2025/09/18 Thu 母の容体が落ち着いたのは、黒鋼が屋敷を出た翌日の、明け方近くだった。 昨夜の段階である程度の覚悟をしていた黒鋼は、ひとまずホッと胸を撫で下ろした。 母は数年前に体調を崩し入院して以来、ずっと病院での生活を余儀なくされている。 元々身体が丈夫な方ではなかった彼女は今、体内を蝕む病と戦い続けていた。 本来なら片時も離れずに傍にいるべきなのは分かっている。けれど黒鋼はそれをしない。かけがえのない母を置き去りにして、なんて親不孝な息子だろう。 今では全てを父に任せきりにし、理解を得ているのをいいことに、ほとんど屋敷にこもりきりの生活をはじめて、一年以上が過ぎようとしていた。 県境の林道。鬱蒼と茂る杉の木に沿うような道路を車で走らせながら、黒鋼は自嘲気味に口元を歪めた。 林道を囲む杉の木が、その隙間から朝日を降らせる。目の奥が刺すように痛んで、黒鋼は速度を落とすと車を路肩に寄せて停車した。 大きく息を吐き出しながら目を閉じる。指先でこめかみを押さえても、痛みはどんどん増していくばかりだった。 思い返せばファイが部屋から出てこなくなってから今日で三日目の朝を迎えたことになる。ずっと眠れないまま、昨夜にかけてさらに徹夜の状態だ。 流石にこのまま車を走らせるのは危険だった。 本当なら今すぐにでもこの長い林道を抜けて、屋敷へ戻りたかったのだが。 どこにも行かないで…… オレを置いて、行かないでよ…… 別れ際に、彼が部屋から飛び出したのはもちろん知っていた。 それでも振り向かなかったのは、少しでも『今』を引きのばしたかったからだろうか。 おそらく、全て壊れるだろう。 あのときすぐに振り返って彼を強く抱きしめてやれば、何事もなかったかのように元の生活に戻れたかもしれない。 半年前、目を覚ましたファイは全ての記憶を失っていた。 現実では生きられなくなってしまった彼がそれを望み、眠りの中へ逃がしてやったのは黒鋼だった。 自分に出来ることならば、何を差し置いてでもファイの望みだけは叶えてやりたかったから。 それが、本当に守りたかった存在に何もしてやれなかったことへの、免罪符でしかなかったとしても。 けれど黒鋼は思う。 『君もオレを置いていくの?』 あのとき。 『生きていけない』 他にどんな道が残されていたのか。 『君まで失ったら、生きていけない』 愛する者と同じ姿で、声で――魂で。 『愛してるんだ……ずっと、ずっと……子供の頃から……』 ―――もう、眠りたい。 何が間違いで、何が正しいことだったのだろう。 ただわかっていることは、自分が弱かったということだった。 ファイの中で生じた歪みに引きずられて、それを逃げ道にしてしまった。 欲しいものを与えてやりたかった。それが黒鋼自身だというのなら、ずっと傍にいて全てを捧げるつもりだった。 けれど心まで与えてやるには、どうしても『理由』が必要だった。縋りつく何かが必要だった。 ファイと黒鋼は同じだった。同じ『光』を愛していた。そう思っていた。 だから気がつかなかった。いつしか、ファイはそれとは異なった光を求めていた。それを知ったときには、黒鋼の愛した光は泡のように闇へと飲みこまれていた。 片手で両目を覆う。 朝の光は、今の自分には残酷すぎた。痛みしか与えてくれない。 これだからいけない。『外』には現実の時間が流れている。優しくて、悲しい思い出ばかりを蘇らせる。 ―――ボクはここだよ。 早く。早く帰らなければ。 ―――ここにいるよ。 この林道を抜けて、ファイと子供たちが待つあの屋敷へ。 ―――君の傍で、咲いていたいよ。 帰らなければ。 ―――夢を見てるって、君は笑うかな? だがそこで黒鋼の意識はぷっつりと途切れてしまった。 * 「イヤ」 高い声が黒鋼を拒絶した。 年老いた白ヒゲの執事の背後にすっぽりと身体を隠して、金髪に青い目をした子供は、ただちょこんと顔を半分だけ覗かせるだけだった。 その表情にはあからさまな警戒心と恐怖心が浮かんで見える。 「ファイ様、いけませんよ。ほら、ご挨拶をして」 「イヤったらイヤ!」 泣きそうな顔をして黒鋼を睨むと、彼は屋敷の扉の向こうへ駆けて行ってしまった。 「…………」 握手のために差し出した手を宙に浮かせたまま、黒鋼少年はただ呆然と立ち尽くすだけだった。 *** それは庭師である父が定期的に通うお屋敷に、初めて一緒について行ったときのこと。黒鋼はまだ小学生だった。 物心ついた頃から父の後を追いかけて、実家の造園業の手伝いをしていた。 普段は母について植木の販売を手伝っていたが、その日は違った。