2025/09/18 Thu 【結婚しようよ】 *日向の家に通い妻状態の無職、狛枝 狛枝と付き合うようになってすぐのこと。 エプロン姿で髪を結い、ボロアパートの狭い台所に立っている狛枝の後姿を眺めながら、日向はなんとなく問いかけてみた。 「そういや狛枝って、普段はなにをしてるんだ?」 「んー? なにって?」 「最近ずっとこの部屋に通い詰めだろ? 学校とか、大丈夫なのか?」 畳に胡坐をかく日向をくるりと振り返って、お玉を手にした狛枝は目をぱちくりとさせている。何かおかしなことを聞いてしまっただろうか。 だが、実際のところ日向は彼が普段なにをしているのかを全く知らない。少し前に狛枝の家で部屋飲みをしたのだが、足を踏み入れるのも躊躇うほど洒落た高級マンションだった。 彼は両親が他界しており、莫大な遺産を相続したという話はそのときに聞いた。だから日向のようにバイトを入れる必要はないだろうが、学校へは行っていないのだろうか。 「あれ、言ってなかったっけ?」 「聞いてないぞ」 「ボク、無職のプー太郎だよ」 「無職? 学生でもないってことか?」 そう、と狛枝が頷く。 「誤解しないでほしいのは、決してニートではないということだよ」 「俺にはニートとプー太郎の違いがわからないんだが」 「ニートは勉強する気も働く気もなくてフラフラしている人のこと。プー太郎っていうのは、働く意志はあるけど働けない人のこと。ウィキペディアにもそう書いてあるよ。ここテストに出るからね」 「出ねぇよ」 短く突っ込みを入れながら、日向は立ち上がると台所へ足を踏み入れ、夕飯の支度を再開する狛枝の隣に並んだ。 味噌汁を作っていた彼は、小皿にお玉で汁を軽く注いで日向に手渡してくる。 「どうかな?」 「ん、美味い。いい感じだ」 「あは、よかった」 今夜は鯖の蒲焼とほうれん草の胡麻和えだよ、と楽しげに言って笑う狛枝は、こうしてしょっちゅう部屋に来ては食事の支度や掃除をしてくれる。 本人はパンを主食としているらしいが、日向が和食派であることを知ると毎回手の込んだ料理を作ってくれるようになった。 おかげで最近、少し太った。こういうのを幸せ太りと呼ぶのだろうか。 それにしても、と日向は思う。狛枝がプー太郎ということは、彼は働く意志があっても働けない、ということになる。なかなか思うような仕事にありつけないでいるのか、それともどこか身体が悪いのだろうか。 「なぁ、お前って何か働けない理由でもあるのか?」 問えば、狛枝はコンロの火を止めながらしょんぼりと俯いてしまう。やはり、これはなにか事情がありそうだ。 「話せば長くなるんだけど……」 「うん」 「以前のボクはね、空っぽというか無気力というか、ただなんとなく生きてたんだ。やりたいこともなくて、毎日フラフラしてた。だけど、このままじゃいけないと思って、色々なところでバイトしてみたんだ」 でも、と狛枝はさらに表情を曇らせる。 「どこに行ってもすぐに駄目になるんだ……」 「駄目?」 「うん。コンビニは入って一週間で潰れたし、クリーニング屋さんは半月で潰れたでしょ、引っ越し屋さんは体力がなさすぎて、ボク自身が一ヶ月で潰れたんだよね。あ、ちなみに疲労骨折で入院したよ」 「そ、それはただの偶然じゃないのか?」 「もちろん他にもあるよ。お花屋さんとか、ケーキ屋さんとか、本屋さんとか。だけど半年も持たないんだ。オーナーが首を吊ったり、お店が全焼したり、食中毒を出したり……まだまだあるけど、全部聞きたい?」 「……いや」 「だんだんね、ボクが原因なんじゃないかって思うようになってさ。死神とか厄病神でも背負ってるのかな……」 なぜか日向は否定してやることができなかった。 偶然と呼ぶにはあまりにも重なりすぎている。引っ越し屋に関しては明らかに狛枝の選択ミスだが。 かといって無言でいるのもどうかと思い、頭の中であれこれ言葉を探していると、狛枝は握った拳を流し台の縁に叩きつけた。 「だけどね、ボクはあるとき気がついたんだ!」 「お、おう」 「ボク、別にお金に困ってない……ってね!」 「まぁ……確かに」 「人並みに労働しようなんて考えが、そもそもの間違いだったんだ。