2025/09/18 Thu パツン、パツンと、一定の間隔で音が聞こえた。 何かにハサミを入れる音だろうと、薄ぼんやりとした脳裏の片隅で考える。 近いような、遠いような、目覚めの間際の思考では、その音と自分との距離を推し量ることはできなかった。 目を開ける。身体が鉛のように重い。意識もまた比例するように、どろりと淀んでいた。 それでもピクリと指先を動かすと、シルクのような手触りのシーツを緩く握りしめてみる。 天蓋付きのベッド。そこから垂れ下がる薄いレースが、窓に向かって丘を二つ並べたように開かれている。 差し込む眩い光は、覚醒したばかりの目には些か強すぎた。外に何があるのかを確かめるより先に、青年は刺すような痛みに瞳を眇め、そして逸らす。 目が眩んだせいで、室内はよく見えない。ただ、広い部屋なのだろうと、そう思う。 徐々に目が慣れてくるのを待って、改めて室内に視線を向けた。 どこか古めかしい調度品、天蓋の柱も、ベッド脇の引き出しも、備え付けられている椅子やテーブルも、それら全てに装飾が施されているらしいのを見て、ここは一体どこだろうかと考えを巡らせた。 だが上手くいかない。脳が考えることを拒否している。何か、とても大きな障害が、それを遮っているような気がしてならなかった。 重い、という感覚を通り越して、身体は関節を動かすだけで軋むように痛んでいた。だが、それ以上に何より痛んだのは、右腕だった。 「ッ……!」 どうにかして身体を起こしたくて身じろいだとき、鋭い衝撃が走った。突っ張るような感覚と共に、カラリと無機物が揺れる音がする。 咄嗟に顔を顰めながら腕を見れば、細いチューブのついた針が刺し込まれているのが見えた。肌がそこだけ赤黒く変色しており、よくよく見ればその痣は何か所にも残っている。左腕も同様に、多くの内出血が見られた。 ベッド脇には点滴装置が置かれていて、ぶら下げられたパックの中身はほとんど無くなりかけている。 しばらくは呆然とそれを眺め、結局半身を起こすだけでも相当の長い時間を要した。 たったそれだけの動作で息が上がる。それをどうにか整えてこくりと喉を鳴らせば、酷く乾いているらしくチリチリと痛んだ。小さく咳き込んだことで、逆にようやく満足に酸素を取り込めたような気がして、青年はほっとする。 まだ何か詰まったような感覚の拭えない喉を細い指先で押さえながら、もう一度考えた。 ここはどこで、なぜ自分はここにいて、こんなにも疲弊するほど深く眠りこんでいたのだろう。 当然の疑問が幾つか浮かんだけれど、答えを導き出すことはできなかった。 ぴたりと思考が止まるのだ。何も考えられない。けれど謎は深まって、それが本格的に混乱を引き起こす前に、青年はふと気がついた。 そうだ。 何も分からないのは当たり前だ。 「空っぽ……」 呆然と呟いた。 「空っぽなんだ、オレ」 そう、何もなかった。 何も考えられないのではなく、何も思いだせないのだ。 名前も、年齢も、どこからやって来たのかも、自分の容姿さえ。 ふと鏡はないだろうかと思い、再び辺りを見回してみる。けれど壁にはせいぜいどこか見知らぬ国の街並みを描いた絵画や、サンゴのように伸びた角を誇る鹿の剥製が首だけを突き出している、それだけだった。 大きな壁時計がチクタクと微かな音を立てている。いつしかあの枝を落とすようなハサミの音は止んでいた。 たったそれだけの、無音の空間に取り残されているのだと気がついて、けれど青年の心は凪いだ海のように落ち着いていた。 何も思い出せないなら、仕方がない。 考えるだけ無駄だと知ったことで、かえって気が晴れた。 それ以上、何を思うでもなくぼんやりとシーツの皺を眺めていると、ガチャリとドアノブが回る硬質な音がして顔を上げた。 ドアが開かれると、そこには長身で体格のいい黒髪の男がいた。彼は黒のジャージを着用しており、このやたら豪勢な空間にはおよそ不釣り合いな印象を受ける。 