たまたま、屋敷には自分と同じ年頃の子供がいると聞き、興味をひかれたのだ。 一緒に行きたいとせがむと、父はあっさり了承してくれた。 車で一時間以上もかけてはるばるやって来た先は、本当に人が住んでいるのかと思うほど辺鄙な場所で、テレビや漫画でしか見たことがないような立派な建物が見えたときには、一気に緊張したものだ。 けれどワクワクとした気持ちも同じくらい大きかった。 それなのに結局、初日は最悪なまま終わった。 屋敷の中を探検したくて父にせがんだが許してもらえず、仲良くなるつもりでいた相手には、思いっきりふられた。 自分がどうも父譲りで目つきが鋭いことは知っていたし、同年代の子供に比べると体格に恵まれていることもあり、主に女子に怖がられるのは慣れっこだった。 けれど屋敷にいるのは女ではなく男だと聞いていたのだ。歳は黒鋼よりも少し上だというから、きっと上手くいくような気がしていた。 黒鋼は一人っ子だったから、兄や弟に憧れがあった。 我が家は代々専属の庭師としてこの屋敷に雇われているらしいし、いずれは父に代わって稼業を継ぐつもりでいたから、きっと長い付き合いになる。だから仲良くなれたらきっと楽しいだろうと、実は物凄く期待していたのに。 蓋を開けてみれば、現実はそう上手い具合には運ばないらしい。 年上だと聞いていた相手は小さくて痩せっぽちで、まるで女みたいにへなちょこな奴だった。 がっかりしたし、ショックだった。しかもあれほど派手に嫌われては、正直な話、もう屋敷へは行きたくないと思った。 だがその後、黒鋼は学校がない限り父によって毎回屋敷へと連れ出されることになってしまった。 *** 屋敷に通うようになって半年ほどが経過した頃、幼い頃からの経験も手伝って、黒鋼は屋敷の裏にある小さな庭の手入れを任されることになった。 四季咲きの薔薇の花壇によって、箱庭のように切り取られたその場所には、小さな池や欅、金木犀に紫陽花なども植えられている。 表の庭に比べると比較的一般家庭を思わせるような、こじんまりとした場所に思えた。 小さな裏庭の向こう側は、深い森になっていた。庭は好きなように手入れしてもいいが、勝手に森に入り込むのは当然、禁止されていた。 これだけ大きな森だ。きっと街の中では見られないような珍しい虫や動物がいるのではないかと興味をそそられたが、遊びに来ているわけではないことは、幼いながらに理解できていた。 初夏の木漏れ日の中、裏庭の花壇の薔薇にたっぷりと水をやりながら、先刻からずっとこちらを窺うようなチラチラとした視線に、黒鋼は気がついていた。 誰かはわかっている。さきほどもこの屋敷にやって来たとき、表の庭で顔を合わせた相手だ。 その相手は黒鋼と鉢合わせすると目に見えてギクリと身を強張らせて、ぷいっとそっぽを向くと怒ったように屋敷へ引っ込んで行ってしまった。 初めの頃にも思ったが、奴は挨拶さえまともに交わすつもりがないらしい。父が笑いかければ、恥ずかしそうにはにかみながらペコリと頭を下げるくせに、黒鋼とはまともに目すら合わせない。 いくら第一印象が最悪だったにしろ、そこまで意固地になられると、黒鋼だって面白くなかった。 黒鋼はじょうろを芝生の地面に置くと、ちょうどこの小さな庭に面した部屋の窓を見やる。すると金色の頭がガラスの向こうでビクリと揺れて、ひょいっと壁に隠れてしまった。 思わず小さく舌打ちをした。ずっとこの調子だ。 例えこじんまりとした庭といえど、これは黒鋼にとっては初めて与えられた大きな仕事だった。 この屋敷に足を運ぶのに、ようやく楽しみを見つけたと張り切っていたのに。 黒鋼は一向に顔を出そうとしない窓の向こうの相手に、イライラを募らせた。もう我慢できない。一言くらい何か言ってやっても、罰は当たらない気がした。 ずかずかと大股で窓へ近づく。そして、ゴツゴツと乱暴にガラス窓をノックした。何の反応もない。けれど、すぐ向こう側にいることは知っていたから、さらに窓を叩く。 それから僅かな間のあと、おずおずと彼は顔を覗かせた。少し顔色が悪いようで、まだ昼間なのにすでに白い寝巻を着こんでいる。 そうか、ここはこいつの部屋か。黒鋼は思う。 ぐっと睨みをきかせると、ファイは大きな瞳でぱちぱちと瞬きをしながら、窓の鍵を開けた。鍵が開いたと同時に窓を開けたのは黒鋼だった。 「おいてめぇ! 言いたいことがあんなら、はっきり言いやがれ!」 言ってやった。胸がすっとした。 けれど、言いたいことを言ってしまうと、一時的な感情に身を任せてしまったことを少し後悔しはじめた。 相手は自分を恐れ、嫌っている。泣きだすかもしれない。