2025/09/18 Thu 「たまにはあの人に連れて来てもらえばいいのに」 ユゥイを乗せた車椅子を引いたファイがそう言うと、ユゥイは少しだけ困ったように笑った。 「あの人だなんて。ちゃんと名前で呼んであげてよ」 「ユゥイだって呼ばないじゃない。いっつも『彼』としか」 「そうだけど」 ユゥイは少し言いにくそうに頬を指先で掻いた。 「呼ぶタイミング、逃しちゃったんだよ。お互い。そしたら、そのまま」 「なぁにそれ。変なのー」 ファイは笑った。 晴れた空と、自然と心が浮き立つような春の香り。張石の通路を縁取る立派な花壇には、様々な色の薔薇が花開いたばかりだった。 今は黒鋼が、この庭の全てをほぼ一人で管理している。 時々、体調がいいときにはこうして、ユゥイと一緒に散歩をするのだ。 温かな日差しはどこまでも優しくて、この時期でなければユゥイはまともに外に出ることが出来ない。 けれど彼は、あれほど親しい黒鋼とは外へ出ようとしなかった。おそらく黒鋼も、ユゥイは一歩も外へ出られないものと思い込んでいるのではないか。 もどかしい二人だなぁと、ファイは思った。 普段は互いに、あまり黒鋼のことは話題に出さない。ファイは考えないようにしていたし、ユゥイは諦めているようだから、あえて彼の話はしなくなっていた。 けれどもし自分がユゥイの立場だったらと、お節介のようなものがひょっこりと顔を出してしまう。 「そんなのさ、気にしないでぱぱっと呼んじゃえばいいんだよー」 「簡単に言うなぁ……ファイは」 「簡単だよ。黒たーんとか、黒ぽーんとか、可愛く呼んであげれば、あの人も大喜び、かも?」 ぷっ、とユゥイが噴き出してしまう。服の上からでもわかるほど骨が目立つ細い肩をしきりに震わせて、ユゥイはくすくすと笑った。 「だったらファイが呼んであげてよ。そしたらボクも呼ぶから」 「もー。親しい間柄じゃなきゃ許されないことってあるでしょー?」 何やらツボにハマってしまったらしい彼は、それからしばらくの間ずっと笑っていた。 逆に困ってしまったファイは、ふと咲き乱れる薔薇の群れの上を飛び回る二匹の蝶を見つけて「ほらほら」と指さした。 「黄色のちょちょと白のちょうちょ! 仲良しだねー」 ひらひらと舞い踊る二匹の蝶は、じゃれ合うようにくるくると飛び回っていた。 「ほんとだ、可愛いね」 「オレとユゥイみたいだねー」 「うん。そうだね」 ファイは立ち止まり、少しの間二人でそれを眺めていた。 蝶は仲良く互いを追い回すみたいにして、遥か遠くの空へと消えた。 「ほんとはね」 二匹が消えた空を見上げながら、ユゥイが呟いた。 「何かが変わることが、怖いんだ」 「……?」 「それがどんなに些細なことでも……出会ったあの日のままでいたい……」 変わらずに。 ずっと一緒に生きて来たつもりだったのに。 ユゥイのあんな切ない横顔を、ファイはそのとき初めて見たような気がした。 *** 長い夢を見ていたのか、それともただ過去に思いを馳せていたのか。 床にぺったりと座り込み、ユゥイのベッドに突っ伏して夢と現を行き来していたファイには、分からなかった。 切なくて悲しくて、そして優しい夢だった。 ユゥイが死んだ春。春薔薇が咲いたばかりの頃。 あのときは、それから間もないうちにもう二度と会えなくなるんて、想像もしなかった。 「……違う……そうじゃない……」 伏せていた顔を上げて、ファイは緩く指を振る。 「ずっと分かっていたんだ……いつか君が、オレより先に逝くことを」 ベッドの背もたれへ目を向ける。長い髪をやんわりと縛り、青白く痩せた肌をしたユゥイが、本を片手に笑っている姿が目に浮かぶ。彼はいつもここにいたのに。 ―――何かが変わることが、怖いんだ そうだ。ファイも怖かった。 穏やかに、平坦に、毎日同じような食事をして、ほとんど家からも出ず、時々散歩をしたり、本を読んだり、話をしたり。 そこにはユゥイがいれば十分で、ユゥイに恋する庭師の青年がいれば、それでよかった。 何かが劇的に変化すること。それらを三人は恐れていた。『特別』と言える何かが、いつか『思い出』になることを、恐れていた。 なんの意味もないことを皆が知っていた。人はいつか必ず死ぬ。ユゥイにとって、残されていた時間が普通の人間より短かったことは、誰も口に出さずとも。 一分でも一秒でも。どうかこのまま変わらずに。ずっとずっと、今が続きますようにと。 けれどきっと、ユゥイにとって黒鋼との時間は、一秒一秒が『特別』だったはずだ。 自分自身がいつか『思い出』になることを、誰よりも理解していたはずの彼は、きっといつも孤独だった。ファイがいても、黒鋼がいても、愛すれば愛するほど。 ファイも、黒鋼も、多分そんなユゥイの孤独を知っていた。知っていて、目を逸らしていたのだと思う。ずっと、やがて訪れる現実から逃げ続けていた。 今までだってそうだ。変わることが怖くて、黒鋼と小狼とサクラと、四人での暮らしを必死で守ろうとしていた。そうすればいつまでも、黒鋼は自分のものだった。 「思いだしたくなかったよ……オレは、ずるいから」 ユゥイを失ってなお、彼への感情を殺すことが出来なかった。 そしてあのとき、逃げ場を求めていたのはきっと黒鋼も同じだったのだ。 ファイは重たい身体に力を入れて立ちあがった。床に落ちて、ぐったりとしている薔薇の花を拾う。 窓の外を見ると、陽が傾きはじめていた。ここを訪れたのは夜明け前だったはずなのに、驚くほど長い間、ここで幻を見ていたらしい。 そのとき、ガンガンと部屋のドアを叩く音がした。 「ファイさん、ここにいるんですよね? 開けてください! ファイさん!」 「ファイさんお願い……どうか顔を見せてください……」 小狼とサクラの声がする。夢と現を彷徨うファイは気づいていなかったが、彼らはこうして幾度となくこの部屋のドアを叩いていたのかもしれない。 「ごめんね小狼君、サクラちゃん」 ファイは扉を見つめていた視線を、今度は大きな姿見へ移した。 「会いに行くよ、ユゥイ。ずっと忘れちゃってて、ごめん」 ひとつに纏めた長い金髪。青白く痩せた肌。 ――ユゥイ。 「そっか」 秋晴れの庭で、四人でテーブルを囲みながら交わした、何気ない会話。バカみたいにむきになっていた自分と、ぽろりと零れ落ちた黒鋼の本音。 「だから、お気に入りだったんだね」 最初から、彼はファイのものなんかじゃなかった。 「……ナイフがいるね。とびきり、切れ味がいいもの」 力が抜けたような、頼りない笑みを浮かべると、鏡の中の自分はいよいよユゥイと重なった。 *** ゆっくりと眠りから目覚め、瞼を開けたとき、車内のガラス窓から見える世界は橙色に包まれていた。 「マジかよ……」 知らぬ間に、随分と長く眠ってしまっていたようだった。 座席の背もたれに沈み込んでいた身体を離すと、黒鋼は盛大に溜息をつきながら頭を掻き毟った。 キーを回し、エンジンをかけながら、まだ少しぼんやりする頭を幾度か振る。ひとつ大きく息をつき、自分自身に苛立ちながらも、車を走らせた。 考えるのはたった今まで、まるで過去を旅するかのように見ていた夢のことだった。 双子とそれぞれ初めて出会った日から、ユゥイを失い、そしてファイを眠りにつかせた、あの日のことまで。 思えばユゥイの夢を見るのは、彼が他界してから初めてのことだった。 黒鋼は小さく舌打ちをする。 おそらく、ファイは過去を取り戻している。 