2025/09/18 Thu 広い庭園では、秋の薔薇が見頃を迎えていた。 噴水の涼やかな水音と、色濃い薔薇の香りを乗せた秋風に、飛び交うトンボがその華奢な身体を翻す。 晴れ渡る空は高く、太陽の光が溢れる緑と花々を瑞々しく照らし出していた。 「きれいに咲いたねー。こないだまで蕾だったのに」 アーチを描く花壇の側で、片膝をついて薔薇の手入れをしている黒鋼の横に、ファイもちょこんとしゃがみ込んだ。 「あ、でもきれいっていうより可愛い……って感じかなー?」 「秋薔薇は春薔薇より小ぶりだからな」 「へー。ねぇ、今はなにしてるのー?」 小首を傾げて訪ねると、黒鋼は薔薇から目線は外さずに答えた。 「病気になってねぇかどうか、葉の具合を見てチェックしてんだよ」 おそらく、小学生でもわかるような言葉を選んで教えてくれたのだと思う。ファイには専門的なことはさっぱりわからない。薔薇の見頃が秋にも訪れることさえ知らなかったのだ。忘れているだけなのかもしれないが。 「へぇー。植物も病気になるんだねぇ」 「人間や動物と一緒だ。こいつらは俺たちの会話だって理解できてるからな」 「可愛いねーとか、キレイだねーって言ってあげるといいんだよねー?」 そのくらいなら知っているとばかりに笑うと、黒鋼も小さく笑って「そうだな」と言った。 ふと彼が薔薇や他の植物に向かって「可愛い」だとか「綺麗」だとか、一人ブツブツと囁いている様子を想像した。とてもではないが花など愛でそうにない強面の大男が、そんな真似をしているとは到底思えなかったが、美しく咲き誇る薔薇の花を見ていると「まさか……」と思わずにはいられない。 だが、この大きな手がこれだけ美しい薔薇の花を咲かせたのは事実だった。 庭師という仕事は、もっとのんびりしていて楽なものなのかと思いきや、それは大きな間違いだった。この薔薇たちだって、黒鋼が細やかな手入れを怠らなかった成果なのだ。時には付きっきりで薬剤を散布したり、病害虫の防除に勤しんでいた。 この季節の朝夕の露や霧が云々と、細かな説明をしてもらった気がするが、自分ならきっと三日と経たずに全て枯らしてしまうかもしれないと、ファイは思う。 大きくて強面で無骨そうに見えて、彼の手先は驚くほど繊細で器用だった。そのことが妙に愛おしく感じられて、ファイは暫しの間、おとなしくその横顔や手先を見つめていた。 すると黒鋼は、ポケットから一本の折りたたみ式ナイフを取り出した。庭をいじる道具なのだから、それなりの名称があるのかもしれないが、もちろんファイにはわからない。 刃先が緩くカーブしているそのナイフで、黒鋼は白い薔薇の茎を一本だけ切ってしまった。 「あ」 そのまま器用にナイフを使い、素早く棘を全て切り落としてしまうと、それをファイにそっと差し出す。 純白の花弁から、またふわりと強い香りが立ち上る。 ファイはぽかんとして、薔薇と黒鋼を交互に見やった。 「やる」 「わ……」 思わず感激してしまう。黒鋼から、薔薇の花を貰えるとは夢にも思わなくて。 カッと頬を熱くさせながら、ファイはゆっくりと両手を伸ばした。嬉しくて、少しだけ指先が震えてしまう。 そして、白い薔薇と黒鋼の手にそっと触れようとした。そのときだった。 「ッ―――!?」 何かが、点滅しながらファイの脳裏に浮かび上がる。 何枚もの静止画が、次から次へとスライドしていくようなビジョン。 やがてそれらが不器用に繋がり、覚束ない一つの映像として、繋がった。 (なに、これ……?) 今より、ほんの少しだけ柔らかな表情の黒鋼。 (いやだ) そして、蕩けそうなほどの笑顔を浮かべる自分。 (これは、見ちゃダメだ……ッ!) 手渡された、少し大きな薔薇の色は白ではなく――黄色だった。 「おい? どうした?」 「ッ……!」 黒鋼の声がファイを引き戻した。 たったいま見た光景に呆然として動けずにいると、彼は少しだけ首を傾げて小さく笑う。 「棘はもうねぇよ。見てただろ?」 片方だけ軍手を外して、黒鋼はファイの静止したままの手首を取ると、その手に薔薇を握らせた。 「あ、りが……とう……」 心臓が爆発しそうに高鳴っていた。それはつい数秒前のような、甘い高鳴りではなかった。 青褪めてはいないだろうか。震えてはいないだろうか。 悟られては、いけない。 「嬉しい……本当に、ありがとう」 ファイは笑った。両手にそっと握った薔薇の花を胸に、もう一度礼を述べた。 *** まだだいぶ時間がかかると言う黒鋼を置いて、ファイは一人屋敷へ戻った。 また妙なところに隠れて遊ぶんじゃねぇぞと苦笑する黒鋼に、ファイは心底ホッとした。何も悟られていないことだけが、今は救いだ。 途中、お茶の準備が出来たとサクラに声をかけられたが、それどころではなく「後にする」とだけ言うと、部屋に戻った。 閉じた扉に背を預け、ファイはそのままズルズルと腰を落とす。 まだ、心臓が大きな音を立てていた。 脳裏に焼きつく幾つもの場面。ファイは瞬きも忘れて、胸の中の薔薇を抱きしめる。身体が震えて仕方がなかった。 