09/15 Mon 「俺のそばで生きてくれるか」 ベッドの上で膝を抱えるファイに、黒鋼は小さな箱を差し出しながら言った。 昼なのか夜なのかさえ曖昧な暗い部屋。24時間つけっぱなしのテレビ画面が放つ光だけが、点滅したように辺りを照らす。 彼はどこか虚ろな目で、開かれた箱の中身を見つめる。 飾り気のない銀のリング。それでも想いがぎっしりと込められ、微かに光を放っていた。 ファイは覇気のなかった顔を苦しげに歪めると、嫌々と首を振った。 「……受け取れない」 「受け取ってほしい」 「ダメなんだ……きっと忘れる……無くなっちゃうよ……」 「それでも」 黒鋼はファイの手を取ると、手の平にそっと箱を握らせる。 また一回り細くなったようにも見える指先が、悲しげに震えていた。 「おまえが忘れても、俺が何度でも教えてやる」 そうやって繰り返し確かめ合えれば十分だった。 命ある限り、幾重にも同じ想いを重ねながら隣を歩かせてほしい。 躓きながらでもいい。泣いたっていい。恐れても。ずっと。 引き寄せた身体は折れそうなくらい頼りなく、震えながら呻く様は泣き方を知らない幼子のようだ。 強く強く抱きしめながら、その耳元に幾度も「愛してる」と告げた。 今この時だけでも刻むことが出来るなら、それだけで。 +++ 一日の始まりには二通りある。 一つは、二人が同じ布団の中で目を覚ましたとき。 ファイはほとんどの場合、前日までの記憶がリセットされているから、起きた直後はここがどこかさえ分からない。 だから彼が理解し、納得するまで何度でも繰り返し、黒鋼は事故に遭った日からそれまでの経緯を根気よく話して聞かせる。 この場所に越してきた当初のファイは、朝目が覚める度にパニックを起こしていた。眠りから覚める度に「ここはどこ」と繰り返しながら怯えていた。 それは一年以上たった今も同じで、派手に混乱するには至らずとも、目覚めた直後の彼にとって、ここが知らない場所であることに変わりはなかった。 もう一つは、黒鋼が夜勤で朝に帰宅するとき。 どうにか彼の精神と生活が安定して来た頃から、黒鋼は山を降りた先に一軒だけある旅館で、深夜警備の仕事をしている。 一人で目を覚ましてもファイが混乱しないようにと、枕元には常に白い画用紙と日記帳を置いておく。 画用紙には黒いマジックで、いつも話して聞かせる内容と同じことを箇条書きに記し、さらに居間のホワイトボードを必ず見るように書き添えてある。 ボードには前日に何を食べ、何が冷蔵庫の中に残っているのかをはじめ、畑の作物の成長具合なども書かれており、黒鋼の帰宅時間もそれを見ればすぐに分かるようになっている。 そうやって時間をかけて習慣づけた結果、ファイは少しずつ記憶障害との付き合い方を訓練していった。 目を離していられる時間が増えたことは、黒鋼にとってむしろ安心に繋がった。 だがここのところ、ファイの精神状態が再び不安定なものになっていた。 縁側で涼んでいるかと思いきや突然パニックを起こしたり、朝起きてすぐに「今日は化学の実験だった」と慌てて出かける支度をしようとする。 記憶はリセットされても、身体は事故が起こった日のことを覚えているのだろうか。 保持しているはずの過去の記憶が前後し、思いがけないところまで遡るのは、彼の心の問題が大きいのかもしれない。 この時期、去年もそうだった。 折しも彼が事故に遭い、双子の片割れを失ったのは今頃のこと。 一週間後には、ユゥイの命日が迫っている。 +++ 「……どうした?」 夜勤がなかった日の朝、黒鋼が意識を浮上させたとき、ファイはカーテンを開き切った窓の前にただ呆然と立ち尽くしていた。 浮かない空模様はどんよりとした鈍い光で室内を薄暗く照らしている。 起き上がり、その背中を見上げながらもう一度「どうした」と問うと、彼はこちらを見向きもせずに言った。 「お花見」 「……花見?」 「桜、いつ散った?」 「…………」 「ここ、どこだろう。オレ、さっきまで学校の校庭にいたんだ。みんなでお花見してた。