いつ、何がキッカケで思い出したのかなんて。 心当たりがありすぎて、苦々しい表情で吐き出す息は僅かに震えていた。 今にして思えば、どうして何の迷いも警戒もなく、彼に薔薇を渡してしまったのだろう。それまでの黒鋼ならば、決して考えられないミスだった。 あのときの黒鋼の中には、ただ単純な思いだけがあったように思う。 『オレは黄色より、白の方が好きかなー』 ファイがそう言っていたことを、思い出したから。 本当に無意識のうちに、白い薔薇の花を摘み取っていた。 「……欲張りすぎたのかもしれねぇな……俺は」 ふと零れた呟きに、少しだけ口元を笑みの形に歪めた。 黒鋼には分かっていた。ファイに記憶が無い状態が、いつまでも続くわけがなかったことくらい。 あの屋敷は彼が幼い頃から長く暮らしてきた場所だった。黒鋼が何をどう隠そうが、あの空間の至るところに、彼の記憶を呼び覚ます断片は転がっていたに違いない。 本当なら、眠る彼を連れて屋敷を出るべきだったのだということも、分かっていた。それでも離れられなかったのは、一人孤独に逝かせてしまったユゥイを、置き去りにしていくような気がしたからだった。 髪が伸びて、それを一つに纏めるファイの姿は、双子がゆえに嫌でもユゥイと重なることがあった。 ふとした瞬間、まるであの悪夢のような春の出来事が、全て夢だったのかと錯覚しそうになるほどに。 長い間、昏々と眠り続けていたファイの姿は、あの日、病院の霊安室で冷たくなっていたユゥイを思いださせた。 けれど彼が目覚めたあの瞬間から、不思議なことにユゥイの影は消えてしまった。 ふとした瞬間、重なるのは容姿だけ。その表情の動きも、言葉も、何もかもが、彼が全く違う人間であるということを証明しているようだった。 いっそもっと単純に、二人を重ねることが出来たなら、きっともっと楽だった。 姿形だけでなく、ファイの幼い仕草や、その内面さえも気づかないふりをして、重ね合わせることが出来たなら。 もしそれが出来ていたら、きっと先日の昼間の庭で、黒鋼はファイに黄色の薔薇を渡していただろう。 あのとき、黒鋼が迷いなく摘み取ったのは白い薔薇。 それはいつしか、本心からファイの願いを叶えたいと、そう思うようになっていたからなのかもしれない。 白が好きだと言った彼のことだけで、あの瞬間、黒鋼の頭の中はいっぱいになっていた。 笑ってくれるだろうと、喜ぶだろうと、そんなことばかりを考えていたのだ。それは誰の意思でもない。黒鋼の『意思』だった。 ファイに乞われれば、平然と愛を囁いた。身体を繋げた。一切の迷いや戸惑いがなかったわけではない。それでも彼の欲しいものを与え、満たしてやることを、自分に出来る唯一の償いだと信じていた。 少なくとも、たった今までは。そのはずなのに。 「まだ欲張ろうってのか?」 どれほど恋しくても、もうユゥイはいない。今でも彼を愛している。 それでもあの日、ファイを眠りにつかせたあの日。あのときから黒鋼を生かしているのは、ファイという大きな光だった。 黒鋼の中で確かに根付き始めているファイへの想いが、偽りや錯覚であると、そして四人で暮らした穏やかで温かな暮らしが仮初のものだと、そう片付けてしまいたくない自分がいる。 しかしそれはただ、ユゥイが遺した『最後の願い』を利用して、そしてファイの想いさえ利用して、ただ自らの孤独や悲しみを忘れたいだけなのではないか。 ファイへの気持ちを自覚すればするほど、そんな深みにはまる。 この迷路に、出口はあるのか。 *** 黒鋼が屋敷に戻ったのは、夕日があと僅かで完全に没するかという頃だった。 いくら日が短くなったとはいえ、随分長いこと眠りこけていたことに、庭の通路を歩く黒鋼の歩調は自然と苛立ったものになっていた。 