2025/09/18 Thu 10月上旬、黒鋼は高校の年間行事である秋山登山に、生徒達の引率として同行していた。 遠足気分で最初は元気を持て余していた生徒達だったが、開始からものの数十分でウンザリと表情を曇らせるものも少なくなかった。 早朝に出発し、清々しい秋晴れの空の下で見事に色づいた紅葉を眺めながら山頂で昼食を摂り、何事もなければ陽が沈む前には余裕で下山できるはずだった。 実際、黒鋼がすっかりダレきった生徒達に喝を入れつつ下山できたのは、予定の時刻よりも幾分か早かった。 宿泊施設の駐車場広場で、早くに下山した生徒達がぐったりとコンクリートの上に寝そべったり、座りこんでいる。 「ったく、どいつもこいつもだらしねぇな……」 腕を組んでそれを険しい表情で見つめていた黒鋼は、小声でボソリと呟いた。 「先生がタフすぎるんじゃないですか?」 すると、すぐ側で小龍がさらりと返す。足を伸ばして座りこんでいるわりには表情は涼しげだ。単にこの状況に飽きてしまったのだろう。 「うるせぇぞ。しゃんとしろ、しゃんと」 不機嫌に返しつつ、腕時計を見た。 この後、点呼を取ってから休憩を挟み、施設で食事を取るプランになっている。この調子で足並みが揃わなければ、時間が押すことになるかもしれない。 まばらに下山してくる者たちに少々苛立ちながらも、黒鋼は空を見上げて眉間の皺を深くした。 晴天だったはずの空模様が、少しばかり怪しくなっていた。 不穏な色合いの雲が、オレンジ色の夕陽を遮っていく。黒鋼は一つ舌を打つと、辺りの面々に施設へ先に入るように指示を出した。 ほとんどの生徒は戻っているようだが、まだ姿を見せない者がいる。 ファイだ。彼もまた引率者の一人だった。 (あのへなちょこに登山はちっときつかったかもな) そうはいっても、彼は視界に入るたび涼しげな顔で女子生徒等と談笑しながら楽しんでいたようだが。 そんな様子を見ると相変わらずいい気はしなかったが、あの夏の出来事からすれば黒鋼はだいぶ立ち直ることが出来ていた。 何しろクヨクヨしたからといってどうなる問題でもないということに、案外早く気がついたからだった。 以来、出来る限りあの男のことは考えないようにしている。仕事の都合で顔を合わせるのは仕方ないにしろ、未練がましく思い続けるのもはっきり言って馬鹿馬鹿しい。 「あの、黒鋼先生……!」 そのとき、下山してきた最後の一団の中から、ピンク色のレインウェアを着込んだサクラが小走りに駆けて来た。不安そうな表情の彼女の隣には、小狼が付き添っている。両者共、顔色に疲れが滲みきっていた。 「遅いぞ二人とも」 だるそうに立ち上がった小龍に、小狼が「ごめん」と言った。 「どうした」 「ファイ先生、遅れて下りてくると思うんですけど……心配で……」 「あ? あいつ、へばって動けなくなったか?」 登山コースの入り口に目を向ける。だが、もはや誰も降りて来る様子がない。 表情を険しくする黒鋼に、サクラが「どうしよう……」と呟く。 「おい、あいつがどうした」 「さくらが御守りを落としてしまったんです。おれが取りに行こうと思ったんですけど、ファイ先生が先に行けって……」 「ごめんなさい……わたし、いいって言ったんですけど……」 俯くサクラの肩を、小狼が抱いた。 「……わかった」 黒鋼は短く返事をした。彼らからのそれ以上の説明は不要だった。 * ひとまず詳しい事情と、万が一陽が沈んでも戻らなかった場合のことを他の教師に伝えるよう、三人に頼むと黒鋼は再び山を登った。 焦らずとも、どうせ何でもないことのようにケロリとした顔で帰ってくるだろうとは思った。けれど、怪しげな雲行きが黒鋼をどうしようもなく駆り立てていた。 何もなければそれに越したことはない。だが、それでも、もし何かあったとしたら。 それを思うと焦りばかりが先行して、いてもたってもいられなかった。 迫り来る曇天の下、鬱蒼と茂る木々が容赦なく視界を狭めようとしている。 登山コースとしてある程度は整備されている道でも、デコボコとした感触に足元を取られそうになる。 手にしている小型の懐中電灯も、役に立っているのかいないのか微妙なところだ。 「あの馬鹿」 もう何に対しての苛立ちなのか分からなくなりながら、黒鋼は走った。嫌な気配がする。それは黒鋼が最も嫌う、雨の香りと共に鼻先と脳裏を掠めた。 ポツリと音を立てて、何かが黒のダウンジャケットに弾かれた。それを皮切りに、冷たいそれがまばらに降り注ぐ。 ついに、降りだした。 雨は大嫌いだ。