2025/09/17 Wed 殴られる痛みを知っていた。 切りつけられるのはとても怖いことで、縛られるのは、苦しい。 爪の先、握った拳、言葉。 武器を持たずとも、人は他者を傷つける術をいくらでも持っている。 振りかざされた凶器に肌は傷つき血が溢れ、痣が浮かんで、ナイフのような言霊は心を削ぎ落とす。 だけど、忘れることに慣れてしまえば、何も感じずにいられた。 多分、本当に恐ろしいのは。 誰かを愛することも、愛されることもないまま生きて、死んでいくことだ。 * 墨色に満ちた、暗く、冷たい部屋だった。 自分が目を開けているのかどうかすら分からない。 けれど不思議と不安も恐れもなく、ただふわふわと宙に浮いているような気分だった。 『典明』 針の先で突く程の光もなかった空間に、変化が起こる。 低い声が空気を震わせ、そして小さな小さな火が灯された。ゆらゆらと頼りなく揺れる光は、辺りの闇をさらに色濃く際立たせる。 『おまえは本当にいい子だね』 大きな手が、柔らかく幼い皮膚に這わされる。 その感触がくすぐったくて、ふ、と小さな息を漏らした。 『どこもかしこも、とても綺麗だ。こんなに可愛い子供は見たことがない』 母にさえ褒められたことなどなかったのに。 その人は『ぼく』が求めていた言葉を惜しみなく与え、抱きしめてくれた。 『さぁ、上手にできるかな? いつも通りにできるかい?』 甘い香りがして、意識が朦朧としていくのを感じる。底のない穴にゆっくりと沈んでいくようだった。 それでも『ぼく』は無邪気に微笑み、頷いた。 自分がどこで何をしているのかなんてどうでもよかった。ただもっと褒めてほしくて、もっともっと優しくしてほしくて、愛されたくて。 『そう、いい子だ。愛してるよ典明』 求められるままに、されるがままに。 泣きたくなるくらい甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、夢と現を彷徨い、『ぼく』はただ愛を乞うだけの小さな人形になる。 『大丈夫。明日には、なにもかも忘れているよ』 * 打ちっぱなしのコンクリートの壁に、なにやらいかがわしいポスターが何枚も貼り付けられていた。 事務所と思しき空間は所狭しと段ボール箱が積み上げられ、デスクの上にはDVDのケースが山のようになっている。ちょっと触れただけで雪崩を起こしそうな光景に、花京院の身体は自然と硬くなっていた。 キャスターつきの椅子に適当に掛けていろと言われてから、どれほど時間が経っただろうか。静まり返った中で、秒針が時を刻む音だけがいやに大きく響いているのが、どこか耳障りに感じられた。 (やはり少し、軽率すぎただろうか) 花京院は壁に張り巡らされたポスターをぼんやりと眺めながら、じわじわと後悔しはじめていた。 肌色ばかりが目立つその群れは、主に男性同士が絡み合っているものだ。いかにもな体躯の男たちが際どい衣装やポージングで映りこむ中に、ちょっと笑ってしまうような煽り文句やタイトルまで踊っている。 (俳優、ね。これってやっぱりそういうこと、だよな) ポスターから目を逸らし、花京院は肩を落としながら溜息を漏らす。 『君、俳優の仕事とか興味ない?』 見知らぬ男に街角で声をかけられてから、おそらくまだ二時間も経過していない。 断っても断ってもしつこく付きまとってくるものだから、話だけでも聞く素振りを見せた結果、あれよあれよという間にここへ連れて来られた。 ビデオメーカーの人間が来るからと、花京院にはたったそれだけの情報しか与えられていない。 俳優、ときてこのポスター群を見れば、この後どんな話し合いが持たれるのかなんて、容易に察しがつく。 どうやって切り抜けようかな、なんて視線を天井に向けていると、おもむろに事務所のドアが開いた。 入って来たのは、どちらもシャツにジーンズといったラフな装いをした、中年男性二人組だった。 「こっち来て」 そのうちの片方、メガネをかけた男に促されるまま、部屋の片隅にある衝立の向こうへ足を向けた。ローテーブルを挟むようにして椅子が四脚。座れと言われて適当に腰かけると、続いて男が二人、花京院の向いに並んで座る。 「幾つ?」 メガネの男の問いかけに、ひとまず素直に「18歳」と答える。 「イケメンだね。どっか事務所とか入ってる?」 幾度か首を振り、花京院は苦笑した。 「まさか」 「へぇ、意外だね。で、さっそく何本か出てみない?」 「何本か、って……」 花京院は、あくまでも察しているにすぎなかった。 もう少しそれなりの前置きがあってもいいような気がするのだが。あたかもここへ来たからには意欲があって当然、という扱いに少々面食らう。 「とりあえず2本、契約してみない? 一本で5万から10万、即日払い。売れ行きによっては後々50はくだらないよ」 「一本でそんなに、ですか」 うん、と男が二人同時に頷いた。 「AVって言ってもさ、うちはネット配信専門だから。しかも有料会員サイトね。形として残るもんじゃないし、何本か出たくらいじゃ顔バレなんてしないから安心して」 花京院は腕を組み、ガラス製のローテーブルに視線を固定して考え込んだ。 