2025/09/17 Wed それがいつから始まったのかは、ほとんど覚えていない。 " キッカケ " がなんだったのかも。 ただ最初のうちは身体の色々な場所を触られるだけ、だったような気がする。 輪郭をなぞるように頬に触れ、首を通り、肩へと滑る大きな手。トイレや風呂場でしか触らないような場所を、何度も何度も撫でられて、どうしたらいいか分からなかった。 幼心に、これはとても悪いことだということは、なんとなく気づいていた。母が助けに来てくれたらと願いながら、絶対に知られてはいけないことだということにも、気がついていた。 その不安を読んだかのように、義父は甘い言葉と優しい抱擁で花京院の心を支配していった。 大丈夫。 明日には全部忘れている。 明日には全部、なかったことになっている。 だから、 アイシテル、アイシテル、アイシテル。 その呪文は熟れた蜜のように花京院を誘い、蝋燭の光と甘い香りに包まれた部屋の中でだけは、義父に依存することを許された。 触れるだけだった行為はだんだんとエスカレートしていき、身体の隅々まで明け渡すことで、懸命に愛を乞う人形であり続けた。 だけど終わりは唐突だったように思う。 花京院が中学生になって、急激に背が伸び声が低くなっていく頃、義父はパタリと迎えに来なくなった。 だからといって、どうということはなかった。花京院はあの部屋にいる間の記憶だけ、心のずっと奥深くに閉じ込めていたし、今回のようなキッカケでもない限り、永遠に思い出すことはなかったかもしれない。 今も、深く細部まで思いだそうとすると頭が霧がかったようになる。本当のところ、あまり実感もないような気がした。 だけど、まだ何か、とても肝心なことを忘れているような――。 「よほど思いだしたくないことが、まだあるってことなのでしょうか……?」 夜が更けてからも続いた行為のあと、朝方近くまで二人で眠って、目が覚めても花京院は承太郎の腕の中にいた。 掠れた喉で、ぽつりぽつりと記憶の断片を吐き出す声を、承太郎は静かに頷くでもなく聞いている。ただ、長い指が時おりそっと前髪を梳く感触が、大きな安心感を与えてくれていた。 向かい合うように身を寄せて、承太郎の腕を枕に髪を撫でられていると、なんだかだんだん眠たくなってくる。ふと、あのホットミルクにはお酒が入っていたのかなと、承太郎の部屋に入った夜のことを思いだした。だとしたらアルコールの力を借りずに、こんなにも安堵できる場所を得たのだという喜びが、霧雨のような優しさで胸をうつ。 今にも瞼が落ちそうになっていた花京院の耳に、承太郎が長く息を吐き出す音が届いた。 「その様子だと、夜も眠れねえほど気になってるってわけでも、なさそうだな」 「もうほとんど朝ですけどね。どうやらそのようです」 「ならいいんじゃねえのか」 それにしても、と、承太郎の手がひと房だけ長い花京院の前髪を緩く引いた。 「なかなか複雑だぜ」 「複雑、ですか」 「惚れた相手が、おれの腕の中で別の男の話をしやがる」 「な、そういう意味では……承太郎さん」 思わず身を起こそうとした花京院だったが、承太郎に強く抱き込まれてそれは叶わなかった。ちょうど承太郎の首のラインに額を押し付けるような形で、「わかってる」と呟く喉仏の動きにドキリとさせられるから、何も言えなくなる。 複雑。確かにそうだ。承太郎の言う通り、花京院が受けていたのは明らかに性的な虐待でしかないのだ。 あんなにも心を掻き乱されていたというのに、今はこうして淡々と受け止めている自分が不思議だった。 「忘れといた方がいいってことも、あるんだろうぜ」 「……ですね」 「あと、承太郎さんじゃなくて承太郎」 「それは……追々でいいですか?」 「さっきは呼んだぜ。何度もよ」 「あ、あれは、その、勢い、です」 思いだすと脳ミソが沸騰しそうになる。 いくら何も考えられないほど乱れていたとはいえ、自分よりも年上の相手を思い切り呼び捨てしながら、激しく喘いでしまった。 