「おまえ……」 切れ長の目を僅かに見開いて、男は小さく呟くと足早にこちらへとやって来る。 ベッド脇で足を止めた男は、ぼんやりと見上げるばかりの青年を驚きの表情で見下ろすと、ベッドの縁に膝をつき少しだけ身を屈めた。 大きな男だ。その彼が、ジャージ越しにもわかる逞しい両腕をこちらへ伸ばしてくる。 (あ……抱きしめられる……) そう思った。 けれどその手は青年に触れるか触れないかのところでピタリと止まった。彼の両手は土に汚れた軍手に包まれていたのだ。 男はハッとして、汚れた軍手を外すとおざなりにポケットに詰め込んでいる。そしてどこかバツが悪そうに身を引いた。 悪戯を咎められた子供のようにも見えて、青年は小首を傾げた。 「……別によかったのに」 青年が呟くと、男の整った眉がピクリと動く。 「手、汚くても気にならないよ」 そのまま抱いてくれてもよかった。この男が誰かも知らないのに、なぜか彼が身を引いてしまったことが、少し寂しかった。 「そんなことできるか」 男は低い声で吐きだすと、ベッドの縁にこちらへ身体を向けるようにしてドカリと腰を下ろした。 何かを言いかけて、けれど唇が薄く開かれただけで、何も言葉は出てこない。 そのまま、手を伸ばせば簡単に触れあえる距離で、見つめ合ったまま沈黙が流れる。 今、自分にはおそらく頼れる人間はこの男しかいないだろう。情報を得る手段はそれ以外にない。 けれど、彼の炎のような赤い瞳を見つめるだけで、不思議と全てがどうでもいいことのように思えてしまう。 もしかしたら、知っているのだろうか。自分は、この男のことを。 「……気分は?」 どれほどの沈黙が流れていたのかは分からない。先に口を開いたのは黒ジャージの男の方だった。 青年は首を振る。肩を過ぎるほど長い金の髪がぱさぱさと踊った。 「オレ、ずっと寝てた?」 「そうだ」 「……ふぅん」 険しい表情に気遣わしげな色を乗せて、男がじっと見つめてくる。 心配させているらしいことが伝わって、青年はようやく疑問を口に出すことにした。 「あのね」 「おう」 「不思議だなって、思うことがあって」 「……言ってみろ」 青年は小さくへにゃりと笑った。緊張感がない人間だなぁと、自分に呆れたりもする。 「オレ、誰なんだろ?」 「!」 「あと、君。誰?」 男は再び目を見開いた。この反応からして、やはり彼は自分を知る人間なのだろうと思った。 流石に何か大事になるのだろうかと想像して、けれどそれは男が浮かべた穏やかな笑みに打ち消された。 「……そうか」 ドキリとした。どちらかと言えば強面の、笑顔などとはほど遠い人間のように感じられていたから。こんな風に、穏やかに笑うなんて。 けれど、知っているような気もした。この寂しげな笑顔を、どこかで……。 男は無骨な指先を伸ばし、青年の頬に触れた。土と、草と、仄かな花の香りがした。懐かしくて、少しだけ泣きたいような切なさが胸を甘く満たした。 「それでいい」 「……?」 「おまえは選んだ。なら、俺はただ傍にいる。おまえのものだ」 「っ……」 咄嗟に彼の名を口にしかけて、喉が詰まった。 知らない。彼のこと、名前さえ。呼びたくても、今の自分は空っぽの入れ物と一緒だった。 頬から温かな指が触れようとするのを、咄嗟に掴んだ。 縋るような瞳で彼を見上げる。 「……お願い。教えて、君の」 名前を。 そのときだった。 中途半端に開かれたままの扉から、声がした。 「ファイ様……!?」 二人同時に振り返れば、そこにはまだ少女と言って差し支えない年頃のメイドが、両手で口元を押さえていた。 大きな翡翠の瞳が、驚きに見開かれている。 「目が覚めたんですね……!」 ファイ様と、少女が再び口にした。 ああそれが自分の名前かと、青年は、ファイは、彼女に微笑んで見せたのだった。 ←戻る ・ 次へ→