相手が未成年の若僧と思って、随分と都合のいいことをサラリと言ってのけているが、それこそこれだけインターネットが普及している世の中だ。たかが一本、されど一本で身を滅ぼした人間なんて、腐るほどいるに違いない。 とはいえ正直、一人暮らしを始めたばかりで貯金が底をついているのは確かだ。別に贅沢をして暮らしたいわけではないが、決して生活が安定しているとはいえない花京院にとって、それはあまりにも魅力的な話だった。 (顔がバレたところで、困るもんでもないんだよな、ぼくの場合) 花京院は家族のいない、天涯孤独の身の上だった。親戚付き合いもなければ、破綻して困るような人間関係もない。 将来的に結婚する気もさらさらないし、むしろ家族なんて存在はただ煩わしいだけとも考えている。 花京院にとって一人に勝る幸福はなかった。仮に見ず知らずの他人に後ろ指をさされたところで、痛くも痒くもない。 それよりなにより、AV男優なんて仕事が満足に務まるかの方が問題だ。見目は決して醜い部類ではないと思うが、かといって優れているとも思えない。 とはいえ、彼らはこの道のプロなのだろうから、素人が深く考えても仕方がないことかと、花京院はどこか曖昧な息を漏らした。 「何をどうすればいいかは分かりませんが……とりあえずやってみよう、かな」 決して前向きではない返答でも、相手にとっては十分のようだった。 * その後、花京院はなぜかその場で裸になることを強要された。 上背はあるし、そこそこ鍛えてはいる身体だが、自信たっぷりに見せられるほど立派なわけではない、と思う。しかも会って間もない人間の前で急に全裸を曝すなど、常識では考えられないことだった。いくら自身に無頓着とはいえ、花京院だって人並みに羞恥心くらいは持っている。が、ここで恥ずかしがっていては仕事にならないよと冷ややかに言われ、それもそうかと納得した。 全裸でボディチェックされるなんて生まれて初めての経験で、何枚か写真を撮られたりもして、これは流石に少しばかりしんどかった。 服を着込んでからは、男性経験の有無やアナルを使っての男優との絡みはイケるかという確認をされた。経験なんて、男性どころか女性とだってない。花京院は性に対して極端すぎるほど淡泊だった。 どんな形であれセックス経験がないことを伝え、問題ないですとだけ答えておいた。終始淡々とした花京院の様子に「危機感って言葉知ってる?」なんて、逆に心配されてしまった。 それから契約書にサインをして、一週間以内に病院で性病検査を受けるように指示され、ようやく解放された。 * そうして迎えた一週間後、日曜日。 検査結果に一切の問題もなく再び事務所に足を運んだ花京院は、車に押し込まれてとある住宅地の、貸しスタジオへと連れて来られた。 そこはどこからどう見ても、ただの二階建ての一軒家だった。 「やぁ君、なかなかの男前じゃないか。うん、凄くいい。身体も引き締まってて、最高にいい」 玄関を入ってすぐ、背の低い小太りな男が姿を現した。 彼はまるでぬいぐるみのようなふっくらとした身体に白いYシャツをまとい、赤いネクタイをしていた。花京院に満面の笑みを向けてくるその男は、監督兼プロデューサーとのことだった。 それからすぐ、金髪にダボついたパーカーとジーンズ姿の男もやって来た。こちらは背も高く筋肉質だ。 「彼はカメラマンだよ。遊び人だから気を付けて」 「商品に手は出さねぇですよ。あー、まぁ、適当によろしく」 カメラマンは頭をガリガリと掻きながら、花京院になんの興味も示すことなくすぐに部屋の奥へ消えてしまった。 通された広いリビングにはテーブルやソファ、テレビがあり、開け放たれた隣室には観葉植物とダブルベッドが見える。その空間を、片手で足りる程度のスタッフが数人、行ったり来たりと動き回っていた。 一人掛けのゆったりとしたソファに座らされ、所在無げに視線を彷徨わせていると、例の監督が台本を持ってやって来た。 「台本って言っても、今日は素人のドキュメンタリーモノだから。ざっと流れが書いてあるだけだよ。素の表情や反応を見せてほしいんだ」 はぁ、と曖昧に返事をすると、監督はまだ時間があるから目を通しておいてと言い残し、さっさと行ってしまった。 とりあえずは今日の流れを掴んでおくことが、今の自分にできる仕事らしい。 内容は、本当にいたってシンプルなものだった。 ノンケの素人が、初めてのアナルセックスに至るまでを描くドキュメンタリー。 まずは軽くインタビューをして、それから本番。さらにインタビューをして終わり。あまりにもサラッと書いてあるものだから、実感が湧かなかった。 ただ、そうこうしているうちに周りには大きな照明器具が設置されていたり、スチールカメラを構えた人間に何枚か写真を撮られたりして、徐々にリアリティが形成されつつある。 ドラマの撮影現場もこんな感じなのかなと、ぼんやり思った。 すると、隣の部屋で電飾の取り付け作業をしていた男性スタッフの一人が、花京院の側までやって来てじっと顔を覗き込んできた。 「?」 あまりにも無遠慮な視線を送ってくるものだから、僅かに戸惑い小首を傾げる。 