今のような素の状態では、到底できそうもない。けれど承太郎はすっかり味をしめたようだった。 「昨日の撮影んときも、なかなかよかった」 「昨日のはそういう台本だったから……あれ?」 そこまで言って、ふと。 「じょ、承太郎さん、今日の撮影ってどうなるんですか!?」 確か今日は朝早くから監督のコテージに集合、だったはず。 それが今や、すっかり外が白み始めている。今日の内容はベッドの上で恋人同士が濃厚に絡み合う、というものだ。予期せぬ急展開のおかげで、本当に恋人同士になってしまったばかりか、カメラのない場所で台本に描かれていた以上の絡みを済ませてしまった。 「ど、どうしよう……ぼく、今日は腰が立ちそうにないのですが……」 「……やれやれだな」 腕の中で途端にオロオロしはじめた花京院に、承太郎が溜息を漏らす。どうしてこの人は、こんなに呑気していられるのだろう。 「真面目すぎか、てめーは」 「だ、だって」 「撮影は中止だ」 「中止? 監督の指示ですか?」 「おれが決めた」 「えっ」 「スタッフも一人、確実に使いものにならねえしな」 首筋から額を離して顔を上げた花京院の前髪が、今度は少し乱暴に掴まれる。物凄く至近距離で、承太郎が眉間に皺を寄せて、噛みつきそうなほど怖い顔をしていた。 「おれがこれ以上、てめーがビデオに出るのを許すとでも思ってんのか? あ? こら」 「こ、怖いですよ、承太郎さん……」 そういえばこの人、むかし不良だったんだっけ……と、いつかの朝に聞いた話を思いだす。いっそ青筋すら立てそうな勢いに、ほとんど無意識にぶるぶると首を振った。前髪を掴んでいた手が後頭部に移動して、再び額を首筋に押し付けられる。 承太郎はどこか忌々しげに息を吐き、「もっと早くこうしてりゃあよかったぜ」と吐き捨てた。 「ぼくも、そう思います」 直に触れる承太郎の体温と、汗の香りを感じながら、花京院はふと苦笑する。 あの頃は、どうしようもなかった。少しでも勇気をだして気持ちを打ち明けていたら、もっと早くこの結末を迎えることができただろうに。 全ては今だからこそ、思えることでしかないのだけれど。 花京院は承太郎に愛されて、生まれて初めて心の底から満たされることを知った。こんなに幸せでいいのだろうかと、別の意味で、なんだか怖くなってくる。 呆れてしまうくらい安っぽいドラマのようだなぁと、花京院は小さく肩を竦めて微かに笑う。 現実は、チープでいかがわしいアダルトビデオの台本よりもずっと単純で、だからこそままならなくて、複雑だと。 そんなことを考えていると、いちどはどこかへ消え去った眠気が蘇ってくる。朝が近いことは知っているけれど、このままもう少しだけ眠ってしまいたい。 承太郎の腕の中は温もりに満ちていて、心の隅々まで丸裸にされているような気分だった。あるがままの姿で、楽に呼吸ができるような気がした。 「典明」 心地いいバリトンが、今にも溶けて沈みそうな意識に沁み込む。大きな手は優しく髪を梳き、愛してると一言、囁かれた。 花京院はふと、閉じていた瞼を半分だけ抉じ開ける。夢か現か、遥か昔に聞いた義父の声が、遠くに聞こえた気がした。 ――おまえは本当に悪い子だ。 (……おとうさん?) ――私がどんなに苦悩したか、おまえにわかるかい? (……あ) ――いつも物欲しそうにして、目が合えば悪魔のように微笑んで。 (思いだした……) ――こうなることが、おまえには分かっていたんだろう? " キッカケ " は。 ――だからこうなったのは、典明、おまえのせいだよ。 ああ、そうか。そうだった。 ――おまえが私を、狂わせたんだ。 (……確かにこれは、忘れておいた方がよさそうだ) 薄く笑みを浮かべ、愛する承太郎の熱と匂いを思い切り吸い込みながら、あざといまでの心地のいい睡魔に、そっと身を委ねた。 『 大丈夫。 明日には全部忘れている。 明日には全部、なかったことになっている。 だから私は、悪くない―― 』 * あれから。 花京院がビデオに出演することはなくなった。