ボクなんか結局、社会に貢献するどころか害悪でしかないんだよ。果てしなく最低で最悪で愚かで劣悪で、何をやってもダメな人間なんだからさ……」 彼自身に制御できない超自然的な力が働いているのだとしたら、それはどうしようもない問題だと思うのだが。 狛枝はどこかやさぐれたような力ない笑みを浮かべていたが、すぐに「でもね」と顔を上げる。 「日向クンとお付き合いするようになってからは、何事もなく暮らせてるんだよね! 洗濯機も壊れないし、怖い人に絡まれてカツアゲされることもなくなったし、工事現場の側を通っても鉄柱が落ちてこなくなったよ!」 「なんかもうお前って生きてることがもはや奇跡だよな」 「だからさ! 今のボクなら、今度こそ社会に飛び出して行けるんじゃないかな!? なんなら今からでも大学に行くっていう選択肢もあるよね!」 両手を握りしめ、天を仰ぐ狛枝の瞳は大きな希望に光り輝いていた。 まだ若いし、いくらでも好きな道へ進むことはできるだろう。いや、何かを始めることに遅いも早いもない。狛枝が思う通りに好きなだけ人生を謳歌すればいい。 というのは建前で、日向は腕を組むと「うぅん」と唸った。 「あれ? 日向クン? 何か言いたげだね?」 「仕事なら、俺が紹介するぞ」 「え? なになに?」 日向は狛枝の両肩を掴むと真っ直ぐに向き合った。 「俺のために毎日美味い飯作って、俺がいない間この部屋を守って、俺にいってらっしゃいとおかえりと、おはようとおやすみを言う仕事」 狛枝は目を丸く見開いて、長い睫毛を躍らせながら幾度か瞬きをした。そして、徐々に首から額にかけてを真っ赤に染め上げる。 「そ、それはボクに、専業主婦になれ……っていう、その、プロポーズ、なのかな?」 「そうだ。永久就職だぞ」 できることなら、狛枝を外に出したくないというのが本音だった。おかしな虫がついたりしたら堪らないし、何より、エプロン姿で髪を結い、料理をしている後姿を見ながら、つくづく感じていたことがある。 こんな可愛い嫁が、毎日家にいて自分の帰りを待っている暮らしは、どれほど幸せだろうかと。 今だって狛枝には合鍵を渡していて、ほとんど毎日のようにここに通っているから、似たようなものかもしれない。けれど、彼には彼のれっきとした家があって、泊まり込むのは週末だけだ。けれど一緒に暮らしてしまえば、なにも問題はなくなるのだった。 我ながら独占欲の塊だとは思うし、我儘だと思う。それでも、日向は赤くなって俯く狛枝の顔をじっと見つめて答えを待った。 すると、彼はおずおずと潤んだ視線を上向けた。 「一つだけ……いい?」 「おう」 「ここじゃなくて、ボクの部屋で一緒に暮らす……っていうのは、駄目?」 「それは俺が婿に行くパターンのやつか」 考え方が古いと言われてしまいそうだが、日向の頭には狛枝を嫁としてここに迎え入れることしかなかった。この古臭いボロアパートで身を寄せ合って、たまに赤い手拭いをマフラーにして、小さな石鹸をカタカタ鳴らしながら横丁の風呂屋へ行ってみたりなんかして。 思いっきり昭和の名曲を思い描いていた日向は、狛枝の提案に素直に頷くことができなかった。 「駄目、かな……」 「いや、駄目ではないけど」 結局は一緒に暮らすのだから同じことかと妥協しかける日向に、狛枝が最後の一押しを仕掛けてくる。それは日向の迷いを一瞬で吹き飛ばすほどの威力があった。 「だってここ壁が薄いから……エッチのとき、あんまり声が出せないんだもん」 「よし、すぐにここを引き払おう」 「早い! その決断力、流石だよ日向クン!」 「まぁな」 ふっと笑って悦に浸る日向の首に、狛枝が思いっきり抱きついてきた。それをしっかりと受け止め、薄い身体を抱きしめる。狛枝の髪や身体からは甘い石鹸の香りがして、叫び出したいくらいの愛しさに心が震えた。 (全部、俺のだ) 腕の中の柔らかな笑顔も、髪も、匂いも。 「ボク、いい奥さんになれるように頑張るからね」 胸をくすぐる可愛らしい誓いの言葉さえ。 何もかもが愛しくて、日向は狛枝が苦しいと言って肩を叩くまでずっと、強く強く抱きしめ続けた。 ←戻る ・ Wavebox👏
*日向の家に通い妻状態の無職、狛枝