彼は考え込んだ様子で、花京院の顔をまじまじと見つめていた。 「あの、何か?」 「いやぁ……君、どっかで見たような気がするんだよね」 「どこかでって?」 花京院は男の顔を改めてよく観察した。狐のように細く吊り上がった目をして、青いキャップを後ろ向きにかぶったその男に、花京院は全く見覚えがない。 訝しげに眉を寄せて見せると、男はへらへらと笑って手を振った。 「勘違いかな、うん。忘れてくれ」 結局、一人で完結してしまったらしい。彼はすぐに興味を失くしたように背を向け、仕事に戻った。 (なんだ? 今のは?) 「さて、まだ役者は揃ってないけど、インタビュー部分から始めちゃおうか。花京院くん、流れは把握できたよね?」 歌うような監督の声がして、台本が手の中から遠ざかる。 カメラマンがハンドヘルドタイプのビデオカメラを構え、膝をつく。黒光りする無機質なレンズが向けられると、そこでようやく緊張感が押し寄せた。 * 「花京院くんは、やっぱり彼女とかいる? イケメンだもんね、そりゃいるよね?」 膝の上にちょこんと両手を置いて腰かける花京院の正面には、笑顔の監督とカメラを構えた金髪がいる。 「経験人数は? 初めては何歳くらいだったのかな? 気持ちよかった?」 矢継ぎ早に質問を投じてくる監督に、少し戸惑った。 インタビューなのだから質問されるのは当たり前だ。だが、まるで芸能人のようにカメラを向けられ、際どい質問にも答えなくてはいけないという状況は、素人にはなかなか受け入れがたいものだった。 硬い表情のまま戸惑う花京院の反応を見て、監督は「いいね、その表情!」とテンションを上げていた。 しかし、いつまでも無言というわけにはいかない。仕事だと割り切って、なるようになる、とでも思うしかなかった。 「彼女はいませんし、いたこともありません」 「モテそうなのに? 女性が苦手だったり?」 「……さぁ、どうでしょう? ただ興味がないのは、確かです」 「なかなか面白い子だね、花京院くんは」 「そうでしょうか?」 「淡泊なのも味があっていいと思うよ」 (そうだろうか。これでは面白味がないんじゃあないのかな) 花京院の疑問を他所にご機嫌な監督は、さらに次の質問を投げかけてくる。その内容は、流石の花京院も少し引いた。 「じゃあ次。オナニーは週に何回くらいする?」 「は?」 「オナニーだよ、オナニー。男なら普通でしょ?」 「いや、ぼくは別に……」 「どんなふうにする? 一番感じる場所とかさ」 監督が鼻息を荒げるなか、花京院の戸惑いは膨らむばかりだった。 決してしたことがないとは言わないが、おそらくこの年齢の男と比べれば圧倒的に回数は少ない。ごく稀に身体がそういう兆しを見せて、致し方なく事務的に処理する程度のものだった。それを快感と認識したこともない。むしろ吐き出した後のなんともいえない虚無感が苦痛で、煩わしさすら覚えるほどに。 もちろん、これは性的な興奮を得るためのビデオなのだから、質問の内容には納得がいく。だが、気を許せる友達がいた試しのない花京院は、この手の話題を口に出した経験が一切なかった。 どう答えるのが正解なのかと考えていると、腕を組んだ監督がどこか意地悪そうに「フフフ」と笑う。 「花京院くん、お金欲しいんでしょ? だったらちゃんと答えてもらわなきゃ。それが社会のルールってもんだよ。わかるよね?」 監督の言うことは、至極もっともなことだった。それが社会のルールと言われてしまったら、たかだか18の青二才はおとなしく従うしかない。 「……しませんよ、ほとんど」 目を逸らしながら答えた花京院に、監督は「嘘だぁ」と苦笑した。 「18歳って言ったらまだまだ性欲の塊みたいなものでしょ? 毎日したっておかしくないのに?」 「そういう感覚は、よくわかりません」 「変わってるね。まぁ個人差ってのは誰にでもあるだろうけど」 (変、なんだろうか) 性欲というものが頭の中ではどういった現象か理解していても、花京院にはいまいち興味が持てない。同時に、女性に恋愛感情を抱いたこともなかった。美人を見かければ綺麗だと思うし、可愛いとも思う感覚は持っているけれど、それだけだ。 そもそもまともに人とコミュニケーションを取る気のない自分が、恋愛なんて無理な話だと思う。よって、セックスも一生する予定がなかったし、その欲求もない。 「じゃあそんな花京院くん。ここでちょっと冒険してみる……っていうのはどうだい?」 腕を組み、人差し指と親指をふくよかな顎に添えた監督が言った。咄嗟に何を言われたのか理解できず、花京院はただ瞬きを繰り返す。 「今ここでしてみるんだよ」 「何を?」 「オナニーだよ、オナニー!」 「は……?」 それはつまり、自慰行為をして見せろということか。 「急に言われても、そんな……」 「だけどそれをしないと終われないよ? 当然、お金も出せないなぁ」 「!」 ぐうの音も出ない、というのはこのことを言うのか。けれど流石の花京院も、あまりに突然の要求に困惑する以外なかった。 ここまでどうにか平静を保ってきたが、有無を言わさぬ圧力に室内の空気が重くなったような気がして、嫌な汗が額に滲む。 