なのにほら、この家の庭には、向日葵が咲いている」 ほんの数日前は蕾だった向日葵は、雨が止んだ翌日に大きく花を咲かせていた。 自分と同じくらいの身長にまで育った立派な花を見て、彼はとても嬉しそうにしていたのに。 黒鋼はゆっくりと瞬きをしてから立ち上がり、立ちつくしたままのファイの横に並んだ。 「おまえの言う花見ってのは、2年前の花見のことだな」 彼の言う2年前の春。事故が起こる数ヶ月前の記憶。 あれが教師として最後の春になった。 「……何を言ってるの?」 「毎年派手だが、あんときゃ心底呆れたもんだ」 「……そう、侑子先生がトラックでお酒とカラオケの機材を運んできたんだ。黒たん先生は近所迷惑だからやめろって、ついさっきまで凄く怒ってた」 「先生、か。懐かしいな。おまえのその呼び方」 「……ねぇ、変だよ。オレだけ急にタイムスリップでもしちゃったのかな。それとも、これは夢?」 夢。 そうならどれだけよかったろうか。 今の生活は幸せだ。 誰も知らない人間ばかりの土地で、二人きりで静かに同じ毎日を繰り返す日々。 築き上げた砂の城は毎朝のように波にさらわれ、昨日笑い合ったことさえもファイの中には残らない。 それでもこの男の笑顔が見たくて、ここに生きることを決めたのに。 ファイの口から語られる『思い出』が、時折酷く黒鋼を傷つける。 こうして2人で生きているのに、同じ時を共有することは、もう出来ない。 それでも約束したから。 彼が閉じた扉を、何度でも開けて追いかけて、教えてやると約束をした。 「信じられねぇのも分かるが。2年前の夏、おまえは事故にあって、頭を強く打った。そん時からな、記憶がしょっちゅう飛んじまうんだ」 「……なにそれ」 「俺もおまえも、もう教師じゃない。今はこの家に俺たち2人で暮らしてる。あの向日葵はおまえが育てて、一昨日咲いた」 「そんなの嘘だよ。だって、だってさっきまで……ッ」 ファイは目を泳がせて、幾度も首を振った。 口は半笑いだったが、汗の滲んだ額を押さえると床にぺたりと沈み込む。 黒鋼はその肩を抱きながら一緒に膝をついた。 このくらいのことは、今まで幾度となく繰り返してきた。 少しずつ息を荒げてゆくファイの背を摩り、深呼吸するように促す。 彼は無理やりにでも黒鋼の言ったことを自身に納得させようと、必死になっているようだった。 「わかった、わかったよ。じゃあオレは、その事故で脳に障害が残ったってことで……いいんだね?」 「そうだ。おまえが毎日つけてる日記がある。あとで、ゆっくり読め」 「……オレは黒たん先生と、今はここに暮らしてる」 「一年半になる」 「……わかった。大丈夫……大丈夫……」 自分に言い聞かせるように呟きながら額を押さえていたファイは、それからすぐに顔を上げて黒鋼の顔を凝視した。 「……なんで?」 「なにがだ」 「なんで、黒様も先生辞めたの……? オレのせい……?」 「バカ言うな」 でも、と言い募ろうとするファイの左手を取り、その薬指にはめられている銀の指輪に触れる。 彼はたった今その存在に気付いたようで、目を丸くして指輪と黒鋼の顔とを交互に見た。 黒鋼は笑って、さらに自分の左手も彼の目線へ上げて見せる。 薬指には同じものが、しっかりとはめられていた。 「同じ指輪……。黒たんとオレ、結婚した……?」 「そうだな。そんなようなもんだ」 「……嘘みたい」 「俺がここで暮らしたくて、おまえを連れてきた。おまえは俺の我儘に付き合っただけだ」 そう言ってくしゃりと前髪を撫でると、ファイは一瞬だけ切なげに瞳を揺らした後、くすぐったそうに笑った。 それから再び薬指の指輪を見つめて、そっと目を閉じた。 「……ごめんなさい」 繰り返す日々は切なくて、どれだけ嘘を重ねたとしても、それが真実になどなりえないことを知っている。 自分はただ彼を狭い檻に閉じ込めただけなのかもしれない。 けれどこんな風に笑ってくれるなら。 手放せば生きていけないのはきっと、黒鋼の方だった。 ←戻る ・ 次へ→