思い出したくないことを思い出してしまうから。知りたくもない現実を知らされてしまうから。 大切な人を、奪うから。 そう、あの日も、こんな風に唐突に天候が崩れた。 夏休み、親子でキャンプを楽しんだ帰り道。 激しく左右に動くワイパー。その忙しない音。それでも叩きつける豪雨に視界が開けることはなく、車体やガラスを叩く攻撃的な雨音に、幼い黒鋼は後部座席で震えていた。 ――どうした黒鋼。怖いのか? 父が前方を注意深く見ながら陽気に言った。 ――ふふ、大丈夫よ。山を下りれば、少しはおさまるわ。 助手席の母が、優しく笑っていた。 ――ねぇあなた。そうでしょう? ちゃんと前を見てね。スピードは出さないで。ほら、その先のカーブは少しきついわ。 ――黒鋼の心配性はおまえ譲りだな。俺はいつだって安全運転さ。おまえ達を乗せているときは特にそうだ。そうだろう黒鋼。おまえだって知ってるだろう? ぶつけられることはあっても、ぶつけたことなんか一度もないんだ。 一度も。 一瞬の光と、耳をつんざく激しいブレーキ音。短い母の悲鳴。衝撃。 対向車線からやって来た大型のトラックは、急なカーブを曲がりきれずに激しく車と接触した。 そこから、一体何がどうなったのか、黒鋼は思い出せない。 気がつけば砂利の上にいた。車が横転していた。膝小僧とこめかみから血が流れて、酷く痛んでいた。 そして片腕だけになってしまった父。ゴム人形のようになってしまった母。つい今しがたまで笑っていた人たち。大切な人たち。 来年の夏休みには、きっとまたキャンプをしに来ようと約束をした。来年はもっと大きな魚を釣ろう。来年こそカブトムシを見つけよう。 そんな幸せな約束と共に、彼らを永遠に失ったのだということ以外、何も。 黒鋼は足を止める。息を荒げながら、足元に打ち捨てられたかのように置き去りにされている、サックを呆然と見つめる。 これはファイが背負っていたものだ。けれど、肝心の持ち主がどれほど辺りを見回しても姿が見えない。 「おい!! どこにいる!? いるなら声を出せ!!」 雨が木々を叩く音がする。耳を澄ましても、それ以外の音は聞こえない。 下がる一方の気温以外にも、黒鋼は全身が手足の先から冷え切っていくのを感じた。 喉が渇いて、ごくりと喉を鳴らした。 そこで、黒鋼は視界の隅に背の低い木々が一部分だけなぎ倒されているのを捉えた。 はっとして駆け寄りライトで照らせば、その先に急な傾斜が続いているのが確認できた。さらに目を凝らすと、同じようになぎ倒された細い木々がぐねぐねと下方へ向かって伸びていることが分かる。 「落ちたのか……!?」 それは明らかだった。おそらくこの下にファイがいる。生きているのか、死んでいるのかは分からないけれど。 ほぼ陽は落ちている。一度引き返すか、あるいはこのまま待っていれば助けがやって来るとは思った。 だが、そんな悠長な真似が出来るほど、黒鋼は冷静ではいられなかった。 *** 雨でぬかるみはじめた傾斜は滑りやすく、気を抜けばあっという間に転がり落ちてしまいそうだった。 右手にライトのストラップをかけてしっかりと持ち、慎重に姿勢を低くし、足元に注意しながら枝や草の根を掴んでゆっくりと下りてゆく。 時折ズルリと先の方へ延ばしている片足が滑り、ヒヤリとしながらも下降していけば、足先が宙を切る感覚を覚えて黒鋼はその場で止まる。 ライトを強く掴みなおし、そっと覗きこむようにして前方を照らせば、そこは地面がぷっつりと途切れていた。 その先は小高い崖になっていた。だが比較的近い位置に開けた枯れ草だらけの地面が見える。 高さはせいぜい2メートル弱といったところか。この分ならなんとかなる。 黒鋼は、体勢を整えるとそこから一気に滑り落ちるようにして、そして着地した。 枯葉がクッションとなり、思った以上に衝撃は軽い。息をつき、たった今下りてきた崖と傾斜をライトで照らし、改めて眺める。傾斜そのものはゆるやかだが、上から一気に転がり落ちたとなると果たして無事かどうか。 「おい!! いるか!?」 辺りを忙しなくライトで照らし、声を張り上げる。 もはや完全に闇に閉ざされた空間に、雨音とその声がこだました。 「いるなら返事をしろ!!」 「……たん?」 「!?」 「くろがねせんせぇ?」 「どこだ!? 無事なんだな!?」 「……こっち。こっちにいます」 小さいが、それは確かにファイの声だった。 こっち、という声を頼りに崖沿いを足早に進めば、雨を含んだ枯葉の絨毯が湿った音を立てる。 やがて前方に、ゆらゆらと揺れる白いものがぼんやりと見えた。