どうすればいいのか、というのはもちろん分かる。だが、突然一人でして見せろという要求は、場馴れしていない花京院には難易度が高い。それに。 (急にやれなんて言われても、勃つわけがないだろ……) 「すまない、遅れた」 そのときだった。 今更になってこんな場所へのこのこやって来てしまった自分を後悔する花京院の視界に、一人の男が現れた。 「来たか承太郎、ぜんぜん大丈夫だよ。まだオナニーシーンすら録ってないから」 じょうたろう、と呼ばれた男は黒い薄手のシャツにジーンズを穿いた、目を見張るほどに美しく精悍な顔つきをした男性だった。滅多にお目にかかれないような美貌もさることならがら、ざっと見ても2メートル近くはありそうな長身に、鍛え抜かれた頑健さが衣服の上からでもはっきりと透けて見えるようだ。目の色からも察するに、純粋な日本人ではなさそうだが。 彼は硬直する花京院を見て、そのエメラルドの瞳を僅かに見開いた。男らしく整った太い眉が、その圧倒的な眼力を際立たせる。 (なんて、綺麗な人だろう) 男を相手にこんなことを思うのは、おかしいことだと思う。 だが、目の前の男に対してはそれしか言いようがなかった。性別を超越した美の形が、そこにはあるような気がした。 「この子が今日のお相手の花京院くん、ピチピチでプリプリの18歳さ。花京院くん、彼が君の初めての相手だよ。空条承太郎くん。規格外の男前だろう?」 花京院は咄嗟に立ち上がりつつ、その圧倒的な存在感と美貌に瞬きを忘れる。承太郎はそれを見て、ふっと口元だけで緩く笑った。 「へぇ、可愛い顔をしてるじゃないか。よく見つけたな」 「!」 (か、可愛い? ぼくが? 正気か?) 否定的な思考に反し、どうしてか心臓がきゅうっと締め付けられたような気がして、咄嗟に胸を押さえた。心なしか、頬まで熱くなってくる。 この男からは、ここにいる監督やカメラマンとは全く違った印象を受けた。長身の花京院が見上げるほど背が高く、落ち着いた雰囲気がいかにも頼りがいのある大人というイメージだ。 澄んだ輝きを放つエメラルドから、花京院は知らぬ間に目が離せなくなっていた。 「だろう? いやぁ、本当にナイスなタイミングで来たね。今からショーの始まりだ」 監督はよほど承太郎がお気に入りらしく、さらに気分を高揚させているようだった。鼻の下が完全に伸びきっているが、確かにこれだけレベルの高い男が自分の作品に出演するともなれば、当然のことだろう。 「それにしても、承太郎が相手の子を気に入るのって、珍しいこともあるもんだ」 「こんな上玉は滅多にお目にかかれないからな。花京院くん、だったか。最初は戸惑うばかりだろうが……ちゃんとできるか?」 「…………」 「花京院くん?」 「……え? あ、はい、できます。問題ありません」 「あっれ花京院くん!? さっきまでと全然態度が違うけど!?」 (あ、あれ? ぼく今、OKしちゃった……?) 監督に突っこまれて、花京院はようやく自分がオナニーショーとやらに意欲を示してしまったことに気づく。 どうしてか、この承太郎という人にかけられた言葉が頭から離れず、やけに気持ちが浮ついてしまうのを感じていた。男が男に可愛いなんて言われて舞い上がるなんて、完全にどうかしている。 (な、なぜだ? どうしてこんなにふわふわとした気分になるんだ? いや、それよりぼくに人前で自慰なんてできるのか……?) ほぼ無意識とはいえ、花京院は合意してしまったのだ。ここで自慰をしてみせることに。 「あ、あの、ぼく」 「そうと決まればさっそく始めようか! 花京院くん、一人でする自信がないなら手伝うよ。実はその方がギャラも弾むんだ」 一体どういう料金形態なのだろう。首を傾げる花京院に、いったんカメラを止めてずっと成り行きを見守っていた金髪が説明してくれた。 「あんな、ノンケが野郎に手ぇ出されるなんて冗談じゃないだろ? そっちの方がハードル高いだろ? だから弾むのさ」 「な、なるほど。奥深い世界なんですね」 「じゃあどうしようか。僕で構わない?」 監督が笑顔で一歩踏み出してくる。遠慮したい。全力で。だけど、自分でする自信もない。 すると、承太郎が軽く手をあげ「いや」と割り込んできた。 「どうせならおれがしよう。構わないか?」 「わっ」 そう言って、承太郎は花京院の肩を掴むと引き寄せた。 ぴったりと密着する身体から伝わる体温に眩暈がして、痛いほど心臓が高鳴る。人との触れ合いには慣れていない。だからどうすればいいか、頭の中は混乱するばかりだった。 でも、承太郎に触られるのは不思議と、嫌じゃなかった。 ←戻る ・ 次へ→
切りつけられるのはとても怖いことで、縛られるのは、苦しい。
爪の先、握った拳、言葉。
武器を持たずとも、人は他者を傷つける術をいくらでも持っている。
振りかざされた凶器に肌は傷つき血が溢れ、痣が浮かんで、ナイフのような言霊は心を削ぎ落とす。
だけど、忘れることに慣れてしまえば、何も感じずにいられた。
多分、本当に恐ろしいのは。
誰かを愛することも、愛されることもないまま生きて、死んでいくことだ。
*
墨色に満ちた、暗く、冷たい部屋だった。
