2025/09/19 Fri 白猫、懐いてみるの巻 それから半月ほどがあっという間に経過していた。 ファイは相変わらず大男の部屋に世話になっている。 今ではもう包帯も取れて、外にも出られるようになった。 日中、男が出かけるときに一緒に外へ出て、古ぼけたその建物(アパートというらしい)が見える範囲で散歩が出来るくらいには、この世界にも慣れて来た。 男と暮らし、少しだけ行動を共にしたりするうちに、なんとなく色々と分かって来たことがある。 まず男の名前は黒鋼。 見た目だけでなく名前まで黒っぽくて硬そうだったので、ファイは彼のことを心の中で黒たんと、せめて可愛く呼ぶことにした。 黒鋼は日中、ガッコウという場所に行ったり、行かなかったりする。半日程度で戻ることもあれば、日が暮れる頃に戻ることもあった。 ガッコウへ行かない日の昼間はどこかへフラリと出かけたり、難しそうな本を読んでいたり、パソコンというものに向かって何かしていたりする。寝る前には筋トレもする。 そして週のうちの半分以上は夜に仕事をしに行く。バイトというものらしい。その間、ファイはポツンと留守番だった。 もしかしたら、そのバイト先とやらでファイを拾ってくれたのかもしれない。 彼の暮らすオンボロの建物には他にも幾つか部屋があって、そこにはそれぞれ赤の他人が住んでいる。 天気のいい日は黒鋼と共に家を出て、そして帰って来るとき一緒に部屋に入るファイだったが、出入りをする瞬間、彼は辺りを注意深く見渡してからファイを外へ出す。 そういえば初めて会ったときに「ここは動物禁止」と彼が言っていたので、きっと見つかると不味いのだろう。 外を散歩していると、高確率で他の人間に遭遇する。 最初こそ恐ろしかったものの、ほとんどの場合は素通りするか、ちょっと目を向けて「猫ちゃーん」と声をかけられる程度だった。 車や小さな子供と出会うと、サッとアパートの敷地内に逃げ込めば難を逃れることが可能で、ファイのことを野良だと思っている住人が、たまに食べ物をくれたりもした。 そういったことに気をつけていれば、人間の世界はスリルがあって、優しい人もいて、それなりに温かい場所もあって暮らしやすい。 割と今の生活が気に入ってしまったファイは、また迷子になってはいけないからと理由をつけて、スタート地点探しを先延ばしにしているのだった。 +++ 猫は基本的に夜行性らしい。 だがファイのいた猫の国はいつでも昼間のような明るさだったし、朝や夜といった区切りはなかった。好きなときに寝て、好きなときに遊んだりしていたから、あまりよく分からない。 だが最近は、24時間という区切りの中で生きている人間と共に暮らすようになったせいか、自分の活動時間を把握するようになった。 と、いうより、共に生活している人間の時間に合わせるようになったという方が正しい。 だから夜は寝る。 黒鋼がバイトへ行くと暇だし、寂しいので寝るしかすることがない。 逆に彼がいる夜も、ある程度の時間になると寝てしまうため、ファイも寝る。 今夜はバイトが休みらしい黒鋼は、食事をしたり筋トレをしたりお風呂に入ったり、テレビを眺めたりしているうちに眠ってしまった。 ちなみにこのテレビというものも、最初はかなり驚いた。テレビの裏に回って、人がいないか確かめたりもしたものだ。 「黒たん、寝たのー?」 テーブル脇に敷かれた布団の中で、静かに眠っている黒鋼に小さく声をかけてみた。 基本的にファイは来たときからずっと、部屋の隅の毛布で眠っていた。 そして普段、必要以上に黒鋼が構ってくることがないこともあって、あまり近くに寄ったことがない。