2025/09/18 Thu 黒鋼のお決まりのスタイルと言えば黒いジャージ姿だったが、ファイがスーツ姿を披露したのは、初日の一度きりであった。 基本的にタートルネックのセーターに、嫌味なくらい長い足を引き立たせるような細身のパンツというスタイルは、彼を随分と若く見せる。 隣でぼんやりと煙草を燻らせるファイは、せいぜい二十歳かそこらの学生にしか見えなかった。元々年齢を感じさせない容姿ではあるが、基本的に顔立ちが幼いのかもしれない。 白衣を纏っていなければ、おそらく教職員には到底見えないだろう。けれどそんな風に感じられるのは、校内においてこの屋上という場所でだけだった。 ここを出てしまえば途端に、彼は相応の雰囲気を纏う。出来すぎなくらい完璧な仮面で、全てを包み隠してしまう。 「ねぇ」 後方に少しずれた位置に並んでいた黒鋼に背を向け、フェンス越しに校庭を眺めていたファイが唐突に振り返る。悪戯を仕掛けようとしているような、人の悪い笑みだった。 彼が背を預けると、錆びたフェンスはギリリと不快な音を立てた。 「オレのこと、そんなに気になる?」 そうだ、この言葉遣いだ。 普段とはガラリと違う態度とこの砕けた物言いが、彼を幼くさせている。 黒鋼はどうでもいいことのように小さく口端を歪めた。 「ある意味、見てて飽きねぇのかもな」 「へぇー? どんな風に?」 フィルターぎりぎりまで燃えた煙草を地面に落とし、それを靴の裏でおざなりに潰すと、ファイは両手を白衣のポケットに突っ込んだ。 彼は背が高いが、黒鋼はそれよりもさらに高い。自然、下から覗き込まれるようになる。 初めて会った日は、このブルーの瞳に薄気味悪ささえ感じたものだ。 たった数ヶ月ほど前のことなのに、なんだか酷く遠い日の出来事のように感じた。 「てめぇほど完璧な猫っかぶりは、見たことがねぇからな」 「ふん」 鼻で笑ったファイだったが、その表情はまんざらでもないようだった。 「それ、オレにとっては最高の褒め言葉だよ」 黒鋼の指に挟まれた煙草も、ぎりぎりまで燃えていた。同じ様に地面に放ると、足裏で火を揉み消す。 こんな風に屋上で『秘密』を共有してからというもの、黒鋼は今のファイの姿が決して嫌いではなかった。あの嘘臭い仮面を貼り付けている彼といるよりは、よほど呼吸がしやすいからだ。 けれど背後にぴったりと張り付く得体の知れなさは変わらなかった 互いにある程度打ち解けていると見せかけて、決して深部まで踏み込ませない。どうでもいい会話を時折交わしながら、ただ腹を探り合っているに過ぎなかった。 こうして手を伸ばせば触れることの出来る位置にいてさえ、結局のところ距離が縮まることはない。 なのに、不思議だ。 「君さー、最初に会った時から、オレのこと嫌いでしょ?」 黒鋼は彼の熱を知っている。 この細いばかりの身体の感触を。 「オレもだよ」 泣き顔を。 「オレにしてみれば、君の方がよっぽど面白いよ」 決して自ら望んだことではないけれど。 「だから寝てみたんだ」 それは、事実だった。 *** 黒鋼がファイと屋上で顔を合わせるようになり、そして今の関係へと落ち着くに至った全ての発端は、三ヶ月ほど前に遡る。 それは春が訪れるにはまだ早い、雪のチラつく週末の夜だった。 高校から数キロ圏内にある居酒屋は、何かとこういったイベント事がある度に利用される、教師達の行き着けの店だった。 