子供ながらに、もし大事になれば父の仕事に差し支えるのでは、という不安も込み上げた。 不味い、と眉間の皺を深くしながら自分より高い位置にある顔を窺う。 ぽかんと口を開けて瞬きを繰り返しているファイは、けれど泣きだす気配はなかった。そしてこう言った。 「言っても、いいの?」 「……あ?」 「言いたいこと、言っていいの?」 少女のような仕草で小首を傾げるファイを見て、黒鋼は戸惑った。彼がこうして口を利いてくれるとは、夢にも思わなかったからだ。 初夏の日差しの中から見ると室内は真っ暗で、彼の顔も青白く見える。 そのせいなのだろうか。先刻、庭で顔を突き合わせたときとは、だいぶ印象も違って見えた。 「……お、おう」 黒鋼は頷くしかなかった。 彼は許しを得た途端、ほんのりと頬を赤らめて笑った。 「っ……!」 不覚にも、そのほんわかとした微笑みに胸の辺りがざわついた。 ファイは少し躊躇いがちに、半袖の寝巻の腕を黒鋼に差し出してくる。その腕に赤黒い鬱血の痕があることに気がついて、黒鋼は眉を寄せた。 まじまじと向き合ったことがないから確証はないが、こんなに痛々しい腕をしていただろうか。 ついそちらに気を取られていた黒鋼は、彼がなぜ手を差し出してきたのか、その意図を汲み取るのに少し時間がかかってしまった。 「おともだち」 「?」 「ボクと、おともだちになろう?」 「……は?」 思わず間抜けな声を上げてしまった。彼の期待に満ちた表情と、白い手のひらを交互に見つめた。 それから、ムッとして口をへの字に曲げた。 「なんのつもりだよ?」 「?」 「おまえ、俺とはあいさつもしたくねぇんだろ?」 初めて会ったあの日、黒鋼が差し出した手を拒んだのは他の誰でもない、目の前の彼自身ではなかったか。 以来、散々な態度を取られてきた黒鋼は、これを新手の嫌がらせの類なのではと疑った。 けれどファイはきょとんとして、それから小さな手を口元できゅっと握ると、くすくすと笑った。 「何がおかしいんだよ?」 「だって、おかしいんだもん」 「やっぱりバカにしんのか……」 「ボク、ユゥイ」 「?」 彼は可憐な花のようににっこりと笑って、もう一度言った。 「ユゥイ。ボクは、ファイじゃないの」 * 夏休みの間、黒鋼はほとんど毎日のように屋敷に通った。 父が来ないときも、車で一時間以上もかかる道のりを自転車で往復する小さな庭師を、両親は仕事熱心だとよく褒めた。 当の本人にとっては庭の手入れはほとんど『ついで』だったのだが、褒められて悪い気はしなかったので、遊びに行くとは一言も言わなかった。 ファイに双子の弟がいるなんてことは初耳だった。 いつ行っても寝巻を着て、小枝のように細い両腕を鬱血させたユゥイは、夏休みなど関係なく学校へは通っていなかった。 先天的な心疾患を患い、手術と入退院を繰り返してきたという彼は、ほとんど部屋から出られない生活を送っているらしかった。 だから哀れに感じた、というわけではない。確かに可哀そうだとは思ったが、黒鋼がせっせと屋敷に通う理由はそんな彼を元気づけようとか、慰めてやろうなんて思いからではなかった。 「明日も会える?」 そう言われると、なぜか首を横には振れなかったのだ。 出会ったその日から、話すことは黒鋼にとって何気ないことばかり。 ユゥイが外の世界をほとんど知らないことは、すぐにわかった。 「どこから来たの? どんなおうち?」 「学校にはどんなお友達がいるの? お勉強は好き?」 「お花のお手入れ楽しい? 大変? どのお花が一番好き?」 会えば質問攻めだった。 積極的に話す方ではない黒鋼にとっては、話題を振ってくれることはありがたいが、聞かれても面白いことなど答えられない。気の利いたジョークが言えるわけでもないし、そもそも人を楽しませようなんて特別な意識をして人づきあいをしたこともなかった。 けれどユゥイはどんなにぶっきらぼうで短い答えでも、次から次へと興味を示した。小さくてよく笑う彼のことを、黒鋼はいつしか弟が出来たかのように感じていた。 日によっては体調の優れないことの方が多かった彼も、心なしか日に日に顔色をよくしていった。もしかしたら自分がそうさせているのかもしれないと思うと、ちょっとした優越感に浸ることもできた。 けれど何より、いつもふわふわと笑っているユゥイといると、胸の辺りがホカホカとしてきて、最初は戸惑うばかりだった何気ない会話が、夏休みが終わる頃には毎日の楽しみになっていた。 相変わらずこちらとは目も合わせようとしない兄の方とは、いまだにまともに挨拶さえ交わせないままだというのに。 