ベッドの上で膝を抱えるファイに、黒鋼は小さな箱を差し出しながら言った。
昼なのか夜なのかさえ曖昧な暗い部屋。24時間つけっぱなしのテレビ画面が放つ光だけが、点滅したように辺りを照らす。
彼はどこか虚ろな目で、開かれた箱の中身を見つめる。
飾り気のない銀のリング。それでも想いがぎっしりと込められ、微かに光を放っていた。
ファイは覇気のなかった顔を苦しげに歪めると、嫌々と首を振った。
「……受け取れない」
「受け取ってほしい」
「ダメなんだ……きっと忘れる……無くなっちゃうよ……」
「それでも」
黒鋼はファイの手を取ると、手の平にそっと箱を握らせる。
また一回り細くなったようにも見える指先が、悲しげに震えていた。
「おまえが忘れても、俺が何度でも教えてやる」
そうやって繰り返し確かめ合えれば十分だった。
命ある限り、幾重にも同じ想いを重ねながら隣を歩かせてほしい。
躓きながらでもいい。泣いたっていい。恐れても。ずっと。
引き寄せた身体は折れそうなくらい頼りなく、震えながら呻く様は泣き方を知らない幼子のようだ。
強く強く抱きしめながら、その耳元に幾度も「愛してる」と告げた。
今この時だけでも刻むことが出来るなら、それだけで。
+++
一日の始まりには二通りある。
一つは、二人が同じ布団の中で目を覚ましたとき。
ファイはほとんどの場合、前日までの記憶がリセットされているから、起きた直後はここがどこかさえ分からない。
だから彼が理解し、納得するまで何度でも繰り返し、黒鋼は事故に遭った日からそれまでの経緯を根気よく話して聞かせる。
この場所に越してきた当初のファイは、朝目が覚める度にパニックを起こしていた。眠りから覚める度に「ここはどこ」と繰り返しながら怯えていた。
それは一年以上たった今も同じで、派手に混乱するには至らずとも、目覚めた直後の彼にとって、ここが知らない場所であることに変わりはなかった。
もう一つは、黒鋼が夜勤で朝に帰宅するとき。
どうにか彼の精神と生活が安定して来た頃から、黒鋼は山を降りた先に一軒だけある旅館で、深夜警備の仕事をしている。
一人で目を覚ましてもファイが混乱しないようにと、枕元には常に白い画用紙と日記帳を置いておく。
画用紙には黒いマジックで、いつも話して聞かせる内容と同じことを箇条書きに記し、さらに居間のホワイトボードを必ず見るように書き添えてある。
ボードには前日に何を食べ、何が冷蔵庫の中に残っているのかをはじめ、畑の作物の成長具合なども書かれており、黒鋼の帰宅時間もそれを見ればすぐに分かるようになっている。
そうやって時間をかけて習慣づけた結果、ファイは少しずつ記憶障害との付き合い方を訓練していった。
目を離していられる時間が増えたことは、黒鋼にとってむしろ安心に繋がった。
だがここのところ、ファイの精神状態が再び不安定なものになっていた。
縁側で涼んでいるかと思いきや突然パニックを起こしたり、朝起きてすぐに「今日は化学の実験だった」と慌てて出かける支度をしようとする。
記憶はリセットされても、身体は事故が起こった日のことを覚えているのだろうか。
保持しているはずの過去の記憶が前後し、思いがけないところまで遡るのは、彼の心の問題が大きいのかもしれない。
この時期、去年もそうだった。
折しも彼が事故に遭い、双子の片割れを失ったのは今頃のこと。
一週間後には、ユゥイの命日が迫っている。
+++
「……どうした?」
夜勤がなかった日の朝、黒鋼が意識を浮上させたとき、ファイはカーテンを開き切った窓の前にただ呆然と立ち尽くしていた。
浮かない空模様はどんよりとした鈍い光で室内を薄暗く照らしている。
起き上がり、その背中を見上げながらもう一度「どうした」と問うと、彼はこちらを見向きもせずに言った。
「お花見」
「……花見?」
「桜、いつ散った?」
「…………」
「ここ、どこだろう。オレ、さっきまで学校の校庭にいたんだ。みんなでお花見してた。なのにほら、この家の庭には、向日葵が咲いている」
