2025/09/18 Thu ~前回までのあらすじ~ 大晦日の夜、コインランドリーで下着泥棒の濡れ衣を着せられていた青年を助けた日向。 狛枝凪斗と(聞いてもいないのに)名乗る青年に、なぜかそのまま懐かれてしまう。 一度は突き放した日向だったが、わざわざ寒空の下で震えながら待っていた狛枝にうっかり情が湧いてしまい、その後一緒に蕎麦を食いに行くことにしたのだった。 以来、二人の間に進展は……特になかった。 * 待ち合わせ場所は、初めて会ったコインランドリー前だった。 日向がそこに到着したのは約束していた19時ちょうどで、狛枝はすでに待っていた。 「よう、久しぶり」 片手を上げて声をかけると、華奢な肩がビクンと跳ねた。落とし穴でも踏み抜いた直後のような表情で目を見開く狛枝に、思わず顔を顰める。 「……日向、クン?」 「なんだ? 俺の顔忘れたのかよ?」 いくら会ったのが一回きりで、あれから二ヶ月近くが経っているからって。そんなに自分の顔は記憶に残りにくいのだろうか。 眉間にぐっと皺を寄せた日向に、狛枝は慌てて首を左右に振った。癖の強い、淡い綿毛のような髪が激しく揺れる。 「とんでもない! いくらボクが低能だからって、命の恩人の顔を忘れるほど鳥頭ではないよ!」 「別に命まで救ったわけじゃないけどな」 大袈裟な物言いは変わらずかと苦笑してしまう。 「まさか本当に来てくれるとは思ってなかったから、つい驚いてしまって」 「そりゃ来るだろ。約束したんだし」 「で、でも、ボクみたいな愚劣なゴミ虫が日向クンを食事に誘うなんて、おこがましいにも程があるというか、身の程をわきまえていないというか……」 「なんて言うか、今日も絶好調だな、お前」 狛枝は焦点の合っていない瞳を忙しなく彷徨わせ、両手で心臓の辺りを指先の色が変わるほど強く握りしめている。冬の名残をまだ十分に残した風が吹き抜ける中、竦められた肩が震えているのを見ると、こちらまで凍えそうな気分になった。 あの独特な形状のコートに包まれた身体は相変わらず薄っぺらくて、透き通るような白い肌がより憐れみを誘う。 思えばこのあまりにも頼りない容姿に、つい同情してしまったのがこの男を助けてしまった何よりの動機だった。 「別に遠慮なんかするな。飯くらいいつでも誘えよ。それより立ち話もなんだしさ、早く行こうぜ」 「そっ、そうだよね! えっと、日向クンは何が食べたい気分?」 「そうだなぁ……お前は?」 「ボクはなんでもいいよ! キミが好むものなら、ゴミ捨て場の残飯でも犬の糞でも、喜んで食べるよ!」 「言っとくけど、俺はそんな悪食じゃないからな」 お前それは逆に失礼だぞ、と呆れつつ、狛枝にメニュー選びをさせるのは難しいかと思った。食事に行かないかと誘ってきたのは彼だが、仕切りは自分が行った方が早そうだ。 日向は息を凝らしている狛枝をじっと見つめたあと、よし、と頷いた。 「酒でも飲みに行くか。ここから近くて、いい店知ってるし」 「お酒……!?」 「なんだ? もしかして飲めないのか? っていうか、お前まだ10代とか言わないよな?」 狛枝の中性的な顔立ちは、成人男性として見るには少しばかり頼りない。ひょろりと縦に長いだけの身体つきも相まってか、どこか未成熟な印象を受ける。 すると彼は、再び首を左右に振った。 「だ、大丈夫、かな? これでも一応は成人してるし、お酒も飲めるよ」 「そうか。ならいいよな。居酒屋ならご飯モノもあるし」 ホッとしたように狛枝が頷いたことで、行先が決まった。口許だけでふっと笑った日向が歩き出すと、彼はやっぱり一歩引いた場所を歩く。 日向が居酒屋を選んだのは、なんとなくこの微妙な距離を縮めてやりたいと思ったからだ。隣を歩けと言えば狛枝は素直に従うだろう。でも、それではあまり意味がないような気がする。 狛枝はなにかと人の顔色を窺うような態度を取るし、おこがましいだの身の程知らずだの、自分を卑下した物言いをする。 