まだほんの少しだけ怖い顔に慣れないことと、遠慮のようなものがあった。 だがその日はなんとなく、傍で顔を見てみようと思った。ここでの暮らしに慣れてくるほどに、ひとり寝が寂しくなってきたのかもしれない。 猫の国ではいつもユゥイのベッドに入り込んでいたから、少し人恋しい。 なにより、週の半分以上は夜も不在の黒鋼がいることが嬉しかったのだ。 「黒たーん」 横向きで眠っている黒鋼は、少し眉を動かしただけで目を覚ますことはなかった。 近づいて、すんすんと匂いを嗅ぐ。知らない匂いは、この短い期間でよく知る匂いに変わった。 ユゥイのものとは違う、なんというか、男くさいとでもいうのか。ファイはこの匂いが嫌いではない。 黒鋼の鼻先に濡れた鼻を押し付けてみると、むっと眉間の皺が濃くなった。ちょっとビックリしたけれど、ファイは逃げ出すことなく、さらに鼻先をつんつんと押し付けた。 黒鋼が起きないのをいいことに、今度はゾリっと舐めてみる。 せっかく気持ちよく眠っているのだし、このまま毛繕いをしてあげよう。(毛は生えていないが) いつもご飯をくれてありがとう、助けてくれてありがとう、という気持ちを込めて、ファイは喉を鳴らしながら黒鋼の鼻をざらざらの舌でたくさん舐めてあげた。 だが、ファイにとっては感謝のつもりでも、どうやら黒鋼にとっては迷惑この上なかったようだ。 「あー、なんだおまえ……」 ぎゅっと顔の中心に皺を寄せて、唸るように声を発した黒鋼に驚く間もなく、大きな手に身体をすくわれた。 「にゃ!」 そのまま一気に布団の中に引きずり込まれた。 黒鋼の折り曲げた身体の、ちょうど腹の部分にすっぽりハマるようにして収まる。 彼の匂いがより強く感じられて、何よりその温かさに目がとろんとしてきてしまう。 香りも感触も全く違うけれど、ファイはユゥイを思い出して、子猫のように両手をにぎにぎとさせた。一度は止まった喉も、再び無意識に鳴っていた。 身体に添えられている黒鋼の手を舐めて、ぐりぐりと頭を押し付けると何度か撫でられた。毛布なんかよりずっと温かくて気持ちよくて、ファイはそのまま眠りについた。 やっぱりまだもう少しくらいは、このままここで暮らそうかな、なんて思いながら。 +++ 朝、黒鋼が起きるとファイも目を覚ました。 「おはよー」 背伸びをしながら声をかけると、布団の上に胡坐をかいた黒鋼に頭を撫でられた。喉を鳴らすと片手ですくい上げられて、足の間に抱きこまれる。 彼もようやく少しは猫の扱いに慣れてきたのだろうか。 けれどやっぱり顔は無表情で、少し怖い。だがそれも気にならなくなってきた自分に気がついた。 (見慣れてくればまぁまぁ男前だよにゃー。ユゥイには負けるけど!) どこぞの世界のイケメンと比較されているとも知らず、黒鋼は顔を顰めて溜息をついた。 「実はな……そろそろ大家が気づきはじめてんだよ……」 「にゃ?」 「ここはペット禁止だからな……」 「にゃん? おーやってなぁに?」 黒鋼は無邪気に見上げるファイをじっと見つめて、何か考え込んでいるようだった。 『おーや』とは一体なんなのか。人の名前なのだろうか。ファイは小さく首を傾げた。 「なにか悩んでるのー?」 「……色々あたってみるか」 「にゃー?」 ファイは黒鋼の胸に両手をついて伸びあがった。何か悩んでいるらしいので、慰めるつもりで顎の辺りを舐めてみる。 難しい顔をしていた黒鋼が、少しだけ笑ったのが嬉しかった。 「にゃー!」 「心配すんな。その辺に投げ出すなんてことはしねぇ」 「?」 「腹減ったか?」 「にゃん!」 黒鋼はファイを足の間からどかすと「待ってろ」と言って立ち上った。 ←戻る ・ 次へ→