自分が目を開けているのかどうかすら分からない。
けれど不思議と不安も恐れもなく、ただふわふわと宙に浮いているような気分だった。
『典明』
針の先で突く程の光もなかった空間に、変化が起こる。
低い声が空気を震わせ、そして小さな小さな火が灯された。ゆらゆらと頼りなく揺れる光は、辺りの闇をさらに色濃く際立たせる。
『おまえは本当にいい子だね』
大きな手が、柔らかく幼い皮膚に這わされる。
その感触がくすぐったくて、ふ、と小さな息を漏らした。
『どこもかしこも、とても綺麗だ。こんなに可愛い子供は見たことがない』
母にさえ褒められたことなどなかったのに。
その人は『ぼく』が求めていた言葉を惜しみなく与え、抱きしめてくれた。
『さぁ、上手にできるかな? いつも通りにできるかい?』
甘い香りがして、意識が朦朧としていくのを感じる。底のない穴にゆっくりと沈んでいくようだった。
それでも『ぼく』は無邪気に微笑み、頷いた。
自分がどこで何をしているのかなんてどうでもよかった。ただもっと褒めてほしくて、もっともっと優しくしてほしくて、愛されたくて。
『そう、いい子だ。愛してるよ典明』
求められるままに、されるがままに。
泣きたくなるくらい甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、夢と現を彷徨い、『ぼく』はただ愛を乞うだけの小さな人形になる。
『大丈夫。明日には、なにもかも忘れているよ』
*
打ちっぱなしのコンクリートの壁に、なにやらいかがわしいポスターが何枚も貼り付けられていた。
事務所と思しき空間は所狭しと段ボール箱が積み上げられ、デスクの上にはDVDのケースが山のようになっている。ちょっと触れただけで雪崩を起こしそうな光景に、花京院の身体は自然と硬くなっていた。
キャスターつきの椅子に適当に掛けていろと言われてから、どれほど時間が経っただろうか。静まり返った中で、秒針が時を刻む音だけがいやに大きく響いているのが、どこか耳障りに感じられた。
(やはり少し、軽率すぎただろうか)
花京院は壁に張り巡らされたポスターをぼんやりと眺めながら、じわじわと後悔しはじめていた。
肌色ばかりが目立つその群れは、主に男性同士が絡み合っているものだ。いかにもな体躯の男たちが際どい衣装やポージングで映りこむ中に、ちょっと笑ってしまうような煽り文句やタイトルまで踊っている。
(俳優、ね。これってやっぱりそういうこと、だよな)
ポスターから目を逸らし、花京院は肩を落としながら溜息を漏らす。
『君、俳優の仕事とか興味ない?』
見知らぬ男に街角で声をかけられてから、おそらくまだ二時間も経過していない。
断っても断ってもしつこく付きまとってくるものだから、話だけでも聞く素振りを見せた結果、あれよあれよという間にここへ連れて来られた。
ビデオメーカーの人間が来るからと、花京院にはたったそれだけの情報しか与えられていない。
俳優、ときてこのポスター群を見れば、この後どんな話し合いが持たれるのかなんて、容易に察しがつく。
どうやって切り抜けようかな、なんて視線を天井に向けていると、おもむろに事務所のドアが開いた。
入って来たのは、どちらもシャツにジーンズといったラフな装いをした、中年男性二人組だった。
「こっち来て」
そのうちの片方、メガネをかけた男に促されるまま、部屋の片隅にある衝立の向こうへ足を向けた。ローテーブルを挟むようにして椅子が四脚。座れと言われて適当に腰かけると、続いて男が二人、花京院の向いに並んで座る。
「幾つ?」
メガネの男の問いかけに、ひとまず素直に「18歳」と答える。
「イケメンだね。どっか事務所とか入ってる?」
幾度か首を振り、花京院は苦笑した。
「まさか」
「へぇ、意外だね。で、さっそく何本か出てみない?」
「何本か、って……」
花京院は、あくまでも察しているにすぎなかった。
もう少しそれなりの前置きがあってもいいような気がするのだが。あたかもここへ来たからには意欲があって当然、という扱いに少々面食らう。
「とりあえず2本、契約してみない? 一本で5万から10万、即日払い。売れ行きによっては後々50はくだらないよ」
「一本でそんなに、ですか」
うん、と男が二人同時に頷いた。
「AVって言ってもさ、うちはネット配信専門だから。しかも有料会員サイトね。形として残るもんじゃないし、何本か出たくらいじゃ顔バレなんてしないから安心して」
花京院は腕を組み、ガラス製のローテーブルに視線を固定して考え込んだ。
相手が未成年の若僧と思って、随分と都合のいいことをサラリと言ってのけているが、それこそこれだけインターネットが普及している世の中だ。たかが一本、されど一本で身を滅ぼした人間なんて、腐るほどいるに違いない。
とはいえ正直、一人暮らしを始めたばかりで貯金が底をついているのは確かだ。別に贅沢をして暮らしたいわけではないが、決して生活が安定しているとはいえない花京院にとって、それはあまりにも魅力的な話だった。
(顔がバレたところで、困るもんでもないんだよな、ぼくの場合)