いちいち緊張して身を強張らせるのも、酒が入れば少しはほぐれるのではないかと考えた。 前回の蕎麦屋では、狛枝は終始捕食される寸前の小動物のように震えて、オドオドしっぱなしだった。おそらく味もへったくれもなかったに違いない。 だから今日は少しでもリラックスさせてやれればと思った。 せっかく狛枝の方から誘いをかけてくれたのだから、なるべく後悔はさせたくないし、したくない。 なんといっても今日の狛枝との約束は、日向にとってそれなりに『大きな代償』を支払った上で成り立っているのだから。 「逃がした魚はデカかったのかもしれないけどな……」 「え? 何か言った?」 無意識に漏れた呟きに、狛枝が首を傾げながら反応する。日向は「なんでもないよ」と返しながら、思わず苦笑した。 * 二月上旬。 日向は大学の春休みを利用してバイトに明け暮れる日々を送っていた。 学費は離れて暮らす両親に頼り切っている状態だが、家賃を含めた諸々の生活費くらいは自分でなんとかしたい。適当に遊ぶ金だって欲しいし、貯金もしておくに越したことはないだろうと、ビルの建設現場で週の大半を警備スタッフとして働いている。 そんなある日、昼の休憩中のことだ。 数少ない友人の一人である左右田から、合コンの誘いがきた。 今日の19時半に来られないかという文面に、もっと早く連絡しろよと思いはしたが、どうせ急に欠席者が出たとか、そんな理由の数合わせに違いなかった。 とはいえここしばらくバイト漬けだった日向は、たまには羽目を外すのもいいかと了解した。 あわよくば人生初の彼女がゲットできるかもしれないチャンスだ。人生なにがキッカケになるか分からないのだし、出会いは大切にしなければ。 すると、なんだかんだで浮かれはじめていた日向のもとに、もう一件メールがきた。 左右田からの返信かと思ったが、差出人の名前を見て驚いた。 それは大晦日の夜、痴漢疑惑をかけられていたところを気紛れで助けた、あの狛枝凪斗からだったのだ。 彼とはあの日以来会っていない。ただ、別れ際に連絡先の交換だけはしていた。 インパクトのある男だったので、たまにふと思い出すことはあったが、特に理由もなく連絡は取っていなかった。 意外に感じつつ受信したメールを開いて見ると、それは実に簡素な内容だった。 『一緒にお食事どうですか』 その一文から、狛枝の緊張がひしひしと伝わって来たような気がした。 自らのことをクズとかゴミとか自虐していた上、本気で友達という存在が一人もいなかったらしい、彼の精一杯が感じ取れる。 今ごろ呼吸困難でも起こしながら返事を待っているのではないかと思うと、命の危機を放っておくわけにもいかず、すぐに『OK』とメールを送った。 別に飯を食いに行くくらい、どうってことはない。 合コンの頭数が足りないという理由でしか、連絡の一つも寄越さない相手よりは、ずっと気分もいい。それでいい思いができるなら、という下心はこのさい置いておくとして、久しぶりに狛枝の顔を見るのも悪くはないような気もして。 けれど驚いたことに、僅か数秒で送られてきた狛枝からの返信で、彼が指定してきた日にちも今日だった。 タイミングが悪かったなと、日向はすぐに日時を変更してくれるようメールを送ろうとした。タッチの差とはいえ、左右田との約束の方が先なのだから、それは当たり前のことだ。 しかしふと思った。狛枝のツイてなさは折り紙付きだ。たった一度会っただけの相手だが、日向はそれをよく知っている。 そんなツイてないやつが、ツイてないタイミングで勇気を振り絞った。そう考えるとなんだか不憫で、日向は気づいたら左右田の方に断りの連絡を入れていた。 『オメーふざけんなよ! 二度と誘ってやんねーかんな!』 なんて、怒りのメールをもらう羽目になってまで、狛枝の誘いを優先してしまった。 何をしてるんだと自分に呆れながら、とにかく日向は合コンという尊い出会いのチャンスを逃したのだった。 * だが日向は、狛枝を連れ立って訪れた居酒屋で、その選択が誤りだったことを知る羽目になった。 「あははははははは! ねぇねぇ日向クンあれ見て! 電柱だよ!」 静まり返った夜の住宅街に、引くほどテンションの高い笑い声が響き渡っている。 「ぷっ、ふふ、あはははは! 最ッ高だね! 街灯までついてる! あっはははは! ねぇ日向クン! 街灯だよ!? 夜なのに明るいねぇ! あはっ!」 一体なにがそんなに面白いのか、日向に背負われている狛枝は、あれこれとどうでもいいものを指さしてはケタケタと笑っていた。 「お前なぁ、近所迷惑だろ? 頼むから静かにしてくれよ……」 「ぷはっ! ひゃははは! 月まで出てる! ますます明るい! こんなの信じられないよ! あはははは!!」 (ああぁ、なんなんだよこいつは!) 思わず背負っている華奢な身体を投げ飛ばしたい気分になった。ゴミ捨て場にでも捨て置いて、とっとと一人で帰ってしまいたい。 日向の苛立ちなど知りもせず、狛枝は無邪気に手足をバタつかせて大はしゃぎしている。 「わあぁ!? く、車が停まってるー! ぷくくッ、きゃは、あははは! も、苦しい! ぼ、ボク、笑いすぎて死んじゃう!!」 「酒弱いなら無理して飲むなよ! 笑い上戸とかふざけんな!!」 そう、狛枝は異様なまでの笑い上戸だった。 店に入って30分もしないうちに出来上がり、会話もままならないくらい酔って笑い出した。 目に映る全てのものを指さして、ヒィヒィと痙攣するほど笑い転げる彼は、当然のように他の客の迷惑にしかならなかった。 日向は慌てて二人分の会計を済ませ、前後不覚の狛枝を背負って夜の街へと逃げ出した。 そして現在、この有様である。 狛枝は聞いていてこちらが苦しくなるほど爆笑している状態だ。苦しそうにのたうつ感触が、背中から嫌というほど伝わって来る。 このまま騒ぎ続ければ、近隣住民が警察に通報しかねないのではないか。 (こんなことなら、やっぱり合コン行っとけばよかったか……) そうしていれば、今ごろ可愛い女子の一人くらいはお持ち帰りできていたかもしれない。晴れて童貞を卒業できていたかもしれないのに。 後の祭り。そんな言葉が狛枝の身体と一緒に重くのしかかる。それがバタバタと暴れて身を震わせているのだから、堪ったもんじゃない。 後悔すればするほど、足取りもどんどん重くなっていった。 (ほんっと……最悪だな……) 「ふふふ、うふ、あはは、ねぇ~、ひにゃたクゥ~ン」 長いことずっと爆笑し続けていた狛枝は、ようやく少し落ち着いたのか、ぐったりと日向の背に身を預けながらそれでもクスクスと笑っている。 首に両腕が絡まり、頭部に頬ずりされる感触にウンザリしながらも、「はいはい」と返事をしてやると、嬉しそうに「んふふ」と鼻にかかったような声が聞こえた。 「楽しいねぇひにゃたクン」 「そうかよ。俺は楽しくないけどな」 「あは、ボクねぇ、すっごく頑張っちゃったよぉ」 「なにをだよ」 「メールだよぉ。ひにゃたクンにメールするの、すごーく怖かったぁ」 「……そりゃどうもな」 「ねぇ~、褒めてよぉ~、ボクいい子だったでしょ~?」 酔うとその人間の本性が出る、なんてよく言ったものだ。 狛枝は日向の頭部にグリグリと顔を擦りつけながら、甘えた口調で「褒めて褒めて」と繰り返す。 酒の力ですっかり仮面が剥がれ落ちた狛枝は、まるで小さな駄々っ子だ。 自然体でリラックスしてほしいとは思ったが、まさかここまでとは。 それにしても、日向の予想はいっそ気持ちがいいくらい当たっていたらしい。 やっぱり彼は相当の勇気を振り絞ってメールを寄越したようだ。携帯の画面を見つめて、青くなったり赤くなったりしながら打ち震える狛枝の姿まで、容易に想像ができてしまう。 出会いのチャンスを逃した上に、こんな面倒なヤツの世話をする羽目になってしまった不運を嘆いていたはずなのに。なぜか後悔が薄れていくのを感じる。 すっかり絆されていることを自覚しながら、日向は苦笑した。 