2025/09/19 Fri 白猫、女体を思い描くの巻 それから数日が過ぎた。 ファイは幾度試しても猫に戻れないままだった。 「なんでかなぁ……?」 畳みの上に胡坐をかいて腕を組み、うーんと首を傾げていると、黒鋼が朝の身支度を終えた。 「もう行くぞ」 「あっ! オレもオレもー!」 慌てて立ちあがって、一緒に玄関先へ行くと、黒鋼が鍵を手渡してくる。 「何度も言うが。てめぇは今は猫じゃねぇんだからな」 「うん」 「勝手に余所んちの庭に入ったり、知らねぇ奴にホイホイついて行くなよ」 「わーかってるよー。もう何度も聞いたよ」 「行っていいのはせいぜい公園までだ。あと戸締りは徹底しろ」 「はーい」 ファイは素直に返事をすると、ブカブカの靴を履く。黒鋼のお古だ。ブカブカでかなり歩きにくいが、外は裸足で歩けない。 服も大きいので、ジーンズを引きずらないように裾をまくっている。ウエストもだぼついていたが、ベルトという細長い皮でぎゅっと絞られた。尻尾を中に隠すことも忘れない。セーターの袖は指先まですっぽり隠れるので温かかった。 「おら、これ忘れんな」 黒鋼がニットの帽子をファイの頭にずっぽりとかぶせた。 そうそう、これで耳を隠さなければいけないのだった。 「ありがとー」 玄関から外へ出ると、ファイは黒鋼が見守る中で鍵を穴に差し込んでしっかりと回した。カチリと音がするのを聞いてから、ポケットの中に仕舞う。 そして黒鋼を見ると、彼は「よし」と言った。 一緒に階段を下りると、ファイはそのまま黒鋼について行く。朝の見送りをするためだった。 並んで歩くと、やっぱりまだ黒鋼の方が歩幅は大きかったけれど、猫の姿で歩くよりずっとゆったりついて行くことができた。 「ねぇねぇ、今日は帰るの遅いの?」 「そうでもねぇよ」 「今夜はバイトお休みだよねー」 「まぁな」 なんでもない会話をしながら歩く。前はファイが一方的に喋って、それが黒鋼に通じることはなかったけれど、今は違う。 それが嬉しくて、ついつい元の姿に戻れないことがどうでもよくなってしまうのだった。 黒鋼は元々お喋りではないし、猫でも人間でも、結局ファイばかりが喋っている。でもそれでよかった。通じない鳴き声より、通じる確かな言葉が黒鋼に届いていて、相槌をもらえることが何より幸せだと感じられるから。 「この辺にしとけ」 ある程度進むと、黒鋼が言った。ファイは素直に立ち止まりながらも唇を尖らせる。 「ちぇー。せっかく人間になったのに、やっぱりここまでなんだ」 「当たり前だ。外に出んの許してやってんだから、文句言うな」 「わかってるもん」 「じゃあな。ちゃんと昼飯食えよ」 「はいはい、いってらっしゃーい」 ぶぅ、と唇を尖らせながら、行ってしまう黒鋼の背を見送る。 けれどすぐに、まぁいっか、とファイは日課の散歩に出かけることにした。 +++ ファイは様々なことを黒鋼に教わった。 ご飯は箸を使わなければいけないし、これが上手く出来なくて、いつもフォークやスプーンを使っている。 顔を洗ったり歯を磨いたり、飲む以外で水と触れあわねばならない機会も、たくさんあった。 人間は本当に面倒くさい生き物だ。やることがいっぱいある。 だがその分、散歩をするには快適だった。 あのボス猫と遭遇しても、人間には猫のルールなど通じない。これまでは見かけると逃げたり隠れたりするのはこちらだったが、今は逆だ。 道で子供とすれ違ってもちょっかいをかけられないし、通りすがりに「こんにちは」などと挨拶をしてくる人間もいて、同じように返すのが楽しい。 もし誰かに話しかけられたりしたときは「ニホンゴ、ワカリマセン」と言え、と黒鋼に教えられた。 行動範囲はこれといって広がったわけではない。むしろ今まで通れた狭い場所などへは行けなくなったし、高いところにジャンプもできなくなった。 だからなんとなく近所をぶらりと散歩して、すぐに家に戻る。 むしろ猫だった頃よりも外にいる時間は減ったかもしれないが、いつも黒鋼が冷蔵庫に昼飯を用意してくれているので、テレビを見ながら食べるのがお気に入りだった。 見よう見真似で食べたあとの食器を洗って片したら、驚いた黒鋼に褒められた。