改めてそれをライトで照らす。 「こっちです」 随分と薄汚れていたが、揺れているそれは黒鋼を手招く白いフリースの腕だった。 「黒鋼先生」 大股で枯葉を踏みながら辿りつくと、そこには両足を投げ出したファイが崖の僅かに抉れて出来上がった空洞の中に座りこんでいた。 彼は黒鋼の姿を見ると、泥で汚れた頬でふんわりと微笑んだ。 「来てくれたんですね」 「てめぇ……」 焦りや不安が安堵に変わると、残されたのは激しい怒りだった。けれど実際、無事だった彼とこうして対面しても何も言葉が浮かばない。 見つけ出したら思い切り怒鳴りつけて、一発ぶん殴ってやろうと考えていたはずなのに。 けれど感情の度合いが大きすぎると、それが怒りであろうが悲しみであろうが、すんなりと外には出てこないものだ。 ただ拳を震わせて鬼の形相を浮かべる黒鋼に、ファイは目を丸くした。やがて黒鋼が座りこむ彼に向かって屈みこみ、膝をつくと殴られるとでも思ったのか、目をきゅっと瞑った。 「ばかやろうが……ッ」 だが、黒鋼は彼を殴らなかった。低く唸るような声でささやかになじっただけで、あとは冷え切った身体を思い切り抱きしめた。 幾重か着込んでいるはずのその身体は、それでも腕の中にすっぽりと納まり、その呼吸が耳元を掠めると、黒鋼は震える息を吐き出した。 「ばかやろう……」 激しい怒りも、抱きしめる腕に力を込めれば込めるほど、込み上げる安堵によって覆われてしまった。 彼は生きていた。無事だった。奪われずに済んだ。失わずに、済んだ。 「黒たん……?」 ファイは懐かしい呼び方で黒鋼を呼ぶと、おずおずと背中に腕を回し、「ごめんね」と言った。 * 狭い空洞の中に二人で身体を押し込めるようにして寄り添って、寒さと雨をしのぐ。 小さな崖と傾斜さえ上ってしまえば登山コースに出られるはずだが、この天候と心許ないライトの明りだけではあまりにも危険すぎる。 なにより、ファイは片足を動かすことが出来ないのだ。 誤って足を踏み外した彼はそのまま転がり、案の定あの崖から派手に落ちた。高さこそ差ほどではないにしろ、彼は着地に失敗して左足を酷く捻ってしまった。 「サクラちゃんの御守りが、あの傾斜に引っかかってるのを見つけたんだ。危ないなぁとは思ったけど、身体が勝手に動いちゃったんだよね」 「てめぇみてぇな奴にもまだ良心が残ってたんだな」 「相変わらず酷い言い草だなぁ」 ファイが身体を揺らして笑うと、黒鋼にもその振動が伝わった。 脇に置いてあるライトの仄かな明りが、ファイの吐き出す息の白さを知らせている。 黒鋼は、こうして再び彼と『会話』している自分が不思議でならなかった。 もう決してファイとこうして話すことも、よそ行きじゃない笑顔を見ることも無いと思っていたから。 「なんか久しぶりだね。こういうの」 それはファイも同じだったのか、一通り笑ったあとにほんの少しだけ困ったような顔を見せた。 「ちゃんと拾えたのか。その、御守りってやつは」 「あ、うん。ほら」 フリースの懐を探ってファイが取り出したそれは、小さな赤い御守りだった。健康祈願と金色の刺繍が施されたそれを、手の平に乗せて見せてくれる。 「サクラちゃんはいいって言ったんだけどね。これは初詣に小狼君と買いにいったお揃いの御守りだったんだって。小狼君は青で、小龍君が緑色なんだよ」 手の平にちょこんと乗った御守りを、ファイがそっと握った。それから、少しだけ表情を曇らせる。 「どうした」 「……うぅん。いいんだ」 話したがらない様子のファイだったが、黒鋼が無言で見つめ続けると「あはは」と苦笑した。 「オレの御守りがね、逆になくなっちゃったんだよ」 「あの石か」 「うん。落ちたときに、どこかにいっちゃったみたい」 ファイはさくらの御守りを再び懐に仕舞う。 黒鋼は、あの夏の夜に彼が見せてくれた月の形の石を思い浮かべた。どこか感情を揺さぶられるような、懐かしさを纏った石だった。 それを、大切な人からもらったものだとファイは言っていた。これがあれば、自分は死なないのだとも。 「だったら、あの石がてめぇを守ったんだな」 「え……?」 目を丸く見開いたファイと、間近に視線を合わせる。 「身代わりになったんだろ。あれがなけりゃ、今頃は怪我だけじゃすまなかったかもしれねぇな」 「……そっか」 茫然と呟いたファイは、俯いてそっと静かに瞳を閉じた。それから、緩く顔を上げると悲しげに微笑んだ。 「きっとそうだね……」 「そんなに」 「ん?」 「……いや。