「黒鋼さんッ!」 けれど、突然開かれたドアから飛び出して来たサクラに縋りつかれて、彼女が泣いていることに気付くと、黒鋼は最初こそ目を丸くしたものの、何が起こっているのか、それだけでだいたい理解できた。 サクラから目線を先にやると、立ち尽くして今にも泣きだしそうにも、悔しそうにも見える顔をした少年と目が合った。 「黒鋼さん……」 「いい。なんとなくわかってる。おら、泣くな」 小狼に向けて少しだけ笑って見せてから、サクラの両肩に手をやって、そっと引き離した。 見上げてくる少女は泣きはらした瞳にさらに涙を浮かべて、ひとつ鼻をすする。 「でも、ファイさんがずっとあの部屋に……もしかしたら、私のせいかもしれない……私、ファイさんに、あの部屋の鍵のこと……」 小狼に鍵を託していたことを、サクラが知っていたことは迂闊だったが、幾つもの綻びが重なったのは、なるべくしてなることだったのだと思う。 彼女も、小狼も、何一つ悪くはない。 近づいてきた小狼が、背後から黒鋼に代わってサクラの肩を抱いた。 「記憶が戻ったんだな。あいつは」 そう言うと、小狼を力なく首を横に振った。 「わかりません……ゆうべは冷静になれなくて……今思えば……」 「はめられたか?」 「ッ……」 きゅっと眉間に皺を寄せたまま唇を噛みしめる小狼の髪を、ぐしゃぐしゃと撫でる。彼は痛々しい表情で、それでも不思議そうに黒鋼を見上げた。 「どうして笑ってるんです……?」 「そう見えるか?」 「……はい」 笑っているかもしれない。少なくとも、口元は。 「エゴに付き合わせて悪かったな。おまえたちは何も気にするな」 「でも……ッ」 「やつはあの部屋か?」 言い募ろうとする小狼を遮る。すると、彼は「それが……」と酷く言いにくそうに俯いた。 ←戻る ・ 次へ→
ユゥイを乗せた車椅子を引いたファイがそう言うと、ユゥイは少しだけ困ったように笑った。
「あの人だなんて。ちゃんと名前で呼んであげてよ」
「ユゥイだって呼ばないじゃない。いっつも『彼』としか」
「そうだけど」
ユゥイは少し言いにくそうに頬を指先で掻いた。
「呼ぶタイミング、逃しちゃったんだよ。お互い。そしたら、そのまま」
「なぁにそれ。変なのー」
ファイは笑った。
晴れた空と、自然と心が浮き立つような春の香り。張石の通路を縁取る立派な花壇には、様々な色の薔薇が花開いたばかりだった。
今は黒鋼が、この庭の全てをほぼ一人で管理している。
時々、体調がいいときにはこうして、ユゥイと一緒に散歩をするのだ。
温かな日差しはどこまでも優しくて、この時期でなければユゥイはまともに外に出ることが出来ない。
けれど彼は、あれほど親しい黒鋼とは外へ出ようとしなかった。おそらく黒鋼も、ユゥイは一歩も外へ出られないものと思い込んでいるのではないか。
もどかしい二人だなぁと、ファイは思った。
普段は互いに、あまり黒鋼のことは話題に出さない。ファイは考えないようにしていたし、ユゥイは諦めているようだから、あえて彼の話はしなくなっていた。
けれどもし自分がユゥイの立場だったらと、お節介のようなものがひょっこりと顔を出してしまう。
「そんなのさ、気にしないでぱぱっと呼んじゃえばいいんだよー」
「簡単に言うなぁ……ファイは」
「簡単だよ。黒たーんとか、黒ぽーんとか、可愛く呼んであげれば、あの人も大喜び、かも?」
ぷっ、とユゥイが噴き出してしまう。服の上からでもわかるほど骨が目立つ細い肩をしきりに震わせて、ユゥイはくすくすと笑った。
「だったらファイが呼んであげてよ。そしたらボクも呼ぶから」
「もー。親しい間柄じゃなきゃ許されないことってあるでしょー?」