それから半月ほどがあっという間に経過していた。
ファイは相変わらず大男の部屋に世話になっている。
今ではもう包帯も取れて、外にも出られるようになった。
日中、男が出かけるときに一緒に外へ出て、古ぼけたその建物(アパートというらしい)が見える範囲で散歩が出来るくらいには、この世界にも慣れて来た。
男と暮らし、少しだけ行動を共にしたりするうちに、なんとなく色々と分かって来たことがある。
まず男の名前は黒鋼。
見た目だけでなく名前まで黒っぽくて硬そうだったので、ファイは彼のことを心の中で黒たんと、せめて可愛く呼ぶことにした。
黒鋼は日中、ガッコウという場所に行ったり、行かなかったりする。半日程度で戻ることもあれば、日が暮れる頃に戻ることもあった。
ガッコウへ行かない日の昼間はどこかへフラリと出かけたり、難しそうな本を読んでいたり、パソコンというものに向かって何かしていたりする。寝る前には筋トレもする。
そして週のうちの半分以上は夜に仕事をしに行く。バイトというものらしい。その間、ファイはポツンと留守番だった。
もしかしたら、そのバイト先とやらでファイを拾ってくれたのかもしれない。
彼の暮らすオンボロの建物には他にも幾つか部屋があって、そこにはそれぞれ赤の他人が住んでいる。
天気のいい日は黒鋼と共に家を出て、そして帰って来るとき一緒に部屋に入るファイだったが、出入りをする瞬間、彼は辺りを注意深く見渡してからファイを外へ出す。
そういえば初めて会ったときに「ここは動物禁止」と彼が言っていたので、きっと見つかると不味いのだろう。
外を散歩していると、高確率で他の人間に遭遇する。
最初こそ恐ろしかったものの、ほとんどの場合は素通りするか、ちょっと目を向けて「猫ちゃーん」と声をかけられる程度だった。
車や小さな子供と出会うと、サッとアパートの敷地内に逃げ込めば難を逃れることが可能で、ファイのことを野良だと思っている住人が、たまに食べ物をくれたりもした。
そういったことに気をつけていれば、人間の世界はスリルがあって、優しい人もいて、それなりに温かい場所もあって暮らしやすい。
割と今の生活が気に入ってしまったファイは、また迷子になってはいけないからと理由をつけて、スタート地点探しを先延ばしにしているのだった。
+++
猫は基本的に夜行性らしい。
だがファイのいた猫の国はいつでも昼間のような明るさだったし、朝や夜といった区切りはなかった。好きなときに寝て、好きなときに遊んだりしていたから、あまりよく分からない。
だが最近は、24時間という区切りの中で生きている人間と共に暮らすようになったせいか、自分の活動時間を把握するようになった。
と、いうより、共に生活している人間の時間に合わせるようになったという方が正しい。
だから夜は寝る。
黒鋼がバイトへ行くと暇だし、寂しいので寝るしかすることがない。
逆に彼がいる夜も、ある程度の時間になると寝てしまうため、ファイも寝る。
今夜はバイトが休みらしい黒鋼は、食事をしたり筋トレをしたりお風呂に入ったり、テレビを眺めたりしているうちに眠ってしまった。
ちなみにこのテレビというものも、最初はかなり驚いた。テレビの裏に回って、人がいないか確かめたりもしたものだ。
「黒たん、寝たのー?」
テーブル脇に敷かれた布団の中で、静かに眠っている黒鋼に小さく声をかけてみた。
基本的にファイは来たときからずっと、部屋の隅の毛布で眠っていた。
そして普段、必要以上に黒鋼が構ってくることがないこともあって、あまり近くに寄ったことがない。まだほんの少しだけ怖い顔に慣れないことと、遠慮のようなものがあった。