よほど大事なもんなんだなと思っただけだ」 「そりゃあそうだよ。だって、大切な人がくれたんだもの」 でも、とファイは続ける。 「その人は、もうこの世にはいないんだけどね」 「……」 「すっきりした?」 「あ?」 悪戯ッ子のように下から覗き込んでくるファイに、むっと顔を顰める。けれど悪態をつく気にはなれなかった。 死んだと聞かされて、スッキリするもなにもない。この男への気持ちはとっくに封印していたはずだった。 けれど、黒鋼は気がつけばファイの汚れた頬に、同じく泥に汚れた指先を伸ばしていた。思っていたよりもずっと、それは温かな感触で黒鋼の手によく馴染む。 なぜだとか、どうしてだとかいう疑問や、それに対する理屈めいたものが酷く遠い場所にある。 もう二度と触れられないと思っていたその肌と、透き通るようなブルーに吸い込まれそうだった。 ファイがそっと目蓋を伏せて、待ちわびるような睫毛の震えを見た瞬間には、黒鋼は彼に口付けていた。 「ん……」 軽く触れるだけに留まらず、気がつけば久しく忘れかけていたその温かな唇を深く味わっていた。ファイの指先が黒鋼のジャケットの袖に触れて、指先できゅっと掴む。 押せば応えるその柔らかな舌に眩暈がした。これ以上はマズイと己を奮い立たせて唇を離せば、頬をほのかに赤らめるファイの、蕩けたような瞳とかち合った。 「……ゲームは終わったんじゃねぇのか」 今更のように照れ臭さや後悔のようなものが押し寄せて、ぶっきらぼうに言った黒鋼に、ファイは困ったように小さく笑う。彼はあきらかに戸惑いを見せている。 黒鋼の袖を掴む指先も、いまだそのままだった。 そして彼は可愛らしく小首を傾げて見せた。 「情熱的な黒様先生を見てたら、リセットしてまた最初から……っていうのも、悪くないかなー、なんて」 「そういうのを、絆されたって言うんだぜ」 「え……?」 「言っておくがな、俺はごっこ遊びなんざ初めっから承諾した覚えはねぇよ」 「……」 ファイの表情から笑みが消えた。ただ茫然と瞬きを繰り返している。 当たり前だ。何が悲しくてたかがゲームで男なんて抱けるものか。認めたくないという思いが先行しすぎて、あくまで建前として利用していただけだった。 自分だって彼のことは言えない。十分、ずるい真似をしていたのだと思う。 一度は諦めた感情だったし、本気になれば馬鹿を見る相手だということは、よく理解しているつもりだった。 まるで安っぽいドラマのようだと自分でも呆れてしまう。 けれど永遠に失ってしまったかもしれないと感じたとき、叫び出したいほどの絶望と共にこの男を愛しているという感情が止め処なく溢れ出した。 「てめぇが誰で、どれが本当かなんてもうどうでもいい。どんな馬鹿やってたって構わねぇから、俺の目の届くとこにいろ。もう、あんな思いはたくさんだ」 「黒様……?」 もう失くすのはたくさんだった。ならばこの手で捕まえているしかない。 「リセットできんだろ? だったらしちまえ。てめぇがゲームだってんなら、俺がそのうち本気にさせてやる」 表だろうが裏だろうが、この男が胡散臭いのに代わりはない。それでも惹かれてしまったのだから、開き直る以外に仕方が無い。 どうせこんなどうしようもない男は、この先だってまともな恋愛などできっこないのだ。だったら、存分に時間はある。 少し楽観的すぎるような気もしたが、本心を押し殺すことにほとほと疲れを感じていた。 「てめぇの中にわけわかんねぇのが何人いたって、結局てめぇはてめぇだろ」 目を見開いて言葉を失っていたファイだが、やがて泣き出しそうな情けない笑顔を浮かべた。 「馬鹿だなぁ」 「なんとでも言いやがれ」 「馬鹿だよ。君も、オレも……」 ファイは黒鋼の袖に添えたままだった己の指先に視線を落とした。そして言った。 「リセットは、しない……」 「……」 「でも、ちゃんと考える……。考えて、決める。だってきっと、次はゲームじゃ済まされないから」 雨音と微かな光の中で、二人は小さく微笑み合った。 空が白み始める頃には雨も上がり、ようやく捜索隊がやって来た。 黒鋼の肩に頭を預けてすっかり眠り込んでいたファイを揺り起こして、その後二人は無事に下山した。 そして運命の日がやって来る。 ←戻る ・ 次へ→
遠足気分で最初は元気を持て余していた生徒達だったが、開始からものの数十分でウンザリと表情を曇らせるものも少なくなかった。
早朝に出発し、清々しい秋晴れの空の下で見事に色づいた紅葉を眺めながら山頂で昼食を摂り、何事もなければ陽が沈む前には余裕で下山できるはずだった。