それは承太郎も同じで、結果的にふたりが出演した作品は、あのラブホテルでの撮影が最後になった。 だが、実質ネットで販売されたのは花京院のデビュー作、一本のみだ。それも今では配信が停止されている。 その他の作品にいたっては日の目を見ることなく、配信直前でお蔵入りになった。おそらく承太郎が、なんらかの手を回したに違いない。 しかも、だ。花京院は自分が出演した作品を、実際に見たことがなかったため分からなかったが、あのデビュー作では顔に薄いモザイク処理が施されていたらしい。あくまでも他人の空似で押し通せるかどうか、ギリギリのラインという程度のものだが。 承太郎といえば、彼は元々顔だけは隠すということを条件に、これまでずっとビデオに出演していたという。 これだけの美丈夫が、あんなビデオに平然と出続けることができたのはそういうことだったのかと、妙に納得がいった。彼なら、その身体だけでも十分な価値があったのだろうと。 そして今。 花京院は住んでいた安アパートを引き払い、承太郎のマンションに暮らしている。 「朝ですよ! 起きて、承太郎!」 寝室の遮光カーテンを勢いよく開くと、ベッドの上でシーツに包まれた巨大イモムシがもぞりと動く。 花京院はベッドに近づくと、そのイモムシの殻を少し強引に引き剥がした。 窓から射す光の眩しさに、シーツから顔を出した承太郎は目を閉じたまま、眉間にぐっと皺を刻む。下着姿というあられもない寝姿はかなり刺激的ではあるのだが、よこしまな心の目を閉ざしてその身体を揺り動かす。 「……眠い」 「駄目です。早く起きて支度しないと遅刻しますよ。せっかく作ったお味噌汁も冷める一方です」 「あと5分」 「承太郎ってば!」 承太郎は花京院が剥いだシーツに手を伸ばし、再びそれに包まろうとする。そうはさせるかと慌てて制止しようとした腕を掴まれ、そのまま引きずり込まれてしまった。 「うわッ!? ちょ、っと!」 大きな身体に抱き込まれて、身動きできなくなった身体がシーツに覆い隠された。結局、二人揃ってイモムシの完成だ。ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら手足をバタつかせていると、耳元で低い声が「5分」と言う。 朝っぱらから体力を消耗するのも馬鹿らしい気がしてきて、花京院は小さく溜息を漏らした。 「……本当にあと5分だけですよ」 目を閉じたまま嬉しそうに笑う承太郎の顔は、普段のあの研ぎ澄まされたような美貌とはガラリと印象が変わって、まるで無邪気な子供のようだ。 一緒に暮らし始めて半年ほどが過ぎようとしているが、何もかも完成された大人の男というイメージが、ほとんど崩壊しつつある。 承太郎は、一言でいえばとても我儘だ。花京院がアパートを出たのだって半ば強制的にといった具合だったし、日常の些細なことにいたるまで、こんな風に力技で勝ちを奪われてしまう。 しかも、毎朝のように『承太郎』と呼び捨てしてやらなければ、絶対に起きないときたものだ。本人もそう望んでいるわけだし、遠慮する意味がないような気がして、すっかり慣れた。 だけど、そんなところも含めて日に日に承太郎への愛しさは深まるばかりだった。初恋、というのが本当なら、恋人として彼のこんな姿を見るのは、自分が初めてなのかもしれないと思うと、いまだに少し信じられない。 「そろそろ起きません? もう5分たったんじゃあないかな」 「あと1分30秒」 「……ぜったい適当なこと言ってるでしょ」 これ以上続けていたら、いよいよこちらまで動きたくなくなってしまいそうだ。承太郎の高い体温に包まれていると、つい気が抜けてそのまま寝入ってしまいそうになる。 彼を遅刻させるわけにはいかないし、自分だってこれから仕事があるのだ。 「さ、いい加減起きますよ」 腕の中とシーツから抜け出して半身を起こす花京院に続いて、承太郎も大きな欠伸をしながら身を起こした。彼はいちど強く両目を閉じてから、ようやくぱっちりと開いたエメラルドの瞳で、じっと花京院を見つめてくる。 