だがその日はなんとなく、傍で顔を見てみようと思った。ここでの暮らしに慣れてくるほどに、ひとり寝が寂しくなってきたのかもしれない。
猫の国ではいつもユゥイのベッドに入り込んでいたから、少し人恋しい。
なにより、週の半分以上は夜も不在の黒鋼がいることが嬉しかったのだ。
「黒たーん」
横向きで眠っている黒鋼は、少し眉を動かしただけで目を覚ますことはなかった。
近づいて、すんすんと匂いを嗅ぐ。知らない匂いは、この短い期間でよく知る匂いに変わった。
ユゥイのものとは違う、なんというか、男くさいとでもいうのか。ファイはこの匂いが嫌いではない。
黒鋼の鼻先に濡れた鼻を押し付けてみると、むっと眉間の皺が濃くなった。ちょっとビックリしたけれど、ファイは逃げ出すことなく、さらに鼻先をつんつんと押し付けた。
黒鋼が起きないのをいいことに、今度はゾリっと舐めてみる。
せっかく気持ちよく眠っているのだし、このまま毛繕いをしてあげよう。(毛は生えていないが)
いつもご飯をくれてありがとう、助けてくれてありがとう、という気持ちを込めて、ファイは喉を鳴らしながら黒鋼の鼻をざらざらの舌でたくさん舐めてあげた。
だが、ファイにとっては感謝のつもりでも、どうやら黒鋼にとっては迷惑この上なかったようだ。
「あー、なんだおまえ……」
ぎゅっと顔の中心に皺を寄せて、唸るように声を発した黒鋼に驚く間もなく、大きな手に身体をすくわれた。
「にゃ!」
そのまま一気に布団の中に引きずり込まれた。
黒鋼の折り曲げた身体の、ちょうど腹の部分にすっぽりハマるようにして収まる。
彼の匂いがより強く感じられて、何よりその温かさに目がとろんとしてきてしまう。
香りも感触も全く違うけれど、ファイはユゥイを思い出して、子猫のように両手をにぎにぎとさせた。一度は止まった喉も、再び無意識に鳴っていた。
身体に添えられている黒鋼の手を舐めて、ぐりぐりと頭を押し付けると何度か撫でられた。毛布なんかよりずっと温かくて気持ちよくて、ファイはそのまま眠りについた。
やっぱりまだもう少しくらいは、このままここで暮らそうかな、なんて思いながら。
+++
朝、黒鋼が起きるとファイも目を覚ました。
「おはよー」
背伸びをしながら声をかけると、布団の上に胡坐をかいた黒鋼に頭を撫でられた。喉を鳴らすと片手ですくい上げられて、足の間に抱きこまれる。
彼もようやく少しは猫の扱いに慣れてきたのだろうか。
けれどやっぱり顔は無表情で、少し怖い。だがそれも気にならなくなってきた自分に気がついた。
(見慣れてくればまぁまぁ男前だよにゃー。ユゥイには負けるけど!)
どこぞの世界のイケメンと比較されているとも知らず、黒鋼は顔を顰めて溜息をついた。
「実はな……そろそろ大家が気づきはじめてんだよ……」
「にゃ?」
「ここはペット禁止だからな……」
「にゃん? おーやってなぁに?」
黒鋼は無邪気に見上げるファイをじっと見つめて、何か考え込んでいるようだった。
『おーや』とは一体なんなのか。人の名前なのだろうか。ファイは小さく首を傾げた。
「なにか悩んでるのー?」
「……色々あたってみるか」
「にゃー?」
ファイは黒鋼の胸に両手をついて伸びあがった。何か悩んでいるらしいので、慰めるつもりで顎の辺りを舐めてみる。
難しい顔をしていた黒鋼が、少しだけ笑ったのが嬉しかった。
「にゃー!」
「心配すんな。その辺に投げ出すなんてことはしねぇ」
「?」
「腹減ったか?」
「にゃん!」
黒鋼はファイを足の間からどかすと「待ってろ」と言って立ち上った。
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