実際、黒鋼がすっかりダレきった生徒達に喝を入れつつ下山できたのは、予定の時刻よりも幾分か早かった。
宿泊施設の駐車場広場で、早くに下山した生徒達がぐったりとコンクリートの上に寝そべったり、座りこんでいる。
「ったく、どいつもこいつもだらしねぇな……」
腕を組んでそれを険しい表情で見つめていた黒鋼は、小声でボソリと呟いた。
「先生がタフすぎるんじゃないですか?」
すると、すぐ側で小龍がさらりと返す。足を伸ばして座りこんでいるわりには表情は涼しげだ。単にこの状況に飽きてしまったのだろう。
「うるせぇぞ。しゃんとしろ、しゃんと」
不機嫌に返しつつ、腕時計を見た。
この後、点呼を取ってから休憩を挟み、施設で食事を取るプランになっている。この調子で足並みが揃わなければ、時間が押すことになるかもしれない。
まばらに下山してくる者たちに少々苛立ちながらも、黒鋼は空を見上げて眉間の皺を深くした。
晴天だったはずの空模様が、少しばかり怪しくなっていた。
不穏な色合いの雲が、オレンジ色の夕陽を遮っていく。黒鋼は一つ舌を打つと、辺りの面々に施設へ先に入るように指示を出した。
ほとんどの生徒は戻っているようだが、まだ姿を見せない者がいる。
ファイだ。彼もまた引率者の一人だった。
(あのへなちょこに登山はちっときつかったかもな)
そうはいっても、彼は視界に入るたび涼しげな顔で女子生徒等と談笑しながら楽しんでいたようだが。
そんな様子を見ると相変わらずいい気はしなかったが、あの夏の出来事からすれば黒鋼はだいぶ立ち直ることが出来ていた。
何しろクヨクヨしたからといってどうなる問題でもないということに、案外早く気がついたからだった。
以来、出来る限りあの男のことは考えないようにしている。仕事の都合で顔を合わせるのは仕方ないにしろ、未練がましく思い続けるのもはっきり言って馬鹿馬鹿しい。
「あの、黒鋼先生……!」
そのとき、下山してきた最後の一団の中から、ピンク色のレインウェアを着込んだサクラが小走りに駆けて来た。不安そうな表情の彼女の隣には、小狼が付き添っている。両者共、顔色に疲れが滲みきっていた。
「遅いぞ二人とも」
だるそうに立ち上がった小龍に、小狼が「ごめん」と言った。
「どうした」
「ファイ先生、遅れて下りてくると思うんですけど……心配で……」
「あ? あいつ、へばって動けなくなったか?」
登山コースの入り口に目を向ける。だが、もはや誰も降りて来る様子がない。
表情を険しくする黒鋼に、サクラが「どうしよう……」と呟く。
「おい、あいつがどうした」
「さくらが御守りを落としてしまったんです。おれが取りに行こうと思ったんですけど、ファイ先生が先に行けって……」
「ごめんなさい……わたし、いいって言ったんですけど……」
俯くサクラの肩を、小狼が抱いた。
「……わかった」
黒鋼は短く返事をした。彼らからのそれ以上の説明は不要だった。
*
ひとまず詳しい事情と、万が一陽が沈んでも戻らなかった場合のことを他の教師に伝えるよう、三人に頼むと黒鋼は再び山を登った。
焦らずとも、どうせ何でもないことのようにケロリとした顔で帰ってくるだろうとは思った。けれど、怪しげな雲行きが黒鋼をどうしようもなく駆り立てていた。
何もなければそれに越したことはない。だが、それでも、もし何かあったとしたら。
それを思うと焦りばかりが先行して、いてもたってもいられなかった。
迫り来る曇天の下、鬱蒼と茂る木々が容赦なく視界を狭めようとしている。
登山コースとしてある程度は整備されている道でも、デコボコとした感触に足元を取られそうになる。
手にしている小型の懐中電灯も、役に立っているのかいないのか微妙なところだ。
「あの馬鹿」
もう何に対しての苛立ちなのか分からなくなりながら、黒鋼は走った。嫌な気配がする。それは黒鋼が最も嫌う、雨の香りと共に鼻先と脳裏を掠めた。
ポツリと音を立てて、何かが黒のダウンジャケットに弾かれた。それを皮切りに、冷たいそれがまばらに降り注ぐ。
ついに、降りだした。
雨は大嫌いだ。思い出したくないことを思い出してしまうから。知りたくもない現実を知らされてしまうから。
大切な人を、奪うから。
そう、あの日も、こんな風に唐突に天候が崩れた。
夏休み、親子でキャンプを楽しんだ帰り道。
激しく左右に動くワイパー。その忙しない音。それでも叩きつける豪雨に視界が開けることはなく、車体やガラスを叩く攻撃的な雨音に、幼い黒鋼は後部座席で震えていた。
――どうした黒鋼。怖いのか?