黒鋼が単体で訪れることは滅多にないのだが、何でもここは予め予約を入れておかねば席の確保が難しいほど繁盛しており、確かに見渡せば全席にみっちりとサラリーマンやOLと思しき客で溢れている。 教師一同は店の奥に一つだけの、広めの座敷にその日の席を予約していた。 大テーブルが二つ並べられたその奥まった座敷で、今宵は新たな養護教諭を歓迎するための宴が盛大に行われている。 「ほら、もう酌はいいから君が飲みたまえ!」 頭のハゲ散らかった中年の教頭が、先陣を切って今夜の主役に酒を勧める。 「ボク、お酒弱いんです」 困ったように眉尻を下げて微笑むファイは、中年男に肩を抱かれながら緩く首を振った。 それでも上司や周りに強く勧められて、チマチマと口をつけている。白い頬がほんのりと赤く染まっている彼を見て、女性教諭たちが普段の倍以上にまでテンションが上がっているのが分かった。 黒鋼は輪の中には混ざらず、少し引いた隅の方で一人黙々と飲んでいた。 若い男を取り囲んでわいわいとはしゃぐ一団を見て、黒鋼はふと幼い頃に招待された友人の誕生会を思い出していた。 ファイの目の前にあるのが酒やつまみではなく、オレンジジュースに大きなバースデーケーキであれば完璧だ。 そんな考えのアホらしさに溜息が零れる。 酒は好きだが、騒がしいのは勘弁だ。黒鋼が無口でとっつき難いのは周知のことであるため、連中はこちらをまるで気にしない。 それでもファイだけは酷く気を使っているようで、時折戸惑ったようにこちらを覗きこんでいた。その視線に、あえて気がつかないふりをする。 初めて会話をしたあの日から、黒鋼は彼との接触を極力避けている。自分でもはっきりと自覚しているわけではないのだが、本能的な部分がファイとの関わりを拒んでいた。 それでも校内で見かければ目で追ってしまう。甘ったるい表情を見ると胸がムカムカとする。気を抜けば自分まで絆されそうで。騙されてやるものかという妙な意地も働いていた。 出会ったばかりで、しかもまともに会話をしたのは一度きり。彼という人間のことなど何一つ知りもしないくせに、黒鋼の中でファイ・フローライトはまるで詐欺師と成り果てていた。 一体どこから、この歪んだ感情は生まれてくるのだろう。 そんなことに延々と思考を巡らせながら飲む酒は不味かった。杯ばかりを重ねて、全く違った意味で胃の辺りがジリジリと焼け焦げるばかりだった。 彼のあの穏やかな笑顔に拒絶の色を感じているのは自分だけ。 なぜこうも意識する必要があるのだろう。 これでは、まるで。 「飲みすぎると、すぐに寝ちゃうんです」 角砂糖を噛み砕いた時のような感覚。甘いものは嫌いだ。この声も。 「本当に弱くて……」 頭がクラクラする。どんなに強い酒を飲み続けたとしても、こんな状態に陥ったことはない。 まるでドロドロとしたものに足元を取られ、身動きが取れずに足掻いているかのようだった。目の前が暗く点滅している。意識が遠のく。ファイの声がした。 「先生? 黒鋼先生?」 (よりにもよって、その声で俺を呼ぶなよ) 「あらいやだ! 黒鋼先生ってザルなのよぉ!?」 (うるせぇな。てめぇじゃねぇんだよ。俺が聞きてぇのは……) 「ボクが先生を送って行きます。方向は一緒ですから」 (そうだ、てめぇだ。てめぇの声だよ) そこで、黒鋼の記憶はぷっつりと途切れた。 * 「君みたいな人は初めてだよ」 雪は、いつ止んだのだろうか。カーテンの隙間から覗く三日月に、まだらな雲がかかっていることに黒鋼は気がついた。 