「えらかったな、いい子だったな」 「んふ、うん。もっと褒めていいんだよ~」 「えらいえらい。狛枝はえらいよ」 「あはは、ひにゃたクン大好き~」 「はいはい、ありがとな」 ふわふわの癖毛に頬をくすぐられると、不思議と胸の内側までくすぐられているような気分になった。 たった一度ピンチを救ってやっただけなのに、随分と懐かれてしまったものだと思う。 もちろん、左右田の誘いを蹴ったことはいまだに悔やまれる。けれどこんな風に狛枝の無防備な声を聞いているうちに、やっぱりこれでよかったのだと確信する。 ついさっきまであれほど重たいと思っていた狛枝の身体さえ、軽く思えてきてしまうから現金な話だ。 「ふふ、あはははははっ!」 「お前なぁ、もう笑うの禁止。静かにしろって」 「だぁって~」 日向の身体の両脇で、狛枝の膝から下がブラブラと揺れる。 「靴がないんだもんー」 「は?」 「ぷっ! あははは! ボクの靴、どっか行っちゃった! ふふふ、あはは!」 思わず歩みを止めて、狛枝の足先を見る。確かにない。靴がない。 脱げかけの靴下がぷらぷらとぶら下がっているだけで、ご丁寧に両方ともすっかり無くなっていた。 「お、お前! いつの間に脱いだんだよ!? どこで落とした!?」 「そんなのわっかんないよぉ~! 最っ高に楽しいねぇ~!」 「だから俺は楽しくないっての!!」 「…………」 「……おい? 狛枝?」 「…………スー」 ……。 …………。 ………………え? なんなんだこいつは。 散々笑って、はしゃいで、甘えて。プッツリと糸が切れたように、唐突に眠りに落ちてしまうなんて。 酔っ払いをまともに相手にすればバカを見る。それはわかっていることだけど。 「信じられない……」 規則正しい寝息を耳元に感じながら、日向は愕然とするより他になかった。 同時に、もう知るかという気持ちになってくる。 どうせ困るのは狛枝なのだし。とにかく、一刻も早くこいつを送り届けて家に帰りたい。 そんなことを考えて、ふと、日向はあることに気がついた。 「……こいつの家、どこだ……?」 頭部をガツンと叩かれたような衝撃を受ける。 そうだ、日向は彼の連絡先は知っていても、どこに住んでいるのかまでは知らないのだった。 思えばこの住宅街だって、日向の暮らすアパートへと続く道でしかない。爆笑している狛枝に圧倒されるばかりで、何も考えていなかった。 「お、おい、起きろ狛枝」 「ん~……こまどり姉妹~……」 「頼む、起きてくれ」 「スー……スー……」 「……嘘だろ?」 なぜ、どうして。 本当なら、今ごろは左右田の誘いで合コンに行っているはずだった。 頭数を揃えたいだけという理由は少し癪だが、あわよくば人生初の彼女をゲットできるかもしれない、絶好のチャンスだった。 それを棒に振ってまで狛枝を優先したのは日向で、彼には何の罪もない。 わかっている。よくわかっているのだが。 「なんで……お前を持ち帰らなきゃいけないんだよ……!!」 ツイてないのは、狛枝ではなく自分の方だったのかもしれない。 日向は少しだけ泣きたいような、情けない気持ちになりながら、文字通り狛枝を自宅へと持ち帰る羽目になってしまった。 ←戻る ・ 次へ→
大晦日の夜、コインランドリーで下着泥棒の濡れ衣を着せられていた青年を助けた日向。
狛枝凪斗と(聞いてもいないのに)名乗る青年に、なぜかそのまま懐かれてしまう。
一度は突き放した日向だったが、わざわざ寒空の下で震えながら待っていた狛枝にうっかり情が湧いてしまい、その後一緒に蕎麦を食いに行くことにしたのだった。
以来、二人の間に進展は……特になかった。
*
待ち合わせ場所は、初めて会ったコインランドリー前だった。
日向がそこに到着したのは約束していた19時ちょうどで、狛枝はすでに待っていた。
「よう、久しぶり」
片手を上げて声をかけると、華奢な肩がビクンと跳ねた。落とし穴でも踏み抜いた直後のような表情で目を見開く狛枝に、思わず顔を顰める。