とんでもなく嬉しかった。うっかり手を滑らせて皿を割りそうになったことは、もちろんファイだけの秘密にしておいた。 結局、学校という場所には行けないし、夜も留守番だけれど、どんな場所で何をしているのかを聞けば、黒鋼はなんでも話して聞かせてくれた。 全部は理解できなかったけれど、それで十分だ。今の生活は、なんだかんだで気に入っている。 何かとてつもなく大切なことを忘れているような気が、しないでもなかったが。 +++ 「でも、どうしても不満はあるんだよ」 夜。 布団に横たわりながらファイは呟いた。 「あ? なんだよ」 「不満だよ! 不満!」 がばっと起き上って、隣の布団を睨みつける。 人間は夜目がきかない。だからただの真っ黒な物体が、ぼんやりと見えるだけだった。 「なんでお布団別々なのー!?」 「当たり前だろ」 「当たり前じゃないよー!」 ファイは大声でそう言うと、布団から抜け出して隣へ移動した。 「バカ、来んな」 「やだー! 前みたいにくっついて寝るのー!」 「狭いっつってんだろ!」 「くっついてれば平気だって!」 「そういう問題じゃねぇんだよ!」 じゃあどういう問題なのか、ファイには分からない。 ここ最近はいつもこうだ。 掛け布団をめくって中に強引に身体を潜り込ませようとするファイを、黒鋼は手や足を使って押し出そうとする。 先日は思い切り顔面を蹴られるという事故が発生した。だが懲りない。 「ね、ね、黒たん……オレ寂しいの。黒たんに抱っこしてもらいたいの」 「悪いが流石にそこまでは妥協できねぇ」 「そんなに嫌? こないだまでは一緒に寝てくれたのに!」 「猫だったからな」 「どうして人間だとダメなの? 毛がないから? ふかふかじゃないから? 猫じゃないオレ嫌?」 しょんぼりして俯くと、黒鋼の溜息が聞こえた。 「あのな、人間は基本的に男同士で同じ床にはつかねぇもんなんだ」 「……じゃあオレがメスだったらいいってこと?」 「……そういう問題でもねぇんだが」 ほんの暫しの間。 「…………ねぇこともねぇかもな」 「!」 ならば話は簡単だと思った。人間のメスに変身すればいいだけの話だ。 それだけのことであのポカポカのムキムキを揉み揉みして眠れるなら、お安い御用だった。 ファイはじっと目を閉じて念じてみる。 人間の女の子、人間の女の子。 先日会ったサクラや知世を思い描く。 だが、何も変わらなかった。 「ダメだぁー……」 がっくりと項垂れたファイに、鬱陶しげに頭を掻きながら起き上る黒鋼。 「何がだよ」 「オレ、元に戻れないどころか、何にも変身できない……」 「おまえ、まさかとは思うが……」 「サクラちゃんか知世ちゃんになろうとした」 「もっと駄目に決まってんだろ!!」 黒鋼は思いっきり布団を引き上げると、再び横たわりすっかり背を向けてしまった。 「なんでぇ……?」 元には戻れないし、女の子にもなれない。なったとしても、サクラや知世ではダメだと黒鋼は言う。 人間の生活には慣れてきたが、黒鋼自身の考えていることは、どうしても理解できなかった。 猫の頃に比べると、黒鋼と会話は通じるが、あまり触れてはもらえなくなった。 以前はふとした瞬間には撫でたり抱いてくれたりしたものだが、やはりふわふわの毛がないと、そんな気が起きないのか。それとも、抱っこをするにはこの身体が大きすぎるのか。 (ユゥイだったら、どうすればいいかわかるかなぁ……) ふと考える。 そして、はたと思いだす。 「ユゥイ……?」 ユゥイといえば、猫の国のエライ人。ファイの本当の飼い主。 確か人間の世界でのリミットは24時間で、帰って来ないと扉を閉めると言っていた……。 (今日で何日経ったっけ……?) ファイは背中に怖気が走るのを感じて絶叫した。 「アーーーーッ!!!」 「んだよ!? うるっせぇな!!」 起き上る黒鋼に縋りつく。 「どどど、どうしよう!? 忘れてた!! オレ、ユゥイとの約束忘れてたー!!」 「思い出してくれたみたいで嬉しいよ……ファイ」 その瞬間、聞き覚えのある声がして、カチッという音と共に部屋に電気が灯された。 ←戻る ・ 次へ→
それから数日が過ぎた。
ファイは幾度試しても猫に戻れないままだった。