降り注ぐ月明かりに薄ぼんやりと浮き上がっている男の声や表情は、妖しくも艶やかに濡れた光を放っている。 何か声を出そうとして口を開いたところで、覆いかぶさる唇によって塞がれてしまう。 酷く喉が渇いている中に滑り込んできた彼の舌は氷のように冷たくて、黒鋼は浮ついて朦朧とする意識でそれを貪った。雛が必死に親鳥に餌を乞う様に、それは似ていた。 どれだけ絡めても吸い上げてもそれは冷たいままで、なのにこの焼け付くような喉を癒すことはなかった。 両腕で抱き込もうとすれば、それはすぐに離れる。 男は笑った。頼りないばかりのささやかな光の中、赤い舌でぬるりとその唇を濡らしているのが分かった。 訳も分からないまま、けれど焦れた黒鋼は掠れた声で、ただ「みず」とだけ声を絞り出すのが精一杯だった。 「あげないよ」 ああ、そうか。 「オレを満足させてくれるまでは、ね?」 それがお前の……。 *** はっとして勢いよく飛び起きた瞬間、まず感じたのは激しい頭痛だった。 強く鷲掴みにされた頭を、思い切り壁にでも打ち付けられているような、嫌な感覚。 飛び込んできた白い光が、目蓋を通りこして眼球を刺激する。ズキズキという不快な痛みから、黒鋼は片手で額を押さえると低く唸った。 「~~~ッ」 もしやこれが二日酔いというものなのか。この歳まで生きてきて、これが初めての体験だった。 凝り固まったかのように重い目蓋をどうにか押し開いて、すぐ脇の窓を見やる。安いにしては日中通して日当たりのいいこの部屋で、遮光カーテンは必須アイテムだ。 その隙間から、容赦なく陽が射している。だが、今が朝なのか昼なのかまでは判別できない。 ベッドの枕元に横倒しになっているデジタルの目覚まし時計をむんずと掴んで、今がちょうど正午過ぎだということをどうにか確認した。 まだカーテンを開ける気にはなれず、荒波のように押し寄せる痛みと倦怠感を払拭するべく、首を勢いよく振った。 やや時間を置いてようやく痛みが緩く静まりかけてきたところで、次は全く違う場所に全く違う痛みが走った。 チリリとした、引き攣れるような痛み。 「なんだよ……」 その場所は左の肩口。 噛み付かれたようなその傷は、血が滲んでこびり付いていた。 「ッ」 一気に、昨夜の出来事が断片的に脳内に再生される。 歓迎会の居酒屋。 子供時代の誕生会。 ファイ。 あの場の居心地の悪さに、無意識に自棄になってグラスを重ねた記憶がある。 けれど、そこから先はブツリと途切れていた。 あれからどうした? どうやってこの自宅に戻ったのか。 この噛み痕は。 その後のことは。 『オレを満足させてくれるまでは、ね』 月明かりの部屋。 喉の渇き。 声。 赤い唇と、濡れた舌。 『これは夢だよ。君にとっては悪夢だろうけどね』 ――おまえは、誰だ……? 「おい……マジかよ」 黒鋼は乱れきったシーツの上に胡坐をかいている己の姿を見やる。 一糸纏わぬ、生まれたままの姿。 噛み痕が傷む。 物凄い勢いで脳内が昨夜の出来事を思い出そうとフル稼動している。 心臓が全身を震わせるほど大きく高鳴っていた。 ファイの声と、冷たい舌と。 薄く笑った赤い口元。 糸が切れたように、ただ茫然と、黒鋼は。 「抱いたのか……俺は、アレを……」 *** 休日の時間を、黒鋼はただひたすら悶々と過ごしていた。 食事をする気にもなれず、酒のつまみにと買い置きしてあった乾き物の類いを窓から放って、例の野良猫を眺めて過ごしていた。 