何かにハサミを入れる音だろうと、薄ぼんやりとした脳裏の片隅で考える。
近いような、遠いような、目覚めの間際の思考では、その音と自分との距離を推し量ることはできなかった。
目を開ける。身体が鉛のように重い。意識もまた比例するように、どろりと淀んでいた。
それでもピクリと指先を動かすと、シルクのような手触りのシーツを緩く握りしめてみる。
天蓋付きのベッド。そこから垂れ下がる薄いレースが、窓に向かって丘を二つ並べたように開かれている。
差し込む眩い光は、覚醒したばかりの目には些か強すぎた。外に何があるのかを確かめるより先に、青年は刺すような痛みに瞳を眇め、そして逸らす。
目が眩んだせいで、室内はよく見えない。ただ、広い部屋なのだろうと、そう思う。
徐々に目が慣れてくるのを待って、改めて室内に視線を向けた。
どこか古めかしい調度品、天蓋の柱も、ベッド脇の引き出しも、備え付けられている椅子やテーブルも、それら全てに装飾が施されているらしいのを見て、ここは一体どこだろうかと考えを巡らせた。
だが上手くいかない。脳が考えることを拒否している。何か、とても大きな障害が、それを遮っているような気がしてならなかった。
重い、という感覚を通り越して、身体は関節を動かすだけで軋むように痛んでいた。だが、それ以上に何より痛んだのは、右腕だった。
「ッ……!」
どうにかして身体を起こしたくて身じろいだとき、鋭い衝撃が走った。突っ張るような感覚と共に、カラリと無機物が揺れる音がする。
咄嗟に顔を顰めながら腕を見れば、細いチューブのついた針が刺し込まれているのが見えた。肌がそこだけ赤黒く変色しており、よくよく見ればその痣は何か所にも残っている。左腕も同様に、多くの内出血が見られた。
ベッド脇には点滴装置が置かれていて、ぶら下げられたパックの中身はほとんど無くなりかけている。
しばらくは呆然とそれを眺め、結局半身を起こすだけでも相当の長い時間を要した。
たったそれだけの動作で息が上がる。それをどうにか整えてこくりと喉を鳴らせば、酷く乾いているらしくチリチリと痛んだ。小さく咳き込んだことで、逆にようやく満足に酸素を取り込めたような気がして、青年はほっとする。
まだ何か詰まったような感覚の拭えない喉を細い指先で押さえながら、もう一度考えた。
ここはどこで、なぜ自分はここにいて、こんなにも疲弊するほど深く眠りこんでいたのだろう。
当然の疑問が幾つか浮かんだけれど、答えを導き出すことはできなかった。
ぴたりと思考が止まるのだ。何も考えられない。けれど謎は深まって、それが本格的に混乱を引き起こす前に、青年はふと気がついた。
そうだ。
何も分からないのは当たり前だ。
「空っぽ……」
呆然と呟いた。
「空っぽなんだ、オレ」
そう、何もなかった。
何も考えられないのではなく、何も思いだせないのだ。
名前も、年齢も、どこからやって来たのかも、自分の容姿さえ。
ふと鏡はないだろうかと思い、再び辺りを見回してみる。けれど壁にはせいぜいどこか見知らぬ国の街並みを描いた絵画や、サンゴのように伸びた角を誇る鹿の剥製が首だけを突き出している、それだけだった。
大きな壁時計がチクタクと微かな音を立てている。いつしかあの枝を落とすようなハサミの音は止んでいた。
たったそれだけの、無音の空間に取り残されているのだと気がついて、けれど青年の心は凪いだ海のように落ち着いていた。
何も思い出せないなら、仕方がない。
考えるだけ無駄だと知ったことで、かえって気が晴れた。
それ以上、何を思うでもなくぼんやりとシーツの皺を眺めていると、ガチャリとドアノブが回る硬質な音がして顔を上げた。
ドアが開かれると、そこには長身で体格のいい黒髪の男がいた。彼は黒のジャージを着用しており、このやたら豪勢な空間にはおよそ不釣り合いな印象を受ける。
「おまえ……」