何やらツボにハマってしまったらしい彼は、それからしばらくの間ずっと笑っていた。
逆に困ってしまったファイは、ふと咲き乱れる薔薇の群れの上を飛び回る二匹の蝶を見つけて「ほらほら」と指さした。
「黄色のちょちょと白のちょうちょ! 仲良しだねー」
ひらひらと舞い踊る二匹の蝶は、じゃれ合うようにくるくると飛び回っていた。
「ほんとだ、可愛いね」
「オレとユゥイみたいだねー」
「うん。そうだね」
ファイは立ち止まり、少しの間二人でそれを眺めていた。
蝶は仲良く互いを追い回すみたいにして、遥か遠くの空へと消えた。
「ほんとはね」
二匹が消えた空を見上げながら、ユゥイが呟いた。
「何かが変わることが、怖いんだ」
「……?」
「それがどんなに些細なことでも……出会ったあの日のままでいたい……」
変わらずに。
ずっと一緒に生きて来たつもりだったのに。
ユゥイのあんな切ない横顔を、ファイはそのとき初めて見たような気がした。
***
長い夢を見ていたのか、それともただ過去に思いを馳せていたのか。
床にぺったりと座り込み、ユゥイのベッドに突っ伏して夢と現を行き来していたファイには、分からなかった。
切なくて悲しくて、そして優しい夢だった。
ユゥイが死んだ春。春薔薇が咲いたばかりの頃。
あのときは、それから間もないうちにもう二度と会えなくなるんて、想像もしなかった。
「……違う……そうじゃない……」
伏せていた顔を上げて、ファイは緩く指を振る。
「ずっと分かっていたんだ……いつか君が、オレより先に逝くことを」
ベッドの背もたれへ目を向ける。長い髪をやんわりと縛り、青白く痩せた肌をしたユゥイが、本を片手に笑っている姿が目に浮かぶ。彼はいつもここにいたのに。
―――何かが変わることが、怖いんだ
そうだ。ファイも怖かった。
穏やかに、平坦に、毎日同じような食事をして、ほとんど家からも出ず、時々散歩をしたり、本を読んだり、話をしたり。
そこにはユゥイがいれば十分で、ユゥイに恋する庭師の青年がいれば、それでよかった。
何かが劇的に変化すること。それらを三人は恐れていた。『特別』と言える何かが、いつか『思い出』になることを、恐れていた。
なんの意味もないことを皆が知っていた。人はいつか必ず死ぬ。ユゥイにとって、残されていた時間が普通の人間より短かったことは、誰も口に出さずとも。
一分でも一秒でも。どうかこのまま変わらずに。ずっとずっと、今が続きますようにと。
けれどきっと、ユゥイにとって黒鋼との時間は、一秒一秒が『特別』だったはずだ。
自分自身がいつか『思い出』になることを、誰よりも理解していたはずの彼は、きっといつも孤独だった。ファイがいても、黒鋼がいても、愛すれば愛するほど。
ファイも、黒鋼も、多分そんなユゥイの孤独を知っていた。知っていて、目を逸らしていたのだと思う。ずっと、やがて訪れる現実から逃げ続けていた。
今までだってそうだ。変わることが怖くて、黒鋼と小狼とサクラと、四人での暮らしを必死で守ろうとしていた。そうすればいつまでも、黒鋼は自分のものだった。
「思いだしたくなかったよ……オレは、ずるいから」
ユゥイを失ってなお、彼への感情を殺すことが出来なかった。
そしてあのとき、逃げ場を求めていたのはきっと黒鋼も同じだったのだ。
ファイは重たい身体に力を入れて立ちあがった。床に落ちて、ぐったりとしている薔薇の花を拾う。
窓の外を見ると、陽が傾きはじめていた。ここを訪れたのは夜明け前だったはずなのに、驚くほど長い間、ここで幻を見ていたらしい。
そのとき、ガンガンと部屋のドアを叩く音がした。
「ファイさん、ここにいるんですよね? 開けてください! ファイさん!」