ユゥイとの仲を深めれば深めるほど、同じ姿形をしているファイに嫌われていることを思い知らされるのは、少し複雑だった。 はじめの頃、黒鋼はそんな思いを苛立ちとして、ユゥイにぶつけたことがある。 「双子のくせに、あっちの方はちっとも可愛くねぇ」 窓のすぐ脇の壁に背中を預け、腕組みをした黒鋼がそっぽを向きながら言うと、窓辺に置いた椅子に腰かけてぴょこんと顔だけを出すユゥイが笑った。 「笑いごとじゃねぇぞ」 じろりと横目で睨む。するとユゥイは、今度は少し困ったような顔をした。 「ファイのこと嫌い?」 「……そういうんじゃねぇけど」 「ほんと?」 「……うん、まぁ」 そもそも先にいい顔をしなかったのは向こうなのだ。 黒鋼だって嫌われるよりは好かれた方がいいし、嫌いになるよりは、好きになった方がきっと楽しいだろうと思っている。 けれどどうも日に日に嫌われていく気がしてならない。 こちらが何か決定的に悪さを働いてしまったのだとすれば、謝ることができる。それをキッカケにして、交流を持つことだって可能かもしれない。 だが一方的に嫌われているのでは、取りつく島もないではないか。 「ファイはいい子なんだよ。本当は君と、仲良くしたいって思ってる」 「うそつけ」 「ほんとだよ。初めてあったときに上手にごあいさつできなかったから、だからはずかしがってるだけ」 黒鋼は思わず呆れた顔をした。恥ずかしがってるだけ、だなんて、そんな可愛らしいものではないような気がする。 「じゃあなんでいっつもぶすっとしてんだよ。おまえといるときもあんなか?」 時々、不運にも顔を合わせてしまうときがある。 毎日ここへ通うことはできないが、夏休みの間なんて悲惨なものだった。黒鋼を見つけると、途端にムッとした顔をして、どこかへ消えてしまうのだ。 「うぅん。そんなことないよ。ファイは自分に怒ってるだけ。ね、だから仲良くしてあげて」 「仲良くったってよ……」 「いつか三人で、森に遊びに行けたらいいのにな」 「……森、か」 「あのね、あの森の奥には、大きな丘があるんだよ。そこから見上げる月が、とってもキレイなんだって」 サッシに両肘をついて頬杖をつき、小さな庭の奥に広がる森を見つめながら笑うユゥイを見て、黒鋼はそれ以上なにも言えなかった。 黒鋼だって、そうなったらいいと思う。一人より二人、二人より三人。ユゥイの言うように、三人で笑いあえたらどんなにいいだろう。一緒にあの森を探検できたら、きっと楽しいに違いない。 ユゥイは月の光のように柔らかく笑う。ファイは、どんな顔で笑うのだろう。 * そんな話をしたからだろうか。 黒鋼に、満を持してちょっとしたチャンスが到来した。 季節は秋に差し掛かり、空が少し高くなったある日のこと。 学校が午前中に終わったその日も、黒鋼は自転車に乗って屋敷へと訪れた。 今日は父が先に来ているはずだから、帰りは荷台に自転車を乗せてもらえば、楽に帰れる。 そんなことを考えながら庭のアーチをくぐったとき、噴水の側の花壇にしゃがみ込んで、熱心に何かを見ているファイの姿を見つけた。 (なにしてんだ、あいつ) そろそろ開花の兆しを見せる秋薔薇の蕾の先に、彼はそっと指先を伸ばしていた。黒鋼が近づいているというのに全く気付く様子もなく、それに夢中になっている。 よし、と内心で気合を入れて、不自然にならない程度に声をかけてみることにした。 「おい。おまえももう学校終わったのか?」 「うひゃあ!? あっ、あー!」 彼はおかしな悲鳴を上げながら飛び上がるくらい驚いて立ち上がると、空に向かって手を伸ばした。すぅ、と、トンボが空に消えてしまった。 「トンボ捕まえる気だったのか」 呆れたような顔をして言うと、ファイがキッとこちらを睨みつけたあと、背を向けようとした。 「ちょっと待て」 ギクリ。変な体勢で硬直したファイに、黒鋼は「見てろよ」と言って、人差し指を立てた。 花壇の辺りを飛び回るトンボのうち、真っ赤なそれがゆらゆらと近付いてくる。 それに釣られるように黒鋼の指先に夢中になりはじめたファイに、そっと口元を緩めると、やがてトンボが立てた指先に止まった。 「あっ、とまった……」 「ほら」 トンボを驚かさないように、静かに近づいて来たファイの目線にそれを近づけて見せてやる。青い瞳が濡れたように輝いて、少し頬が上気していた。 「あ、赤いトンボ……こんなに近くで、初めて見た……」 感激したように、ファイは自然と笑顔を浮かべた。 それを見て、笑えばやっぱり可愛いじゃないかと黒鋼は思った。そして、同じ双子が見せる笑顔でも、ユゥイとは少し違う。 彼が見せるそれは向日葵が咲くような、太陽のような華やかさのある笑顔だった。