その何かを訴えるような視線の意図にも、ここのところようやく慣れた。 花京院は少しだけ頬を染めながらふっと笑って、手を伸ばすと承太郎の肩に触れる。ちゅ、という何度聞いても照れ臭い音をたてながら、肉感的な唇に小さくおはようのキスをした。 まるでよくできましたと言わんばかりに、満足げに笑う承太郎の手が、くしゃりと花京院の赤い髪を乱す。いつかの夜よりもずっと、慣れた手つきで。 「上出来だ」 積み重ねては変化する日々の中、こんな風に褒められると浮足立つ胸のトキメキだけは、今も変わらないまま。 ←戻る ・ Wavebox👏
" キッカケ " がなんだったのかも。
ただ最初のうちは身体の色々な場所を触られるだけ、だったような気がする。
輪郭をなぞるように頬に触れ、首を通り、肩へと滑る大きな手。トイレや風呂場でしか触らないような場所を、何度も何度も撫でられて、どうしたらいいか分からなかった。
幼心に、これはとても悪いことだということは、なんとなく気づいていた。母が助けに来てくれたらと願いながら、絶対に知られてはいけないことだということにも、気がついていた。
その不安を読んだかのように、義父は甘い言葉と優しい抱擁で花京院の心を支配していった。
大丈夫。
明日には全部忘れている。
明日には全部、なかったことになっている。
だから、
アイシテル、アイシテル、アイシテル。
その呪文は熟れた蜜のように花京院を誘い、蝋燭の光と甘い香りに包まれた部屋の中でだけは、義父に依存することを許された。
触れるだけだった行為はだんだんとエスカレートしていき、身体の隅々まで明け渡すことで、懸命に愛を乞う人形であり続けた。
だけど終わりは唐突だったように思う。
花京院が中学生になって、急激に背が伸び声が低くなっていく頃、義父はパタリと迎えに来なくなった。
だからといって、どうということはなかった。花京院はあの部屋にいる間の記憶だけ、心のずっと奥深くに閉じ込めていたし、今回のようなキッカケでもない限り、永遠に思い出すことはなかったかもしれない。
今も、深く細部まで思いだそうとすると頭が霧がかったようになる。本当のところ、あまり実感もないような気がした。
だけど、まだ何か、とても肝心なことを忘れているような――。
「よほど思いだしたくないことが、まだあるってことなのでしょうか……?」
夜が更けてからも続いた行為のあと、朝方近くまで二人で眠って、目が覚めても花京院は承太郎の腕の中にいた。
掠れた喉で、ぽつりぽつりと記憶の断片を吐き出す声を、承太郎は静かに頷くでもなく聞いている。ただ、長い指が時おりそっと前髪を梳く感触が、大きな安心感を与えてくれていた。
向かい合うように身を寄せて、承太郎の腕を枕に髪を撫でられていると、なんだかだんだん眠たくなってくる。ふと、あのホットミルクにはお酒が入っていたのかなと、承太郎の部屋に入った夜のことを思いだした。だとしたらアルコールの力を借りずに、こんなにも安堵できる場所を得たのだという喜びが、霧雨のような優しさで胸をうつ。
今にも瞼が落ちそうになっていた花京院の耳に、承太郎が長く息を吐き出す音が届いた。
「その様子だと、夜も眠れねえほど気になってるってわけでも、なさそうだな」
「もうほとんど朝ですけどね。どうやらそのようです」
「ならいいんじゃねえのか」
それにしても、と、承太郎の手がひと房だけ長い花京院の前髪を緩く引いた。
「なかなか複雑だぜ」
「複雑、ですか」
「惚れた相手が、おれの腕の中で別の男の話をしやがる」
「な、そういう意味では……承太郎さん」
思わず身を起こそうとした花京院だったが、承太郎に強く抱き込まれてそれは叶わなかった。ちょうど承太郎の首のラインに額を押し付けるような形で、「わかってる」と呟く喉仏の動きにドキリとさせられるから、何も言えなくなる。
複雑。確かにそうだ。承太郎の言う通り、花京院が受けていたのは明らかに性的な虐待でしかないのだ。