居酒屋で酔い潰れたのは間違いないが、その後のことをあの養護教諭本人に確かめるべきなのかどうか、酷く迷っている。 あの男は、『これは夢だ』と言っていた。 だが確かめるも何も、身体は感触を覚えているのだ。断片的にではあるものの、組み敷いた彼の身体の薄っぺらさや、その熱を。 そして何よりも、夢であって欲しいと、夢に違いないと思おうとしても、それを肩に残る傷が許してはくれない。ただの悪夢であったなら、どんなによかったろう。 なんとも気持ちの悪い思いを抱えたまま、容赦なく月曜はやって来た。 教師たちが口々に「黒鋼先生が酔い潰れるなんて珍しいですね」などと言っては、からかいの言葉を投げかけてくるのを適当に交わして、そしてその様子からどうやら酔い潰れた自分と、「帰る方向が同じだから」とタクシーに共に乗り込んだのがファイであることが知れた。 あの男は黒鋼のアパートがどこにあるかまでは知らないはずだが、高校の位置から近いこともあり、誰かしらが場所を教えたのだろう。まるで覚えていないが、自分もおぼつかないなりに適当な受け答えくらいはしたのかもしれない。 だがそれが事実であったとしても、そう簡単に飲み込むことは不可能だった。誰でもいい。全てを否定できる材料を提供してくれる相手が必要だった。 かといって、まさか誰か自分の肩に噛み付いた人間はいるか、などと聞けるはずもない。 ならやはり、一人しかいないではないか。 「黒鋼先生」 胸の中に曇天を抱えたまま、体育館での授業を終えて職員室へと向かう黒鋼の背に、今一番聞きたくない声が無情にもかかった。 談笑しながら行き交う生徒達の騒がしさに乗じて、気づかないふりをしてしまいたかった。だがそうもいかない。渋々と足を止めて振り向けば、そこには白衣の男が微笑んでいる。 「週末はありがとうございました」 「あぁ……」 それは歓迎会のことなのか、それとも。 「酷く酔っていらしたので心配だったんですけど……もう大丈夫ですか?」 そう言って心配そうに黒鋼の顔を覗き込むものだから、無意識に腰が引けた。 「いや、悪かった。迷惑かけたみてぇだな」 当然確信には触れずに平静を装い、当たり障りない謝罪をする。ファイはとんでもない、と言うように首を左右に振った。 「黒鋼先生はすぐに眠ってしまわれましたから、ボクは何もしてないですよ」 本当にただ送り届けただけ。白々しい嘘をつくなと胸倉を掴んでしまえれば、いっそすっきりするのだろうか。 だが、この男は肝心なことは何も言わない。黒鋼の中の防衛本能が、このまま何もなかったことにしてしまえと、そう告げている。 「酔うなんて初めて見たと、皆さんおっしゃってましたよ。きっとお疲れだったんですね」 ファイは申し訳なさそうに軽く頭を下げた。 「いや……」 息が詰まって、早くこの場を去りたくて仕方がない。この男のいない場所なら、どこでもよかった。 「よければまた、ゆっくり飲みましょうね。今度は、二人だけで」 その誘いにギクリとする。相変わらず綺麗に微笑むファイの言葉が、酷く意味深なものに聞こえる。だいたい、酒に弱いと言っていたのはどの口だ。そんな人間が、他人をこうして誘うものだろうか。 そのとき、次の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。辺りを行き交っていた生徒たちが、一瞬にして姿を消す。 