花京院は家族のいない、天涯孤独の身の上だった。親戚付き合いもなければ、破綻して困るような人間関係もない。
将来的に結婚する気もさらさらないし、むしろ家族なんて存在はただ煩わしいだけとも考えている。
花京院にとって一人に勝る幸福はなかった。仮に見ず知らずの他人に後ろ指をさされたところで、痛くも痒くもない。
それよりなにより、AV男優なんて仕事が満足に務まるかの方が問題だ。見目は決して醜い部類ではないと思うが、かといって優れているとも思えない。
とはいえ、彼らはこの道のプロなのだろうから、素人が深く考えても仕方がないことかと、花京院はどこか曖昧な息を漏らした。
「何をどうすればいいかは分かりませんが……とりあえずやってみよう、かな」
決して前向きではない返答でも、相手にとっては十分のようだった。
*
その後、花京院はなぜかその場で裸になることを強要された。
上背はあるし、そこそこ鍛えてはいる身体だが、自信たっぷりに見せられるほど立派なわけではない、と思う。しかも会って間もない人間の前で急に全裸を曝すなど、常識では考えられないことだった。いくら自身に無頓着とはいえ、花京院だって人並みに羞恥心くらいは持っている。が、ここで恥ずかしがっていては仕事にならないよと冷ややかに言われ、それもそうかと納得した。
全裸でボディチェックされるなんて生まれて初めての経験で、何枚か写真を撮られたりもして、これは流石に少しばかりしんどかった。
服を着込んでからは、男性経験の有無やアナルを使っての男優との絡みはイケるかという確認をされた。経験なんて、男性どころか女性とだってない。花京院は性に対して極端すぎるほど淡泊だった。
どんな形であれセックス経験がないことを伝え、問題ないですとだけ答えておいた。終始淡々とした花京院の様子に「危機感って言葉知ってる?」なんて、逆に心配されてしまった。
それから契約書にサインをして、一週間以内に病院で性病検査を受けるように指示され、ようやく解放された。
*
そうして迎えた一週間後、日曜日。
検査結果に一切の問題もなく再び事務所に足を運んだ花京院は、車に押し込まれてとある住宅地の、貸しスタジオへと連れて来られた。
そこはどこからどう見ても、ただの二階建ての一軒家だった。
「やぁ君、なかなかの男前じゃないか。うん、凄くいい。身体も引き締まってて、最高にいい」
玄関を入ってすぐ、背の低い小太りな男が姿を現した。
彼はまるでぬいぐるみのようなふっくらとした身体に白いYシャツをまとい、赤いネクタイをしていた。花京院に満面の笑みを向けてくるその男は、監督兼プロデューサーとのことだった。
それからすぐ、金髪にダボついたパーカーとジーンズ姿の男もやって来た。こちらは背も高く筋肉質だ。
「彼はカメラマンだよ。遊び人だから気を付けて」
「商品に手は出さねぇですよ。あー、まぁ、適当によろしく」
カメラマンは頭をガリガリと掻きながら、花京院になんの興味も示すことなくすぐに部屋の奥へ消えてしまった。
通された広いリビングにはテーブルやソファ、テレビがあり、開け放たれた隣室には観葉植物とダブルベッドが見える。その空間を、片手で足りる程度のスタッフが数人、行ったり来たりと動き回っていた。
一人掛けのゆったりとしたソファに座らされ、所在無げに視線を彷徨わせていると、例の監督が台本を持ってやって来た。
「台本って言っても、今日は素人のドキュメンタリーモノだから。ざっと流れが書いてあるだけだよ。素の表情や反応を見せてほしいんだ」
はぁ、と曖昧に返事をすると、監督はまだ時間があるから目を通しておいてと言い残し、さっさと行ってしまった。
とりあえずは今日の流れを掴んでおくことが、今の自分にできる仕事らしい。
内容は、本当にいたってシンプルなものだった。
ノンケの素人が、初めてのアナルセックスに至るまでを描くドキュメンタリー。
まずは軽くインタビューをして、それから本番。さらにインタビューをして終わり。あまりにもサラッと書いてあるものだから、実感が湧かなかった。
ただ、そうこうしているうちに周りには大きな照明器具が設置されていたり、スチールカメラを構えた人間に何枚か写真を撮られたりして、徐々にリアリティが形成されつつある。
ドラマの撮影現場もこんな感じなのかなと、ぼんやり思った。
すると、隣の部屋で電飾の取り付け作業をしていた男性スタッフの一人が、花京院の側までやって来てじっと顔を覗き込んできた。
「?」
あまりにも無遠慮な視線を送ってくるものだから、僅かに戸惑い小首を傾げる。
彼は考え込んだ様子で、花京院の顔をまじまじと見つめていた。
「あの、何か?」
「いやぁ……君、どっかで見たような気がするんだよね」
「どこかでって?」
花京院は男の顔を改めてよく観察した。狐のように細く吊り上がった目をして、青いキャップを後ろ向きにかぶったその男に、花京院は全く見覚えがない。
訝しげに眉を寄せて見せると、男はへらへらと笑って手を振った。
「勘違いかな、うん。忘れてくれ」
結局、一人で完結してしまったらしい。彼はすぐに興味を失くしたように背を向け、仕事に戻った。
(なんだ? 今のは?)