黒鋼の胸に、温かいものがじんわりと広がっていく。 ファイは赤いトンボにそっと手を伸ばそうとした。が、黒鋼はそれを高く掲げて、手のひらをぱっと開くと逃がしてやった。 「あっ……!」 「捕まえるのは駄目だ」 ファイがむっとした顔を見せ、唇を尖らせる。 「なんで?」 「可哀そうだろ。今しか生きられねぇんだから」 「……!」 途端に、ファイは青褪めて言葉を失った。そして彼は傷ついたような、泣きそうな顔をする。 間違ったことは言っていないはずだが、あの太陽のような笑顔が消えてしまったことに、黒鋼の胸は酷く胸が締めつけられた。 「お、おい」 かける言葉は見つからなかったが、思わず伸ばしかけた手を許さないとでも言わんばかりに、ファイはこちらに背を向けると走り去ってしまった。 「逃げられた……」 溜息を吐きながら頭をガリガリと掻いた。 トンボくらいなら簡単に捕まえられるのに、あの小さな生き物が相手だと、どうしても上手くいかないようだった。 ←戻る ・ 次へ→
昨夜の段階である程度の覚悟をしていた黒鋼は、ひとまずホッと胸を撫で下ろした。
母は数年前に体調を崩し入院して以来、ずっと病院での生活を余儀なくされている。
元々身体が丈夫な方ではなかった彼女は今、体内を蝕む病と戦い続けていた。
本来なら片時も離れずに傍にいるべきなのは分かっている。けれど黒鋼はそれをしない。かけがえのない母を置き去りにして、なんて親不孝な息子だろう。
今では全てを父に任せきりにし、理解を得ているのをいいことに、ほとんど屋敷にこもりきりの生活をはじめて、一年以上が過ぎようとしていた。
県境の林道。鬱蒼と茂る杉の木に沿うような道路を車で走らせながら、黒鋼は自嘲気味に口元を歪めた。
林道を囲む杉の木が、その隙間から朝日を降らせる。目の奥が刺すように痛んで、黒鋼は速度を落とすと車を路肩に寄せて停車した。
大きく息を吐き出しながら目を閉じる。指先でこめかみを押さえても、痛みはどんどん増していくばかりだった。
思い返せばファイが部屋から出てこなくなってから今日で三日目の朝を迎えたことになる。ずっと眠れないまま、昨夜にかけてさらに徹夜の状態だ。
流石にこのまま車を走らせるのは危険だった。
本当なら今すぐにでもこの長い林道を抜けて、屋敷へ戻りたかったのだが。
どこにも行かないで……
オレを置いて、行かないでよ……
別れ際に、彼が部屋から飛び出したのはもちろん知っていた。
それでも振り向かなかったのは、少しでも『今』を引きのばしたかったからだろうか。
おそらく、全て壊れるだろう。
あのときすぐに振り返って彼を強く抱きしめてやれば、何事もなかったかのように元の生活に戻れたかもしれない。
半年前、目を覚ましたファイは全ての記憶を失っていた。
現実では生きられなくなってしまった彼がそれを望み、眠りの中へ逃がしてやったのは黒鋼だった。
自分に出来ることならば、何を差し置いてでもファイの望みだけは叶えてやりたかったから。
それが、本当に守りたかった存在に何もしてやれなかったことへの、免罪符でしかなかったとしても。
けれど黒鋼は思う。
『君もオレを置いていくの?』
あのとき。
『生きていけない』
他にどんな道が残されていたのか。
『君まで失ったら、生きていけない』
愛する者と同じ姿で、声で――魂で。
『愛してるんだ……ずっと、ずっと……子供の頃から……』
―――もう、眠りたい。
何が間違いで、何が正しいことだったのだろう。
ただわかっていることは、自分が弱かったということだった。
ファイの中で生じた歪みに引きずられて、それを逃げ道にしてしまった。
欲しいものを与えてやりたかった。それが黒鋼自身だというのなら、ずっと傍にいて全てを捧げるつもりだった。
けれど心まで与えてやるには、どうしても『理由』が必要だった。縋りつく何かが必要だった。
ファイと黒鋼は同じだった。同じ『光』を愛していた。そう思っていた。
だから気がつかなかった。いつしか、ファイはそれとは異なった光を求めていた。それを知ったときには、黒鋼の愛した光は泡のように闇へと飲みこまれていた。
片手で両目を覆う。
朝の光は、今の自分には残酷すぎた。痛みしか与えてくれない。
これだからいけない。『外』には現実の時間が流れている。優しくて、悲しい思い出ばかりを蘇らせる。
―――ボクはここだよ。
早く。早く帰らなければ。
―――ここにいるよ。
この林道を抜けて、ファイと子供たちが待つあの屋敷へ。
―――君の傍で、咲いていたいよ。
帰らなければ。
―――夢を見てるって、君は笑うかな?