二人だけが取り残された廊下は、酷く寒々として静まり返っていた。 答えるタイミングを逃す形となってしまった黒鋼に、ファイは表情を変えた。それを見た瞬間、心臓がドキリと高鳴った。 陽だまりのような笑顔は、一転して冴え渡る冬の月を思わせるような、冷たい微笑へ。 それはとてもではないが、女子生徒が呼んでいるような『王子様』の甘い微笑みとは、遠くかけ離れたものに見えた。 ちぐはぐだったロジックが、ピタリとはまる。 ああ、これがこの男だ。 『彼』とはあの週末の夜、月明かりの部屋で確かに会っている。 この腕で、確かに『抱いた』のだから。 「君の瞳、赤くてとても綺麗だね」 肩口に残る傷が、甘く疼く。言葉を紡ぐその薄い唇から、目が離せない。 「肩の傷が痛むときは、保健室まで来てくださいね」 ←戻る ・ 次へ→
基本的にタートルネックのセーターに、嫌味なくらい長い足を引き立たせるような細身のパンツというスタイルは、彼を随分と若く見せる。
隣でぼんやりと煙草を燻らせるファイは、せいぜい二十歳かそこらの学生にしか見えなかった。元々年齢を感じさせない容姿ではあるが、基本的に顔立ちが幼いのかもしれない。
白衣を纏っていなければ、おそらく教職員には到底見えないだろう。けれどそんな風に感じられるのは、校内においてこの屋上という場所でだけだった。
ここを出てしまえば途端に、彼は相応の雰囲気を纏う。出来すぎなくらい完璧な仮面で、全てを包み隠してしまう。
「ねぇ」
後方に少しずれた位置に並んでいた黒鋼に背を向け、フェンス越しに校庭を眺めていたファイが唐突に振り返る。悪戯を仕掛けようとしているような、人の悪い笑みだった。
彼が背を預けると、錆びたフェンスはギリリと不快な音を立てた。
「オレのこと、そんなに気になる?」
そうだ、この言葉遣いだ。
普段とはガラリと違う態度とこの砕けた物言いが、彼を幼くさせている。
黒鋼はどうでもいいことのように小さく口端を歪めた。
「ある意味、見てて飽きねぇのかもな」
「へぇー? どんな風に?」
フィルターぎりぎりまで燃えた煙草を地面に落とし、それを靴の裏でおざなりに潰すと、ファイは両手を白衣のポケットに突っ込んだ。
彼は背が高いが、黒鋼はそれよりもさらに高い。自然、下から覗き込まれるようになる。
初めて会った日は、このブルーの瞳に薄気味悪ささえ感じたものだ。
たった数ヶ月ほど前のことなのに、なんだか酷く遠い日の出来事のように感じた。
「てめぇほど完璧な猫っかぶりは、見たことがねぇからな」
「ふん」
鼻で笑ったファイだったが、その表情はまんざらでもないようだった。
「それ、オレにとっては最高の褒め言葉だよ」
黒鋼の指に挟まれた煙草も、ぎりぎりまで燃えていた。同じ様に地面に放ると、足裏で火を揉み消す。
こんな風に屋上で『秘密』を共有してからというもの、黒鋼は今のファイの姿が決して嫌いではなかった。あの嘘臭い仮面を貼り付けている彼といるよりは、よほど呼吸がしやすいからだ。
けれど背後にぴったりと張り付く得体の知れなさは変わらなかった
互いにある程度打ち解けていると見せかけて、決して深部まで踏み込ませない。どうでもいい会話を時折交わしながら、ただ腹を探り合っているに過ぎなかった。
こうして手を伸ばせば触れることの出来る位置にいてさえ、結局のところ距離が縮まることはない。
なのに、不思議だ。
「君さー、最初に会った時から、オレのこと嫌いでしょ?」
黒鋼は彼の熱を知っている。