「さて、まだ役者は揃ってないけど、インタビュー部分から始めちゃおうか。花京院くん、流れは把握できたよね?」
歌うような監督の声がして、台本が手の中から遠ざかる。
カメラマンがハンドヘルドタイプのビデオカメラを構え、膝をつく。黒光りする無機質なレンズが向けられると、そこでようやく緊張感が押し寄せた。
*
「花京院くんは、やっぱり彼女とかいる? イケメンだもんね、そりゃいるよね?」
膝の上にちょこんと両手を置いて腰かける花京院の正面には、笑顔の監督とカメラを構えた金髪がいる。
「経験人数は? 初めては何歳くらいだったのかな? 気持ちよかった?」
矢継ぎ早に質問を投じてくる監督に、少し戸惑った。
インタビューなのだから質問されるのは当たり前だ。だが、まるで芸能人のようにカメラを向けられ、際どい質問にも答えなくてはいけないという状況は、素人にはなかなか受け入れがたいものだった。
硬い表情のまま戸惑う花京院の反応を見て、監督は「いいね、その表情!」とテンションを上げていた。
しかし、いつまでも無言というわけにはいかない。仕事だと割り切って、なるようになる、とでも思うしかなかった。
「彼女はいませんし、いたこともありません」
「モテそうなのに? 女性が苦手だったり?」
「……さぁ、どうでしょう? ただ興味がないのは、確かです」
「なかなか面白い子だね、花京院くんは」
「そうでしょうか?」
「淡泊なのも味があっていいと思うよ」
(そうだろうか。これでは面白味がないんじゃあないのかな)
花京院の疑問を他所にご機嫌な監督は、さらに次の質問を投げかけてくる。その内容は、流石の花京院も少し引いた。
「じゃあ次。オナニーは週に何回くらいする?」
「は?」
「オナニーだよ、オナニー。男なら普通でしょ?」
「いや、ぼくは別に……」
「どんなふうにする? 一番感じる場所とかさ」
監督が鼻息を荒げるなか、花京院の戸惑いは膨らむばかりだった。
決してしたことがないとは言わないが、おそらくこの年齢の男と比べれば圧倒的に回数は少ない。ごく稀に身体がそういう兆しを見せて、致し方なく事務的に処理する程度のものだった。それを快感と認識したこともない。むしろ吐き出した後のなんともいえない虚無感が苦痛で、煩わしさすら覚えるほどに。
もちろん、これは性的な興奮を得るためのビデオなのだから、質問の内容には納得がいく。だが、気を許せる友達がいた試しのない花京院は、この手の話題を口に出した経験が一切なかった。
どう答えるのが正解なのかと考えていると、腕を組んだ監督がどこか意地悪そうに「フフフ」と笑う。
「花京院くん、お金欲しいんでしょ? だったらちゃんと答えてもらわなきゃ。それが社会のルールってもんだよ。わかるよね?」
監督の言うことは、至極もっともなことだった。それが社会のルールと言われてしまったら、たかだか18の青二才はおとなしく従うしかない。
「……しませんよ、ほとんど」
目を逸らしながら答えた花京院に、監督は「嘘だぁ」と苦笑した。
「18歳って言ったらまだまだ性欲の塊みたいなものでしょ? 毎日したっておかしくないのに?」
「そういう感覚は、よくわかりません」
「変わってるね。まぁ個人差ってのは誰にでもあるだろうけど」
(変、なんだろうか)
性欲というものが頭の中ではどういった現象か理解していても、花京院にはいまいち興味が持てない。同時に、女性に恋愛感情を抱いたこともなかった。美人を見かければ綺麗だと思うし、可愛いとも思う感覚は持っているけれど、それだけだ。
そもそもまともに人とコミュニケーションを取る気のない自分が、恋愛なんて無理な話だと思う。よって、セックスも一生する予定がなかったし、その欲求もない。
「じゃあそんな花京院くん。ここでちょっと冒険してみる……っていうのはどうだい?」
腕を組み、人差し指と親指をふくよかな顎に添えた監督が言った。咄嗟に何を言われたのか理解できず、花京院はただ瞬きを繰り返す。
「今ここでしてみるんだよ」
「何を?」
「オナニーだよ、オナニー!」
「は……?」
それはつまり、自慰行為をして見せろということか。
「急に言われても、そんな……」
「だけどそれをしないと終われないよ? 当然、お金も出せないなぁ」
「!」
ぐうの音も出ない、というのはこのことを言うのか。けれど流石の花京院も、あまりに突然の要求に困惑する以外なかった。
ここまでどうにか平静を保ってきたが、有無を言わさぬ圧力に室内の空気が重くなったような気がして、嫌な汗が額に滲む。
どうすればいいのか、というのはもちろん分かる。だが、突然一人でして見せろという要求は、場馴れしていない花京院には難易度が高い。それに。