「ファイさんお願い……どうか顔を見せてください……」
小狼とサクラの声がする。夢と現を彷徨うファイは気づいていなかったが、彼らはこうして幾度となくこの部屋のドアを叩いていたのかもしれない。
「ごめんね小狼君、サクラちゃん」
ファイは扉を見つめていた視線を、今度は大きな姿見へ移した。
「会いに行くよ、ユゥイ。ずっと忘れちゃってて、ごめん」
ひとつに纏めた長い金髪。青白く痩せた肌。
――ユゥイ。
「そっか」
秋晴れの庭で、四人でテーブルを囲みながら交わした、何気ない会話。バカみたいにむきになっていた自分と、ぽろりと零れ落ちた黒鋼の本音。
「だから、お気に入りだったんだね」
最初から、彼はファイのものなんかじゃなかった。
「……ナイフがいるね。とびきり、切れ味がいいもの」
力が抜けたような、頼りない笑みを浮かべると、鏡の中の自分はいよいよユゥイと重なった。
***
ゆっくりと眠りから目覚め、瞼を開けたとき、車内のガラス窓から見える世界は橙色に包まれていた。
「マジかよ……」
知らぬ間に、随分と長く眠ってしまっていたようだった。
座席の背もたれに沈み込んでいた身体を離すと、黒鋼は盛大に溜息をつきながら頭を掻き毟った。
キーを回し、エンジンをかけながら、まだ少しぼんやりする頭を幾度か振る。ひとつ大きく息をつき、自分自身に苛立ちながらも、車を走らせた。
考えるのはたった今まで、まるで過去を旅するかのように見ていた夢のことだった。
双子とそれぞれ初めて出会った日から、ユゥイを失い、そしてファイを眠りにつかせた、あの日のことまで。
思えばユゥイの夢を見るのは、彼が他界してから初めてのことだった。
黒鋼は小さく舌打ちをする。
おそらく、ファイは過去を取り戻している。
いつ、何がキッカケで思い出したのかなんて。
心当たりがありすぎて、苦々しい表情で吐き出す息は僅かに震えていた。
今にして思えば、どうして何の迷いも警戒もなく、彼に薔薇を渡してしまったのだろう。それまでの黒鋼ならば、決して考えられないミスだった。
あのときの黒鋼の中には、ただ単純な思いだけがあったように思う。
『オレは黄色より、白の方が好きかなー』
ファイがそう言っていたことを、思い出したから。
本当に無意識のうちに、白い薔薇の花を摘み取っていた。
「……欲張りすぎたのかもしれねぇな……俺は」
ふと零れた呟きに、少しだけ口元を笑みの形に歪めた。
黒鋼には分かっていた。ファイに記憶が無い状態が、いつまでも続くわけがなかったことくらい。
あの屋敷は彼が幼い頃から長く暮らしてきた場所だった。黒鋼が何をどう隠そうが、あの空間の至るところに、彼の記憶を呼び覚ます断片は転がっていたに違いない。
本当なら、眠る彼を連れて屋敷を出るべきだったのだということも、分かっていた。それでも離れられなかったのは、一人孤独に逝かせてしまったユゥイを、置き去りにしていくような気がしたからだった。
髪が伸びて、それを一つに纏めるファイの姿は、双子がゆえに嫌でもユゥイと重なることがあった。
ふとした瞬間、まるであの悪夢のような春の出来事が、全て夢だったのかと錯覚しそうになるほどに。
長い間、昏々と眠り続けていたファイの姿は、あの日、病院の霊安室で冷たくなっていたユゥイを思いださせた。
けれど彼が目覚めたあの瞬間から、不思議なことにユゥイの影は消えてしまった。
ふとした瞬間、重なるのは容姿だけ。その表情の動きも、言葉も、何もかもが、彼が全く違う人間であるということを証明しているようだった。
いっそもっと単純に、二人を重ねることが出来たなら、きっともっと楽だった。
姿形だけでなく、ファイの幼い仕草や、その内面さえも気づかないふりをして、重ね合わせることが出来たなら。