この細いばかりの身体の感触を。
「オレもだよ」
泣き顔を。
「オレにしてみれば、君の方がよっぽど面白いよ」
決して自ら望んだことではないけれど。
「だから寝てみたんだ」
それは、事実だった。
***
黒鋼がファイと屋上で顔を合わせるようになり、そして今の関係へと落ち着くに至った全ての発端は、三ヶ月ほど前に遡る。
それは春が訪れるにはまだ早い、雪のチラつく週末の夜だった。
高校から数キロ圏内にある居酒屋は、何かとこういったイベント事がある度に利用される、教師達の行き着けの店だった。
黒鋼が単体で訪れることは滅多にないのだが、何でもここは予め予約を入れておかねば席の確保が難しいほど繁盛しており、確かに見渡せば全席にみっちりとサラリーマンやOLと思しき客で溢れている。
教師一同は店の奥に一つだけの、広めの座敷にその日の席を予約していた。
大テーブルが二つ並べられたその奥まった座敷で、今宵は新たな養護教諭を歓迎するための宴が盛大に行われている。
「ほら、もう酌はいいから君が飲みたまえ!」
頭のハゲ散らかった中年の教頭が、先陣を切って今夜の主役に酒を勧める。
「ボク、お酒弱いんです」
困ったように眉尻を下げて微笑むファイは、中年男に肩を抱かれながら緩く首を振った。
それでも上司や周りに強く勧められて、チマチマと口をつけている。白い頬がほんのりと赤く染まっている彼を見て、女性教諭たちが普段の倍以上にまでテンションが上がっているのが分かった。
黒鋼は輪の中には混ざらず、少し引いた隅の方で一人黙々と飲んでいた。
若い男を取り囲んでわいわいとはしゃぐ一団を見て、黒鋼はふと幼い頃に招待された友人の誕生会を思い出していた。
ファイの目の前にあるのが酒やつまみではなく、オレンジジュースに大きなバースデーケーキであれば完璧だ。
そんな考えのアホらしさに溜息が零れる。
酒は好きだが、騒がしいのは勘弁だ。黒鋼が無口でとっつき難いのは周知のことであるため、連中はこちらをまるで気にしない。
それでもファイだけは酷く気を使っているようで、時折戸惑ったようにこちらを覗きこんでいた。その視線に、あえて気がつかないふりをする。
初めて会話をしたあの日から、黒鋼は彼との接触を極力避けている。自分でもはっきりと自覚しているわけではないのだが、本能的な部分がファイとの関わりを拒んでいた。
それでも校内で見かければ目で追ってしまう。甘ったるい表情を見ると胸がムカムカとする。気を抜けば自分まで絆されそうで。騙されてやるものかという妙な意地も働いていた。
出会ったばかりで、しかもまともに会話をしたのは一度きり。彼という人間のことなど何一つ知りもしないくせに、黒鋼の中でファイ・フローライトはまるで詐欺師と成り果てていた。
一体どこから、この歪んだ感情は生まれてくるのだろう。
そんなことに延々と思考を巡らせながら飲む酒は不味かった。杯ばかりを重ねて、全く違った意味で胃の辺りがジリジリと焼け焦げるばかりだった。
彼のあの穏やかな笑顔に拒絶の色を感じているのは自分だけ。
なぜこうも意識する必要があるのだろう。
これでは、まるで。
「飲みすぎると、すぐに寝ちゃうんです」
角砂糖を噛み砕いた時のような感覚。甘いものは嫌いだ。この声も。
「本当に弱くて……」
頭がクラクラする。どんなに強い酒を飲み続けたとしても、こんな状態に陥ったことはない。