あんなにも心を掻き乱されていたというのに、今はこうして淡々と受け止めている自分が不思議だった。
「忘れといた方がいいってことも、あるんだろうぜ」
「……ですね」
「あと、承太郎さんじゃなくて承太郎」
「それは……追々でいいですか?」
「さっきは呼んだぜ。何度もよ」
「あ、あれは、その、勢い、です」
思いだすと脳ミソが沸騰しそうになる。
いくら何も考えられないほど乱れていたとはいえ、自分よりも年上の相手を思い切り呼び捨てしながら、激しく喘いでしまった。
今のような素の状態では、到底できそうもない。けれど承太郎はすっかり味をしめたようだった。
「昨日の撮影んときも、なかなかよかった」
「昨日のはそういう台本だったから……あれ?」
そこまで言って、ふと。
「じょ、承太郎さん、今日の撮影ってどうなるんですか!?」
確か今日は朝早くから監督のコテージに集合、だったはず。
それが今や、すっかり外が白み始めている。今日の内容はベッドの上で恋人同士が濃厚に絡み合う、というものだ。予期せぬ急展開のおかげで、本当に恋人同士になってしまったばかりか、カメラのない場所で台本に描かれていた以上の絡みを済ませてしまった。
「ど、どうしよう……ぼく、今日は腰が立ちそうにないのですが……」
「……やれやれだな」
腕の中で途端にオロオロしはじめた花京院に、承太郎が溜息を漏らす。どうしてこの人は、こんなに呑気していられるのだろう。
「真面目すぎか、てめーは」
「だ、だって」
「撮影は中止だ」
「中止? 監督の指示ですか?」
「おれが決めた」
「えっ」
「スタッフも一人、確実に使いものにならねえしな」
首筋から額を離して顔を上げた花京院の前髪が、今度は少し乱暴に掴まれる。物凄く至近距離で、承太郎が眉間に皺を寄せて、噛みつきそうなほど怖い顔をしていた。
「おれがこれ以上、てめーがビデオに出るのを許すとでも思ってんのか? あ? こら」
「こ、怖いですよ、承太郎さん……」
そういえばこの人、むかし不良だったんだっけ……と、いつかの朝に聞いた話を思いだす。いっそ青筋すら立てそうな勢いに、ほとんど無意識にぶるぶると首を振った。前髪を掴んでいた手が後頭部に移動して、再び額を首筋に押し付けられる。
承太郎はどこか忌々しげに息を吐き、「もっと早くこうしてりゃあよかったぜ」と吐き捨てた。
「ぼくも、そう思います」
直に触れる承太郎の体温と、汗の香りを感じながら、花京院はふと苦笑する。
あの頃は、どうしようもなかった。少しでも勇気をだして気持ちを打ち明けていたら、もっと早くこの結末を迎えることができただろうに。
全ては今だからこそ、思えることでしかないのだけれど。
花京院は承太郎に愛されて、生まれて初めて心の底から満たされることを知った。こんなに幸せでいいのだろうかと、別の意味で、なんだか怖くなってくる。
呆れてしまうくらい安っぽいドラマのようだなぁと、花京院は小さく肩を竦めて微かに笑う。
現実は、チープでいかがわしいアダルトビデオの台本よりもずっと単純で、だからこそままならなくて、複雑だと。
そんなことを考えていると、いちどはどこかへ消え去った眠気が蘇ってくる。朝が近いことは知っているけれど、このままもう少しだけ眠ってしまいたい。
承太郎の腕の中は温もりに満ちていて、心の隅々まで丸裸にされているような気分だった。あるがままの姿で、楽に呼吸ができるような気がした。
「典明」
心地いいバリトンが、今にも溶けて沈みそうな意識に沁み込む。大きな手は優しく髪を梳き、愛してると一言、囁かれた。
花京院はふと、閉じていた瞼を半分だけ抉じ開ける。夢か現か、遥か昔に聞いた義父の声が、遠くに聞こえた気がした。
――おまえは本当に悪い子だ。
(……おとうさん?)
――私がどんなに苦悩したか、おまえにわかるかい?
(……あ)
――いつも物欲しそうにして、目が合えば悪魔のように微笑んで。
(思いだした……)
――こうなることが、おまえには分かっていたんだろう?