(急にやれなんて言われても、勃つわけがないだろ……)
「すまない、遅れた」
そのときだった。
今更になってこんな場所へのこのこやって来てしまった自分を後悔する花京院の視界に、一人の男が現れた。
「来たか承太郎、ぜんぜん大丈夫だよ。まだオナニーシーンすら録ってないから」
じょうたろう、と呼ばれた男は黒い薄手のシャツにジーンズを穿いた、目を見張るほどに美しく精悍な顔つきをした男性だった。滅多にお目にかかれないような美貌もさることならがら、ざっと見ても2メートル近くはありそうな長身に、鍛え抜かれた頑健さが衣服の上からでもはっきりと透けて見えるようだ。目の色からも察するに、純粋な日本人ではなさそうだが。
彼は硬直する花京院を見て、そのエメラルドの瞳を僅かに見開いた。男らしく整った太い眉が、その圧倒的な眼力を際立たせる。
(なんて、綺麗な人だろう)
男を相手にこんなことを思うのは、おかしいことだと思う。
だが、目の前の男に対してはそれしか言いようがなかった。性別を超越した美の形が、そこにはあるような気がした。
「この子が今日のお相手の花京院くん、ピチピチでプリプリの18歳さ。花京院くん、彼が君の初めての相手だよ。空条承太郎くん。規格外の男前だろう?」
花京院は咄嗟に立ち上がりつつ、その圧倒的な存在感と美貌に瞬きを忘れる。承太郎はそれを見て、ふっと口元だけで緩く笑った。
「へぇ、可愛い顔をしてるじゃないか。よく見つけたな」
「!」
(か、可愛い? ぼくが? 正気か?)
否定的な思考に反し、どうしてか心臓がきゅうっと締め付けられたような気がして、咄嗟に胸を押さえた。心なしか、頬まで熱くなってくる。
この男からは、ここにいる監督やカメラマンとは全く違った印象を受けた。長身の花京院が見上げるほど背が高く、落ち着いた雰囲気がいかにも頼りがいのある大人というイメージだ。
澄んだ輝きを放つエメラルドから、花京院は知らぬ間に目が離せなくなっていた。
「だろう? いやぁ、本当にナイスなタイミングで来たね。今からショーの始まりだ」
監督はよほど承太郎がお気に入りらしく、さらに気分を高揚させているようだった。鼻の下が完全に伸びきっているが、確かにこれだけレベルの高い男が自分の作品に出演するともなれば、当然のことだろう。
「それにしても、承太郎が相手の子を気に入るのって、珍しいこともあるもんだ」
「こんな上玉は滅多にお目にかかれないからな。花京院くん、だったか。最初は戸惑うばかりだろうが……ちゃんとできるか?」
「…………」
「花京院くん?」
「……え? あ、はい、できます。問題ありません」
「あっれ花京院くん!? さっきまでと全然態度が違うけど!?」
(あ、あれ? ぼく今、OKしちゃった……?)
監督に突っこまれて、花京院はようやく自分がオナニーショーとやらに意欲を示してしまったことに気づく。
どうしてか、この承太郎という人にかけられた言葉が頭から離れず、やけに気持ちが浮ついてしまうのを感じていた。男が男に可愛いなんて言われて舞い上がるなんて、完全にどうかしている。
(な、なぜだ? どうしてこんなにふわふわとした気分になるんだ? いや、それよりぼくに人前で自慰なんてできるのか……?)
ほぼ無意識とはいえ、花京院は合意してしまったのだ。ここで自慰をしてみせることに。
「あ、あの、ぼく」
「そうと決まればさっそく始めようか! 花京院くん、一人でする自信がないなら手伝うよ。実はその方がギャラも弾むんだ」
一体どういう料金形態なのだろう。首を傾げる花京院に、いったんカメラを止めてずっと成り行きを見守っていた金髪が説明してくれた。
「あんな、ノンケが野郎に手ぇ出されるなんて冗談じゃないだろ? そっちの方がハードル高いだろ? だから弾むのさ」
「な、なるほど。奥深い世界なんですね」
「じゃあどうしようか。僕で構わない?」
監督が笑顔で一歩踏み出してくる。遠慮したい。全力で。だけど、自分でする自信もない。
すると、承太郎が軽く手をあげ「いや」と割り込んできた。
「どうせならおれがしよう。構わないか?」
「わっ」
そう言って、承太郎は花京院の肩を掴むと引き寄せた。
ぴったりと密着する身体から伝わる体温に眩暈がして、痛いほど心臓が高鳴る。人との触れ合いには慣れていない。だからどうすればいいか、頭の中は混乱するばかりだった。
でも、承太郎に触られるのは不思議と、嫌じゃなかった。
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