切れ長の目を僅かに見開いて、男は小さく呟くと足早にこちらへとやって来る。
ベッド脇で足を止めた男は、ぼんやりと見上げるばかりの青年を驚きの表情で見下ろすと、ベッドの縁に膝をつき少しだけ身を屈めた。
大きな男だ。その彼が、ジャージ越しにもわかる逞しい両腕をこちらへ伸ばしてくる。
(あ……抱きしめられる……)
そう思った。
けれどその手は青年に触れるか触れないかのところでピタリと止まった。彼の両手は土に汚れた軍手に包まれていたのだ。
男はハッとして、汚れた軍手を外すとおざなりにポケットに詰め込んでいる。そしてどこかバツが悪そうに身を引いた。
悪戯を咎められた子供のようにも見えて、青年は小首を傾げた。
「……別によかったのに」
青年が呟くと、男の整った眉がピクリと動く。
「手、汚くても気にならないよ」
そのまま抱いてくれてもよかった。この男が誰かも知らないのに、なぜか彼が身を引いてしまったことが、少し寂しかった。
「そんなことできるか」
男は低い声で吐きだすと、ベッドの縁にこちらへ身体を向けるようにしてドカリと腰を下ろした。
何かを言いかけて、けれど唇が薄く開かれただけで、何も言葉は出てこない。
そのまま、手を伸ばせば簡単に触れあえる距離で、見つめ合ったまま沈黙が流れる。
今、自分にはおそらく頼れる人間はこの男しかいないだろう。情報を得る手段はそれ以外にない。
けれど、彼の炎のような赤い瞳を見つめるだけで、不思議と全てがどうでもいいことのように思えてしまう。
もしかしたら、知っているのだろうか。自分は、この男のことを。
「……気分は?」
どれほどの沈黙が流れていたのかは分からない。先に口を開いたのは黒ジャージの男の方だった。
青年は首を振る。肩を過ぎるほど長い金の髪がぱさぱさと踊った。
「オレ、ずっと寝てた?」
「そうだ」
「……ふぅん」
険しい表情に気遣わしげな色を乗せて、男がじっと見つめてくる。
心配させているらしいことが伝わって、青年はようやく疑問を口に出すことにした。
「あのね」
「おう」
「不思議だなって、思うことがあって」
「……言ってみろ」
青年は小さくへにゃりと笑った。緊張感がない人間だなぁと、自分に呆れたりもする。
「オレ、誰なんだろ?」
「!」
「あと、君。誰?」
男は再び目を見開いた。この反応からして、やはり彼は自分を知る人間なのだろうと思った。
流石に何か大事になるのだろうかと想像して、けれどそれは男が浮かべた穏やかな笑みに打ち消された。
「……そうか」
ドキリとした。どちらかと言えば強面の、笑顔などとはほど遠い人間のように感じられていたから。こんな風に、穏やかに笑うなんて。
けれど、知っているような気もした。この寂しげな笑顔を、どこかで……。
男は無骨な指先を伸ばし、青年の頬に触れた。土と、草と、仄かな花の香りがした。懐かしくて、少しだけ泣きたいような切なさが胸を甘く満たした。
「それでいい」
「……?」
「おまえは選んだ。なら、俺はただ傍にいる。おまえのものだ」
「っ……」
咄嗟に彼の名を口にしかけて、喉が詰まった。
知らない。彼のこと、名前さえ。呼びたくても、今の自分は空っぽの入れ物と一緒だった。
頬から温かな指が触れようとするのを、咄嗟に掴んだ。
縋るような瞳で彼を見上げる。
「……お願い。教えて、君の」
名前を。
そのときだった。
中途半端に開かれたままの扉から、声がした。
「ファイ様……!?」
二人同時に振り返れば、そこにはまだ少女と言って差し支えない年頃のメイドが、両手で口元を押さえていた。
大きな翡翠の瞳が、驚きに見開かれている。
「目が覚めたんですね……!」
ファイ様と、少女が再び口にした。
ああそれが自分の名前かと、青年は、ファイは、彼女に微笑んで見せたのだった。
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