だがそこで黒鋼の意識はぷっつりと途切れてしまった。
*
「イヤ」
高い声が黒鋼を拒絶した。
年老いた白ヒゲの執事の背後にすっぽりと身体を隠して、金髪に青い目をした子供は、ただちょこんと顔を半分だけ覗かせるだけだった。
その表情にはあからさまな警戒心と恐怖心が浮かんで見える。
「ファイ様、いけませんよ。ほら、ご挨拶をして」
「イヤったらイヤ!」
泣きそうな顔をして黒鋼を睨むと、彼は屋敷の扉の向こうへ駆けて行ってしまった。
「…………」
握手のために差し出した手を宙に浮かせたまま、黒鋼少年はただ呆然と立ち尽くすだけだった。
***
それは庭師である父が定期的に通うお屋敷に、初めて一緒について行ったときのこと。黒鋼はまだ小学生だった。
物心ついた頃から父の後を追いかけて、実家の造園業の手伝いをしていた。
普段は母について植木の販売を手伝っていたが、その日は違った。たまたま、屋敷には自分と同じ年頃の子供がいると聞き、興味をひかれたのだ。
一緒に行きたいとせがむと、父はあっさり了承してくれた。
車で一時間以上もかけてはるばるやって来た先は、本当に人が住んでいるのかと思うほど辺鄙な場所で、テレビや漫画でしか見たことがないような立派な建物が見えたときには、一気に緊張したものだ。
けれどワクワクとした気持ちも同じくらい大きかった。
それなのに結局、初日は最悪なまま終わった。
屋敷の中を探検したくて父にせがんだが許してもらえず、仲良くなるつもりでいた相手には、思いっきりふられた。
自分がどうも父譲りで目つきが鋭いことは知っていたし、同年代の子供に比べると体格に恵まれていることもあり、主に女子に怖がられるのは慣れっこだった。
けれど屋敷にいるのは女ではなく男だと聞いていたのだ。歳は黒鋼よりも少し上だというから、きっと上手くいくような気がしていた。
黒鋼は一人っ子だったから、兄や弟に憧れがあった。
我が家は代々専属の庭師としてこの屋敷に雇われているらしいし、いずれは父に代わって稼業を継ぐつもりでいたから、きっと長い付き合いになる。だから仲良くなれたらきっと楽しいだろうと、実は物凄く期待していたのに。
蓋を開けてみれば、現実はそう上手い具合には運ばないらしい。
年上だと聞いていた相手は小さくて痩せっぽちで、まるで女みたいにへなちょこな奴だった。
がっかりしたし、ショックだった。しかもあれほど派手に嫌われては、正直な話、もう屋敷へは行きたくないと思った。
だがその後、黒鋼は学校がない限り父によって毎回屋敷へと連れ出されることになってしまった。
***
屋敷に通うようになって半年ほどが経過した頃、幼い頃からの経験も手伝って、黒鋼は屋敷の裏にある小さな庭の手入れを任されることになった。
四季咲きの薔薇の花壇によって、箱庭のように切り取られたその場所には、小さな池や欅、金木犀に紫陽花なども植えられている。
表の庭に比べると比較的一般家庭を思わせるような、こじんまりとした場所に思えた。
小さな裏庭の向こう側は、深い森になっていた。庭は好きなように手入れしてもいいが、勝手に森に入り込むのは当然、禁止されていた。
これだけ大きな森だ。きっと街の中では見られないような珍しい虫や動物がいるのではないかと興味をそそられたが、遊びに来ているわけではないことは、幼いながらに理解できていた。
初夏の木漏れ日の中、裏庭の花壇の薔薇にたっぷりと水をやりながら、先刻からずっとこちらを窺うようなチラチラとした視線に、黒鋼は気がついていた。
誰かはわかっている。さきほどもこの屋敷にやって来たとき、表の庭で顔を合わせた相手だ。
その相手は黒鋼と鉢合わせすると目に見えてギクリと身を強張らせて、ぷいっとそっぽを向くと怒ったように屋敷へ引っ込んで行ってしまった。
初めの頃にも思ったが、奴は挨拶さえまともに交わすつもりがないらしい。父が笑いかければ、恥ずかしそうにはにかみながらペコリと頭を下げるくせに、黒鋼とはまともに目すら合わせない。
いくら第一印象が最悪だったにしろ、そこまで意固地になられると、黒鋼だって面白くなかった。
黒鋼はじょうろを芝生の地面に置くと、ちょうどこの小さな庭に面した部屋の窓を見やる。すると金色の頭がガラスの向こうでビクリと揺れて、ひょいっと壁に隠れてしまった。
思わず小さく舌打ちをした。ずっとこの調子だ。
例えこじんまりとした庭といえど、これは黒鋼にとっては初めて与えられた大きな仕事だった。
この屋敷に足を運ぶのに、ようやく楽しみを見つけたと張り切っていたのに。
黒鋼は一向に顔を出そうとしない窓の向こうの相手に、イライラを募らせた。もう我慢できない。一言くらい何か言ってやっても、罰は当たらない気がした。
ずかずかと大股で窓へ近づく。そして、ゴツゴツと乱暴にガラス窓をノックした。何の反応もない。けれど、すぐ向こう側にいることは知っていたから、さらに窓を叩く。
それから僅かな間のあと、おずおずと彼は顔を覗かせた。少し顔色が悪いようで、まだ昼間なのにすでに白い寝巻を着こんでいる。
そうか、ここはこいつの部屋か。黒鋼は思う。
ぐっと睨みをきかせると、ファイは大きな瞳でぱちぱちと瞬きをしながら、窓の鍵を開けた。鍵が開いたと同時に窓を開けたのは黒鋼だった。
「おいてめぇ! 言いたいことがあんなら、はっきり言いやがれ!」