狛枝と付き合うようになってすぐのこと。
エプロン姿で髪を結い、ボロアパートの狭い台所に立っている狛枝の後姿を眺めながら、日向はなんとなく問いかけてみた。
「そういや狛枝って、普段はなにをしてるんだ?」
「んー? なにって?」
「最近ずっとこの部屋に通い詰めだろ? 学校とか、大丈夫なのか?」
畳に胡坐をかく日向をくるりと振り返って、お玉を手にした狛枝は目をぱちくりとさせている。何かおかしなことを聞いてしまっただろうか。
だが、実際のところ日向は彼が普段なにをしているのかを全く知らない。少し前に狛枝の家で部屋飲みをしたのだが、足を踏み入れるのも躊躇うほど洒落た高級マンションだった。
彼は両親が他界しており、莫大な遺産を相続したという話はそのときに聞いた。だから日向のようにバイトを入れる必要はないだろうが、学校へは行っていないのだろうか。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてないぞ」
「ボク、無職のプー太郎だよ」
「無職? 学生でもないってことか?」
そう、と狛枝が頷く。
「誤解しないでほしいのは、決してニートではないということだよ」
「俺にはニートとプー太郎の違いがわからないんだが」
「ニートは勉強する気も働く気もなくてフラフラしている人のこと。プー太郎っていうのは、働く意志はあるけど働けない人のこと。ウィキペディアにもそう書いてあるよ。ここテストに出るからね」
「出ねぇよ」
短く突っ込みを入れながら、日向は立ち上がると台所へ足を踏み入れ、夕飯の支度を再開する狛枝の隣に並んだ。
味噌汁を作っていた彼は、小皿にお玉で汁を軽く注いで日向に手渡してくる。
「どうかな?」
「ん、美味い。いい感じだ」
「あは、よかった」
今夜は鯖の蒲焼とほうれん草の胡麻和えだよ、と楽しげに言って笑う狛枝は、こうしてしょっちゅう部屋に来ては食事の支度や掃除をしてくれる。
本人はパンを主食としているらしいが、日向が和食派であることを知ると毎回手の込んだ料理を作ってくれるようになった。
おかげで最近、少し太った。こういうのを幸せ太りと呼ぶのだろうか。
それにしても、と日向は思う。狛枝がプー太郎ということは、彼は働く意志があっても働けない、ということになる。なかなか思うような仕事にありつけないでいるのか、それともどこか身体が悪いのだろうか。
「なぁ、お前って何か働けない理由でもあるのか?」
問えば、狛枝はコンロの火を止めながらしょんぼりと俯いてしまう。やはり、これはなにか事情がありそうだ。
「話せば長くなるんだけど……」
「うん」
「以前のボクはね、空っぽというか無気力というか、ただなんとなく生きてたんだ。やりたいこともなくて、毎日フラフラしてた。だけど、このままじゃいけないと思って、色々なところでバイトしてみたんだ」
でも、と狛枝はさらに表情を曇らせる。
「どこに行ってもすぐに駄目になるんだ……」
「駄目?」
「うん。コンビニは入って一週間で潰れたし、クリーニング屋さんは半月で潰れたでしょ、引っ越し屋さんは体力がなさすぎて、ボク自身が一ヶ月で潰れたんだよね。あ、ちなみに疲労骨折で入院したよ」
「そ、それはただの偶然じゃないのか?」
「もちろん他にもあるよ。お花屋さんとか、ケーキ屋さんとか、本屋さんとか。だけど半年も持たないんだ。オーナーが首を吊ったり、お店が全焼したり、食中毒を出したり……まだまだあるけど、全部聞きたい?」
「……いや」
「だんだんね、ボクが原因なんじゃないかって思うようになってさ。死神とか厄病神でも背負ってるのかな……」
なぜか日向は否定してやることができなかった。
偶然と呼ぶにはあまりにも重なりすぎている。引っ越し屋に関しては明らかに狛枝の選択ミスだが。
かといって無言でいるのもどうかと思い、頭の中であれこれ言葉を探していると、狛枝は握った拳を流し台の縁に叩きつけた。
「だけどね、ボクはあるとき気がついたんだ!」
「お、おう」
「ボク、別にお金に困ってない……ってね!」
「まぁ……確かに」
「人並みに労働しようなんて考えが、そもそもの間違いだったんだ。ボクなんか結局、社会に貢献するどころか害悪でしかないんだよ。果てしなく最低で最悪で愚かで劣悪で、何をやってもダメな人間なんだからさ……」