「なんでかなぁ……?」
畳みの上に胡坐をかいて腕を組み、うーんと首を傾げていると、黒鋼が朝の身支度を終えた。
「もう行くぞ」
「あっ! オレもオレもー!」
慌てて立ちあがって、一緒に玄関先へ行くと、黒鋼が鍵を手渡してくる。
「何度も言うが。てめぇは今は猫じゃねぇんだからな」
「うん」
「勝手に余所んちの庭に入ったり、知らねぇ奴にホイホイついて行くなよ」
「わーかってるよー。もう何度も聞いたよ」
「行っていいのはせいぜい公園までだ。あと戸締りは徹底しろ」
「はーい」
ファイは素直に返事をすると、ブカブカの靴を履く。黒鋼のお古だ。ブカブカでかなり歩きにくいが、外は裸足で歩けない。
服も大きいので、ジーンズを引きずらないように裾をまくっている。ウエストもだぼついていたが、ベルトという細長い皮でぎゅっと絞られた。尻尾を中に隠すことも忘れない。セーターの袖は指先まですっぽり隠れるので温かかった。
「おら、これ忘れんな」
黒鋼がニットの帽子をファイの頭にずっぽりとかぶせた。
そうそう、これで耳を隠さなければいけないのだった。
「ありがとー」
玄関から外へ出ると、ファイは黒鋼が見守る中で鍵を穴に差し込んでしっかりと回した。カチリと音がするのを聞いてから、ポケットの中に仕舞う。
そして黒鋼を見ると、彼は「よし」と言った。
一緒に階段を下りると、ファイはそのまま黒鋼について行く。朝の見送りをするためだった。
並んで歩くと、やっぱりまだ黒鋼の方が歩幅は大きかったけれど、猫の姿で歩くよりずっとゆったりついて行くことができた。
「ねぇねぇ、今日は帰るの遅いの?」
「そうでもねぇよ」
「今夜はバイトお休みだよねー」
「まぁな」
なんでもない会話をしながら歩く。前はファイが一方的に喋って、それが黒鋼に通じることはなかったけれど、今は違う。
それが嬉しくて、ついつい元の姿に戻れないことがどうでもよくなってしまうのだった。
黒鋼は元々お喋りではないし、猫でも人間でも、結局ファイばかりが喋っている。でもそれでよかった。通じない鳴き声より、通じる確かな言葉が黒鋼に届いていて、相槌をもらえることが何より幸せだと感じられるから。
「この辺にしとけ」
ある程度進むと、黒鋼が言った。ファイは素直に立ち止まりながらも唇を尖らせる。
「ちぇー。せっかく人間になったのに、やっぱりここまでなんだ」
「当たり前だ。外に出んの許してやってんだから、文句言うな」
「わかってるもん」
「じゃあな。ちゃんと昼飯食えよ」
「はいはい、いってらっしゃーい」
ぶぅ、と唇を尖らせながら、行ってしまう黒鋼の背を見送る。
けれどすぐに、まぁいっか、とファイは日課の散歩に出かけることにした。
+++
ファイは様々なことを黒鋼に教わった。
ご飯は箸を使わなければいけないし、これが上手く出来なくて、いつもフォークやスプーンを使っている。
顔を洗ったり歯を磨いたり、飲む以外で水と触れあわねばならない機会も、たくさんあった。
人間は本当に面倒くさい生き物だ。やることがいっぱいある。
だがその分、散歩をするには快適だった。
あのボス猫と遭遇しても、人間には猫のルールなど通じない。これまでは見かけると逃げたり隠れたりするのはこちらだったが、今は逆だ。
道で子供とすれ違ってもちょっかいをかけられないし、通りすがりに「こんにちは」などと挨拶をしてくる人間もいて、同じように返すのが楽しい。
もし誰かに話しかけられたりしたときは「ニホンゴ、ワカリマセン」と言え、と黒鋼に教えられた。
行動範囲はこれといって広がったわけではない。むしろ今まで通れた狭い場所などへは行けなくなったし、高いところにジャンプもできなくなった。
だからなんとなく近所をぶらりと散歩して、すぐに家に戻る。
むしろ猫だった頃よりも外にいる時間は減ったかもしれないが、いつも黒鋼が冷蔵庫に昼飯を用意してくれているので、テレビを見ながら食べるのがお気に入りだった。
見よう見真似で食べたあとの食器を洗って片したら、驚いた黒鋼に褒められた。とんでもなく嬉しかった。うっかり手を滑らせて皿を割りそうになったことは、もちろんファイだけの秘密にしておいた。