まるでドロドロとしたものに足元を取られ、身動きが取れずに足掻いているかのようだった。目の前が暗く点滅している。意識が遠のく。ファイの声がした。
「先生? 黒鋼先生?」
(よりにもよって、その声で俺を呼ぶなよ)
「あらいやだ! 黒鋼先生ってザルなのよぉ!?」
(うるせぇな。てめぇじゃねぇんだよ。俺が聞きてぇのは……)
「ボクが先生を送って行きます。方向は一緒ですから」
(そうだ、てめぇだ。てめぇの声だよ)
そこで、黒鋼の記憶はぷっつりと途切れた。
*
「君みたいな人は初めてだよ」
雪は、いつ止んだのだろうか。カーテンの隙間から覗く三日月に、まだらな雲がかかっていることに黒鋼は気がついた。
降り注ぐ月明かりに薄ぼんやりと浮き上がっている男の声や表情は、妖しくも艶やかに濡れた光を放っている。
何か声を出そうとして口を開いたところで、覆いかぶさる唇によって塞がれてしまう。
酷く喉が渇いている中に滑り込んできた彼の舌は氷のように冷たくて、黒鋼は浮ついて朦朧とする意識でそれを貪った。雛が必死に親鳥に餌を乞う様に、それは似ていた。
どれだけ絡めても吸い上げてもそれは冷たいままで、なのにこの焼け付くような喉を癒すことはなかった。
両腕で抱き込もうとすれば、それはすぐに離れる。
男は笑った。頼りないばかりのささやかな光の中、赤い舌でぬるりとその唇を濡らしているのが分かった。
訳も分からないまま、けれど焦れた黒鋼は掠れた声で、ただ「みず」とだけ声を絞り出すのが精一杯だった。
「あげないよ」
ああ、そうか。
「オレを満足させてくれるまでは、ね?」
それがお前の……。
***
はっとして勢いよく飛び起きた瞬間、まず感じたのは激しい頭痛だった。
強く鷲掴みにされた頭を、思い切り壁にでも打ち付けられているような、嫌な感覚。
飛び込んできた白い光が、目蓋を通りこして眼球を刺激する。ズキズキという不快な痛みから、黒鋼は片手で額を押さえると低く唸った。
「~~~ッ」
もしやこれが二日酔いというものなのか。この歳まで生きてきて、これが初めての体験だった。
凝り固まったかのように重い目蓋をどうにか押し開いて、すぐ脇の窓を見やる。安いにしては日中通して日当たりのいいこの部屋で、遮光カーテンは必須アイテムだ。
その隙間から、容赦なく陽が射している。だが、今が朝なのか昼なのかまでは判別できない。
ベッドの枕元に横倒しになっているデジタルの目覚まし時計をむんずと掴んで、今がちょうど正午過ぎだということをどうにか確認した。
まだカーテンを開ける気にはなれず、荒波のように押し寄せる痛みと倦怠感を払拭するべく、首を勢いよく振った。
やや時間を置いてようやく痛みが緩く静まりかけてきたところで、次は全く違う場所に全く違う痛みが走った。
チリリとした、引き攣れるような痛み。
「なんだよ……」
その場所は左の肩口。
噛み付かれたようなその傷は、血が滲んでこびり付いていた。
「ッ」
一気に、昨夜の出来事が断片的に脳内に再生される。
歓迎会の居酒屋。
子供時代の誕生会。
ファイ。
あの場の居心地の悪さに、無意識に自棄になってグラスを重ねた記憶がある。
けれど、そこから先はブツリと途切れていた。
あれからどうした?
どうやってこの自宅に戻ったのか。
この噛み痕は。
その後のことは。
『オレを満足させてくれるまでは、ね』
月明かりの部屋。
喉の渇き。
声。
赤い唇と、濡れた舌。
『これは夢だよ。君にとっては悪夢だろうけどね』
――おまえは、誰だ……?