言ってやった。胸がすっとした。
けれど、言いたいことを言ってしまうと、一時的な感情に身を任せてしまったことを少し後悔しはじめた。
相手は自分を恐れ、嫌っている。泣きだすかもしれない。子供ながらに、もし大事になれば父の仕事に差し支えるのでは、という不安も込み上げた。
不味い、と眉間の皺を深くしながら自分より高い位置にある顔を窺う。
ぽかんと口を開けて瞬きを繰り返しているファイは、けれど泣きだす気配はなかった。そしてこう言った。
「言っても、いいの?」
「……あ?」
「言いたいこと、言っていいの?」
少女のような仕草で小首を傾げるファイを見て、黒鋼は戸惑った。彼がこうして口を利いてくれるとは、夢にも思わなかったからだ。
初夏の日差しの中から見ると室内は真っ暗で、彼の顔も青白く見える。
そのせいなのだろうか。先刻、庭で顔を突き合わせたときとは、だいぶ印象も違って見えた。
「……お、おう」
黒鋼は頷くしかなかった。
彼は許しを得た途端、ほんのりと頬を赤らめて笑った。
「っ……!」
不覚にも、そのほんわかとした微笑みに胸の辺りがざわついた。
ファイは少し躊躇いがちに、半袖の寝巻の腕を黒鋼に差し出してくる。その腕に赤黒い鬱血の痕があることに気がついて、黒鋼は眉を寄せた。
まじまじと向き合ったことがないから確証はないが、こんなに痛々しい腕をしていただろうか。
ついそちらに気を取られていた黒鋼は、彼がなぜ手を差し出してきたのか、その意図を汲み取るのに少し時間がかかってしまった。
「おともだち」
「?」
「ボクと、おともだちになろう?」
「……は?」
思わず間抜けな声を上げてしまった。彼の期待に満ちた表情と、白い手のひらを交互に見つめた。
それから、ムッとして口をへの字に曲げた。
「なんのつもりだよ?」
「?」
「おまえ、俺とはあいさつもしたくねぇんだろ?」
初めて会ったあの日、黒鋼が差し出した手を拒んだのは他の誰でもない、目の前の彼自身ではなかったか。
以来、散々な態度を取られてきた黒鋼は、これを新手の嫌がらせの類なのではと疑った。
けれどファイはきょとんとして、それから小さな手を口元できゅっと握ると、くすくすと笑った。
「何がおかしいんだよ?」
「だって、おかしいんだもん」
「やっぱりバカにしんのか……」
「ボク、ユゥイ」
「?」
彼は可憐な花のようににっこりと笑って、もう一度言った。
「ユゥイ。ボクは、ファイじゃないの」
*
夏休みの間、黒鋼はほとんど毎日のように屋敷に通った。
父が来ないときも、車で一時間以上もかかる道のりを自転車で往復する小さな庭師を、両親は仕事熱心だとよく褒めた。
当の本人にとっては庭の手入れはほとんど『ついで』だったのだが、褒められて悪い気はしなかったので、遊びに行くとは一言も言わなかった。
ファイに双子の弟がいるなんてことは初耳だった。
いつ行っても寝巻を着て、小枝のように細い両腕を鬱血させたユゥイは、夏休みなど関係なく学校へは通っていなかった。
先天的な心疾患を患い、手術と入退院を繰り返してきたという彼は、ほとんど部屋から出られない生活を送っているらしかった。
だから哀れに感じた、というわけではない。確かに可哀そうだとは思ったが、黒鋼がせっせと屋敷に通う理由はそんな彼を元気づけようとか、慰めてやろうなんて思いからではなかった。
「明日も会える?」
そう言われると、なぜか首を横には振れなかったのだ。
出会ったその日から、話すことは黒鋼にとって何気ないことばかり。
ユゥイが外の世界をほとんど知らないことは、すぐにわかった。
「どこから来たの? どんなおうち?」
「学校にはどんなお友達がいるの? お勉強は好き?」
「お花のお手入れ楽しい? 大変? どのお花が一番好き?」
会えば質問攻めだった。
積極的に話す方ではない黒鋼にとっては、話題を振ってくれることはありがたいが、聞かれても面白いことなど答えられない。気の利いたジョークが言えるわけでもないし、そもそも人を楽しませようなんて特別な意識をして人づきあいをしたこともなかった。
けれどユゥイはどんなにぶっきらぼうで短い答えでも、次から次へと興味を示した。小さくてよく笑う彼のことを、黒鋼はいつしか弟が出来たかのように感じていた。
日によっては体調の優れないことの方が多かった彼も、心なしか日に日に顔色をよくしていった。もしかしたら自分がそうさせているのかもしれないと思うと、ちょっとした優越感に浸ることもできた。
けれど何より、いつもふわふわと笑っているユゥイといると、胸の辺りがホカホカとしてきて、最初は戸惑うばかりだった何気ない会話が、夏休みが終わる頃には毎日の楽しみになっていた。
相変わらずこちらとは目も合わせようとしない兄の方とは、いまだにまともに挨拶さえ交わせないままだというのに。
ユゥイとの仲を深めれば深めるほど、同じ姿形をしているファイに嫌われていることを思い知らされるのは、少し複雑だった。
はじめの頃、黒鋼はそんな思いを苛立ちとして、ユゥイにぶつけたことがある。
「双子のくせに、あっちの方はちっとも可愛くねぇ」
窓のすぐ脇の壁に背中を預け、腕組みをした黒鋼がそっぽを向きながら言うと、窓辺に置いた椅子に腰かけてぴょこんと顔だけを出すユゥイが笑った。
「笑いごとじゃねぇぞ」