もしそれが出来ていたら、きっと先日の昼間の庭で、黒鋼はファイに黄色の薔薇を渡していただろう。
あのとき、黒鋼が迷いなく摘み取ったのは白い薔薇。
それはいつしか、本心からファイの願いを叶えたいと、そう思うようになっていたからなのかもしれない。
白が好きだと言った彼のことだけで、あの瞬間、黒鋼の頭の中はいっぱいになっていた。
笑ってくれるだろうと、喜ぶだろうと、そんなことばかりを考えていたのだ。それは誰の意思でもない。黒鋼の『意思』だった。
ファイに乞われれば、平然と愛を囁いた。身体を繋げた。一切の迷いや戸惑いがなかったわけではない。それでも彼の欲しいものを与え、満たしてやることを、自分に出来る唯一の償いだと信じていた。
少なくとも、たった今までは。そのはずなのに。
「まだ欲張ろうってのか?」
どれほど恋しくても、もうユゥイはいない。今でも彼を愛している。
それでもあの日、ファイを眠りにつかせたあの日。あのときから黒鋼を生かしているのは、ファイという大きな光だった。
黒鋼の中で確かに根付き始めているファイへの想いが、偽りや錯覚であると、そして四人で暮らした穏やかで温かな暮らしが仮初のものだと、そう片付けてしまいたくない自分がいる。
しかしそれはただ、ユゥイが遺した『最後の願い』を利用して、そしてファイの想いさえ利用して、ただ自らの孤独や悲しみを忘れたいだけなのではないか。
ファイへの気持ちを自覚すればするほど、そんな深みにはまる。
この迷路に、出口はあるのか。
***
黒鋼が屋敷に戻ったのは、夕日があと僅かで完全に没するかという頃だった。
いくら日が短くなったとはいえ、随分長いこと眠りこけていたことに、庭の通路を歩く黒鋼の歩調は自然と苛立ったものになっていた。
「黒鋼さんッ!」
けれど、突然開かれたドアから飛び出して来たサクラに縋りつかれて、彼女が泣いていることに気付くと、黒鋼は最初こそ目を丸くしたものの、何が起こっているのか、それだけでだいたい理解できた。
サクラから目線を先にやると、立ち尽くして今にも泣きだしそうにも、悔しそうにも見える顔をした少年と目が合った。
「黒鋼さん……」
「いい。なんとなくわかってる。おら、泣くな」
小狼に向けて少しだけ笑って見せてから、サクラの両肩に手をやって、そっと引き離した。
見上げてくる少女は泣きはらした瞳にさらに涙を浮かべて、ひとつ鼻をすする。
「でも、ファイさんがずっとあの部屋に……もしかしたら、私のせいかもしれない……私、ファイさんに、あの部屋の鍵のこと……」
小狼に鍵を託していたことを、サクラが知っていたことは迂闊だったが、幾つもの綻びが重なったのは、なるべくしてなることだったのだと思う。
彼女も、小狼も、何一つ悪くはない。
近づいてきた小狼が、背後から黒鋼に代わってサクラの肩を抱いた。
「記憶が戻ったんだな。あいつは」
そう言うと、小狼を力なく首を横に振った。
「わかりません……ゆうべは冷静になれなくて……今思えば……」
「はめられたか?」
「ッ……」
きゅっと眉間に皺を寄せたまま唇を噛みしめる小狼の髪を、ぐしゃぐしゃと撫でる。彼は痛々しい表情で、それでも不思議そうに黒鋼を見上げた。
「どうして笑ってるんです……?」
「そう見えるか?」
「……はい」
笑っているかもしれない。少なくとも、口元は。
「エゴに付き合わせて悪かったな。おまえたちは何も気にするな」
「でも……ッ」
「やつはあの部屋か?」
言い募ろうとする小狼を遮る。すると、彼は「それが……」と酷く言いにくそうに俯いた。
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