ほんの数日前は蕾だった向日葵は、雨が止んだ翌日に大きく花を咲かせていた。
自分と同じくらいの身長にまで育った立派な花を見て、彼はとても嬉しそうにしていたのに。
黒鋼はゆっくりと瞬きをしてから立ち上がり、立ちつくしたままのファイの横に並んだ。
「おまえの言う花見ってのは、2年前の花見のことだな」
彼の言う2年前の春。事故が起こる数ヶ月前の記憶。
あれが教師として最後の春になった。
「……何を言ってるの?」
「毎年派手だが、あんときゃ心底呆れたもんだ」
「……そう、侑子先生がトラックでお酒とカラオケの機材を運んできたんだ。黒たん先生は近所迷惑だからやめろって、ついさっきまで凄く怒ってた」
「先生、か。懐かしいな。おまえのその呼び方」
「……ねぇ、変だよ。オレだけ急にタイムスリップでもしちゃったのかな。それとも、これは夢?」
夢。
そうならどれだけよかったろうか。
今の生活は幸せだ。
誰も知らない人間ばかりの土地で、二人きりで静かに同じ毎日を繰り返す日々。
築き上げた砂の城は毎朝のように波にさらわれ、昨日笑い合ったことさえもファイの中には残らない。
それでもこの男の笑顔が見たくて、ここに生きることを決めたのに。
ファイの口から語られる『思い出』が、時折酷く黒鋼を傷つける。
こうして2人で生きているのに、同じ時を共有することは、もう出来ない。
それでも約束したから。
彼が閉じた扉を、何度でも開けて追いかけて、教えてやると約束をした。
「信じられねぇのも分かるが。2年前の夏、おまえは事故にあって、頭を強く打った。そん時からな、記憶がしょっちゅう飛んじまうんだ」
「……なにそれ」
「俺もおまえも、もう教師じゃない。今はこの家に俺たち2人で暮らしてる。あの向日葵はおまえが育てて、一昨日咲いた」
「そんなの嘘だよ。だって、だってさっきまで……ッ」
ファイは目を泳がせて、幾度も首を振った。
口は半笑いだったが、汗の滲んだ額を押さえると床にぺたりと沈み込む。
黒鋼はその肩を抱きながら一緒に膝をついた。
このくらいのことは、今まで幾度となく繰り返してきた。
少しずつ息を荒げてゆくファイの背を摩り、深呼吸するように促す。
彼は無理やりにでも黒鋼の言ったことを自身に納得させようと、必死になっているようだった。
「わかった、わかったよ。じゃあオレは、その事故で脳に障害が残ったってことで……いいんだね?」
「そうだ。おまえが毎日つけてる日記がある。あとで、ゆっくり読め」
「……オレは黒たん先生と、今はここに暮らしてる」
「一年半になる」
「……わかった。大丈夫……大丈夫……」
自分に言い聞かせるように呟きながら額を押さえていたファイは、それからすぐに顔を上げて黒鋼の顔を凝視した。
「……なんで?」
「なにがだ」
「なんで、黒様も先生辞めたの……? オレのせい……?」
「バカ言うな」
でも、と言い募ろうとするファイの左手を取り、その薬指にはめられている銀の指輪に触れる。
彼はたった今その存在に気付いたようで、目を丸くして指輪と黒鋼の顔とを交互に見た。
黒鋼は笑って、さらに自分の左手も彼の目線へ上げて見せる。
薬指には同じものが、しっかりとはめられていた。
「同じ指輪……。黒たんとオレ、結婚した……?」
「そうだな。そんなようなもんだ」
「……嘘みたい」
「俺がここで暮らしたくて、おまえを連れてきた。おまえは俺の我儘に付き合っただけだ」
そう言ってくしゃりと前髪を撫でると、ファイは一瞬だけ切なげに瞳を揺らした後、くすぐったそうに笑った。
それから再び薬指の指輪を見つめて、そっと目を閉じた。
「……ごめんなさい」
繰り返す日々は切なくて、どれだけ嘘を重ねたとしても、それが真実になどなりえないことを知っている。
自分はただ彼を狭い檻に閉じ込めただけなのかもしれない。
けれどこんな風に笑ってくれるなら。
手放せば生きていけないのはきっと、黒鋼の方だった。
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