「……日向、クン?」
「なんだ? 俺の顔忘れたのかよ?」
いくら会ったのが一回きりで、あれから二ヶ月近くが経っているからって。そんなに自分の顔は記憶に残りにくいのだろうか。
眉間にぐっと皺を寄せた日向に、狛枝は慌てて首を左右に振った。癖の強い、淡い綿毛のような髪が激しく揺れる。
「とんでもない! いくらボクが低能だからって、命の恩人の顔を忘れるほど鳥頭ではないよ!」
「別に命まで救ったわけじゃないけどな」
大袈裟な物言いは変わらずかと苦笑してしまう。
「まさか本当に来てくれるとは思ってなかったから、つい驚いてしまって」
「そりゃ来るだろ。約束したんだし」
「で、でも、ボクみたいな愚劣なゴミ虫が日向クンを食事に誘うなんて、おこがましいにも程があるというか、身の程をわきまえていないというか……」
「なんて言うか、今日も絶好調だな、お前」
狛枝は焦点の合っていない瞳を忙しなく彷徨わせ、両手で心臓の辺りを指先の色が変わるほど強く握りしめている。冬の名残をまだ十分に残した風が吹き抜ける中、竦められた肩が震えているのを見ると、こちらまで凍えそうな気分になった。
あの独特な形状のコートに包まれた身体は相変わらず薄っぺらくて、透き通るような白い肌がより憐れみを誘う。
思えばこのあまりにも頼りない容姿に、つい同情してしまったのがこの男を助けてしまった何よりの動機だった。
「別に遠慮なんかするな。飯くらいいつでも誘えよ。それより立ち話もなんだしさ、早く行こうぜ」
「そっ、そうだよね! えっと、日向クンは何が食べたい気分?」
「そうだなぁ……お前は?」
「ボクはなんでもいいよ! キミが好むものなら、ゴミ捨て場の残飯でも犬の糞でも、喜んで食べるよ!」
「言っとくけど、俺はそんな悪食じゃないからな」
お前それは逆に失礼だぞ、と呆れつつ、狛枝にメニュー選びをさせるのは難しいかと思った。食事に行かないかと誘ってきたのは彼だが、仕切りは自分が行った方が早そうだ。
日向は息を凝らしている狛枝をじっと見つめたあと、よし、と頷いた。
「酒でも飲みに行くか。ここから近くて、いい店知ってるし」
「お酒……!?」
「なんだ? もしかして飲めないのか? っていうか、お前まだ10代とか言わないよな?」
狛枝の中性的な顔立ちは、成人男性として見るには少しばかり頼りない。ひょろりと縦に長いだけの身体つきも相まってか、どこか未成熟な印象を受ける。
すると彼は、再び首を左右に振った。
「だ、大丈夫、かな? これでも一応は成人してるし、お酒も飲めるよ」
「そうか。ならいいよな。居酒屋ならご飯モノもあるし」
ホッとしたように狛枝が頷いたことで、行先が決まった。口許だけでふっと笑った日向が歩き出すと、彼はやっぱり一歩引いた場所を歩く。
日向が居酒屋を選んだのは、なんとなくこの微妙な距離を縮めてやりたいと思ったからだ。隣を歩けと言えば狛枝は素直に従うだろう。でも、それではあまり意味がないような気がする。
狛枝はなにかと人の顔色を窺うような態度を取るし、おこがましいだの身の程知らずだの、自分を卑下した物言いをする。
いちいち緊張して身を強張らせるのも、酒が入れば少しはほぐれるのではないかと考えた。
前回の蕎麦屋では、狛枝は終始捕食される寸前の小動物のように震えて、オドオドしっぱなしだった。おそらく味もへったくれもなかったに違いない。
だから今日は少しでもリラックスさせてやれればと思った。
せっかく狛枝の方から誘いをかけてくれたのだから、なるべく後悔はさせたくないし、したくない。
なんといっても今日の狛枝との約束は、日向にとってそれなりに『大きな代償』を支払った上で成り立っているのだから。
「逃がした魚はデカかったのかもしれないけどな……」
「え? 何か言った?」
無意識に漏れた呟きに、狛枝が首を傾げながら反応する。日向は「なんでもないよ」と返しながら、思わず苦笑した。
*