じろりと横目で睨む。するとユゥイは、今度は少し困ったような顔をした。
「ファイのこと嫌い?」
「……そういうんじゃねぇけど」
「ほんと?」
「……うん、まぁ」
そもそも先にいい顔をしなかったのは向こうなのだ。
黒鋼だって嫌われるよりは好かれた方がいいし、嫌いになるよりは、好きになった方がきっと楽しいだろうと思っている。
けれどどうも日に日に嫌われていく気がしてならない。
こちらが何か決定的に悪さを働いてしまったのだとすれば、謝ることができる。それをキッカケにして、交流を持つことだって可能かもしれない。
だが一方的に嫌われているのでは、取りつく島もないではないか。
「ファイはいい子なんだよ。本当は君と、仲良くしたいって思ってる」
「うそつけ」
「ほんとだよ。初めてあったときに上手にごあいさつできなかったから、だからはずかしがってるだけ」
黒鋼は思わず呆れた顔をした。恥ずかしがってるだけ、だなんて、そんな可愛らしいものではないような気がする。
「じゃあなんでいっつもぶすっとしてんだよ。おまえといるときもあんなか?」
時々、不運にも顔を合わせてしまうときがある。
毎日ここへ通うことはできないが、夏休みの間なんて悲惨なものだった。黒鋼を見つけると、途端にムッとした顔をして、どこかへ消えてしまうのだ。
「うぅん。そんなことないよ。ファイは自分に怒ってるだけ。ね、だから仲良くしてあげて」
「仲良くったってよ……」
「いつか三人で、森に遊びに行けたらいいのにな」
「……森、か」
「あのね、あの森の奥には、大きな丘があるんだよ。そこから見上げる月が、とってもキレイなんだって」
サッシに両肘をついて頬杖をつき、小さな庭の奥に広がる森を見つめながら笑うユゥイを見て、黒鋼はそれ以上なにも言えなかった。
黒鋼だって、そうなったらいいと思う。一人より二人、二人より三人。ユゥイの言うように、三人で笑いあえたらどんなにいいだろう。一緒にあの森を探検できたら、きっと楽しいに違いない。
ユゥイは月の光のように柔らかく笑う。ファイは、どんな顔で笑うのだろう。
*
そんな話をしたからだろうか。
黒鋼に、満を持してちょっとしたチャンスが到来した。
季節は秋に差し掛かり、空が少し高くなったある日のこと。
学校が午前中に終わったその日も、黒鋼は自転車に乗って屋敷へと訪れた。
今日は父が先に来ているはずだから、帰りは荷台に自転車を乗せてもらえば、楽に帰れる。
そんなことを考えながら庭のアーチをくぐったとき、噴水の側の花壇にしゃがみ込んで、熱心に何かを見ているファイの姿を見つけた。
(なにしてんだ、あいつ)
そろそろ開花の兆しを見せる秋薔薇の蕾の先に、彼はそっと指先を伸ばしていた。黒鋼が近づいているというのに全く気付く様子もなく、それに夢中になっている。
よし、と内心で気合を入れて、不自然にならない程度に声をかけてみることにした。
「おい。おまえももう学校終わったのか?」
「うひゃあ!? あっ、あー!」
彼はおかしな悲鳴を上げながら飛び上がるくらい驚いて立ち上がると、空に向かって手を伸ばした。すぅ、と、トンボが空に消えてしまった。
「トンボ捕まえる気だったのか」
呆れたような顔をして言うと、ファイがキッとこちらを睨みつけたあと、背を向けようとした。
「ちょっと待て」
ギクリ。変な体勢で硬直したファイに、黒鋼は「見てろよ」と言って、人差し指を立てた。
花壇の辺りを飛び回るトンボのうち、真っ赤なそれがゆらゆらと近付いてくる。
それに釣られるように黒鋼の指先に夢中になりはじめたファイに、そっと口元を緩めると、やがてトンボが立てた指先に止まった。
「あっ、とまった……」
「ほら」
トンボを驚かさないように、静かに近づいて来たファイの目線にそれを近づけて見せてやる。青い瞳が濡れたように輝いて、少し頬が上気していた。
「あ、赤いトンボ……こんなに近くで、初めて見た……」
感激したように、ファイは自然と笑顔を浮かべた。
それを見て、笑えばやっぱり可愛いじゃないかと黒鋼は思った。そして、同じ双子が見せる笑顔でも、ユゥイとは少し違う。
彼が見せるそれは向日葵が咲くような、太陽のような華やかさのある笑顔だった。黒鋼の胸に、温かいものがじんわりと広がっていく。
ファイは赤いトンボにそっと手を伸ばそうとした。が、黒鋼はそれを高く掲げて、手のひらをぱっと開くと逃がしてやった。
「あっ……!」
「捕まえるのは駄目だ」
ファイがむっとした顔を見せ、唇を尖らせる。
「なんで?」
「可哀そうだろ。今しか生きられねぇんだから」
「……!」
途端に、ファイは青褪めて言葉を失った。そして彼は傷ついたような、泣きそうな顔をする。
間違ったことは言っていないはずだが、あの太陽のような笑顔が消えてしまったことに、黒鋼の胸は酷く胸が締めつけられた。
「お、おい」
かける言葉は見つからなかったが、思わず伸ばしかけた手を許さないとでも言わんばかりに、ファイはこちらに背を向けると走り去ってしまった。
「逃げられた……」
溜息を吐きながら頭をガリガリと掻いた。
トンボくらいなら簡単に捕まえられるのに、あの小さな生き物が相手だと、どうしても上手くいかないようだった。
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