『おまえが何も思い出さないことが、対価だ』 いつかの、黒鋼の言葉が蘇る。 ただ頭の中に刻んでおけと、彼はそう言った。 深く考える必要はないと、そうやってファイを言葉で縛りつけた。 それなのに。 「あれは、オレだ……オレと……」 黒鋼だ。 手の中にあるより、少し大きな薔薇の花。あれはきっと、春に咲いたものだ。 窓から顔をだすファイに、黄色の薔薇を差し出す彼。 一つに纏めた長い金髪を風に遊ばせながら、この手は確かに薔薇を受け取っていた。 ファイはゆっくりと、けれど確実に、脳裏に浮かんだスライド式の映像から、ひとつひとつ情報を拾い上げる。 ふわふわと、窓の外を踊るように舞っていたのはたんぽぽの綿毛だ。春の空と、風と、花と。 けれどそこはこの部屋の窓ではない。 小さく切り取られたような花壇がある庭。片隅に小さな池。その奥は森。木漏れ日の射す森……。 「森……」 あの部屋だ。 禁じられた森と、鍵のかけられた部屋。 他に思い出せることはない。それらの光景以外、何も。思い出してはいけないのだ。これ以上踏み込めば、きっと戻れなくなる。 それなのに。 このチリチリとした、胸を焦がす痛みはなんだ。 あれは自分だ。黒鋼から薔薇を受け取っていたのは自分。けれど、知らない自分。知らない黒鋼。 今ここにいるのは空っぽのファイ。今の黒鋼しか知らない、それ以外なにも持たない、何も知らないファイ。 こんな感情はおかしい。どうかしている。あれはまぎれもなく『自分』なのに。 ファイは震える手の中で咲く薔薇の花を見つめた。 「黄色の薔薇……」 花言葉は、嫉妬。 ←戻る ・ 次へ→
噴水の涼やかな水音と、色濃い薔薇の香りを乗せた秋風に、飛び交うトンボがその華奢な身体を翻す。
晴れ渡る空は高く、太陽の光が溢れる緑と花々を瑞々しく照らし出していた。
「きれいに咲いたねー。こないだまで蕾だったのに」
アーチを描く花壇の側で、片膝をついて薔薇の手入れをしている黒鋼の横に、ファイもちょこんとしゃがみ込んだ。
「あ、でもきれいっていうより可愛い……って感じかなー?」
「秋薔薇は春薔薇より小ぶりだからな」
「へー。ねぇ、今はなにしてるのー?」
小首を傾げて訪ねると、黒鋼は薔薇から目線は外さずに答えた。
「病気になってねぇかどうか、葉の具合を見てチェックしてんだよ」
おそらく、小学生でもわかるような言葉を選んで教えてくれたのだと思う。ファイには専門的なことはさっぱりわからない。薔薇の見頃が秋にも訪れることさえ知らなかったのだ。忘れているだけなのかもしれないが。
「へぇー。植物も病気になるんだねぇ」
「人間や動物と一緒だ。こいつらは俺たちの会話だって理解できてるからな」
「可愛いねーとか、キレイだねーって言ってあげるといいんだよねー?」
そのくらいなら知っているとばかりに笑うと、黒鋼も小さく笑って「そうだな」と言った。
ふと彼が薔薇や他の植物に向かって「可愛い」だとか「綺麗」だとか、一人ブツブツと囁いている様子を想像した。とてもではないが花など愛でそうにない強面の大男が、そんな真似をしているとは到底思えなかったが、美しく咲き誇る薔薇の花を見ていると「まさか……」と思わずにはいられない。
だが、この大きな手がこれだけ美しい薔薇の花を咲かせたのは事実だった。
庭師という仕事は、もっとのんびりしていて楽なものなのかと思いきや、それは大きな間違いだった。この薔薇たちだって、黒鋼が細やかな手入れを怠らなかった成果なのだ。時には付きっきりで薬剤を散布したり、病害虫の防除に勤しんでいた。
この季節の朝夕の露や霧が云々と、細かな説明をしてもらった気がするが、自分ならきっと三日と経たずに全て枯らしてしまうかもしれないと、ファイは思う。
大きくて強面で無骨そうに見えて、彼の手先は驚くほど繊細で器用だった。そのことが妙に愛おしく感じられて、ファイは暫しの間、おとなしくその横顔や手先を見つめていた。
すると黒鋼は、ポケットから一本の折りたたみ式ナイフを取り出した。庭をいじる道具なのだから、それなりの名称があるのかもしれないが、もちろんファイにはわからない。
刃先が緩くカーブしているそのナイフで、黒鋼は白い薔薇の茎を一本だけ切ってしまった。
「あ」
そのまま器用にナイフを使い、素早く棘を全て切り落としてしまうと、それをファイにそっと差し出す。
純白の花弁から、またふわりと強い香りが立ち上る。
ファイはぽかんとして、薔薇と黒鋼を交互に見やった。
「やる」
「わ……」
思わず感激してしまう。黒鋼から、薔薇の花を貰えるとは夢にも思わなくて。
カッと頬を熱くさせながら、ファイはゆっくりと両手を伸ばした。嬉しくて、少しだけ指先が震えてしまう。
そして、白い薔薇と黒鋼の手にそっと触れようとした。そのときだった。
「ッ―――!?」
何かが、点滅しながらファイの脳裏に浮かび上がる。
何枚もの静止画が、次から次へとスライドしていくようなビジョン。
やがてそれらが不器用に繋がり、覚束ない一つの映像として、繋がった。
(なに、これ……?)