二月上旬。
日向は大学の春休みを利用してバイトに明け暮れる日々を送っていた。
学費は離れて暮らす両親に頼り切っている状態だが、家賃を含めた諸々の生活費くらいは自分でなんとかしたい。適当に遊ぶ金だって欲しいし、貯金もしておくに越したことはないだろうと、ビルの建設現場で週の大半を警備スタッフとして働いている。
そんなある日、昼の休憩中のことだ。
数少ない友人の一人である左右田から、合コンの誘いがきた。
今日の19時半に来られないかという文面に、もっと早く連絡しろよと思いはしたが、どうせ急に欠席者が出たとか、そんな理由の数合わせに違いなかった。
とはいえここしばらくバイト漬けだった日向は、たまには羽目を外すのもいいかと了解した。
あわよくば人生初の彼女がゲットできるかもしれないチャンスだ。人生なにがキッカケになるか分からないのだし、出会いは大切にしなければ。
すると、なんだかんだで浮かれはじめていた日向のもとに、もう一件メールがきた。
左右田からの返信かと思ったが、差出人の名前を見て驚いた。
それは大晦日の夜、痴漢疑惑をかけられていたところを気紛れで助けた、あの狛枝凪斗からだったのだ。
彼とはあの日以来会っていない。ただ、別れ際に連絡先の交換だけはしていた。
インパクトのある男だったので、たまにふと思い出すことはあったが、特に理由もなく連絡は取っていなかった。
意外に感じつつ受信したメールを開いて見ると、それは実に簡素な内容だった。
『一緒にお食事どうですか』
その一文から、狛枝の緊張がひしひしと伝わって来たような気がした。
自らのことをクズとかゴミとか自虐していた上、本気で友達という存在が一人もいなかったらしい、彼の精一杯が感じ取れる。
今ごろ呼吸困難でも起こしながら返事を待っているのではないかと思うと、命の危機を放っておくわけにもいかず、すぐに『OK』とメールを送った。
別に飯を食いに行くくらい、どうってことはない。
合コンの頭数が足りないという理由でしか、連絡の一つも寄越さない相手よりは、ずっと気分もいい。それでいい思いができるなら、という下心はこのさい置いておくとして、久しぶりに狛枝の顔を見るのも悪くはないような気もして。
けれど驚いたことに、僅か数秒で送られてきた狛枝からの返信で、彼が指定してきた日にちも今日だった。
タイミングが悪かったなと、日向はすぐに日時を変更してくれるようメールを送ろうとした。タッチの差とはいえ、左右田との約束の方が先なのだから、それは当たり前のことだ。
しかしふと思った。狛枝のツイてなさは折り紙付きだ。たった一度会っただけの相手だが、日向はそれをよく知っている。
そんなツイてないやつが、ツイてないタイミングで勇気を振り絞った。そう考えるとなんだか不憫で、日向は気づいたら左右田の方に断りの連絡を入れていた。
『オメーふざけんなよ! 二度と誘ってやんねーかんな!』
なんて、怒りのメールをもらう羽目になってまで、狛枝の誘いを優先してしまった。
何をしてるんだと自分に呆れながら、とにかく日向は合コンという尊い出会いのチャンスを逃したのだった。
*
だが日向は、狛枝を連れ立って訪れた居酒屋で、その選択が誤りだったことを知る羽目になった。
「あははははははは! ねぇねぇ日向クンあれ見て! 電柱だよ!」
静まり返った夜の住宅街に、引くほどテンションの高い笑い声が響き渡っている。
「ぷっ、ふふ、あはははは! 最ッ高だね! 街灯までついてる! あっはははは! ねぇ日向クン! 街灯だよ!? 夜なのに明るいねぇ! あはっ!」
一体なにがそんなに面白いのか、日向に背負われている狛枝は、あれこれとどうでもいいものを指さしてはケタケタと笑っていた。
「お前なぁ、近所迷惑だろ? 頼むから静かにしてくれよ……」
「ぷはっ! ひゃははは! 月まで出てる! ますます明るい! こんなの信じられないよ! あはははは!!」
(ああぁ、なんなんだよこいつは!)