父が前方を注意深く見ながら陽気に言った。
――ふふ、大丈夫よ。山を下りれば、少しはおさまるわ。
助手席の母が、優しく笑っていた。
――ねぇあなた。そうでしょう? ちゃんと前を見てね。スピードは出さないで。ほら、その先のカーブは少しきついわ。
――黒鋼の心配性はおまえ譲りだな。俺はいつだって安全運転さ。おまえ達を乗せているときは特にそうだ。そうだろう黒鋼。おまえだって知ってるだろう? ぶつけられることはあっても、ぶつけたことなんか一度もないんだ。
一度も。
一瞬の光と、耳をつんざく激しいブレーキ音。短い母の悲鳴。衝撃。
対向車線からやって来た大型のトラックは、急なカーブを曲がりきれずに激しく車と接触した。
そこから、一体何がどうなったのか、黒鋼は思い出せない。
気がつけば砂利の上にいた。車が横転していた。膝小僧とこめかみから血が流れて、酷く痛んでいた。
そして片腕だけになってしまった父。ゴム人形のようになってしまった母。つい今しがたまで笑っていた人たち。大切な人たち。
来年の夏休みには、きっとまたキャンプをしに来ようと約束をした。来年はもっと大きな魚を釣ろう。来年こそカブトムシを見つけよう。
そんな幸せな約束と共に、彼らを永遠に失ったのだということ以外、何も。
黒鋼は足を止める。息を荒げながら、足元に打ち捨てられたかのように置き去りにされている、サックを呆然と見つめる。
これはファイが背負っていたものだ。けれど、肝心の持ち主がどれほど辺りを見回しても姿が見えない。
「おい!! どこにいる!? いるなら声を出せ!!」
雨が木々を叩く音がする。耳を澄ましても、それ以外の音は聞こえない。
下がる一方の気温以外にも、黒鋼は全身が手足の先から冷え切っていくのを感じた。
喉が渇いて、ごくりと喉を鳴らした。
そこで、黒鋼は視界の隅に背の低い木々が一部分だけなぎ倒されているのを捉えた。
はっとして駆け寄りライトで照らせば、その先に急な傾斜が続いているのが確認できた。さらに目を凝らすと、同じようになぎ倒された細い木々がぐねぐねと下方へ向かって伸びていることが分かる。
「落ちたのか……!?」
それは明らかだった。おそらくこの下にファイがいる。生きているのか、死んでいるのかは分からないけれど。
ほぼ陽は落ちている。一度引き返すか、あるいはこのまま待っていれば助けがやって来るとは思った。
だが、そんな悠長な真似が出来るほど、黒鋼は冷静ではいられなかった。
***
雨でぬかるみはじめた傾斜は滑りやすく、気を抜けばあっという間に転がり落ちてしまいそうだった。
右手にライトのストラップをかけてしっかりと持ち、慎重に姿勢を低くし、足元に注意しながら枝や草の根を掴んでゆっくりと下りてゆく。
時折ズルリと先の方へ延ばしている片足が滑り、ヒヤリとしながらも下降していけば、足先が宙を切る感覚を覚えて黒鋼はその場で止まる。
ライトを強く掴みなおし、そっと覗きこむようにして前方を照らせば、そこは地面がぷっつりと途切れていた。
その先は小高い崖になっていた。だが比較的近い位置に開けた枯れ草だらけの地面が見える。
高さはせいぜい2メートル弱といったところか。この分ならなんとかなる。
黒鋼は、体勢を整えるとそこから一気に滑り落ちるようにして、そして着地した。
枯葉がクッションとなり、思った以上に衝撃は軽い。息をつき、たった今下りてきた崖と傾斜をライトで照らし、改めて眺める。傾斜そのものはゆるやかだが、上から一気に転がり落ちたとなると果たして無事かどうか。
「おい!! いるか!?」
辺りを忙しなくライトで照らし、声を張り上げる。
もはや完全に闇に閉ざされた空間に、雨音とその声がこだました。
「いるなら返事をしろ!!」
「……たん?」
「!?」
「くろがねせんせぇ?」
「どこだ!? 無事なんだな!?」
「……こっち。こっちにいます」
小さいが、それは確かにファイの声だった。
こっち、という声を頼りに崖沿いを足早に進めば、雨を含んだ枯葉の絨毯が湿った音を立てる。
やがて前方に、ゆらゆらと揺れる白いものがぼんやりと見えた。改めてそれをライトで照らす。
「こっちです」
随分と薄汚れていたが、揺れているそれは黒鋼を手招く白いフリースの腕だった。
「黒鋼先生」