結局、学校という場所には行けないし、夜も留守番だけれど、どんな場所で何をしているのかを聞けば、黒鋼はなんでも話して聞かせてくれた。
全部は理解できなかったけれど、それで十分だ。今の生活は、なんだかんだで気に入っている。
何かとてつもなく大切なことを忘れているような気が、しないでもなかったが。
+++
「でも、どうしても不満はあるんだよ」
夜。
布団に横たわりながらファイは呟いた。
「あ? なんだよ」
「不満だよ! 不満!」
がばっと起き上って、隣の布団を睨みつける。
人間は夜目がきかない。だからただの真っ黒な物体が、ぼんやりと見えるだけだった。
「なんでお布団別々なのー!?」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないよー!」
ファイは大声でそう言うと、布団から抜け出して隣へ移動した。
「バカ、来んな」
「やだー! 前みたいにくっついて寝るのー!」
「狭いっつってんだろ!」
「くっついてれば平気だって!」
「そういう問題じゃねぇんだよ!」
じゃあどういう問題なのか、ファイには分からない。
ここ最近はいつもこうだ。
掛け布団をめくって中に強引に身体を潜り込ませようとするファイを、黒鋼は手や足を使って押し出そうとする。
先日は思い切り顔面を蹴られるという事故が発生した。だが懲りない。
「ね、ね、黒たん……オレ寂しいの。黒たんに抱っこしてもらいたいの」
「悪いが流石にそこまでは妥協できねぇ」
「そんなに嫌? こないだまでは一緒に寝てくれたのに!」
「猫だったからな」
「どうして人間だとダメなの? 毛がないから? ふかふかじゃないから? 猫じゃないオレ嫌?」
しょんぼりして俯くと、黒鋼の溜息が聞こえた。
「あのな、人間は基本的に男同士で同じ床にはつかねぇもんなんだ」
「……じゃあオレがメスだったらいいってこと?」
「……そういう問題でもねぇんだが」
ほんの暫しの間。
「…………ねぇこともねぇかもな」
「!」
ならば話は簡単だと思った。人間のメスに変身すればいいだけの話だ。
それだけのことであのポカポカのムキムキを揉み揉みして眠れるなら、お安い御用だった。
ファイはじっと目を閉じて念じてみる。
人間の女の子、人間の女の子。
先日会ったサクラや知世を思い描く。
だが、何も変わらなかった。
「ダメだぁー……」
がっくりと項垂れたファイに、鬱陶しげに頭を掻きながら起き上る黒鋼。
「何がだよ」
「オレ、元に戻れないどころか、何にも変身できない……」
「おまえ、まさかとは思うが……」
「サクラちゃんか知世ちゃんになろうとした」
「もっと駄目に決まってんだろ!!」
黒鋼は思いっきり布団を引き上げると、再び横たわりすっかり背を向けてしまった。
「なんでぇ……?」
元には戻れないし、女の子にもなれない。なったとしても、サクラや知世ではダメだと黒鋼は言う。
人間の生活には慣れてきたが、黒鋼自身の考えていることは、どうしても理解できなかった。
猫の頃に比べると、黒鋼と会話は通じるが、あまり触れてはもらえなくなった。
以前はふとした瞬間には撫でたり抱いてくれたりしたものだが、やはりふわふわの毛がないと、そんな気が起きないのか。それとも、抱っこをするにはこの身体が大きすぎるのか。
(ユゥイだったら、どうすればいいかわかるかなぁ……)
ふと考える。
そして、はたと思いだす。
「ユゥイ……?」
ユゥイといえば、猫の国のエライ人。ファイの本当の飼い主。
確か人間の世界でのリミットは24時間で、帰って来ないと扉を閉めると言っていた……。
(今日で何日経ったっけ……?)
ファイは背中に怖気が走るのを感じて絶叫した。
「アーーーーッ!!!」
「んだよ!? うるっせぇな!!」
起き上る黒鋼に縋りつく。
「どどど、どうしよう!? 忘れてた!! オレ、ユゥイとの約束忘れてたー!!」
「思い出してくれたみたいで嬉しいよ……ファイ」
その瞬間、聞き覚えのある声がして、カチッという音と共に部屋に電気が灯された。
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