思わず背負っている華奢な身体を投げ飛ばしたい気分になった。ゴミ捨て場にでも捨て置いて、とっとと一人で帰ってしまいたい。
日向の苛立ちなど知りもせず、狛枝は無邪気に手足をバタつかせて大はしゃぎしている。
「わあぁ!? く、車が停まってるー! ぷくくッ、きゃは、あははは! も、苦しい! ぼ、ボク、笑いすぎて死んじゃう!!」
「酒弱いなら無理して飲むなよ! 笑い上戸とかふざけんな!!」
そう、狛枝は異様なまでの笑い上戸だった。
店に入って30分もしないうちに出来上がり、会話もままならないくらい酔って笑い出した。
目に映る全てのものを指さして、ヒィヒィと痙攣するほど笑い転げる彼は、当然のように他の客の迷惑にしかならなかった。
日向は慌てて二人分の会計を済ませ、前後不覚の狛枝を背負って夜の街へと逃げ出した。
そして現在、この有様である。
狛枝は聞いていてこちらが苦しくなるほど爆笑している状態だ。苦しそうにのたうつ感触が、背中から嫌というほど伝わって来る。
このまま騒ぎ続ければ、近隣住民が警察に通報しかねないのではないか。
(こんなことなら、やっぱり合コン行っとけばよかったか……)
そうしていれば、今ごろ可愛い女子の一人くらいはお持ち帰りできていたかもしれない。晴れて童貞を卒業できていたかもしれないのに。
後の祭り。そんな言葉が狛枝の身体と一緒に重くのしかかる。それがバタバタと暴れて身を震わせているのだから、堪ったもんじゃない。
後悔すればするほど、足取りもどんどん重くなっていった。
(ほんっと……最悪だな……)
「ふふふ、うふ、あはは、ねぇ~、ひにゃたクゥ~ン」
長いことずっと爆笑し続けていた狛枝は、ようやく少し落ち着いたのか、ぐったりと日向の背に身を預けながらそれでもクスクスと笑っている。
首に両腕が絡まり、頭部に頬ずりされる感触にウンザリしながらも、「はいはい」と返事をしてやると、嬉しそうに「んふふ」と鼻にかかったような声が聞こえた。
「楽しいねぇひにゃたクン」
「そうかよ。俺は楽しくないけどな」
「あは、ボクねぇ、すっごく頑張っちゃったよぉ」
「なにをだよ」
「メールだよぉ。ひにゃたクンにメールするの、すごーく怖かったぁ」
「……そりゃどうもな」
「ねぇ~、褒めてよぉ~、ボクいい子だったでしょ~?」
酔うとその人間の本性が出る、なんてよく言ったものだ。
狛枝は日向の頭部にグリグリと顔を擦りつけながら、甘えた口調で「褒めて褒めて」と繰り返す。
酒の力ですっかり仮面が剥がれ落ちた狛枝は、まるで小さな駄々っ子だ。
自然体でリラックスしてほしいとは思ったが、まさかここまでとは。
それにしても、日向の予想はいっそ気持ちがいいくらい当たっていたらしい。
やっぱり彼は相当の勇気を振り絞ってメールを寄越したようだ。携帯の画面を見つめて、青くなったり赤くなったりしながら打ち震える狛枝の姿まで、容易に想像ができてしまう。
出会いのチャンスを逃した上に、こんな面倒なヤツの世話をする羽目になってしまった不運を嘆いていたはずなのに。なぜか後悔が薄れていくのを感じる。
すっかり絆されていることを自覚しながら、日向は苦笑した。
「えらかったな、いい子だったな」