大股で枯葉を踏みながら辿りつくと、そこには両足を投げ出したファイが崖の僅かに抉れて出来上がった空洞の中に座りこんでいた。
彼は黒鋼の姿を見ると、泥で汚れた頬でふんわりと微笑んだ。
「来てくれたんですね」
「てめぇ……」
焦りや不安が安堵に変わると、残されたのは激しい怒りだった。けれど実際、無事だった彼とこうして対面しても何も言葉が浮かばない。
見つけ出したら思い切り怒鳴りつけて、一発ぶん殴ってやろうと考えていたはずなのに。
けれど感情の度合いが大きすぎると、それが怒りであろうが悲しみであろうが、すんなりと外には出てこないものだ。
ただ拳を震わせて鬼の形相を浮かべる黒鋼に、ファイは目を丸くした。やがて黒鋼が座りこむ彼に向かって屈みこみ、膝をつくと殴られるとでも思ったのか、目をきゅっと瞑った。
「ばかやろうが……ッ」
だが、黒鋼は彼を殴らなかった。低く唸るような声でささやかになじっただけで、あとは冷え切った身体を思い切り抱きしめた。
幾重か着込んでいるはずのその身体は、それでも腕の中にすっぽりと納まり、その呼吸が耳元を掠めると、黒鋼は震える息を吐き出した。
「ばかやろう……」
激しい怒りも、抱きしめる腕に力を込めれば込めるほど、込み上げる安堵によって覆われてしまった。
彼は生きていた。無事だった。奪われずに済んだ。失わずに、済んだ。
「黒たん……?」
ファイは懐かしい呼び方で黒鋼を呼ぶと、おずおずと背中に腕を回し、「ごめんね」と言った。
*
狭い空洞の中に二人で身体を押し込めるようにして寄り添って、寒さと雨をしのぐ。
小さな崖と傾斜さえ上ってしまえば登山コースに出られるはずだが、この天候と心許ないライトの明りだけではあまりにも危険すぎる。
なにより、ファイは片足を動かすことが出来ないのだ。
誤って足を踏み外した彼はそのまま転がり、案の定あの崖から派手に落ちた。高さこそ差ほどではないにしろ、彼は着地に失敗して左足を酷く捻ってしまった。
「サクラちゃんの御守りが、あの傾斜に引っかかってるのを見つけたんだ。危ないなぁとは思ったけど、身体が勝手に動いちゃったんだよね」
「てめぇみてぇな奴にもまだ良心が残ってたんだな」
「相変わらず酷い言い草だなぁ」
ファイが身体を揺らして笑うと、黒鋼にもその振動が伝わった。
脇に置いてあるライトの仄かな明りが、ファイの吐き出す息の白さを知らせている。
黒鋼は、こうして再び彼と『会話』している自分が不思議でならなかった。
もう決してファイとこうして話すことも、よそ行きじゃない笑顔を見ることも無いと思っていたから。
「なんか久しぶりだね。こういうの」
それはファイも同じだったのか、一通り笑ったあとにほんの少しだけ困ったような顔を見せた。
「ちゃんと拾えたのか。その、御守りってやつは」
「あ、うん。ほら」
フリースの懐を探ってファイが取り出したそれは、小さな赤い御守りだった。健康祈願と金色の刺繍が施されたそれを、手の平に乗せて見せてくれる。
「サクラちゃんはいいって言ったんだけどね。これは初詣に小狼君と買いにいったお揃いの御守りだったんだって。小狼君は青で、小龍君が緑色なんだよ」
手の平にちょこんと乗った御守りを、ファイがそっと握った。それから、少しだけ表情を曇らせる。
「どうした」
「……うぅん。いいんだ」
話したがらない様子のファイだったが、黒鋼が無言で見つめ続けると「あはは」と苦笑した。
「オレの御守りがね、逆になくなっちゃったんだよ」
「あの石か」
「うん。落ちたときに、どこかにいっちゃったみたい」
ファイはさくらの御守りを再び懐に仕舞う。
黒鋼は、あの夏の夜に彼が見せてくれた月の形の石を思い浮かべた。どこか感情を揺さぶられるような、懐かしさを纏った石だった。
それを、大切な人からもらったものだとファイは言っていた。これがあれば、自分は死なないのだとも。
「だったら、あの石がてめぇを守ったんだな」
「え……?」
目を丸く見開いたファイと、間近に視線を合わせる。
「身代わりになったんだろ。あれがなけりゃ、今頃は怪我だけじゃすまなかったかもしれねぇな」
「……そっか」
茫然と呟いたファイは、俯いてそっと静かに瞳を閉じた。それから、緩く顔を上げると悲しげに微笑んだ。
「きっとそうだね……」
「そんなに」
「ん?」
「……いや。よほど大事なもんなんだなと思っただけだ」