彼自身に制御できない超自然的な力が働いているのだとしたら、それはどうしようもない問題だと思うのだが。
狛枝はどこかやさぐれたような力ない笑みを浮かべていたが、すぐに「でもね」と顔を上げる。
「日向クンとお付き合いするようになってからは、何事もなく暮らせてるんだよね! 洗濯機も壊れないし、怖い人に絡まれてカツアゲされることもなくなったし、工事現場の側を通っても鉄柱が落ちてこなくなったよ!」
「なんかもうお前って生きてることがもはや奇跡だよな」
「だからさ! 今のボクなら、今度こそ社会に飛び出して行けるんじゃないかな!? なんなら今からでも大学に行くっていう選択肢もあるよね!」
両手を握りしめ、天を仰ぐ狛枝の瞳は大きな希望に光り輝いていた。
まだ若いし、いくらでも好きな道へ進むことはできるだろう。いや、何かを始めることに遅いも早いもない。狛枝が思う通りに好きなだけ人生を謳歌すればいい。
というのは建前で、日向は腕を組むと「うぅん」と唸った。
「あれ? 日向クン? 何か言いたげだね?」
「仕事なら、俺が紹介するぞ」
「え? なになに?」
日向は狛枝の両肩を掴むと真っ直ぐに向き合った。
「俺のために毎日美味い飯作って、俺がいない間この部屋を守って、俺にいってらっしゃいとおかえりと、おはようとおやすみを言う仕事」
狛枝は目を丸く見開いて、長い睫毛を躍らせながら幾度か瞬きをした。そして、徐々に首から額にかけてを真っ赤に染め上げる。
「そ、それはボクに、専業主婦になれ……っていう、その、プロポーズ、なのかな?」
「そうだ。永久就職だぞ」
できることなら、狛枝を外に出したくないというのが本音だった。おかしな虫がついたりしたら堪らないし、何より、エプロン姿で髪を結い、料理をしている後姿を見ながら、つくづく感じていたことがある。
こんな可愛い嫁が、毎日家にいて自分の帰りを待っている暮らしは、どれほど幸せだろうかと。
今だって狛枝には合鍵を渡していて、ほとんど毎日のようにここに通っているから、似たようなものかもしれない。けれど、彼には彼のれっきとした家があって、泊まり込むのは週末だけだ。けれど一緒に暮らしてしまえば、なにも問題はなくなるのだった。
我ながら独占欲の塊だとは思うし、我儘だと思う。それでも、日向は赤くなって俯く狛枝の顔をじっと見つめて答えを待った。
すると、彼はおずおずと潤んだ視線を上向けた。
「一つだけ……いい?」
「おう」
「ここじゃなくて、ボクの部屋で一緒に暮らす……っていうのは、駄目?」
「それは俺が婿に行くパターンのやつか」
考え方が古いと言われてしまいそうだが、日向の頭には狛枝を嫁としてここに迎え入れることしかなかった。この古臭いボロアパートで身を寄せ合って、たまに赤い手拭いをマフラーにして、小さな石鹸をカタカタ鳴らしながら横丁の風呂屋へ行ってみたりなんかして。
思いっきり昭和の名曲を思い描いていた日向は、狛枝の提案に素直に頷くことができなかった。
「駄目、かな……」
「いや、駄目ではないけど」
結局は一緒に暮らすのだから同じことかと妥協しかける日向に、狛枝が最後の一押しを仕掛けてくる。それは日向の迷いを一瞬で吹き飛ばすほどの威力があった。
「だってここ壁が薄いから……エッチのとき、あんまり声が出せないんだもん」
「よし、すぐにここを引き払おう」
「早い! その決断力、流石だよ日向クン!」
「まぁな」
ふっと笑って悦に浸る日向の首に、狛枝が思いっきり抱きついてきた。それをしっかりと受け止め、薄い身体を抱きしめる。狛枝の髪や身体からは甘い石鹸の香りがして、叫び出したいくらいの愛しさに心が震えた。
(全部、俺のだ)
腕の中の柔らかな笑顔も、髪も、匂いも。
「ボク、いい奥さんになれるように頑張るからね」
胸をくすぐる可愛らしい誓いの言葉さえ。
何もかもが愛しくて、日向は狛枝が苦しいと言って肩を叩くまでずっと、強く強く抱きしめ続けた。
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