今より、ほんの少しだけ柔らかな表情の黒鋼。
(いやだ)
そして、蕩けそうなほどの笑顔を浮かべる自分。
(これは、見ちゃダメだ……ッ!)
手渡された、少し大きな薔薇の色は白ではなく――黄色だった。
「おい? どうした?」
「ッ……!」
黒鋼の声がファイを引き戻した。
たったいま見た光景に呆然として動けずにいると、彼は少しだけ首を傾げて小さく笑う。
「棘はもうねぇよ。見てただろ?」
片方だけ軍手を外して、黒鋼はファイの静止したままの手首を取ると、その手に薔薇を握らせた。
「あ、りが……とう……」
心臓が爆発しそうに高鳴っていた。それはつい数秒前のような、甘い高鳴りではなかった。
青褪めてはいないだろうか。震えてはいないだろうか。
悟られては、いけない。
「嬉しい……本当に、ありがとう」
ファイは笑った。両手にそっと握った薔薇の花を胸に、もう一度礼を述べた。
***
まだだいぶ時間がかかると言う黒鋼を置いて、ファイは一人屋敷へ戻った。
また妙なところに隠れて遊ぶんじゃねぇぞと苦笑する黒鋼に、ファイは心底ホッとした。何も悟られていないことだけが、今は救いだ。
途中、お茶の準備が出来たとサクラに声をかけられたが、それどころではなく「後にする」とだけ言うと、部屋に戻った。
閉じた扉に背を預け、ファイはそのままズルズルと腰を落とす。
まだ、心臓が大きな音を立てていた。
脳裏に焼きつく幾つもの場面。ファイは瞬きも忘れて、胸の中の薔薇を抱きしめる。身体が震えて仕方がなかった。
『おまえが何も思い出さないことが、対価だ』
いつかの、黒鋼の言葉が蘇る。
ただ頭の中に刻んでおけと、彼はそう言った。
深く考える必要はないと、そうやってファイを言葉で縛りつけた。
それなのに。
「あれは、オレだ……オレと……」
黒鋼だ。
手の中にあるより、少し大きな薔薇の花。あれはきっと、春に咲いたものだ。
窓から顔をだすファイに、黄色の薔薇を差し出す彼。
一つに纏めた長い金髪を風に遊ばせながら、この手は確かに薔薇を受け取っていた。
ファイはゆっくりと、けれど確実に、脳裏に浮かんだスライド式の映像から、ひとつひとつ情報を拾い上げる。
ふわふわと、窓の外を踊るように舞っていたのはたんぽぽの綿毛だ。春の空と、風と、花と。
けれどそこはこの部屋の窓ではない。
小さく切り取られたような花壇がある庭。片隅に小さな池。その奥は森。木漏れ日の射す森……。
「森……」
あの部屋だ。
禁じられた森と、鍵のかけられた部屋。
他に思い出せることはない。それらの光景以外、何も。思い出してはいけないのだ。これ以上踏み込めば、きっと戻れなくなる。
それなのに。
このチリチリとした、胸を焦がす痛みはなんだ。
あれは自分だ。黒鋼から薔薇を受け取っていたのは自分。けれど、知らない自分。知らない黒鋼。
今ここにいるのは空っぽのファイ。今の黒鋼しか知らない、それ以外なにも持たない、何も知らないファイ。
こんな感情はおかしい。どうかしている。あれはまぎれもなく『自分』なのに。
ファイは震える手の中で咲く薔薇の花を見つめた。
「黄色の薔薇……」
花言葉は、嫉妬。
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