「んふ、うん。もっと褒めていいんだよ~」
「えらいえらい。狛枝はえらいよ」
「あはは、ひにゃたクン大好き~」
「はいはい、ありがとな」
ふわふわの癖毛に頬をくすぐられると、不思議と胸の内側までくすぐられているような気分になった。
たった一度ピンチを救ってやっただけなのに、随分と懐かれてしまったものだと思う。
もちろん、左右田の誘いを蹴ったことはいまだに悔やまれる。けれどこんな風に狛枝の無防備な声を聞いているうちに、やっぱりこれでよかったのだと確信する。
ついさっきまであれほど重たいと思っていた狛枝の身体さえ、軽く思えてきてしまうから現金な話だ。
「ふふ、あはははははっ!」
「お前なぁ、もう笑うの禁止。静かにしろって」
「だぁって~」
日向の身体の両脇で、狛枝の膝から下がブラブラと揺れる。
「靴がないんだもんー」
「は?」
「ぷっ! あははは! ボクの靴、どっか行っちゃった! ふふふ、あはは!」
思わず歩みを止めて、狛枝の足先を見る。確かにない。靴がない。
脱げかけの靴下がぷらぷらとぶら下がっているだけで、ご丁寧に両方ともすっかり無くなっていた。
「お、お前! いつの間に脱いだんだよ!? どこで落とした!?」
「そんなのわっかんないよぉ~! 最っ高に楽しいねぇ~!」
「だから俺は楽しくないっての!!」
「…………」
「……おい? 狛枝?」
「…………スー」
……。
…………。
………………え?
なんなんだこいつは。
散々笑って、はしゃいで、甘えて。プッツリと糸が切れたように、唐突に眠りに落ちてしまうなんて。
酔っ払いをまともに相手にすればバカを見る。それはわかっていることだけど。
「信じられない……」
規則正しい寝息を耳元に感じながら、日向は愕然とするより他になかった。
同時に、もう知るかという気持ちになってくる。
どうせ困るのは狛枝なのだし。とにかく、一刻も早くこいつを送り届けて家に帰りたい。
そんなことを考えて、ふと、日向はあることに気がついた。
「……こいつの家、どこだ……?」
頭部をガツンと叩かれたような衝撃を受ける。
そうだ、日向は彼の連絡先は知っていても、どこに住んでいるのかまでは知らないのだった。
思えばこの住宅街だって、日向の暮らすアパートへと続く道でしかない。爆笑している狛枝に圧倒されるばかりで、何も考えていなかった。
「お、おい、起きろ狛枝」
「ん~……こまどり姉妹~……」
「頼む、起きてくれ」
「スー……スー……」
「……嘘だろ?」
なぜ、どうして。
本当なら、今ごろは左右田の誘いで合コンに行っているはずだった。
頭数を揃えたいだけという理由は少し癪だが、あわよくば人生初の彼女をゲットできるかもしれない、絶好のチャンスだった。
それを棒に振ってまで狛枝を優先したのは日向で、彼には何の罪もない。
わかっている。よくわかっているのだが。
「なんで……お前を持ち帰らなきゃいけないんだよ……!!」
ツイてないのは、狛枝ではなく自分の方だったのかもしれない。
日向は少しだけ泣きたいような、情けない気持ちになりながら、文字通り狛枝を自宅へと持ち帰る羽目になってしまった。
←戻る ・ 次へ→