「そりゃあそうだよ。だって、大切な人がくれたんだもの」
でも、とファイは続ける。
「その人は、もうこの世にはいないんだけどね」
「……」
「すっきりした?」
「あ?」
悪戯ッ子のように下から覗き込んでくるファイに、むっと顔を顰める。けれど悪態をつく気にはなれなかった。
死んだと聞かされて、スッキリするもなにもない。この男への気持ちはとっくに封印していたはずだった。
けれど、黒鋼は気がつけばファイの汚れた頬に、同じく泥に汚れた指先を伸ばしていた。思っていたよりもずっと、それは温かな感触で黒鋼の手によく馴染む。
なぜだとか、どうしてだとかいう疑問や、それに対する理屈めいたものが酷く遠い場所にある。
もう二度と触れられないと思っていたその肌と、透き通るようなブルーに吸い込まれそうだった。
ファイがそっと目蓋を伏せて、待ちわびるような睫毛の震えを見た瞬間には、黒鋼は彼に口付けていた。
「ん……」
軽く触れるだけに留まらず、気がつけば久しく忘れかけていたその温かな唇を深く味わっていた。ファイの指先が黒鋼のジャケットの袖に触れて、指先できゅっと掴む。
押せば応えるその柔らかな舌に眩暈がした。これ以上はマズイと己を奮い立たせて唇を離せば、頬をほのかに赤らめるファイの、蕩けたような瞳とかち合った。
「……ゲームは終わったんじゃねぇのか」
今更のように照れ臭さや後悔のようなものが押し寄せて、ぶっきらぼうに言った黒鋼に、ファイは困ったように小さく笑う。彼はあきらかに戸惑いを見せている。
黒鋼の袖を掴む指先も、いまだそのままだった。
そして彼は可愛らしく小首を傾げて見せた。
「情熱的な黒様先生を見てたら、リセットしてまた最初から……っていうのも、悪くないかなー、なんて」
「そういうのを、絆されたって言うんだぜ」
「え……?」
「言っておくがな、俺はごっこ遊びなんざ初めっから承諾した覚えはねぇよ」
「……」
ファイの表情から笑みが消えた。ただ茫然と瞬きを繰り返している。
当たり前だ。何が悲しくてたかがゲームで男なんて抱けるものか。認めたくないという思いが先行しすぎて、あくまで建前として利用していただけだった。
自分だって彼のことは言えない。十分、ずるい真似をしていたのだと思う。
一度は諦めた感情だったし、本気になれば馬鹿を見る相手だということは、よく理解しているつもりだった。
まるで安っぽいドラマのようだと自分でも呆れてしまう。
けれど永遠に失ってしまったかもしれないと感じたとき、叫び出したいほどの絶望と共にこの男を愛しているという感情が止め処なく溢れ出した。
「てめぇが誰で、どれが本当かなんてもうどうでもいい。どんな馬鹿やってたって構わねぇから、俺の目の届くとこにいろ。もう、あんな思いはたくさんだ」
「黒様……?」
もう失くすのはたくさんだった。ならばこの手で捕まえているしかない。
「リセットできんだろ? だったらしちまえ。てめぇがゲームだってんなら、俺がそのうち本気にさせてやる」
表だろうが裏だろうが、この男が胡散臭いのに代わりはない。それでも惹かれてしまったのだから、開き直る以外に仕方が無い。
どうせこんなどうしようもない男は、この先だってまともな恋愛などできっこないのだ。だったら、存分に時間はある。
少し楽観的すぎるような気もしたが、本心を押し殺すことにほとほと疲れを感じていた。
「てめぇの中にわけわかんねぇのが何人いたって、結局てめぇはてめぇだろ」
目を見開いて言葉を失っていたファイだが、やがて泣き出しそうな情けない笑顔を浮かべた。
「馬鹿だなぁ」
「なんとでも言いやがれ」
「馬鹿だよ。君も、オレも……」
ファイは黒鋼の袖に添えたままだった己の指先に視線を落とした。そして言った。
「リセットは、しない……」
「……」
「でも、ちゃんと考える……。考えて、決める。だってきっと、次はゲームじゃ済まされないから」
雨音と微かな光の中で、二人は小さく微笑み合った。
空が白み始める頃には雨も上がり、ようやく捜索隊がやって来た。
黒鋼の肩に頭を預けてすっかり眠り込んでいたファイを揺り起こして、その後二人は無事に下山した。
そして運命の日がやって来る。
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