「おい……マジかよ」
黒鋼は乱れきったシーツの上に胡坐をかいている己の姿を見やる。
一糸纏わぬ、生まれたままの姿。
噛み痕が傷む。
物凄い勢いで脳内が昨夜の出来事を思い出そうとフル稼動している。
心臓が全身を震わせるほど大きく高鳴っていた。
ファイの声と、冷たい舌と。
薄く笑った赤い口元。
糸が切れたように、ただ茫然と、黒鋼は。
「抱いたのか……俺は、アレを……」
***
休日の時間を、黒鋼はただひたすら悶々と過ごしていた。
食事をする気にもなれず、酒のつまみにと買い置きしてあった乾き物の類いを窓から放って、例の野良猫を眺めて過ごしていた。
居酒屋で酔い潰れたのは間違いないが、その後のことをあの養護教諭本人に確かめるべきなのかどうか、酷く迷っている。
あの男は、『これは夢だ』と言っていた。
だが確かめるも何も、身体は感触を覚えているのだ。断片的にではあるものの、組み敷いた彼の身体の薄っぺらさや、その熱を。
そして何よりも、夢であって欲しいと、夢に違いないと思おうとしても、それを肩に残る傷が許してはくれない。ただの悪夢であったなら、どんなによかったろう。
なんとも気持ちの悪い思いを抱えたまま、容赦なく月曜はやって来た。
教師たちが口々に「黒鋼先生が酔い潰れるなんて珍しいですね」などと言っては、からかいの言葉を投げかけてくるのを適当に交わして、そしてその様子からどうやら酔い潰れた自分と、「帰る方向が同じだから」とタクシーに共に乗り込んだのがファイであることが知れた。
あの男は黒鋼のアパートがどこにあるかまでは知らないはずだが、高校の位置から近いこともあり、誰かしらが場所を教えたのだろう。まるで覚えていないが、自分もおぼつかないなりに適当な受け答えくらいはしたのかもしれない。
だがそれが事実であったとしても、そう簡単に飲み込むことは不可能だった。誰でもいい。全てを否定できる材料を提供してくれる相手が必要だった。
かといって、まさか誰か自分の肩に噛み付いた人間はいるか、などと聞けるはずもない。
ならやはり、一人しかいないではないか。
「黒鋼先生」
胸の中に曇天を抱えたまま、体育館での授業を終えて職員室へと向かう黒鋼の背に、今一番聞きたくない声が無情にもかかった。
談笑しながら行き交う生徒達の騒がしさに乗じて、気づかないふりをしてしまいたかった。だがそうもいかない。渋々と足を止めて振り向けば、そこには白衣の男が微笑んでいる。
「週末はありがとうございました」
「あぁ……」
それは歓迎会のことなのか、それとも。
「酷く酔っていらしたので心配だったんですけど……もう大丈夫ですか?」
そう言って心配そうに黒鋼の顔を覗き込むものだから、無意識に腰が引けた。
「いや、悪かった。迷惑かけたみてぇだな」
当然確信には触れずに平静を装い、当たり障りない謝罪をする。ファイはとんでもない、と言うように首を左右に振った。
「黒鋼先生はすぐに眠ってしまわれましたから、ボクは何もしてないですよ」
本当にただ送り届けただけ。白々しい嘘をつくなと胸倉を掴んでしまえれば、いっそすっきりするのだろうか。
だが、この男は肝心なことは何も言わない。黒鋼の中の防衛本能が、このまま何もなかったことにしてしまえと、そう告げている。
「酔うなんて初めて見たと、皆さんおっしゃってましたよ。きっとお疲れだったんですね」
ファイは申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「いや……」
息が詰まって、早くこの場を去りたくて仕方がない。この男のいない場所なら、どこでもよかった。
「よければまた、ゆっくり飲みましょうね。今度は、二人だけで」
その誘いにギクリとする。相変わらず綺麗に微笑むファイの言葉が、酷く意味深なものに聞こえる。だいたい、酒に弱いと言っていたのはどの口だ。そんな人間が、他人をこうして誘うものだろうか。
そのとき、次の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。辺りを行き交っていた生徒たちが、一瞬にして姿を消す。
二人だけが取り残された廊下は、酷く寒々として静まり返っていた。
答えるタイミングを逃す形となってしまった黒鋼に、ファイは表情を変えた。それを見た瞬間、心臓がドキリと高鳴った。
陽だまりのような笑顔は、一転して冴え渡る冬の月を思わせるような、冷たい微笑へ。
それはとてもではないが、女子生徒が呼んでいるような『王子様』の甘い微笑みとは、遠くかけ離れたものに見えた。
ちぐはぐだったロジックが、ピタリとはまる。
ああ、これがこの男だ。
『彼』とはあの週末の夜、月明かりの部屋で確かに会っている。
この腕で、確かに『抱いた』のだから。
「君の瞳、赤くてとても綺麗だね」
肩口に残る傷が、甘く疼く。言葉を紡ぐその薄い唇から、目が離せない。
「肩の傷が痛むときは、保健室まで来てくださいね」
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