" キッカケ " は。
――だからこうなったのは、典明、おまえのせいだよ。
ああ、そうか。そうだった。
――おまえが私を、狂わせたんだ。
(……確かにこれは、忘れておいた方がよさそうだ)
薄く笑みを浮かべ、愛する承太郎の熱と匂いを思い切り吸い込みながら、あざといまでの心地のいい睡魔に、そっと身を委ねた。
『 大丈夫。
明日には全部忘れている。
明日には全部、なかったことになっている。
だから私は、悪くない―― 』
*
あれから。
花京院がビデオに出演することはなくなった。それは承太郎も同じで、結果的にふたりが出演した作品は、あのラブホテルでの撮影が最後になった。
だが、実質ネットで販売されたのは花京院のデビュー作、一本のみだ。それも今では配信が停止されている。
その他の作品にいたっては日の目を見ることなく、配信直前でお蔵入りになった。おそらく承太郎が、なんらかの手を回したに違いない。
しかも、だ。花京院は自分が出演した作品を、実際に見たことがなかったため分からなかったが、あのデビュー作では顔に薄いモザイク処理が施されていたらしい。あくまでも他人の空似で押し通せるかどうか、ギリギリのラインという程度のものだが。
承太郎といえば、彼は元々顔だけは隠すということを条件に、これまでずっとビデオに出演していたという。
これだけの美丈夫が、あんなビデオに平然と出続けることができたのはそういうことだったのかと、妙に納得がいった。彼なら、その身体だけでも十分な価値があったのだろうと。
そして今。
花京院は住んでいた安アパートを引き払い、承太郎のマンションに暮らしている。
「朝ですよ! 起きて、承太郎!」
寝室の遮光カーテンを勢いよく開くと、ベッドの上でシーツに包まれた巨大イモムシがもぞりと動く。
花京院はベッドに近づくと、そのイモムシの殻を少し強引に引き剥がした。
窓から射す光の眩しさに、シーツから顔を出した承太郎は目を閉じたまま、眉間にぐっと皺を刻む。下着姿というあられもない寝姿はかなり刺激的ではあるのだが、よこしまな心の目を閉ざしてその身体を揺り動かす。
「……眠い」
「駄目です。早く起きて支度しないと遅刻しますよ。せっかく作ったお味噌汁も冷める一方です」
「あと5分」
「承太郎ってば!」
承太郎は花京院が剥いだシーツに手を伸ばし、再びそれに包まろうとする。そうはさせるかと慌てて制止しようとした腕を掴まれ、そのまま引きずり込まれてしまった。
「うわッ!? ちょ、っと!」
大きな身体に抱き込まれて、身動きできなくなった身体がシーツに覆い隠された。結局、二人揃ってイモムシの完成だ。ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら手足をバタつかせていると、耳元で低い声が「5分」と言う。
朝っぱらから体力を消耗するのも馬鹿らしい気がしてきて、花京院は小さく溜息を漏らした。
「……本当にあと5分だけですよ」
目を閉じたまま嬉しそうに笑う承太郎の顔は、普段のあの研ぎ澄まされたような美貌とはガラリと印象が変わって、まるで無邪気な子供のようだ。
一緒に暮らし始めて半年ほどが過ぎようとしているが、何もかも完成された大人の男というイメージが、ほとんど崩壊しつつある。
承太郎は、一言でいえばとても我儘だ。花京院がアパートを出たのだって半ば強制的にといった具合だったし、日常の些細なことにいたるまで、こんな風に力技で勝ちを奪われてしまう。
しかも、毎朝のように『承太郎』と呼び捨てしてやらなければ、絶対に起きないときたものだ。本人もそう望んでいるわけだし、遠慮する意味がないような気がして、すっかり慣れた。
だけど、そんなところも含めて日に日に承太郎への愛しさは深まるばかりだった。初恋、というのが本当なら、恋人として彼のこんな姿を見るのは、自分が初めてなのかもしれないと思うと、いまだに少し信じられない。
「そろそろ起きません? もう5分たったんじゃあないかな」
「あと1分30秒」
「……ぜったい適当なこと言ってるでしょ」
これ以上続けていたら、いよいよこちらまで動きたくなくなってしまいそうだ。承太郎の高い体温に包まれていると、つい気が抜けてそのまま寝入ってしまいそうになる。
彼を遅刻させるわけにはいかないし、自分だってこれから仕事があるのだ。
「さ、いい加減起きますよ」
腕の中とシーツから抜け出して半身を起こす花京院に続いて、承太郎も大きな欠伸をしながら身を起こした。彼はいちど強く両目を閉じてから、ようやくぱっちりと開いたエメラルドの瞳で、じっと花京院を見つめてくる。
その何かを訴えるような視線の意図にも、ここのところようやく慣れた。
花京院は少しだけ頬を染めながらふっと笑って、手を伸ばすと承太郎の肩に触れる。ちゅ、という何度聞いても照れ臭い音をたてながら、肉感的な唇に小さくおはようのキスをした。
まるでよくできましたと言わんばかりに、満足げに笑う承太郎の手が、くしゃりと花京院の赤い髪を乱す。いつかの夜よりもずっと、慣れた手つきで。
「上出来だ」
積み重ねては変化する日々の中、こんな風に褒められると浮足立つ胸のトキメキだけは、今も変わらないまま。
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